この出来事が起きる前までは、一枝は、自己のセクシュアリティーを見つめ、苦しみ、そこから逃れて新しい地平にあって、一心に生きようとしていたのでした。そのことは、一九一九(大正八)年一二月号の『解放』に寄稿している「海の砂」によく表われています。
久しい間、幾年か私は、自分を不良心なものと思つたし、不徳義なものだとして見てゐたし、不道徳な人間だと思つて見過して來た。勿論、それを恥ぢた[こ]ともあつたし、強く責めて來た時もあつたが、とかく眞實の自分を探りあてる間近になると卑怯にも一時逃れをやつてゐた。それが「或る事」から、まるで考へが變つて仕舞つた。そしてどうにかしてそこに見つけた光りを、少しでも見失ひたくないと思つて、どれだけ一心に唯その光りに寄り縋つて來たろう。限りなく善くなること、限りなく正しい道を求めること、それが自分の探るべき一つのものであつた82。
一枝が、「或る事」といっているのは、憲吉との結婚を指すものと思われます。結婚後一枝は、「限りなく善くなること、限りなく正しい道を求めること」を願って、ひたむきな努力をしてきていたのでした。しかしその二年後、一枝は、一九二一(大正一〇)年の「安堵村日記」(『婦人之友』六月号)には、このように書いています。
くらいところ、おちてゆく程、自分を責める態度が強くなつてくる。他人を責めることの上手な自分は、かつて他人を責めたより、もつと激しい強い力で自分を責めてゐるのだ。それから、自分を底の底まで侮蔑してゐる。意地悪く卑める。自分の痛い痛い傷を、實に残酷にしつこくあばく、ほじくりたおす。自分程、いやな人間、悪い者は、もうゐないのだと云ふ事を、自分に無理にでも思ひこませようとする氣持がひどい音をたてて荒れ狂ふている83。
なぜにこうも自分を責め立てるのでしょうか。一枝を頼ってはじめて丸岡秀子が安堵村を訪れたのが、この年(一九二一年)の春のことでした。それに続いて、女高師の生徒たちが、富本家に出入りするようになります。そのなかに、小林信の姿もありました。このとき、自分の心のなかに、かつての「不良心なもの」「不徳義なもの」「不道徳な人間」の化身の再来を見出し、「氣持がひどい音をたてて荒れ狂ふている」ことを察知していたとすれば、一枝の押さえ切れない苦しいその思いが、この一文に反映されているのかもしれません。疑いもなく小林の出現が、一枝の「不良心なもの」等々を惹起しているのです。しかし、もはや一枝は自由な独り身ではありません。子どもも夫もある立場です。何としてでも「不良心なもの」を抑え込まなければなりません。続いて次の年、一九二二(大正一一)年の一一月号と一二月号の二回に分けて、一枝は、「母親の手紙」を『女性』に連載します。そこにそのことが、よく描き出されています。
かなりの長大な手紙です。かいつまむと、こうなります。「身体だけではなく、あなた方の知恵も、たましひも、見事にのび、善くそだつたのを母さんはどんなにうれしく沁々見やつたことでせう」84と、子どもの成長に喜びを感じ、「陽ちやん、陶ちやん、母さんはあなた方のために、やつぱり夢中で暮してゆきます。母さんは、どんなに苦しいことに出逢つてもあなた方のために、生きてゆきます。あなた方の愛と信頼は、母さんに自重、勇氣、忍耐、謙遜、を敎へ示してくれる筈です」85と、自分にとっての子どもの存在の大きさに言及します。子どもの父親のことについては、こういいます。「お父さんは、美しい心をもつた、人間の心を温かく結びつけ、人間の生活にうるほいのあるやうな陶器を焼成さすためにどれだけ苦しんでゐらつしやるかわかりますか、お父さんの苦しい氣持や、出來てゆくお仕事をいつも間近で見たり、きいたり出來てゆくあなた方や母さんは、どんなにしあわせでめぐまれてゐるかしれません」86。そして、自分の未熟さや未完成さの補完を、子どもに託すのです。「母さんに出來なかつたものは、あなた方がその續きをしてくれる。そして不完全からだんだん完全にうつつてゆくのだからそうさびしく思はなくてもよいと、母さんの別の心が母さんを慰めてくれるのもその時です」87。そして、最後をこう結ぶのでした。
母さんがあなた方に手紙をかきたいと思つたきもちが、いま母さんには、はつきりわかりました。ありがとう、陽ちやん、陶ちやん、母さんはあなたがたにおれいをいひます。
あなた方のために、母さんはいつでもともするとふみかける汚れた道を踏むことなくして、別の正しい路をさらにさがしにゆくことが出來るのです。……
