この、著作集22『残思余考――わがデザイン史論(上)』の第一部「ウィリアム・モリス論」は、現在、「目次」にもありますように、以下の七話から構成されています。 第一話 ウィリアム・モリスの伝記の執筆に邁進する 第二話 ウィリアム・モリス伝記擱筆後の雑感を記す 第三話 ウィリアム・モリスの最初の社会への反抗 第四話 ウィリアム・モリスと富本憲吉夫妻の共通した教育観 第五話 ウィリアム・モリスと富本憲吉の反戦の思想 第六話 ウィリアム・モリスと富本憲吉夫妻が愛したトルストイ 第七話 ウィリアム・モリスと富本憲吉――妻以外の女性の存在と作品
ここで取り上げる富本憲吉は、一八八六(明治一九)年六月に大和安堵村の旧家の長男として生まれます。東京美術学校で図案(現在の用語法に従えばデザイン)を学び、ウィリアム・モリスの思想と実践に魅了され、卒業を待たずして、一九〇八(明治四一)年の暮れ、英国に向けて神戸港をあとにします。英国では、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に日参し、そこではじめてモリス作品に対面します。一方、中央美術・工芸学校では、ステインド・グラスの実技を学び、帰国後、バーナード・リーチに触発されるかたちで、陶芸の道に入ってゆくのでした。こうして「陶芸家」富本憲吉は誕生します。もっとも本人は、「陶芸家」という名称をほとんど使うことはありませんでした。生涯を通じて彼が好んで使ったのは、「陶器師」「陶工」そして「瀬戸物屋」でした。
一方のモリスは、一八三四年、英国の裕福な家庭に生まれ、オクスフォード大学に進み、主として中世の社会と芸術について学びます。一八五八年に第一詩集である『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』を発表すると、詩人としての頭角を現わし、生涯にわたってヴィクトリア時代を代表する詩人のひとりとして、高い名声を享受します。その一方で、結婚に際して芸術家の仲間たちとの協同により新居となる〈レッド・ハウス〉の内装を手掛けたことを機に、中世のギルドに倣った工芸職人の集団である「モリス・マーシャル・フォークナー商会(のちにモリス商会に改名)」を一八六一年に創設します。ここから、ステインド・グラス、家具、タイル、壁紙、家具、テクスタイルを含むさまざまな生活用品が生み出されてゆきます。さらには、この時代の醜悪な社会と芸術を嫌悪するモリスは、それに取って代わるものを求めて政治運動の道へと参入するのでした。モリスが亡くなるのが一八九六年で、富本のロンドン上陸は、それから一三年後の一九〇九(明治四二)年のことでした。
私は、この第一部にあって、ウィリアム・モリスと富本憲吉を、ともにデザイナーという肩書をもつ職業人として扱います。その理由を、まず以下に書き記します。
モリスは、一八八三年一月一七日に、マルクス主義の政治団体である民主連盟に加入します。そのときの会員証にモリスは、「ウィリアム・モリス デザイナー」と記入しました。ときどきモリスは、美術家や工芸家、あるいは装飾芸術家という名で呼称されることがありますが、しかし、この会員証の署名からして、モリスがデザイナーを自認していたことは明らかです。また、自らが経営する「モリス・マーシャル・フォークナー商会」における日常の実践においても、主としてモリスが従事したのはデザインの領域であり、実製作は、彼の周りの有能な協力者たちが担いました。そうしたこともあり、今日の英国の研究者のあいだにあっては、広く「デザイナー」という用語が使われています。もちろん、いうまでもありませんが、同時に彼は、詩人であり、政治活動家であり、環境保護運動家であり、そしてまた、自身の会社の経営者でもありました。
