われわれ一行は、二〇〇一年九月九日(日)から同年九月一六日(日)までのあいだ、中国を訪れた。主たる訪問先は、中国の西南地方に位置する雲南省である。雲南省は、ベトナム、ラオス、ミャンマーに隣接し、その特異な地理と気候によって生み出された多くの神秘的な景観と、二五の多様な少数民族が居住することで知られている。多彩な民族文化が咲き誇る、この美しく、豊饒な秘境の地は、一九八〇年代の開放政策の拡大によって多くの国内外からの観光客が訪れるようになるとともに、観光開発に伴って民族社会も大きく変容していった。今回の中国訪問の目的は、雲南省の少数民族を巡るこのような状況を踏まえて、第一に、雲南少数民族の社会・文化研究にかかわる中国人研究者と学術交流を図ること、そして第二に、一九九七年にユネスコ世界文化遺産に登録された雲南省北西部の麗江に居住する少数民族(ナシ族)に焦点をあてて、観光開発が民族文化にどのような変化をもたらしたのか、また、もたらそうとしているのか、その実態の一端をこの目でつぶさに見聞することであった。
ここで、われわれの旅程を簡単に振り返っておこう。一行のうち中山修一と小高直樹は、九月九日午後に関西国際空港を発ち、同日夕刻に中国大陸の南東部沿岸の広州に到着。当地に一泊の後、翌九月一〇日に雲南省昆明に飛び、一足先に日本を離れた 高茜 ( ガオ・チェン ) と合流。昆明では、雲南師範大学芸術学院に施栄華院長を表敬訪問するとともに、雲南省社会科学院院長の何耀華教授と会談。九月一二日に昆明を離れて雲南省麗江に入り、 東巴 ( トンパ ) 文化研究所の趙世紅所長を表敬訪問。当地に三日間滞在した後、昆明にもどって高茜と別れ、再び広州を経由して九月一六日に日本に帰国した【図一】。
この報告書は、この旅程に沿うかたちで、滞在中にわれわれがじかに見聞きしたものや、お会いすることのできた先生方へのインタビューの内容などを、若干の感想を交えつつ書き記したものである。必要に応じて補足説明を加えたが、その内容については少々心もとない点があるかもしれない。あらかじめ、お許しを乞うておきたい。また、現地の人びとへの聞き取り、および先生方へのインタビューは、高茜の通訳を介したものであることを付記しておく。
二〇〇一年九月九日午後二時四〇分、関西国際空港を離陸。機材は南方航空B七七七中型機。中国地方、さらに北九州上空を通過した後、巡航高度一一、九〇〇メートル、平均対地速度八六〇キロメートルで中国大陸沿岸部を順調に南下。離陸から約三時間半後、心配された台風一六号の影響もなく、現地時間の午後五時八分に広州国際空港に無事着陸した。晴れ、摂氏三二度。日本とほぼ同様の気候である。広州白雲国際空港ホテルにチェックイン。外はもう暗かった。時計の針を一時間遅らせ、夕食をとろうと広州の街に出た。まばゆいばかりの原色のネオンで彩られた高層ビルと、その谷間を走る車の波。観光客でにぎわう珠江遊覧船の波止場のかたわらでは、一輪の花を片手に小さな手を差し出す物乞いの女の子たちを、仏頂面をした警備員が追い払っていた。夜も一〇時を過ぎるというのに、上九路から人民中路に抜ける道は若者で溢れ返っている。歩行者天国なのだろうか。華やかな靴やブランド品の店が立ち並び、ところどころ裏通りに通じる路地では裸電球が隙間なくぶらさがる衣類を照らし出している。一昔前では当たり前であった人民服はもはや姿を消し、日本の若者たちが着る服となんら変わりがない。ふと足を止めて値札に目をやった。一枚二〇元(日本円で約三〇〇円)ほどするTシャツは、現地の人びとにとって高いのか安いのか。この国の物価の尺度を理解するには、もうしばらく時間がかかりそうである。
翌九月一〇日の昼、われわれは定刻より一時間遅れで昆明空港に降り立った。昆明は、雲貴高原の中部に位置し、三方を山で囲まれた雲南省の省都である。標高一、八九一メートルの盆地にあるこの町は、高原山地のモンスーン気候に属し、年平均気温が一五度と気候が穏やかで、一年中緑の絶えない「春城」とも呼ばれ,雲南の政治、経済、文化、科学技術、交通の中心点となっている。
昆明空港で高茜と合流したわれわれは、昼食に、雲南の代表的料理である過橋米線(過酷な科挙に挑む夫と、それを支える妻の優しさを伝える物語に由来する雲南の名物料理)を賞味した後、延々と続く紅土の山肌を横手に見ながら、一路「石林」に向かった。