あなた方よ、愛しあつて下さい。助け合つて下さい。そして幸福でゐてください88。
以上が、この「母親の手紙」一二月号の要旨です。明らかに一枝は、子どもにも夫にも感謝しています。さらに、ふたりの娘の成長とともに自らも成長することを願っています。この時期の一枝は、決して「汚れた道」へと進むことなく、子どものためにも「別の正しい路」を見出そうと、必死にあがいているのです。しかし、事の経緯からすると、その努力はむなしく潰え去り、もはや「別の正しい路」へと向かうことはありませんでした。
一枝が『女性』に「母親の手紙」を書いたのは、ふたりの子どもが、「小さな学校」に通い始めて、半年ほどが経過した時期です。このころ小林は、陽と陶を相手に勉強を教えたり、一緒に遊んだりしており、一枝の気持ちは、徐々に小林に傾斜していったにちがいありません。これをきっかけに、あたかも貯水池の堤が決壊するかのように、もはや止めようもなく、一枝の思いは横溢してゆきます。それに呼応するかのように、小林の一枝を慕う情愛も高鳴ってゆきます。翌年(一九二三年)の夏には、尾道の向島の海岸で一枝と小林は歓喜に包まれて海水浴を楽しみ、次の年(一九二四年)の四月には、山口の学校を退職し「小さな学校」の教師となって、小林は一枝のもとに身を寄せることになるのです。こうした経緯のなかにあって一枝は、本人の表現に従えば、「汚れた道」へと舞い戻ってゆくのでした。
富本家の東京移転を知るうえで、残されている唯一ともいえる具体的な資料は、一枝が一九二七(昭和二)年の『婦人之友』の正月号に寄稿した「東京に住む」という一文です。ここに一枝はどう書いているのか、以下に見てゆきたいと思います。
一枝は、「思へば一九二六年の早春から、如何に私達が悩み多い日を送つて来たことか」89と述懐します。そして「東京に住む」の冒頭において、一枝はこのように書くのです。
いくどか廻り來た大和國の四季に、住馴れた私達が、東京に移り住むやうになつたそこには樣々の理由があつたが、そのなかでも特に大きく強い事柄があり、むしろ樣々の理由といふよりそのこと一つが根本的の動きであつて、それ以外の私共のいふ理由は枝葉の問題に過ぎないが、その根本の問題にふれることは家庭的のことで、今は書くことがゆるされない。かいつまんで云ふなら人間同志のなかに必ずかもされる危機、その危険期に私達も亦等しく陥つた。さうして久しい間そこに悩み、嘆き、かなしみ、ありだけの人間らしい悲痛の感情の幾筋かの路を味ひ過ぎた。さうしてどうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心し、そのためにこれまでの境遇、生活を見事にぶち破つて新しい生活を築きたてたいと思つた[。]その結果へ枝葉の理由が加へられ、東京に住むことゝなつた90。
一枝は、東京に移り住むようになった理由には「特に大きく強い事柄」である「根本の問題」があって、それについては「家庭的のことで、今は書くことがゆるされない」といっています。この言葉は、自分のセクシュアリティーについて、いまはカミング・アウトすることはできないという意味のことをいっているのではないかと考えられます。「どうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心」ともいっていますが、これは、転地による療法を暗に指しているのではないでしょうか。小林が去っても、問題が根本的に解決したわけではなく、次の新任教師と同じ関係が生じる可能性も排除できませんし、さらには、これから以降も奈良女高師の女生徒たちが、一枝の魅力に惹かれて集まってくる可能性も、全く否定することはできません。そう考えれば、一枝の性的指向を再度惹起させないためには、前回東京から安堵村へと転居したように、転地しか、道はないのです。荷造りがはじまりました。
かうして幾十日か過ぎた。自分に頼む心の弱々しさを知らねばその間すら過すことが出來ない程もろい自分であつた。夫に勵(はげ)まされ、荷をつくりかけてゐてすら、さて何處に落着くかその約束の地を見ることが出來なかつた。夫の仕事のためには陶器を造るために便宜多い土地を撰定しなければならなかつた。土を得るに、磁器の料を採るために、松薪を求めるためにも、その他仕事する上には繪を描く人、文筆をとる人々のやうに軽らかに新しい土地に轉ずることは出來ない色々の困難があつた91。
