『ウィリアム・モリスの家族史』(「中山修一著作集」の第六巻に所収)を擱筆し、この間に使用した本や資料の後片付けをしていました。そのとき、どうしても機械的にもとの位置にもどすことができず、いま一度、手に取って頁をめくった資料がふたつありました。ひとつは、以下の資料です。
William Morris’s Socialist Diary, edited and annotated by Florence Boos, Journeyman Press, London and New York, London History Workshop Centre, 1985, 75pp.
この資料は、初出は、History Workshop Journal (Issue 13, Spring 1982) で、三年後に Journeyman Press と London History Workshop Centre との共同出版により、上梓されたものです。次にあげる資料が、もうひとつの資料です。
Wilfrid Scawen Blunt and The Morrises, by Peter Faulkner, William Morris Society, 1981, 45pp.
この資料は、前年の一九八〇年の九月三〇日に開催されたウィリアム・モリス協会の主催による年次ケルムスコット講演会の一回目の講演要録です。印刷は、Journeyman Press が担当しました。
おわかりのように、このふたつの資料には共通した点があります。それは、ともに小さな冊子体であるということに加えて、同じ印刷所から生み出されていることです。しかし、さらに重要な共通点を指摘することができます。それは、発行年が、一九八〇年代のはじめであるということです。この時期、英国における近代運動は、すでにおおかた崩壊しており、歴史家にとっての思想的実践的関心は、近代運動が開始される以前の動向に向かっていました。とりわけデザインの歴史研究の分野に限っていえば、英国の八〇年代にあっては、一九世紀ヴィクトリア時代のモリス(の社会主義)と、それに続く世紀転換期のアール・ヌーヴォー(の様式性)へ、熱い視線が注がれていました。このふたつの冊子の刊行の背景には、そうした時代の熱気が共通して漂っていたのです。
しかし、私がこのふたつの冊子を開いて、改めて頁をめくろうとしたのは、そうした「時代の熱気」に再び触れるためではありませんでした。執筆終了後、すぐにももとの場所に片付けてしまうことを一瞬躊躇したのは、どうやら無意識のうちに、モリスが社会主義へと没頭するこの時期の、妻のジェインの行動とを対比しながら、この点に凝縮されていると思われる「夫婦の形態」について、いま一度資料のうえで確認し、それに基づき再び考えを巡らせ、そのうえで、再度自分なりに納得したかったためだったようです。果たしてこの時期までにモリス夫妻の実際の「夫婦の形態」はどのようなものとして存在していたのでしょうか。他方、『ジョン・ボールの夢』のなかで示唆されているように思われるモリスにとっての理想上の「夫婦の形態」とはどのようなものであったのでしょうか。そのとき巡らした思考の動きを、以下に、散漫ながらも少し振り返ってみたいと思います。
上で紹介した『ウィリアム・モリスの社会主義日記』と『ウィルフリッド・スコーイン・ブラントとモリス家』のふたつの資料について言及するに先立って、モリスとジェインの「夫婦の形態」がすでにどのような状況にあったのかを、モリス自身の言葉を援用して見ておきたいと思います。モリスには、アグレイア・コロニオという、ギリシャ系の女友達がいました。旧姓はアイオニデスといい、この一家はラファエル前派の支持者でもあり、そしてまた、モリス・マーシャル・フォークナー商会の顧客でもありました。モリスは、アグレイアによく手紙を書きました。普段は、私信であろうと、いっさい心の内側を見せないモリスでしたが、一八七二年一一月二五日付のアグレイアへ宛てて出された手紙は、決してそうではありませんでした。彼の抑えきれない思いが、図らずも吐露された内容となっています。このなかに、モリスとジェインのこの時期の「夫婦の形態」の実相を読み解く鍵が隠されていると思われます。この手紙はあまりにも長い文であるため、以下に、この文脈において重要であると思われる箇所を部分的に幾つかに分けて引用し、若干の解説を交えて紹介したいと思います。