一方、富本憲吉は、どうでしょう。富本は一般的に「陶芸家」として知られていますので、「デザイナー」と呼ぶことに、違和感をおもちになる方が多くいらっしゃるにちがいありません。しかし、英国から帰国後東京の田中美術店内に開設した事務所の名称に、富本は、「富本憲吉氏圖案事務所」を使っており、そして、その事務所の広告には、印刷物、室内装飾、陶器、染織、刺繍、金工、木工、漆器、舞台設計などに関する各種図案の依頼に応じることが謳われています。この事務所の設立は、一九一四(大正三)年九月一日のことで、富本が二八歳のときでした。一方、晩年に富本が書いた文のなかに、「図案という語は、英語の Design という語から来たものと思う」という文言を見出すことができます。そのことから判断しますと、この事務所を富本は、「デザイン事務所」として認識していたものと考えることができます。また富本は、自著の『製陶餘録』のなかで、こうも書いています。
私は[初めて陶器に親しみ出した]その頃から、染物や織物や木工の事或は家具建築の事について忘れた事なく、陶器の一段落がすめば又、別の工藝品に手を染めて見たい考へで居た。命が短く恐らく望みだけ多く持つて私は下手な陶器家として死んで行かねばならぬ運命にあるだらう。それでもその位決定的になしとげ得ぬ望みであつても、私はその望みを捨てずに此の儘で進むで行く。
この言説から、この本が刊行された一九四〇(昭和一五)年に至るまで、富本は、「富本憲吉氏圖案事務所」設立の際に抱いていた、さまざまな生活用品のデザインに向ける初々しい関心を、決して忘れることなく温存していたことがわかります。さらに、亡くなる一年前の一九六二(昭和三七)年二月に『日本経済新聞』に連載された「私の履歴書」には、最終回となる第一〇回の最後の箇所に、こうした一文が書き記されています。これが、富本にとっての事実上の絶筆となるものでした。
若いころからの私の念願であった‶手づくりのすぐれた日用品を大衆の家庭にひろめよう″という考えは、いろいろな事情で思うにまかせないが、いま私は一つの試みをしている。
それは、私がデザインした花びん、きゅうす、茶わんといった日用雑記を腕の立つ職人に渡して、そのコピーを何十個、何百個と造ってもらうことである。
ここからも富本が、デザインと製作を分けて考えていたことがわかります。つまり、分業についての関心であり、ここにデザイナーの発生基盤がありました。明らかに富本は、デザイナーとしての役割を担おうとしているのです。
以上のように、おそらくモリスの「モリス・マーシャル・フォークナー商会(その後のモリス商会)」に範をとったものと思われる、若き日のデザイン事務所の開設、加えて、生涯の節目にあって書かれた幾つもの言説、そうしたものに目を向けますと、実際にかかわったのは主として製陶の分野に限られていたとしましても、その胸中には、さまざまな日用品に対する愛着と、それにかかわるデザインの実践とが、「なしとげ得ぬ望み」となって、堆積していたことがわかります。これが、私が富本をしてデザイナーとみなす根拠です。
それではこれよりのち、一九世紀英国のデザイナーであるウィリアム・モリスと二〇世紀日本のデザイナーである富本憲吉との両者の思想と実践のなかから主題にふさわしい言動を選択し、それを可能な限り見比べて、そして論じてゆきたいと思います。どのような風景が可視化できるのでしょうか。モリスからだけでは見えてこない、また、富本からだけでは見落としてしまいそうな、そうした日英の双方のデザインを取り巻く微細な空気のもつ同質性なり異質性なりが浮かび上がってくるかもしれません。読者のみなさまと一緒に、立体感あるその差異を楽しみたいと思います。
最後に、読み手のみなさまに申し添えます。一話一話はそれぞれに独立完結したものであり、連続したものではありません。そこで、まず目次をご覧になり、興味を引く題目を選び取り、気の向くままに、一話、そしてまた別の一話を読み進められることをお勧めいたします。その結果、全体として、この両人のあいだに存する空気感が、どのようなものであったのかを、わずかなりとも感じ取っていただけるにちがいありません。そうなれば、書き手としての私の大きな喜びにつながり、先立って、ここにお礼を申し上げたいと思います。
(二〇二三年中秋)