中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第三部 わが学究人生を顧みて

第四編 遥かなる英国の仲間たちへの謝辞

はじめに

いま「ウィリアム・モリスの家族史――モリスとジェインに近代の夫婦像を探る」(著作集6『ウィリアム・モリスの家族史』に所収)を脱稿しました。この論稿が、私のこれまでのモリス行脚にとって、おそらくその事実上の終着点になるものと思われます。その間私には、多くの知識を提供し、励まし、遠くから見守ってくれていた人たちがいました。ノーラ・ジロウさん、レイ・ワトキンスンさん、ピーター・ホリデイさん、ジリアン・ネイラーさん、そしてジャン・マーシュさんをはじめとする、英国で知り合った多くのモリス関係の人たちです。そこで私は、ここに、彼らに捧げる感謝の辞を書き留めておきたいと思います。

一.導いてくれた英国の友人たち

一九八七年の一〇月、私はブリティッシュ・カウンシルのフェローとして、ウィリアム・モリスと英国デザイン史の研究のために英国へ赴きました。最初の二箇月くらいのあいだは、ほとんど毎日、ウィリアム・モリス・ギャラリーへ行き、そこでモリス作品を見、モリス文献に目を通しました。一階と二階が常設展示場で、三階に作品の収蔵庫と図書室があり、いつも相談相手になっていただいたのが、館長のノーラ・ジロウさんでした。私が日本で知り得ていたモリスについての断片的な知識を整理し、多くの空白部分に新たな知見を吹き込んでくれた、最初の恩人です。いつも大きな愛犬を同伴していました。学芸員(館長補佐)のヘレン・スロウンさんがしばしばお茶を用意してくれて、みんなで寒いこの時期、三階の図書室で世間話に興じることもありました。その後の一九八九年に同館で開催された「メイ・モリス」展は、ヘレンが組織したものです。

帰国後まもなくして、ノーラから、展覧会の開催準備のために来日するとの連絡がありました。神戸に住んでいた私は、東京のホテルに滞在中のノーラに会いに行き、そこで再会を喜び合いました。その展覧会は、一九八九年の三月に新宿の伊勢丹美術館で、続く四月に梅田の大丸ミュージアムで開催されました。多くの展示物はウィリアム・モリス・ギャラリーから借用された作品で成り立っており、私にとっては、ノーラだけではなく、モリス作品との思いがけない日本での対面となりました。モリス生誕一〇〇年を記念して開催された一九三四年の展覧会では主としてモリスの著作物しか展示されていませんでしたので、このときの展覧会が、実際のモリスの作品がまとまったかたちで日本で紹介される最初の機会だったのではないかと思います。

東京で別れる際に、ノーラは、「欲しい本があれば、送るわよ」といってくれ、私は、遠慮なくその言葉に甘えて、一冊の本をリクエストしました。それが次の本です。

Gillian Naylor ed., William Morris by Himself: Designs and Writings, Macdonald & Co (publishers), London & Sydney, 1988.

その本が神戸の自宅に届いたときの感動と感謝の気持ちは、その後この本を手にするたびに蘇ります。しかし、それからしばらくして、ノーラの消息が途絶えました。のちに館長に就任したジャン・マーシュさんにお聞きすると、ノーラの館長退任後の生活を知る者は誰もいないのではないか、という返事が返ってきました。

私は、本稿の執筆にあたり、あのときの「ウィリアム・モリス」展の展覧会カタログを広げ、ノーラの寄稿文である「ウィリアム・モリス――芸術、労働、そして社会主義」を読み返しました。同じく私は、ヘレンが編集したのではないかと思われる「メイ・モリス」展の展覧会カタログも参照しました。私の英国におけるモリス研究の原点が、このウィリアム・モリス・ギャラリーでした。

ウィリアム・モリス・ギャラリーでひととおりの学習を終えた私は、その年の晩秋、そのギャラリーの紹介により、ブライトンの自宅にレイ・ワトキンスンさんを尋ねました。私が来ることを知ったレイは、そのときジリアン・ネイラーさんも招待していたのでした。ふたりそろって私を出迎えてくれ、一方の女性がジリアンであることがわかったとき、本当に私は、卒倒しそうな驚きに見舞われました。というのも、英国に来る前に私は、日本でジリアンの次の翻訳書を読んでいたので、名前は当然知っており、このロンドン滞在中に、ぜひともお目にかかりたいと思っていた人だったからです。

