私は、この第三部「わが学究人生を顧みて」の第四編で「遥かなる英国の仲間たちへの謝辞」を書き、次に第七編で、「エリザベス女王の死去で蘇る英国における人的交流」につきまして一文を草しました。前者において私は、著作集6『ウィリアム・モリスの家族史』の脱稿に当たり謝辞を書くなかにあって、ウィリアム・モリスにかかわる英国の友人たちに思いを馳せました。後者においては、エリザベス女王の死去に際し、女王がパトロンを務められていた王立芸術協会の会員に自分が推挙された経緯を思い出しながら、当時の英国のデザイン界の様子の一端に言及しました。そこで、この第八編「英国でのデザイン史家たちとの交流」におきましては、英国滞在中に知り合い、その後もしばらく交流が続いた、デザインの歴史家の方々に関しまして、その思い出の断片をここに書き留めておきたいと思います。
私がブリティッシュ・カウンシルのフェローとして英国に渡り、研究する機会をもったのは、一九八七年のことでした。それまでブリティッシュ・カウンシルは、厳しい試験に合格した優秀な日本人に奨学金を給付し、英国で研究する機会を与えてきていました。しかし、日本が経済的に裕福な国になると、その制度の意味と有効性が次第になくなり、それに代わって新しく「フェローシップ・グランツ」の制度が設けられました。私は、その制度の一回目の英国派遣研究者でした。
この制度を新聞で知った私は、所定の記載指示に従って研究計画等一式の申請書類を完成させ、京都のブリティッシュ・カウンシルへ郵送しました。しばらくして、書類審査に合格したので、面接を受けてほしい旨の連絡がありました。指定された日時に行くと、館長のジョン・マクガヴァンさんが受付に待っておられ、館長室まで案内され、そこで、面接を受けました。面接試験というよりも、研究や英国のことも含めて、気楽に日常の話題について雑談するといった感じのものでした。小一時間くらい会話を楽しみ、最後に私は、もし今回悪い結果が出ても、もう一度機会があると思うのでチャレンジしてくれないか、と耳打ちされました。そのとおりに、数週間後に「悪い結果」の通知が届きました。私はすっかりあきらめていました。するとしばらくしてまた連絡があり、そこには、東京のブリティッシュ・カウンシルへ行って、面接を受けてほしいという内容が記されていました。指定の場所と時間に行くと、数人の人が待合室にいました。私は恐れをなして、もう帰ろうかと思ったそのときです。私の名前が呼ばれ、館長室に誘導されました。緊張している私を見抜いてか、会うなり館長の J・A・バーネットさんは、とてもにこやかで包容力のある態度を示されました。前任地が京都だったということで、会話の冒頭、関西での仕事と生活のことを懐かしむようにお話をされました。私の研究のことも、英国で私が何をしたいのかも、事前に情報を得ていらっしゃった様子で、非常に好意的に私の話に耳を傾けてくださいました。当時私は、ステュアート・マクドナルドさんの『美術教育の歴史と哲学』とアヴリル・ブレイクさんの編になる『デザイン論――ミッシャ・ブラックの世界』の二冊の翻訳の仕事を抱えていましたので、ぜひともイギリスの地で、直接関係者に会い、関係する資料や作品もつぶさに見たい旨の希望を伝えました。二〇分くらいの短い面接でした。そのあとしばらくして、結果の通知が神戸の自宅に届き、そこには、ブリティッシュ・カウンシルの「フェローシップ・グランツ」を授与することが書かれてありました。その後、近く渡英することを晶文社の島崎勉さんにお話しすると、それではこれもと、ジャン・マーシュさんの『ウィリアム・モリスの妻と娘』の原書が手渡されました。
こうして私は、一九八七年一〇月一日、大阪伊丹空港発の英国航空に搭乗し、憧れのロンドンへと向かうことになります。フラット・ハンティングもうまくゆき、さっそく研究生活がはじまりました。滞在期間にとくに制限はありませんでしたが、神戸大学での授業のこともあり、私は、自身の研究期間を翌年の三月末まで、と自主的に設定していました。スコットランドへの旅行やロンドン探索を楽しみながらも、可能な限りすべての力を集中して、この半年間を今後の自身の研究に必要な情報の収集にあてました。以下が、滞在中にインタヴィューをした主だった人のリストです。このときの会話はすべて、テープに残されており、いまも私の貴重な財産となっています。
[01]6 November 1987, Ms. Sloan, William Morris Gallery
