中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第三部 わが学究人生を顧みて

第一編 神戸大学での研究生活

はじめに

二〇一三(平成二五)年に私は神戸大学を定年により退職し、それを機に南阿蘇の山荘に居を移しました。最初の一年は、神戸と南阿蘇との往復の日々でしたが、厳しい冬の寒さも体験し、この地での生活への自信がついたところで、晩年を過ごす住まいとして少し増築し、庭もまた自分のデザインで手を入れました。しかし、本格的な執筆活動を前にして、二〇一六(平成二八)年の四月に熊本地震が発生し、翌五月には、心筋梗塞が、私を襲いました。一命はとりとめたものの、その後しばらく体力も気力も沈滞したままで、やっと執筆が始動したのは、その年の晩秋になってからのことでした。そしていま、一年と数箇月を要して、著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』を書き終えました。退職の年に前立腺がんを患って以来、文を書くことから五年ほど遠ざかっていましたので、とても不安のなかでの執筆再会でした。それだけに脱稿したときのうれしさは、ただただ感謝の気持ちで一杯でした。そこでこの機会に、これまでの研究生活の一端を振り返り、ここにまとめておきたいと思います。なお、著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』を含む全四巻は、ウェブサイト「中山修一著作集」において公開しています。ご訪問いただければ幸いです。

一.「デザイン史」への目覚め

私は、東京教育大学農学部林学科木材工学専攻(現在の筑波大学)を卒業すると、同大学大学院教育学研究科修士課程美術学(工芸・工業デザイン)専攻の院生となり、そこではじめてデザインの歴史に気づいた。それは、明石一男先生が「工業デザイン特講」の授業のテクストとして使用された、Ken Baynes, Industrial Design & the Community, Lund Humphries, London, 1967 をとおしてであった。いまもこの本は、私の書斎の書棚の中央を占めている。そのとき、大竹美知子さん(のちに共立女子大学の教授)、廖武蔵さん(台湾からの留学生で、その後母国の大学で長く教鞭をとり、退職を機にカナダへ移住)、そして私のほかに、ひとつ先輩の降旗英史さん(のちに東北芸術工科大学の教授)も参加され、手分けして分担を決め、みんなでこのテクストを輪読した。この本は、私にとって大きな啓示であった。ものをつくることに関与した人びとの具体的な存在を私はこの本から知ったのである。そこに登場していた人たちは、有名無名を問わず、英国の優れたデザイナーたちであった。そしてそこには、彼らが展開した歴史的なデザインのプロジェクトや運動が明確に記述されていた。しかし悲しいことに、そうした実践の事例のみならず、それを担った人たちの名前さえも当時はよく知らなかった。それほど知識が乏しかったにもかかわらず、あるいは逆にそうであったからかもしれないが、いずれにしてもこの授業は、デザインを学ぶ学生として、自分たちの先達の業績について、辞書を片手に直接独力で知識を入手することができたはじめての貴重な体験となり、そのことが大きな衝撃となって私の心のなかへ突き刺さってきた。いま自分たちが取りかかろうとしているデザインの実践、あるはいま自分たちが巡らしているデザインについての思索――これらは、同世代の私たちによって突然にも生み出された関心事というわけではなく、実は長い歴史のなかで検討されてきたことをいまたまたま私たちの世代が無意識のうちに継承しようとしているにすぎないという事実に気づかされたとき、私は、その歴史の内実をよく知り、それを 意識的に ・・・・ 引き受けてみたいという思いに強く駆られていった。つまり、実践上の、あるいはまた学問上の、デザインにかかわる自分たちの父親なり母親なりは一体誰だったのであろうかという疑問が、体内から一気に湧き上がった。私は、明石先生から教えを受けたことを心から誇りに思っているし、デザインの歴史を学ぶきっかけをこのようにして与えていただくことがなかったならば、その後「デザイン史」を専門とする研究者の道を私が歩くことも、おそらくはなかったであろう。

