私は、「はじめに――『三つの巴』へ向けられた批判を前にして」におきまして、次のように書きました。
[かつて『高群逸枝雑誌』に連載した「最後の人」について]道子は、「そのうちだれかが見つけて読んでくださるだろうと、そんな気持ちでした」といいます。しかしいまだ、「最後の人」を憲三として、道子のその心情に寄り添う人はいないのです。それであれば、誠に僭越ではありますが、力不足は先刻承知のうえ、同郷人としての義侠と連帯とに後押しされ、若輩学徒たるこの私が、道子の思いを引き受ける「最初の人」になって、これまでに「高群逸枝のファン」が、逸枝、憲三、道子に浴びせかけてきた愚弄の数々を、この稿を通じて、何とか払拭すべく役を買って出たいと思います。
わが身の未熟さに目もくれず、「最初の人」という大役を買って出た私でしたが、果たして本稿によって、愚弄の数々は払拭できたでしょうか。もちろん現実にあってはありえないことですが、私は、「三つの巴」をなす逸枝、憲三、道子のそれぞれの魂に、こう問いかけ、返ってくる返事に耳を傾けたいと思います。
しかし、直接耳にすることはできないものの、他方でそれに近い言説が残されています。それは、桑原敬子の「橋本憲三氏をしのんで」という短文です。本稿におきまして私は、著名な小説家や女性史研究者や伝記作家の言説を取り上げ、そのなかに潜む誤謬や誤認などを指摘し批判してきました。多くの場合、一次資料に根拠を置かない、個人の一方的な思い入れや身勝手な決めつけが、その背後にありました。しかし、それとは違って、執筆者の桑原敬子は無名の女性であり、それゆえその文は、いっさいの思惑や打算、あるいは悪意からかけ離れた、無色で透明感ある清楚なものになっています。私はここに、すでに鬼籍に入っている「三つの巴」が発する声に取って代わるに十分な、真実と本質が宿っているように感じました。そこで、長くなることは理解のうえで、以下に、その全文を引用します。
高群逸枝女史の夫である橋本憲三氏は、熊本県の水俣を最後の永住地として選び、静かな余生を送られた。一九六八年一二月から一九七六年五月二三日病死されるまでの八年間たらずであった。水俣に住んでいる私が憲三氏を知ったのは、なくなられる三年前のことで、「高群逸枝雑誌」の予約と代金の支払いを友人から依頼されたのがきっかけであった。憲三氏の部屋は、妹の静子さんの住む家の一角の二階で、家人とは別棟になっていて直接部屋に行けた。初めて訪問した時、近くの人に憲三氏の住む家を尋ねたが知る人がなく、やっと近くの菓子店の主人が教えてくれた。教えられた二階のドアをノックしたが返事がなく、たまりかねて声をかけてみたが何の応答もなかった。すると家人らしい人が下から「直接はいって、大きな声で呼んで下さい」と言われた。ドアをあけ、声をかけると、細身のゆったりした、いかにも紳士的な風貌の憲三氏が「少し耳が遠いものですから」と言いながら現われた。この時は雑誌の予約をしただけで失礼した。その後数回お会いしたが、いつも逸枝さんへの愛が語られ、その業績が大なることを強調された。会う度に、本当にこれほど妻への思慕と愛を持ち得た人がこの世にいるのだろうかという思いにとらえられた。憲三氏は人ぎらいであったと聞く。静子さんは「兄は、人に対する洞察力が非常に鋭く、人を選んでいました。だからわかってくれる人とはとことんまで話す人でした」といわれる。水俣の地で高群逸枝を知る人は少なく、また橋本憲三氏を語る人も少ない。いつかふと私は、なぜ憲三氏は水俣にきたのだろうという疑問が湧いた。だからこのことを、淇水文庫の西条さんに聞いてみた。すると「それは静子さんが水俣にいたからです。静子さんは、知的で一番憲三氏が信頼をおいていた人だから」と話してくださった。憲三氏がなくなられる三週間前、悪化した病状を知らずに訪問した時の言葉が、今も私の耳につよく残っている。「逸枝によって私は今日まで生かされてきた。死んでからも私とともにいた人だ」と。 高群逸枝の墓は、小高い丘にあり、憲三氏も今は一緒にねむっている。この墓は、生前憲三氏が住んでいた二階の部屋から、いつでものぞみみることができる所に立っている1。
私は、こうした憲三と静子に支えられて逸枝は、何の心配もなく執筆に専念できたものと思います。他方、道子は、こうした静子であったればこそ、静子を立会人として、憲三との後半生を誓うことができたのではないかと思料します。ここに私は、逸枝、憲三、道子の「三つの巴」と、それを支える藤野そして静子とが織りなす、汚れなき全き生に生きるひとつの人間群像を見るのです。