石林は、昆明の東南東、直線距離にして約六〇キロのところにある一大風景名勝地で、「石林彝(イー)族自治県」にある。その典型的なカルスト地形による景観は、造型地形天然博物館とも称され、中国の四大自然景観のひとつである。太古の昔は海底であったが、地殻変動によって石灰質の岩盤が地表に表われ、その後の風雨による溶解侵食などにより、結果的に、地面に垂直にそそり立つ岩の林ができ上がったのである【図二】。悠久の年月に及ぶ自然のいたずらによって、さまざまな形の石柱が生み出され、イー族のあいだに古くから伝わる有名な「アシマ(阿詩瑪)伝説」が生まれた。アシマ(阿詩瑪)伝説とは、美しい男女の恋の話である。その昔、アシマという名の美しい娘がアーヘイ(阿黒)という名の若者と恋に落ちた。ところが、アシマは王子から強く求愛され、その苦しみから洪水に身を投じて自殺してしまう。悲嘆にくれたアーヘイは、やがて水が引いて表われ出た石にアシマの姿を見出し、以後、アーヘイは毎日のように石を見上げては、アシマが自分のところにもどってくるのを待ち続けるという民話である。
八〇元を支払って景区に入ると、石林周辺に居住するイー族の女性たちが、ここかしこで即席の店を広げ、そのかたわらで黙々と土産用の敷布や布袋を編んでいる。売られているものは、布製品のほかに、銀細工の櫛飾りやリング、民族衣装を着せた小さな人形などである。アシマの巨石の前では、その伝説にちなんでイー族の男女による踊りが披露され、終わると、民族衣装を着て記念撮影しないかと勧められる。その様子は、日本の観光地においてよく目にする光景と同じだった。
こういった観光地で働く少数民族の人びとは、そのほとんどが女性であり、アシマのような例を除いて、男性の姿を見かけることはほとんどない。いったいどこにいるのだろうか。籠を背にして通りかかったイー族の老婆に夫のことを尋ねてみた。夫は数年前にすでに亡くなったという。老婆によれば、一般に夫は自宅で野菜や花の栽培などの農作業に従事しているらしい。そして、生活の足しにするために、もっぱら女性が景区に入って観光客相手に土産品を売るのだという。
景区内では、電動カートに乗り、華やかな民族衣装を身にまとったイー族の若い娘たちが、四〇元でわれわれのガイド役(彼女たちはアシマと呼ばれている)を務めてくれた。尋ねると、仕事に就く前に二年間ほどガイドの専門学校で勉強したという。石林は、一九八二年にいち早く国から重点風景名勝区に指定され、九〇年代に入って観光客が急増した。それに伴ってガイドの養成が急務となり、専門学校がつくられ、観光地には欠かせないガイドの教育システムができたのである。ガイドによれば、通常漢語で会話するが、イー族同士や家庭ではイー語をしゃべるらしい。呼び名は、漢語とイー語によるふたつがあり、家庭や身内、友人のあいだではイー語名で、公的な場では漢語名を使うそうである。また、イー文字(書き言葉)はあるものの、もはやほとんど使うことはなく、見たとしても、大体想像できる程度で正確には読めないらしい。日本人に置き換えて言い直せば、話し言葉としての日本語と(たとえば)英語を自由に操ることができるが、文字としての日本語を書くこともなければ、ほとんど理解することもできず、表記は英語でしかできないということである。言語は文化であり、否、あえて文化は言語そのものであるという認識に立った場合、この事実をどうとらえるべきなのだろうか。われわれは、仕事を終えてジーパンに着替え、仲間とイー語でおしゃべりをしながら家路につく彼女たちの後ろ姿を、奇妙な感覚で見送った。
話は変わるが、中国では、街のあちこちで、やたら車の警笛の音がやかましい。日本ではよほどのことでもない限り、耳をつんざくような車のクラクションの音を聞くことはないであろう。中国では、経済の発展に伴って、ここ一〇年、車の量が爆発的に増加した。その増加ぶりに交通マナーが追いついていないのではないか、漠然とそう思っていた。このあたりの事情について、なるほどと納得することがあったので、ひとつ紹介しよう。昆明から石林に至る国道三二四号線は片側一車線の道路である。とはいっても、ぎりぎり一車線ではなく、正確には片側一点五車線といったところだろうか。普通、車はおのおの車線の中央部分を走行している。あるとき、前方を走る車を追い抜く場合にはどうするのだろうかと、ふと興味をもった。追い越す場合は、対向車の量や車の大きさなど、反対車線の様子を見ながら、よし今だと判断したところで警笛を鳴らしながら反対車線にすっと半身分出る。中央線をまたぐような具合に、である。すると、前方を走る車は警笛に促されるように少し道路の外側に寄る。と同時に、対向車もまた道の端に寄るのである。