中山修一著作集

著作集11 研究余録――富本一枝の人間像

第二編 富本一枝が愛した女――美貌と才覚の小林信

第二節 『婦女新聞』、『青鞜』、そして尾竹紅吉

小林信が奈良女子高等師範学校に在籍したのは、一九一九(大正八)年四月から一九二三(大正一二)年三月までの四年間でした。それではこの時期に至るまでの女性を巡る社会の動きは、どのようなものだったのでしょうか。小林の人間形成の一部をなすものであった可能性がありますので、そのことについて、簡単に述べておきたいと思います。

この時代は、一般的に「大正デモクラシー」という用語でもって特徴づけられていますように、政治、社会、教育、文化などのさまざまな領域において、自由主義的な、あるいは平等主義的な運動や思潮が展開された時代でした。そうした時代背景のなかにあって、奈良女子高等師範学校に集う生徒たちにとって最も高い関心事となっていたのは、おそらく女性としての生き方に関するものだったにちがいありません。奈良女高師に入学する前にほとんどの生徒が通っていたのが各地に設置されていた高等女学校で、そうした女学校のあいだで人気の高かった読み物が『婦女新聞』という週刊新聞でした。一九一一(明治四四)年八月一一日の『婦女新聞』に掲載された一頁の社説は、「同性の愛」という表題をつけて、女性間の「不可思議な」セクシュアリティーについて論じています。以下は、その書き出しの部分です。

『女同士の情死』と題して、二人の女工が手を携へて投身したりし新聞紙に報せられたる事あり。最近に一博士の令嬢と、一官吏の令嬢とが共に高等女學校卒業の敎育ある身にして、同じやうなる最期を遂げたるあり。新聞紙は之を同性の愛、世俗に所謂オメの關係なりとして審しまざる樣子なるが、同性間に、果たして異性間の如き愛の成立し得るものなりや否や。容易に信じ難けれども、若し眞に成立し得るものとせば、娘持つ母及び女子敎育家は、最愛なる子女の監督法に就て新なる警戒を加へざるべからず。かゝる問題は人生の機微に關し、紳士淑女の輕々しく口にすべき事にあらざれども、又それだけに重大な問題なるを以て、眞面目に研究する必要あり

この社説では、女工の例と令嬢の例を、ともに「オメ」の関係とみなしながらも、前者については、女性相互の「熱烈な精神的友情」に基づく関係とし、後者については、男性的な女と女性間の「肉的堕落」との烙印を押しています。社説は、「眞面目に研究する必要あり」と警鐘を鳴らします。おそらくこの記事が、今日にいうところの「ジェンダー/セクシュアリティー」についての、この国における最初の論評のひとつだったにちがいなく、その意味で、当時の女生徒に与えた衝撃は、決して少なくなかったものと思われます。この社説の出現は、奈良女高師創設の二年目に当たります。この「同性の愛」にかかわる問題は、「紳士淑女の輕々しく口にすべき事にあらざれども」、高等女学校や女子高等師範学校の生徒のあいだで密かなる話題となって、それ以降も、絶えることなく女生徒の心を占めていたのではないかと推量されます。

この「同性の愛」という表題の社説が『婦女新聞』に掲載されてから一箇月後、平塚らいてうの手によって『青鞜』が創刊されました。これは女性による最初の文芸雑誌で、のちに女性解放運動のための機関紙的役割も担いながら、一九一六(大正五)年まで刊行が続きます。この雑誌に魅了され、吸い寄せられたひとりの女性がいました。その名を尾竹一枝といいました。一枝は、一八九三(明治二六)年に富山市の越前町にて出生します。日本画家の尾竹越堂(本名は熊太郎)が父親でした。しかし、六年後の一八九九(明治三二)年の富山市を襲った大火事により、両親と別れ祖父母に連れられて一度は東京に出ますが、その後は、両親とともに大阪の地で暮らすようになります。夕陽丘高等女学校を卒業すると、絵の勉強のために上京し、越堂の弟で、同じく日本画家の尾竹竹坡(本名は染吉)のもとに身を寄せます。ちょうどその時期のことでしょうか、竹坡の妻のきくと一枝は、連れ立って上野へ出かけたことがありました。以下は、そのときのきくの記憶です。