当時、ほかの大学もそうだったのではないかと思われるが、「デザイン史」と呼ばれるような授業科目はなかったし、デザインの歴史に関する出版物も極めて少なく、この分野の学問的土壌は、いまだ本格的な鍬が入れられていない、未開墾の状況にあった。私の疑問は、したがって、すぐにも解決のつくものではなかった。そうしたなか、私は、この分野に関心をもつほかの学生たちと同じように、ハーバート・リード『インダストリアル・デザイン』(勝見勝・前田泰次訳、みすず書房、一九五七年)、ニコラウス・ペヴスナー『モダン・デザインの展開』(白石博三訳、みすず書房、一九五七年)、『現代デザイン理論のエッセンス』(勝見勝監修、ぺりかん社、一九六六年)、利光功『バウハウス』(美術出版社、一九七〇年)、小野二郎『ウィリアム・モリス』(中公新書、一九七三年)、そして阿部公正『デザイン思考』(美術出版社、一九七八年)などをむさぼるようにして読んだ。主としてこれらの書物が、日本におけるこの学問領域の先駆的業績となるものであり、私自身も、ここから重要な指針と栄養分の多くを汲み取ったことはいうまでもなく、その意味で、その学恩にいまでも感謝している。私の修士論文の題目は「現代デザインの本質と位置」というものであった。

二.訳業の開始

私が修士課程を修了したのは、一九七四(昭和四九)年の三月だった。たまたまではあるが、このとき明石先生はご定年を迎えられ、東京造形大学の学長に就任された。私は教育学部美術科の助手として神戸大学へ赴任した。ここで私が最初に執筆した論文は、「デザイン学の発生」と題したもので、日本デザイン学会の設立二〇周年の記念企画への応募論文であった。そのあとに続く数編の論文は、すべて「デザインとは何か」を模索する内容となっており、ある意味で修士論文の主題を延長したものであった。いずれも、著作集1『デザインの近代史論』の第一部「近代への問いかけ」に所収されている。転機が訪れたのは、三〇歳になろうとするときのことであった。短いヨーロッパ旅行中に立ち寄ったロンドンのある本屋で、運よく一冊の書物に遭遇した。ウィリアム・モリス以降の英国の近代運動を叙述したものだった。この『英国のインダストリアル・デザイン』が私の翻訳書の第一作となるものであり、一九八三(昭和五八)年に憧れの版元であった晶文社から、ありがたくも上梓していただいた。

その後もしばらく、翻訳の仕事が続いた。一九八六(昭和六一)年に法政大学出版局から『ミケランジェロ』を出すや、編集長の稲義人さんは、今度は私が訳したかったミッシャ・ブラックの遺稿集である『デザイン論』の出版を快く約束してくださった。一方、玉川大学出版部では、利光功先生のご尽力により『美術教育の歴史と哲学』の翻訳の話が進められていた。私はどうしてもイギリスへ渡りたかった。そしてそこで勉強したかった。するとそれを耳にされた晶文社の島崎勉さんが、親切にも、英国滞在中の研究課題として『ウィリアム・モリスの妻と娘』の翻訳の仕事を投げかけてくださった。ブリティッシュ・カウンシルの試験に合格すると、一九八七(昭和六二)年一〇月に妻とともに大阪空港を発ち、ロンドンの地に足を踏み入れることができた。三八歳のときであった。

三.ロンドンへ

ロンドンでは、私は次の仕事にかかわって充実した毎日を過ごした。ひとつは、三つの翻訳に関して関係者に会ったり、関連資料を渉猟したりすることだった。次に、私の研究対象となっていたウィリアム・モリスにかかわって直接作品を見、文献を閲覧し、そしてこの分野の研究者と意見の交換を行なうことだった。そして最後が、「デザイン史」とはどのような学問なのか、つまり、「デザイン史」は、どのような人や作品や事象を対象とし、どのような方法でそれを記述し、どのような内容にかかわって新たな知識を提示しようとする学問なのか、このことをよく知ることであった。最初のふたつの課題について得られた知見は、雪解けのあとの陽光に照らされた小川のせせらぎに似て、何か温かい、新鮮な響きを私にもたらした。しかし最後の課題が私に突きつけたものは、そのような生やさしいものではなく、全身を痛打されたときと同じような思いにさらされた。イギリスでは、すでに一九七七年にデザイン史学会が設立され、念願の学会誌がオクスフォード大学出版局から創刊されようとしていたし、一方で、ボイラーハウス・プロジェクトの発展的、恒常的活動の場としてロンドン東部のテムズ川再開発地の一角に「デザイン・ミュージアム」の建設が進められていたのであった。このときのロンドンは「デザイン史」で沸騰していた。何と大きな日本との落差であろうか。しかし偶然とはいえ、この時期にロンドンに滞在できたことは、何と幸運であったことだろうか。著作集1『デザインの近代史論』の第二部「デザイン史学とミューゼオロジーの刷新」は、主としてこのときに得た体験的知識を整理してまとめたもので、その後の私にとってのデザイン史研究の基本となる骨組みとなっている。

