中山修一著作集

著作集9 デザイン史学再構築の現場

第五部 デザイン史雑考雑話集

第五話 富本憲吉の処女作《ステインド・グラス図案》

周知のように、日本の近代を代表する陶芸家のひとりに富本憲吉(一八八六―一九六三年)がいます。富本は、一九〇四(明治三七)年の四月に東京美術学校(現在の東京芸術大学)に仮入学し、九月から図案科に所属することになります。この年は、ちょうど日露戦争の時期にあたり、中学校時代から週刊『平民新聞』を読み、そのなかで紹介されていた社会主義者でありデザイナーでもあった英国のウィリアム・モリスの思想や作品に興味をもちはじめます。これが、富本に英国留学を促した主たる要因となるものでした。彼が陶芸の道に入るのは、英国留学からの帰国後、すでに来日していたバーナード・リーチと出会ったことに端を発します。したがって、陶芸家としての彼の職業選択は、極めて偶然によるものでした。

富本の処女作については、これまでほとんど語られることはありませんでしたが、美術学校在籍中の一九〇七(明治四〇)年に東京勧業博覧会に出品した《ステインド・グラス図案》がそれに相当します。この作品の右上には、一七世紀の英国の詩人、ロバート・へリックの韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からのヴァースが引用され、富本は、このヴァースの意味にふさわしく、女性の左手にバラの花をもたせ、女性の身体の律動的な動きにあわせて、新たに孔雀らしき尾の長い二羽の鳥を一体化させながら、うら若き美しい乙女を象徴する作品へと仕上げてゆきました。

後年富本は、自分の美術学校時代の図案教育を振り返り、文庫(現在の図書館)にしばしば足を運び、外国の雑誌や書物から図版を転写することが日常的な製作の手法となっていたことを告白し、そのことをしきりに後悔しています。この《ステインド・グラス図案》もそのような過程を経て製作されました。手本となったものは、明らかに、ステインド・グラスの窓のためにE・A・テイラーが一九〇四年ころに製作した水彩画《時のある間にバラのつぼみを摘むがよい(Gather ye rosebuds while ye may)》という作品でした。この作品は現在、グラスゴウ・シティー・カウンシル(博物館群)に所蔵されています。製作者のテイラーは、一八七四年の生まれで、おそらくグラスゴウ美術学校で学び、C・R・マッキントシュの友人でもありました。

英国留学から帰国すると、富本は、自らの製作の姿勢について深く悩みます。そして最終的に到達したのが、「模様から模様を造らない」という信念でした。これは、過去の作品や他人の作品の模倣に頼ることなく、オリジナルな模様を自らつくり出すことへの決意を意味します。こうして富本は、自らの処女作にみられるような製作の手法や姿勢を乗り越えていったのでした。富本のデザインの個性や独創性の開花には、したがって、美術学校時代の図案教育への強い批判が横たわっていたということができるのです。

以下の参考図版四点を含め、この作品につきましては、著作集2『ウィリアム・モリス研究』の第二部「富本憲吉の学生時代と英国留学」において詳述していますので、そちらも、参照してください。

(二〇〇六年)

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図1 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘンドグラツス圖案》。[図版出典:『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」、77頁。]

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図2 F・レイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド・スクリーン》。[図版出典:The Studio, Vol. 33, No. 140, November, 1904, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1997, p. 151.]

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図3 E・A・テイラーの《ステインド・グラスの窓のためのデザイン》。[図版出典:The Studio, Vol. 33, No. 141, December, 1904, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1997, p. 223.]

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図4 E・A・テイラーのステインド・グラスの窓のための水彩画《時のある間にバラのつぼみを摘むがよい》。[図版出典:グラスゴウ・シティー・カウンシル(博物館群)のご好意により複製。]