ウォードルが事業のために全部使いたいというので、この家を空にしなければならないようです。……しかしながら、親しんだ書斎と小さな寝室は使い続けようと思っています1。
当時、モリス・マーシャル・フォークナー商会のビジネス・マネージャーを務めていたジョージ・ウォードルからの「事業のために全部使いたい」という要請を受けて、一八七二年の暮れ、モリス一家は、クウィーン・スクウェアからターナム・グリーン・ロードの〈ホリントン・ハウス〉へ引っ越します。このことは、クウィーン・スクウェアでの住職一体の生活の終わりを告げるものでありました。しかしこのとき、アグレイアに宛てた手紙にありますように、「親しんだ書斎と小さな寝室」は残されます。これは、事実上、ジェインと子どもたちがこの家を出ることを意味しました。つまり、この移転は、モリスとジェインの実質的別居のはじまりを告げるものだったのです。モリスとジェインが結婚したのは一八五九年でしたので、それからすでにおよそ一三年の歳月が流れていました。
この手紙のなかには、このような一節もあります。
ひとつ欠けているものがあるからといって、あまりにもそれを多くの事柄に向けるべきではありませんし、実際、その欠けたものが、いつもいつも私の人生の楽しみを毀損するとは限らないのです2。
モリスが言及している「ひとつ欠けているもの(one thing wanting)」とは、明らかに、本来妻が夫に示すであろうはずの情愛のことだったにちがいありません。すでにこのときまでに、ジェインが自分を愛していないことをモリスは実感していたのでした。
さらに続けて、モリスは、こうもいいます。
私とGとの関係はずっと途切れたままです……そのようなわけで、あなたは遠くに行ってしまうし、私の悩みごとを話せる人が誰もいませんでした3。
この間アグレイアはギリシャに一時帰国していたものと思われます。アグレイアの不在は、モリスに寂しい思いをさせていたようです。他方、「私とGとの関係」のなかのGとは、仲間内ではジョージーの愛称と呼ばれていた、エドワード・バーン=ジョウンズの妻のジョージアーナのことでしょうが、モリスはとても微妙な表現をしています。といいますのも、「関係(intercourse)」という単語には、単に「交際」という意味だけではなく、「肉体関係」という意味も含まれるからです。アグレイアはこれをどう読んだのでしょうか。それを例証するものは何も残されていません。
一方、バーン=ジョウンズ夫妻のあいだにもこの時期すでに亀裂が入っていました。それは、バーン=ジョウンズが、アグレイアと同じギリシャ系の女性であるメアリー・キャサヴェッティ・ザンバコと恋に陥ったことに起因していました。二年前の一八七〇年、同じ苦しみをもつモリスは、『詩の本』と題された自作詩の自作本をジョージーに贈っています。
そして、ジェインの愛人であるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティにも言及します。
もうひとつ、まったく身勝手な厄介ごとがあります。それは、ロセッティがケルムスコットに居座ってしまい、そこから離れる様子が全くみられないことです。……加えて彼は、素朴で心地よいその田舎家に、何から何までほとんど共感することがないのです。……彼がそこにいること自体が、その家に対する一種の冒涜のように感じられます。……こうしたことがすべて、私を怒らせ、失望させたのでした――愛しいアグレイア、ここにこうして、私の狭量なところを見せてしまいました4。
「ケルムスコット」とは、実質的には妻のジェインとロセッティの愛の巣として、一年前の一八七一年にモリスとロセッティのふたりの男性の共同名義で賃借されたテムズ川上流のケルムスコットに位置する田舎家〈ケルムスコット・マナー〉のことです。この一節で重要なことは、「私を怒らせ、失望させた」ロセッティの言動の具体例が明示されていることです。これは、〈ケルムスコット・マナー〉を共同で賃借したおりの友情に満ちた当初の思いが崩れ、モリスの内面にロセッティに対する不信感が芽生えていることを物語ります。