しかし、渡世上の事情があって、道子は憲三のことをどうしても自分の「夫」とはいえません。そこで道子は、一計を案じ、「最後の人」と呼ぶことにしました。それが単行本『最後の人 詩人高群逸枝』となって世に出たのは、道子が、八五歳のときでした。憲三は、三六年前にすでに他界しています。この間、自分の敬愛する「最後の人」は、執拗な罵声や中傷により繰り返し強打されます。藤野と静子とともに、道子も、それに耐えました。しかし、藤野も静子も世を去ります。遺された道子にとって、逸枝、憲三、そして自分の「三つの巴」が、その愛を最終的に成就するのは、もはやこのうつし世ではなく、逸枝、藤野、静子の妣が待つ霊界の浄土でした。そこで道子は、新作能「沖宮」の執筆に入ります。いうまでもなく、墓所あるいは神殿たる〈沖宮〉は、かつてこの五人が楽しんだ「森の家」の生まれ変わりです。道子の脳裏には、その昔、生の復活に向けて旅立った憲三との「森の家」への道行きが映し出されていたものと思います。そしてこの間、悪意と敵意に満ちた息苦しい現世を生きざるを得なかった道子は、再び憲三を必要とします。道子に残されているのは、もはや道行きしかありません。晴れて、浄土へ向けた憲三との道行きがはじまりました。そこで、心中に臨むふたりの手向けに、その安寧を祈り私は、この場に、愚作は承知のうえで、「三つの巴異聞」と題する一編の物語詩(全六幕)を献じたく存じます。
第一幕 逸枝出京 父母弟妹と古里に 貧しさゆえに別れを告げ あすのわが身は白骨なるも おのれの天才ただひたすらに 信じて往かんああこのときぞ 夫を残してわが身のみ いま許されて旅に出る 遠くに見える木原山 白白白のその風受けて いざ向かわんわが新天地 風が吹いたら吹き飛ばされ 雨が降ったらずぶ濡れに 曲従片手に酔いしれながら ああ揺れて揺られて わが道を往く 第二幕 「森の家」双頭の蛇 夫が用意し「森の家」 「古事記伝」ひとつを前にして 群れから離れ人を断ち 向かうは古代の闇のなか 鉱脈は有るや無しや知る人なし 定めし神代の天啓か その日の勝利に胸躍る 母系制も招婿婚も 手にしたわが女性史学 ああ完成なるや 別れのときのそのときの 吐息のなかに神を見る わが夫にすべてをゆだね 思いはひとつ「一体化」 ああこのいのち尽きにけり 第三幕 憲三火の国慕情 ああ思えば七夕前夜の八代の宿 その日相まみえて幾十年 ふたりして重ねし愛のその誠 「全集」に編んで永遠に いざ火の国の藤野と静子が待つ水俣へ 妻と帰ろ帰ろ 生まれ故郷の火の国へ ここで墓建て守りをする 雑誌つくって偲ぼうぞ 水俣秋葉山風ばかり 何ゆえにわが夫婦を貶める 責めてくれるな妻だけは 何か悪事をしたのかい 妻にもわれにも人権あり その尊さ文筆家知らず 第四幕 道子再生 狂気の祖母に酒乱の父 線路に散りしわが弟よ 吐血したこの魂をいかんせん 自分の死それとも死者への詩文なりや 教えてくれ誰か教えてくれ ある日手にした「女性の歴史」 電流となってわが身を走る 誰の書かれし書なるや 会いたしその人に会いたし わがいのちの生き返りをかけて 一九六六年六九歳の憲三と三九歳の道子 国鉄水俣駅のホームにふたり立ち 東京行きの急行「霧島」に乗り込むは 逸枝の霊魂宿るあの「森の家」へ向けての 生まれ変わりのための道行きなりや 第五幕 「森の家」寂滅無常 私は彼女をどう讃美すべきか 言葉見つからず罪覚ゆ 私は彼女を受胎し 彼女は私を身に宿す ああわが産室よ「森の家」 うつし世にわが母はあるけれど 生まれ変わりのそのときの 大妣君を慕いてわれ生きる ああわれその夫を「最後の人」に 契るは残りの後半生 われ書かん「最後の人」を 雑誌に載せし幾年も 思えばいまは夢なりき 「寒椿が」この言葉を最後とし ああ「最後の人」は隠れたる 第六幕 いざ往かん不知火〈沖宮〉 典雅なるわが恩師 教えしことのその先に 愛あり苦あり死さえも 悪意に満ちたうつし世に 堪えて忍びて追慕する いわずここまで秘しにける わが思いの「最後の人」 齢八五歳のこのときに 語りて閉じるああ無常 いかんせんこの人生 愛し愛され散りゆく花が 独り静かに小舟に乗るも光る稲妻それを打つ 差し出す「最後の人」の手に すがりて往くは大妣君(おおははぎみ)の不知火海 天草灘海底(うなぞこ)のああ〈沖宮(おきのみや)〉
幸いにも道子は、「最後の人」たる憲三に導かれて、大妣君逸枝が迎える〈沖宮〉へ、天の配剤を得て望みどおりに流れ着くのでした。いよいよ、ここにこうして、「三つの巴異聞」の最後の幕が静かに降ります。
憲三が亡くなると、主治医であった佐藤千里は、こう書きました。佐藤に語っていた在りし日の憲三の言葉です。