一枝さんと一緒に上野の山へ行った時よ、その人マントをすらっと着ているものだから男と間違えられちゃってね、笑ったことがあるわよ……

男さながらのセルの袴にマントの着用、これが若き日の一枝の特異な衣装姿でした。一九一一(明治四四)年の秋のある日のことでした。表庭の掃除をしていたとき、一枝は、郵便配達人から叔母宛ての一通の封書を受け取ります。叔母のきくと一緒に封を切ると、平塚らいてうが主宰する『青鞜』の発刊の辞と青鞜社の規約が同封されていました。のちに一枝は、このときのことを、「私にとつては天地振動そのものであつた」と語っています。そのあと一枝は大阪に帰ると、すぐにもらいてうに手紙を書きます。らいてうは、当時の一枝のことをこう記憶していました。

 型破りな、男とも女とも判らない妙な手紙を度々よこす大阪の変な人として、姿は見えないけれども、かなり早くから社の人たちに、軽い好奇心のようなものをもたせていました。……上京後は社の事務所にも、私の家にもよく来るようになり……人にもてることの好きな紅吉は、幸福のやり場のないようなかがやいた顔をして、大きな、丸みをもったからだを、着物と羽織とおついの、いきな久留米飛白かすりに包んで、長い腕をそらして、いつも得意然と市中を歩き、大きな声でうたったり、笑ったり、実に自由な、無軌道ぶりを発揮していました

青鞜社時代の一枝は、自分のことを「紅吉こうきち」と呼び、ペンネームにもその名を使いました。晩年に、いとこの尾竹親が自分の父親の伝記『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』を書くにあたり、一枝にインタヴィューをしていますが、そのなかに、「紅吉」という呼称についての次の一文を見出すことができます。「自分では『あれで随分欲張った名』だと言っているところから推すと、彼女なりにある意味がこめられているのだろう」。果たしてどのような意味がこめられていたのでしょうか。「紅吉」の「紅」には、生まれもった身体上の性が、「吉」には、その後自覚された心理的な性が表現されていたのかもしれません。

一九一二(明治四五)年三月号の『青鞜』(第二巻第三号)に、はじめて紅吉の「最後の霊の梵鐘に」が掲載され、さらに翌月号では、紅吉が描いた「太陽と壺」に、表紙が差し替えられました。紅吉が青鞜社に所属したのは、およそ一年でしたが、その短いあいだに、「五色の酒」「吉原登楼」、加えて平塚らいてうとの「同性の恋」が、同時進行的に『青鞜』から発信されてゆくと、まさしく「時の女」としての紅吉に耳目が注がれましたし、広く青鞜社に集う女たちに対して世間は、「新しい女」とか「新しがる女」とかという呼称でもって、珍しがったり、揶揄したりしました。おそらくこの時期、「尾竹紅吉」の名を知らない女学生は、ほとんどいなかったのではないでしょうか。

当時の紅吉が、宮本百合子の小説「二つの庭」のなかに登場します。そこには、次のような描写がなされていました。

 伸子とは二つ三つしか年上でない素子の二十前後の時代は「青鞜」の末期であった。女子大学の生徒だの、文学愛好の若い女のひとたちの間に、マントを着てセルの袴をはく風俗がはやった。とともに煙草をのんだり酒をのんだりすることに女性の解放を示そうとした気風があった。二つ三つのちがいではあったが、そのころまだ少女期にいた伸子は、おどろきに目を大きくして、男のように吉という字のつくペンネームで有名であった「青鞜」の仲間の一人の、セルの袴にマントを羽織った背の高い姿を眺めた。その女のひとは、小石川のある電車の終点にたっていた10

この小説のモデルとなっているのは、伸子が宮本本人であり、素子が、かつての共同生活者であった湯浅芳子に相違ありません。紅吉が「小石川のある電車の終点にたっていた」のは一九一二(明治四五)年の青鞜社時代だったと思われますので、そのとき、宮本百合子(旧姓は中條)は一三歳、湯浅芳子は一六歳でした。このふたりより少し若い一〇歳になる小林信も、もしかしたら「青鞜の紅吉」の名を聞き及んでいたかもしれません。