さらに加えて、昨年(一八七一年)決行したアイスランドへの旅にも触れます。
来年私は、アイスランドに行ってみようと思っています。イングランドの二、三人から離れることは、とてもつらいことですが、そこに一種の安らぎがあることを承知しています。……私にとって昨年の旅が、いかにありがたく、助けとなったか、つまり、いかなる戦慄から私を救ってくれたか、あのとき以上にいまここに至って、はっきりと理解できます5。
アイスランド旅行中に感じていた「戦慄(horrors)」とは、間違いなく、〈ケルムスコット・マナー〉に残してきたジェインとロセッティの愛の暮らしを指しているものと思われます。この言葉から、アイスランド旅行中のモリスの深い苦悩を読み取ることができるのです。
まさしくこの書簡は、この時期(一八七二年)のモリスのあらゆるものに対するすべての心情を集約するものとなっていました。この手紙のなかに、次のような、見事に輝く結論的名句を見出すことができます。
何としてでも、世界を自分の身の丈に縮めたくありません。事物を大きくしかも優しく見つめたい!6
おそらくこれが、分裂の危機をつなぎ止め、「夫婦の形態」を維持していくうえでの、モリスにとっての基本となる考えであったのではないでしょうか。
この手紙から一五年の歳月が流れました。「はじめに」において言及した前者の資料の『ウィリアム・モリスの社会主義日記』には、一八八七年一月二五日にはじまり、四月二七日に終わる一五日分の日記が掲載されています。モリスは、日ごろ日記を書くタイプの人ではありませんでしたので、この約四箇月間の日記は、その意味で貴重なものとなっています。しかし、この冊子体の重要なところは、一五日というわずかな日数の日記にもかかわらず、実に一九五もの注が付けられ、詳細にこの時期のモリスの政治活動の様子が再現されていることです。加えて「序論」において、そして巻末の「人物注記」において、それはさらに補強されているのです。
「暗黒の月曜日」と呼ばれる暴力による動乱がロンドンで勃発したのが一八八六年の二月八日でしたので、モリスが日記を書いた一八八七年の春は、それからちょうど一年が経過した時期にあたります。モリスは、「暗黒の月曜日」の出来事を「革命の前触れ」と認識し、運動を指揮することを自分の「人生であり、生涯の仕事」として自覚していました。『ウィリアム・モリスの社会主義日記』には、全体としてそうしたモリスの政治的信条が吐露されています。しかし、『ウィリアム・モリスの家族史』擱筆後、私が忘れられないでいたのは、そうした闘争の世界に身を置くモリスの姿のなかにあって一瞬垣間見せた、不治の病をもつ娘への父親のまなざしでした。それでは、改めてその箇所の頁を開いてみます。それは、一月二六日の日記に現われます。
ジェニーと一緒に昨日、トロイのタピストリーを見るために、サウス・ケンジントン博物館へ行った。この作品を見るのは、この博物館が一、二五〇ポンドで購入して以来、二度目のこと7。
モリス家の長女のジェニーにてんかんという難病が襲いかかるのは一八七六年のことで、モリスが日記を書くおよそ一一年前のことでした。モリス夫婦の部分的な別居の解消も、ジェニーの発病に関係していました。ジェニーと一緒にサウス・ケンジントン博物館へ行くことができたということは、ジェニーの体調が比較的よく、自宅で暮らしていた時期だったにちがいありません。発病以来、ジェニーは、症状が悪化し自宅で過ごすことが困難な時期になると、家を出て、多くの場合は世話係か看護師を伴って、保養地か療養施設、あるいは別荘の〈ケルムスコット・マナー〉に滞在していました。母親のジェインも同伴することがありました。
ジェニーが自宅を不在にしたとき、モリスは頻繁に彼女に手紙を書き送っています。そのなかのひとつを紹介します。モリスが民主連盟に加わるのは、日記をつける四年前の一八八三年の一月一七日のことでした。奇しくもこの日はジェニーの二二歳を祝う誕生日でした。この日モリスはジェニーへ手紙を書き、そのなかでモリスは、こう書いています。
今日はあなたの誕生日です。もう一度、あなたのすべての幸せを祈りたいと思います8。
『ウィリアム・モリスの社会主義日記』のなかに記されている、サウス・ケンジントン博物館への訪問は、娘を思う父親としてのモリスに、至高の幸せをもたらした一瞬ではなかったかと推量されます。
