英国におけるデザインの近代運動(Modern Movement)は、第一次世界大戦の戦時下から第二次世界戦以降の復興期に至るおよそ五〇年間にあって、展開されてゆきました1。その主導原理がモダニズム(Modernism)と呼ばれるもので、過去の様式を捨て去り、新たに効率性の形態を追求しようとするものでした。しかしそれは、一九六〇年代から七〇年代において、主として戦後生まれの若い世代の人たちによって異議が申し立てられることになります。いわゆる反モダニズム(Anti-Modernism)を主張する若者たちによる実践です。この時期、バッド・デザイン(Bad Design)やポップ・デザイン(Pop Design)といった、モダニズムに取って代わる新たな表現形式が登場しただけでなく、大量生産のシステムに異を唱える人たちのあいだにあっては、反フォーディズム(Anti-Fordism)や工芸復興(Craft Revival)の動きが顕在化しました。他方で、こうした現象は、近代運動の全体像をもってデザインの正統な歴史とみなしていた歴史家や理論家たちに、その修正を求めるべく、強い影響を及ぼしてゆきました2。
おりから一九六〇年代はじめには、政府主導による美術・デザイン教育の改革が進められました3。その主たる改革内容は、これまで実技を中心に教育が行なわれていた、カレッジ(概して、美術家やデザイナーを養成する単一学部からなる大学)とポリテクニック(概して、美術家・デザイナーの養成学部を含む実業系の複数の学部から構成される大学)4の美術・デザイン学部に、学術的教科を導入することでした。それにしたがい、実技の学部をもつ大学は、アカデミックで伝統的な「美術史」を取り入れました。しかし、ここに学生と大学側との対立が生じたのです。とりわけデザイン学科の学生たちは、自分たちが学ぶ実技に直接かかわらない「美術史」を拒否しました。それに動かされて教師たちは、「デザイン史」の教育に目を向けざるを得なくなり、その教科の独自の発展に向けて、徐々に意を注ぐようになってゆきます。これが、一九六八年に激化した大学紛争や体制批判運動における、デザイン分野でのひとつの着地点となりました。こうして一九七七年に、カレッジやポリテクニックで「デザイン史」の教科を担っていた新興の教師たちが一堂に集まり、美術史家協会(Association of Art Historians)5から巣立つかたちで、新たにデザイン史学会(Design History Society)を創設します。さらにそののち、一九八八年にオクスフォード大学出版局(Oxford University Press)からこの学会の機関誌である Journal of Design History が定期刊行されるようになり、名実ともに、新しい学問としての「デザイン史学」が英国の地で誕生したのでした。
もっとも、この時期には、隣接する学問である美術史、博物館学、社会史などの領域にあっても、その刷新を求める声が上がります6。つまりこの時代は、広い範囲にわたって、旧い権威主義と狭い専門主義が支配する人文学や歴史学が崩壊し、実態に即して大衆化する時でもあったわけです7。こうして、多様なディシプリンが生まれ、そして複合され、普通の人びとが日常生活で体験する物質・視覚世界に刻み込まれたアイデンティティー、ナショナリティー、モダニティー、ジェンダー、コロニアリズム、グローバリズムといった事象を新たに読み解く道が、二一世紀に向けて開かれてゆくのでした。
それではこれよりのち、著作集9『デザイン史学再構築の現場』の第一部として、私は本稿におきまして、この間にあって英国にみられた、デザインにおける近代運動の崩壊(demise)と、それとほぼ時を同じくして発生した、デザインにおける新しい歴史学の誕生とにかかわる一連の過程につきまして、短く跡づけてみようと思います。
デザインにおけるモダニズムを極めて簡単に定義するならば、それは、一九世紀のオブジェクトのスタイルを支配していた原理に代わる、反歴史主義と機能主義に基づく普遍的で抽象的な形態のオブジェクトを機械的に生産するための、二〇世紀のはじめにヨーロッパ大陸において姿を現わした全く新しいデザインの原理であり思想であるということになるでしょう。そして、その原理とその原理に基づいたモダン・デザイン(Modern Design)こそが、正義と倫理に合致し、真実と美を表象するものであり、それをもって、国際的に受容されるにふさわしい理論とデザインであるとみなし、広く社会的に推進しようとした一連の活動が、デザインの近代運動ということになります。
述べましたように、モダニズムの原理とデザインは、決して英国国内のデザイナーや建築家たちの手によって生み出されたものではありませんでした。その発生の地は、ヨーロッパ大陸にありました。一九世紀末から二〇世紀のはじめにあって、たとえばドイツ工作連盟(Deutsche Werkbund)の活動にみられるような、モダニズムにとっての種子となるものがすでに存在していました。しかし、それが具体的な内容と様式とを伴って開花するのは、第一次世界大戦の終結後のことになります。ここに、大戦後に生きる人びとの社会と生活にとっての新しい秩序を見据える、前衛の美術家、建築家、デザイナーの一群が声を上げ、視覚世界と物質世界にかかわる革命的な文法を作成し、それに則った実践を開始するのでした。
オランダでは、一九一七年から三二年まで発刊された『デ・ステイル(De Stijl)』という雑誌に集まるデザイナーや建築家たちが、主としてその中心的役割を担いました。フランスにおいても、その動きの主たる顔となるものは雑誌でした。一九二〇年から二五年にかけて刊行された『新しい精神(L’ Esprit Nouveau)』を頂点とする刊行物が、その運動を先導しました。一方ドイツでは、一九一九年から三三年までの一四年のあいだ開校された「バウハウス(Bauhaus)」という名称の建築・デザイン学校が、その運動の核となってモダニズムを用意しました。また、ソヴィエトも、構成主義(Constructivism)と絶対主義(Suprematism)の名のもとに、その運動の一端を担いました。
こうした前衛的な運動に参加した先駆者たち(pioneers)のさまざまな動きは、イデオロギー的な緊張が主たる要因となって、一九三〇年代をもって終息へと向かってゆきます。そこで、この時期の活動を指して、「先駆的近代運動」と呼び、その後に続く地球規模での広範な活動を「国際的近代運動」と呼ぶこともあります。その分水嶺となるひとつの出来事を、一九三二年にニューヨーク近代美術館で開かれた「国際様式(The International Style)」展に求めることができます。そうした視点に立つならば、ヨーロッパ大陸の「先駆的近代運動」に倣い、それを英国に移入しようとしたのが、「新しい目的をもった新しい団体」を標榜したデザイン・産業協会(Design and Industries Association=DIA)であり、世界中に読者をもつ雑誌『デザイン(Design)』を発行して「国際的近代運動」の先頭に立ったのが、英国のインダストリアル・デザイン協議会(Council of Industrial Design=COID)であったといえるにちがいありません。
英国におけるデザインの近代運動を概観しますと、上で触れましたように、明らかに、連続するふたつの段階が存在することがわかります。第一段階は、第一次世界大戦のさなかの一九一五年に、一九世紀から巣立とうとする新しい展望のもとに、デザイナーや教師、そして製造業者らによって結成されたデザイン・産業協会による活動の時期です。彼らは、前世紀の物質・視覚世界を、島国的な伝統主義と醜悪な商業主義に彩られた無秩序なものとみなし、その継承を拒否する姿勢を示しました。設立に当たって彼らが手本にしたのは、ドイツ工作連盟の活動でした。一方、設立に際して彼らは、「新しい目的をもった新しい団体」という標語を使って自らを言い表わしました。これは、A・W・N・ピユージンが示したゴシック・リヴァイヴァル(Gothic Revival)の中世精神から解放され、そして、ウィリアム・モリスが示したアーツ・アンド・クラフツ(Arts and Crafts)の産業拒否の態度から巣立ち、この世紀にふさわしい産業と、それが生み出す新しいデザインを模索しようとする意志を暗に示すものでした。しかしながら、掲げられた理念どおりに、順調に産業とデザインの刷新が進んだわけではありません。といいますのも、たとえば、一九二六年版の英国の美術雑誌『装飾美術――ザ・ステューディオ年報』を見ますと、「今日の家具と銀製品」と題された評論文があり、そのなかに、デザインの近代運動にかかわる、次のような一文を読むことができるからです。
確かにうまくつくられてはいるが、古い家具の模倣では、ほとんど本質的な価値を備えているとはいえない。…… すでに変化の兆しがある。国中が、偽造された家具や骨抜きにされた過去の作品の模倣であふれかえっている。しかし、そうしたやり方に対して、知的な人びとのあいだでは、嫌悪感のようなものが確かに生まれつつあり、何か動きが始動するのに、そう時間はかからないかもしれない。もし変化が起きるとするならば、そのときの新しい流儀は、ヴィクトリア時代の家具を模すようなかたちをとることはないであろう、といったことが期待されているのである8。