Gillian Naylor, The Bauhaus, Studio Vista, London, 1968.[ネイラー『バウハウス』利光功訳、PARCO出版局、1977年]

ジリアンは隣り町のホウヴに住み、研究領域も重なり、レイとジリアンとは、旧知の間柄だったのです。会話が進むにつれて、雰囲気が和み、モリス研究者同士の連帯感のようなものも少しずつ感じられてゆきました。しかし、それでもレイもジリアンも、モリス研究の大御所であり、私の目の前にそびえ立つふたつの巨木の存在感に、この地に移植されたばかりの若木である私が、終始、圧倒されていたことは、いうに及びません。

私がレイの名前を知ったのは、以下の、彼の著作の翻訳書を通じてでした。

Ray Watkinson, William Morris as Designer, Studio Vista, London, 1967. [ワトキンソン『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』羽生正気・羽生清訳、美術出版社、1985年]

訳者の羽生さんご夫妻とは、すでに私も面識があり、この翻訳書をご恵贈いただいていた経緯がありました。ご夫婦もかつてこのレイの居宅を訪問したモリス研究者でした。レイは、しきりと、早逝した羽生生気さんを悼み、悲しみました。そして私に、翻訳書だけでなく、自分の原著も読むように勧めました。

この日、話が一段落すると、そろって、レイの住まいの近くにある教会に行きました。そこで見たのは、モリス商会が施工したステインド・グラスでした。ブライトン駅で別れを告げるとき、ジリアンは王立美術大学で再び会うことを約束してくれました。周りはすっかり暗くなっていました。こうして、私がレイをはじめて知った長い一日が終わりました。その年(一九八七年)の暮れ、私は、ウィリアム・モリス協会の会員になりました。

帰国すると、さっそくレイの原著を購入し、目を通しました。そのときすぐには気づかなかったのですが、この本のもつ歴史的価値を知ったのは、さらにその後、次の本を手にした瞬間でした。

E. P. Thompson, William Morris: Romantic to Revolutionary, Lawrence and Wishart, London, 1955, reprinted by Pantheon Books, New York in 1976.

トムスンのこの本は、副題にありますように、ロマン主義の詩人から社会主義の政治活動家へと進むモリスの道程を克明に論証した、画期的な本でした。しかし、手にしてみると、「ロマン主義の詩人」から「社会主義の政治活動家」へと至るあいだにみられるはずの「デザイナーとしてのウィリアム・モリス」についての記述がほとんど抜け落ちていることに気づかされたのです。レイの『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』は、まさしくこの間隙を縫うものでした。それに気づいたとき、遅ればせながら私は、レイの本の真価を知ることになりました。

帰国以降、レイとのおつきあいは続き、頻繁に手紙のやり取りをして、友情を持続していました。そうしたなか、文部省(現在の文部科学省)の長期在外研究員として英国に行くことが決まり、それを知らせると、さっそくその返事として、ウィリアム・モリス協会での講演の話がレイからもたらされました。レイは、ウィリアム・モリス協会の会長はすでに退任していましたが、いまだに行動力と発言力は衰えず、来年に迫った、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館での「ウィリアム・モリス没後一〇〇年」の記念展の企画にも、当時奔走していました。私がレイからの返事を受け取ったのは、「阪神・淡路大震災」のちょうど前日のことでした。自宅書斎の本棚は倒れ、大学図書館の機能は停止し、あきらめかけたこともありましたが、それでも何とか、渡英直前の日に原稿は完成しました。こうして、約束どおり無事に、一九九五年の八月、ウィリアム・モリス協会の本部のある〈ケルムスコット・ハウス〉において、「日本におけるウィリアム・モリスの影響」と題して講演をすることができました。ジャンが、事前に講演原稿の校閲をしてくれていたし、当日のチェア(陪席補佐人)はジリアンが務めてくれました。そしてレイは、ウィリアム・モリス協会の一一月発行の『ニューズレター』に報告文を寄稿し、私の講演内容を改めて詳しく紹介してくれました。以下は、そのなかの一節です。

中山教授は、ウィリアム・モリス研究の発展を信じる自身の希望を、次のように表明することで、この講演を締めくくりました。「来年はモリスの死去から一〇〇年目となります。そのとき私たちは、どんなモリスに会うことができるでしょうか。私たちが心からモリスを求めれば求めるほど、それだけ多く、モリスは私たちに微笑みを返してくれることでしょう。……私は、翌年このロンドンで、モリスの微笑みに出会うことをいまから楽しみにしています」