「……貧しさや世間の悪意の前にはくじけずがんばったつもりですが人生の終わりになって肉体の痛みという思わぬ伏兵に襲われてしまって……。僕にもどうか人間の威厳というものを保たせて下さい」2
逸枝と憲三の「貧しさ」は、藤野と静子が、全面的に支援しました。「肉体の痛み」は、佐藤が誠心誠意支えました。「人間の威厳というもの」については、そばにいて寄り添う道子が必死に、そして鋭く洞察しました。他方、「世間の悪意の前にはくじけずがんばった」憲三をはじめとして、その周辺にいたこうした人びと(逸枝、道子、藤野、そして静子)の、失われた尊厳、名誉、そして人権を救い出すことが、その「最初の人」を自認する私に課せられた仕事でした。成功しているかどうかは、お読みいただいたみなさまの判断にすべてをゆだね、次の佐藤千里の一文をもちまして、ここに、「『三つの巴』私論集」を了とさせていただきます。
「あなたは僕たち夫婦のことを森の小動物の一目惚(ぼ)れとからかったが、まったく今になってみると、僕は単に運がよかっただけかもしれない」 この憎らしいほど幸福な男の科白(せりふ)が、結局、憲三氏と私の最後のやりとりになってしまいました3。
「この憎らしいほど幸福な男の科白(せりふ)」のもつ、妻に対する夫の謙譲と情愛に、不遜を顧みず、私も全面的に共感します。
この作品は、自分に死が訪れる前に、どうしても書き残しておきたかった、郷土の偉大な先達たちへ向けての私からのささやかな鎮魂歌となるものです。愚にもつかぬ長々しい独り言の駄文になりました。それにもかかわらず、読者のみなさまには最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。ただただ感謝するのみです。
ああ、それにしても、余韻とでもいうのでしょうか、「『三つの巴』私論集」を書き終えた私の耳に、天草灘海底に沈む〈沖宮〉から、妣たちの歓喜の声がこだましてきます。
藤野が、家刀自にふさわしく、こう、口を開きます。
「憲三夫婦はお国のために勉強しているのだから、わたしたちが養うてやらんばならん」4。
すると、それを聞いていた逸枝が、少し恥じらいながら、こういいます。
「たまに夫が外出すると、その留守のさびしさはたまらない。もう帰るか、帰るかと、門に出て待ちくたびれる。こういう私という女はなんといったらいいだろう。とても学者の型ではない」5。
この逸枝の発話に、一同笑い転げます。それで目が覚めたのでしょうか、そばで横になっていた憲三が、おもむろに起き上がり、言葉を挟みます。
「彼女にしてみれば、知的レベルにおいて、資質そのものにおいて、あらゆる意味において、僕はよほど幼稚にうつって見えるでしょうからね。ただ僕の云うことすることが、どんなことがあっても彼女を裏切ることがない。いうなれば僕への信用ひとつで、彼女はうごいたようなものです。……そうするとやはり、そこに一個の生き物が出来た形になって、彼女はその生きものを自分流に、なんと云ったって自分流に仕上げてゆくんです」6。
若い日に小学校の先生をしていた憲三と逸枝は、教師よろしく、さらに黒板に向かって白墨で、「私たち」と題して、こんなことを書きました。Aが憲三で、Bが逸枝であることは明らかです。
×日常的に A-断行的 B-優柔不断的 ×態度において A-正義(是々非々) B-愛(寛容、あいまい) ×大局的に A-比較的現状維持、法治型 B-現状を破るものを孕む ×対人関係 A-個人型 B-共同性 ×心身 A-病弱、憂鬱、神経質 B-ほぼその反対 ×相互の視覚による最初の印象 Bは彼に男性的な強さとその全人格への信頼 Aは私を愛らしいがちょっと愛されない〈私の反語〉7
書き終えると黒板を眺めながら、ふたりは、顔を見合わせてくすくす笑います。すると今度は、静子が、それに加わります。
「涙も出ないんですよ。なんという人でしょうねえ、この兄は。こんなにうつくしくなっている人は」8。
それを聞いた逸枝は、「私が嫁したときは九歳の少女であったが、成長とともに、私のふかい理解者になってくれた」9といって感謝の気持ちを伝え、静子の手を握るのでした。
みなのにぎやかな団欒に気づいた道子もその輪に入り、イザイホーを見学したときの思い出を語ります。イザイホーは、三〇歳を超えた島の既婚女性が神女となるために行なわれる、一二年に一度開催される一種の通過儀礼で、そのなかのひとつの儀式が、根人と呼ばれる男性主人が、ナンチュと呼ばれる巫女の額と両頬に朱印をつける神事です。道子は、こう語り始めます。