一方のジェインは、一八八二年に、恋人であったダンテ・ゲイブルエル・ロセッティが発狂状態で亡くなると、それから一年半も立たないうちに、次なる恋人であるウィルフリッド・スコーイン・ブラントと逢瀬を楽しむ間柄になっていました。ふたりが知り合ったのは、一八八三年の八月ことでした。それからおおよそ三〇年後の一九一四年にジェインが亡くなると、ブラントの自伝ともいえる『私の日記』が一九一九年に公刊され、ジェインとブラントの関係は、こうしてある程度公のものとなります。さらにその後、ケンブリッジのフィッツウィリアム博物館に眠るブラントの文書類(ブラント宛てのジェインの手紙を含む)が、ブラントの死から五〇年が経過した一九七二年に解禁され、一般に公開されます。レイディ・ロングファッド(エリザベス・ロングファッド)による伝記『情愛の巡礼者――ウィルフリッド・スコーイン・ブラントの生涯』が出版されるのが一九七九年で、これにより、さらにふたりの関係の実態が明らかになるのでした。そうしたなか、翌一九八〇年の九月三〇日に、ウィリアム・モリス協会によって企画された年一回のケルムスコット講演会の第一回講演が開かれます。そのときの講演内容が、ブラント宛てのジェインの書簡類を巡る話題だったのです。講演者は、ピーター・フォークナーでした。まさしくここに至って、モリス家にかかわるひとつの歴史的主題がいよいよ学術的に焦点化されたのでした。
「はじめに」において言及した後者の資料である、一九八一年に出版された『ウィルフリッド・スコーイン・ブラントとモリス家』には、一八八四年から一九一三年までにブラントに宛てて出された一四五通のジェインからの手紙のなかから一部が選び取られて所収されています。著者のピーター・フォークナーは、おおかた手紙の一つひとつに、主としてブラントの『私の日記』と対照するかたちをとりながら、解説文を付け加えています。所収されている最初の手紙は、一八八四年七月六日のもので、末尾には、「今度はいつ、会いに来られますか」という文言がみられます。また、最後の手紙は、一九一三年五月二三日のもので、この手紙の末尾には、「もし私が秋にロンドンにいれば、お知らせいたします」と、書かれてありました。
冒頭の宛名は、すべての手紙において My dear Mr Blunt となっており、結びは、その時々で違いがありますが、最初の手紙は、Yours very truly, Jane Morris、そして最後の手紙は、Always yours affectionately, Jane Morris の一語で結ばれています。モリスが亡くなるのが一八九六年ですから、それをあいだに挟む約三〇年間、ジェインはブラントに手紙を送り続けていたことになります。
『ウィルフリッド・スコーイン・ブラントとモリス家』に所収されている書簡のなかで、ジェインがブラントに夢中になっている様子を示すひとつの文例を、モリスがジェニーをサウス・ケンジントン博物館に連れていった二年後の一八八九年八月二一日の手紙のなかに見出すことができます。
私は一種夢のなかを動き回っています。まるで私と屋敷全体が魔法にかけられたかのように。エジプトから何か魔法を持ち帰り、ひとりの哀れで無防備な女に、あなたはそんな魔術など使ったりはしていませんよね9。
私は、この拙文において、病にある娘へ愛情を注ぐモリスと、夫以外の男性に関心を示すジェインとを比較して、一方の視線から一方的に一方を責めるために書こうとしているのではありません。そうではなくて、なにゆえにモリスは、妻への不満や嫉妬を表面化させることも、本格的な別居や離婚といった具体的な行動をとることもなく、静かに平常心を保つことができたのか、その精神的構造を探ってみたいと思って、改めて筆を握っているのです。なぜなのでしょうか――これが、これまでの多くの研究者や伝記作家が驚きを示し、不思議に思ってきたテーマであり、モリスの人間性を理解するうえでのまさしく格闘するに値する関心事のひとつとなっていたのでした。私も、『ウィリアム・モリスの家族史』の擱筆後のいま、この場において、格闘の戦列に加わりたいと思います。
すでにモリスは、社会民主連盟(民主連盟の改名組織)を脱会し、社会主義同盟を自らの手で結成していました。そして、日記を書く二年前の一八八六年から翌年にかけて、この組織の機関紙『コモンウィール』に「ジョン・ボールの夢」を連載します。