「夫に勵(はげ)まされ」、荷造りをしているところから判断すれば、憲吉の一枝に対する同情の気持ちが見えてきます。一方の一枝は、転地先を選ぶにあたって、製陶に必要な薪や土などの入手に際しての利便性について憲吉を思いやっています。そうした夫の仕事上の特殊な条件を考えると、落ち着くべき約束の地がなかなか見つかりません。それに、娘たちの今後の教育のことも、考慮に入れる必要がありました。一枝は、こう続けます。
夫の仕事のことだけを念頭に置いてゆくなら、琉球にでも北部朝鮮にでも、九州の山深くある片田舎にでも容易に決定することが出來た。さうして私は夫を愛してゐる。その仕事を思ふことは夫についでゐるものである。しかしながら、すでに女學校へ入學しやうとする程たけのびた上の子供、まもなく姉の後につかうとする妹兒[。]それも四[、]五年の間家庭にあつて特殊な方法で敎育されて來た子供達であつたから、今後の教育方法について考へることが實に多かつた92。
解決すべき問題が複雑に絡みあっているのです。なかなか結論へはたどり着けません。話しあう場を変えるために、山陰の奥の湯宿へ向かいました。
夫は夜は荷をつくり晝は生活費を受るために土をのばし呉州をすり、つめたい素焼の壺を膝にのせたり、窯に火を投げた。さうして少しの金を得たので、私達はいよいよ最後の決心をつけるために何處に居住すべきかを決めるために、その金をもつて短い間の旅ではあつたが秋はじめ山陰の奥まで出かけて來た。古風な湯宿で過した十日程の日數、しかしそこでもまだあざやかな決心がつきかねたまゝ再び悩み深い歸路をとらねばならなかつた93。
場所を変えて話しあっても、どこへ転居すればよいのか、決心がつきません。さらにそのうえに、「金の問題と、子供を無駄に過させてゐる心配、生活に落ち着きのないところからくる焦燥」94が一枝の心に重くのしかかります。ついに一枝は、そのとき神を見ました。
神を見る心、ひたすらに信頼する世界、祈り、これを失してゐたことがすべての悩みの根源であることを強く思つた。私は自分の心を捨てゝ神の意志を尊く思ひ、そこで新しく生まれてこない限り自分達の生活は何度建て直しても駄目であることを知つた。
こゝに歸依したことは同時に小さい自我を捨てたことである。世界が限りなく廣く私達の前に幕をあげた95。
ここに至って一枝は、宗教心に帰依したのです96。一九一四(大正三)年発行の当時の新約聖書「ロマ書(ロマ人への書)」(現在訳の「ローマ人への手紙」)第一章の第二六節と第二七節には、同性愛について、こう書かれてありました。
二六 之によりて神は彼らを恥づべき慾に付し給へり、即ち女は順性の用を易へて逆性の用となし、二七 男もまた同じく女の順性の用を棄てて互い情慾を燃し、男と男と恥づることを行ひて、その迷に値すべき報を己が身に受けたり97。
また、異性装については、舊約聖書「申命記」第二二章第五節に、こう書かれてありました。
五 女は男の衣服を纏ふべからずまた男は女の衣裳を着べからず凡て斯する者は汝の神エホバこれを憎みたまふなり〇98。
一枝は、聖書のこれらの言葉を信じました。こうして一枝は、憲吉とともに、考えに考えを重ね、疲労と涙にあえぎながら、最後には神の存在に気づくことによって「神の意志を尊く思ひ」、「自分の心」や「小さい自我」を捨て、眼前に広がる新しい世界にとうとうたどり着いたのでした。ついに、新しく生まれ変わるべく「生活の建て直し」の道が開いたのです。
そこで、陶器を焼くためには不充分でありむしろ不適の土地ではあるが、それでも焼いて焼けないことはあるまい。要は制作するものゝ心の持方一つである。ただ材料その他の點の不足は物質で解決がつくことだから、仕事のために助力してくれる人があるなら必ず焼いてみせるといふ夫の話も、その人を得て、それでは子供のためにも都合よく行くし、また自分達にしても決して好んで住みたい土地ではないが、欠點だらけな人間の性質は同樣その弱點をもつ人間社會の中に飛び込んでお互にもまれ合ひ争闘しあひ相互扶助しあつて、はじめて完全に近いものともならう99。
そういう思いに至るなかから、生活再生のために落ち着くべき約束の地として、最終的に東京が選ばれました。幸い、憲吉へ資金を援助してくれる人たちも見つかりました。子どもたちは、成城学園に入れることになりました。それでも心配なのは、人が多く集まる東京の地で、根本となる問題は再燃しないのでしょうか。「欠點だらけな人間の性質は同樣その弱點をもつ人間社會の中に飛び込んでお互にもまれ合ひ争闘しあひ相互扶助しあつて、はじめて完全に近いものともならう」――こう信じるほかなかったようです。
