この「小さな学校」の初代教員は伊藤、二代目は立石という名の人物でした。両名は、すでに引用しています陶の言葉に従えば、成城小学校の校長の小原国芳によって紹介された教師だったものと思われます。続いて、卒業後就職した徳基高等女学校を一年で辞職し、三代目として一九二四(大正一三)年の四月に着任したのが、小林信でした。
一九二四(大正一三)年八月号の『婦人之友』を開いてみますと、そこに、「私たちの小さな學校に就て」という主題のもと、富本一枝の「1. 母親の欲ふ教育」、小林信の「2. 稚い人達のお友達となつて」、そして、富本憲吉の「3. 生徒ふたりの教室」の三編のエッセイが掲載されていることに気づきます。小林は、「稚い人達のお友達となつて」を、次の文言でもって書き出しています。
私が陽ちやん陶ちやんと云ふ二人の稚い人のお友達となつて、此の學校に來ましたのは、つい此の四月で、未だほんの四ケ月足らずにしかなりません。けれど、私は此處三年程前、卽ち姉さんである陽ちやんが、始めて恁ういふ特殊な敎育を受け始めて以來、二人の母上を通して、その母上が二人の愛兒の上に抱いて居られる理想を覗ひ、二人の稚い人達の上を祕かに考へ、此の稚い人達の學校を見せて貰ひ、又一二時間の出鱈目な先生になつた事抔もありして、陽ちやんと陶ちやんとは、お互によく遊ぶお友達同志でありました38。
このことから、小林が奈良女子高等師範学校の四年生になるときに開校された「小さな学校」で、ときどき陽と陶の先生になったり、遊び相手になったりしていたことがわかります。それでは小林は、いつどのような経緯で、憲吉なり一枝なりと面識をもつようになり、富本家の自宅に出入りをはじめるようになったのでしょうか。それについては正確に特定することはできませんが、すでに述べていますように、次のような可能性がいまのところ残されています。小林は一九一九(大正八)年の四月に奈良女高師の文科に入学しました。入学早々に受講したと思われる「大和史講話」のなかで、おそらく水木要太郎が、安堵村で活躍する陶工の富本憲吉とその妻の一枝について話題にした可能性があり、そうであれば、早くもこの段階で小林は、富本夫妻のことを習い知ったことになります。そして、その翌年の一九二〇(大正九)年一〇月号の『女性日本人』に所収されていた、憲吉の「美を念とする陶器」を読んでいたとするならば、ここには「何うか私共の考えや生活を見てください」と書かれてあり、これが誘因となって、小林は富本家を訪問したのではないかとも考えられます。他方、ちょうどこの年(一九二〇年)の春から、一枝は、長女の陽を連れて女高師へ通い始めます。このとき小林は、校庭を散策する一枝と顔をあわせ、これがきっかけとなって、富本家に招き入れられるようになったのかもしれません。
当時富本家に出入りしていたのは、小林だけではありませんでした。数名の女高師の生徒たちが日常的に富本家を訪れていたようです。そのなかに、小林の一年後輩の丸岡秀子がいました。丸岡は、一九〇三(明治三六)年五月五日に長野県南佐久郡で酒造業を営む家の長女として生まれますが、生後一〇箇月で生母と死別し、その後母方の祖父母のもとで育てられ、長野高等女学校を卒業すると、長野県知事の推薦によって、一九二〇(大正九)年の四月に奈良女子高等師範学校に入学します。卒業後丸岡は、その生涯を通して女性解放運動家や社会評論家としての道を歩み、多くの著作も残します。そのなかで丸岡が、富本家と関係をもった当時の様子について触れている本として、後年に著した『ひとすじの道』と『いのちと命のあいだに』があります。『ひとすじの道』は自伝であり、『いのちと命のあいだに』は、この間に出会いがあった忘れ得ぬ人たちについての交友録となっています。小林自身には、残念ながら、これに類するような文は見当たりませんので、主として丸岡の記述内容をもとにして、これより、女高師の生徒たちがどのようにこの時期富本家とかかわっていたのかを再現することにし、そこから小林の置かれていた状況を類推してみたいと思います。
十代後半のこの年齢の生徒たちは、多かれ少なかれ悩みを抱えていました。出自や家族について、勉学や成績について、社会や教育における歪みや欺瞞について、恋愛や性について、そして、将来の職業や結婚について――悩みの内容は、生徒によってさまざまであったにちがいありませんが、丸岡自身は、「人間主義のなかで、社会の矛盾や、生活の食い違いの根源に迫るものをほしがっていた」39と、告白しています。そうした心の飢えが誘いとなって、雑誌に掲載された一枝の作品を読んだ丸岡は、一九二一(大正一〇)年のおそらく四月に、安堵村の広々とした田んぼの一隅に位置する富本家の自宅を、はじめて訪ねるのでした。女高師二年になったばかりの一七歳の春のことでした。