四.学外の仕事の展開と阪神・淡路大震災との遭遇

この英国留学が終わったころから、私は学外の仕事にも積極的にかかわりをもちはじめた。ひとつは、東洋ゴム工業株式会社のデザイン・コンサルタントの業務であった。あまり知られていないかもしれないが、クルマのタイヤのトレッド・パタンも、デザインの視点が導入されて設計されている。私の仕事は、そうしたデザイン開発の業務に対して包括的な助言と指導を行なうことであった。一〇年以上続いたかと思う。実際のデザインの現場を日常的に知るという意味で、とても有益な体験であったと思っている。もうひとつはミュージアムにかかわる仕事であった。名古屋に国際デザインセンターが創設されるとき、専務取締役の木村一男さんから「デザイン・ミュージアム」のディレクターのお話をいただいた。ロンドンの「デザイン・ミュージアム」のことが印象深く頭に残っていたこともあって、お話をお聞きして、とても感動したことをいまなお鮮明に覚えている。

一方、予定されていた三つの翻訳書が、帰国後それぞれ数年のうちに順番に完成し、世に出ていった。どの訳書にも、英国留学中の見聞が取り入れられており、私にとって思い出深い仕事となった。そのとき、『美術教育の歴史と哲学』の出版に際しては、幸いにも鹿島美術財団から出版援助金をちょうだいした。そのご厚意はいまも忘れることはできない。

この間、イギリスで懇意にさせていただいたジョン・へスケットさんやジャン・マーシュさんが拙宅を訪れたり、ウィリアム・モリス・ギャラリーの館長のノーラ・ジロウさんが展覧会にあわせて来日したおりに東京で再会したりして、旧交を温める機会があった。こうしたこともあって、私は二度目の英国留学を希望し、ありがたくも、一九九五(平成七)年八月から一〇箇月間、文部省の在外研究員として英国に向かうことが決まった。このことを主だった英国の友人たちに知らせると、みな喜び、再会を待ち望む返事が届いた。とりわけ、ウィリアム・モリス協会の前会長のレイ・ワトキンスンさんからは、八月下旬に〈ケルムスコット・ハウス〉のウィリアム・モリス協会においてジリアン・ネイラーさんをチェアとして「日本におけるウィリアム・モリス研究」についての講演会を開催したい旨の手紙が届いた。うれしかった。しかしその翌日の一月一七日の未明――阪神・淡路大震災が私たち家族の住む神戸を襲った。幸いなことに、家族四人のいのちは無事だった。住んでいたマンションも倒壊を免れた。数日後にはジャン・マーシュさんが東京での仕事のあとに神戸にやってきて、続けて阿蘇の山荘へ行ってみんなで遊ぶことになっていた。それもこれも、すべてが遮断された。少し生活を取りもどしたのは、新学期がはじまってしばらく立ってからだった。それでも、図書館の機能はまだ完全には回復していなかった。講演原稿ができたのは、英国へ出発する、本当に前日のことであった。

五.二度目の英国での研究生活

一九九六(平成八)年は、モリス没後一〇〇周年の記念となる年であり、私たちのロンドン滞在は、偶然にもその年と重なった。前年の九五年から徐々に盛り上がりを見せ、あちこちで講演会やシンポジウム、そして展覧会が企画され、まさしくモリスは仲間内での「時の人」となった。著作集1『デザインの近代史論』の第三部「英国デザインの近代」に所収されている数編の論文と著作集2『ウィリアム・モリス研究』の第一部「ウィリアム・モリス没後一〇〇周年」のなかの二編の講演録は、そのような時代背景の余韻のもとに執筆されたものである。こうして、二度目の英国留学についての私の記憶は、地震の衝撃、一色に塗り染められたモリスの話題、懐かしい旧友たちとの再会、そして四人家族でのロンドン生活――このような思い出と強く結び付いている。