このように、英国の一九二〇年代は、ヨーロッパ大陸の動きから大きく遅れを取った、沈滞の時代だったのです。何がそうさせていたのでしょうか。
その四四年前の一八八二年に、芸術労働者ギルド(Art Workers’ Guild)の創設者のひとりであるルイス・F・デイは、『日常の芸術――純粋にあらぬ芸術に関しての短篇評論集』を刊行し、そのなかで、装飾について次のように論述していました。
装飾を愛することは、救世主御降世以来のこの年に固有の特徴ではない。装飾は人類の最初の段階にまでさかのぼる。もし装飾をその起源に至るまで跡づけようとするならば、私たちは自らの姿をエデンの園のなかに――あるいは猿の領地のなかに見出すことであろう。今日においても、装飾は、私たちのなかにあって無限の力を有している。したがって私たちは、装飾をもたない「来るべき人類」を心に描くことはほとんどできないのである9。
一九二〇年代の英国のデザイン改革者たちの多くは、ルイス・F・デイのこの言説の範囲のなかにあって、「装飾をもたない『来るべき人』を心に描くことはほとんどできない」人たちだったのです。一方、ウィリアム・モリスも、その二年前の一八八〇年にバーミンガムで「生活の美」について講演し、次のような名句を述べていました。
……つくり手と使い手にとっての( ・・・・・・・・・・・・・ ) 喜びとして( ・・・・・ ) 民衆によって( ・・・・・・ ) 民衆のために( ・・・・・・ ) 製作された( ・・・・・ ) 芸術がかつては存在していたことを、文明化した全世界が忘れ去ってしまった10。
「文明化した全世界が忘れ去ってしまった」ものとは、明らかにもとをただせば、アダムとイヴの時代を象徴する「労働と芸術」の形式でした。人間の適切な労働の所産が、芸術という表現です。つまりモリスによれば、労働と芸術は、事実上表裏一体の関係にあったのです。
こうしたヴィクトリア時代の後半に展開されたアーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)の思想と実践が、いまだ二〇世紀のはじめにあっても影を落とし、英国における近代運動の遅延の原因となっていたのでした。
かかる沈滞を解消し、英国の近代運動に明快な指針を提供するうえで、極めて重要な役割を演じたのが、一九三四年に刊行されたハーバート・リードの『芸術と産業――インダストリアル・デザインの諸原理(Art and Industry: The Principles of Industrial Design)』でした。そのなかでリードは、モリスとその追従者たちについて、こうも決然と断罪したのです。
今日われわれがモリスの名前と業績を思い浮べるとき、そこに非現実感がまつわりつく。こうした非現実感は、彼が設定したそのような目標が間違っていたことに起因しているのである。…… 私は、……今日にあってはモリスも、機械の不可避性を甘受するであろうと信じているのであるが、ところが、失われた主義主張を取りもどすための戦いを起こそうとしている昔からの彼の弟子たちが、いまだに見受けられるのである11。
そして同書においてリードは、バウハウスの初代校長を務めたヴァルタ-・グロピウスがその年に DIA に対して行なった講演の原稿を詳しく引用し、その引用のあとに続けて、以下のように、付言します。
ここに述べられているグロピウス博士の理想を支持し、広めること、ただそれだけが本書における私の切望するところです12。
それではそのとき、DIA の会員たちに対してグロピウスは、何を語っていたのでしょうか。彼は次のように、バウハウスにおける実践と手工芸の将来像について言及していました。
バウハウスは、造形のために不可欠な近代的媒体物として機械を受け入れ、機械との協調の道を探求しました。バウハウスの諸工房は真の意味で実験室であり、そのなかで、今日的な品物を対象とした実際的なデザインが、大量生産のモデルとして入念に練り上げられ、絶え間なく改良されていきました。 ……いまや手工芸は、その伝統的な本質を変えつつあります。将来にあっては、手工芸の受け持つ分野は、工業生産のための研究的な仕事と……実験室=工房での思索的な実験とのなかに存在することになるでしょう13。
アーツ・アンド・クラフツの世界のなかにあって育ってきた人たちにとっては、このグロピウスの見解は、天と地が逆転するほどの衝撃であったにちがいありません。しかし、これを受け入れない限り、英国の未来は保障されえないかもしれないのです。リードのこの『芸術と産業――インダストリアル・デザインの諸原理』は、いまだ沈滞のなかにあえぐ、英国における近代運動に、この時期の最も価値ある福音書となって刺激を与えたのでした。しかしそれでも英国は、モダニズムの聖地とも呼ばれていた建築・デザインの学校であるバウハウスがナチスの弾圧によって閉校を余儀なくされ、英国に亡命にしてきたヴィクター・グロピウスに対して、残念ながら、適切な職も地位も与えることはできませんでした。その後彼は、アメリカ合衆国に渡ります。
リードの『芸術と産業――インダストリアル・デザインの諸原理』が出版された二年後の一九三六年に、ニコラウス・ペヴスナーの『近代運動の先駆者たち――ウィリアム・モリスからヴァルター・グロピウスまで(Pioneers of Modern Movement from William Morris to Walter Gropius)』が世に出ました。この本は、そののち多くの言語に訳され、世界的に強い影響力をもった書物となってゆきます。著者のペヴスナーは、一九〇二年にドイツに生まれ、一九三三年に英国に渡ってきた、美術と建築とデザインの歴史研究を専門にする学究でした。グロピウスと違って、幸いにも彼は、この地にあってうまく職を得ることができ、晩年に至るまで永住することになります。
『近代運動の先駆者たち――ウィリアム・モリスからヴァルター・グロピウスまで』のなかで、著者のペヴスナーは、こう書きました。
……モリスからグロピウスに至る段階は、歴史的にみてひとつの単位なのである。モリスが近代様式の基礎を築き、グロピウスによってその性格が最終的に決定されたのであった14。
このようにペヴスナーは、モダニズムのデザインの成立過程に関する歴史的系譜を明確にし、モリスに「近代運動の先駆者」としての地位を与えたのです。しかしながら、モリスの社会的倫理観は共有しながらも、手から機械への進歩、そして装飾から機能への転換を標榜する近代運動に全面的に信頼を寄せる、たとえばハーバート・リードのような評論家や、ミッシャ・ブラックのようなインダストリ・デザイナーには、モリスをもって「近代運動の先駆者」とするこの言説には違和感が生じたにちがいありません。その一方で、近代運動の崩壊以降にあって、環境の保全を唱える、たとえばグリーン・デザイン運動に近い立場に立つ人たちが、モリスを再び歴史の表舞台に引っ張り出そうとするのですが、それは、モリスが「近代運動の先駆者」であったという理由からではなく、反産業主義者であったことに、その価値を見出したからにほかなりません。とはいえ、モリスの思想と実践の歴史的位置づけについての論議は、ここでは横に置くとして、これ以降も、ペヴスナーの著作の出版は続き、多くの研究者に受け入れられてゆきます。しかし、一連の著作にみられる、ペヴスナーの進歩主義的な歴史観と美術史的な作家主義の記述スタイルが批判に晒されるのも、一九七〇年代に近代運動が崩壊し、デザイン史学が新たに誕生することとは、全く無関係というわけではなかったのでした。
それでは次に、英国における近代運動の第二段階について書き記します。第二段階の中心となる組織は、第二次世界大戦のさなかの一九四四年に、戦後の英国の産業と国民生活の復興を目指して、政府によって創設されたインダストリアル・デザイン協議会でした。第一段階が、DIA に属する個々人のデザイナーによる運動であったのに対して、第二段階は、国策としてのデザイン運動でした。彼らが主張するものは、「グッド・デザイン」でした。それは、「つくりやすく、使いやすく、目に受け入れやすい(easy to make, easy to use, easy to look at)」製品のデザインを意味しました。それを広く伝えるための雑誌『デザイン』が創刊されるのは一九四九年で、これをもって、一躍デザインの発信源としてロンドンが世界から注目されるようになります。インダストリアル・デザイン協議会の名称は一九七二年まで続き、この年に「デザイン・カウンシル(Design Council)」に改称します。