一枝の、この「東京に住む」のなかに、わずかではありますが、自分のセクシュアリティーについて間接的に言及している箇所があります。そのひとつが、こうした文言です。
この久しい間の爭闘、理性と感情この二つのものはいまだにその闘を中止しようとはしない。そうしてそのどちらも組しきることが出來ない人間のあはれな煩悶を冷酷にも見下してゐる。平氣でゐる感情に行ききれないのは自分が自分に似合ず道徳的なものにひかれてゐるからで、といつて理性を捨切つて感情に走ることをゆるさないのは根本でまだ×に對して懀惡や反感と結びついてゐるために違いない。……本當にこの心の底には懀惡しかないのか、それでは偽だ。あんまり苦しい100。
この文章を読み解くうえで最大のポイントとなるのは、伏字となっている「×」にどの一字をあてるかということになります。あえて「性」をあててみたいと思います。自分のセクシュアリティーを憎悪する。しかし、それだけでは、偽りであるし、あまりも苦しすぎる――ここに、セクシュアリティーの解放を巡る理性と感情の激しい対立の一端をかいま見ることができます。自己の特異なセクシュアリティーに向けられた憎しみと、憎みきれない苦しみとが、混然一体となって一枝の心身を襲うのです。一枝が神を見るのは、そのときのことでした。
別の箇所には、こうした文言も見出すことができます。
かつて若かつた頃、なにかにつけて心の轉移といふ言葉を使つたものであるが、まことの轉移といふものは、並大抵の力では出來るものではなく、身と心をかくまでも深く深く痛め悩まして、身をすてゝかゝつてはじめて出會ふものであり行へるものであることを沁染と知ることが出來た101。
一枝は「心の轉移」という言葉を用いています。一枝が、自身を女性間の同性愛者(当時の通称では「レスビアン」など)として認識していたとすれば、彼女にとってこの言葉は、同性愛から異性愛へと性的指向を「轉移」させる試みを示唆する心的な用語法だったのかもしれません。それとは違って、一枝が、肉体的には明らかに女性でありながらも、心の性を男性として自己認識するトランスジェンダー(当時の通称では「男女」など)であると思っていたとするならば、この言葉は、心の性を体の性へと「轉移」させることを意味する彼女の内に秘められたキーワードだったにちがいありません。しかし、どちらにしてもそれは、「並大抵の力では出來るものではなく」、過度の心身の葛藤と衰弱を伴うものでした。
この東京移住は、ふたりにとって、まさしく二度目の賭けであり、もはやこれ以上はない背水の陣とでもいえる、生活の再生へ向けての悲壮感漂う、療法としての転地だったものと思われます。それにしても、あまりにもあっけない安堵村での生活の終焉でした102。
かくして、一九二六(大正一五)年の一〇月の半ばを過ぎたある日、一家は、四人それぞれが深刻で複雑な思いを胸に抱えながら、本宅の「舊い家に母を残し、私達の小さい住居の庭木の一本一本にも挨拶の言葉をかけ、美しい遠山をめぐらした平原のなかの暖い一小村、土塀と柿の木の多い安堵村」103をあとにし、東京へと上っていきました。おおよそ一一年半の安堵村生活でした。このとき、満年齢で憲吉四〇歳、一枝三三歳、陽一一歳、そして陶は、まもなく九歳になろうとしていました。東京から安堵村に来たときには、一枝のお腹には陽がいました。今度の上京には、まもなく生まれてくる壮吉が一緒です。大正から昭和へと改元される二箇月ほど前の秋の日の出来事でした104。
(82)富本一枝「海の砂」『解放』第1巻第7号、1919年12月号、31頁。
(83)富本一枝「安堵村日記」『婦人之友』第15巻、1921年6月号、164頁。
(84)富本一枝「母親の手紙」『女性』12月号、1922年、142頁。
(85)同「母親の手紙」『女性』、143-144頁。
(86)同「母親の手紙」『女性』、149頁。
(87)同「母親の手紙」『女性』、152-153頁。
(88)同「母親の手紙」『女性』、154頁。
(89)富本一枝「東京に住む」『婦人之友』第21巻、1927年1月号、112頁。
