中山修一著作集

著作集9 デザイン史学再構築の現場

第五部 デザイン史雑考雑話集

第三話 イタリアの反デザイン

一九八五年に京都国立近代美術館で開催された「現代デザインの展望」展は、デザインにおけるポスト・モダニズムの状況を紹介するものであったが、その展覧会カタログのなかで、一九七二―七五年に『カサベラ』の編集長として反デザインを積極的に擁護してきたアレッサンドロ・メンディーニは、イタリアにおけるアヴァン=ギャルドのデザインの歴史を四つ(および現在)の時代に区分し、加えて、それらに共通する姿勢をこう述べていた。

……「合理主義」の時代(一九三〇―四五年)、「モダニズム」の時代(一九四五―六五年)、および「反合理主義」の時代(一九六五―七五年)。そして最後に、八〇年代に向けての「ポスト・ラディカリズム」と「ニュー・デザイン」としての可能性をもつ時代。
 これらを結びつけているものは、政治、市民、文化、建築のそれぞれの組織パターンに対抗してデザインを問題化する、異端的な姿勢である

そののちモダニズムの美学上の欠点について論じるうえで重要な初期の貢献をなすことになる、アメリカの建築家、ロバート・ヴェンチューリの著作『建築の多様性と対立性』が出版された一九六六年、イタリアでは、オリヴェッティ社のタイプライター《プラクシス四八》(一九六二―六三年)においてすでに象徴的機能を発展させていたエットーレ・ソットサスが、ポルトロノーヴァ社のために一連の異端的な家具をデザインした。表面にはプラスティック・ラミネイトが用いられ、明るい色彩のストライプが施されていたのである。同じく一九六六年に、ソットサスの影響のもとに、アンドレア・ブランジやアドルフォ・ナタリーニといったアヴァン=ギャルドの建築家=デザイナーたちが、アルキズームとスーパースタジオをフィレンツェで結成した。こうして、ラディカル・デザインないしは反デザイン(あるいはラディカル反合理主義デザイン)としてのちに知られるようになるデザイン運動は、その幕を開けたのであった。

「六八年運動」に象徴されるように、イタリアの六〇年代後半は、政治、社会、文化の既存の支配体制に対する「闘争」の時代であった。デザインに目を向けると、戦後の経済復興に伴う五〇年代から六〇年代はじめにかけての消費主義の劇的な拡大は、モダニズム本来の高潔な社会倫理からシステムとしての資本主義の枠組みのなかへとデザインの重心を移行させていた。そこには、虚構のニーズをつくり出し、それによって販売の増大を促進するための道具としてのデザインの役割が横たわっていた。戦後生まれの若い建築家=デザイナーたちは、逆に、そうした政治的文化的役割に対する「闘争」の道具としてデザインをみなし、ヴィコ・マジストゥレッティやジオ・ポンティ、マリオ・ベリーニなどの当時主流となっていたデザイナーたちのデザイン実践を浸食するべく、展覧会の開催、マニフェストの刊行、パフォーマンスの上演などをとおして、対抗デザイン運動へと駆り立てられていったのである。

反デザイン(あるいは対抗デザイン)の造形上のインスピレイションは、かつてアーツ・アンド・クラフツとラファエル前派、モダニズムとキュビスムのあいだに密接な関係があったように、アメリカのポップ・アートにその多くを負っていた。英国のデザイン史家のペニー・スパークが指摘するところによれば、六六年のソットサスの家具は、明らかにロイ・リクテンスタインやフランク・ステラの作品に影響を受けており、一方、クレス・オルテンバーグの作品に認められる「柔らかい彫刻」が影響を及ぼした例として、座る姿勢によって自由自在に形が変化する、ザノッタ社の《サッコ》チェアー(一九六九年)や、巨大な野球のグローヴの形をした、ポルトロノーヴァ社の《ジョエ・ソファー》(一九七〇年)を挙げている。前者は、視覚コミュミケーションのありようを批判的に問いただすものであったし、後者のうちの《サッコ》は、画一的な機能の無機質さを冷笑し、《ジョエ・ソファー》は、イメージの再使用の正当性を要求するものであった。こうした機能主義の形式的純粋主義に対する意義申し立ては、過剰なまでの色彩と装飾に溢れる、初期のアルキズームによってデザインされた一連の《ドリーム・ベッド》(一九六七年)にもまた、鮮明に表現されていた。デザイン・ジャーナリストの佐藤和子はこのベッドを評して、次のように述べている。

……伝統的なイタリアの住居では、夫婦の寝室は最も神聖な場所なので、ベッドの上の壁には常にキリストの十字架がかけられた像が飾られてある。だからけばけばしい色彩の《ドリーム・ベッド》は、伝統的住いに対する挑戦というだけではなく、束縛された性の開放をも意味していた