インダストリアル・デザイン協議会の発足に至るまでのあいだにあって、頭角を現わしていたふたりのデザイナーがいました。ひとりはゴードン・ラッセルで、もうひとりはミッシャ・ブラックです。一八九二年生まれのラッセルは、若いころの一時期チピング・キャムデンの C・R・アシュビーの手工芸ギルド・学校(Guild and School of Handicraft)に籍を置いたことのあるアーツ・アンド・クラフツの伝統のなかで育った家具デザイナーでした。しかし、第一次大戦時に軍務に服したあとDIAの活動に加わり、一九二五年のパリ博覧会での受賞をきっかけに、徐々に彼は、ブロードウェイにある自身の工房に機械を導入するようになり、一九三五年にショールームをロンドンに開設するに当たっては、テクスタイルとガラス器の買い付け担当者にニコラウス・ペヴスナーを任命します。こうして彼の関心は、機械によって大量に生産されるモダン・デザインへと向かうようになるのです。一九四二年に貿易省が設置した「実用家具委員会(Utility Furniture Committee)」の委員に就任したラッセルは、これ以降、国家のデザイン政策の中枢にあって活躍し、英国産業が生み出す製品のデザインを改善することを目的に、一九四四年に、インダストリアル・デザイン協議会が開設されると、一九四七年に二代目の会長に就任し、一九六〇年にポール・ライリーが引き継ぐまで、その重責を担いました。
一方、一九一〇年にアゼルバイジャンのバクーで生まれたミッシャ・ブラックは、二年後の一九一二年にロシア人の両親に連れられ英国に渡ります。中央美術・工芸学校(Central School of Arts and Crafts)の夜間課程以外はほとんど正規の教育を受けないまま、一九三八年のグラスゴウ帝国博覧会の展示デザインで頭角を現わします。ブラックは、一九四五年に、グラフィック・デザイナーのミルナー・グレイらとともに、「デザイン・リサーチ・ユニット(Design Research Unit)」を創設すると、初代理事長にハーバート・リードが就き、このデザイン事務所は、英国のモダン・デザインの優れた発信地として、それ以降、脚光を浴びてゆくことになります。
一九四六年に COID が主催する「英国はそれができる(Britain Can Make It)」展がヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開かれたおりには、彼は、「エッグ・カップの誕生」のディスプレイを担当し、機能から生み出されてゆくエッグ・カップのデザイン過程を、大衆に向けて例証しました。続いて、同じく COID が主導した、英国の復興期を象徴する博覧会である「英国祭(Festival of Britain)」において、南岸博覧会の上流地区担当の協同建築家として腕を振るいました。英国祭は一九五一年に開催され、一八五一年にハイドパークで開かれた「新しい英国」を象徴する「万国産業製品大博覧会(Great Exhibition of the Works of Industry of All Nations)」(通称大博覧会)を一〇〇年後に引き継ぐものでした。そしてブラックは、一九五五-六四年に COID の評議員を、さらに、一九五九-七五年には、王立美術大学(Royal College of Art=RCA)のインダストリアル・デザイン学科の教授を歴任します。
それでは、この間にあって発せられたハーバート・リードとミッシャ・ブラックの、ふたつの言説を紹介します。リードは、一九五五年に刊行された自著の『イコンとイデア(Icon and Idea)』のなかで、新たな社会における芸術家像をインダストリアル・デザイナーに投影し、その姿を、こう描きました。
未来の芸術家は、画家や彫刻家や建築家ではなく、画家と彫刻家と建築家をひとつにした造形形態の新たな形成者なのである。――このこと自体、これらすべての才能の不義なる混合ではなく、そのすべてを包摂するとともに、そのすべてに取って代わる一種の新たな才能なのである15。
一方ブラックは、自身がインダストリアル・デザイナーになった経緯を、このように披歴しました。
あの当時[一九三〇年代]は、「グッド・デザイン」はひとつの倫理的な改革運動であった。友人たちや私は、装飾を悪として断罪したアドルフ・ロースを正しいと思い、バウハウスをすべての真理を放射するヴァティカンのごときものと信じ、さらには、よいデザインが私たちの環境を変え、そうすることによって人間を変えることができるものと考えていた。……このような信念の強さが、画家をデザイナーに、彫刻家を自動車のモデラーに、そして私をインダストリアル・デザイナーに変えたのである16。
このブラックの言説は、王立美術大学の紀要『箱舟(Ark)』のなかで述べられたもので、執筆は、一九七一年です。戦後のおよそ二〇年間は、英国にあっては、こうした近代精神に基づく「グッド・デザイン」の啓蒙と実践の期間であったといえます。そこには、本格的な近代生活の構築へ向けての質的転換が、産業と芸術と社会倫理との統合的視点からもくろまれていました。しかし、そうしたモダニズムの理念と、それに根拠を置くモダン・デザインの表現に対して、一九六〇年代から七〇年代へと至るなか、厳しい批判の目が向けられるようになります。その担い手は、戦後生まれの若い学生やデザイナーたちでした。かくして近代運動は、余儀なく、崩壊への道をたどることになるのです。
一九四六年、芸術家や批評家の討論の場として現代美術研究所(Institute of Contemporary Arts=ICA)が設立されました。創設者のひとりであるハーバート・リードは、自著の『近代美術の哲学』の「序文」において、次のような見解を示します。執筆したのは、一九五一年の一月です。
美術には、旧石器時代の洞窟絵画から最近の構成主義の出現に至るまで、いかなる階梯も存在しない。私には、美術の階梯が、人類の美的活動における生物学的で目的論的な意味を例証するものであるとは思えない17。
リードの基礎となる哲学は、美は、時空を超えた永遠のものであるという点にありました。この、美にかかわる論理は、一九五〇年代のはじめに現代美術研究所に集まってきた若い人たちにとっては受け入れがたいものであり、そこで彼らは、一九五二年にインディペンデント・グループ(Independent Group=IG)を結成し、独自の活動をはじめます。いまだこの時点において、ICA の主要メンバーは、左翼陣営のなかにあってモダニズムを信奉していました。しかし、IG の人たちは、戦後の英国社会には、もはやそれはふさわしくなく、国際主義的なイデオロギーを脱して、新たな自国文化の構築へ向かうべきであるとの主張を展開しました。一九五一年の「英国祭」がその転換を象徴する出来事でした。IG は、公式的には一九五五年に幕を閉じますが、翌年の五六年に、ロンドンのホワイトチャペル・ギャラリーにおいて「これが明日だ(This is Tomorrow)」展を開催し、すでに伝説として語り継がれているように、これが、英国のポップ・アートとポップ・デザインに着火する導火線の役割を担うことになるのでした。
一方、一九五〇年代のはじめ、IG のメンバーであったレイナー・バナムは、博士論文を書いていました。彼の指導教員が、『近代運動の先駆者たち』の著者であるニコラウス・ペヴスナーでした。モダニズムに対してどのような態度を取るのか、厳しい状況下での執筆であったにちがいありません。その後バナムは、この論文を『第一機械時代の理論とデザイン(Theory and Design in the First Machine Age)』として、一九六〇年に上梓します。これは、「第一機械時代」における近代運動に取って代わる「第二機械時代」における新しい運動を予言するものでもあり、若い研究者たちに強い影響を与えます。
戦後に生まれた、いわゆる「団塊の世代」が成長し、大学に入学するのが、一九六〇年代の後半です。彼らの多くは、自由を愛し、親や教師や国家が決めた規範に強く反抗しました。その姿勢は、デザインの実技やデザインの歴史を学ぶ学生にとっては、反モダニズムという思想となって発芽しました。そうした学生のなかに、戦後の一九四八年に生まれ、デザイン史家を志すペニー・スパークがいました。その彼女が、学位請求論文「ポップ時代の理論とデザイン(‘Theory and Design in the Pop Age’)」をブライトン・ポリテクニック(現在のブライトン大学)に提出し、学術博士(PhD)を取得するのが、一九七五年のことでした。「第一機械時代の理論とデザイン」(一九六〇年)から「ポップ時代の理論とデザイン」(一九七五年)に至る期間、英国では、モダニズムからポップ、そしてポスト・モダニズムへと、デザインを取り巻く価値に、大きな変化が生じていたのです。
一九六〇年代のロンドンは、「勝手気ままなロンドン(Swinging London)」という語句で言い表わされたように、世界へ向けてのユース・カルチャー(Youth Culture)の発信地になりました。それまでアメリカに依存していたポップ・ミュージックは、英国の都市文化のなかに居場所を見出しました。たとえば、リバプールからビートルズが出現し、ロンドンを本拠地とするローリング・ストンズも、若者のこころをとらえました。それは、ファッション雑誌へも侵入し、ツイッギーやジーン・シュリンプトンのような、若い「お子様」モデルが、もてはやされました。デザインの分野では、一九五五年にメアリー・クウォントがキングス・ロードに店舗を構え、一九五七年にはジョン・スティーヴンがカーナビー・ストリートに一号店を出し、このふたつの通りの名は、まさにポップ・デザインの代名詞となりました。若者にとって、権威や体制が説くモダニズムは抑圧と疎外の元凶となっていました。明らかに六〇年代は、英国における「近代運動の死」を告知する、若者による新しい文化の草創期だったのです。