こうやって、道路の真中に、中央線をはさんで車幅ひとつ分の追越し領域が瞬時に形成されることになる。すなわち、道路全体を実質三車線とし、真中を追越し領域として両方向で共有しているのである。警笛は、まさに共有開始を周囲に知らしめる合図であった。そして夜間は、ライトアップが警笛に取って変わる。考えてみれば合理的なシステムであり、なるほどと膝を打つはずである。むしろ、国土の狭隘な日本で取り入れるべきではないか。もっとも、ちょっと目論見が外れると大事故に至るわけで、刻一刻と変化する状況をとっさに判断して対応する高度な運転技術が要求されることはいうまでもない。いずれにせよ、他国の文化を自国のめがねを通して解釈してしまうことの危険を実感した経験であった。
九月一一日午前、われわれは昆明南部のテン池のほとりにある、総面積八三ヘクタールの雲南民族村を訪れた。ここは、雲南省に居住する二五の少数民族の伝統的な家屋が一同に展示され、各民族による歌舞やさまざまな民族活動が実演される公園型の文化施設である。われわれのような短期滞在型の旅行者にとっては、たとえほんの上っ面をなでるような知識しか得られないとしても、雲南少数民族の全体像を擬似体験できるというのはありがたい。ここでは、タイ族、ワ族、ペー族などの伝統的家屋や生活用具を参観し、またペー族の歌舞などを鑑賞したが、このようなエキゾチックな感動を経験すると、多民族国家としての中国の一面を改めて認識すると同時に、実際に民族が住む地域を訪れてみたいという気持ちがますます強くなった。
同日の午後、われわれは雲南師範大学芸術学院院長の施栄華教授を表敬訪問した。彼は、今回の中国滞在の全期間を通じてわれわれに同行して通訳を務めてくれた高茜のかつての上司である【図三】。
施教授を含む四名の教授陣と面会。まず施教授により、雲南師範大学とりわけ当芸術学院の設置趣旨などについて簡単な説明を受けた。それによれば、雲南師範大学に在籍する学生は、大学全体で一三、〇〇〇人、そのうち芸術学院には五〇〇人が就学している。
雲南省の経済が発展し、雲南少数民族の文化や芸術を維持することの必要性がますます高まるなかで、香港在留の華人の寄付によって三年前に設置された。そして、民族の文化や芸術を維持するための鍵を握る教師の養成を主たる目的としつつも、実業界で活躍しえる人材をも養成しようとしているとのことであった。一期生が卒業していない現時点では、学生の就職動向は未知数だが、短大の卒業生は、すでに在省企業の広告担当業務などに就いているらしい。経済の発展、とりわけ文化資源の宝庫である雲南省の観光事業が急ピッチで推進されてゆくなか、あらゆる面で社会状況と結び付いたニーズが今後ますます高まってゆくことが容易に想像できる。
油絵とデザインを担当する馬教授は、「現在は、進んだヨーロッパや日本の技術レベルにキャッチアップする段階だが、将来的には、中国の伝統を守りつつも、グローバルな芸術を志向したい」と語り、また映像を担当する伊教授は、「現在は、外国製DOS/Vマシンが一四台あるだけだが、将来は国産PCをもっと導入し、CGを活用した映像技術教育を推進してゆきたい。まずは、雲南の民族芸術を継承してゆくための教育実践を軸に据えてPCを活用してゆくが、将来的には、CGも含めた世界芸術の構築を目指したい」と語っていた。昨夏芸術学院に就いたばかりの新進気鋭の李講師は、母校の雲南大学において博士論文を構想中で、とりわけ高茜の研究テーマに大きな関心を抱いていた。
現在、京都大学および大阪大学とのあいだには、雲南師範大学としてすでに学生交流協定が結ばれており、神戸大学ともぜひ積極的に交流したいと、施院長は強く望んでいた。まずは、教官レベルの学術交流を推し進め、さらには学生間の交流も実現するようお互い協力し合おうと、強い握手を交わして散会した。
ここで、雲南少数民族の文化・芸術と関連のある、昆明の大学や研究所について簡単に触れておこう。昆明には、四つの国立大学が存在する。いわゆる総合大学である雲南大学、少数民族にのみ入学を許された雲南民族大学、主に教員養成を目的とする雲南師範大学、そして芸術家の養成を目的とする雲南芸術大学である。雲南少数民族の文化研究は、もっぱら雲南大学で歴史研究を中心に行なわれている(もっとも、これは組織レベルの話で、個人的レベルで研究する学者は数多く存在する)。これらの大学のほかに、後述する雲南省社会科学院の存在を忘れてはならない。これは、全国的機関である中国社会科学院の系列に属する研究機関で、その下部組織として、雲南少数民族の社会や文化を研究する研究所を有している。