夢想者は、次第に自分が、一三八一年のケント州で起きたジョン・ボールを指導者とする農民反乱に遭遇していることに気づき、そこから物語が展開してゆきます。夢想者は、モリス本人と考えてよいと思われます。ジョン・ボールにとって救済されなければならないのが、農民のいのちと生活であり、それを抑圧しているのが国王による課税の強化でした。農民による反乱軍は、旗を立てて進行しました。その旗には、「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、誰がジェントルマンだったのか」10という文字が並んでいました。著者のモリスはこの文言を、「初期世界の象徴であるとともに、人間の自然との闘いの象徴」11という言葉でもって表現しています。決して「理想の夫婦の象徴」とまでははっきりと書いていませんが、しかしここに、モリスの家族観や労働観が投影されている可能性は十分にあると思われます。そこで、「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、誰がジェントルマンだったのか」という文言について、少々検討してみたいと思います。
聖書によれば、神が天地を創造し、最後に人間であるアダムを、そしてそれに少し遅れて、アダムの「助け手」としてのイヴを誕生させました。ふたりはエデンの園で何不自由なく暮らしていましたが、禁断の実を食べたことで神の怒りを買い、エデンの園から追放されることになります。そのとき神は、アダムには労働の苦役を、他方イヴには、出産の苦痛を罰として与えます。こうして原罪を背負う人類史上最初の男女のカップルが出現したのでした。
ここでまず、「誰がジェントルマンだったのか」の意味を探ってみたいと思います。モリスの立場から見た「ジェントルマン」とは、明らかに、為政者であり、資本家であり、土地所有者であるような特権的な階層の人間を暗に指し示しているものと考えられます。そうであれば、アダムとイヴの時代に、そのような階層の人が存在したのでしょうか。おそらく存在していません。つまり、この小説が書かれた一九世紀のヴィクトリア時代とは異なり、アダムとイヴの時代にあっては、「ジェントルマン」登場以前の極めて牧歌的で平和的な環境のなかにあって、アダムは大地を耕して食物をつくり、そして一方でイヴは、糸を紡いでは、羞恥心を隠すための服(腰巻)をつくっていたことが、連想されます。そうであれば、モリスにとっての「ジョン・ボールの夢」の執筆意図の一部は、支配的で権力的な統治構造のなかにあって苦悩する同時代の人間存在の対極にあって、いかなる外からの抑圧的な力も作用しない生活空間に生きようとするアダムとイヴのごとき人びとの将来的な姿を展望することにあったのではないかと思われます。そうした理想的な社会にあっては、搾取される労働も、管理される労働も、そしてまた、使い捨てられる労働も存在しません。つまり、神の意思とは別に、求められるべき労働は、喜びそのものであって、家族とは、相互に補い支え合う協力者による共同体なのです。「ジョン・ボールの夢」のなかでモリスは、民衆の前に立つジョン・ボールに、「フェローシップは天国であり、その欠如は地獄である」12と発話させます。この言葉は、人間集団の連帯の重要性を示すものであり、それによって「ジェントルマン」階層を一掃し、あわせて彼らによる統治を終焉させることを願う、当時のモリスの内なる熱い思いの発露であったにちがいありません。
モリスが「ジョン・ボールの夢」を執筆する四年前の一八八二年に、芸術労働者ギルドの創設者のひとりであるルイス・F・デイは、『日常の芸術――純粋にあらぬ芸術に関しての短篇評論集』を刊行し、そのなかで、装飾について次のように論述していたのでした。
装飾を愛することは、救世主御降世以来のこの年に固有の特徴ではない。装飾は人類の最初の段階にまでさかのぼる。もし装飾をその起源に至るまで跡づけようとするならば、私たちは自らの姿をエデンの園のなかに――あるいは猿の領地のなかに見出すことであろう。今日においても、装飾は、私たちのなかにあって無限の力を有している。したがって私たちは、装飾をもたない「来るべき人類」を心に描くことはほとんどできないのである13。
