中山修一著作集

著作集9 デザイン史学再構築の現場

第五部 デザイン史雑考雑話集

第六話 真の芸術と社会はいずこに

はじめに

美が欠落したデザインが数多く出回っていた産業革命期以降のロンドンで、中世のものづくりへの回帰を訴えたのが、詩人にして工芸家、そして政治活動家のウィリアム・モリス(一八三四―九六年)であった。彼は、壁紙やテキスタイルから、家具や製本に至るまで、日常生活のなかに美を追求し、その哲学と実践は、低い階層に属していた多くの工芸家たちに大きな影響を与え、労働の喜びを伴わない機械的生産の無制限な進行を食い止めるべく、アーツ・アンド・クラフツ運動へと発展していった。まさしくそれは、反資本主義思想を基盤とした、イギリスの世紀転換期における、ひとつの高揚した社会・文化運動でもあった。以下は、中山修一氏へのインタビューをもとに、編集部で整理し、まとめたものである。

一.産業革命の負の遺産――醜悪な装飾の氾濫

一七五〇年から一八三〇年くらいにかけ、世界で最初に産業革命を経験したのは、改めていうまでもなくイギリスであった。日本の産業革命が一九〇〇年前後からはじまることを考えると、一〇〇年以上も先行していたことになる。

当時のイギリスは、産業革命の進展により人類がはじめて体験することになるさまざまな問題を独力で解決していかなければならなかった。そのひとつがデザインに関する課題であった。手工芸的な製作から機械的な生産へと変わるなか、機械生産品をどのようにデザインすればいいのか、その答えをもつ専門家がいまだ出現していなかったのである。そのため、産業革命期をとおして、美を伴わないデザインが数多く生み出され、醜悪な装飾が社会に氾濫していたのであった。

そうした状況を憂い、工芸家のフェローシップに基づき真の美しさが表現されていた中世に、ものづくりの理想を求めたのが、ウィリアム・モリスであった。存命中から彼の活動は多くの工芸家や建築家に霊感を吹き込み、アーツ・アンド・クラフツ運動としてイギリス全土に広がっていった。

二.真のものづくり――中世への回帰

産業革命以前のデザインといえば、貴族たちのためのものであった。彼らは、室内だけではなく、生活用品の細部に至るまで、神話世界や歴史的な場面を芸術家たちに描かせては、日常のなかに自らのアイデンティティーを記号化し、家系の正統性と歴史の重みを継承していた。

しかし、産業革命によって発生した機械的生産に従事する人たちは、そうしたこととは無関係の階層に生きる人たちであった。機械的な生産を直接手掛けたのは、主として、新たに形成された中産階級の資本家と地域から集められた貧しい賃金労働者であった。彼らの多くは、誇るべき家系も伝統もなく、生活の場も、優れたデザインとは縁遠く、デザインの素養や知識を身につけている者はほとんどいなかった。そうした彼らが、否応なく、機械的生産のデザインに直面してゆくのである。結果はどうだったか――。醜悪な品物や模造品の氾濫であった。そうした社会状況のなかから、一九世紀のイギリスはデザイン改革が進行してゆくことになる。良識ある当時の工芸家や建築家たちは、醜悪な品物や模造品を生み出している原因を産業主義と商業主義に求め、その回復の方途として、堕落した近代精神の以前に見受けられた、ローマ・カソリック教が支配していた中世の精神への帰着を主張した。これが、ゴシック・リヴァイヴァルと呼ばれる、デザイン改革のひとつの道であった。