それ以降も、レイとの親密な交流は続きました。駅からブライトン大学へ行く途中にレイの家はあり、時間があるときは、一緒に朝ご飯を食べることもありました。そうでないときは駅で花を買って、玄関先に置いていくこともありました。よくレイは私に本をくれました。レイの書斎は、玄関を入ると左手の道路に面した明るい部屋でした。本棚の蔵書はすべて茶色の紙で表紙がくるまれ、背にその本のタイトルと著者名が自筆されていました。とても本を大事にする人でした。いただいた本は、そのまま、いま私の本棚に息づいていて、そのなかには、次のような一五〇年以上前に、さらには二〇〇年以上前に出版されたものもあります。

Captain Sherard Osborn, C. B., Japanese Fragments, with Facsimiles of Illustrations by Artists of Edo, Bradbury and Evans, London, 1861.

The Book of Trades, or Library of the Useful Arts, Tabart and Co., London, 1807.

もちろん、このような最近のご自身の著作も、与えてくれました。

Teresa Newman and Ray Watkinson, Ford Madox Brown and the Pre-Raphaelite Circle, Chatto & Windus, London, 1991.

そのレイが二〇〇三年に亡くなりました。一九一三年の生まれでしたので、両大戦を含む九〇年の歳月を生き抜いたことになります。その後、レイの愛蔵書は、かつて彼が勤務していたブライトン大学に寄贈されました。また、ウィリアム・モリス協会は、彼の死を悼み、寄付を募ってレイ・ワトキンスン記念テーブルを作製しました。そのとき私も、心から賛同して、その募金に参加しました。

レイの死を知らせてくれたのは、ピーター・ホリデイさんでした。生前、レイは私に、同じくブライトンに住むピーターを紹介していました。ピーターも、モリスやアーツ・アンド・クラフツに詳しく、ウィリアム・モリス協会が発行する『ウィリアム・モリス研究』の編集委員も務めていました。最初に会ったころのことです。英国詩や私家版印刷工房のことが話題になりました。そのころ私は、スーザン・スキナーの詩が好きで、日本語に訳しては、その語感を楽しんでいたことがありました。そのことをピーターに話すと、何と驚いたことに、詩人のスーザン・スキナーは、ピーターのお姉さんだったのです。こうして一気にピーターとの仲が深まってゆきました。私がブライトンに行くと、レイの家やピーターの家でよくパーティーをしました。あるときのパーティーでジリアンが、日本人の女性を連れてきました。ジリアンの指導のもと、かつて王立美術大学で博士論文を書いていた菅靖子さんでした。

レイに似て、ブライトンで会うといつもピーターは本をくれました。また、私が神戸にいるときも、本が送られてくることがありました。そのなかの一冊が、ピーターの編著として公刊された次の書物です。

Peter Holliday ed., Eric Gill in Ditchling: Four Essays, Oak Knoll Press, New Castle, Delaware, 2002.

モリスの仕事に影響を受けたエリック・ギルは、田園回帰運動の高まりのなか、一九〇七年にディッチリングの村に居を構えました。その後、濱田庄司がギルを訪問していますし、さらに遅れて私も、この村の小さな博物館へ足を運んだことがありました。

当時ピーターはエドワード・ジョンストンに関する本を書いていました。ジョンストンを知る日本人のひとりに、濱田庄司がいます。ピーターは、ひとつの章を書き終えるごとに、そのPDFをメールに添付して送ってきていました。あるとき、柳宗悦についての問い合わせがあり、東京駒場の民芸館に行って、調査したことがあります。ある写真の下半分が未現像のような状態で白濁しており、その部分に何が映っているのかを知りたかったようですが、残念ながら、それはよくわかりませんでした。対応していただいた学芸員の方の説明によると、この件については、しばしば海外の研究者から問い合わせがあるとのことでした。またあるときには、ピーターから、ジョンストンの「William Morris, born March 24th, 1834.」と書かれたカリグラフィー作品の複製が送られてきたこともありました。手紙には、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で見つけ、自分で写真撮影した、と書かれてありました。

そのとき『エドワード・ジョンストン』は、ほぼ完成していました。しかし、それから多くの間を置かずして、レイに続いてピーターも、二〇〇三年に他界しました。一九三八年生まれのピーターは、私より一〇歳年上で、面倒見のいい、優しいお兄さんといった感じでした。享年六五歳の急逝でした。そしてその後、お姉さんのスーザン・スキナーさんの手によって、以下のピーターの遺作が世に出ました。

Peter Holliday, Edward Johnston: Master Calligrapher, Oak Knoll Press, New Castle, Delaware., 2007.

