中山修一著作集

著作集9 デザイン史学再構築の現場

第五部 デザイン史雑考雑話集

第四話 対談「大久保英治×中山修一」

[主催者] 「今日の作家シリーズ四四/大久保英治」展にあわせて、一二月六日に大阪府立現代美術センター展示室Aにおいて、「間(はざま)」とそれを越えることをテーマに、大久保英治氏と中山修一氏の対談を開催しました。大久保氏は、英国に滞在した際にリチャード・ロングを含むランド・アーティストたちと交流を深め、その体験をとおして、それまで展開してきた制作の方向性がさらに明確になった経緯があります。中山氏は神戸大学の教授で、英国デザイン史を専門にしながら広く物質文化と視覚文化の研究を進めています。英国のつながりで出会ったふたりは、互いの活動に関心を抱きながら、資料や情報交換といったかたちでこれまで緩やかな交流を続けてきました。直接顔をあわせるのは二回目という今回、大久保氏の制作活動から中山氏が見出した八つのキーワード《間》《野外》《周縁》《越境》《コミュニケーション》《コレクション》《循環》《共存》を中心にお話いただきました。


[中山] 常に私たちは、自分と他者との関係が《間》で成り立っているということに気づきます。日常的にどれほど意識するかは別として、生きていくうえでは根元的で重要なテーマとして《間》はあるのではないでしょうか。今回の個展は、その「間」ということが主題になっているとお聞きしました。


[大久保] 「間(あいだ/はざま)」、日本的にいうと「間(ま)」について、ぼくは美術においてはどうかということを昔から考えてきました。一番考えたのは、李禹煥がいった点・線・面ということです。どっから点で、どっから線で、どっからが面なんやろう、と。それをどういうふうに表現するのかということから、「間(あいだ)」はどこか、この「間」にどうも秘密があるのではないか、と考えるようになりました。ここが「間」であると示すことよりも、「間」という秘密があるということを表現してみたいというのが、いまぼくが一番思っていることです。


[中山] なるほど。作品をあえて日常的な感覚で見たときに、まず素材が木ということと、海を渡ってきたライターで構成されていることがわかります。これらはすべて野外に存在する何気ない素材です。ここで《野外》という言葉に注目してみましょう。これは、私にとっても重要なキーワードで、私が若いころの研究生活といえば、一般的にいって、欧米の研究書をよく読んで、紹介していくというのが主なスタイルでした。それが一九七〇年代ころから、書斎にこもって書物を読むことをとおして知識を得る、という考えに対して反省が起こり、人文科学系の研究であっても実際のフィールドで得た情報を研究材料にすることが重視されるようになりました。大久保さんもアトリエから踏み出し、ある場所にかかわって古くから生活や歴史に残っているもの、人びとの意識に根づいているもの、そういうものがひとつの素材、あるいはインスピレイションの源になっているのではないでしょうか。そういったところに私たちの研究との類似性を感じました。


[大久保] なぜ野外へ出たかという点については、ぼくなりの経緯があります。ぼくはどちらかというと体育系の人間ですが、よく体育系でありながら美術をしているということについて、多くの人がぼくに「何で?」と聞くわけです。いろいろと考えてゆくと、体育というのも視覚の運動であるということに気づきました。たとえば一本の線を引くのも身体運動であると同時に美術的な視覚運動である、と。八〇年代くらいにやっと体育と美術の関係が非常に密接であることに気づいてから自信をもって、大久保英治が野外でするということは、何ら不思議でないというように考えるようになったわけです。たとえば古代の洞窟画をわれわれは非常に美術的に見ますけれども、あれは非常にスポーツ的な要素をもっている。古代人はバッファローやさまざまなものを食料のために襲うわけですが、そういったものが美意識とともにあったのではないでしょうか。この狩りという行為が美意識とともにあったことで洞窟画を描くという行為が存在していた。ぼくはそう思います。


[中山] 芸術と労働の境界がはっきりしない状況は、ある意味で理想的な状況といえます。これは芸術的な制作行為なのだ、あるいはこちらは単なる身体的な労働なのだ、という境界が今日の現実社会でははっきり区別して存在していると思うのですが、芸術的制作行為と身体的労働とがない交ぜになっている状態というのも、ある意味で原始的ではありますが、理想的なものとして今日まで伝わってきているように思います。
 一方、この作品から受ける印象として、使われている素材が手の届かない高価なものではなく、身近な日常生活に存在するものであるという点が挙げられます。しかしそれらは、あまりにも日常的すぎるために、いまや日常の《周縁》に追いやられています。木切れであれ、漂流して岸辺に落ちているライターであれ、いずれも、日常的には見過ごしそうなものですが、そうした《周縁》部分に大久保さんは注目されているように思います。


