中山修一著作集

著作集11 研究余録――富本一枝の人間像

第二編 富本一枝が愛した女――美貌と才覚の小林信

第七節 富本家私設の「小さな学校」への転任

一年間の奉職ののち、徳基高等女学校を辞して、富本家私設の「小さな学校」の三代目教師として転任してきた小林信は、喜びをもって一枝に迎え入れられたにちがいありません。

「小さな学校」は、富本家の菩提寺の円通院に設けられていました。ここはすでに廃寺同然となっており、かつて憲吉が英国から帰国したのち、一時期アトリエとして使用されたことのある場所でもありました。二年前の「小さな学校」の開設のときに改装され、陶の記憶によりますと、すでに引用で示していますように、「当時関西で一番の木工会社、大阪の内外木工所に子供用の小さな勉強机と椅子、大きな黒板等注文されました。……壁には大きな黒板と世界地図がかけられてあり、先生用の大きな机の上には特別大きな地球儀が置かれてありました」。少し離れて母屋があり、この本宅には、主に憲吉の母親と祖母が暮らしていました。代々続く庄屋の家柄で、使用人も幾人かは抱えていたにちがいありません。陶の記憶は、さらにこう続きます。「先生は母屋の表門の門屋(昔の門番さんの宿舎)を宿舎とされ、一切のお世話はお祖母さんの家でして下さったようです」。憲吉と一枝の自宅は、母屋から歩いて約二〇分の所にありました。こうして、小林信を先生とする、陽(当時満八歳)と陶(六歳)の「小さな学校」通いがはじまったのです。時は、そろそろ安堵村では田植えがはじまろうとする、一九二四(大正一三)年四月のことでした。

陶は、こう書いています。「姉と私は朝食が終わると田舎道を『円通院』の学校に通い、国語、数学、お習字等を勉強しました」68。午前中で勉強は終わり、子どもたちは帰路につきます。家では母親が待っています。次は一枝の言葉です。「平和に静に愉快に勤勉な幾時間をそこで過して午飯にこの田の中に建つ小さな一軒家に戻つてくる時、母親の私は子等のために温き飯を焚いて膳を調へ待つてをります。『只今』『母さん只今』と、元氣のいゝ明るい聲が遠くから四方に響いてくる時、いつもながら胸迫つた嬉びがほとばしります」69

そうしたなか、雑誌社から依頼があったのか、一枝が発案したのか、その詳細はわかりませんが、この「小さな学校」について、富本夫妻と小林信が筆を執ることになりました。掲載誌は、この年の『婦人之友』八月号でした。一枝が「1. 母親の欲ふ教育」を、小林が「2. 稚い人達のお友達となつて」を、そして憲吉が「3. 生徒ふたりの教室」を担当しています。以下は、それぞれの文の概略です。

一枝は「1. 母親の欲ふ敎育」のなかで、これまでの陽と陶に対する家庭内での教育実践の様子を詳細に語り、続けて、村の小学校に子どもを通わすことを断念し、「小さな学校」を開設するまでに至った経緯を書き、そして、最後の「附記」のなかで、新任の小林についてこう記します。「小林信氏は私の若き友人として、今子供達のために全力を盡してゐて下さる。氏によつて私達の仕事は第二期に入ろうとしてゐます。學識ある氏によつて私達の學校の基礎が固められつゝある事を悦び感謝します」70。「円通院」の先生は、初代が伊藤、二代目が立石で、この四月から小林信に引き継がれ、一枝は、これをもって「第二期」に入り、「基礎が固められつゝある」ことに喜びを隠していません。

一方の小林は、「2. 稚い人達のお友達となつて」のなかで、冒頭、陽と陶と自分とのこれまでの関係をまず紹介します。「私が陽ちやん陶ちやんと云ふ二人の稚い人のお友達となつて、此の學校に來ましたのは、つい此の四月で、未だほんの四ケ月足らずにしかなりません。けれど、私は此處三年程前、卽ち姉さんである陽ちやんが、始めて恁ういふ特殊な敎育を受け始めて以來、……此の稚い人達の學校を見せて貰ひ、又一二時間の出鱈目な先生になつた事抔もありして、陽ちやんと陶ちやんとは、お互によく遊ぶお友達同志でありました」71。そして、自分の一年間の教師としての体験について、このように書きます。「……止むなく或る地方の女學校に赴任して一年。私の無経験な、併しそれ丈けに純粋であり、又眞實だと信ずる私の考へが、事毎に、殆んどその種子下ろしさへも許されずに、無惨むざ無惨むざ蹂躙ふみにじられて行くのを、私は戦ひおほして突き進む力を失つて了ひました」72。さらに、小林の言葉は、ふたりの生徒の母親である一枝への感謝へと向かいます。