(90)同「東京に住む」『婦人之友』、108頁。 一方、夫である憲吉は、東京移住の理由について、晩年の一九六二(昭和三七)年に執筆した『日本経済新聞』の「私の履歴書」のなかで、こう述べています。「大和の一隅でロクロを引き、画筆をにぎる私の仕事も、だんだんと世間に認められ、生活には別段、不便を感じることもなかった。しかし、そのころ、東京へ出て仕事をしたい気持ちが日ごとに強くなった。東都の新鮮な気風にふれることは、かねてからのやみがたい念願であり、また陶芸一本で生涯を過ごす覚悟も、ようやく固まってきたのである。かくして大正十五年[一九二六年]の秋、十年余親しんだ大和の窯を離れ、東京郊外、千歳村(現在の世田谷区祖師谷)に居を移した」。(『私の履歴書』〈文化人6〉日本経済新聞社、1983年、210頁。[初出は、1962年2月に『日本経済新聞』に掲載。]) 注目されてよいのは、この一文の後段で述べられている東京移転の理由は、一枝が『婦人之友』に寄稿した「東京に住む」における記述内容と合致していないということです。
(91)同「東京に住む」『婦人之友』、109頁。
(92)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。
(93)同「東京に住む」『婦人之友』、111頁。
(94)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。
(95)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。
(96)一枝が教会に通うようになったのは、中江百合子の紹介であったと推測されます。一枝と中江の出会いの経緯は、はっきりしていませんが、夫の富本憲吉は、東京美術学校時代に卒業を待たず、先輩で画家の南薫造を頼って一九〇八(明治四一)年の暮れに神戸港から英国へ向けて出立しています。一方、中江百合子は、南薫造とは一番町教会、のちには富士見町教会で知り合い、一九一一(明治四四)年の富士見町教会での南の個展で絵を買っています。おそらくこうしたことが背景にあって南は、その当時、関西の実業家の中江家に嫁いだ百合子を、奈良の安堵村に住む憲吉と一枝に紹介したものと思われます。ところが、中江家の長男が身代金目当ての誘拐事件に遭います。この事件は無事に落着したものの、中江一家は、一九二〇(大正九)年末に東京へと引っ越すことになり、一枝は、上京のおりに、しばしば、本郷区弓町にあった中江宅に逗留する間柄となりました。そのころの百合子は、東京に転居以来、再び教会に通うようになっていました。こうした経緯のなかで百合子は、悩みを抱える一枝を教会に連れて行ったものと思われます。 一方、中江百合子と三人の息子たちは、らいてう一家や富本家よりも一足先に成城の地に引っ越してきており、富本家のふたりの娘が成城学園に転入するのも、百合子の誘いがあった可能性が残されます。成城学園女学校が開設されるのは、一九二七(昭和二)年の春のことでした。
(97)国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館/図書館送信限定)「旧新約聖書」大正三年一月八日發行、發行者/米國人 ケー・イー・アウレル、發行所/米國聖書協會、「新約聖書」二百十六頁。 たとえば、この箇所は、現代にあってはこう訳されています。「26このことのゆえに、神は彼らを恥ずべき情欲へと引き渡された。実際、彼らのうちの女性たちは、自然な[性的]交わりを自然に反するものに変え、27同様に男性たちも、女性との自然な[性的]交わりを捨てて、互いに対する渇望を燃やしたのである。[そして]男性たちは彼ら同士で見苦しいことを行ない、彼らの迷いのしかるべき報いを、己のうちに受けたのである」。(『新約聖書』(新約聖書翻訳委員会訳)岩波書店、2004年、628頁。なお、文中に使用されています角括弧は原文のママです。) 一枝が、もしこのような意味に理解していたのであれば、この段階で一枝は、自分の性的指向を、「恥ずべき情欲」であり「自然に反するもの」であり「見苦しいこと」であり、「迷いのしかるべき報い」を受けるべき大きな罪であるとして認識したものと思われます。