一方モリス自身も、一八八〇年二月にバーミンガムで「生活の美」について講演した際に、次のように述べています。
……つくり手と( ・・・・・ ) 使い手にとっての( ・・・・・・・・ ) 喜びとして( ・・・・・ ) 民衆によって( ・・・・・・ ) 民衆のために( ・・・・・・ ) 製作された( ・・・・・ ) 芸術がかつては存在していたことを、文明化した全世界が忘れ去ってしまった14。
「文明化した全世界が忘れ去ってしまった」ものとは、明らかにもとをただせば、アダムとイヴの時代を象徴する「労働と芸術」の形式でした。人間の適切な労働の所産が、芸術という表現です。つまり、労働と芸術は、事実上表裏一体の関係にあったのです。そこでモリスは、「義務の問題」としてその再獲得に、どうしても乗り出さなければならなかったのでした。
ここで、少々蛇足になるかもしれませんが、ケルムスコット版の『ジョン・ボールの夢と王の教訓』について触れておきたいと思います。この書籍は、ケルムスコット・プレスの六番目の本として一八九二年に刊行されました。リーヴズ・アンド・ターナーの第三版に少し手が加えられ、口絵も、手直しされたものとなっています。この新たな口絵をデザインしたのが、エドワード・バーン=ジョウンズで、版木に彫ったのが、W・H・フーパでした。この木版による口絵を見てみますと、右手にアダムがいてシャベルで土を掘り、左手のイヴは右の乳房を露出して、その足元でふたりの幼子が戯れています。そして、人物像の下部に、モリスによる例の「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、誰がジェントルマンだったのか」の銘が入っているのです。
明らかに人物像と銘が一致しません。バーン=ジョウンズは、子どもを産み育てる性としてイヴを描いていますし、モリスの銘は、労働する性としてのイヴを表現しているのです。ここから、ふたりにとって、イヴの役割が異なって理解されていたことがわかります。
すでに述べてきましたように、「ジョン・ボールの夢」において、著者のモリスは、「ジェントルマン」という抑圧者が姿を消したのちの、一種の無政府的世界を理想に描き、その理想のもとに生きるアダムとイヴを、「夫婦の形態」の原像としてとらえているように読むことができます。そして、アダムとイヴが手にしているのが、確かな「労働と芸術」なのです。モリスにとっての社会主義とは、社会主義同盟の綱領の中身がそうであるとしても、それを日常的な皮ふ感覚に沿って柔らかく置き換えるとするならば、アダムとイヴが享受していた「夫婦の形態」、そして同時に、彼らが歓喜していたであろう「労働と芸術」とをいま一度獲得することだったものと考えられます。その目標を勝ち取るためには、「ジェントルマン」を社会的に排除する必要があり、そこに必然的に闘争が生まれます。それでは、その闘いをモリスはどう体感していたのでしょうか。その間、モリスがジョージーに宛てて書いた手紙をつなぎ合わせながら、以下に描いてみたいと思います。
最初は、一八八五年一〇月三一日付のジョージーに宛てたモリスの書簡からの抜粋です。
ご存じのとおり、私は運動に加わっており、もちこたえられるあいだは、できることはしなければなりません。これは、義務の問題です。それに加えて、半ば無政府主義者である私たちには自己否定の規律があるのですが、それにもかかわらず、悲しいことですが、私は、何らかのリーダーシップのようなものが必要であるといわなければならないのです。私たちの組織では、不幸にも私が、その不足部分を補っているのです15。
この時期モリスは、社会主義同盟のリーダーでした。それでは、同時代的に「アダムとイヴ」を出現させることを目指して、「ジェントルマン」階層を一掃し、あわせて彼らによる支配を終わらせるためには、どうしたらよいのでしょうか。この一八八五年一〇月三一日のジョージーに宛てた手紙の後段のなかで、モリスは、「革命」について、はっきりと口にするのでした。
人は、希望へと方向を変えなければなりません。ひとつの方向においてのみ、私はそのことを見出しています。――つまりそれは、「革命」へ向けられた道です。それ以外のどの道も、いまや潰え去りました。そしていま、ついに社会は完全に腐敗したように見えます。ここに至って、ある程度公式化された要求のもと、新しい明確な秩序概念が生まれ出ようとしているのです16。