大学を取り巻く厳しい社会状況に翻弄され、日々大学運営に忙殺されるわが身を顧みると、この雲南の豊饒な大地に立つ真新しい学院を背に、大学の使命を自覚し、その実現に向けて自らの理想を熱く語る教授陣の姿はうらやましい限りであった。
同日夜、われわれの宿泊するホテルの一室で、一時間ほどの短い時間ではあったが、雲南省社会科学院院長の何耀華教授と会談した。何教授は、中国西南民族研究学会会長、中国社会学学会副会長ならびに中国民族学学会副会長を兼任する中国学術界の重鎮で、国家を代表する重要人物でもある。この日も、外国の来賓との会談を精力的にこなされるなど、多忙な時間の合間を縫って、われわれのためにわざわざホテルまで駆けつけてくださった。われわれは、「開放政策と少数民族の文化・経済」および「観光開発と少数民族の生活・文化」について単刀直入に何院長にお尋ねした。以下は、教授が語った内容である。
開放による経済発展は工業のありようを変える。雲南省においては、たばこ(雲南省は、中国でもっとも早くに葉煙草を栽培した省で、たばこの生産量および品質は中国一といわれている。とくに、雲南省の中部に位置する玉渓地区は、国内外で有名な銘柄「雲煙」の葉煙草の産地である)、鉱物、電子部の品組み立て、の三つの工業生産体制に少数民族をどう組み入れるかが問題となっている。工業化に対応する彼らの潜在的な適応力は依然低く、民族文化への影響はまだほとんどみられない。すなわち、工場労働という未知の生活様式に対する不安や恐れのために、現在のところ少数民族の人びとが工場労働に従事することはほとんどない。雲南の工業生産に従事する人びとは、その多くが省外からの労働者である。そのために、少数民族の文化は、結果として工業生産体制の枠外に置かれ、その影響を受けないでいる。大きく変容しつつある社会・経済的状況のなかにあって、民族保護の選択肢には三つある。ひとつは、昔ながらの文化をそのまま維持させること。ひとつは、民族固有の伝統文化を維持しつつ、新しい状況に適応させた融合的文化を創出させること。ひとつは、すべて新しいものに変容させること。そして、そのどれかを選択しなければならない。
(欧米を中心として、ここ一〇年来にわかに注目を集めつつある新しい視点に基づいた物質・視覚文化研究の話に耳を傾けながら、)生活文化の一部としての耳飾りや衣装、家具などのデザインが、観光地化が進むことでどう変容するのかといった観点に立つ研究は中国ではほとんどなく、非常におもしろい試みだ。雲南少数民族を対象としたそのような研究に対する協力は惜しまない。麗江空港の近くに新華村という村があり、そこでは一戸一戸が銅や銀の工芸品の販売兼生産工房になっている。ここを調査すれば、工芸品の生産の全プロセスを観察することができ、参考になるのではないか。正式な手続きを踏めば、村に一週間ほど滞在することも可能だ。また、雲南少数民族の社会や文化の研究者は雲南省全体で三〇〇人か四〇〇人ほどおり、必要ならその研究成果や資料を提供してもよい。
何教授は、われわれのために一言一句言葉を選びながら、丁寧に、そしてわかりやすく説明をしてくださった。お尋ねしたいことはほかに山ほどあったが、時間も遅く、握手を交わしてホテルのロビーまでお見送りした。何教授は親日家で、これまでたびたび来日して諸大学や民族学博物館などで講演されている。来年(二〇〇二年)の一月にも、一橋大学で改革・開放以降の雲南省の経済と民族政策について講演されるとのことであった。機会があれば、ぜひとも拝聴したいものである。
九月一二日の午後、われわれ一行は昆明空港をあとにし、一時間後、麗江空港に降り立った。麗江は、省都昆明から約五三〇キロ、雲南西北部の平均海抜二、四〇〇メートルの高原に位置し、一九九七年一二月四日、世界文化遺産に指定された国際的観光都市である。