[大久保] 野外に着目して動くようになってから、ぼく自身海が好きということもあって、よく海岸などに行きました。そうすると海岸には捨てられたあらゆるものが打ち上げられていて、都市生活がつぶさに見えてきます。大体都市では人が何を使ってどんな生活をしているか、生活文化が海岸にあるということを感じます。最近は木片が少なくなってプラスチックのような石油系に移ってきています。環境問題も含めて文化そのものが非常に見えてくる。そういうものを掘り起こすのも美術ではないかと、そういうふうにぼくは感じています。


[中山] なるほど。捨てられたもの、つまりは、存在として一見無価値と思われるものを再評価し、再配置していくことによって、人間の生活や社会の様相を逆照射できるのではないか、ということですね。七〇年代以降、美術の世界に限らず、西欧が中心的支配者であり、それに対して非西欧が《周縁》に置かれる被支配者である、とする認識が崩壊していきました。その結果、中心から見た場合価値のない《周縁》の価値を見出そうという反省が起こりました。《周縁》的な地域、人びと、そして社会や文化にどのように光をあてるのかという今日的問題と、大久保さんの作品は非常に結び付いていると思いました。
 私が作品を見せていただいてもうひとつ思ったことは、先ほど《間》を話題にしましたが、この隙間の一方の領域からもう一方の領域へ《越境》するという現象が起こっているのではないかということです。あるいは、このことを《コミュニケーション》と言い換えることもできるかもしれません。大久保さんの作品には、そうした境界を越えて行き交う力をもっていると思います。つまり《越境》する営みのようなものです。違ったもの同士が相互に《越境》することによって、新たな《コミュニケーション》が展開され、そこに何かが生まれてくる、私自身、大久保さんの作品からそのような点に大変興味をもちました。


[大久保] いま、ふとふたりの美術家のことを思い出しました。技術的なことでいえば相反する素材、水と油のような関係にあるものをスムーズに融合させること。ぼく自身も、いまそれをテーマにしてつくっている作品もたくさんあります。素材が違うものを掛け合わせて、そのときに起こる摩擦や歪みのことを「爆発」という言葉でいったのが岡本太郎だろうと思うんですね。で、もうひとりは李禹煥。彼は水性の墨と油性の墨を使って、両方を筆に含ませて描いていきました。まあ人のことをいってもしゃあないんですけどね。ぼく自身はまだ解決していませんが、「ギャラリー風」で同時開催している展覧会では、そのあたりを少し狙って見せているつもりです。


[中山] 私も「ギャラリー風」の展示作品を拝見しましたが、この会場にあるような大きい作品ではなく、非常に繊細で端正につくられた優しい作品でした。小宇宙が幕の内弁当のなかにきちんと並んでいるような作品で、箱庭といってもいいかもしれません。そのなかに納められている一つひとつの要素が必ずしも孤立したり、他の要素に対してそっぽを向いていたりするのではなく、その場のなかにあってうまく双方の何かが調和していて、全体として視覚的に何か落ち着きを与えている、そういうイメージを受ける作品でした。
 一方、大久保さんの作品には拾い集める、つまり《コレクション》という行為で成り立っています。人間が「もの」を集める行為は非常に根元的な営みのように思われますが。


[大久保] 行為としての集めるということは、ぼく自身の性質みたいなところがあるとは思いますが、よく旅をして美しいから石ころをもって帰るというような興味本位とは違って、なぜ拾うのか、自分の意図をよく考えながら、強い意識でもって拾っています。拾ったときにはどういう作品にするか、というのは自分のなかでもう決まっている。だから余分に拾うということはしません。ゴミを集めて結局ゴミにしてしまう、と昔いわれたこともありますが、ぼくがやりたいのは結局ゴミといわれるものをゴミでないことにする。もともとそれはゴミではなかった、という次元にまでさかのぼってぼくは見たいなあという思いがあります。


[中山] さらに、大久保さんの作品の特徴は《循環》しているということではないでしょうか。百円ライターは百円で買ってきて、入っている分だけガスを使用して、それがなくなったら捨てられるものです。その時点でそのライターの生命は終わります。しかし不要になったものが、ここでは大久保さんの手によって命が与えられて再生しています。そして再生された結果、私たちの《共存》にかかわる、何かそういった可能性が示唆されているように思えます。