それとは別に、この英国滞在中にぜひとも行なっておきたかったことは、モダニズム以降の歴史の記述のあり方とミュージアムにおける展示のあり方について、研究者たちと意見を交換することであった。それは、当時進めていた六冊目の翻訳書となる『デザインのモダニズム』の仕事とある程度かかわるものでもあった。このテクストの編者であるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)の研究部長のポール・グリーンハルジュさんにお会いしたときは、まさにポスト・モダンのデザインにおける諸現象が話題の中心を占め、彼がそのとき研究の対象としていたアール・ヌーヴォーや、オープンがまじかに迫っていたヴィクトリア・アンド・アルバート博物館主催のウィリアム・モリス展の話にとりわけ花が咲いた。その一方でこの時期、ミッシャ・ブラック・メダルの受賞レセプションが開かれた。受賞者は栄久庵憲司さんで、『デザイン論――ミッシャ・ブラックの世界』の翻訳をしていたこともあってか、私も招待していただいた。ブラックはいうまでもなく、イギリスを代表するモダニスト・デザイナーのひとりである。しかし、もはやこの時期になると、ブラックの影は薄くなっていた。だからといって、それに代わるポスト・モダンの華美な装飾が必ずしももてはやされているわけではなかった。そのときのロンドンの全体的な関心は、機械的な生産から手工芸的な製作へ、つまりはポスト・フォーディズム、あるいはグリーン・デザインへの移行へと確かな足取りで向かっているかのように私には感じられた。

六.英国の仲間たちの来宅

帰国して数年が立ったころ、王立美術大学(RCA)の客員教授で、知り合ってもう一〇年以上にもなるジリアン・ネイラーさんが遊びにやってきた。六甲ケーブルを使って一緒に有馬温泉に行った。ケーブルを降りるころ、予約していた旅館のクルマが山道を登って私たちを迎えにきた。それが何と、ロンドンの市中を走る黒塗りのタクシーと同型のものだった。偶然とはいえ、スクリーンに描き出されたような演出にみんな顔を見合わせて笑ってしまった。それからブライトン大学のブルース・ブラウンさんやジョナサン・ウッダムさんたちも、来日の機会に拙宅に立ち寄ってくださった。私と妻がブライトンに行くとき、いつも一緒に食事をする仲間たちである。いま、ブラウンさんは学長になっているし、会うとにこやかに接してくれるアン・バディントンさんがブラウンさんの後任として美術学部の学部長を務めている。

七.富本憲吉研究の開始

二一世紀に入ると、私の関心も徐々にインダストリアル・デザインの領域から工芸の領域へと移っていった。ちょうどそうした時期に、ジャン・マーシュさんからメールが届いた。それによると、モリスの住居であった〈レッド・ハウス〉をナショナル・トラストが買い上げたこの機会に、その家にまつわる歴史書の執筆をナショナル・トラストが依頼してきたらしく、ついては、この家を訪問した日本人を特定するにあたって協力してほしいというものであった。その後しばらくして、マーシュさんは、ウィリアム・モリス協会の会長職に、さらにはウィリアム・モリス・ギャラリーの館長職に就かれたように思う。さてそこで話題になったのが、富本憲吉の訪問の有無であった。富本は英国留学を終えて帰国すると、一九一二(明治四五)年に『美術新報』に二回にわけて「ウイリアム・モリスの話」を投稿し、そのなかで〈レッド・ハウス〉について記述していた。これまで日本人による富本研究にあっては、そのことをもって、富本は〈レッド・ハウス〉を訪問したものと推定されていた。しかし、改めてこの「ウイリアム・モリスの話」を読み返してみると、少なくともそのように推定するにふさわしい根拠は見当たらず、そうではなかったのではないかと思われる確たる資料に行きつくことになった。その後刊行されたマーシュさんの本には、私からの情報の提供としたうえで、そのように記述されていると思うが、私の関心は、それで終わったわけではなく、実はこれまでの富本研究には、少なからぬ誤謬が含まれているのではないかとの思いが増幅していった。その一例が、富本と、東京美術学校時代の美術史の教授であった岩村透との関係であった。これまでに見受けられた説によると、岩村がモリス思想を富本へ教授し、英国留学への関心を醸成したとされてきた。しかし、丁寧に資料を読み解いていくと、そうではないことがわかってきた。このような経緯のなかから、モリスを対象にした富本と岩村の両論考がそれぞれに改めて検証されることになった。著作集2『ウィリアム・モリス研究』の第三部「『冬の時代』のウィリアム・モリス讃歌」は、そのとき執筆されたふたつの論文によって構成されている。