麗江に向かう途中、われわれは雲南省社会科学院院長の何耀華教授に紹介された新華村に立ち寄ることにした。この村の住人は、その九割がペー族、一割が漢族である。何教授によれば村の一戸一戸が工房と売り場を兼ねているということだったが、われわれが訪問したときは、ちょうど村の入り口の一角に販売モールを建設中であった。そこで、銀細工の腕前で知られる母氏の話を聞くことができた。彼は、注文製作が主で、まさに銀細工のデザイナーである。彼のオリジナルのデザインであるという、龍の姿をあしらった絢爛豪華な銀の平面装飾は絶品で、その生産工程を簡単に説明すれば、デザインした下絵から、銅と銀を用いて最終的に鉄の鋳型をつくるというものだった。そして、その鉄の鋳型に薄い銀板を乗せて、上から銀の棒を当てて慎重に打ちつけながら、銀板を成形加工してゆくわけである。作品の最初のサンプルをつくるのに、彼が一日一二時間か一三時間稼動して二〇日間ほどかかるという。いったん鉄の鋳型ができてしまえば、あとは一〇人ほどの職人(近くの住人)に作業を任せ、高度な技術の要求される細かな部分の加工と最後の仕上げだけを、彼自らが担当するのだと語っていた。新華村一帯は代々腕のよい銀職人が多いそうで、母氏自身も、父や祖父の仕事ぶりを見ながら育ち、一五歳になって本格的に銀細工の修行をはじめたという。母氏の作品を購入する者は、自分で愛好するというよりは、商売目的で購入することが多いようである。彼の龍の装飾品は、たまたま彼の作品を目にした北朝鮮の人が気に入って五個注文し、それを当地で売るらしい。ほかに、精巧な刀剣の工芸品を目にしたが、これもまたモンゴル族の人がこの新華村まではるばる足を運んで注文し、内モンゴルに持ち帰って売るとのことであった。
母氏の工房をあとにして、販売ボランティアの若いガイド(ペー族女性)に連れられ、近くの民家の軒下をくぐった。ペー族の典型的な三坊一照の家屋構造、すなわち、中庭を中心とした三面に居室があり、東側の一面のみが壁になっている構造である。西陽が当たって反射した光が対面の部屋を明るくさせるという生活の知恵である。この民家では、イー族やミャオ族の民族衣装の銀製のボタンを彫っていた。互いの民族が、その技術を交換しながら共存しているということだろうか。われわれに同行したペー族のガイドによれば、ぺー語はあるがペー文字は跡形もないという。家族や小さな子どもとだけ、ぺー語で会話をしているらしい。石林で体験したあの奇妙な感覚が再び蘇った。
麗江は、麗江ナシ族自治県の中心で、正式には大研鎮といい、四方街を中心とした古城と、南北に走る新大街一帯の新城からなる。ナシ族を主として、漢族、ペー族、イー族、リス族などが居住している。
われわれは、古城(旧市街地)の一角にある、まだ完成して間もないホテルに泊まった。旧市街地には、ナシ族の木造家屋が所狭しと立ち並び、そのあいだを縫うようにして石畳の細い小路が、まるで迷路のように伸びて独特な風情を醸し出している【図四】。
この街並みは、一九九六年一月二三日の大地震でその半分近くが倒壊したが、その後ナシ族の伝統を残したまま再建された。この小路に沿って、小さな土産物店が軒を並べ、観光客でにぎわっているが、その三分の二は地震後にできた店である。店の半分は、四川省を中心とした他省から来た民族によるもので、彼らは近くにアパートを借りて、そこから店に通っているらしい。この日は、旧市街地の中心にあるホールで、唐・宋時代に滅びたとされる詞や音楽が奇跡的に保存され、ナシ族により引き継がれて古い形式のまま演奏されている、平穏で優美なナシ古典音楽を堪能した。もともと漢族の古い音楽で、もはや漢族すら演奏することのない音楽がナシ族によって引き継がれ、いまなお演奏されているのである。
九月一三日。われわれは、宿泊先のホテルを出て、中国雲南麗江東巴文化研究所の趙所長とともに、古城街を南北に流れる小川(玉河)に沿った石畳の小路を歩きながら、玉泉公園の一角にある東巴文化研究所に向かった。観光者には開放していないという貴重な資料展示室などを案内していただいたのち、研究所内で所長にインタビューした【図五】。
ここで、 東巴 ( トンパ ) 文化、とくにトンパ文字について簡単に説明しておこう。東巴文化は、ナシ族固有の文化で、トンパ文字、その文字で記されたトンパ経文、トンパ舞といわれる民族舞踊、壁画に残されたトンパ絵画などの総体である。これらのうち、人類の古代文字研究において最もよく知られ、学術的価値の高いものがトンパ文字である。トンパ文字は、日、月、山や鳥、馬、龍など、星図や動物などの形に似した象形文字で、トンパ教の経文として、松のすすと糊を材料とした墨を用いて、木質繊維の紙に竹筆で記されている【図六】。
インタビューは、まずトンパ文字を巡る当研究所の取組みについて趙所長より簡単な説明を受けたあと、われわれの質問に所長が答えるという形式で進んだ。以下はその一問一答の一部である。
[トンパ文化と研究所の取組みについて――]