(98)同「旧新約聖書」、「舊約聖書」二百八十二頁。 この箇所の現代語訳の一例はこうなります。「5女が男の着物を身にまとうことがあってはならない。男が女の着物を着ることがあってはならない。これらのことを行なう者はすべて、あなたの神ヤハウェが忌み嫌うものであるからである」。(〈旧約聖書Ⅲ〉『民数記 申命記』山我哲雄・鈴木佳秀訳、岩波書店、2001年、349頁。) このとき一枝は、聖書の言葉を通じて、異性装が「忌み嫌うべき服装」であることに気づいたものと思われます。
(99)前掲「東京に住む」『婦人之友』、111-112頁。
(100)同「東京に住む」『婦人之友』、110頁。
(101)同「東京に住む」『婦人之友』、112頁。
(102)もっとも、当時の『讀賣新聞』(1925年9月29日、7頁)は、砧村の成城学園滞在のために富本一枝がふたりの娘(陽と陶)を連れて上京したことをとらえて、「よき母=尾竹紅吉さん 愛嬢を連れて上京 奈良の山奥から 昔忘れぬ都に憧れて」という見出しのもとに記事にしていますが、それを読む限りでは、そうした緊迫した状況は、いっさい伝わってきません。むしろ、平穏安寧な大和での暮らしぶりが強調されています。しかし、詳しくは述べませんが、この記事には、作為的なものが感じられます。 なお、前日の『讀賣新聞』朝刊の七頁を開くと、「農村にも革命の波が――美しいのは――東京の婦人」という見出しの記事と、陽と陶と一枝の三人の親子が写った写真とが、掲載されています。陽も陶も、ともにおかっぱの髪形をし、着ているワンピースもお揃いです。この時期の貴重な画像といえます。
(103)前掲「東京に住む」『婦人之友』、同頁。
(104)富本一枝についての評伝が、すでに二冊世に出ています。ひとつは、高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』(ドメス出版、1985年)で、もうひとつが、渡邊澄子の『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(不二出版、2001年)です。そこで、それぞれの評伝にあって、富本一家の安堵村生活の終焉と東京移転に関して、どのように書かれてあるのかを、ここで見ておきたいと思います。まず、高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』においては、このように記述されています。共著者の高井陽は、富本憲吉・一枝夫妻の長女で、この本が上梓されるときはすでに世を去っていました。 「その頃になると長女の陽も成長し、中等教育をどうするか考えねばならなくなっていた。理想をもって始めた小さな学校は、十全とはいえなかったし、子どもたちに一層よい教育環境をと考えた時、それは安堵村では無理だった。子どもたちのために東京へ、そんな話が夫婦の間で何度か出たが、容易に解決できないでいた。そんな時、憲吉の起こした女性問題によって、一枝は東京への移転を決意する。憲吉にとってはほんの一瞬の気の迷いであったろうし、当時の男性にとっては、ありがちのことだったかも知れない。しかし一枝は深く傷ついた。一カ月に及ぶ、二人の夜ごとの話し合いの末、大正一五年三月、東京への移転が決められた。……しかしほかの仕事とちがって、陶芸家の場合は、簡単に転居ができなかった。土や松薪を求める便宜と、窯がどうしても必要であった。四月から移転の準備を始めたが、一枝は身重の身体でありながら、土地の選定や金策などにも奔走した。……こうして、柿も色づきはじめた秋半ばの一〇月一五日、住みなれた安堵の村をあとに一家は東京へと出立した」(149-150頁)。 このような記述をするに際して、著者の折井は、いっさい注釈を施していませんし、また、最も肝心な証拠となる資料も明示していません。したがいまして、ここに述べられていることが真実なのかどうかを再検証する方途が完全に奪われているのです。 共著者である陽が、生前に、このような内容を折井に漏らしていた可能性がないことはありません。しかし、たとえば、別の箇所では、「……と陽さんは語っている」(126頁)とか、「陽さんの回想に詳しく書かれているが……」(137頁)とか、「……という陽さんの記憶で」(147頁)といった表現形式でもって、情報の提供者が明らかにされているにもかかわらず、ここの箇所に関しては、陽によって情報が提供されたことをうかがわせる注釈は残されていないのです。そのことから判断しますと、この記述内容は、折井の独断的な想像と判断によって練り上げられたストーリーであるといわざるを得ません。 