こうして、結果的に私の関心は、これまでの英国から新たに日本へ移っていくことになった。もしそうしたことが起こっていなかったならば、私の研究は、引き続き、英国の戦後復興期におけるグッド・デザインの振興について向けられ、次には、その後の批判的動向としてのユース・カルチャーやポップ・デザインの登場にかかわる調査へと、引き込まれていっていたにちがいなかった。前者についての基本となる調査は、ブライトン大学のデザイン・カウンシル・アーカイヴを利用して、ほぼ終了していた。しかし、いまになって思い返してみると、これでよかったような気がする。一九八七―八八年と一九九五―九六年の二度の留学を含めて、それまでイギリスで調査をするに際して、対応していただいた研究者や関係者の口から、一方では日本での研究成果を期待する声が暗に上っていたからである。こうしたなかにあって、私自身、次第に「日本」を意識するようになっていた。

八.デザイン史学研究会の立ち上げ

二〇〇二(平成一四)年の一一月、デザイン史学研究会の創設に際して私は推されて初代代表に就任した。これは、新しい学問領域としての「デザイン史」に、日本にあってはじめて焦点をあわせた学術団体であった。主な活動は、年一回の研究雑誌『デザイン史学』の刊行、年二回の研究発表会の開催、それに年一回のシンポジウムの開催であった。しかし五年目が終わろうとするころ、他の運営委員の方々とのあいだで運営の手法や考え方にかかわって齟齬が生じ、私から身を引いて、代表だけでなく、会員であることも辞めてしまった。この間、会誌の編集やシンポジウムの企画に携わっただけでなく、ニューズレターを送信し、運営委員会の議事録や総会の議案書を作成し、ホームページを更新し、日々全力投球で業務にあたったことは確かであり、そのため、無念さというよりも、むしろ充足した達成感の方が先立って残った。とくに、一九八七(昭和五二)年の最初の英国留学以来、二〇年近くにわたって親しくさせていただいていた、ブライトン大学のジョナサン・ウッダムさんやキングストン大学のペニー・スパークさん、そして香港理工大学のジョン・へスケットさんをシンポジウムの基調講演者としてそのおりおりにお招きできたことは、私にとっても格別の喜びであった。他方、発足からこの時期に至るデザイン史学研究会の活動は、英語圏にあっては『デザイン史(Journal of Design History)』(第一八巻第三号、オクスフォード大学出版局、二〇〇五年、二五七-二六七頁)をとおして、また中国語圏にあっては『芸術学研究』(第二巻、南京大学出版社、二〇〇八年、二〇九-二三一頁)をとおして、詳細に紹介された。決して大きいとはいえない、わずかばかりの学術貢献であったにもかかわらず、こうして周囲の人びとに私たちの行動が温かく迎え入れられたことは、これもまた、私にとって望外の喜びとなるものであった。

九.神戸大学表現文化研究会の創設と博士論文の指導

その一方で、二〇〇一(平成一三)年の六月に、大学にあっては、岩井正浩さん、魚住和晃さん、柴眞理子さん、吉田典子さん、小高直樹さんの五人の研究仲間とともに、部局を越えて自発的に、神戸大学表現文化研究会を立ち上げた。総合人間科学研究科の博士後期課程の新設に伴って、学生の論文発表の場を確保することが主たる目的だった。研究会発足以来、年に二回、学術雑誌『表現文化研究』を定期刊行し、同じく年に二回、学内外の研究者を招いて、最新の研究成果を発表していただく研究例会も開催してきた。この研究科で学位を取り、他大学の教員となってこの雑誌に再び論文を投稿してくる者も増えてきたし、母国に帰り、研究者生活に入った者も少なくなかった。こうして発足して一〇年が立ち、当初の目標がそれなりに達成されたことを受けて、二〇一一(平成二三)年の三月に、最終号となる『表現文化研究』第一〇巻第二号を発刊すると同時に、神戸港クルーズによる「さよならパーティー」を開催し、この研究会の活動は無事閉幕した。代表を務めた一〇年間、この研究会が、世に巣立っていく若い研究者たちにとっての心地よい揺りかごとして、もしうまく機能していたとすれば、私たち教育者にあって、これ以上の幸せはなかった。