中世に目を向けると、そこには、金銭を追及する邪悪な精神ではなく、神の栄光をたたえる、正しい精神が存在し、それがものづくりの基底をなしていた。中世の教会は、美しく荘厳にそびえ立っていたし、建物以外でも、ステインド・グラスから家具や調度品に至るまで、そのデザインには職人の誠実さと正直さが存分に発揮されていた。しかし、機械がそうした中世の精神と職人技を破壊していった。もし、イギリス国民全員がローマ・カソリック教に改宗すれば、空高く伸びるロンドンの工場の煙突は、再び教会の尖塔に取って代わられ、美しい街並みと生活空間が再来することになるであろう。しかし、正しい精神の復興は空しい要求であった。近代的な産業社会が着実に進行し、合理的な価値判断が人びとの行動を規定してゆくなかにあって、再び時計の針を宗教世界へもどすことはできなかった。しかしそれでも、中世を理想の揺りかごとみなすロマン主義的情熱は継承された。その相続人のひとりがウィリアム・モリス、その人であった。

三.モリスの「反資本主義」の思想――労働の喜びの回復

ゴシック・リヴァイヴァリストの建築家A・W・N・ピュージン(一八一二―五二年)、そして、美術批評家であり社会思想家でもあったジョン・ラスキン(一八一九―一九〇〇年)の思想と実践をウィリアム・モリスは確かに継承した。しかし、モリスが唱導したのは、中世社会をかたちづくっていた「ゴシックの精神」というよりは、むしろ中世の工芸家たちの製作に内在していた「労働の喜び」であった。

モリスは考えた――。分業化され、効率よく利潤を追求しようとする産業主義のもとで働く賃金労働者に、中世の職人が感得していた「労働の喜び」はあるのであろうか。「労働の喜び」を喪失したものづくりに、美は存在するのであろうか。つくる喜びと使う喜びのなかに真の芸術は発生するのではあるまいか。そして、そうした真の芸術を万人が生み出し享受できる共同体こそが、人間にとっての真の社会となるではないだろうか。

つくり手は誰しも、時間をかけて一歩一歩、困難な仕事を自らの技量でもって何とか成し遂げたときに、深い達成感を得るであろう。一方使い手は、そのようにして完成された品物を日々の生活のなかでが視覚的にも触覚的にも味わうことができるときに、深い充足感を得るであろう。これこそが、貴族の傲慢な所有欲を満たすにすぎない近代の純粋美術とも、資本家の追い求める利益をわしづかみにするための近代的な機械生産品とも異なる、モリスが終生追い求めた「芸術」であった。モリスは、貴族のためでも、資本家のためでもない、人びとのための芸術を主張した。そしてその芸術が咲き乱れる大地――それは、資本主義的な政治経済体制を超えたところに見出される、新たな「地上のパラダイス」であった。モリスは明らかに理想郷を要求した。それは当然ながら、当時のイギリスに、社会変革のたいまつを空高く掲げることを意味していた。こうしてモリスは、詩人や工芸家であると同時に、革命的社会主義者という困難な道を歩きはじめたのであった。

四.工芸家たちへの影響――アーツ・アンド・クラフツ運動の広がり

モリスがそうしたあるべき姿の「芸術」に実践的に気づいたのは、一八五九年に結婚し、新居の内装に直面したときのことであった。彼は、その年、知り合いの建築家に頼んで〈レッド・ハウス〉と呼ばれるレンガづくりの建物を建てる。しかし、いざ内装に取りかかろうとしたときに、生涯の生き方を左右するほどの重大な問題に遭遇するのである。ロンドン中を歩き、必要とされる家具や調度品を探し求めたものの、自分が欲しいと思えるものが何ひとつ存在しないことに気づかされたのであった。そこでモリスは、既製品の購入をあきらめ、ラファエル前派の中心人物のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティや学友の美術家のエドワード・バーン=ジョウンズといった芸術家仲間の協力を得て、生活用品の一つひとつを自分たちの手によってつくり上げてゆく行動に出るのである。中世の職人たちが協同して大聖堂をつくったように――。

この経験がきっかけとなって、モリスは工芸家の道を歩むことを決意し、ステインド・グラス、家具、壁紙、テキスタイルなど人間の生活に必要なさまざまな品物をデザインし、製作し販売する会社として、一八六一年に「モリス・マーシャル・フォークナー商会(のちのモリス商会)」を立ち上げるのである。彼らの中世に倣った美的で誠実な作風の製品は、粗悪品の氾濫に嫌気がさしていた、とくに上流階級の消費者のあいだで人気を博し、積極的に受け入れられてゆく。こうして美術家や工芸家の一団によって一灯がつけられたデザイン改革の動きは、大きなムーブメントへと発展していったのであった。