[02]10 November 1987, Ms. French, Crafts Council
[03]18 November 1987, Mr. Opie, Victoria and Albert Museum
[04]7 December 1987, Lord Reilly, at his house in South Kensington
[05]8 December 1987, Stephen Bayley and Adrian Ellis, The Design Museum under construction at Butler’s Wharf
[06]18 December 1987, Penny Sparke, Department of Cultural History, Royal College of Art
[07]13 January 1988, Jan Marsh, at her home
[08]15 January 1988, Gillian Naylor, Department of Cultural History, Royal College of Art
[09]4 February 1988, Phillip T. Guilmant, DIA office at Bedford Square
[10]8 February 1988, John Heskett, Ravensbourne College of Design and Communication
[11]11 February 1988, Christopher Frayling, Department of Cultural History, Royal College of Art
[12]15 February 1988, Bruce Archer, Royal College of Art
[13]20 February 1988, Ray Watkinson and Gillian Naylor, at Watkinson’s home in Brighton
[14]1 March 1988, Roger Sale, Department of Industrial Design, Royal College of Art
[15]7 March 1988, Lady Black and Professor Frank Height, Royal College of Art
[16]10 March 1988, Stuart Macdonald, at his home in Stockport
[17]22 March 1988, Jonathan Woodham, at the Brighton Polytechnic
[18]23 March 1988, Michael Sadler-Forster, at The Chartered Society of Designers
[19]25 March 1988, William Furbisher and James Williams, at Design Research Unit
このように滞在期間中、デザインにかかわる学問、実践、および振興の各界におけるキー・パースンと呼ばれる人物たちにせっせと手紙を書いてはインタヴィューを行ない、関連する知識を得るとともに、さらに新しいキー・パースンを紹介してもらうことができました。その一方で、施設使用の了解を得ることにより、資料や作品の閲覧、授業の参観などを日常的に楽しめるようになりました。そうした施設に、ウィリアム・モリス・ギャラリー、デザイン・カウンシル、クラフツ・カウンシル、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、王立美術大学などが含まれます。ブリティッシュ・カウンシルのフェローということで、どの機関からも最大限の便宜を図っていただいたと思います。
それではここで、第四編「遥かなる英国の仲間たちへの謝辞」と第七編「エリザベス女王の死去で蘇る英国における人的交流」で取り上げることのなかった人たち、とりわけブライトン大学に集う教師たちに焦点をあてて、その思い出の幾つかを記述することにします。