それでは、この時期のアメリカとイタリアの状況は、どうだったのでしょうか。
一九六六年、アメリカの建築家、ロバート・ヴェンチューリの著作『建築の多様性と対立性(Complexity and Contradiction in Architecture)』が、ニューヨーク近代美術館から出版されました。この本は、そののちモダニズムの美学上の欠点について論じるうえで重要な初期の貢献をなすことになります。
同じく一九六六年、イタリアでは、オリヴェッティ社のタイプライター《プラクシス四八》においてすでに象徴的機能を発展させていたエットーレ・ソットサスが、ポルトロノーヴァ社のために一連の異端的な家具をデザインします。表面にはプラスティック・ラミネイトが用いられ、明るい色彩のストライプが施されていました。一方、ソットサスの影響のもとに、アンドレア・ブランジやアドルフォ・ナタリーニといったアヴァン=ギャルドの建築家=デザイナーたちが、アルキズームとスーパースタジオをフィレンツェで結成したのも、一九六六年のことでした。こうして、ラディカル・デザインないしは反デザイン(あるいはラディカル反合理主義デザイン)としてのちに知られるようになるデザイン運動が、その幕を開けたのでした。
続く一九七六年にポスト・ラディカリズム(あるいはポスト・アヴァン=ギャルド)としてミラノで生まれたスタジオ・アルキミア、そして、さらに商業化された八〇年代のメンフィスの実践は、エットーレ・ソットサスを中心としながらも、アンドレア・ブランジやミケーレ・デ・ルッキといったイタリアのデザイナーだけではなく、アメリカからはマイクル・グレイヴズ、オーストリアからはハンス・ホライン、日本からは磯崎新や梅田正徳、倉俣史朗などが加わった、多国籍的なグループ実践であり、反デザインが用意した原初的文法を改編しながら、ニュー・デザイン(あるいはポスト・モダニズム)という普遍的文法(あるいは商業的文法)へと一般化してゆくことになります。
聖なるものへの拒絶、束縛からの解放、権威や体制への不服従といった反デザインの政治的文化的拒否の態度は、ユース・カルチャーやポップ・カルチャーと連動しながら、意図的に、バッド・テイストやキッチュ、折衷主義やノスタルジア、アイロニーやウィットといった表現領域の可能性を開拓し、デザインにおける近代運動とその視覚的偶像である「グッド・デザイン」に戦いを挑んだのでした。
こうした動きのなかにあって、一九七七年に、アメリカの建築史家のチャールズ・ジェンクスが、『ポスト・モダニズムの建築言語(The Language of Post-Modern Architecture)』を出版します。この書題が、「ポスト・モダニズム」という用語のひとつの起源として、今日ではみなされるようになります。それ以降この用語は、進行する多元主義社会におけるデザインの多様性を分析する際の、使いやすいキー・ワードとなってゆくのでした。 英国における六〇年代は、音楽、ファッション、デザインといった表現世界に若者が参入し、新たな文化的風景が生み出される一方で、学術世界にあっても、これまでの担い手とは異なる階層に属する人びとの参入も見られ、文化学(Cultural Studies)や社会史(Social History)といった新しい学問領域がつくり出された時代でした。
振り返って、一九世紀の英国にあっては、文化(culture)は、偉大な文学作品や哲学、古典的な音楽、そして、絵画や彫刻などの恒久の美術作品を指し示していました。そのため、教養のない大衆である労働者たちの文化は「無秩序」であり、彼らは「文化」を理解することができず、彼らから「文化」を守らなければならないという考えが一般に支配していました。
一方、第一次世界大戦が終結するや、アメリカの大衆文化が英国を席巻します。また、演劇や映画などの大衆娯楽も台頭します。これに対して、保守主義やエリート主義に立つ人たちからは、「大衆文化」は「反英国的で俗悪なよそ者文化」とみなされ、「高級文化」を食い尽くそうとする侵入者として非難されるのでした。その際、その防波堤として「教育」が重視されました。
ところが、第二次世界大戦が終わり、国家による福祉政策や成人教育が普及するに従い、労働者階級による自らの階級文化への関心が高まってゆくのです。こうして、伝統的な大学制度の周縁から、大衆雑誌や映画、ジャズやブルース、スポーツなどの大衆文化についての研究が胎動します。その担い手となったレイモンド・ウィリアムズ18やリチャード・ホガート19自身も労働者階級の出身者で、成人教育に携わるなかから文化分析の視座を形成します。たとえば、その視座には、伝統的マルクス主義の二分法(下部構造と上部構造)からの脱却や、「大衆文化」と「高級文化」の明確な対立項目の設定などが含まれていました。こうして、経済に規定された二次的現象としての「文化」が解き放され、あわせて、「高級文化」の陰に隠されていた「大衆文化」が救済され、「文化」研究の前提が用意されたのでした。
そうしたなか、一九六八年には、抑圧的装置として機能していた既存の権威や権力、制度や体制の粉砕を主張する学生らによる大学紛争が全国的に激化します。それを可能にしたのは、主として、戦後のおよそ二〇年間にあって、可処分所得の増進による若者の購買力が増加する一方で、大衆高等教育の普及による若者の政治的関心が増大したことによるものでした。ここに、ミニドレス、ビートルズ、ポップ・アートとポップ・デザイン、サイケデリック、反戦、ドラッグ、ヒッピーといった反体制文化が形成され、「エリート的文化」と「大衆的文化」、「支配的文化」と「従属的文化」の激しい対立が出現するのでした。
その四年前の一九六四年、リチャード・ホガートを初代所長として、バーミンガム大学に現代文化研究センター(Centre for Contemporary Cultural Studies = CCCS)が設置されます。ここに至って、道徳主義的な価値判断や教養主義的なテクスト分析と訣別し、大衆文化に内在する政治的、社会的設問に答えを出すための、ひとつの大きな学術拠点が用意されたのでした。その後、外来の言語学、記号論、構造主義といった分析ツールを援用しつつ、六九年から七九年までの一〇年間、スチュアート・ホール20が所長を務め、「文化学(Cultural Studies)」の本格的な展開へと進んでゆきます21。
「文化学(カルチュラル・スタディーズ)」の功績は、ひとつには、これまで無視ないしは否定されていた大衆文化ないしは労働者文化を研究の俎上に載せたことであり、もうひとつには、「作り手(作家、製作者、生産者など)」の分析から、これまで関心が向けられることのなかった「使い手(鑑賞者、消費者、生活者など)」の分析へと研究の視点を移行させたことであり、いまひとつには、文学以外の文化的表現形式、たとえば大衆音楽やテレビ番組、あるいはデザインなどをひとつのテクストとみなし、それ「読む」うえでの独自の解釈手法を開拓したことにありました。このことは、この時期、新しい「デザイン史学」が生まれ出ようとするに当たっての、大きな追い風となったのでした。
それでは、その「デザイン史学」が、どう誕生していくのかを、以下に跡付けてみます。
一九五九年一月、英国政府は、ウィリアム・コウルドストリームを議長とする、美術教育国家諮問協議会(National Advisory Council on Art Education)を設置します。この協議会の審議目的は、従来の「デザイン国家ディプロマ(National Diploma in Design=NDD)」に代わる、もっと基準の高い新しい「美術・デザイン・ディプロマ(Diploma in Art and Design=DipAD)」を設けることにありました。一九六一年に、コウルドストリーム協議会の第一回報告書が提出され、美術とデザインの高等教育にかかわる新しい課程基準が示されました。それによると、新しい課程は、一年間の前ディプロマ課程と、それに続く三年間のディプロマ課程(学生は、純粋美術、グラフィック・デザイン、立体デザイン、テクスタイル/ファッションの四つの領域からひとつを選択)によって構成され、あわせて、課程全体を通じて「美術史」を学ぶことが義務づけられていました。しかも、「美術史」と補足的学術科目でもって、課程全体の一五%を占めることとされ、ディプロマ取得のための試験にあっては「美術史」も必須の科目とされたのでした。
同じこの年(一九六一年)、政府は、ジョン・サマースンを議長とする、美術・デザイン・ディプロマ国家協議会(National Council for Diploma in Art and Design)を設け、翌年(一九六二年)には、新しいディプロマ課程の申請が開始されました。サマースン協議会は、「美術史」を含む五領域にかかわってそれぞれに委員団を結成し、厳格な視察に当たりました。この時期、美術・デザインの学部をもつ全国のカレッジやポリテクニックは、国の認可が下りるかどうか、戦々恐々とした日々を過ごしました。とりわけ、設立から日の浅い地方のカレッジでは、認可されなかったところも多く、また、幾つかのカレッジでは「美術史」の開講の準備が整いませんでした。強引さが目立つ制度改革でしたが、それでも一九六三年から、認可された新しいディプロマ課程がスタートするのです。
