小林信が女高師を卒業して奈良を離れると、丸岡秀子は最上級生の四年生となり、日々富本家に通う、残された数少ないひとりになったものと思われます。丸岡の富本夫婦に向ける敬愛の念はさらに膨らんでいました。夏休みが近づきました。
学生としては、最後の年であり、来年は、どこに移り住んでいるかわからないし、もう安堵に通うこともできないと覚悟しなければならなかった。そこで、ひと夏を安堵に居候をさせてもらいたいと頼んでみた59。
しかし、富本家の家族は、この夏を尾道の対岸にある向島で過ごすことにしていました。それでも丸岡は諦めずに、尾道への同行を懇願しました。こうしてついに、希望がかなって尾道行の許可が下りたのでした。向島には、憲吉の焼き物のコレクターで、医者をする小川正矩が住んでいました。一行は小川の世話により、一軒家を借り、およそ一箇月にわたる夏の日の休暇を楽しみました。しかしこのとき、重大な出来事が起こったのです。
丸岡秀子の小説的自叙伝である『ひとすじの道 第三部』に、そこでの出来事の様子が、次のように描かれています。間違いなく「恵子」が丸岡本人です。
その間にも、訪問客があった。ことに一枝をあこがれ、一枝もまたとくべつの好意を寄せていた、奈良の学校の先輩が島を訪れた。恵子の上級生でもあり、特別な美貌でもあり、当時この家への出入りも繁くなっていた。恵子の友人の一人でもあった60。
この女性こそ、この春に卒業し、山口の女学校へ赴任していた小林信だったにちがいありません。
一枝は喜び、彼女と水着に着替えて、毎日、彼女と二人で海に入った。こちらの島から向こうに見える島まで泳ぎの競争をするのだと、はしゃいでいた。憲吉は、寂しそうに、二人の子どもたちと、いっしょに海に入った61。
憲吉の寂しさの内実は、何だったのでしょうか。妻が女性と歓喜して戯れる光景を、憲吉が実際に見たのは、おそらくこれがはじめてのことでした。このとき、憲吉の脳裏には、妻のそうした性的指向を雑誌や新聞で承知していたからこそ、結婚後ただちに東京を離れ、妻の好む、若くて美しくて才能ある女性が住むことのない辺境の安堵の地に移住してきたのではなかったのか――そういう思いが、蘇ってきたにちがいありません。一枝はかつて「結婚する前と結婚してから」のなかで、こう書いていました。「都會を出立して田舎に轉移した彼と私は彼の云ふ高い思想生活を私達の爲めに營むべく最もよい機會をここに見出したことに強い自信とはりつめた意志があつた」62。さらには、このようにも書いていました。「彼は、都會は、私を必ずや再び以前に歸すことを、再び私の落着のない心が誘起される事をよく知つてゐた」63。このとき海の岸辺で憲吉が目にしたのは、疑いもなく、一枝のいうところの「落着のない心」、つまりは同性へ向かう性的指向が「誘起される」実際の現場だったのです。憲吉の寂しさは、まさしくここにあったのでした。
それからしばらくして、またひとつの出来事が起きました。丸岡にとって、これもまた、いままでに経験したことのないような衝撃だったにちがいありません。その場面を丸岡は、こう描写しています。
ある日のこと、恵子は独りポンポン蒸気に乗り、尾道まで食糧を仕入れに行って帰ったが、まだみんなが海だったので、昨日の日記をつけようと机の上のノートを開いた。ところが、そこに一枝の伸びやかな文字が長々と書きこまれてあった。それが目に入ったとき、恵子は飛び上がって驚いた。
「許してください。黙って、あなたの日記を見たことを許してください。それは、あなたがどんなに苦しい思いをしているのか、いつも心配していたからです。ことにMさんが島を訪れたときのあなたの表情を見ていたからです。たしかに、わたしはMさんに心を傾けていました。Mさんを愛してもいます。だが、そのかげで、あなたの心を傷つけてしまったのではなかったかと、恐れていたのです。
ところが、あなたの日記には、どこにもその影さえ見当たらなかったのです。感謝しています」と、恵子の日記の終わったページに、一枝は書いていた64。