私がはじめてブライトン・ポリテクニックにデザイン史家のジョナサン・ウッダム教授を訪ねたのは、一九八八年三月二二日のことでした。ジョナサンさんは、英国のデザイン史学会の創設にかかわった重要な人物で、のちに会長を務めることになります。当時王立美術大学の文化史学科でデザイン史を講じていたジリアン・ネイラーさんもペニー・スパークさんも、ともに前任校はブライトン・ポリテクニックであり、ブライトンは、英国におけるまさにデザイン史学の誕生の地でした。ジョナサンの研究室で、デザイン史研究上の双方の関心を語り合うと、そのあと、道路の向かい側にあるパブの二階でランチをすることになりました。そこに、一〇人近くの美術史やデザイン史の教員たちが集まってきました。論議好きの人たちばかりで、圧倒されました。それには理由がありました。英国にあっては一九七七年にデザイン史学会が設立され、いよいよ今年(一九八八年)、年四回刊行予定の学会誌がオクスフォード大学出版局から創刊されることになっていたからです。私が英国を訪れた一九八七-八八年は、デザイン史という学問にとってひとつの高揚した時期だったのです。デザイン史学会がすでに存在し、学会誌が刊行されようとしていた英国と、学会もなければ、したがって学会誌もない日本との落差に、私は愕然とした思いを胸に、その後帰国しました。
次にこの大学を訪問したのは、文部省(現在の文部科学省)の長期在外研究員として英国で研究する機会が与えられた一九九五-九六年でした。そのときすでに、ブライトン・ポリテクニックはブライトン大学に改称していました。この間私は、しばしばこの大学を訪れました。主に私の相手をしてくださったのは、美術学部の学部長のブルース・ブラウンさん、美術史家のアン・バディントンさん、そして、デザイン史家で旧知のジョナサン・ウッダムさんでした。このときの大きな出来事は、デザイン史研究センターが大学内に設置され、ジョナサンさんがそのセンター長に就任したことでした。その所蔵資料のなかで目玉となるのが、デザイン・カウンシル・アーカイヴでした。このアーカイヴがオープンしたとき、デザイン史研究センターとデザイン・カウンシルの関係者が一堂に会するパーティーが、道を隔てた反対側にあるロイヤル・パヴィリオンで開催されました。私も招待していただき出席しました。記憶に残る出来事でした。まさしくこのとき、ジョナサンさんは、英国のデザイン史研究の世界における中心的位置に立っているように感じられました。
このときの滞在中、私は、ウィリアム・モリス協会の本部のある〈ケルムスコット・ハウス〉で、「日本におけるウィリアム・モリスの影響」と題して講演をする機会がありました。そのことをジョナサンさんに伝えると、デザイン史学会の学会誌に投稿してはどうかと、勧められました。それを受けて、講演のときチェア(陪席補佐人)を務めていただいていた、当時王立美術大学の客員教授でしたジリアン・ネイラーさんに相談すると、彼女もまた喜んでくれました。こうして私は、講演原稿をジョナサンさんに託して、帰国しました。
帰国すると、さっそくジョナサンさんから電話がありました。話の内容は、学会誌の書式にあうように、預かった講演原稿に少し自分が手を入れたうえで、受理したというものでした。私は、そのお話に喜んで同意しました。そして以下のとおり、その論文は、公になりました。
‘The Impact of William Morris in Japan: 1904 to the Present’, Journal of Design History, vol. 9, no. 4, Oxford, Oxford University Press, 1996, pp. 273-283.
その後も、相互の連絡が続きます。そうしたなか、デザイン史研究センターとヴィクトリア・アンド・アルバート博物館とのあいだでデザインの歴史研究にかかわる共同事業がはじまると、喜びの声がジョナサンさんからもたらされました。また、一九九七年には、ジョナサンさんの『二〇世紀のデザイン』が「オクスフォード美術史叢書」の一冊として上梓されました。さっそくジョナサンさんは、この本の翻訳を私に依頼してきました。私も喜んでそれをお受けする返事を書きました。しかし、版元であるオクスフォード大学出版会は、叢書全巻をまとめて日本の出版社から翻訳刊行することを希望していたらしく、その引き受け手が見つからないまま、この話は自然消滅してしまいました。