 小さくとも私自身の生きた敎育がして見度い。勿論、私の描く夢が、果して眞實のものに近いか否かを、私は知りません。それを思ふと、私は常に自分の爲てゐる仕事が恐ろしくなり、二人の稚い人達の前に、涙で頭の上がらなくなるのを感じます。併し、私自身は、私を容して呉れる人の許で、私の信じる處を進むより仕方がないのです。幸にも、二人の稚い人たちの母上から、『兎も角も貴女の信じる處を遣つて見て下さい。』といふ寛い了解の許に三人が結び合つてからの、此の小さな學校は何にも換へ難い私の寶です73

この小林の「2. 稚い人達のお友達となつて」のあとに、憲吉の「3. 生徒ふたりの敎室」が続きます。憲吉はこう書いています。「兎に角拾年此の小さい竈を附けた小住宅に親子四人が住むで居る。新築された家に少し古びが付くと並行して、赤坊として移り住んだ陽は十歳に此の家で生れた陶は八歳になり小學敎育と云ふものがやつて來た。貧しい自分達が生活費の第一に數へあげる敎育費が自分達の衣服や雇人の部分に迄割りこみ或いはけづり取る迄も何うかして良い敎育を彼等に受けさしたいと相談して彼等だけの小さな小學校をやる事にした」74。さらに憲吉は、この学校の今後の設備の充実などについて、次のように抱負を語ります。「私の今の計畫では八疊一室と六疊一室。東西に長く、南にぬれ椽樣のものを取り、南に庭を取つて小さい池の夏䕃を造る樹二三本。若し子供等が好めば四五坪の花園。或は運動具一二と出來得るならば戸外で授業を受ける椅子等の設備。……敎室に使用せぬ六疊には書棚と机と椅子……圖書室の樣な用途に使用したい」75。そして最後を、「私達の樣な親の子として生れコウ云ふ學校で寂みしい友達のない獨りぽつちの生活を送る子供達の不幸がもし私達と先生の熱心によつて幾分でも消されるものなら私は大いに喜ぶ」76という一文で結びます。

憲吉が心配する、子どもたちの「寂みしい友達のない獨りぽつちの生活」について、小林は、教師として、以下のように、示唆に富む卓見を披歴しています。

……多く集る所に重大な意味を持ち、その必要を強くし、相集まつて始めて其處に全體としての一を、發見し得るのではありますまいか。こゝに私はあの團體敎育が、重要な必然の要求として生れて來たのではあるまいかと思ひます。此の點から云つて、私共の學校は、餘程の力を各自の内に準備なければ、大きな缺陥に陥る結果を胚胎して居るのです。少くとも、もう四五人の友達を持ち、もう二人位の先生にたすけ敎へて戴けたらと、自分の足りなさ悲しみ、救を求めます77

「團體敎育」の不在を、「小さな学校」の弱点として、小林は見抜いていたのです78。疑いもなく小林は、一枝が見抜くところの「學識ある」教師だったのでした。

しかし、「小さな学校」は長続きしませんでした。といいますのも、私が、奈良女子高等師範学校を前身校にもつ現在の奈良女子大学の学術情報センターに問い合わせたときの回答によりますと、同大学同窓会の佐保会会員名簿には、小林信は、一九二四(大正一三)年一二月現在「生駒郡安堵村富本方」に在住、そして一九二五(大正一四)年一一月現在「桑野信子」として在「東京」と記載されているとのことだったからです。ここから明らかなことは、短ければ一年足らずで、長くとも一年と少々で、小林は安堵村を離れていることを意味します。一枝は、「學識ある氏によつて私達の學校の基礎が固められつゝある事を悦び感謝します」と書きました。小林は、「此の小さな學校は何にも換へ難い私の寶です」と書きました。そして憲吉は、今後の「小さな学校」の設備の拡充について、その抱負を語りました。それなのに、なぜかくも短く、この学校は潰えてしまったのでしょうか。大きな疑問が残ります。

振り返りますと、昨年の夏休み、富本一家と丸岡秀子が滞在する尾道の向島で、ひとつの出来事が起こりました。「ことに一枝をあこがれ、一枝もまたとくべつの好意を寄せていた、奈良の学校の先輩が島を訪れた」。おそらくこの女性が「Mさん」で、一枝は、「Mさん」の来島で丸岡が傷ついたのではないかと思い、密かに丸岡の日記を見ました。しかしそこには、それについて何も触れられていませんでしたが、「わたしはMさんに心を傾けていました。Mさんを愛してもいます」と書き記しました。この「Mさん」が小林信であったことは、確定的な証拠はありませんが、事の推移の全体的な状況から判断して、それを疑う余地はないように思われます。そして、年が明けた四月に山口の徳基高等女学校から円通院の「小さな学校」に転任してきたのが、一枝の描写する「私の若き友人」の小林だったのです。