工芸家や職人は、当時にあっては、決して社会的地位の高い職業ではなかった。主として聖職者の養成を目的としていたオクスフォード大学を卒業したモリスがこの職業に就くにあたっては、実際、母親は嘆き悲しんでもいる。モリスは社会の底辺に立った。そしてそこから本来あるべき芸術と社会を展望した。結論は――つくり手にとっても、使い手にとっても喜びとなるような芸術の出現を邪魔立てしている現行の政治経済体制は革命によって変革されなければならない。この思想は、当時の多くの工芸家や建築家の倫理的琴線に触れ、モリスの工房的製作に倣った実践が彼らのあいだで一気に広まっていった。これが、英国の世紀転換期に現われたアーツ・アンド・クラフツ運動と呼ばれる社会・文化現象なのである。

五.理想と現実の乖離――「地上のパラドックス」なのか

モリスとその追従者たちは、時代に抗い、真の人間にふさわしい共同体とその暮らしを要求した。しかしその達成の場としては、産業主義と商業主義が蔓延するロンドンはふさわしくなかった。アーツ・アンド・クラフツを理想として標榜する人たちは、次第に活動の場をロンドンから田園へと移しはじめた。いわゆる「田園回帰運動」である。そのひとつの事例を、建築家C・R・アシュビーの製作集団である「手工芸ギルド・学校」に求めることができる。

アシュビーもまたモリスの信奉者であった。一八八八年にアシュビーはロンドンのイースト・エンドに「手工芸ギルド・学校」を開設した。その彼が、約一五〇人の老若男女のギルド員を引き連れて、中世の面影と美しい自然が残るコッツウォウルズの丘陵地へ移動するのは一九〇二年のことであった。ここでは、工房での日用品の生産だけではなく、耕作し食料の生産も開始された。「簡素な生活」という理想を追求する、まさしく壮大な実験であった。しかし、大消費地であるロンドンから離れていたこともあって、次第に経営的に追い込まれてゆく。最終的に理想と現実の乖離を埋めることはできなかった。一九〇八年にアシュビーのギルドは閉鎖された。こうして、アーツ・アンド・クラフツ運動の主たる燈火は消え、自らの力で先へ進める展望を失い、デザイン改革の主導権は、イギリスからヨーロッパ大陸へと移ってゆくのである。

ウィリアム・モリスの詩集に『地上のパラダイス(楽園)』というものがある。当時、モリスの思想と実践は、それをもじって「地上のパラドックス(矛盾)」と揶揄されたこともあった。果たして本当に「地上のパラドックス(矛盾)」だったのであろうか。

それから半世紀以上が過ぎた一九六〇年代、英国ではそれまで支配的だったモダニズムのデザインも、フォーディズム的生産方法も、強い批判にさらされてゆく。こうして七〇年代には、クラフツ・リヴァイヴァルという新たな社会・文化運動が再来し、そして、それはさらに今日にあっては、環境問題やグリーン・デザインへの関心と結び付き、いっそうの広がりを見せている。モリスとその後に続くアーツ・アンド・クラフツの理想は、疑いもなく、生きていたのである。もっともそれは、モリスが望んだ社会革命によってもたらされたものではなかったとしても――。

