中山修一著作集

著作集22 残思余考――わがデザイン史論(上)

第四部 「三つの巴」私論集

はじめに――「三つの巴」へ向けられた批判を前にして

いま私は、著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』を擱筆しました。以下は、その「緒言」と「結言」の構成です。

緒言――問題の所在と執筆の目的および方法
  序
  第一節 本稿に登場する虐げられた弱き人びとについて
  第二節 本稿における「三つの巴」の構図について
  第三節 本稿執筆の目的と記述の方法について

結言――結論と考察
  序
  第一節 平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子の妣の系譜
  第二節 フェミニスト橋本憲三の誕生
  第三節 社会史の一分科学としての伝記

「緒言――問題の所在と執筆の目的および方法」の第一節と第二節の表題からも少し連想できますように、この拙稿は、小説家や伝記作家によって発せられた罵詈雑言に傷つき苦しんだ、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子に加えて、憲三の姉妹である橋本藤野と橋本静子に焦点をあて、その霊魂を救済することを目的として書かれました。ところが、本文を書いてみると、実に冗漫なものとなってしまい、これ以上の長大な駄弁を続ければ、読者のみなさまに負担をおかけするばかりとの躊躇の思いに至り、そこで、最初予定していた内容の「結言――結論と考察」をとりあえずここでは諦め、上記に示した「結言――結論と考察」となった経緯がありました。

実は、当初私は、この「結言――結論と考察」を、時間軸に沿って、次の七節で構成することを計画していました。

第一節 高群逸枝の臨終に際しての市川房枝の言動についての私論
第二節 橋本憲三の『高群逸枝全集』の編集手法についての私論
第三節 「日月ふたり」にかかわる瀬戸内晴美の言説についての私論
第四節 栗原弘の「高群逸枝論」と栗原葉子の「橋本憲三論」についての私論
第五節 石牟礼道子の「沖宮」における四郎とあやのモデルについての私論
第六節 岡田孝子と山下悦子の「石牟礼道子論」についての私論
第七節 伝記執筆の要諦についての私論

しかしながら、「結言――結論と考察」として事前に計画していました上の七つのテーマは、分量の関係で一度は断念したものの、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子の伝記を書くうえで、誰にとっても決して見過ごすことのできない、立ち止まってしっかりと考察すべき、極めて重要な主題であることに変わりはなく、そこで、私自身、自らこのテーマに正面から向かい合い、自分の立ち位置と考えを明らかにしたいと考え、ここに、第四部「『三つの巴』私論集」を設け、あらたに草すことにいたしました。「三つの巴」とは、いうまでもなく、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子の三人を指します。以下はその目次構成です。六つの節から成り立っています。


はじめに――「三つの巴」へ向けられた批判を前にして

第一節 橋本憲三にかかわる瀬戸内晴美の言説および伝記小説について
 一.瀬戸内の『談談談』における橋本憲三
 二.瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」における高群逸枝
 三.松本正枝の「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」に関して
 四.瀬戸内の「日月ふたりのひとり 橋本憲三」に関して

第二節 瀬戸内晴美の伝記小説に向けられた言説について
 一.瀬戸内の伝記小説を巡っての周縁からのまなざし
 二.高群逸枝と延島英一の「恋愛事件」を巡る堀場清子の解釈
 三.瀬戸内の「日月ふたり」を巡る石牟礼道子の思い
 四.「恋愛事件」と「日月ふたり」についての西川祐子と栗原葉子の見解

第三節 高群逸枝の臨終に関する市川房枝とその仲間の言動について
 一.逸枝の臨終に際しての霊安室での市川房枝と橋本憲三の反目
 二.その後の流れゆく憲三の無念と苦悩の日々
 三.戸田房子の小説「献身」での憲三への誹謗中傷
 四.もろさわようこの評伝「高群逸枝」での憲三への外見差別

第四節 市川房枝とその仲間の言動への反論とその後について
 一.反論としての橋本静子の「もろさわよう子様へ」
 二.反論としての石牟礼道子の「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」
 三.『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)の波紋
 四.市川房枝グループと橋本憲三との確執を巡るその後

第五節 栗原弘の「高群逸枝論」と栗原葉子の「橋本憲三伝」について
 一.栗原弘・栗原葉子夫妻の憲三宅訪問とふたりによる校訂本の刊行
 二.栗原弘の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』での高群逸枝批判
 三.反論としての石牟礼道子の「表現の呪術――文学の立場から」
 四.栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』での橋本憲三批判