そのときのスーザンからの連絡によりますと、「著者亡きあとの出版にもかかわらず、この本が読書界に受け入れられて、ピーターも私も喜んでいる」という文字が並んでいました。私の目頭も熱くなりました。ピーターからいただいたジョンストンの作品は額装され、彼を偲ぶよすがとして、いまも私の書斎の壁を飾っています。

ジリアン・ネイラーさんとはじめてお会いしたのは、すでに書きましたように、一九八七年秋のレイの自宅においてでした。それから親交がはじまります。そのときのロンドン滞在中、しばしば王立美術大学の文化史学科にジリアンを訪ねました。ジリアンは、同じ学科のチューターのペニー・スパークさんや教授のクリスタファー・フレイリングさんだけではなく、インダストリアル・デザイン学科のスタッフも紹介してくれました。当時私は、ミッシャ・ブラックの遺作の翻訳を進めていました。未亡人のジョアン・ブラック(レイディー・ブラック)さんやミッシャの後任教授で、すでに退職していたフランク・ハイトさんにお目にかかることができたのも、このインダストリアル・デザイン学科の会議室でのことでした。こうしてジリアンは、私が会いたいと思う、多くの研究者や関係者を紹介したり、出会いの機会を設けたりして、親身になって私の研究を支えてくれました。また、このとき知り合ったのが、ジリアンの指導のもとに修士論文を書いていた面矢(福島)慎介さんでした。

私の当時の研究領域は、ウィリアム・モリスのみならず、同時に近代英国のデザイン史にかかわるものでした。私にとってありがたいことに、ジリアンは、その双方の研究領域に精通した研究者でした。そのころまでにすでに彼女が公にしていた著作物は、次のようなものでした。

Gillian Naylor, The Bauhaus, Studio Vista, London, 1968. [ネイラー『バウハウス』利光功訳、PARCO出版局、1977年]

Gillian Naylor, The Arts and Crafts Movement: A study of its Sources, Ideals and Influence on Design Theory, Studio Vista, London, 1971.

Gillian Naylor, The Bauhaus Reassessed: Sources and Design Theory, The Herbert Press, London, 1985.

Gillian Naylor ed., William Morris by Himself: Designs and Writings, Macdonald & Co (publishers), London & Sydney, 1988. [ネイラー編『ウィリアム・モリス』多田稔監修、ウィリアム・モリス研究会訳、講談社、1990年]

これらの書題からもわかりますように、ジリアンの研究上の関心は、アーツ・アンド・クラフツ運動の創始者であるモリスからバウハウスの創設者のグロピウスへと至る近代デザインの成立過程にかかわる史的系譜でした。これには、ニコラウス・ペヴスナーの言説の影響があったものと、推量されます。といいますのも、一九三六年にペヴスナーは、『近代運動の先駆者たち――ウィリアム・モリスからヴァルター・グロピウスまで』を出版し、そのなかで、「……モリスからグロピウスに至る段階は、歴史的にみてひとつの単位なのである。モリスが近代様式の基礎を築き、グロピウスによってその性格が最終的に決定されたのであった」と、述べていたからです。いまでこそ、この歴史認識を疑問視する指摘が多くみられるのですが、しかし、一九六〇年代と七〇年代のデザイナーもデザインの研究者も、その多くが、この図式こそ、近代のデザインの歴史を理解するうえでの基礎となるものであると確信していました。その意味で、ジリアンは、正統なペヴスナー流儀の歴史家であり、彼女が生み出した著作は、デザインの近代運動を学ぶ、当時の多くの学生たちにとっての必読の書となりました。