しかし、昨年夏の向島での海水浴で見せたふたりの親密な同性関係が、もしこの「小さな学校」にそのまま持ち込まれているとすれば、それは一体どのような事態を招くことになるのでしょうか。それについては、何ひとつ決定的な証拠となるものは残されておらず、想像するしかほかに、手立てはありません79。それにしても、なぜかくも短期間のうちに、確たる教育成果もなく、しかも後任や転校先が未定のまま、この学校は閉じられなければならなかったのでしょうか。極めて重大な何かが、このときこの学校に起こったことが想定されます。それは何でしょうか。一枝と小林のあいだに愛を巡る何か深刻な問題が生じた――そのように考えるのが、やはり自然で順当なのではないでしょうか。小林に向けられた一枝の一方的な愛だったのか、双方が許し求め合う愛だったのか、正確にはわかりません。前者であれば、一枝の行動に驚いた小林は、逃げるようにして安堵村を去った可能性がありますし、後者であれば、引き裂かれるような、意に反した強圧的な解雇だった可能性もあります。そうでなければ、そののちの、深尾須磨子と荻野綾子、あるいは湯浅芳子と中條百合子にみられる事例に近いものがあったのではないかとも考えられます。つまり、小林が結婚をすることによって、ふたりの関係が強制的に終了した可能性です。

いかなる結末であったとしても、前任の女学校に自分の居場所を見出すことができず、一年で職を辞し、希望に満ちて安堵村の富本家に赴き、「此の小さな學校は何にも換へ難い私の寶です」と書いていた純真で若い小林は、このとき、教師としても女性としても、何らかの挫折と苦しみを経験したにちがいありません80。その後の彼女の消息を知る立場にあったのは、奈良女高師の後輩で友人の丸岡くらいだったのではないかと思われます。のちに丸岡は、皮肉なり嫉妬なりを込めて、「ずいぶん浮気をなさったから、もう思い残すことはないでしょう」と、一枝を問い詰めます。すると、「それが、わたしへのお返しですか」という言葉がもどってきます。「あなたは美人がお好きでした。それはみとめていらっしゃるでしょう」と、畳み掛けると、一枝は「こいつ奴」という表情を見せています81

小林がいなくなった結果として、「小さな学校」は教師を失いました。それ以降、富本一家が東京に移住するまでのあいだ、少なくとも一年間、あるいはそれ以上の期間、学習の機会が陽と陶に与えられることはなかったものと思われます。といいますのも、いまのところ、それを明示する痕跡や資料を見出すことができないからです。

(68)前掲「安堵のことなど」『富本憲吉――白磁と模様――』(図録)、同頁。

(69)前掲「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、30頁。

(70)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、32頁。

(71)前掲「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、同頁。

(72)同「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、同頁。

(73)同「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、同頁。

(74)富本憲吉「私たちの小さな學校に就て 3. 生徒ふたりの敎室」『婦人之友』第18巻、1924年8月号、36頁。

(75)同「私たちの小さな學校に就て 3. 生徒ふたりの敎室」『婦人之友』、37頁。

(76)同「私たちの小さな學校に就て 3. 生徒ふたりの敎室」『婦人之友』、同頁。

(77)前掲「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、35頁。

(78)陽と陶は、一般の学校の幼児教育期ないしは初等教育期に相当するこの時期を、全くの閉ざされた真空の私的空間のなかで過ごしていたことになります。後年、陽はこう述べています。
 「現在、妹[陶]は音楽教育の分野で、弟[壮吉]は映画監督として生活しており、私のように平凡な家庭の一主婦として暮らしているわけではないのですが、どうやら、五年生のとき東京に移転するまでを、円通院学校の孤独な生徒で過ごした私の事情は、ほかの二人よりいっそう色濃くくせ・・を、私につけているように思います。囲いが厚ければ厚かっただけ、風通しが悪かったのでしょうか。こんなことをいうと、はるかな場所で両親が悲しむでしょうか」。(高井陽「『小さき泉』の思い出」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、19頁。)
 一方の陶の後年の回想は、こうです。
 「私達姉妹が受けたこのような特別な教育がどれだけ私の人間形成の上で役に立ったのか、それはわかりません。社会生活になじめなかったり、特に、後に官立音楽学校で勉強するようになった時、団体生活が窮屈で途方にくれました。……在学中私のように欠席が多かった生徒は珍しかった事でしょう。学期末になると母が筆で半紙に、遅刻、欠席一回につき一枚ずつのお届けを何枚も何枚も書いてくれ、それを私は恐る恐る教務課に届けたものでした」。(前掲「円通院の世界地図」『もぐら』、93頁。)