私が指導した最初の博士後期課程の学生は中国昆明から来た高茜さんで、雲南省麗江地区にわずかながら継承されている東巴文字に関する研究で二〇〇四(平成一六)年度に学位を取り、いま上海の大学で教員をしている。私も、小高直樹さんと一緒に麗江での彼女の調査に加わった思い出をもっている。次に、スリランカからの留学生クマーラ・ヘッチアーラッチさんが二〇〇八(平成二〇)年度に提出した博士論文は、祖国の村々にいまなお残る網代壁の家づくりにかかわる社会的文化的意味について、参与観察と文献分析に基づき、得意の英語を駆使して詳細に考察したものだった。また、この年度には、橋本啓子さんも、積年の思いを凝縮させた優れた倉俣史朗研究で学位を取得した。橋本さんはそれまで、英国の大学の修士課程で「デザイン史」を学び、帰国後、長らく公立の美術館で学芸員として活躍されていた。二〇一一(平成二三)年度には、すでに大学教員の職にある松實輝彦さんが、中山岩太の一九三〇年の広告写真《福助足袋》とその周辺に焦点をあて、浩瀚な論文にまとめ上げた。そのなかにあって、日本における写真のモダニズムが本格的に論じられていた。私にとっての最後の博士後期課程の指導学生は中国青島の出身の于暁妮さんだった。清末から建国までの上海で発行された新聞『申報』の記事と広告を基本資料として、近代中国のカレンダー・ポスターである月份牌の消長について詳細な記述を試みた博士論文でもって、私が退職する二〇一三(平成二五)年三月に学位を取得した。

一〇.ブライトン大学客員教授の称号の授与

二〇〇三(平成一五)年の春、ブライトン大学から一通の公式の手紙が届いた。それは、ブライトン大学客員教授の称号を授与するというものだった。デザイン・カウンシルの第三代会長を務められたライリー卿(ポール・ライリーさん)のご厚意によって、一九八八(昭和五三)年に王立芸術協会の会員(FRSA)に推挙されたことがあったが、はからずも、それに続く名誉ある称号を英国からいただいたことになった。さらに幸運が続いた。それは、ターニャ・ハロッドさんからの突然のメールであった。彼女からの連絡によると、年三回発行の工芸に関する学術雑誌『近代工芸(The Journal of Modern Craft)』を、オクスフォードのバーグ出版社(版元はのちにロンドンのラウトリッジ社へ移行)から二〇〇八(平成二〇)年に創刊するので、国際諮問委員会の委員に加わってほしいという依頼であった。もちろん、ありがたく引き受けることにした。一方中国からは、二〇一〇(平成二二)年に華東理工大学美術・デザイン・メディア学部から連続講演の招待を受けた。そのときの三つの講演題目は「プロダクト・デザインの実際と学生作品の紹介」「デザイン史とはどのような学問か――英国の史的事例を中心として」「一九-二〇世紀のデザイン思想の概略――西洋の史的事例を中心として」であった。私自身のなかにあって、「デザイン史」という学問が、英国から日本へ、そして日本から中国へと、それぞれの国境を実質的に越えた瞬間であった。

一一.学位請求論文の執筆

少しさかのぼる二一世紀の最初の一〇年の半ばころ、私の研究は、富本研究に集中していた。まず、富本の東京美術学校時代に焦点をあてモリスへの関心の芽生えを例証し、次に、富本の英国留学の実態を明らかにした。このとき執筆された三編の論文が、著作集2『ウィリアム・モリス研究』の第二部であり、一方、それらの論文を原形として、全体として書式を整えたものが、私が神戸大学に提出した学位請求論文「富本憲吉の学生時代と英国留学――ウィリアム・モリスへの関心形成の過程」であった。学位が正式に授与されたのは、六〇歳の誕生日を迎える三箇月くらい前のことであった。自らの手で還暦を祝う、ささやかな出来事であったといえる。そしてそのころ、定年へ向けての著作集の刊行を考えるようになった。切羽詰まって一夜漬けで卒業文集の原稿を殴り書きするような、不心得な小学生の行ないと同種の行為であることを十分自覚しつつも、研究者としての痕跡を、限られた人のあいだだけにでも残しておきたいと思った。たとえそれが、かたつむりの足跡に似た、取るに足りない微々たるものであろうとも――。