記述の内容にも疑問が残ります。「憲吉の起こした女性問題によって、一枝は東京への移転を決意する」と、著者の折井は書いていますが、その相手は誰だったのであるのか、いつのことであったのか、これらについては、何も語っていません。さらに、「当時の男性にとっては、ありがちのことだったかも知れない」「女性問題」がなぜ、「東京への移転」という、一般的にはあまりありがちとは思えない特殊な「決意」を一枝にさせてしまったのか、その理由についての言及もありません。 仮に、憲吉の身に「女性問題」が存在したとして、なぜそのことが、家族そろっての東京移住につながるのか、裏を返せば、なぜ一枝は離婚を考えなかったのか、あるいは、なぜ娘たちを連れての一枝単身の移住とはならなかったのか――こうした一般的に考えられそうな対応についても、何ひとつ説明がなく、ひたすら疑問だけが残ります。もしふさわしい資料が手もとにあるのであれば、もっと積極的にそれらの資料に真実を語らせるべきだったのではないかと考えます。 しかし、私がこれまでに調査した範囲でいえば、憲吉の「女性問題」を示す資料は、いっさい存在しません。したがいまして、東京移転の理由としての憲吉の「女性問題」は、いまだ折井個人の仮説の域に止まっていると判断するのが妥当でしょう。このことを実証するためには、たとえば、憲吉と一枝の当事者たちを含め、周りの関係者たちの手紙や日記などに記述されているかもしれない、動かすことのできない何か新しい資料の発掘が必須の要件となるにちがいありません。もしそのことができなければ、憲吉にかけられた「女性問題」の嫌疑は、誰ひとりとして事実かどうかの再検証ができないまま独り歩きし、今後永遠に語り継がれていくことになります。これでは「冤罪」を構成しかねません。すでに鬼籍に入っているとはいえ、実在した人物である以上、その人権と名誉は、当然ながら、尊重されなければなりません。 この記述問題につきまして、私は、次のように推量しています。 この情報は、おそらくは母親から娘に伝えられた内容でしょう。こうしたストーリーを持ち出すことによって、一枝は子どもたちに東京移転の理由を説明したものと思います。それが折井に伝わり、折井はその真偽を検証することもなく、そのまま、情報の提供者名を伏せたうえで、文にしたのではないでしょうか。 それでは、なぜ一枝は虚偽のストーリーをつくらなければならなかったのでしょうか。すでに、著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』において詳しく論述していますように、性的少数者であることをカミング・アウトできないことに起因して、やむを得ず、真実とは異なるストーリーを捏造しなければならなかったものと考えます。そうした事例は、ほかの場面にも幾つか見受けられ、一枝の言説のひとつの特徴を形成しているのです。 それでは次に、『青鞜の女・尾竹紅吉伝』における記述内容を検討します。この本のなかで、著者の渡邊澄子は、安堵村から東京への移転の理由について、折井がすでに示した憲吉の「女性問題」をそのまま踏襲したうえで、こう述べます。 「一家は一九二六年一〇月、東京へ移住することになるが、それには、晩年にまで水面下で尾を曳き、結局、二人の間を離隔させることになったが、その根に憲吉の女性問題をみることができる。私が紅吉に魅せられ、紅吉の生涯を書きたいと願って準備に入ってからすでに二〇年になる。私はこの間、生前の二人を知る人を訪ねては聞き書きをとる作業を仕事の合間の折々に続けてきたが、憲吉の女性問題の相手は井出秀子が世話したお手伝いさんだった、と複数の方の証言を得た。子どもも生まれていてこの子は里子に出されたはずと明言した人もいた。しかし一方で、そんな事実はない、田舎は狭いのでもしそのようなことがあったら、誰知らぬ者なく広まってしまうはずだ、という人もいた。しかし、夫である男性が妻とは別の女性と特別の関係を持つ例は、ほとんど日常茶飯事としていわば公認されていた時代状況下では、事実があってもそれは大問題にならないということもあるのではないだろうか。夫を愛している妻である女性がそのことでどれほど傷つくか、その痛みの深さを感じ取れない男性社会だったのだ」(210-211頁)。 残念ながら、本書にも注などは存在せず、そのように断言するうえでの根拠となる証拠も何ひとつ示されていません。