富本家の真紅のバラの門をくぐると、足音を聞きつけた一枝が、すでに二枚戸の前に立っていました。「白い芙蓉の大輪が、パッといっぺんに咲き開いたような感じだった」40。丸岡を出迎えた「一枝は、久留米がすりの着物に、白っぽい帯を無造作に腰に垂らすように締めていた。また、髪の形が独特で、これまでに見たこともないタイプだった」41。ベランダのイスに向かい合って座り、一枝と話していると、頭を短く刈り込んだ、ジャンパー姿の憲吉が入ってきました。「やはり背が高く、全体がキリリとしまった感じの人だった」42。ひとことふたこと言葉を交わすと、また裏にある仕事場にもどっていきました。丸岡の生まれ故郷のことやいま籍を置いている女高師のことが話題となって、一枝との会話が続きます。「紹介状も何もない、どこの何者かもわからない小娘に、一枝はだんだん好意を示しはじめてくることが、わかるような気がして……じっと一枝の顔をみつめ、この人のひと言も聞きのがすまいと腰をおろしていた」43。一枝は、「自分たちの子どもも、週に何回か、附属の小学校に連れて行っていることなど」を話すと、別れ際に、「どうぞ、いつでも、あなたのご都合のいいときにいらしてください。わたしも奈良に出たら、お訪ねしましょう」44と告げます。短い滞在でした。しかし、丸岡にとっては、「この日を‶初恋の日″と思わないではいられないほど、心が昂っていた」45。
はじめてのこの日の出会い以降、日曜日を待ちかねるようにして、丸岡の足は安堵村へと向かいました。丸岡はここで、いままでに経験したことのない、さまざまな事象に遭遇します。まず食べ物――。丸岡が「はじめてコーヒーというものを飲んだのは、このベランダであった」46。次に音楽――。丸岡は「はじめて、バッハだの、ショパンだの、ベートーヴェンだのの名をここで知った。それらの音楽を聞きながら、いつも故郷の女の生活を思った。生涯を土に埋もれ、生き死にの持続のなかで、自分を抑圧し通している女の生活と、富本夫妻のこの生活とを比べた」47。さらに書籍――。「一枝の書架には、新しい本がぎっしりつめられ……その書棚には、女高師という名の学校の図書館では見られない‶禁じられた本″が並んでいた。トルストイ、ドストエフスキーからはじまって、ツルゲーネフ、ゴーリキーなどのロシアの作家のもの。そしてまた、バルザック、ユーゴー、デュマ、ゾラ、モーパッサン、ロマン・ローランなどのフランス文学者の名が背文字に並び、数え上げられないほどだった」48。一枝は丸岡にこういいました。「どれでも持って行ってください。読まれたら、戻してくださればいいのです」49。
さらに丸岡を驚かせたのは、富本家の夫婦のあり方にかかわるものでした。憲吉と一枝が展開するような自由な人間同士の関係性をかいま見るのは、丸岡にとってはじめての体験でした。父母の愛に恵まれずに育った苦悩や、土着の生活しか知らなかった世界観は大きく揺り動かされ、丸岡の心のなかに、未来に向けて生きるうえでの自信のようなものが芽生えてきたのでした。丸岡はこう書いています。「コーヒーを飲むこと、レコードを聴くこと、本を読むこと、話し合うこと、感想をのべ合うこと、おたがいの道を創り合うこと、対等に助言し合うこと、解放といえば、より適切といえるような人間の暮らし方を、奈良の小さな村のなかで、この村に住む二人のなかで……発見した。その驚きと悦びに……初めて、《わたしも生きられる》と思うようになった。……この一組の配偶を理想の像と見るようになっていった。そして、二人の生活のなかに、遠慮もなく入り込んだ自分を、幸運だったと思った」50。
丸岡が観察しているとおり、この小さな村にあって、過去の価値観や先例に囚われない、新しい生き方が富本夫婦によって営まれていました。一枝は、一九一七(大正六)年一月号の『婦人公論』に寄稿した「結婚する前と結婚してから」のなかで、「夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる」と書きました。一方憲吉は、一九二〇(大正九)年一〇月号の『女性日本人』に寄稿した「美を念とする陶器」のなかで、「何うか私共の考えや生活を見てください」と書きました。それもこれもすべてが、まさしくここで丸岡が目にしている内容だったにちがいありません。