第六節 橋本憲三と石牟礼道子に関する岡田孝子と山下悦子の論説について
 一.最晩年の石牟礼道子の『最後の人 詩人高群逸枝』
 二.石牟礼道子にとっての「最後の人」橋本憲三
 三.岡田孝子の「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」での橋本憲三・石牟礼道子批判
 四.山下悦子の「小伝 高群逸枝」での橋本憲三・橋本静子・石牟礼道子批判

おわりに――もはや道行きしか残されず
 

内容的には、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子を扱った過去の小説、伝記、評論への、主として名誉棄損あるいは人権軽視という文脈からの批判となります。別の観点に立てば、伝記書法という文脈からの検討を含む、この三人に関連する既往研究を対象とした私なりの分析という役割を担います。私はこの小論「『三つの巴』私論集」を、とりわけ、これからこの三人を主題に論文や伝記を書こうとされている若い研究者のみなさまに、読んでいただくことを強く望んでいます。

どの節の論考も、著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』の擱筆に際しての感想文程度のもので、学術論文からは程遠いところにあります。表題に「私論」の文字をあえて使った理由もそこにあります。とはいえ、ここで論じる諸課題は、この研究分野の今後において、その枠組みなり前提なりを構成する極めて核心的な論点を有するものであり、私もそこから逃げることなく、「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を書いた伝記作家としてその最後の責務を果たすべく、ここに、かかる論議の輪に加わりたいと思います。

なお、橋本憲三の「高群逸枝全集」の編集手法や「沖宮」の四郎とあやのモデル問題、さらに加えて、伝記執筆における要諦に関しての考察は、著作集をまたいで、著作集23『残思余考――わがデザイン史論(下)』の第三部「高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論」に譲りたいと思います。

さて、「はじめに――憲三と逸枝へ向けられた批判を前にして」を閉じるに当たり、少し唐突ではありますが、以下にいまの私の心境を書き記します。

これから書く私の小論「『三つの巴』私論集」は、高群逸枝と橋本憲三、そして石牟礼道子についてこれまでに書かれた小説や伝記、あるいは評論が意図するものとは大きく異なり、端的にいえば、それらの先行資料と対立する立場に立って書かれることになります。私の身は、瀬戸内晴美、戸田房子、もろさわようこ、西川祐子、栗原弘、栗原葉子、岡田孝子、山下悦子といった人びとの側にはありません。さらには、高群逸枝の死去の際に夫橋本憲三と確執が生じた相手方である市川房枝、浜田糸衛、高良真木らの女性たちの側にも、加えて、真偽は別にして、夫延島英一と高群逸枝のあいだに性的関係があったことを瀬戸内晴美に告げた妻の松本正枝(本名は延島治)の側にもありません。私の立ち位置は、そのような人たちから名誉を棄損され、雑言を並べられ、存在を無視されたりした、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子の側にあります。加えて私の身は、学者の逸枝、文学者の道子、そして、両者それぞれとの接点をなす編集者の憲三、この三つの巴を献身的に支えた、橋本憲三の姉の橋本藤野と妹の橋本静子の側に立っています。つまり私は、虐げた強者の側でなく、虐げられた弱者の立場に立ち、彼らを歴史のなかから救済することに、ここに著わす小論の意義を見出しているのです。

石牟礼道子の言葉に、次のようなものがあります。

 〈ゆきじょ瓔珞ようらく〉という章を、苦海浄土第二部でいま想定しています。
 わたくしの死者たちは遺言を書けませんから、死者たちにかわって、わたくしはそれを書くはめになるのです。
 してみると、すでにわたくしは死者たちの側にいることになる。
 いついつ、そのようなことになったのか。
 どうもわたくしは心中をとげたらしい

私も道子に倣い、「わたくしの死者たちは遺言を書けませんから、死者たちにかわって、わたくしはそれを書く」ことにしました。どうやら私は、「死者たちの側にいる」ようです。そして、私も意を決して「心中をとげたらしい」のです。少し芝居がかった表現になりました。しかしこれが、私の偽らざるいまの心境です。「死者たち」の気持ちがわかるといえば、不遜になりますが、それでも、歴史家として、そして伝記作家として、彼らが遺した言説を丁寧に渉猟して、そのなかから、彼らの無念や悲痛の声を拾い上げることによって、ある程度、その魂を救い出すことはできるのではないかと思います。

