さてそれでは、仕事と生活の双方の改善が進むこの時期の日々の暮らしのなかにあって、陽と陶のふたりの娘に対して、一枝はどのような態度で接していたのでしょうか、その当時の一枝の文から少し拾い上げてみます。
一九二一(大正一〇)年に発表された一枝のエッセイは、子どもに関する内容のものが目立ちます。たとえば、「子供と私」(『婦人之友』一月号)や「子供を讃美する」(『婦人之友』五月号)がそれに相当します。憲吉と一枝のあいだにはふたりの子どもがいました。長女の陽は一九一五(大正四)年八月の生まれで、この年の八月に満六歳の誕生日を迎えます。次女の陶が生まれたのは一九一七(大正六)年一一月で、姉の陽とは二歳と三箇月離れていました。前者の「子供と私」の冒頭において、一枝はこのようなことを告白します。
『子供と私』を書くについて、私は考へました。私は子供について書く資格が本當に有るだらうか。恥づかしくはなからうか。恐らく自分は子供について書けないのが本當で、書くのは間違つてゐるのだと。……しかし、また思い返してみると、書くのが本當のやうに思はれたのです。これを書く事は自分が子供にもつてゐる心なり態度を深く反省する機會にもなるし、或意味で正直に自分の態度を責めてもらへる事にもなると思つたのです。……最初に書いて置きます。私は子供にとつて決して善い母親ではありません。親切な母親ではありません21。
なぜここまで、母親としての自分を責めるのでしょうか。一枝の性自認が「男」であったとするならば、それに起因して、子どもを慈しむ母性のような母親固有の感情がどうしても湧いてこなく、それを自覚したうえで、「決して善い母親ではありません。親切な母親ではありません」と、いっているのでしょうか。それはよくわかりません。しかしその思いの裏返しかもしれませんが、すでに一枝は、娘たちの教育に独自の強い思いを傾けていたのでした。
一枝が本格的に娘の教育に関心をもつようになったのは、陽が三歳になるころからだったのではないかと思われます。富本家の本棚には多くの書籍が並べられていました。「私の手から赤坊讀本が離されたのはその頃です、そしてその代りにルソーのエミールやモンテツソリのものが無智で若い母親の指先きで熱心に繙(ひもと)かれるやうになつてをりました」22。
一九一九(大正八)年の一一月、平塚らいてうが安堵村に一枝を訪ねてきました。そのときの様子を自伝『元始、女性は太陽であった』のなかで、らいてうは、こう書き記しています。
一枝さんの書棚には、トルストイのものなどにまじって、教育関係の書物がどっさり並び、陽ちゃんと陶ちゃんは一枝さん自身の考案でつくらせたという、珍しいおもちゃで遊んでいました。数え年四つの陽ちゃんが、片仮名をもうすっかり読めるのには、おどろいたものでした23。
「教育関係の書物」というのが、「ルソーのエミールやモンテツソリのもの」を指しているのでしょう。それでは、「珍しいおもちゃ」とはどのようなものだったのでしょうか。ひょっとしたら、このようなものだったかもしれません。以下は一枝の言葉です。
私は或る晩遅くまでかゝり、父親に切つてもらつた三寸四角の厚いボール紙に片暇名五十音と濁音全部と半濁音全部を形正しく墨汁で書きました。……このカードはそれから先モンテツソリーの讀み方敎授法で子供を敎えるのにずつと使用されました。……私は學齢に達するまで自分に有るだけの力を注いで敎育したかつたのです。……天才を造ることは到底出來ないまでも早教育を善しと見るならそこに努力して行くことが本當ではなかろうか……たとへこの己の抱く理想が力弱くあつても、理想により近く歩みゆくことが出來ればと思ひました24。
カードを使って遊んだ思い出を、のちに下の娘の陶は、こう回想しています。
母は私がヨチヨチ歩きの赤ん坊の頃から、アルファベットやアイウエオを教えてくれました。庭の芝生に大きな籠を置きその中にボール紙を大きく切ったカードが沢山入れてありました。母が「『A』をもっていらっしゃい」とか、「『と』の字を」とかいうと私はその籠の中からいわれた文字のカードを探し出して母の手許まで歩いて届けるのでしたが、幼い私にはとても楽しいお遊びだったようで、大喜びで札を運んだおぼえがあります25。