それでは一枝は、自分自身のことを丸岡に話すことはあったのでしょうか。丸岡の書くところは、こうです。
一枝は、憲吉と結婚する前は、尾竹紅吉といい、平塚らいてうの青鞜運動の同人であり、その強い自己主張は、当時の社会に際立っていた。それなのに……そんな素振りは少しも見せなかった。人間解放の火花を散らし、差別に挑む女性の先駆者であったことなどは、少しも語らなかった51。
丸岡は、一枝の青鞜時代を少し買いかぶっています。一枝が青鞜の社員であったのはわずか一年で、その間の一枝は、「人間解放の火花を散らし、差別に挑む女性の先駆者」とは異なる次元において「当時の社会に際立っていた」のでした。丸岡が訪問したころの一枝は、明らかに、結婚前の自分に強い嫌悪感を抱いていました。以下は、一枝の書くところです。
評判を惡くして心のうちで寂しく暮してゐた事もあつた。可成り長く病氣で轉地してゐた時もあつた。全く寂しく暮してゐた時もあつた。どうにかして眞面目な人生に眼を醒ましたいと悶躁(もが)いてゐた。僞もつゐた。人を欺しもした。いぢめもした。愛しもした52。
このように、一枝の安堵村での生活は、むしろ青鞜時代の自分から離れ、新たな人間へと生まれ変わる試練の時期でもあったわけです。そうしたなかにあって、一枝が、結婚前の自分について口を開くようなことはなかったものと思われます。しかしながら、女性を惹きつける魅力は温存されていたようで、一枝を慕って女高師の学生たちが集まってきました。丸岡は、日曜ごとにこの夫婦を訪ねていました。
そのうちに二人を訪れる人が、だんだん多くなることもわかってきたし、一枝をあこがれる学生も、同級生のなかにも出てきたり、そのまた上の学生のなかにも出てくるようになった。
一枝は、それらをすべて受容した。決して拒まなかった。強烈な花の香りにあつまるように、二人が三人になり四人になっていった。一枝もまた、そのなかで好ましい学生と、そうでないものとに心を分ける姿を見せることもあった53。
丸岡は、「そのことを敏感にかぎ分けた。そして嫉妬もした。だが、それに負けるものかと思うようになった。むしろ、せっせと安堵村に通った。すると、同級生や、上級生が、ベランダで、一日中、一枝と談笑していることもたびたびだった。だが……ひるまなかった。すぐ、台所に入って袴をとり、割烹まえかけ姿になって、浸(つ)けてある洗濯をはじめた」54。
丸岡の同級生の「そのまた上の学生」で、一枝が「好ましい学生」として選別し、「べランダで、一日中、一枝と談笑している」上級生が、小林信なのではないでしょうか。そうであれば、小林が富本家を訪れるようになったのは、一九二一(大正一〇)年のことで、女高師三年のときだったということになります。それでは小林は、一枝とどのような話題で談笑していたのでしょうか。正確な証拠があるわけではなく、状況から推し量るしかありません。学校のことでいえば、一年前の春の門限事件のことが話題になったのではないでしょうか。そのことについて丸岡は、「例の門限におくれたというだけで、ふたりの学生を即時退学処分にした、そのことに対する学校への不信……それをどうすることもできなかったことに対する、自己嫌悪」55を率直に告白しています。おそらく、小林も同じ思いを抱いていたものと思われます。これは、規則に対する学校側の厳格さを示そうとする態度であったのでしょうが、単なる形式的硬直性を露呈するものでもあり、おそらく多くの寮生を震え上がらせる事件だったにちがいありません。『奈良女子大学百年史』は、直接その事件には触れていません。ただ、この時期、門限時間が少し延びたことに言及しています。一九二〇(大正九)年七月、「生徒の門限は、三十分から一時間延長され、三月から十月の期間は、午後七時、十一月から二月の期間は午後六時となった」56。
一枝と小林の談笑は、学内問題だけではなく、当時の政治、社会、教育を取り巻く多岐にわたる問題へと発展していった可能性もあります。世界的には、一九一七(大正六)年のロシア革命、一九一八(大正七)年の第一次世界大戦の終結、国内では、一九一八(大正七)年の米騒動、一九二〇(大正九)年の第一回メーデーの開催、一九二一(大正一〇)年の川崎・三菱両造船所での労働争議、一九二二(大正一一)年の水平社の結成、同じく一九二二(大正一一)年の日本共産党の創設、他方、教育に目を向ければ、一九二一(大正一〇)年の文化学院や自由学園の創立にみられるような自由教育への関心の高まり――。