いま私の脳裏には、一九六六(昭和四一)年六月二九日の一五時一一分、六九歳の憲三と三九歳の道子が国鉄水俣駅のホームに立ち、入線してきた西鹿児島発東京行きの急行「霧島」の一等車に乗り込み、逸枝の霊魂が宿る「森の家」へと向かう、一昼夜にわたる、生まれ変わりのための厳粛なる道行きの情景が映し出されています。このとき道子は、複雑な家庭環境と執筆の行き詰まりから「魂が吐血した状態」にありました。憲三に導かれて「森の家」を目指す道行きは、まさしく、古代母系社会から蘇った大妣君である逸枝を求めての旅立ちでした。ここを産室として、道子の魂は再生され、静子を立会人として、憲三との後半生を誓います。そして、道子はこのとき、そのあかしとして、憲三と逸枝に対する深い恭順の意を文に表わしはじめるのでした。

道子は、こう書いています。

……あの「森の家」の一室で、ノートの標題を「最後の人」と名付けたのだった。
「最後の人としたのですか。なるほど、うん。よい題だな」……
 顔を拭いたタオルを首に巻きつけたまま……橋本憲三氏は、自分で立てた朝のコーヒーを啜られる。……十月も末のある朝だった

そして憲三は、道子にこういいました。「その、僕が生きている間に、書きあげて、読ませて下さると、ありがたいのですがね」

すべての残務整理が終わり、「森の家」に別れを告げ、水俣に帰ったふたりは、そこで、『高群逸枝雑誌』を発刊し、道子はそれに「最後の人」を連載するのでした。この雑誌は、憲三の死去に伴い、一九七六(昭和五一)年四月一日の第三一号をもって廃刊となり、結局未完のまま、この号に掲載された「最後の人 第十八回 第四章 川霧1」が、道子の連載最後の文となりました。したがって、残念ながら憲三は、生きて「最後の人」を単行本として手に取ることはありませんでした。ところが、それから三六年が過ぎた二〇一二(平成二四)年の一〇月、一度全集に収められていたものが取り出され、『最後の人 詩人高群逸枝』として蘇ったのです。道子はインタヴィューに答えて、「最後の人」が橋本憲三であることを告白します。加えて道子は、「どうしてずっと単行本にされなかったのですか」という質問に対して、こう答えます。

 高群逸枝のファンがたくさんいますよね。ですから、慎んでいたという気持ちです。森の家に滞在する特典を与えられて、そこで『苦海浄土』まで書かせていただいて、『西南役伝説』の一部も書いているのですよ。それも全部、憲三先生の目を通って、とても大切な時間をいただきました。奇跡のような時間をいただいたのです。それをひけらかしたくない、と思っておりました。……そのうちだれかが見つけて読んでくださるだろうと、そんな気持ちでした

道子がいっている「高群逸枝のファン」には、本稿で取り扱う、瀬戸内晴美、戸田房子、もろさわようこ、西川祐子、栗原弘、栗原葉子といった人たちも含まれるでしょう。しかし、のちほど詳述するように、岡田孝子や山下悦子が書く直近の論説や小伝にあってさえも、道子の、憲三との森の家生活も、『最後の人 詩人高群逸枝』も、理解を越えたものとして切り捨てられ、足蹴にされる運命をたどるのです。道子は、「そのうちだれかが見つけて読んでくださるだろうと、そんな気持ちでした」といいます。しかしいまだ、「最後の人」を憲三として、道子のその心情に寄り添う人はいないのです。それであれば、誠に僭越ではありますが、力不足は先刻承知のうえ、同郷人としての義侠と連帯とに後押しされ、若輩学徒たるこの私が、道子の思いを引き受ける「最初の人」になって、これまでに「高群逸枝のファン」が、逸枝、憲三、道子に浴びせかけてきた愚弄の数々を、この稿を通じて、何とか払拭すべく役を買って出たいと思います。

以上が、本文に入る前のいまの私の真の気持ちです。それではこれより、第一節「橋本憲三にかかわる瀬戸内晴美の言説および伝記小説について」から書き起こすことにします。

(1)『石牟礼道子全集・不知火』第四巻/椿の海の記ほか、藤原書店、2004年、524頁。

(2)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、8頁。

(3)同「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、10頁。

(4)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、452頁。