あるとき、ジョナサンさんから、ブルース・ブラウンさんと、もうひとりの美術史家の教員と三人で来日するとの連絡が入りました。それを受けて私は、わが家で夕食をともにすることを提案し、あわせて、京都のブリティッシュ・カウンシルの菅原景子さんと改藤和文さんも招待しました。玄関にスリッパを用意していたのですが、ブルースさんは巨漢で、スリッパに足が入らないことがわかり、みんなで大笑いした一幕もありました。
二〇〇一年から二〇〇三年までの三年間、科研費により私は、「戦後復興期の英国におけるデザイン振興政策とモダニズムの変容に関する研究」に従事しました。この期間私は、ブライトン大学のデザイン史研究センターに足を運び、所蔵されているデザイン・カウンシル・アーカイヴを利用して、戦後英国のデザイン振興の一端に触れることになります。
このデザイン史研究センターに通っていたころのことだったと記憶しますが、アン・バディントンさんから、ブルームズバリー・グループの面々がロンドンを離れて住み着いたチャールストン・ファームハウスが近くのイースト・サセックスにあるので一緒に遊びに行こうという誘いがありました。オメガ・ワークショップとの関係で、私もブルームズバリー・グループに関心をもっていましたので、喜んで彼女の車に乗り込み、お供しました。途中、エドワード・バーン=ジョウンズの別荘跡にも立ち寄りました。これもまた、思いがけない探訪の機会となりました。
他方、デザイン史研究センターで資料に目を通していたおりに、学部長のブルースさんから声がかかり、中庭でコーヒーを飲む機会がありました。会話が、いつもになく、奇想天外なものになりました。「うちのジョナサンを紹介したのは誰?」「はい、レイヴェンズボーン・カレッジのジョン・ヘスケットさんです」「それでは、ジョンを紹介したのは誰?」「はい、王立美術大学のジリアン・ネイラーさんです」「それでは、ジリアンを紹介したのは誰?」「はい、それは……」と、途切れることなく質問と応答が続き、結局、私の英国における交友関係のすべてが白日の下に晒されることになりました。ブライトン大学客員教授の称号を授与する旨の手紙が神戸に届いたのは、それから間もない日のことでした。あのブルースさんと交わした不思議な問答が、そのための面接だったのかと、ひとりで笑い転げてしまいました。
ちょうどそのころ、私は、代表に推されてデザイン史学研究会の立ち上げに参加しました。一九七七年の英国のデザイン史学会の設立から遅れること、四半世紀が立っていました。翌二〇〇三年、この研究会にとっての一回目のシンポジウムを開催することになり、迷わず私はジョナサンさんに基調講演を依頼しました。演題は「回顧と展望――二一世紀におけるデザイン史」でした。そのとき、別の用件でアンさんも東京に滞在しており、シンポジウムの前日の夜、三人が泊る渋谷のホテルの近くの居酒屋に陣取って、祝杯をあげました。ちょうどそのとき、研究会誌『デザイン史学』の創刊号もでき上っていました。かくして、英国に続いて日本においても、デザインの歴史研究が学問として誕生したことを、ふたりはこころから喜んでくれたのです。私自身、目頭が熱くなりました。
そのあと、ブルースさんは、ブライトン大学の学長になり、アンさんがブルースさんの後任として美術学部の学部長に就任しました。ジョナサンさんの指導で修士課程を修了した豊口麻衣子さんが、帰国後、神戸大学の私の研究室を訪ねてこられたのは、確かこのころのことでした。一方、私のところで博士論文を作成した、中国からの留学生の高茜さんを、本人の希望に応じて、次なる勉学の場としてブライトン大学に送り出したのも、同じくこの時期のことだったと記憶します。
それでは次に、ブライトン大学から離れて、個別のデザイン史家との交流につきまして少し触れてみたいと思います。
私の最初の翻訳書である『英国のインダストリアル・デザイン』の著者のノエル・キャリントンさんとは、ブリティッシュ・カウンシルのフェローとして英国に滞在したときには、すでに病床に臥されており、奥さまとの手紙のやり取りだけで終わり、実際に会うことはありませんでした。その後、ご両親を見送られるとすぐに、フランスのセント・サヴィンに住む娘さんから、「ふたりが気にかけていたのですが、あなたは両親とどのような関係だったのでしょうか」という手紙が突然舞い込みました。次にイギリスに行く機会に、フランスに立ち寄り、その手紙の送り主であるジョアンナ・キャリントンさん宅を訪ねました。彼女は画家でした。それから文通がはじまりました。しかし残念なことに、二〇〇三年に彼女は帰らぬ人となりました。七二歳でした。二年後の二〇〇五年に、夫のクリスタファー・メイスンさんの手によってロンドンのサッカレー・ギャラリーで彼女の記念展が催され、あわせて画集も刊行されました。いまも私の手もとに残る思い出の遺作アルバムです。
