中山修一著作集

著作集11 研究余録――富本一枝の人間像

第二編 富本一枝が愛した女――美貌と才覚の小林信

第三節 奈良女子高等師範学校の水木要太郎教授

一枝の「結婚する前と結婚してから」の発表から三年が立った一九二〇(大正九)年、今度は憲吉が、『女性日本人』一〇月号に「美を念とする陶器」を寄稿します。以下は、そのなかの一節です。

 私の陶器を見てくださる人々に。何うか私共の考へや生活も見てください、私は陶器でも失敗が多い樣にいつも此の方でも失敗をして居りますが陶器の方で自分の盡せるだけの事をしたつもりで居る樣に此方についても出來るだけ良くなるためにつとめています。それが縦ひ非常に不十分なものであつても16

ここからわかりますように、明らかに憲吉は、陶器と生活とのふたつの事象についてともに改善を図ろうとしています。陶器における改善のなかには、過去の作品に範を求めない模倣の忌避にかかわる問題や、大衆へ向けての量産陶器の試行にかかわる問題が含まれていました。他方、生活における改善のなかには、すでに述べていますとおり、一枝のセクシュアリティーの克服に関する問題や、女性としての近代的な生き方への移行に関する問題が含まれていたものと考えられます。

この「美を念とする陶器」が掲載された『女性日本人』(一九二〇年一〇月号)が発売されたとき、小林信は、奈良女高師の二年生になっていました。小林がすぐにもこの文を読んだかどうかは別にしまして、ここで重要なことは、明らかに憲吉は、「何うか私共の考へや生活も見てください」と、読者に呼びかけていることです。決定的な証拠になる資料は見出されていませんが、講義のなかで、あるいは放課後や課外授業などの合間に、果たして教授の水木要太郎が、この「美を念とする陶器」と題された一文のことや、その著者である富本憲吉という名の安堵村に住む若き陶工のことを、生徒たちに紹介した可能性はないでしょうか。これが、小林が富本夫婦の存在を知るきっかけとなったのではないかというのが、いま私が推論するところです。以下に、わずかながらその傍証を提示してみたいと思います。

『奈良女子大学百年史』にもどりますと、そこに、次のような、水木についての記述が認められます。

 水曜の午後は選修科目に当てられ、予科は、水木要太郎教授の科外講話「大和史講話」が実施された17

小林が入学したときには、すでに予科と本科は取り除かれ、文科、理科、家事科の三学科制になっていましたので、当時は、水木の「大和史講話」は文科の、一年次配当の授業科目として開講されていたにちがいありません。

また、卒業後日本画家として活躍することになる小倉遊亀(旧姓は溝上)も、水木要太郎について言及しています。小倉が奈良女高師に入学するのは一九一三(大正二)年の四月で、小林の六年先輩に当たります。小倉は、卒業製作としてゴーギャンの作品をまねて描いた裸婦について、後年、こう語っているのです。

 図画の横山[常五郎]先生は、構図がおもしろいと言って、とてもほめてくださいました。……それから日本史の水木要太郎先生、国語の春日先生は、私の作品にいつも拍手を送ってくださった18

奈良女高師を卒業して数年後、小倉は安田靫彦ゆきひこに弟子入りすることになりますが、そのきっかけをつくったのも、横山常五郎であり、水木要太郎でした。小倉は、安田を師とするに至る経緯を、次のように振り返ります。

 それは女高師の絵の時間に、横山先生が法隆寺の壁画の説明をなさったんですけどね、その時、いまこの線を引けるのは安田靫彦しかいない、とおっしゃった。それで私たち、安田先生の絵が好きになった。当時先生は歴史画を描いておいでになりましたけど、私たちも真似して描いたものです。

 それからまた、日本史の水木要太郎先生が、授業のときによく古いお寺の壁画や建築を見に連れていってくださったのです。その水木先生が、[卒業後の]ある時、私に家に来いとおっしゃって、安田先生の本物をみせてくださった。『御十六歳の聖徳太子』という等身大の絵で、それを先生、いつも芳名帳代わりに持ち歩いてらした大福帳に描け、とおっしゃった。

 そんなことでね、お目にかかるなら安田先生に、と思ったんです19

この引用に出てくる、小倉が「聖徳太子画像」を描いた「大福帳」とは、水木がいつも身につけて持ち歩いていた、一種のノートブックであり、スケッチブックでありました。当時の奈良の文人や知識人のあいだでは、「水木の大福帳」として知られ、現在にあっては、貴重な歴史資料となっています。そのなかには、水木自身が、富本憲吉の一九一五(大正四)年の初窯の様子をスケッチした描画も含まれ、文才のみならず、画才の輝きを示す一級の資料となっています。

それでは、水木要太郎とは、どのような経歴をもつ人物だったのでしょうか。いま手もとにある『企画展示 収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべて――』の巻末に所収されている「水木コレクションを読み解くために」(久留島浩著)のなかの「水木家略年譜」20から幾つか拾い出し、あわせて富本憲吉のその間の動向と照らし合わせながら、短く以下に構成してみたいと思います。

水木要太郎は一八六五(元治二)年に愛媛県伊予郡に生まれ、東京高等師範学校を卒業後、三重県の高等小学校の教員や奈良県の尋常師範学校の教諭を務め、奈良県尋常中学校(郡山中学校)の教諭となったのが、一八九五(明治二八)年四月のことでした。富本憲吉が郡山中学校に入学するのが、その四年後の一八九九(明治三二)年四月で、ここに水木と富本の出会いがありました。郡山中学校卒業後、富本は安堵村を離れますが、東京美術学校に在籍していたときも、その後英国に留学していたときにも、富本は恩師水木要太郎に宛てて頻繁に手紙や絵はがきを書き送っており、親しい関係が続きます。水木は、一九〇三(明治三六)年に『やまとめぐり』と『大和引路誌要』を著わすと、まさしく「奈良史学」の泰斗として一九〇九(明治四二)年の奈良女子高等師範学校創設にあわせて、教授として任官します。その一方で富本は、前述のとおり、東京での結婚後、一九一五(大正四)年の春、妻一枝と一緒に安堵村に帰還すると、この地に自分の家と窯を新たに設けます。こうしてそれ以降、水木と富本の、かつての師弟の信頼関係が、新たなかたちを伴って復活するのでした。

このような水木と富本との隠れた間柄が背後にあるなかにあって、小林信が一九一九(大正八)年の四月に奈良女子高等師範学校の門をくぐり、他方で、水木が「大和史講話」を講じ、そして富本が、翌一九二〇(大正九)年に「美を念とする陶器」の一文を『女性日本人』に発表するのでした。おそらく、水木は、この講話や大和探索の学外授業などを通じて、富本の陶工としての苦闘を語り、妻である一枝の青鞜社時代について話題にし、それを聞いた小林は、この夫婦に関心を抱き、安堵村で奮闘するふたりにぜひとも一度会ってみようと思ったのではないでしょうか。以上が、私の推論を構成する傍証となる部分です。

(16)富本憲吉「美を念とする陶器」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、50頁。

(17)前掲『奈良女子大百年史』、53頁。

(18)『小倉遊亀 画室のうちそと』(きゝて 小川津根子)読売新聞社、1984年、77頁。

(19)同『小倉遊亀 画室のうちそと』、99頁。

(20)『企画展示 収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべて――』(同名展覧会カタログ)国立歴史民俗博物館、1998年、106-107頁。