こうして陽は、「一ケ月後には文部省の國語讀本の巻の一を速くはないがしかし誤ることなく讀むやうになつて仕舞ひました。これは自分勝手にしたことで私からさせたのではありません。その時、この子は數へて四歳で、満二歳六ケ月だつたと記憶しています」26。今度は、平暇名のカードがつくられ、陽の知る世界はさらに広がってゆきました。「私はどんなに多忙であつても、毎朝二時間だけ必ず彼女の爲に色々な勉強をつゞけたものです。その頃に書いた彼女の小さな文章に可成り優れたものが澤山有り、それだけ理解力は随分深く高い所まで進んでゐました」27。
おそらく一九二〇(大正九)年の春のことであろうかと思われますが、「満四才六ケ月かの時、彼女には四人の先生が出來ました。いよいよ正しい勉強法を始めたのです。英語國語理科音楽、この四科目をそれぞれの先生にお頼みして、私は一週間に七八時間、陽を連れて奈良に通ひました……數學は一番遅く始めました」28。向かう先は、奈良女子高等師範学校の附属小学校でした。あるいは、附属高等女学校だったかもしれません。陽は、理科を神戸先生に、唱歌を幾尾先生に、国語を竹尾先生に、英語を青木先生と土井先生に、数学を福永先生に教わり、一方一枝は、森川先生に幼稚園の仕事について話を聞いています29。学齢にも満たない学外の個人に対して校内の教室を使って個別指導をすることは、極めて例外的なものだったと思われます。こうしたことも、憲吉と水木要太郎との親しい人間関係が背後にあったためではないかと推測されます。
『近代の陶工・富本憲吉』の著者は、国語を教えていた竹尾ちよから後年聞き取った内容かと思われますが、そのときの一枝の様子を、次のように書き表わしています。
[尾竹ちよ先生は]授業のない時間を使って職員室の片隅などで陽への個人授業を続けたが、その授業の間、一枝は校庭を散歩するのが習慣だった。独特の髪型で長身の一枝の散歩姿は、女高師の生徒達の関心と注目を集め、職員会議で問題になりかけたこともあった。陽も奈良ではまず見かけることのない洋装だったので、強烈な印象を見る人に残した30。
女高師の生徒たちは、一枝がかつての「青鞜の新しい女」であることや「らいてうの恋の相手の紅吉」であることに気づいていたものと思われます。彼女たちにとっては、「大スター校庭に出現」といった感じで、興味深げに一枝を見つめ、おずおずと近づくも、いつのまにか親しくなり会話を楽しむようになっていたにちがいありません。そのなかのひとりに、二年生の、あるいは三年生の小林信が含まれていた可能性もあります。しかし一枝の視線は、別のところにあったのではないでしょうか。おそらく一枝の視線は、押さえ切れずに独身時代のそれへと後戻りし、獲物を追うかのごとくに避けがたく、美しい才女探しに向けられていたものと推量されます。そうした「美しい才女」として、一枝の目に小林の姿が映っていたかどうかは、確かな証拠もなく、この時点で明確にすることはできませんが、後々に起きる出来事から推し量りますと、全く否定することもできないように思われます。
それではここで、当時の一枝と憲吉の教育観について見ておきたいと思います。順調に生育した長女の陽は数え年で八つになり、いよいよ学齢に達しました。一枝と憲吉は、陽を地元の村の小学校に入れるか、このまま家庭と女高師での教育を続けるか、日々悩んでいました。以下は、一枝の文です。
小學校に出すには彼女は遥かに高く進み過ぎて仕舞つた……こんな子供を尋一[尋常小学校一年]に出せば學校に対する興味、學科に對する熱心さを失はせる事は勿論です……それかといつて社會人として彼女を見た時、學校生活から受けるものゝ多くあることを無視する事は善いことであらうかとも考へました。……學校に出ないとすれば當然彼女は一人である……子供同志の遊び、それはどんなに楽しいものか、そこからお互ひが受ける智識、経験、それは子供を最も子供らしく育てゝ行くではないか、しかし私達は、結局家庭で敎育することに決心しました31。
そのように決心した理由について、一枝は続けてこう述べています。
村の小學校の生徒の種が悪いのです、先生が悪いのです。……小學校に出すことは危険な場所に放すやうで不安でならなかつたのです。それにその頃は、(今でもですが)小學教育、殊に初等科に對して一般的に私は信頼出來ないものを有つてゐました32。
他方で、憲吉の目には、教室は「自由の牢獄」に映っていました。そして教師は、子どもの「成長せんとする心」に理解を示さぬ存在でありました。憲吉は、こう述べています。