尾竹紅吉は、青鞜社に迷惑をかけたことを理由に退社すると、一九一三(大正二)年三月に、今度は自らが主宰者となって、文芸雑誌『番紅花さふらん』を創刊します。その雑誌の表紙絵や裏絵を提供したのが図案家(デザイナー)の富本憲吉でした。こうして、ふたりの情感は深まり、結婚へと向かいます。

富本憲吉は、一八八六(明治一九)年に大和の安堵村の旧家に生まれ、東京美術学校で図案(現在の用語法に従えばデザイン)を学び、ウィリアム・モリスの思想と実践に魅了され、卒業を待たずして英国に渡ります。その地で親しく交わったのが、画家の白滝幾之助と南薫造でした。帰国すると憲吉は、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を参照しながら「ウイリアム・モリスの話」を執筆し、擱筆後それは、一九一二(明治四五)年の『美術新報』第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)に分載されます。これが、憲吉にとっての帰朝報告であり、工芸家モリスを紹介する日本における最初の評伝となりました。続けて二年後の一九一四(大正三)年九月、今度は、東京竹川町にある美術店田中屋において「富本憲吉氏圖案事務所」を開設します。『卓上』(第三号)に掲載された広告には、この事務所の営業品目として、「印刷物(書籍装釘、廣告圖案等)、室内装飾(壁紙、家具圖案等)、陶器、染織、刺繍、金工、木工、漆器、舞臺設計、其他各種圖案」が挙げられています。ここに、一九世紀英国に設立されたモリス・マーシャル・フォークナー商会(のちのモリス商会)に範をとった、日本における最初のデザイン事務所が誕生するのでした。

富本憲吉と尾竹一枝は、一九一四(大正三)年の一〇月二七日に、日比谷の大神宮神殿で白滝幾之助夫妻を仲人として結婚式を挙げました。そのとき憲吉は二八歳、一枝は二一歳でした。結婚をするや、『淑女畫報』(一九一四年一二月)に暴露記事が掲載されます。その表題は、「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」11というものでした。この記事のなかでさらに注目されてよいのが、「紅吉女史は女か男か」という見出し語に続けて、紅吉のセクシュアリティーに関して詳述されている箇所です。以下は、そこからの一部抜粋です。

彼女は勿論女である、而も立派な女性であることは争はれない事實です。然し彼女の一面に男性的なところのあるのも事實です。先づ第一にその體格の如何にもがつしりとして、あくまでも身長の高い所に『男のやうだ。』と云ふ感じが起ります。セルの袴に男ものゝ駒下駄を穿いて、腰に印籠などぶら下げながら、横行闊歩する所に、『まるで男だ。』と云ふ感じが起ります。太い聲で聲高に語るところ、聲高に笑ふところ、其處にやさしい女らしさと云ふ點は少しも見出すことは出來ません。男のやうに女性を愛するところ、その女性の前に立つて男のやうに振舞ふところ、それは彼女が愛する女と楽しい食卓に就いた時のあらゆる態度で分ると云つた女がありました。甘い夜の眠りに入る前に男のやうに脱ぎ棄てた彼女の着物を、彼女を愛する女が、さながらいとしい女房のやうにいそいそと畳んだと云ふことを聞いたこともありました。

おそらくここで記述されている内容が誘因となったものと思われますが、ふたりは早々に東京での新婚生活に見切りをつけると、翌一九一五(大正四)年の春に、憲吉の生家のある安堵村に帰還し、憲吉は本宅近くの土地に自宅と本窯を築き、作陶の道へと入ってゆきます。一枝は、若くて美しく、才能のある女性を愛しました。そうした女性がほとんどいない田舎へ身を移すことが、この夫婦にとって必要だったものと考えられます。それでは、結婚前の東京での生活と、結婚後のここでの田舎暮らしには、どのような変化があったのでしょうか。一枝は、一九一七(大正六)年一月号の『婦人公論』に寄稿した「結婚する前と結婚してから」のなかで、次のように告白します。

 彼と私は、思想に於いてまだまだひどく掛け離れてゐる。……私の心は悩む、そして度々考へた。単純な自然的な正直な生活を營むには、未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ。それがどんなに彼を寂しく悲しくするか知れない12