聖なるものへの拒絶、束縛からの解放、権威や体制への不服従といった反デザインの政治的文化的拒否の態度は、ユース・カルチャーやポップ・カルチャーと連動しながら、意図的に、バッド・テイストやキッチュ、折衷主義やノスタルジア、アイロニーやウィットといった表現領域の可能性を開拓し、デザインにおける近代運動とその視覚的偶像である「グッド・デザイン」に戦いを挑んだのであった。こうした偶像破壊行為は、家具デザインの分野のみならず、建築デザインの分野においても、圧倒的な力を発揮した。すでに英国では、ラディカル建築のグループであるアーキグラムが一九六四年に《プラグ・イン・シティー》を発表し、高度なテクノロジーがもたらす未来都市の可変性と消尽性を視覚化していたが、少なからぬそうした影響のもとに、イタリアでは、アルキズームが《ノー・ストップ・シティー》(一九七〇年)のなかで、一方スーパースタジオが《継続するモニュメント》(一九六九年)のなかで、大都市や人間環境の問題をモンタージュ・グラフィックの手法を用いながら、ヴィジュアルに表現していた。佐藤和子は、「そこでの表現は、権威を否定するシンボルであったり、既成社会を逆手にとったアイロニーであったり、現実を越えたユートピアの世界であった……」と述べている。ポップ・アートの象徴的表現手段を意図的に援用したアヴァン=ギャルドの反デザイナーたちによって、「住宅はいま再び未来についての理想的なヴィジョンの核心に戻ってきたのである」。つまりそれらの作品群は、「住宅」を経済的文脈からのみ語ることを退け、全体的ヴィジョンのなかにあって再び文化的文脈から語ることの正当性を主張していたのであった。別の言葉を用いれば、反デザインの「闘争」は、戦後イタリアの社会再建の大いなる決算として、経済や技術という牢獄のなかにあって物神化されてきたオブジェクトを社会的文化的観点から再文脈化する熱い試みにほかならなかったのである。

こうしたアヴァン=ギャルドの建築家=デザイナーたちの反デザインは、一九七二年のニューヨーク近代美術館での「イタリア――新たな住宅内部の風景」展において、そのピークを迎えた。これは、イタリア国外で開催された最初の大規模なイタリア・デザイン展であり、一九六九年からニューヨーク近代美術館のデザイン・キュレイターを務めていたエミリオ・アンバスによって組織されていた。そののちジョナサン・ウッダムは、デザイン史家として、この展覧会の大きな意義について二点を指摘している。ひとつは、「デザインのもつ社会文化的意味についての重要な論議を土俵にのせた」ことであり、いまひとつは、「それまで個々のオブジェクトなり著名なデザイナーの美学なりに焦点をあわせる傾向にあったニューヨーク近代美術館の視点に根本的な変革を印づけた」ことであった。確かにこの時期以降、とくに英国を中心として、デザイン史(あるいは物質文化研究)の再構築化は著しく進行することになるのである。

ニューヨーク近代美術館でのこの展覧会は、イタリアの反デザイン、あるいは対抗デザインを世界的に有名なものにする一方で、その勢いのなかにあって、一九七三年のグローバル・トゥールズの結成へと導いていった。これは、アヴァン=ギャルドの建築家=デザイナーたちによるメタ・デザインのための「反学校」といった性格をもつものであったが、理論の先行と空回りが目立ち、イタリア経済が深刻な退行期を迎えたこともあって、二回のセミナーを開催しただけで、翌年には自然消滅した。そしてついに一九七五年は、時代の左翼化傾向にもかかわらず、反デザインを率いてきたアレッサンドロ・メンディーニが『カサベラ』の編集長を解任されるという決定的な事態に遭遇した。こうして事実上、イタリアにおける反デザイン運動はその役割を終えたのであった。

しかし反デザインは、モダニズムの立場からすれば、全面的には承認しがたい多くの側面を含みもつものではあったが、その後のデザイン実践の大きな源泉として重要な意味をもつことになった。ひとつには、オブジェクトの生産手段にかかわって、ポスト産業主義(あるいはポスト・フォーディズム)の方向に沿いながらクラフトの復興に火をつけたことである。七〇年代以降英国とアメリカにとくに認められる、クラフツ・リヴァイヴァルの出現がそのことを如実に物語っているし、それは、九〇年代のグリーン・デザインの予兆となるものでもあった。もうひとつには、デザインの表現手段にかかわって、機能主義に代わる新しい視覚言語の原初的文法を用意したことであった。チャールズ・ジェンクスの『ポスト・モダニズムの建築言語』が出版される一年前の一九七六年に、ポスト・ラディカリズム(あるいはポスト・アヴァン=ギャルド)としてミラノで生まれたスタジオ・アルキミア、そしてそれに続く、さらに商業化された八〇年代のメンフィスの実践は、エットーレ・ソットサスを中心としながらも、アンドレア・ブランジやミケーレ・デ・ルッキといったイタリアのデザイナーだけではなく、アメリカからはマイクル・グレイヴズ、オーストリアからはハンス・ホライン、日本からは磯崎新や梅田正徳、倉俣史朗などが加わった、多国籍的なグループ実践であり、反デザインが用意した原初的文法を改編しながら、ニュー・デザイン(あるいはポスト・モダニズム)という普遍的文法(あるいは商業的文法)へと一般化していったのであった。もしこのニュー・デザインに対し、八〇年代のデザイン文化のグローバル化の文脈のなかにあって「ニュー・インターナショナル・スタイル」という市民権が公的に与えられたとするならば、疑いもなく、反デザインがその市民権のもともとの発行機関であったということができるのではないだろうか。

(二〇〇三年)

(1)『現代デザインの展望――ポストモダンの地平から』京都国立近代美術館、1985年、14頁。

(2)Penny Sparke, Ettore Sottsass Jnr, The Design Council, London, 1982, pp. 49 and 55.

(3)佐藤和子『「時」に生きる――イタリア・デザイン』三田出版会、1995年、215頁。

(4)Ibid., p. 219.

(5)Paul Greenhalgh (ed.), Modernism in Design, Reaktion Books, London, 1990, p. 200.[グリーンハルジュ編『デザインのモダニズム』中山修一ほか訳、鹿島出版会、1997年、212頁を参照]

(6)Jonathan Woodham, Twentieth-Century Design, Oxford University Press, Oxford, 1997, p. 194.