ジリアンはまた、大変誠実な学術的態度を示す研究者でもありました。その一例に、一九六八年刊行の『バウハウス』の欠落点を補うべく、一九八五年には『再考バウハウス』を上梓するのです。よく彼女とは、研究上の話をしました。あるとき、いま何に興味がありますか、と私が尋ねると、「英国デザインの英国性」という返事が返ってきたことがありました。これは、ペヴスナーの著書である『英国美術の英国性』(一九五六年刊)のタイトルをもじったものでした。またあるとき、いま何を書きたいですか、とお聞きすると、はっきりとした口調で「モダニズム」という言葉が返ってきました。しかし一方で、七〇年代の後半ころから、この英国においてペヴスナーの歴史観が批判に晒され、デザインの近代運動への支持が衰退しはじめていたこともまた事実です。いわゆる「ポスト・モダン」という時代状況が出現するのです。ジリアンは、あるとき私との会話のなかで、そのことに触れると、この国での最初のペヴスナー批判の書がデイヴィッド・ワトキンの『モラリティーと建築』(一九七七年刊)であることをメモ書きして、そっと私に渡しました。その後のジリアンの研究は、モダニズム以前の一九世紀ヴィクトリア時代のモリスへと回帰してゆきます。こうして、ジリアンの著作の推移を振り返るとき、そこに私は、英国固有のデザイン思想の歴史との重なりを見出すのです。

英国でデザイン史学会が産声を上げるのが一九七七年でした。そして、一九八八年から、年四回、学会誌がオクスフォード大学出版局から刊行されるようになります。あるとき、この学会から手紙が届きました。レターヘッドをよく見ると、最上部にパトロン(顧問)のひとりとしてジリアン・ネイラーの名前が印字されていました。次に会ったときに、このことを話題にすると、「大変名誉なことです」と、少しはにかみながらも、うれしそうな表情が私に伝わってきました。

一九九八年の来日のおりには、東京の菅さん、滋賀の面矢さんの家に宿泊し、それに続いて神戸の拙宅にも数日間お泊りいただきました。滞在中、有馬温泉へも行きました。また、小さなカリグラファーの団体が主催する講演会も実現し、エドワード・ジョンストンについて話してもらいました。思い出は尽きません。そして、感謝も尽きません。

ジリアンが亡くなったのは、面矢さんからの電話で知りました。二〇一四年のことでした。ジリアンが生まれたのは、ちょうど英国でモダニズムが姿を現わそうとしていた一九三一年です。戦時中の子どものころを振り返って、山でウサギ狩りをしていたことを語っていました。また、戦後の一時期、デザイン・カウンシルが発行する『デザイン』の編集に参画していたことも、そして、病弱だった母親の療養ために海に面して温暖な、ブライトンの隣りのこのホウヴの町に引っ越してきたことも話題にしていました。まさしくジリアンの生涯は、モダニストのデザイン史家として、その意思を一筋に貫いた一生でした。

ジリアンと同様に、フィオナ・マッカーシーさんの関心も、デザインの歴史にありました。私がはじめて英国デザインの通史を読んで学んだのは、彼女の以下の本においてでした。

Fiona MacCarthy, A History of British Design 1830-1970, George Allen & Unwin, London, 1979. First published in 1972 as All Things Bright and Beautiful.

Fiona MacCarthy, British Design since 1880: A Visual History, Lund Humphries, London, 1982.

基本的には、一九世紀後半のモリスの影響を受けたアーツ・アンド・クラフツ運動、両大戦間期のデザイン・産業協会の主導による近代運動、そして、戦後のデザイン・カウンシルが展開したデザインの国家的プロモーションが、英国デザインの通史の骨格として描かれていました。それ以降私は、著者のフィオナ・マッカーシーさんの執筆動向に注目するようになりました。すると彼女は、次の二冊の著作をもって、デザイン史家としての側面だけでなく、加えて伝記作家としての側面を見せるようになるのです。

Fiona MacCarthy, Eric Gill, Faber and Faber, London, 1989.

Eric Gill: Autobiography with a New Introduction by Fiona MacCarthy, Lund Humphries, London, 1992.

エリック・ギルを経て、伝記作家としてのフィオナの関心は、次にモリスへと向かったようです。こうして、以下の伝記文学の大作が世に出ました。

Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994.

この本は、「一九九四年度ウルフソン歴史賞」を獲得します。当時彼女は、ウィリアム・モリス協会の会長職にあり、この出版は、モリス没後一〇〇年の記念の年を二年後に控えた、まさしく時節を得たものでした。日本にあって、英国デザイン史の研究も、ウィリアム・モリスの研究も、いまだ最初の一歩も十分に踏み出していない私にとりまして、当時のフィオナの執筆の展開は、後ろ姿さえ見えない最前方を行く独走者のように映っていました。そうしたなか、私にひとつの事件が起きました。それは、一九九六年三月二三―二四日にシェフィールドで行なわれたモリスの誕生日を祝う行事(一泊二日のウィリアム・モリス協会による企画)に参加したときのことでした。二四日の午後のこと、どのような経緯があったのか、詳しくはわかりませんでしたが、企画行事が終わったあと、この地(シェフィールド)に住むフィオナの家(工房とショップ)に立ち寄ることになりました。著名なデザイナーであるご主人の作品を見ることが目的だったようです。ショップの入口のところで、フィオナが私たちの一団を迎えてくれました。そこではじめて、私はあいさつをし、短い時間ではありましたが、会話を交わしたのでした。お話を聞くと、彼女自身、モリスに倣った理想的な対抗文化の世界に身を置いて、執筆に専念しているように感じられました。

