第三部 わが学究人生を顧みて
第九編 青春回顧/高校時代の「化学」への拒否反応
ちょうど先ほど、著作集14『外輪山春雷秋月』に所収します「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」を擱筆しました。
もともと著作集14『外輪山春雷秋月』は、その一部として「わが肥後偉人点描」をもって構成することが予定されており、実際すでにそのなかで、中村汀女と石牟礼道子を取り上げていました。今回、それに続いて、高群逸枝と蔵原惟人のそれぞれに焦点をあて、短く論評することを考え、調べに入りました。ところがはじめてみると、こうした肥後国の先達たちが、奇しくも青鞜の女、とりわけ平塚らいてうと富本一枝と交流があることがわかってきたのです。書いてみると膨大な量になりました。その結果、既存の「わが肥後偉人点描」は著作集12『研究追記――記憶・回想・補遺』の第二部に移行し、著作集14『外輪山春雷秋月』は、「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」の単独文で構成することになりました。
この文の後半に、石牟礼道子が登場します。私は、石牟礼道子が『苦海浄土』の著者であることは前々から知っていたのですが、それがどのような経緯で生まれ、石牟礼が、どう水俣病闘争にかかわったのかは、全く知りませんでした。ところが、この「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」を書くなかで、そのことがはっきりと現像されてきたのです。私にとってそれは驚きでした。それと同時に、高校時代の私が、脳裏に姿を現わしてきました。ここでは、青春期の私の幼い姿を、書き記します。
一九六九(昭和四四)年一月二八日、石牟礼道子の出世作となる『苦海浄土――わが水俣病』が講談社から刊行されました。石牟礼は、その「あとがき」に、こう書きました。
ここにして、補償交渉のゼロ地点にとじこめられ、市民たちの形なき迫害と無視のなかで、死につつある患者たちの吐く言葉となるのである。
「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。……上から順々に、四十二人死んでもらおう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」
もはやそれは、死霊であり、生霊たちの言葉というべきである。
このように、石牟礼は、死をもって死をあがなうことを望む、「死霊であり、生霊たちの言葉」を代弁したのでした。
水俣病が公式確認されたのは、一九五六(昭和三一)年五月のことでした。私が高校に入学したのは、それから八年が過ぎた一九六四(昭和三九)年の四月です。このときはまだ、『苦海浄土――わが水俣病』は世に出ていませんでしたが、それ以前から、水俣病は新聞やテレビでしばしば取り上げられ、とりわけ、ネコ(猫)が麻痺を起こして、もがき苦しむ姿は、見るに堪えないものがありました。いま思えば、私にとって、はじめて社会問題に目を向けた瞬間でした。
私の高校では、二年の一学期から「化学」の授業がはじまりました。そして、夏休みに入るときに、九月の登校初日に行なわれる定期考査の出題範囲が発表されました。私は、夏休みの期間、どうしても「化学」の教科書を開くことができませんでした。それは、水俣病と関係していました。私には、「化学反応」の結果としての廃液が工場から海に流され、そこに生きる魚の体内に危険な物質が蓄積され、その魚を食べた人間が苦しみ死に至る様子を見て、どうしても「化学」が、その難病の主たる原因に思えてならなかったのです。そこで私は、「化学」の勉強を放棄しました。その結果、夏休み明けの「化学」の試験では、白紙のまま提出することになりました。これが、学校におけるはじめての反抗だったかもしれません。
高校卒業後一浪して、私は、東京教育大学農学部林学科木材工学専攻に入学しました。入試は専攻単位で行なわれ、定員は一五名でした。私の受験番号は五五番でした。この木材工学専攻は、木材加工学と林産化学のふたつの講座で構成されており、四年になるときに、一五人の学生は、希望によりどちらかの講座に振り分けられました。講座とは、ひとりの教授を筆頭に、助教授、助手、大学院生、学部四年生からなる、ひとつの学問領域に対応する研究集団のようなものでした。木材加工学の講座では、木材の組織や切削が主要な研究分野になっていました。他方、林産化学の講座では、パルプや製紙など木材の化学的利用が、研究上の中心的関心となっていました。木材加工学の教授は林大九郎先生、林産化学の教授は岸本定吉先生で、ともにその道の権威で、温厚なお人柄でした。私は、化学嫌いということだけでなく、教授の林大九郎先生が同郷の人であることも手伝って、躊躇なく木材加工学講座への配属を希望し、そこで卒業論文を書きました。卒論の内容は、形状と含水率によってスギ材の横せん断強度はどう異なるのか、というものでした。
大学に入ると、四年時の講座配属に先立って、本を読んだり、人と論議したりするなかで、水俣病を含む公害問題について少し考えるようになりました。そのとき私は、それは、「化学」という学問それ自体が悪いのではなく、それを利用して製造する企業に責任があるのではないかという視点にたどり着きました。当時、企業の社会的責任を問う論調が世に溢れていました。私も、それに感化されていたのです。さらに、それはまた、企業だけが悪であるのではなく、効率的な経済活動を追求するがあまりに、結果的として自然と人間を破壊に導く、近代的な思想そのものが間違っているのではないかという思いにつながってゆきました。
私が、学部を卒業して、大学院に進み、美術学(工芸・工業デザイン)を専修し、そこで学ぼうとした動機も、この点にありました。つまり、人間の生活のあり方と、それに必要な「もの」の生産のあり方の全体像を考えるのが、デザインの本質であり役割であると考えたのです。それでは、それをどう考えたらいいのでしょうか、必死に書物に当たりました。そのなかでたどり着いたのが、一九世紀英国の詩人でありデザイナーであり、そして社会主義者であったウィリアム・モリスの思想と実践でした。モリスは芸術と生産とを一体のものと見ていました。人間は生きるために「もの」を必要とし、たとえば、木に働きかけては家具をつくり、土に働きかけては陶器をつくり、地下資源に働きかけては石器や金属器をつくります。このとき人間は、自然を利用しながら、見て、使って、心地のいい形や色や肌触りを追求します。これこそが、芸術なのです。明らかに人間の歴史は、生産の歴史であり芸術の歴史であるのです。私は、モリスからこの基本となる原理を学びました。ところがどうでしょう。生産の歴史であり芸術の歴史である、それらが統合されたデザインの歴史は、ほとんどいまだ、歴史家によって記述されていないのです。人間にとって一番大事な歴史が、この世から欠落しているのです。そのことに気づいた私は、その場に崩れ落ちるような感覚になりました。これが、いまだに私が、生まれたばかりの「デザイン史」という新しい学問に必死にしがみついている理由です。死が訪れるまで、それは変わらないと思っています。
(二〇二四年四月)