トンパ文字は象形文字(ピクトグラム)である。文字の組み合わせ方やその順序などによって、さまざまな意味をもつ。トンパ文字とトンパ教(原始宗教)は一体のもので、トンパ文字は経文というかたちで継承され、それがどのような意味をもつのかはトンパ(祭司)のみが知るところである【図七】。
トンパ教の存在は、一九世紀ころからすでに知られており、各方面から関心をもたれていた。一九四九年の新中国建国後になって記録作業がはじめられたものの、文化大革命(一九六六年から一九七六年まで)によって多くの貴重な資料が失われた。その後、民族保護の方針に基づき、一九八一年より保存作業が本格的に進められるようになった。この分野の研究で、現在中国で最も信頼されている方教授(故人)の説によれば、トンパ文字の起源は遅くとも唐・宋の時代とされている。トンパ教は、現在ではもはやその宗教性は失われ、あくまで祭事における形式としてのみ残存している。
トンパは、一九四〇年か五〇年ころまでは世襲制であったが、文化大革命時に子への継承が絶たれたため、一九六〇年以降になると、トンパが地域の子どもたちを集めて教育し、そのなかで才能のある優秀な子を見出して経文の解釈を伝承するという状況になっていたらしい。それが、改革・開放と観光開発によって存亡の危機に瀕し、現在では、保護の対象となってしまっているのである。そこで、研究所では後継者の養成を試みている。現在でも、へき地の山岳部に住むナシ族は漢化されておらず(漢語が理解できず、ナシ語のみで生活している)、趙所長は、本来の意味でトンパ教を復活させることができないかとも考えている。一九八二年に当研究所が設置されて以来、これまで一〇人のトンパの協力を得て、経文の解釈作業を進めてきた。現在、研究所には、トンパ三名、ナシ語と漢語の通訳および研究者をあわせて一一名、さらに八人の小トンパが所属している。小トンパとは、トンパの後継者候補として、研究所が養成している人たちで、うちふたりはトンパの孫である。
一、二五〇種類のトンパ文字があり、トンパによる発音上の差異や地域による解釈上の差異はあるものの、理論的にはほぼ同じである。研究所設立当初から、トンパや多くのスタッフの協力を得て、経文解釈のすべての記録作業を終え、全一〇〇巻からなる『ナシ東巴古籍訳注全集』を出版した。これは二〇年間に及ぶトンパ文字研究の集大成である。
[エジプトや中国の古代象形文字との関係について――]
エジプトの象形文字との関係については専門ではないのでわからないが、殷時代の甲骨文字との関係については、トンパ文字がいつから出てきたかが、その問題を解くうえでの鍵となるだろう。前述の方教授の説によれば、麗江に住むナシ族の祖先は中国の西北地方から移り住んできたとされており、(その西北地方の)甘粛の竜安から出土した陶芸品の表面に刻印されている文字がトンパ文字に似ている。これから推測すると、約四、〇〇〇年前ということになる。また、その後、甘粛から麗江に至るルート上でも多数の同様の遺跡が出土しており、これらの事実は、現時点で方教授の説を裏づけるものである。もちろん、方教授の説に対しては、四、〇〇〇年もの長きにわたって、変わらず維持されたと考えるのは不自然ではないかという異論もある。
[本来もっていた宗教的・文化的意味を失い、単なるお土産品としてトンパ文字をあしらった商品が、観光地において年々増加している状況について――]
われわれがトンパ文字に対してアプローチする立場にはふたつある。ひとつは史料としての存在、すなわち、歴史的文物としての研究であり、言語的研究である。もうひとつの立場は、観光事業に伴う商品化の文脈において、絵画・デザインなどの芸術的表現として、すなわち原型から変形・変換されていく芸術的表現としてのトンパ文字の研究である。しかし後者は、トンパの文化を理解し、愛しているのではなく、その目的は明らかに経済原理がからんだもので、個人的には悲しく、不満である。トンパ文字の真の専門家は少ない。観光地でトンパ文字を売り物にしている者たちや素人研究家はそれなりにいるかもしれないが、彼らは、トンパ文字を、その意味とは無関係な単なるデザインとして商品化している。実際、文字を売り物にしている者たちの多くはナシ族ではなく、ひどい場合は雲南省以外の者が生半可な表面的知識だけで商売しており、大きな問題だ。
[しかし、そういった問題がある一方で、観光化は地域に経済的恩恵をもたらしている。この両側面は構造的なものであり、そのバランスはどう考えるか――]