(79)参考までに、ふたつの事例を、以下に紹介します。いうまでもなく、一枝と小林が、このような関係にあったことを示すものではありません。以下の事例が示しているのは、かつて一枝が、青鞜時代に平塚らいてうとのあいだで経験していた女同士の性的行為の一部です。「紅吉」が一枝です。
 「私の心はまたもあのミイチイングの夜の思ひ出に満たされた。紅吉を自分の世界の中なるものにしやうとした私の抱擁と接吻がいかに烈しかつたか、私は知らぬ、知らぬ。けれどもあゝ迄忽に紅吉の心のすべてか燃え上らうとは、火にならうとは」。(らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、82-83頁。)
 「『淋しい?どうした。』と言ひざま私は兩手を紅吉の首にかけて、胸と胸とを犇と押し付けて仕舞つた。『いけない。いけない。』口の中で呟いて顔を背けたが、さりとて逃げやうとはしない」。(同「圓窓より」『青鞜』、88頁。)

(80)ここに述べる事例は、富本一枝(尾竹紅吉)が、結婚するときまでに親密に付き合っていたふたりの女性に関するものです。もちろん、一枝と小林がこうであったことを示すものではありません。出典は、『淑女畫報』に掲載された「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」という題がつけられた暴露記事です。以下に、その記事の要点を書き記します。
 「深草の人」と名乗る執筆者は、冒頭でまず、「Tさま」に宛てて紅吉の書いたものであろうと思われる手紙の原文を紹介したうえで、「私はこの不思議な手紙、謎の手紙の註解者として、またこの手紙を鍵として彼女の『不思議な過去』不思議な性格、不思議な行為の秘密を語る魔法使いになりませう」と宣言し、それから本論が開始されます。書かれてあることを要約的に引用すれば、このようになります。「月岡花子嬢こそ、不思議な謎の手紙の主のTさまで、Tは月岡の頭文字なのです……花子嬢が女子美術の生徒であり、紅吉女史も一時女子美術に席を置いたことがあると云ふ関係から、おそらく知己ちかづきとなり友達になつたと云ふことだけは確かです……紅吉女史は當時『若き燕』と呼ばれた青年畫家奥村博氏の問題から、らいてう・・・・事平塚明子女史と悲しくも別れなければならない事となり……例の不思議な謎の手紙を花子嬢宛に書いたのでした……それからと云ふもの、二人の仲は親しい友と云ふよりも、その友垣の垣根を越えて、わりなき仲となつたのでした。同性の戀!まア何といふあやしい響きを傳へる言葉でせう」。そして執筆者は、紅吉の結婚と新婚旅行に触れ、こう述べます。「新郎新婦手を携へての新婚旅行!それが新しい女だけに一種の矛盾と滑稽な感じをさへ抱かせます。男性に對する長い間の女性の屈辱的地位、そこから跳ね起きて、あくまでも女性のママ放を主張し、男性と等しい權利を獲得し、そして男ならで自立して行くと云ふ所に新しい女の立場があるのです。然しながら我が新しい女の典型タイプとも見られてゐた尾竹紅吉女史は若き意匠畫家富本憲吉氏と共に、目下手に手を携へて北陸地方に睦まじい新婚の旅をつゞけて居ます」。さらに執筆者は、この結婚の陰に隠れて涙を流している、もうひとりの別の若い女性がいるというのです。「やがてその次にあらはれたのが大川茂子といふやはり女子美術の洋畫部の生徒でした。茂子嬢と紅吉女史との戀……は花子嬢のそれと比べてはなかなかにまさるとも劣ることない程の強く深く切ないものでありました……悲しい戀の犠牲者、茂子嬢は今はどうして居るでせう?……紅吉女史と富本氏との今日此頃の關係を茂子嬢はどんな氣持できいて居るでせう?私は紅吉女史の新生活を祝福すると共に、あえかにして美しい茂子嬢の生涯に幸多きことを祈つて居ります」。(「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」『淑女畫報』第3巻第13号、1914年12月、32-39頁。)

(81)前掲『ひとすじの道 第三部』、134-135頁。