しかし、新制度への不満は教員からだけではなく、「純粋美術」以外の「グラフィック・デザイン」「立体デザイン」「テクスタイル/ファッション」を専攻する学生からも噴き出しました。それは、自分の専門と直接かかわりのない「美術史」をなぜ学ばなければならないのか、そして、DipAD を取得するための必須科目に、どうして「美術史」が入っているのか、という疑問でした。なかでも、ホーンジー、ギルファッド、バーミンガムの学生たちの怒りは、大学や地方行政府を揺るがすほどの大きなうねりとなって、一九六八年にそのピークを迎えます。この年は、それぞれの要求は違えども、英国のみならず、フランス、アメリカ、日本などにおいても学園闘争が激化し、世界的に見て、反体制運動が高まった時代でした。
一方、教員たちのあいだに変化の兆しが見え始めました。それは、学生たちの要求を受け入れ、「グラフィック・デザイン」「立体デザイン」「テクスタイル/ファッション」を学ぶ学生には、「美術史」ではなく「デザイン史」を教えることが必要ではないかという新たな認識でした。こうして、美術史家からデザイン史家へと専門を替えようとする、学生の立場に近い、良心的で若い教員が出てきたのです。しかし、ここで問題になったのは、「デザイン史」とは何かという問いでした。すでに一九三〇年代に、ハーバート・リードは、『芸術と産業――インダストリアル・デザインの諸原理』を、また、ニコラウス・ペヴスナーは、『近代運動の先駆者たち――ウィリアム・モリスからヴァルター・グロピウスまで』を、世に出していました。しかし、いまやデザインの現実世界には、反体制的なポップ・デザインやバッド・デザインのみならず、ノスタルジアを呼び起こす過去の様式が出現するに至っており、そのため、もはやモダニストのイデオローグたちが使っていたデザインの言説を繰り返すわけにはゆかず、そこで、新興のデザイン史家には、デザインにかかわる新しい記述の様式が求められることになったのでした。
そののち、ペニー・スパークは一九八六年に、『二〇世紀のデザインと文化への招待(An Introduction to Design & Culture in the Twentieth Century)』を著わします。そのなかで彼女は、デザイン史の記述を巡ってのパラダイム・シフトが起きた背景を回顧するなかで、ニコラウス・ペヴスナー、ルイス・マンフォード、ハーバート・リード、ジークフリート・ギーディオンといった今世紀前半のデザイン史家やデザイン批評家たちの多くが共有していたイデオロギー上の前提に触れ、次のように要約することになります。
……彼らは皆、両大戦間期における近代運動のもつ機能主義的理想を支持し、「グッド・デザイン」は機械美学と同義語であるという神話を垂れ流すことに手を貸し、社会がそうした特定のデザイン運動とつながりをもつようになることの意義を無視し、その帰結として、デザインを日常的なというよりはむしろ英雄的な概念へと変えてしまったのである。こうした著述家によって確立された批評の伝統を塗り替えることはこれまで困難を要してきたし、彼らの見解に疑問が付されるようになったのは、近代運動への不満が高まっていった結果によるものであって、つい最近のことにすぎないのである22。
そしてまた、同じく一九八六年には、エイドリアン・フォーティーも、自著の『欲望のオブジェクト――デザインと社会 一七五〇年から一九八〇年まで(Objects of Desire: Design and Society 1750-1980)』において、このように述べるのでした。
たとえば、三〇年以上も前に改訂版として出版され、デザインに関して最も広く読まれた本のひとつである『モダン・デザインの先駆者たち』におけるニコラウス・ペヴスナーの主たる目的は、建築とデザインにおける近代運動の歴史的な系譜を明確にさせることであった。もっとも、彼の方法論は、単に個々のデザイナーの仕事と公表された声明文から製品を検証するだけで十分にデザインは理解されうるといった仮説に基づくものであった。しかし、建築家やデザイナーによってなされるしばしば不明瞭で冗長な声明文が、その人たちのデザインする建物や品物を完全にあるいは十分適切に物語っているとする理由はどこにもないように思われる23。
フォーティーの指摘にあるように、私たちを取り巻いている建物やオブジェクトは、決して著名な建築家やデザイナーによってのみつくり上げられるものではなく、その多くは、技術や経済や政治といったその時代のさまざまな社会的環境のもとに生み出される、実際には集団製作による無名性を、その特徴としています。そうであるとするならば、一個人としてのデザイナーの仕事や思想からのみそれらの成り立ちを説明することは、確かに不十分であるだけではなく不適切ということになります。つまり、個々人の業績を細い一本の糸でつなぎあわせるペヴスナー流儀の歴史記述に欠けていたものは、フォーティーにいわせれば、多様な社会的糸によって織りなされた広がりをもった面の堆積としてデザインの歴史を理解し検証する方法論だったのです。
すなわち、新しい「デザイン史学」が産声を上げるに際して、求められた方法論は、「美術史」に見受けられた方法論からの脱却であり、それに代わる、生産と消費という大きな社会的諸関係のなかにあって、デザインを、実態に即してさまざまな文脈に沿わせて語る、全く新たな記述の手法だったのでした。それは、経営史、経済史、技術史、社会史、美術史、人類学、あるいは考古学などの他の学問領域と重なり合う、多層的で協同的な研究の手法でした。そして、同時にそれは、まさしく同時代的に関心が向けられていた「文化」にかかわって、過去から今日に至るまで人類が形成してきたその歴史を明らかにしようとする研究視点だったのです。
しかし、一気に「デザイン史学」が姿を現わしたわけではありません。まず、一九七四年に美術史家協会(Association of Art Historians)が設立されます。そこから枝分かれするかたちで、一九七七年にデザイン史学会(Design History Society)が誕生します。それ以降、デザイン史学会は、年に四回発行するニューズレターで会員間の横の連絡を取り合い、ひとつのテーマをもって年に一度の研究大会を開催してゆきます。たとえば、一九七九年の第二回年次大会のテーマは、「デザインと工業――工業化と技術的変化がデザインに及ぼした影響」、第四回大会のテーマは、「デザイン史――過去、変遷、製品」でした。
一方、一九七八年に、美術史家協会の学会誌『美術史(Art History)』が創刊されます。しかし、デザイン史学会はいまだ学会誌をもたず、そこで、ジョナサン・ウッダムのようなデザイン史家も、『美術史』に投稿しました24。デザイン史学会が、自前の学術雑誌を創刊したのは一九八八年のことでした。この年、デザイン史学会のパトロンのひとりとして名を連ねていたレイナー・バナムが他界します。エイドリアン・フォーティーは、バナムとデザイン史学会との関係を次のように書き記します。
一九八八年三月一八日に亡くなったレイナー・バナム教授は、デザイン史学会のパトロンであり、彼がアメリカ合衆国に渡った一九七六年以前の学会創設期にあっては、積極的な支持者であった。……六〇年代および七〇年代のデザインに関する論文をとおして、デザイン史が公認された学問領域として存在していなかった当時、それが将来興味の尽きぬ価値ある学問分野になるかもしれないことを私たちの多くの者に確信させてくれたのが、彼だったのである25。
実際の論文指導のなかにあって、ニコラウス・ペヴスナーの学問を批判的に継承したのがレイナー・バナムでした。そして、バナムの学問的後継者が、エイドリアン・フォーティーだったのです。一九三六年のペヴスナーの『近代運動の先駆者たち――ウィリアム・モリスからヴァルター・グロピウスまで』、一九六〇年のバナムの『第一機械時代の理論とデザイン』、そして、一九八六年のフォーティーの『欲望のオブジェクト――デザインと社会 一七五〇年から一九八〇年まで』――この三つの著作の連鎖のなかに、英国に誕生した「デザイン史学」のひとつの学問的系譜が静かに横たわっていることを、誰しも疑うことはないでしょう。こうした学術的な歴史を経て、ここに英国において、新しい学問である「デザイン史学」が産み落とされたのでした。
ところで、私が、ブリティッシュ・カウンシルの「フェローシップ・グランツ」を受けて、半年間のデザイン史研究のために英国の地を踏んだのは、一九八七年一〇月二日のことでした。この第一部「英国におけるデザインの近代運動の崩壊とデザイン史学の誕生」で述べてきたことは、おおかた、このときの調査に基づいています。また、そのときの滞在期間中に私は、英国におけるデザイン史学誕生の経緯に関連して、ペニー・スパーク、ジリアン・ネイラー、それにジョン・ヘスケットの三人のデザイン史家へインタヴィューを試みました。次の第二部「デザインの歴史学の創生――三人の英国のデザイン史家に聞く」は、その内容をまとめたものになります。あわせてお読みいただければ、当時の臨場感が伝わってくるのではないかと思量します。