確かに経済的恩恵はある。しかし、文化資源を商品にして得た利益は政府に吸い取られ、そのメリットが文化の保護政策にまわってこないという現状は遺憾だ。現在、われわれは政府に対しアドバイスをしている。すなわち、トンパ文化を扱うビジネスに対して、ある一定レベルの文化理解・学習を義務づけた資格審査のようなフィルターを制度化することで、経済発展と文化保護のバランスをとるような政策を推進すべきではないかと。
[トンパ文字は、観光地においてどのように用いられているのか――]
商品化、デザイン化におけるトンパ文字の変形のパターンには三つある。ひとつは、文字自体を微妙に変形させるもの、ひとつは、ふたつの文字を結合させてしまうもの、ひとつは、全く新しい、いかにもそれらしい文字をつくってしまうもの、の三つである。壁画上の文字がTシャツ上の文字に置き換わったのだと解釈できないかとの補足質問に対しては、とくにコメントは得られなかった。
インタビューのあと、われわれは古城街にあるレストランの二階で、昼食にナシ料理を囲みながら趙所長と雑談した。トンパ経文など、トンパ文化に関する貴重な資料がアメリカ国会図書館に大量に保管されているらしい。戦前、アメリカ農務省の役人が中国に赴任中、トンパ文化にたいそう関心を抱き、その資料をせっせと本国に持ち帰った。それらの資料が、やがて研究者の目に止まり、地理雑誌にその写真が掲載された。趙所長は、あの有名な小説『失われた地平線』を書いた作家ジェイムズ·ヒルトン(James Hilton)は、地理雑誌に掲載された写真や記事をヒントにしたのではないかと推測している。この小説は、その後多くの国で翻訳され、また映画にもなった。小説に描かれた「シャングリラ」、すなわち永遠に平和で静かな理想郷。これは、雲南省西北部にある迪慶州の中甸だとされている。
一九五〇年代、とくに文化大革命以降、トンパ文化の記録保存は政府の全面的支援を受けるようになった。他方、改革・開放後の経済発展、とりわけ九〇年代に入って政府が本格的に取り組みはじめた観光政策は、地域を活性化させ、極めて大きな経済的恩恵をもたらすと同時に、一方で文化資源の形骸化と観光化(商品化)をもたらし、トンパ文化はいま存亡の危機に瀕している。観光開発が与えた経済的恩恵が民族文化の保護に十分に還元されていない現状に対するいらだちが、趙所長の語る言葉の端々にうかがえたのが印象的であった。非難を覚悟でいうならば、このような政府の民族保護政策のあり方に対する所長の発言は、必然的に微妙な政治性をはらんでいるのではないだろうか。そして、その問題を回避しようとすればするほど、研究者は、純粋に文化的意味の探求に自らを限定してしまわざるを得ない。
トンパ文字は、趙所長が語ったように、それが本来もっていた宗教的役割を失い、いまや単なる商品として変形され、消費されている。トンパ文字が図案化されてプリントされたTシャツを日本人観光客が「かわいい」といいながら手にする光景は、まさにそのことを端的に物語っている。日本人だけではない。次から次へと押し寄せる国内観光客もしかりである。民族の文化資源と観光政策が結び付いて、トンパ文字は、観光における商品(土産品)として新たな意味をもつようになったのである。
麗江の街は、一九九四年に雲南観光会議で観光都市に指定されて以来、観光化に伴う急速な市場化が進展した。一九九六年に発生した大震災を機に、ナシ族固有の伝統を残したまま木造家屋が新しく再建され、古城の路が整備され、ホテルや道路網が整備された。そして一九九七年の世界文化遺産への登録を契機として、街のあちこちで、メガフォンを手にした中国人ガイドが、旗を振り振り自国の観光客を引率する光景が散見されるようになった。土地所有と経営が分離し、多くの民家の軒下が、他省や他県からかってきた人びとによる土産品の店舗に姿を変え、民家の家主は、彼らから家賃(正確には営業権)収入を得るようになった。ナシ族の文化にかかわる民芸品が他の少数民族により生産・販売され、漢族がナシ族の衣装を、ナシ族が漢族の衣装(チャイナ服)を売り、また、麗江の近くの白水河のほとりでは、イー族が、上半身は自民族の衣装を、そして下半身はぺー族の衣装を身にまとって、観光客にチベット族の帽子をかぶらせ、チベット牛に乗せて料金を取っている。改革・開放政策による市場化を背景に、民族政策と密接に結び付いた観光開発は、雲南少数民族だけでなく他省や他県をも巻き込んで、ヒト・モノ・カネの移動を加速したのである。雲南少数民族の社会・文化の変容は、このような文脈のなかで見据えなければならないだろう。