このように、デザイン史家であり、また、ギルとモリスの伝記作家であるフィオナとは、実際にはわずかな接点しかありませんでしたが、研究の領域や手法は重なるところが多く、私にとって彼女は、近いとも遠いともいえない、とても不思議な存在となっていました。そのフィオナが、二〇二〇年の二月、帰らぬ人となりました。享年八〇歳でした。いま、書棚にあるフィオナの『エリック・ギル』を開くと、彼女の直筆のサインが目に入ります。また、ショップ訪問のときに購入した、ソーサーとセットになった陶製の小さなミルク入れが、いまもわが家の食器棚の上席を占めています。

最近イギリスから届いた研究誌『ウィリアム・モリス研究』に、ジャン・マーシュさんが、フィオナの追悼文を書いていました。読み進めてゆくと、次の一文が私の目に止まりました。

私がはじめて彼女を知るようになったのは、ジェイニー・モリス[ジェイン・モリス]を紹介する最初の試みを執筆していたときでした。一方フィオナは、トプシー[ウィリアム・モリス]についての事実を集めているところでした。私たちは一緒になって、幾つかの厄介な原典の解読を進めました

この追悼文から、ジャンとフィオナの出会いと、ジャンがフィオナに寄せる敬慕の念を知りました。ふたりは、研究上、二歳違いの妹と姉のような関係だったのかもしれません。ともにウィリアム・モリス協会の会長を務めたという点においても、この姉妹のきずなの強さを感じます。それだけに、姉の死は、妹にとって大きな悲しみだったにちがいありません。

私が一九八七年に英国に渡るとき、その地での研究課題に、といって、一冊の本を渡してくれたのが晶文社の島崎勉さんでした。ロンドンに着くと、さっそく私は、その本の著者であるジャン・マーシュさんに連絡を取り、ご自宅を訪問しました。これが、私がジャンと親交を結ぶようになったきっかけです。その本は、帰国後、英国で得られた見聞に支えられながら訳業が進み、以下のような訳書として公刊されるに至りました。

Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986.[マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年]

この訳書が出版される前に、ジャンは来日し、神戸の私の家にも数日間滞在しました。そのとき、ジャンの希望もあって、私の書斎のワープロを使い、原著執筆のねらいのようなものを書いてもらいました。その一部は、この本の「訳者あとがき」に挿入していますが、書きながら彼女は、こんなことをいっていました。「白い紙を見ると、私は、それを文字で埋めたくなる」。

確かに、その後の研究成果を含めて、これまでのジャンの執筆量には目を見張るものがあります。上記の書物以外に、いま私の手もとにある本だけでも、以下のとおりです。すべて本人からいただいたもので、どの表題紙にも、ひとことメッセージと日付が、署名とともに直筆されています。

Jan Marsh, Back to the Land: The Pastoral Impulse in England, from 1880 to 1914, Quartet Books, London, 1982.

Jan Marsh, Pre-Raphaelite Sisterhood, Quartet Books, London, 1985.[マーシュ『ラファエル前派の女たち』蛭川久康訳、平凡社、1997年]

Jan Marsh, Pre-Raphaelite Women: Images of Femininity in Pre-Raphaelite Art, George Weidenfeld and Nicolson, London, 1987.[マーシュ『ラファエル前派画集「女」』川村錠一郎訳、リブロポート、1990年]

Jan Marsh, The Legend of Elizabeth Siddal, Quartet Books, London, 1989.

Jan Marsh, Christina Rossetti: A Literary Biography, Jonathan Cape, London, 1994.

Jan Marsh, Bloomsbury Women: Distinct Figures in Life and Art, Pavilion Books Limited, London, 1995.

Jan Marsh, Dante Gabriel Rossetti: Painter and Poet, Weidenfeld and Nicolson, London, 1999.

Jan Marsh, William Morris & Red House, National Trust Books, 2005.

Peter Funnell and Jan Marsh, A Guide to Victorian & Edwardian Portraits, National Portrait Gallery Publications, London, 2011.