そこで、この「おわりに」においては、参考までに、この時期の、デザイン史学に隣接する、他の学問にかかわる刷新の様子を紹介しておきたいと思います。
モダニズムの失速とともに、美術史においても、見直しの動きが顕在化しました。一九八八年に刊行された『新しい美術史学(The New Art History)』には、こうした言葉が並びます。
新しい美術史学とは、きちんと決まった同じひとつの傾向を指すというよりも、ゆるやかで広い範囲を指していう呼び名である。美術に対する保守的な趣味が支配し、しかも、その趣味を研究のなかで正統化することで悪名高いこの学科に対して、フェミニズム、マルクス主義、構造主義、精神分析をはじめとする社会的政治的関心から批評を加えるものであれば、そのなかに含まれる26。
これは、様式史としての美術史から離れ、社会史としての美術史への展望を切り開くものであリ、同時に、伝統的な美術史に内在していた前提としてのイデオロギーを、暗黙の了解事項から研究に値する検討事項へと解き放すことを意味しました。かくして、特定の様式に属しない「美術」も、特定の国や地域に属しない「美術」も、特定の性や人種に属しない「美術」も、等しく研究の対象になりうるという視点が開かれただけでなく、それ以前の問題として、これまでそれらを「特定」するうえで支配的に作用してきた価値や観念さえも、論議の俎上に載せられるようになったのでした。
さらに、翌年の一九八九年には、『新しいミューゼオロジー(The New Museology)』が世に出ます。その本のなかで、編者のピーター・ヴァーゴウは、まず、この学問の歴史について、こう述べます。
いずれにせよミューゼオロジーは比較的新しい学問である。最初の博物館が創設され、研究に値する現象として博物館について誰かが考察して以来、いまだ長い時間がたっているわけではない。これまでに概説した広い意味でのミューゼオロジーが自立した研究分野として認められるようになったのは、さらに最近のことなのである27。
そしてその編者は、「新しいミューゼオロジー」に関して、次にみられるような定義を与え、そうしたミューゼオロジーの今日的必要性を説きます。
「新しい」ミューゼオロジーを最も単純化したレヴェルで定義すれば、「旧い」ミューゼオロジーに対する、ミュージアムの内外双方に広く見受けられる専門上の不満状況、といえるであろう。……社会に存するミュージアムの役割についての徹底的な再吟味が行なわれなければ、おそらくほかの国でもそうであろうが、この国のミュージアムも同じく、爵位が授けられた「生きた旧制度」として自らを思い知ることになるだろう28。
ここで述べられている定義は、『新しい美術史学』のなかでの指摘と同様に、その学問にこれまで秩序を与えてきた従来の「旧い」観念に対する強い意義申し立てとして理解することができます。そして、批判の対象となっている事柄を、本文に即して整理すれば、ひとつは、歴史的な秘宝や名作の貯蔵庫としての役割、もうひとつは、教養主義や権威主義に基づく展示手法、いまひとつは、「より多額の資金とより多数の来館者数といった基準に換算して単純に測定される『成功度』」29ということになります。
デザイン史学、美術史学、そして博物館学(ミューゼオロジー)の分野において、その刷新が求められるに当たって、共通する背景となっていた考えが、同じく、英国における七〇年代以降の社会史の隆盛に強く影響を与えていたことは、ここで指摘されてよいかもしれません。次の引用は、一九九三年に刊行された『社会史を再考する(Rethinking Social History)』のなかからの一節です。
イギリスの社会史研究は、およそこの四半世紀のあいだに歴史学のひとつの大きな分野として確立してきたものである。……イギリスの歴史学で用いられる場合「社会史」という用語は、異なるも関係しあう次の三つのアプローチを包含している。第一は、人びとの歴史。第二は、社会科学から導き出された概念を歴史的に適用することのなかに見出される、私が「社会=歴史のパラダイム」と呼ぶところのもの。そして第三が、「全体の歴史」ないしは「社会の歴史」と呼ばれている、全体化もしくは統合化の歴史への志向30。
それではここで、視線を英国から日本に移してみたいと思います。デザインと文化の相互関係のなかでデザインの歴史をとらえようとする視点は、英国のみならず日本の研究者のあいだからも指摘されていました。たとえば、一九八三年という早い時期に、「工業デザイン全集」の第一巻『理論と歴史』のなかで阿部公正は、デザイン史の記述のあり方について言及し、次のように述べているのです。
工業製品が人間の日常生活に影響を及ぼすようになってからすでに一世紀以上経っているにもかかわらず、今日われわれは、工業デザイン史について、それをすでに確立されたものとして語ることはできない。それは、美術史に準じた形の様式史でないことはもちろん、単なる製品発達史でもなければ、技術史でもなく、また本当はデザイン運動史でもないはずだからである。工業デザイン史は、工業製品を対象としながら、その生産と消費をめぐる諸関係より生ずる生活様式についての、ひとつの文化史でなければならないだろう31。
ここで述べられているデザイン史観は、表明された時期が英国のデザイン史家たちによる同種の認識への到達時期とほぼ同じという意味で、まさしく卓見に属するものといえましょう。しかしながら、実際にこの『理論と歴史』を読むと、デザインの歴史に関しては、「デザイン思想史の概略」と「戦後のデザイン振興策」についてしか扱われておらず、「工業製品を対象としながら、その生産と消費をめぐる諸関係より生ずる生活様式についての、ひとつの文化史」としてのデザインの歴史のレヴェルにまでは到達していないことがわかります。求められる理念と記述の実際とのあいだに隔たりがあるのは否めません。 それから六年後、日本デザイン学会は、一九八九年の『デザイン学研究』第七二号におきまして、特集「デザイン史研究の現況」を組みました。その「序――デザイン史の確立へ」を著した阿部公正は、次のように指摘します。
いうまでもなく、デザイン史について語る場合、N. Pevsner、S. Giedion、H. Read らの業績を見落とすわけにはいかない。これらの先覚者たちの業績は、いわば近代の古典というべきものであって、それらを軽視したり、それらの乗り越えについて語ったりすることは、正当ではない。だが、それらに共通して認められるデザイン観は、今日では明らかに検討の対象とされなければならない。……最近の諸研究においては、デザイン把握のさいの重心が、芸術から社会的、経済的、技術的局面へと移動する。イギリスの P. Sparke が、20世紀のデザインの動向を「デザインと文化」という視点で考察し、趣味の問題から生活様式とデザインの関係までもとり上げたのは、今日のデザイン史研究の動向を示すひとつの例である(P. Sparke, An Introduction to Design & Culture in the Twentieth Century, 1986)32。
以上が、日本におけるこの時期の「デザイン史研究の現況」でした。
果たして「デザイン史研究」とは、どのような性格のものなのでしょうか。このことに気づいたひとりの人物が、すでに一九世紀の英国にいました。詩人でデザイナーで社会主義者のウィリアム・モリスです。彼は、一八七七年の一二月に「装飾芸術」(のちに「小芸術」に改題)と題して講演を行ないました。この講演のなかでのモリスの関心は、一部のお金持ちの所有欲を満たす形式へと堕落した絵画や彫刻といった大芸術ではなく、分割された一方の小芸術の方にありました。このときモリスは、小芸術を、「すべての時代にあって人間が、日常生活上の見慣れた事柄を多少とも美しくしようと努力してきたことに依拠する一大芸術であり、つまりはそれは、広範な主題であり、大規模な産業である」33とみなし、この芸術を論じることは、「世界の歴史の大部分を論じることになるだけではなく、同時に、世界史研究にとっての極めて有益な手段となりうる」34という認識を示します。そして、小芸術を別の具体的な言葉に置き換えて、モリスはこういいます。「実際、この大規模産業は、住宅建設、塗装、建具と木工、鍛冶、製陶とガラス製造、織物のみならず、さらにそれ以外の多くの職種から構成された、大きなひとまとまりの芸術であり、一般大衆にとって極めて重要であるだけでなく、私たち手工芸家にとっては、さらになお重要なものになっています」35。モリスの考えるところによれば、世界の歴史は装飾の歴史と同義だったのです。
私たち人類が、過去から現在までどのように生きてきたのかを例証するうえで、確かな手立てとなるのは、モリスがいうとおり、「住宅建設、塗装、建具と木工、鍛冶、製陶とガラス製造、織物のみならず、さらにそれ以外の多くの職種から構成された、大きなひとまとまりの芸術」の生産と消費に着目することではないでしょうか。そこに私たちの社会と生活と文化が、間違いなく横たわっています。したがって、各時代の社会と生活と文化を読み解くためには、その時代にあって生産され消費されたオブジェクトに刻まれたイメージとテクノロジーを解析する必要に迫られます。これが、「デザイン史学」の学問としての実質ということになります。