決定的な証拠があるわけではありませんが、起承の経緯と前後の関係からして、この「Mさん」が、丸岡にとっての「奈良の[女子高等師範]学校の先輩」で、「友人の一人」であり、「特別な美貌でもあり、[学生時代の]当時この[富本夫妻の]家への出入りも繁くなっていた」女性であり、具体的には「小林信」だったことに、まず疑問を挟む余地は残されていないものと思われます。それでは、なぜ一枝は、丸岡の日記に「Mさん」という表記をしたのでしょうか。実際には「信さん」と書かれていたものを、丸岡は、「小林信」と特定されることを避けるために、イニシャルを用いたのではないかとも考えられます。それであれば、「信」の正しい読みは、「のぶ」ではなく、「まこと」「まさ」「みち」のいずれかであったと判断されます。しかし、実際は「のぶ」だった可能性も決して排除できず、その場合は、全く実際の名の読みに関係なく、丸岡は無作為に選んで「M」の文字を当てたことになります。
いずれにいたしましても、一九二三(大正一二)年の夏の向島における「Mさん」の出現に端を発し、一枝が丸岡の日記に、「わたしはMさんに心を傾けていました。Mさんを愛してもいます」と書いたことは、一枝が「結婚する前と結婚してから」のなかで書いていた「彼の云ふ高い思想生活」にひびが入り、自らの特異なセクシュアリティーを「再び以前に歸すこと」を意味していたのでした。
こうしてこの向島で、小林と一枝は数個月ぶりの再会を果たしました。小林の向島滞在は、ふたりにとって、空白を補う、おそらく待ちに待った、心躍るものであったにちがいありません。そのときふたりのあいだでは、どのような会話が繰り広げられたのでしょうか。
ひとつには、一枝は、夫である憲吉の最近の心情を察し、それを話題にしたかもしれません。米価の高騰が民衆の生活を圧迫し、暴動事件へと発展したのが、いわゆる米騒動と呼ばれるもので、一九一八(大正七)年の七月の富山での勃発以降、全国的な規模で広がってゆきました。それ以来、地主であるがゆえの不安と苦悩が常に憲吉の身に影を落としていたことは想像するに難くありません。このときはまだ生まれていなかったのですが、のちに父親の立場に思いを寄せて、長男の壮吉(一九二七年生まれ)が、このように語っています。
大正末年、全国的な不況。小作争議が相次いだ時、わが富本家も小なりといえど地主。やはり小作の人々は強硬に談判に及んだようである。胸の中にはウイリアム・モリスにあこがれをもち、量産陶器に胸をふくらませていた父も、現実ではやはり小地主。――そのジレンマに立たされて大和川での魚釣りは朝から晩まで……ということであったらしい65。
おそらくのちに母親の一枝に聞かされたことなのでしょうが、壮吉が書くように、このころの憲吉の一時期の日々は、釣り三昧だったのかもしれません。そうしたことを話題にしながら、憲吉の置かれている、陶工とは別の、地主としての厳しい立場を、一枝は小林に語ったのではないかと推量されます。
次に話題にした可能性があるのが、自分自身のことです。米騒動に続いて、一九二二(大正一一)年三月に、京都の岡崎公会堂にて西光万吉を中心として全国水平社が結成されました。被差別部落の地位の向上と人間の尊厳の確立を目指すもので、日本で最初の人権宣言ともいわれています。水平社の結成は、一枝の正義感に火をつけたものと思われます。といいますのも、これまでに一度も一枝は、被差別部落に関連して稿を起こしたことはありませんでしたが、はじめてこの時期、この問題を主題化し、「貧しき隣人」という作品にまとめているからです。この小説は、一九二三(大正一二)年の三月号の『婦人公論』に掲載されました。ちょうど小林が卒業して赴任する時期と重なります。小林が向島に来たとき、すでに小林は読んでいたかもしれませんし、このときにあわせて、「貧しき隣人」が掲載された『婦人公論』を持参していた一枝は、直接小林に手渡したかもしれません。いずれにしましても、ふたりは「貧しき隣人」を素材にして、被差別部落の問題について、さらには文学全般について語り合ったにちがいありません。小林自身は、竹尾ちよとの出会い以降、すでに短歌に関心を寄せていた可能性があります。また、小説にも心躍らせるものがあったようです。といいますのも、小林は、翌一九二四(大正一三)年の『女性改造』(九月号)に小説「女の客」を書いているからです。ひょっとしたらこのとき、一枝と小林は、ともに小説を書き、文壇において共演することを秘かに話し合っていたかもしれません。一枝の小説「鮒」が『週刊朝日』(第一〇巻第一五号)に掲載されるのは、尾道での再会から三年後の一九二六(大正一五)年の秋のことでした。