会うべき人物として私にジョナサンさんを紹介してくれたジョン・ヘスケットさんは、その後アメリカに渡るとシカゴのイリノイ工科大学で、それから香港に移って香港理工大学で、デザイン史の教鞭を執り続けました。晩年はイギリスに帰り、その地で余生を過ごしましたが、毎年旧正月を迎えるころになると、年賀状の代わりでしょうか、一年の近況報告が、あたかも長蛇のごとくの長い文となって、私の手もとに届きました。二〇一四年に亡くなり、そのときペニー・スパークさんが、『ザ・ガーディアン』に追悼文を寄稿しました。ジョンさんは、その昔拙宅に宿泊してもらったことも、私が代表を務めるデザイン史学研究会のシンポジウムで基調講演をしていただいたこともありました。忘れられないデザイン史家のひとりです。
さらに私にとって、忘れられないデザイン史家としてスティーヴン・ベイリーさんを挙げることができます。ライリー卿の紹介により、彼のオフィスを訪問したのは、一九八七年の年の瀬のことでした。オフィスは、タワー・ブリッジの近くのテムズ川再開発地で進められていた「デザイン・ミュージアム」の建設現場の一角にありました。詳しい計画を聞き、現場も案内してもらいました。帰国後しばらくして、「デザイン・ミュージアム」の開館レセプションの招待状が届きました。残念ながら出席はできませんでしたが、その後まもなく、館長の職を辞したまま、彼の消息はわからなくなってしまいました。
私が英国滞在中に出会ったデザイン史家のなかで、王立美術大学のジリアン・ネイラーさんやペニー・スパークさん、それに、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のポール・グリーンハルジュさんのことも、忘れることはできません。
ブリティッシュ・カウンシルのフェローとして滞在していたときには、王立美術大学のペニーさんのデザイン史の授業をしばしば聴講させていただきました。教室にはいつもスクリーンが二台用意され、作品の比較などに、それをうまく使用して講義されていたことが、とても印象に残ります。そのとき面識を得たのが、GKインダストリアルデザイン研究所から派遣され、ジリアン・ネイラーさんのもとで修士論文を作成されていた福島慎介さん(その後面矢姓に改姓)でした。デザイン史学研究会が発足するに際しては、面矢さんにも、運営委員に加わってもらいましたし、この研究会が主催するシンポジウムの基調講演者としてペニーさんをお招きしたときには、面矢さんと相談して、GKインダストリアルデザイン研究所の栄久庵憲司さんのオフィスに案内したこともありました。
文部省の長期在外研究員として滞在していたおりには、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と王立美術大学が共同で運営する大学院レヴェルのデザイン史課程の授業に、私は、ジリアン・ネイラーさんのご厚意によって参加することができました。そのとき、ジリアンさんを指導教官として博士論文を書いておられたのが、菅靖子さんでした。その後、菅さんが神戸の拙宅にいらっしゃったとき、デザイン史に関する学会創設についてのお考えがいきなり持ち出されました。確かにそれが導線となって、デザイン史学研究会は誕生したのでした。いまとなれば、懐かしい思い出になります。さらにその後、ジリアンさんが来日したおりには、東京の菅さん宅、滋賀の面矢さん宅、そして神戸の拙宅が、宿泊の拠点となり、三人そろってジリアンさんを歓迎することができました。菅さんは、いま津田塾大学でご活躍になり、面矢さんは数年前に滋賀県立大学を定年により退官されました。
ポール・グリーンハルジュさんとは、彼の編著の『デザインのモダニズム』を翻訳することをきっかけに、親しくなりました。当時彼は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の研究部長の要職にあり、研究室におじゃましたとき、うまくチェルシー・カレッジの渡辺俊夫先生も招かれていて、親しくお目にかかる幸運に恵まれました。渡辺先生は、イギリスで活躍されている日本人のデザイン史家で、ご自宅はオクスフォードにあり、列車に自転車を載せて、ロンドンまで通勤されていました。渡辺先生のご指導のもとチェルシー・カレッジにおいてデザイン史の教育と研究を担っておられたのが、菊池裕子さんでした。実際にお会いしたのは、ペニーさんの来日講演のあとに用意されていた打ち上げのときでした。その後一度帰国し、金沢美術工芸大学の教授として奉職されたのち、昨年(二〇二三年)の秋、再びロンドンへ向かわれました。