一二.私家版著作集全二巻の作製と神戸大学退職

こうして富本研究は加速した。書いているとき、一番気になっていたことは、富本は学生時代にどのようにしてモリスに関心をもつようになり、ロンドン滞在中にはどのようなモリス研究を行ない、そこで学んだことや心に刻まれたことが、その後の彼の生涯にどのように生かされたのか、といった諸点であった。とくに後段の関心が強く私を突き動かし、「学生時代と英国留学」を書いたあと、ただちに私は「近代の家族」の執筆に向かった。 工場 こうば だけではなく、家族のなかにあって、モリスの思想と実践を富本はどのように導入したのであろうか、あるいは、何か事情があって断念せざるを得なかったのであろうか――その実態を明らかにすることによって、日本におけるモリス受容の最初期の様相を、どうしてもこの目で確かめてみたかったのである。著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』の第一部「出会いから結婚まで」を構成する四つの章において、ふたりの出会いから結婚に至るまでの道のりとあわせて、その間の憲吉のモリス的実践と紅吉(一枝)の「新しい女」としての行動の様子が資料に基づき詳細に描写されている。

神戸大学現役最後の年を迎えようとしていたそのとき、前立腺にがんがあることが判明し、全摘出の手術を受けることになった。そこで、やむを得ずこの時点で著作集の刊行は諦め、それまでのすべての著述原稿をふたつに分け、『デザインの近代史論』と『富本憲吉とウィリアム・モリス』の二巻からなる私家版冊子体として印刷製本し、定年退職の区切りとした。残念ながら、「富本憲吉と一枝の近代の家族」は未完のまま、筆を置く結果となったものの、晩年に至るまで、憲吉の工芸思想と実践は、モリスから離れては、あるいは妻一枝を抜きにしては、あのようなかたちで存在することはなかったのではないだろうかというのが、私の一貫したそれまでの仮説であり、その実証は、定年をまたぎ、その後の作業にゆだねられることになった。私家版冊子体の著作集(全二巻)は、少部数であったこともあり、退職後新たに大学のサーバを利用してウェブサイトを設け、「中山修一著作集」として、とりあえずネット上で公開することにした。

従来の規定から一年延長され、二〇一三(平成二五)年三月に、私は定年により神戸大学を退職した。一九七四(昭和四九)年四月に神戸大学に着任して以来、この大学で私は「プロダクト・デザイン」の実技と「デザイン史」の講義を主に行なってきた。またこの間、「デザイン史」の講義は、奈良教育大学、大阪教育大学、国立高岡短期大学(現在の富山大学芸術文化学部)、長崎大学、宝塚造形芸術大学(現在の宝塚大学)、静岡文化芸術大学、放送大学においても、それぞれ数年から十数年にわたり集中講義として多くの学生のみなさんに受講していただいた。この「デザイン史」という生まれたばかりの若い学問が、それにふさわしい、こうした若い人たちの力を得て、今後立派に成長していくことを祈らずにはおられなかった。

一三.南阿蘇の山荘での隠棲とウェブサイト「中山修一著作集」全四巻の完結

現役時代、英国デザインの歴史を学ぶにつれて、私は、一九世紀末にみられたあの田園回帰運動やアーツ・アンド・クラフツ運動に次第に強い関心をもつようになり、幸いにも一九九二(平成四)年の暮れに、阿蘇高森町の色見地区の牧野道を上った一区画に小さな山荘をもつことができた。ウィリアム・モリスの別荘〈ケルムスコット・マナー〉の単なる真似事にすぎないことは十分承知しながらも、それ以降、春と夏の休みの一時期を家族とここで過ごし、自然に囲まれた生活を楽しんだ。そうするなか、退職後は、栄華の巷から距離を置き、阿蘇山中のこの山荘に隠遁、蟄居をし、独りウィリアム・モリスと富本憲吉にかかわる論考を引き続き執筆する学究生活に憧れを抱くようになっていった。しかしながら、事態はそのように順調にうまくは進まなかった。