いまデザイナーたちは、オブジェクトのデザインに何を刻もうとしているのでしょうか。おそらくそれには、二一世紀特有のナショナル・アイデンティティー、コーポレイト・アイデンティティー、モダニティー、ポスト・モダニティー、ユーティリティー、フェミニニティー、サステイナビリティーといった幾つかの表象の要素が含まれるでしょう。同時に、そこにあっては、一元的な価値の支配ではなく、多元的な価値の共存が一般的になっているにちがいありません。では、それはどのような生産の体制から生み出されているのでしょうか。大規模な資本主義経済体制のなかからでしょうか、それとも、小さな土着の手わざの仕事場からでしょうか。そして、その背景には、どのような思想や哲学が潜在しているのでしょうか。おそらく一〇〇年後、さらに二〇〇年後に活躍するデザイン史家は、こうした諸点に関心を寄せ、いまの私たちの「二一世紀のデザインと文化」を解読しようとするにちがいありません。私は、「デザイン史学」の未来を、ここに求めたいと思います。
(二〇二四年初夏)
(1)私がブリティッシュ・カウンシルのフェローとして英国の地で研究したのが一九八七-八八年で、文部省(現在の文部科学省)の長期在外研究員として渡英したのが一九九五-九六年でした。以下は、そのころまでに私が接することができた、英国における近代運動の歴史および理論についての主たる書目を出版順に並べたものです。いまや、どれもが古典的名著となっていますが、本稿が扱う「英国におけるデザインの近代運動の崩壊とデザイン史学の誕生」という文脈からすれば、とりわけ、ここに挙げるなかの、ハーバート・リード、ルイス・マンフォード、ニコラウス・ペヴスナー、ジークフリート・ギーディディオンの書物が、一九七〇年代の歴史の転換期にあって、新しいデザインの歴史学を唱える人びとから批判され、乗り越えられなければならない対象とみなされたものです。 ・Herbert Read, Art and Industry: The Principles of Industrial Design, Faber and Faber, London, 1934. ・Lewis Mumford, Technics and Civilization. Routledge and Kegan Paul, London, 1934. ・Nikolaus Pevsner, Pioneers of Modern Design from William Morris to Walter Gropius, The Museum of Modern Art, New York, 1949. (First published by Faber and Faber, London in 1936 as Pioneers of Modern Movement from William Morris to Walter Gropius.) ・Nikolaus Pevsner, An Enquiry into Industrial Art in England, Cambridge University Press, Cambridge. 1937. ・Siegfried Giedion, Space, Time and Architecture, Harvard University Press, Massachusetts, 1941. ・Siegfried Giedion, Mechanization Takes Command, A Contribution to Anonymous History, Oxford University Press, Oxford, 1948. ・Reyner Banham, Theory and Design in the First Machine Age, The Architectural Press, London, 1960. ・Nikolaus Pevsner, Studies in Art, Architecture and Design vol. 2: Victorian and After, Thames and Hudson, London, 1968. ・Nikolaus Pevsner, The Sources of Modern Architecture and Design, Thames and Hudson, London, 1968. ・Gordon Russell, Designer’s Trade: Autobiography of Gordon Russell, George Allen & Unwin, London, 1968. ・Gillian Naylor, The Bauhaus, Studio Vista, London, 1968. ・Gillian Naylor, The Arts and Crafts Movement: A study of its Sources, Ideals and Influence on Design Theory, Studio Vista, London, 1971. ・Noel Carrington, Industrial Design in Britain, George Allen & Unwin, London, 1976. ・Fiona MacCarthy, A History of British Design 1830-1970, George Allen & Unwin, London, 1979. (First published by George Allen & Unwin, London, in 1972 as All Things Bright and Beautiful: Design in Britain, 1830 to Today.) ・Avril Blake ed., The Black Papers on Design: Selected Writings of the Late Sir Misha Black, Pergamon Press, Oxford, 1983. ・Gillian Naylor, The Bauhaus Reassessed: Sources and Design Theory, The Herbert Press, London, 1985. ・Paul Reilly, An Eye on Design An Autobiography, Max Reinhardt, London, 1987. ・Richard Stewart, Design and British Industry, John Murray, London, 1987.
(2)近代運動およびその原理的思想であるモダニズムに対して批判的な立場から一九八〇年代および九〇年代に書かれた、デザインの歴史および理論についての主たる書目は、以下のとおりです。 ・John Heskett, Industrial Design, Thames and Hudson, London, 1980. ・Stephn Bayley, et al. Twentieth Century: Style & Design, Thames and Hudson, London, 1986. ・Adrian Forty, Objects of Desire: Design and Society 1750-1980, Thames and Hudson, London, 1986. ・Penny Sparke, An Introduction to Design and Culture in the Twentieth Century, Allen & Unwin, London, 1986. ・Penny Sparke, Design in Context, Bloomsbury, London, 1987. ・Jonathan M. Woodham, Twentieth-Century Design, Oxford University Press, Oxford, 1997.
(3)英国における美術・デザイン教育の歴史および理論についての主たる書目は、以下のとおりです。 ・Nikolaus Pevsner, Academies of Art Past and Present, Cambridge University Press, Cambridge, 1940. ・Stuart Macdonald, The History and Philosophy of Art Education, University of London Press, London, 1970. ・Christopher Frayling, The Royal College of Art: One Hundred & Fifty Years of Art & Design, Barrie & Jenkins, London, 1987.