出版年から想像できますように、ジャンの執筆活動が本格化するのは、子育てを終えた四〇代に入ってからのことです。これには、本当に頭が下がります。いま私が、神戸大学での奉職を終えて山にこもり、独立研究者として執筆に専念するのも、すべてジャンの姿勢を見習ってのことです。

また、ジャンから教えられたことは、「筆力の質」に関することでした。「伝記というものは、読者を退屈させるだけの単なる年代記になってはいけない。読者に読んでもらう文章作成力が大事なのです」とも、いっていました。私がこれまでに探索した英語の世界は、極めて乏しいものですが、それでもジャンの表現や描写が、並外れて輝いているのはよくわかります。つまり、物語の構成、登場人物の性格づけ、語りの調子――どれもが、読み手に強い印象を与えるのです。これこそが、デザイン史家であり、伝記作家でもある私が、ジャンから学び取ろうと必死に後追いしながらも、残念ながら、いまだに手が届いていない部分です。私にとってのジャンは、手本としなければならない、六つ年上の誇りとすべき最大のお姉さん伝記作家なのです。

二.支えてくれた日本の友人たち

本稿「ウィリアム・モリスの家族史――モリスとジェインに近代の夫婦像を探る」を書き終えた私は、この一文において、その間に多くの知識を提供し、励まし、遠くから見守ってくれていた、遥かなる英国の仲間たちへの感謝の気持ちを書いてきました。しかし、実はその一方で、そうした英国の仲間たちとの出会いに先立ち、その機会を先導してくれていた日本の友人たちがいたことを、私は決して忘れることはできません。その方々は、ブリティッシュ・カウンシル(京都)の菅原景子さんと改藤和文さん、そして、晶文社の島崎勉さんでした。私が一九八七年にブリティッシュ・カウンシルのフェローとして英国に渡り、この地でウィリアム・モリス研究に没頭できたのは、菅原景子さんと改藤和文さんのご尽力のおかげです。また、渡航に際してジャンの原著を手渡し、『ウィリアム・モリスの妻と娘』の訳書刊行へと導いてくれたのが、晶文社の島崎勉さんでした。こうして、このお三方のお力添えにより、私の本格的なモリス研究の扉が開きました。それから三十余年の歳月が流れたいま、いただいたご恩に報いるべく、「ウィリアム・モリスの家族史――モリスとジェインに近代の夫婦像を探る」がついに完成しました。感謝とお礼の気持ちを改めてここに書き記したいと思います。

他方、ここに具体的なお名前を挙げていない人のなかにも、あるいは、お名前さえはっきりと記憶していない人のなかにも、私の研究の行く末を案じ、成功を祈る人がいたであろう、あるいは、いまもいらっしゃるであろうことを私は想像します。その方々へ、目を閉じ、手をあわせて、心からお礼を申し上げたいと思います。やっといま、遅くなりましたが、無事に脱稿しました。これまでのご高配とご心配に深く感謝します。