他方、ポール・グリーンハルジュさんは、『デザインのモダニズム』が翻訳出版されてそののち、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館を辞職され、カナダにあるアートとデザインの専門大学であるノヴァ・スコティア・カレッジにお移りになりました。おそらく学長として就任されたのではないかと記憶します。その後、『デザイン史学』の創刊に際しては、編集諮問委員会の一員に加わっていただきました。ポールさんは、とりわけガラス器にかかわるデザインの歴史がご専門で、アール・ヌーヴォーについても造詣の深い研究者でした。
そのようなわけで、それ以降英国を訪問する機会はあっても、せっかく面識を得ていた、ジョン・ヘスケットさん、スティーヴン・ベイリーさん、そしてポール・グリーンハルジュさんにお目にかかることはありませんでした。
そうしたなか、デザイン史学研究会が発足して五年が経過したとき、私は、それまでの自分を継続するかどうかにかかわって、外部の複数の、内部の複数の要因に直面していました。そこで二〇〇七年のこと、私は決断して、国外との交流からも、翻訳の仕事からも、研究会の代表からも身を引くことにしました。これまで外へ向けて活動していた自分を断って、すべての関心を内へ向けることにしたのです。具体的にいえば、それは、デザイン史学研究会創設の一年前に立ち上げていた神戸大学表現文化研究会の代表として、その研究会誌である『表現文化研究』の年二回の刊行に、可能なすべての力を投入することであり、自身が抱える博士課程の学生の論文指導に専心することであり、さらに加えれば、自分自身も、学位請求論文の執筆に意を用いることでした。このとき私は、この三点を、神戸大学を定年退職するまでに残されていた六年の歳月のなかで行なわなければならない仕事として、自分に課したのでした。その結果、『表現文化研究』は第一〇巻第二号(通巻二〇号)まで発行して区切りをつけ、論文指導については五人の学生に博士号を授与し、そして自身も、学位論文「富本憲吉の学生時代と英国留学――ウィリアム・モリスへの関心形成の過程」を神戸大学に提出することができました。この論文は、胸の内にあって、密かに私自身の「ウィリアム・モリスへの関心形成の過程と英国留学」を重ね合わせようとするものでした。こうして、二〇一三年の三月、私は、三九年間勤めた神戸大学に別れを告げました。
定年退職により、組織人としての研究生活は終わり、待ち望んでいた、一介の独立研究者としての執筆活動がはじまりました。これを機に私は、生きる場を都会の神戸から自然豊かな阿蘇南郷谷に移し、新たに、ウェブサイトに「中山修一著作集」を設けました。それ以来、この「中山修一著作集」を随時更新しながら、生まれ出る研究成果を公開してきました。このように、世俗との関係を極力断ち切った生活に自分自身を見出し、いま森のなかにあって静かに暮らしているのです。一見すると、世捨て人の研究生活のように見えるかもしれませんが、しかし実際は、英国で学んだことや考えたことがいまだ雑然と頭のなかに散乱し、ある意味でそれを整理整頓する仕事として、現在の私の執筆活動はあるように思います。まだまだ私のこころは、英国にあるのです。若き日に英国との出会いがなかったならば、この晩年に至ってまで執筆に専念することはなかったであろうと思うにつけて、英国での研究を可能にしていただいた諸機関からの援助、それと同時に、英国で私を受け入れてくださった人びとのご親切に、こころからの深い感謝を申し上げなければなりません。その恩義に報いるためにも、体力がある限り、これからも引き続き、しっかりと筆を握りしめたいと思います。
以上、非常に短く、私の英国におけるデザイン史家との交流の一端を書いてみました。書いても書いても、思い出は尽きません。残りは、もし機会があれば、そのときに譲るとして、とりあえずこれをもって、第八編「英国でのデザイン史家たちとの交流」の一文を閉じることにします。
(二〇二四年四月)