(4)一九九二年の教育法の改正により、polytechnic は university に改称します。たとえば、デザイン史研究の分野で高い評価を得ていた Brighton Polytechnic は、University of Brighton に、このとき校名を変えました。
(5)美術史家協会(Association of Art Historians)の設立は一九七四年で、学会誌である Art History の刊行は、一九七八年にはじまります。現在は、すでに改名し、美術史協会(Association for Art History)として活動しています。学会誌 Art History の名称には変わりはありませんが、出版社は最近、ウィリー=ブラックウェル(Wiley-Blackwell)からオクスフォード大学出版局へ引き継がれました。
(6)英国において新しいデザイン史が、書物や学術雑誌となって登場してくる一九八〇年代には、隣接する学問である美術史、博物館学、社会史などの領域にあっても、その刷新を求める声が上がります。以下は、それに相当する主たる書目です。 ・Hans Belting, The End of the History of Art? , translated by Christopher S. Wood, University of Chicago Press, Chicago, 1987. ・A. L. Rees & F. Borzello eds., The New Art History, Humanities Press International, Atlantic Highlands, NJ, 1988. ・Susan M. Pearce ed., Museum Studies in Material Culture, Leicester University Press, Leicester and London, 1989. ・Peter Vergo ed., The New Museology, Reaktion Books, London, 1989. ・Adrian Wilson ed., Rethinking Social History: English Society 1570-1920 and Its Interpretation, Manchester University Press, Manchester and New York, 1993.
(7)旧い権威主義と狭い専門主義が支配する人文学や歴史学が崩壊し、実態に即して大衆化する過程にあって、美術やデザインの領域においては、以下のような学術雑誌が刊行されてゆきます。新しい「文化学(cultural studies)」的な視点が登場してくるのが、この時代の特徴といえます。 ・Art History, Oxford University Press, Oxford, 1978-. ・Journal of Design History, Oxford University Press, Oxford, 1988-. ・Journal of Material Culture, Sage Publications, London, 1996-. ・Journal of Visual Culture, Sage Publications, London, 2002-. ・The Journal of Modern Craft, Berg Publishers, Oxford, 2008-. 同時にこの時期、旧い学問領域の失速、あるいは新しい学問領域の誕生に呼応して、基本となる事象を集めた事典や、全体的な概要を示した入門書、それらに加えて、新しい方法論に言及した研究書なども世に出ます。以下は、その主たる書目です。 ・John Fleming and Hugh Honour, The Penguin Dictionary of Decorative Arts, Allen Lane, London, 1977. ・Stephen Bayley, In Good Shape: Style in Industrial Products 1900 to 1960, Design Council, London, 1979. ・Anthony J. Coulson, A Bibliography of Design in Britain 1851~1970, Design Council, London, 1979. ・Simon Jervis, The Penguin Dictionary of Design and Designers, Allen Lane, London, 1984. ・Hazel Conway ed., Design History: A Students’ Handbook, Allen & Unwin, London, 1987. ・John A. Walker, Design History and the History of Design, Pluto Press, London, 1989. ・Poul Greenhalgh ed., Modernism in Design, Reaktion Books, London, 1990. ・Ian Chilvers ed., The Concise Oxford Dictionary of Art and Artists, Oxford University Press, Oxford, 1990. ・Charles Harrison and Paul Wood ed., Art in Theory 1900-1990: An Anthology of Changing Ideas, Blackwell, Oxford, 1992. ・Catherine McDermott, Essential Design, Bloomsbury Publishing, London, 1992. ・Paul Duro & Michael Greenhalgh, Essential Art History, Bloomsbury Publishing, London, 1994. ・John Elsner and Roger Cardinal ed., The Cultures of Collecting, Reaktion Books, London, 1994. ・Paul du Gay et al., Doing Cultural Studies: The Story of the Sony Walkman, Sage Publications, London, 1997. ・John A. Walker and Sarah Chaplin, Visual Culture: An Introduction, Manchester University Press, Manchester, 1997. ・Penny Sparke, Design Directory Great Britain, Pavilion Books, London, 2001.
(8)DECORATIVE ART, 1926 “THE STUDIO” YEAR-BOOK, The Studio, London, p. 87.
(9)Lewis F. Day, Every-Day Art: Short Essays on the Arts Not Fine (reprint of the 1882 ed. published by B. T. Batsford, London), Garland Publishing, New York and London, 1977, pp. 5-6.
(10)May Morris ed., The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXII, p. 58.
(11)Herbert Read, Art & Industry: The Principles of Industrial Design (1934), Faber & Faber, London, edition of 1956, pp. 47-50 and 51.
(12)Ibid., p. 63.
(13)Ibid., pp. 62-63.
(14)Nikolaus Pevsner, Pioneers of Modern Design (first published by Faber & Faber in 1936 as Pioneers of the Modern Movement), Penguin Books, London, edition of 1981, p. 39.
(15)Quoted by Misha Black in Avril Blake ed., The Black Papers on Design: Selected Writings of the Late Sir Misha Black, Pergamon Press, Oxford, 1983, p. 34.
(16)Ibid., p. 5.
(17)Herbert Read, The Philosophy of Modern Art, (first published by Faber and Faber in 1951), Faber and Faber, London, edition of 1977, pp. 13 -14.
(18)レイモンド・ウィリアムズの主要な著作に、次のものがあります。 ・Raymond Williams, Culture and Society 1780-1950, Penguin, London, 1958. ・Raymond Williams, The Long Revolution, Penguin, London, 1961.
(19)リチャード・ホガートの主要な著作に、次のものがあります。 ・Richard Hoggart, The Uses of Literacy, Penguin, London, 1958.
(20)スチュアート・ホールの主要な著作に、次のものがあります。 ・Stuart Hall & Paddy Whannel, The Popular Arts, Beacon Press, Boston, 1964. ・Stuart Hall, Encoding and Decoding in Television Discourse, CCCS, 1973. ・Stuart Hall eds., Culture, Media, Language, Hutchinson, London, 1980.
(21)「文化学(カルチュラル・スタディーズ)」を日本へ紹介した書物に、主として次のものがあります。 ・伊豫谷登士翁ほか編『グローバリゼーションの中のアジア――カルチュラル・スタディーズの現在』未来社、1998年。 ・岡田猛ほか編『科学を考える――人工知能からカルチュラル・スタディーズまでの14の視点』北大路書房、1999年。 ・花田達朗ほか編『カルチュラル・スタディーズとの対話』新曜社、1999年。 ・リン・チュン『イギリスのニューレフト――カルチュラル・スタディーズの源流』渡辺雅男訳、彩流社、1999年。 ・上野俊哉ほか『カルチュラル・スタディーズ入門』ちくま新書、2000年。 ・N・キャンベルほか、徳永由起子ほか編『アメリカン・カルチュラル・スタディーズ』醍醐書房、2000年。 ・グレアム・ターナー『カルチュラル・スタディーズ入門――理論と英国での発展』溝上由紀訳、作品社、2000年。 ・ジム・マグウィガン『モダニティとポストモダン文化――カルチュラル・スタディーズ入門』村上恭子訳、彩流社、2000年。 ・ポール・ドゥ・ゲイほか『実践カルチュラル・スタディーズ』大修館書店、2000年。 ・吉見俊哉『カルチュラル・スタディーズ』岩波書店、2000年。 ・吉見俊哉編『カルチュラル・スタディーズ』講談社、2001年。
(22)Penny Sparke, An Introduction to Design & Culture in the Twentieth Century, Allen & Unwin, London, 1986, p. xxi.
(23)Adrian Forty, Objects of Desire: Design and Society 1750-1980, Thames and Hudson, London, 1986, p. 239.
(24)Jonathan Woodham, ‘Design and Empire: British Design in the 1920s’, Art History, Volume 3 Number 2, June 1980, pp. 229-240.
(25)Adrian Forty, ‘Reyner Banham’, Newsletter, no. 38, Design History Society, UK, July, 1988, p. 10.
(26)A. L. Rees & F. Borzello eds., The New Art History, Humanities Press International, Atlantic Highlands, NJ, 1988, p. 2.
(27)Peter Vergo (ed.), The New Museology, Reaktion Books, London, 1989, p. 3.
(28)Ibid., pp. 3-4.
(29)Ibid., p. 3.
(30)Adrian Wilson ed., Rethinking Social History: English Society 1570-1920 and Its Interpretation, Manchester University Press, Manchester and New York, 1993, p. 1 and p. 7.
(31)工業デザイン全集編集委員会編『理論と歴史』(「工業デザイン全集」第1巻)日本出版サービス、1983年、167頁。
(32)阿部公正「序――デザイン史の確立へ」『デザイン学研究』第72号、日本デザイン学会、1989年、5頁。
(33)May Morris ed., The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXII, p. 4.
(34)Ibid.
(35)Ibid.