さらに話題にしたであろうと思われるのが、自由学園の一期生の一団が安堵村を訪れ、本宅に泊っていったことです。一九二一(大正一〇)年五月に、羽仁もと子が園長を務める自由学園高等科に一期生が入学しました。そのなかには、のちに童話作家で児童文学者となる岡内籌子(かずこ)(のちに村山姓)や社会運動家として活躍する田中綾子(のちに石垣姓)が含まれていました。以下は、村山籌子研究家のやまさき・さとしの文です。
大正十二年三月末から四月のはじめにかけて、卒業旅行と称して彼女たち一期生一行はミセス羽仁とともに(総勢二五名)横浜港発の欧州航路伏見丸の一等船客となり、「西洋」を勉強しつつ、神戸に上陸して奈良近辺の「東洋」を学んだが、奈良では全員、富本の[本宅の]屋敷に泊り、かれの案内で仏像をみて廻った66。
これは、小林が徳基高等女学校へ向かった直後の出来事だったと思われます。おそらく一枝は、自由学園で行なわれているような自由主義の考えに則った教育の価値を力説したに相違ありません。それに対して、小林がどう答えたのかはわかりませんが、赴いた山口の女学校でこの間経験した内容については、はっきりと一枝に伝えたものと想像されます。以下は、それについての、赴任一年後の小林の言説です。
せめて自分丈けでもそういう[矛盾や欺瞞に満ちた]社会から逃れたいと、常に願ひ乍らも、止むなく或る地方の女學校に赴任して一年。私の無経験な、併しそれ丈けに純粋であり、又眞實だと信ずる私の考へが、事毎に、殆んどその種子下ろしさへも許されずに、無惨(むざ)無惨(むざ)と蹂躙(ふみにじ)られて行くのを、私は戦ひおほして突き進む力を失つて了ひました67。
この文から察しますと、小林信という女性は、社会の猥雑さに染まることに自己を許すことのない、実に純心で誠実な教師だったように感じられます。一枝は、こうした小林の一途さに惹かれていたのかもしれません。こうした小林が上げる叫び声が、侠気的熱情に富む一枝の胸を大きく揺さぶったのでしょう。おそらくこのときであろうと考えられますが、来年の三月で女学校を辞め、「小さな学校」の教師として安堵の地に帰ってきてもらえないか――一枝はこう、小林に促したものと推量されます。
まさしくふたりは、水と魚の関係に似て意気投合し、昼間は一緒になって海で歓喜の声を上げながら泳ぎを楽しみ、尾道対岸の小さな島の借り切った宿にあっては、こうした一連の会話に心を通わせては、熱い思いを重ね合わせていったのではないでしょうか。このとき、一枝は三〇歳、小林は二一歳になっていました。
(59)前掲『ひとすじの道 第三部』、131頁。
(60)同『ひとすじの道 第三部』、132頁。
(61)同『ひとすじの道 第三部』、同頁。
(62)前掲「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、72頁。
(63)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、同頁。
(64)前掲『ひとすじの道 第三部』、133頁。
(65)富本壮吉「父に習った鰻釣り」『陶芸の世界 富本憲吉』世界文化社、1980年、14頁。
(66)やまさき・さとし「村山籌子解説」『日本児童文学大系 第二六巻』ほるぷ出版、1978年、565頁。
(67)前掲「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、同頁。