「ジェントルマン」階層が議会を強固に支配している現状にあっては、議会政治の手続きを経ることによって「ジェントルマン」階層を灰燼化することは、実質的には絶望的であり、それであれば、いつまで待とうとも、理想の社会は到来しません。ここに、議会派と反議会派の対立が生まれます。そして同時に、「革命」への道へ向けての具体的な戦略が語られることになるのです。
「暗黒の月曜日」が勃発した一八八六年に続いて、一八八七年もまた、英国における政治的動乱の年となりました。のちに「血の日曜日」と呼ばれるようになる、デモ隊と官憲との大規模な衝突がトラファルガー広場で起きたのは、一一月一三日のことでした。この日、およそ一万人にのぼる失業者、急進主義者、無政府主義者、そして社会主義者たちが、ロンドンの至る場所に集結し、トラファルガー広場へ向けて行進をはじめました。モリスは、同志とともに社会主義同盟の隊列に加わっていました。官憲は、トラファルガー広場への侵入を食い止めるため、進行するデモ隊を威嚇し、警棒で叩きつけ、馬で蹴散らしました。血が流れ、数名の死者と多くの負傷者が出る結末となりました。モリス自身は、「暗黒の月曜日」においても、「血の日曜日」においても、暴力行為を行使したり、扇動したりすることはありませんでした。しかし、政治的成果を勝ち得ることもなく、そのため、次第に自信を失ってゆきます。一八八八年三月のおそらく一七日に書かれたものと思われるジョージーに宛てて出された手紙のなかに、自信を失ったモリスの内面が投影されています。
自分がかかわったこうした最近の問題について、これ以上にもっとやれたのではないかという気持ちがあり、その思いを払拭することができません。もっとも、私に何ができたのか、実のところ、それはよくわからないのですが。しかし、私の気持ちは打ちのめされ、惨めなものになっています。でも、事態にしょげ返っていても、仕方ありません。この三年間にこれほどまでに急速に物事が進行するとは、思いもよらぬことだったからです。ひとこと、再びいえば、考えは広がっても、それによって組織が広がってゆかないのです17。
最後の文言は、議会派と反議会派の意見の対立を暗に示していました。それからおよそ二箇月後の五月二〇日に、社会主義同盟の第四回年次大会が開催されました。このとき、議会派と反議会派の対立が激化し、モリスは折衷案を示し、和解への努力をしましたが、結局は功を奏すことなく、分裂は避けがたいものとなり、エイヴリング夫妻やアレグザーンダ・ドナルドといった知性派の会員を失い、べクスもまた、この年モリスから離れて、社会民主連盟に再加入してゆきました。他方、同盟内で優位を保ったのが強硬な無政府主義の勢力でした。しかしモリスは、彼らが唱える直接的な暴力行為には同意できず、いまやモリスは、社会主義同盟において孤立の身となったのでした。
社会主義同盟の年次大会からおよそ二箇月が立った、七月二九日、モリスはジョージーに、このような内容の手紙を書いています。
私はまた……理想的な社会主義や共産主義を受け入れることにかかわって、いかなることがいわれようとも、物事は確実にこの国家社会主義に向かって、しかも極めて急速に、進んでいると、いつも感じてきました。しかしここで、議会政治の全く退屈な優柔不断さに身をまかせてしまえば、私は、完全に用なしの人間になります。達成されるべき直近の目標が、そして、活動内容が、つまらない、少しでも国家社会主義に近づくことであれば、実現したところで、それは私にとって、ただのおもしろみを欠いた到達点であり、こうしたことを思うと、すべてが、私を全くうんざりさせてしまうのです18。
議会政治にみられる優柔不断さ、セクト間の対立と抗争、過激主義者が叫ぶ暴力的革命、モリスにとっては、どれもが受け入れがたいものでした。この時期のモリスは、偏狭な無政府主義にも、あるいは国家社会主義へ向かう多数派的な道にも、少なからずの幻滅を感じ取っていたのでした。モリスは、社会主義についての自己の認識を、こういう言葉で表現しています。