定年後の一年目は四季を通じてのお試し山荘暮らしにあてた。二月の豪雪には確かに閉口した。それでも意を決して少しばかりの増築を行ない、二年目の暮れに神戸を離れ、この高森町に引っ越してきた。すると今度は、阿蘇中岳の活発な火山活動による降灰である。夢に見た新生活はどんどん遠のいていく感じがした。やっと一息つけたのは二〇一五(平成二七)年の秋ころからであったろうか。しかしそれもつかのまのこと、二〇一六(平成二八)年の四月一四日と一六日、突如として熊本を大きな地震が襲い、普段の生活が一変した。さらに、それから一箇月も立たない五月一一日の未明、今度は激しい胸痛が私を襲い、緊急入院をすることになった。心筋梗塞だった。冠動脈の一箇所にステントを留置し、幸い一命はとりとめた。しかし退院後は、体力や気力にかかわる活動能力がこれまでの六、七割程度にまで低減し、超低速生活を強いられることになった。何とか論文が執筆できる心身の状態が整ったのは、その年の紅葉の季節を迎えるころであった。たとえいかなる超低速生活のなかにあっても、それでもなお筆を進めたかった。研究者としての残されたいのちを、あたかも阿蘇の火柱のごとくに、真っ赤に燃やし続けながら――。それから一年と数箇月が立ち、著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』の第二部「家庭生活と晩年の離別」を構成する三つの章をどうにか脱稿することができた。かくして、四十数年の永い歳月を重ね、ついに目標としていた全四巻の著作集は完結した。

おわりに

以上に述べてきたように、ここに公開する著作集(第一巻『デザインの近代史論』、第二巻『ウィリアム・モリス研究』、第三巻『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』)、第四巻『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』)は、「デザイン史」にかかわる私のこれまでの研究の足取りをほぼ順番にまとめたものです。したがいまして、四つの巻に分冊化されているとはいえ、明らかに内容的には連続しており、その意味で全体としてこの一著が、私にとりましての文字どおり処女作となるものであります。

山あり谷ありの長い千里の道のりであったような気もしますが、その一方で、今朝の出立からわずか一日を歩いただけで早くも夕暮れになってしまったような気もしています。いずれにいたしましても、はじめて体験する道なき道の旅路であり、風景から出会う人、見るものから聞くもの、そのすべてが新鮮で、感動の連続でした。こうしたひとり旅を、途中迷子になったり、体調を崩したりしながらも、最後の宿まで何とか続けることができ、いま旅の荷解きをしようとしていることに無限の感慨を覚えます。

冒頭において、学生時代にいかにしてデザインの歴史に関心をもつようになり、「それを 意識的に ・・・・ 引き受けてみたいという思いに強く駆られていった」か、その経緯につきまして書きました。果たしてこの一著が、「実践上の、あるいはまた学問上の、デザインにかかわる自分たちの父親なり母親なりは一体誰だったのであろうかという疑問」に対しての十分な答案となっているでしょうか。その不完全さを恐れながらも、そのご指導に感謝しつつ、ここにこうして公開する一連の著作物をもって、長年にわたって留年に留年を重ねてきた不肖の弟子が、いまは亡き恩師明石一男先生に提出する卒業論文とさせていただきます。

この間私は、実にありがたいことに、国内外の多くの人から教えと励ましを受けることができました。いまお一人おひとりの記憶が私の脳裏に鮮やかに蘇ってきています。そのような温かい友情に支えられることがなかったならば、当然ながら、いまの自分はなかったにちがいありません。お名前を挙げることは差し控えますが、この場をお借りしまして、そうしたすべての師と学生と友人のみなさまに、そして身近な家族にも、心からの感謝の気持ちを伝えたいと思います。さらにあわせて、これまでにお世話になった、大学、図書館、美術館、博物館、学術団体、出版社、財団、協会、企業等の関係各機関に対しましても、深くお礼を申し上げなければなりません。おかげさまをもちまして、私も、こうして無事に、自らの研究者生活に何とかひとつの句読点を打つことができました。いま、粗末ながらも自分なりの研究上の起承転結を著作集というかたちで公にする幸せを感じています。この公開がわずかでも恩返しにつながるようであれば、私にとりましてこれ以上の喜びはありません。これまでにご支援をいただきましたみなさま、改めまして、本当にありがとうございました。

最後になりますが、処女作としての卒業論文を提出したいま、やっと研究者として独り立ちができたような気がしています。そして、いま一度初心に立ち返り、再び残された旅に出たいと思います。若き日に抱いた学問への意志と愛情がいつまでも持続することをひたすら願いながら――。



(二〇一八年三月)