午後三時、子供等は嬉々として烈しき白日の道に列をなして家路につく。子供等は何故にかく楽しげなるか。彼等は自由の牢獄に等しき教室と彼等の成長せんとする心に同情なき教師等の手より離れたるが故なり。教育はげに自由の牢獄なるかな33。
このように一枝と憲吉は、当時の学校教育に強い不信をもっていました。ふたりは、過去を踏襲しないオリジナルな模様の創案を、その一方で、因習を断ち切った新しい家族の形態を――そのとき必死になって追い求めていました。それと同じ地平から教育や学校を眺めた場合、教育は、個性や個人、あるいは自由や創造性といった価値からあまりにも無縁の存在でありました。そして学校は、過去の旧い価値だけが堆積し、意味を失い廃墟と化した残骸物に似ていました。一枝が、「小學校に出すことは危険な場所に放すやうで不安でならなかった」と述べたとき、憲吉が、教室を「自由の牢獄」と表現したとき、過去の教育や学校を支えていた価値は完全に葬り去られ、この夫婦の理想は、長女の陽と、次女の陶のふたりの生徒だけが通う家庭内の「小さな学校」の私設へとつながっていったのでした。
晩年に執筆した「円通院の世界地図」と題されたエッセイのなかで、陶は、「小さな学校」の私設へと向かう経緯につきまして、こう述べています。のちに母親から聞かされたのではないかと思われる内容も含めて、陶はしっかりと記憶していたのでした。
母は遠い東京から嫁いで来ておりましたので、早速上京して行動を開始、当時自由教育家としてダルトンプランを実行しておられた牛込原町の成城小学校の校長小原国芳氏に御相談の末、小原先生も個人教授の私設学校の事を大賛成して下さり、東大大学院の卒業生の中から優秀な方を推薦して頂く事まで御約束頂き、母は安堵に帰ってまいりました34。
また別のエッセイ「安堵のことなど」のなかでも、陶は、この「小さな学校」について触れています。そこには、こうしたことが明かされています。
さっそく教室は母屋の裏の祖先の墓地内に建てられた小さなお寺「円通院」が模様変えされ、当時関西で一番の木工会社、大阪の内外木工所に子供用の小さな勉強机と椅子、大きな黒板等注文されました。……壁には大きな黒板と世界地図がかけられてあり、先生用の大きな机の上には特別大きな地球儀が置かれてありました。……先生は母屋の表門の門屋(昔の門番さんの宿舎)を宿舎とされ、一切のお世話はお祖母さんの家でして下さったようです35。
一方で、陶が「安堵のことなど」のなかで書いているところによりますと、「小さな学校」の開設には、別の思いが含まれていたようです。
姉が学齢に達した時に両親は熟考の末、寺子屋教育で2人の子供達を育てることに決めました。上野の美術学校を卒業年度に早々とイギリスに留学して数年間を過ごした父は、2人の子供をイギリスで見聞きして来た進歩的な教育と同じ様式で育てたいと考えました。理想にもえた父と母は相談を重ね、周囲の反対を押し切って寺子屋教育を実現したわけです36。
陶が述べている「イギリスで見聞きして来た進歩的な教育」とは、果たしてどんな教育だったのでしょうか。富本が渡英した目的は、一九世紀の社会主義者でデザイナーであったウィリアム・モリスの思想と実践に触れることでした。モリスは、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に「ユートピア便り」を連載し、翌年に単行本化され、リーヴズ・アンド・ターナー社から発売されます。そのなかで著者のモリスは、ハモンド老人にこう語らせるのです。
……子どもの実にさまざまな能力や気質がどうであろうとも、因習的に適齢と考えられている年齢に達すると学校へ押し込まれ、そこにいるあいだ子どもたちは、事実に目を向けることなく、お定まりの因習的な「学習」課程に従わされる、そのようなことをあなたは予期されていました。しかしあなた、そんなやり方は、肉体的にも精神的にも人が成長する(・・・・)という事実を無視するものでしかない、とお思いになりませんか37。