「深い感動の中にいて、『花さし遊(アシ)び』の中の朱つけの儀式、素朴な木の臼に腰かけているナンチュと、その額にいましも朱をつけるようとしている根人の姿に……高群逸枝とその夫憲三の姿が重なって視え、涙ぐまれてならなかった」10。
逸枝だけではなく、道子もまた、憲三に朱をつけてもらった女性であったにちがいありません。道子の話にうなずきながら、憲三は、道子に話しかけます。
秋晴れのよい日でしたね。あなたの古典的なあのお家にお伺いしたのは。……彼女が出発した頃にうりふたつでしたよ、本棚もなんにもない、しかし、本が二、三冊あって。うっかりすると世間にいれられない孤独な姿で……11。
道子もそれに応えます。憲三と「森の家」で過ごした日々が終わりに近づいたときの強い印象が脳裏に浮かんできたようです。熱心に新聞を読んでいた憲三が、「突然、道子さんがかわいそうだとおっしゃる。時々先生の顔はキリストのようにみえる時がある。人間は全部カワイソウですね、と申し上げる」12。
こうして会話が弾むなか、ひとりの妣が〈沖宮〉を訪ねてきました。佐藤千里です。佐藤の母親が、逸枝と小学校で机を並べていました。自身は医者で、憲三と藤野の最期を看取っています。あのころを思い浮かべて、佐藤は、にこやかにみなに、こう話しかけました。
「高群逸枝の観音様のように可愛いい口許や鼻に見とれていますと、あれだけの研究を科學的に積み上げていった天才のもう一つの面、つまり相手に何も要求しないのにしかも身も心もぴったりと夫憲三に寄り添ってしか生きられなかった一人の女性の匂やかさが伝わってくるのでした。……森の小動物に還った逸枝は今後も夫憲三の着物の懐で小さな寝息をたてているのではないでしょうか」13。
うつし世にあって浴びせられた罵詈雑言も、そして、見過ごすことのできない悪意や偏見も、もはやここにはありません。俗世の雑踏にあふれた騒音から身を引き、みなこころをひとつにして、寄り添い合い、認め合い、助け合って暮らしています。そうするうちに、死霊たちの会話も尽き、〈沖宮〉は次第に静かになりました。佐藤は帰り、みなは眠りについたようです。「三つの巴」となって必死に生きた、逸枝さん、憲三さん、道子さん、そしてその「三つの巴」を、自ら一体となって支援した藤野さんと静子さん、どうか安らかにお休みください。本当にお疲れさまでした。私は、みなさんのことを永遠に忘れることはありません。高群史学も石牟礼文学も、加えて、「新しい男」の所作振る舞い、さらには、才能を見抜き支える精神の気高さ等々、多くのものをいただきました。こころから、ありがとうの言葉を申し添えます。いよいよ最後となりました――ここに、目を閉じて合掌します。
(1)桑原敬子「橋本憲三氏をしのんで」『女性史研究』第七集(特集・高群逸枝写真集)、編集 女性史研究会、1978年、63頁。
(2)佐藤千里「激痛のなかでの雄々しく闘病 橋本憲三氏の最期」『熊本日日新聞』、1976年6月5日、10面。
(3)同「激痛のなかでの雄々しく闘病 橋本憲三氏の最期」『熊本日日新聞』、1976年6月5日、10面。
(4)『石牟礼道子全集』別巻、藤原書店、2014年、275頁。
(5)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年(第1刷)、429頁。
(6)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、21頁。
(7)橋本憲三「題未定――わが終末記 第五回」『高群逸枝雑誌』第12号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1971年7月1日、28-29頁。
(8)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、64頁。
(9)高群逸枝『愛と孤独と 学びの細道』、理論社、1958年、87頁。
(10)石牟礼道子「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、99頁。
(11)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、62頁。
(12)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、318頁。
(13)佐藤千里「墓参り」『高群逸枝雑誌』第29号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1975年10月1日、15頁。