「生前の二人を知る人を訪ねては聞き書きをとる作業」をしているのであれば、いつ、どこで、誰に、何を聞き、その聞き取った内容を相手に確認してもらったうえで公表の了解を得て、そのすべてを開示すべきであったと愚考されるものの、そのような学問的配慮に欠けるため、このままでは、憲吉の「女性問題」は単なる風聞か噂話の域を出ない状態に置かれているといわざるを得ません。 井出秀子とは、丸岡秀子のことを指しているのであれば、紹介者としての当事者である丸岡に、事の真相を直接問い合わせるべきだったのではないでしょうか。「紅吉の生涯を書きたいと願って準備に入ってからすでに二〇年になる」と著者は書いていますが、この本が出版されたのが二〇〇一(平成一三)年、そこから逆算すれば、一九八一(昭和五六)年ころから聞き取り調査をはじめていたことになります。丸岡が亡くなるのが一九九〇(平成二)年であることを勘案すれば、著者の渡邊は、その意思さえあれば、丸岡本人へ直接インタヴィューを試みることも、あるいはまた、書簡による問い合わせも十分可能だったのではないでしょうか。 丸岡秀子自身は、生涯、憲吉の生き方に強い共感を示し、敬愛の念を持ち続けました。晩年に至ってまでも、丸岡はこういっています。「いま、若い人たちにとって、二人[憲吉と一枝]は名前さえ知られてはいないであろう。だが、京都、奈良めぐりの旅行の中に、‶世紀の陶工"富本憲吉美術館を入れてもらいたいと、私は願う。法隆寺からすぐなのだから」(丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、28頁)。 もし、「憲吉の女性問題の相手は井出秀子が世話したお手伝いさんだった」のであれば、紹介者自身も深い傷を負い、憲吉に強い怒りと不信を向けたにちがいなく、晩年にあって、こうした憲吉に寄せる信頼と讃美の言葉を丸岡が書き記すことは、おそらくなかっただろうと思われます。その意味で、渡邊の言説をそのまま受け入れるには、大きな違和感が生じます。もし仮に、それが真実であると主張するのであれば、どうしても、それを裏づけるにふさわしい証拠となる資料を明示すべきではないでしょうか。とりわけ、「井出秀子が世話したお手伝いさん」が、いつどのような経緯で富本家へ入り、いつ妊娠し、いつどこで出産し、いつどのような経緯でその子が里子に出されたのかを明確な根拠に基づき実証すべきであると思われます。 他方で、その情報を提供した複数の人物とは誰と誰なのか、これについても、歴史的証人として本人たちの了解を得たうえで、明らかにするべきだったのではないでしょうか。「生前の二人を知る人」と渡邊はいいますが、「女性問題」が持ち上がった一九二六(大正一五)年前後のあいだの安堵の富本家の生活の様子を日常的に知ることができ、渡邊が「聞き書きをとる作業」をする時期まで存命していた人物は、そう多くはないはずです。この時期一枝も妊娠していました。一方、丸岡秀子の奈良女高師の先輩で友人と思われる若い女性教師が円通院で教鞭をとっていました。そうしたこととの混同や取り違えはないのか、あるいは、どこかの段階で誰かが、一枝の「女性問題」を憲吉の「女性問題」と聞き違えたり、伝え違えたりしているようなことはないのか、慎重な対応と吟味が必要とされなければなりません。 もし、以上に述べてきたような学問上の基本的手続きに立ち返ることができなければ、すでに高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』にかかわって上で述べた指摘同様に、反論することも、弁明することも、真実を語ることも、何もいっさいできないまま、憲吉の「女性問題」は永久に歴史のなかに刻印されることになります。これによって、いまや事態は、憲吉の身に「虚偽の歴史」ないしは「歴史上の冤罪」が構成されかねない状況に立ち至っているのです。 以上、先行する既往評伝の二冊を取り上げ、そこで述べられている、富本一家の安堵村生活の崩壊と、それに伴う東京移住の理由について批判的に検討してきました。結論としていえることは、総じてどちらの評伝においても、渉猟された適切な一次資料を十全に駆使して論証ないしは実証するという、真実に近づくための学術上必要とされる手続きがほとんど、あるいは全く見受けられず、そのことに起因して、ともに、述べられている内容に絶対的信頼を置くことができない状態を露呈しているということでした。