憲吉と一枝には、近代精神の体得という観点から見れば、年齢的な差もあり、体験、知識、語学力のどの面においても、おそらくいまだ大きな開きがあったにちがいありません。この文のなかで一枝は、「未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ」といっていますが、これは、体の性と心の性がどうしても一致しないことに由来する違和感や、それに伴う自責の念といった心的状況についてではないかと思われます。といいますのも、一九一二(大正元)年一〇月二七日の『東京日日新聞』の「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」のなかで、記者のインタヴィューに答えて、紅吉はこういっているからです。「私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」13。この内面に秘められた「面白い氣分」が、生涯の紅吉(一枝)の光と影となるものでした。一枝は最後までカミング・アウトすることはありませんでしたが、当時の隠語によれば「男女」、今日の用語に従えば「トランスジェンダー」だったものと思われます。

さらに一枝は、この「結婚する前と結婚してから」という文のなかで、「夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる」14とも書いています。憲吉が、一枝を「指導してゐる」のは、ひとつには、当時普通とはみなされていなかった妻のセクシュアリティーの克服にかかわる問題に関してであり、いまひとつには、良妻賢母の思想にみられるような旧弊な女性観からの解放にかかわる問題に関してであったに相違ありません。といいますのも、一枝本人が、一九一三(大正二)年一月号の『新潮』のなかで、「舊い新しいの意味が、昔の女と今の女と云ふのなれば、私は昔の女が好きで且つそれを尊敬し、自分も昔の多くの傑れた女の樣になりたいと思つて居ます」15と、述べているからです。このように、決して一枝は「新しい女」などではなく、どちらかといえば、旧い伝統的な価値を身にまとった女性だったのでした。

(5)『婦女新聞』第586号、1911年8月11日(金)、1頁。(「婦女新聞 第12巻 明治44年」、不二出版、1983年3月15日/復刻版発行、265頁。)

(6)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、247頁。

(7)富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、85頁。

(8)平塚らいてう『わたくしの歩いた道』新評論社、1955年、121-124頁。

(9)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、233頁。

(10)『宮本百合子全集 第六巻』新日本出版社、2001年、298頁。
 この小説のなかで伸子は、紅吉のセクシュアリティーに驚いています。しかしこの驚きは、現実世界においては宮本が湯浅から受けた驚きでもありました。ふたりが野上彌生子の家ではじめて会って一箇月と少しが過ぎた、一九二四(大正一三)年の五月二一日と二二日にまたがって書かれた湯浅から中條(のちに結婚により宮本姓へ改姓)へ宛てて書かれた手紙に、このようなくだりがあります。
 「私の性格のかなり複雑なことはあなたも御存じですが、そのあなたのご存じよりももっともっと私にはこみ入った矛盾だらけの不幸な生れつきがあるのです。生理的には一通り何の欠点もない女ですが、しかも女でいて女になりきれないというところ、(まだまだ言い足りないが)すべての不幸がまず一番ここにあるのではないかとおもいます。人生にとって一番意義のある得難く尊いものは何ですか?あなたはなんだとおもいます。芸術ですか、愛ですか。その何れにも見離された人間は何を目的に生きるのです。まして私は愛を知らないんじゃない!もうやめ、やめ、こんなこと」。(黒澤亜里子(編)『往復書簡 宮本百合子と湯浅芳子』翰林書房、2008年、41頁。)
 湯浅が告白(カミング・アウト)しているのは、明らかに、女が女になりきれない女性の心の性にかかわる精神的苦痛についてであろうと思われます。トランスジェンダーを、のちになって「選択」したものではなく、生まれながらにして本人が備え持つ「本性」であるという立場に立つならば、これを自分の意思や努力によって変更したり、捨て去ったりすることはもはやできず、何を目的に生きればいいのかを、自問するも、答えはなく、その苦しみを湯浅は率直に中條に訴えているのではないでしょうか。

(11)「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」『淑女畫報』第3巻第13号、1914年12月、32-39頁。

(12)富本一枝「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』第2巻、1917年1月号、74頁。

(13)「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」『東京日日新聞』、1912年10月27日、日曜日。

(14)前掲「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、76頁。

(15)「謂ゆる新しき女との対話――尾竹紅吉と一青年」『新潮』、1913年1月、107頁。