富本が一九〇九(明治四二)年二月から翌一九一〇(明治四三)年五月までの英国滞在期間中にこの単行本の『ユートピア便り(News from Nowhere)』を手にしていた可能性を全く排除することはできませんし、たとえそうでなかったとしても、モリスと近似的な教育観を富本がもっていたことに変わりはありません。明らかに、当時の教育を批判する論拠がふたりに共通しているのです。一九世紀の英国の教育は、モリスの言葉を借りるならば、「肉体的にも精神的にも人が成長する(・・・・)という事実を無視する」飼育であり、二〇世紀の日本の教育は、富本の言葉に従えば、子どもの「成長せんとする心に同情なき教師」による教練でした。このようにモリスと富本の教育観を対照してみますと、モリスが「ユートピア便り」のなかで描き出していた社会革命後の空想的世界における教育を、意識的であったのか無意識的であったのかは別にして、日本において実践しようとしたのが、富本夫妻だったのではないかという気がします。
他方、自由主義的な校風をもつ文化学院が西村伊作によって創設されるのも、また、羽仁もと子によって自由学園が創設されるのも、ともに一九二一(大正一〇)年のことです。この時期は「大正デモクラシー」の波に乗って、政治や社会の領域においてのみならず、教育の分野においても新しい動きが胎動してゆく時代でした。富本は、西村とも羽仁とも親交があり、おそらく日本の教育のあり方について、とりわけ自由主義教育や男女平等主義教育の意義などについて意見を交換していたにちがいありません。
こうして準備が整い、安堵村という日本の片隅の理想郷(ユートピア)にあって「小さな学校」が開校しました。もっとも、「小さな学校」の時間表にない英語と唱歌と理科については、生徒であるふたりの姉妹は、週に二回ほど軽便鉄道に乗って母親に連れられ奈良市街の女高師へ通うことになります。しかし、修身の教科だけは学校に任せず、除かれたのでした。「小さな学校」の開校は、一九二二(大正一一)年の、おそらく四月のことだったと思われます。このとき陽は満で六歳、陶は四歳、そして小林信は、女高師の三年生から四年生への進級を迎えようとしていたのでした。
(21)富本一枝「子供と私」『婦人之友』第15巻、1921年1月号、55頁。
(22)富本一枝「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』第18巻、1924年8月号、25頁。
(23)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、78頁。
(24)前掲「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、26頁。
(25)富本陶「円通院の世界地図」『もぐら』桐朋女子高等学校音楽科文集委員会編集、1988年、92頁。
(26)前掲「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、27頁。
(27)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、28頁。
(28)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、同頁。
(29)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、32頁の「附記」を参照。
(30)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、127頁。
(31)前掲「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、28-29頁。
(32)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、29頁。
(33)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、5頁。
(34)前掲「円通院の世界地図」『もぐら』、同頁。
(35)富本陶「安堵のことなど」『富本憲吉――白磁と模様――』(図録)、府中市郷土の森事業団、1987年、62頁。
(36)同「安堵のことなど」『富本憲吉――白磁と模様――』(図録)、同頁。
(37)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge/Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XVI, p. 63-64.