憲吉と一枝が、旧い生活秩序を否定し、それに代わる新しい夫婦関係の構築に向けて、この安堵の地において奮闘していたこの時期は、変革を求める政治、社会、教育上の新しい動きの顕在化と重なり、これが、一枝と小林の共通の関心事となっていた可能性が残されるのです。前述のとおり、一九二二(大正一一)年の春、富本夫妻は、村の学校に入学させず、ふたりの娘の教育の場として「小さな学校」をつくりました。個人的なレヴェルでの教育革命です。このとき、小林は四年生になっていました。そして、一枝のはからいがあったのでしょう、小林は、「此の稚い人達の學校を見せて貰ひ、又一二時間の出鱈目な先生になつた事抔もありして、陽ちやんと陶ちやんとは、お互によく遊ぶお友達同志でありました」。こうして、小林は、ふたりの子どもと一緒に勉強をし、遊び相手となりながら、一枝との信頼関係を深めてゆくのでした。
丸岡は、自身の教育実習について、このように書いています。「当時の附属女学校の生徒の、教生泣かせは手馴れたものだった。だから、四年三学期の教生時代は、みな苦労した」57。丸岡よりも一年上級生であった小林も、同じく四年の三学期に教育実習を行なったにちがいありません。配属されたのが附属高等女学校であれば、国語科の教諭の竹尾ちよ(のちに結婚により松山に改姓)と、そのとき面識をもったものと思われます。すでに前に述していますように、このときまでに竹尾は、陽の教育のことで一枝と知り合っていましたので、教育実習中、国語教師の二五歳(あるいは二六歳)の竹尾と実習生の二〇歳の小林が交わす会話のなかに、一枝のことが登場したかもしれません。また、竹尾が安堵村を訪問したのも、この少し前のころだったにちがいありません。「富本邸に一か月滞在した竹尾先生は、同家の朝食のハムエッグや、トマトの野菜サラダに驚いた。生まれて初めてハムを口にしたのである。トマトも未だ珍しかったが、一枝が家庭菜園のように庭で栽培していたらしい」58。
しかし、教育実習生の小林にとって、一枝についての話題同様に心に強く響いたのは、竹尾が歌を詠む人であったことではなかったかと推量されます。といいますのも、竹尾は一九一八(大正七)年に『梨の花』を蛮船社から上梓しており、このときまでにすでに大和の才媛歌人として著名な人物になっていたからです。そして、竹尾が教育実習生の世話をしていたころは、『大和巡礼路の歌』(一九二五年、木原文進堂)の出版準備に入っていたものと思われます。このとき小林は、竹尾に歌づくりについて教わったかもしれませんし、小林が、一九二九(昭和四)年の秋に与謝野晶子・鉄幹夫妻の門下生になるのも、こうしたことが遠因として挙げることができるのかもしれません。
教育実習が終わると、一九二三(大正一二)年の三月、奈良女子高等師範学校を無事卒業し、徳基高等女学校(現在の山口県立厚狭高等学校)への赴任の旅に就くのでした。
(38)小林信「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』第18巻、1924年8月号、33頁。
(39)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、100頁。
(40)同『ひとすじの道 第三部』、101頁。
(41)同『ひとすじの道 第三部』、102頁。
(42)同『ひとすじの道 第三部』、同頁。
(43)同『ひとすじの道 第三部』、103頁。
(44)同『ひとすじの道 第三部』、103と105頁。
(45)同『ひとすじの道 第三部』、同頁。
(46)同『ひとすじの道 第三部』、109頁。
(47)同『ひとすじの道 第三部』、同頁。
(48)同『ひとすじの道 第三部』、110-111頁。
(49)同『ひとすじの道 第三部』、111頁。
(50)同『ひとすじの道 第三部』、109-110頁。
(51)同『ひとすじの道 第三部』、108頁。
(52)前掲「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、71頁。
(53)前掲『ひとすじの道 第三部』、112頁。
(54)同『ひとすじの道 第三部』、113頁。
(55)同『ひとすじの道 第三部』、98頁。
(56)前掲『奈良女子大百年史』、75頁。
(57)丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、33頁。
(58)前掲『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、127-128頁。