[大久保] また旧い話になってしまいますが、かつてぼくは平面絵画ということをやりながら、絵画というものに非常に疑問をもったことがありました。そのときにある仮説を立てました。自分自身が生まれてきて死ぬというのと同じことで、「もの」という「もの」は土から出てきて土に還る、と。われわれの仕事は、その「間」をゆっくりと見せることなのではないだろうか、と。その「間」の時間ということをどういう形で見せるか。古代人のように、ささやかなに手を加えて見せるということに配慮しますという文章を書いて、ぼくは勝手に仮説を立てました。それにのっとって三年間つくった作品が、流木や新聞紙や、送られてきた封筒を組み合わせたものでした。その後に、いまあるような形に入っていったわけです。そういう意味ではいまも基本的な考え方として、「もの」は《循環》する、《循環》させるというのがあります。ささやかなある時間を見せるということに配慮しています。だから自然素材などを中心にこれからもつくっていこうと思っています。


[中山] 《循環》するということは再生され、《共存》していくということになります。大久保さんの活動の回りには、大久保さんの人柄にひかれた人たちや、共感を覚えた人たちがボランティアとして集まっています。人と人の結び付きというものがこの作品を支えているということが大久保さんの作品において非常に重要な要素ではないかと思います。作家がひとりで作品をつくるというスタイルではなく、大久保さんを中心に集まった人たちのさまざまな力が作品の完成に向けてうまく溶け合ってゆく。このプロセスが従来の制作のあり方と根底的に違う部分として私は受け止めています。


[大久保] ぼくはいまでも正式には美術家といっています。それで美術とは何かということをよく問われるし、自分でも考えなくちゃと思うのですが、正直にいまだ、あまりよくわかりません。その都度一生懸命に考えるのですが、美術というのも文化のなかの一部であると思ったとき、美術を支える土台として地域の文化が非常に重要であるとぼくは思います。その文化を中心に考えてゆくと、たとえばぼくは鳥取にアトリエをもっていますが、鳥取なら鳥取らしい文化をもっています。ところが、いま文化を発信するというと、全世界の文化にしたいということを行政も自治会もみな思っているのです。でも、ぼくは文化がその土地を出て、みんなに受け容れられた瞬間に文化ではなくなってしまうのではないかというような恐怖感をもっております。そういう地点で考えてゆくと、ぼくはやはりひとりでこつこつと作品をつくるだけじゃなくて、意図的に一緒に「もの」をつくり、《共存》ということを考えなきゃならんときにきているんじゃないだろうか、と思っています。


[中山] いまの大久保さんの考え方は、個人的に非常に共感します。文化はその地域に生きている人びとの一人ひとりの営みの時間のなかで形成されてゆくものだと思います。そして、支配と非支配の構造によって強化される上下関係ではなく、横の広がりをもった人間的関係で表現方法が組織化されてゆく。大久保さんは、そのことを大事にされて、着目されているのかなと思いました。


[大久保] そのとおりです。


[中山] この作品をとおして感じられる、横のつながりを実現化するための思考方法や実践方法は、非常に興味深く、また勇気づけられるものでした。

(二〇〇四年)

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図1 鳥取のアトリエから杉枝とライターを乗せた車が4時間少しで大阪に到着。

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図2 長さ1~2m、100本ずつ束ねられた杉枝が会場に運び込まれる。今回使用される枝は杉の間伐材で、約800本。

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図3 枝の自然なカーブを利用しながら、無理な力は加えずに、基礎としての円を形成。

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図4 基礎の円を中心に、杉枝を麻ひもでしっかり縛りながら立体的に構築していく。

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図5 全体を少しずつ回転させながら、作業は進む。きしむ音から風にざわめく森を連想。

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図6 一番大きな断面の箇所は、直径約2.5m。人が枝に包まれるような空間が生まれる。

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図7 今回運び込まれた漂着ライターは、約3万個。日本語、英語、中国語、韓国語の表記あり。形態も色もさまざま。

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図8 完成した杉枝の作品が吊り上げられ、床とのあいだのわずかな隙間に波紋のようにライターが並べられていく。

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図9 お隣さんと連携しながら、呼吸をあわせてさらに波紋を広げていく。

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図10 見事に並べられたライターの渦は色彩豊かで、まるでモザイク装飾。

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図11 吊るされた杉枝による巨大な空間と床に広がるライターの渦巻き。新しい調和が徐々にその姿を現わしていく。

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図12 6日間の公開制作も無事終了。《風をはらんで――智頭から大阪へ》と《水物語&繋がる日本海》のふたつの作品が完成。

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図13 展示室で開催された「対談 大久保英治×中山修一」の風景。