六.おわりに――インタビューのなかから

[編集者] アーツ・アンド・クラフツ運動が頓挫したのち、イギリスのデザイン界はどうなってゆくのですか。

[中山] 先述したように、アーツ・アンド・クラフツ運動を担っていた工芸家たちの製品は、少量生産であるがゆえに高価なものになり、「万人のための芸術」という彼らの理想は達成できませんでした。もっとも、その理想を実現するために社会革命が望まれたのですが、それも遠い約束に終わってしまいました。中世の社会と芸術をひとつの揺りかごとみなした中世復興主義や田園回帰主義(あるいは反近代主義ないしは反体制主義)は、現実の政治経済体制にみられる非人間的な「競争と支配」に変更を加えることはできなかったわけです。そうであったからといって、当時の工芸家や建築家は、資本家のもとでの生産活動に自らの技量と倫理観を即座に売り渡すことはありませんでした。こうしてイギリスのデザイン界は、二〇世紀の初頭には失速し、行き先が見通せない沈滞の時代へと突入してゆくのです。世界に先駆けて産業革命を達成し、その後一九世紀をとおしてデザイン改革の先頭を走っていたイギリスではあったのですが――。
 デザイン改革の重心は、明らかにヨーロッパ大陸へと移行します。そこで、アール・ヌーヴォーと呼ばれる新しい装飾の様式が開花します。また一方で、ドイツ工作連盟と呼ばれる運動組織もつくられ、機械生産におけるデザインの役割が積極的に検討されてゆきます。この時期、生産力ではドイツがイギリスに勝ろうとしていました。こうして現実主義が取り入れられてゆくのです。しかしそれもこれも、歴史的連鎖を跡づけてゆけば、イギリスのモリスの思想と実践にその源泉があることは、間違いのない事実なのです。

[編集者] モリスはよく、「モダン・デザインの父」として紹介されていますよね。モダニズムにモリスはどのような影響を与えたのですか。

[中山] 確かに日本にあっては、そうしたキャッチコピーがしばしば使用されます。モダニズムのデザインは、両大戦間期のオランダのデ・ステイルやドイツのバウハウスで展開されます。またこの時期、モダニズムの正当性を信じる歴史家であるニコラウス・ぺヴスナーという人が、自分の本のなかで、アーツ・アンド・クラフツの中心人物であるウィリアム・モリスからバウハウスの校長である・ヴァルター・グロピウスまでがモダン・デザインにとってのひとつのユニットである、と書きました。モリスを「モダン・デザインの父」とみなす視点は、ここに由来しています。しかし、ご承知のように、六〇年代に入ると、モダニズムが批判されると同時に、モダニズムを支えてきた歴史観もまた批判されてゆくのです。アーツ・アンド・クラフツとモダニズムのデザインを比べた場合、誰のためのデザインを目指したのかを考えた場合、両者が社会主義的であったという点を含めて、確かにそこには共通点があります。その点では、モダン・デザインの考え方はモリスの思想に負うています。しかし、用いられた手段と表現形式の観点から見てみますと、両者には対立する大きな相違がありました。一方は手であり装飾であります。そして一方は機械であり機能であります。したがいまして、戦後の復興期の時期までの英国にあっては、モダニズムのデザインが支配するなかで、モリスの思想と実践が顧みられることはありませんでした。再びモリスが歴史のなかから呼び戻されるのは、六〇年代の反体制運動、とりわけ反モダニズムのイデオロギーのなかから、といえるでしょう。そのようなわけで、モリスを「モダン・デザインの父」とみなすキャッチコピーは、すでに六〇年代には崩壊しているのですが、どういうわけか日本では生き続けているのです。実に不思議な現象です。一面的には真実であるとはいえ、適切な歴史認識を欠いた、誤解を招きかねないコピーであると思います。