三.私にとってのモリス伝記の執筆の意味

この機会に、謝辞とは別に、いまの自分の気持ちを、以下に短く書き残しておきたいと思います。

私が、英国の地で、モリス研究のためにここに来ている、というと、多くの人たちから、モリスのどこに興味があるのか、どんな内容の本になるのか、いつごろ出版するのか――そうした質問を受けることがよくありました。そのようなとき、すぐに答えられずに、もじもじすることがしばしばあり、自分の関心事を明確にしなければならないという思いで、自分と格闘していた時期があったことを、いま懐かしく思い出します。しかしその一方で、上の謝辞のなかでお名前を挙げさせていただいた英国のモリス研究者たちと親しくなるにつれて、モリスの思想と実践に対する彼らの接し方や受け止め方を、うらやましくも、そのまま受容したいと思う自分も存在していました。あるときには、自分も同じ思考回路をもった純粋な英国人になりたいと思ったくらいです。とりわけ、モリスを記述するに際しての彼らの姿勢に目を向けてみますと、彼らには共通する何かがありました。私なりに気づいたことは、それは、徹底的に証拠に基づき事実に迫り、あるときは小気味よく「暴露」し、主人公となっている人物を秩序立てて緻密に描き出そうとする気迫に満ちた姿勢でした。そしてまた、実際に描写するにあたっては、何か既存の分析のための論理や公式のような定型化された枠組みに当てはめて対象人物を理解しようとするのではなく、言葉のもつ表現力を最大限に発揮して、対象とするその人物の全体的な姿を、歴史という時空のなかで鮮明に現像しようとする確たる信念でした。極端な言い方をすれば、英国人にとっての人間理解の最大の方法のひとつが伝記的記述であり、「無味乾燥」な理屈や「虚構」の小説よりもむしろ、「真実」の伝記文学が好まれる理由がそこにありました。これこそが、英国人が行なう研究の英国性ではないかと、それ以来思い込み、私自身の研究にも、可能な限り「英国性」を反映すべく、努力してきました。しかし、研究に対する姿勢や方法については「英国性」に倣うとしても、研究の主題と語りの文脈については、あくまでも自分自身のものでなければなりません。いうまでもなく、私は英国人ではありません。また、英国在住の人間でもありません。したがって、英国人と同じ研究環境にあるわけではありませんし、関心の方向も常に同じというわけでもありません。そうした私にとって、独自のクリエイティヴなモリス研究とは、一体どのような研究なのか――これが私の、研究上の問題意識の原点となるものでした。そのために、英国におけるモリス研究の歴史とその現在を、そして、日本におけるモリス研究の歴史とその現在を、まず自分なりに跡づけてみました。そして、そのふたつの歴史から浮かび上がってきたのが、「家族」というキーワードであり、「富本憲吉」というキーワードだったのです。モリス没後一〇〇年を記念する一九九六年の、英国に滞在していたころの話です。しかし、そのときすぐにモリス伝記の執筆に着手することはなく、その後の私は、偶然のきっかけから、富本憲吉と富本一枝の本格的な研究へと向かいました。

本稿「ウィリアム・モリスの家族史――モリスとジェインに近代の夫婦像を探る」は、「家族」と「富本憲吉」の二種の「キー(鍵)」を使って、ウィリアム・モリスという世界の扉を開けようとした、私なりのひとつの挑戦的な作品です。私にとって、大きすぎるほどの世界で、重すぎるほどの扉でした。しかし、いま一度立ち止まって、しっかりと意識して振り返ってみると、そこには目に見えない大きな力が作用して、私を後押ししていたのでした。『ウィリアム・モリスの妻と娘』(一九九三年刊)の訳業を通して、「家族」という文脈の重要性を私に気づかせてくれたのが、ジャン・マーシュさんでした。そしてそれに続く、一九九五年の〈ケルムスコット・ハウス〉での講演題目として「日本におけるモリス研究の歴史」を発案していただき、その歴史記述のなかで「富本憲吉」との出会いの機会を設けてくれたのが、レイ・ワトキンスンさんでした。おそらくこのふたつの力がなかったならば、確信をもってこの伝記を書くことはなかったと思います。

おわりに

四半世紀前に私を強く突き動かした、そうした英国由来の諸力に支えられ、さらにそのうえに、自らの手になる富本憲吉と富本一枝に関する近年の研究成果を援用しながら、私は、モリスの人生と家族についての物語を、いま擱筆しました。とりとめもなく頭と心のなかに散乱していた知識と感情を何か整理整頓するかのような作業でした。こうして、ひとつの焦点のもとに、これまで念願としていた、私自身のモリス像を手にすることができたことに大きな喜びを感じています。楽しい探索のあとの穏やかな心情とでも呼べるものでしょうか。とはいえ、現時点で本人が気づかないだけであって、適切さを欠いた箇所や理解不足の箇所が多く残されているのではないかとも、危惧します。あとは、後世の読み手のみなさまのご批評の場にゆだねたいと思います。改めまして、拙稿「ウィリアム・モリスの家族史――モリスとジェインに近代の夫婦像を探る」(著作集6『ウィリアム・モリスの家族史』に所収)を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。お礼申し上げます。

(二〇二一年六月)

(1)Ray Watkinson, ‘Saturday 26 August 1995 The Impact of William Morris in Japan’, NEWSLETTER, The William Morris Society, London, November 1995, pp. 29-30.

(2)Nikolaus Pevsner, Pioneers of Modern Design (first published by Faber & Faber in 1936 as Pioneers of the Modern Movement), Penguin Books, London, edition of 1981, p. 39.[ペヴスナー『モダン・デザインの展開』白石博三訳、みすず書房、1957年、28頁を参照]

(3)Jan Marsh, ‘Fiona MacCarthy: A Tribute’, The Journal of William Morris Studies, The William Morris Society, London, Vol. XXIII No. 4, 2020, p. 9.