在来文化が、押し寄せる他者(観光客や他民族)に侵食され、曲げられながら変容してゆく。在来の文化と押し寄せる他文化がせめぎあい、融合しながら、新たな文化が形成されてゆくのである。文化の歴史とはそのような相互作用のダイナミズムのプロセスそのものであろう。
趙所長が現状に嘆くのと同じように、そして麗江で見かけたナシ族老人の観光客に対する冷ややかな視線のように、過去においても新たな文化の侵入をにがにがしく思った人がいたにちがいない。しかし、長い歴史的時間のスパンで見れば、トンパ文化がどのような足跡をたどろうとも、それは歴史の現実であり、誰もそれを押しとどめることはできないのである。多少の郷愁と愛慕の情でもって抵抗しながらも、われわれは冷徹にその行く末を見届けるほかないのかもしれない。民族保護についての何耀華教授の話を思い浮かべつつ、その変容のダイナミズムを目の当たりにしている者として、そのプロセスをできる限り多面的に、いっさいのタブーを排除して記録に止めておかなければならないと思った。
ところで、中国で最も貧しい階層の人たちの収入は月二〇〇元(日本円で三、〇〇〇円)ほどらしい。切り詰めればこれで最低限度の生活ができるという。もちろん中国山岳部に住む少数民族は自給自足であり、無意味な尺度ではあるが。公務員は平均で月六〇〇元(九、〇〇〇円)、大学教員は一、〇〇〇元(一五、〇〇〇円)で、他方タクシーの運転手の場合は、月収五、〇〇〇元(七五、〇〇〇円)から六、〇〇〇元(九〇、〇〇〇円)に上るそうである。だとすれば、広州の繁華街で山積みされていた一枚二〇元のTシャツは、一般的な公務員にとっては決して安くないはずである。にもかかわらず、街は若者たちでごった返し、高価な携帯電話を身につけ、初乗り七元のタクシーを利用する者も多い。また、観光地は国内観光客で溢れ返っている。一見、多くの人たちが経済発展の恩恵に授かって、近代的な生活を謳歌し、また旅行を楽しんでいるかのようである。街や観光地で見かけるこのような光景と、耳にする中国一般市民の所得事情とのあいだのギャップを、一体どう解釈すればよいのだろうか。
広州での最初の日以来ずっと抱き続けていたこの疑問は、昆明へもどる機中、高茜が語った次のような話で少し解けたような気がした。「かなりの人が携帯電話を身につけているけど、実は、そのほとんどが会社の所有物なんですよ。車もそう。タクシーだって会社の経費で乗るんです。個人としてそんなことができる人はよほどの例外。それに、街に繰り出している若者にしたって、彼らがそんなお金をもっているはずはないわ。みんな親が出しているの。親は家でじっとしている。それに大事なこと忘れないでください。中国の人口は一体いくらか知っていますか? 一〇億以上ですね。街にどんなに人が溢れていたとしても、一〇億に比べればほんのごくごく一部です」。いわれてみれば返す言葉もない。中国のほとんどの人は、街に出て楽しむことも、さまざまな商品を消費することも、まして旅行に出かけることもできず、狭隘な自宅の片隅でじっと息を潜めて暮らしているのである。中国における昨今の目覚しい経済発展のもとで、われわれはともすればその光の部分に目を向けがちであるが、その陰の存在を決して忘れてはならない。くしくも、われわれが何耀華雲南省社会科学院院長からお話をうかがっていた九月一一日夜、アメリカにおいてあの衝撃的な同時多発テロ事件が発生した(アメリカ東部現地時間で九月一一日午前九時前後)。事件についての中国メディアの取り上げ方は実にあっさりしたものであったが、このことに中国の抱える諸事情が込められていると感じたのは、単なる思い過ごしであろうか。
最後に、今回の中国訪問に際して、施栄華教授、何耀華教授ならびに趙世紅所長には、大変お忙しいなか貴重な時間を割いて快くわれわれのインタビューに応じていただき、大変有益かつ実りある学術交流を行なうとともに、親交を深めることができた。紙面を借りて、諸先生方に深甚なる謝意を表したい。
(二〇〇一年)
図1 中国雲南省。
図2 昆明石林。
図3 雲南師範大学芸術学院(左から高茜、小高、施院長、中山)。
図4 麗江古城の街並み。
図5 玉泉公園で趙世紅所長(中央)と筆者たち。
図6 トンパ文字。
図7 ナシ族トンパ(祭司)。
【図1】筆者作成。
【図2】筆者撮影。
【図3】筆者撮影。
【図4】筆者撮影。
【図5】筆者撮影。
【図6】雲南省社会科学院麗江東巴文化研究所編『東巴文化芸術』雲南美術出版社、1992年、69頁。
【図7】金思維編『旅滇指南』雲南民族出版社、1998年。