[編集者] モダニズムは確かナチに弾圧されますよね。そのあたりの事情を教えてください。

[中山] 第一次世界大戦が終わると、良心的な建築家やデザイナーたちは、二度と民族的対立や文化的摩擦を起こさないために、共通の視覚言語の開発に向かいます。結果的にそれは、歴史主義を否定し、装飾を排除し、それに代わって、抽象的形態の内にあって純粋な機能を追求する姿勢を用意することになります。そして、物質的平等性を確保する意味から生産手段として機械が尊重され、こうして普遍的な国際様式が生み出されてゆくのです。これがデザインにおけるモダニズムです。一方、ナチは民族主義的あり、個別の伝統文化を死守しようとします。その意味からナチにとっては、モダニズムというイデオロギーも、またそれに根差したモダン・デザインの視覚的表現も、脅威となるのです。
 モダニズムを積極的に推進していたデザインの学校であるバウハウスは、一九三三年、ナチの弾圧によって閉鎖されるに至ります。多くの教師たちは、主にアメリカのシカゴに亡命し、そこで建築やデザインの実践に向かいます。大変皮肉なことですが、彼らがもともと敵とみなした資本主義の一等国で、彼らのモダニズムは開花してゆくことになるのです。
 このように、社会主義的ないしは共産主義的イデオロギーのなかから誕生したモダン・デザインは、その思想性が徐々に揮発する一方で、シンプルで機能的な、その表現性だけが強く人びとの視覚を満たし、資本主義の経済力と技術力に支えられながら、戦後の復興期を通じて広く世界に受容されてゆくのです。

[編集者] 最近日本で「生活と芸術――アーツ・アンド・クラフツ展 ウィリアム・モリスから民芸まで」が開催されましたが、この展覧会については、どのような感想をおもちですか。

[中山] ご承知のように、この展覧会は、二〇〇五年にイギリスのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催された「世界のアーツ・アンド・クラフツ(International Arts and Crafts)」展をベースに企画された縮小巡回展です。もともとの展覧会は、英国、アメリカ、ヨーロッパ、日本の四つの地域に分けてそれぞれの「アーツ・アンド・クラフツ」が紹介されていました。そして、この第四部の「日本におけるアーツ・アンド・クラフツ」は、「民芸運動」「美術家=工芸家の新しい世代」そして「収集と展示の文化」に分節化されていました。一方、日本での展覧会では、「アメリカにおけるアーツ・アンド・クラフツ」が削除されて三部構成に縮小され、「日本におけるアーツ・アンド・クラフツ」についても、「伝統的な民衆の工芸品」「民芸運動の最初の成果『三国荘』」および「民芸運動の近代工芸作家」へと、分節の手直しがなされていました。
 この展覧会をご覧になった方は、展覧会のタイトルである「ウィリアム・モリスから民芸まで」を見て、何かモリスから民芸までのあいだに思想上のないしは表現上の明確な影響関係があったものと読み取られたのではないでしょうか。民芸の指導者であった柳宗悦は、自分はモリスからの影響は受けていない、と書き残しているようですし、モリスのような社会主義者でもありませんでした。なぜ「ウィリアム・モリスから民芸まで」がひとつのユニットになるのかが、この展覧会では十分に例証されていなかったような印象をもちました。
 またこの展覧会では、富本憲吉が、あたかも民芸運動の末席に位置するひとりであるかのような取り扱い受けています。しかし、民芸運動が開始される以前にあって、すでに富本はモリスを学ぶためにイギリスに渡っていますし、その成果物として「ウイリアム・モリスの話」という評伝を書いているのです。これが、工芸家としてのモリスを紹介した日本で最初のものとなっています。その後、一時期富本は柳と行動をともにしたことが確かでありましたが、しかし、終生このふたりは敵対関係の間柄にありました。その原因の一部は、個性や製作手段を巡る考え方の違いによるものでした。富本は、個性を重要視するとともに、機械や量産を強く支持しました。そうした歴史的事実から判断して、富本が民芸に含まれるかのようなこの展覧会の見せ方には、同じく違和感を禁じえませんでした。

(二〇〇九年)

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図1 2005年にロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催された ‘International Arts and Crafts’ 展の展覧会カタログの表紙。

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図2 2008-09年に日本で開催された「生活と芸術――アーツ & クラフツ展 ウィリアム・モリスから民芸まで」の展覧会カタログの表紙。

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図3 ウィリアム・モリスの理想とともに生きた在りし日の仲間たち。ピーター・ホリデイ(左)とジリアン・ネイラー(中央)。レイ・ワトキンスンの自宅にて(2002年)。

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図4 ウィリアム・モリスの理想とともに生きた在りし日の仲間。ブライトンの自宅書斎のレイ・ワトキンスン(1996年)。