完全なる社会主義と共産主義のあいだには、私の気持ちのなかでは少しの違いもありません。事実上共産主義は、社会主義の完成形のうちに存在します。社会主義が戦闘的であることに終止符を打って、勝利を得たとき、そのときそれは共産主義となるのです19。
残念ながら、モリスの関与したこの時期に社会主義は完成しませんでした。完成したのは、「ジョン・ボールの夢」に続いて『コモンウィール』に連載された「ユートピア便り」の題名をもつユートピアン・ロマンスの舞台においてでした。しかし、現実世界においても成果はありました。それは、イヴに象徴される働く女性たちが再登場したことでした。
一般的にいって、ヴィクトリア時代の多くの女性たちの行動は、ヴィクトリア女王自身が、結婚、母性、寡婦について実際に示した態度を踏襲するものでした。そしてまた、一八五四年にイギリスの詩人のコヴェントリー・パットモーが出版した『家のなかの天使』に倣うものでもありました。ヴィクトリア女王の時代に「天使」は、どこの家にもいました。「天使」は、いまでこそ抑圧された女性としてみなされますが、当時にあっては、家の外には活動の場を設けず、唯一家族のことだけに思いを巡らせ、性的な目覚めという罪を身に宿さない女の代名詞となっていたのです。
それでは、モリス自身は、女性問題について、どのような考えをもっていたのでしょうか。以下の一節は、一八八六年一〇月一六日にチャールズ・ジェイムズ・フォークナーに宛てて出されたモリスの手紙からの引用です。
性行為は、両者の自然な欲望と思いやりとの結果として生じるのでなければ、獣的であるだけでなく、それにもまして悪質である。……いまだに人間的な思いやりに加えて獣欲主義も残っているようですが、法律上の私たちの結婚制度が意味する、現行の金銭ずくの売春制度よりは、限りなくいいでしょう。……明らかに現在の結婚制度は、賃金制度と同じ方法によって維持されているにすぎず、つまるところ、それは、警察であり軍隊であるのです。妻が一市民として自らの生活費を稼ぎ、子どもたちも市民として、暮らして行ける権利が奪い取られないようになれば、人びとを法的売春へと強制する要因も、あるいは、人びとを金銭目的のだらしのない行為へと駆り立てる要因も、いっさいすべてがなくなることでしょう20。
ここで着目したいのは、「妻が一市民として自らの生活費を稼ぎ、子どもたちも市民として、暮らして行ける権利」という文言です。モリスは、性交は両性間の思いやりに満ちた自然な欲求の行為であり、そのためには、それに反する、現在の社会にみられる家庭内の売春制度も、市中での男性相手の性の売り買いも、なくさなければならず、そのためには、女性が職に就き、収入を得るようになり、経済的に自立することが重要である、と説いているのです。それは、女性を男性の管理下に置かない、あるいは、資本の支配下に置かないことを意味します。
一八六一年、モリス・マーシャル・フォークナー商会が設立されます。ここに、イヴに象徴される働く女性たちが再登場してくるのです。この会社には、「姉妹団」が存在していました。こうした名称が実際に使われていたかどうかはわかりませんが、事実この会社に貢献する幾人もの女性たちがいたのです。『ウィリアム・モリスの生涯』のなかで、著者のJ・W・マッケイルは、こう書いています。
フォークナーのふたりの姉妹が彼に協力して、絵タイルと陶器の製作に加わった。モリス夫人と彼女の妹のバーデン嬢は、下働きをしてくれる数人の女性たちと一緒に、布やシルクのうえに刺繍をした。バーン=ジョウンズ夫人は、刺繍以外にも、タイルに模様を描く仕事をした。職工長の妻であるキャンプフィールド夫人は、祭壇布の製作を手伝った21。
ここに登場している「フォークナーのふたりの姉妹」とは、ケイト・フォークナーとルーシー・フォークナーを指します。
ジャン・マーシュは、自著の『ラファエル前派の女たち』のなかで、この商会における「姉妹団」の役割について、以下のように評しています。
そして、こうして、ヨーロッパのデザイン史上において大いなる意義をもつものとしてひとつの地位が授けられてきているこの事業に、女性たちは参加することができた、というよりも、参加するように求められたのである。しかしそれは、補助的で従属的なものであり、当時広く見受けられた社会および個人における性別役割を覆すものではなく、むしろその強化につながった22。
商会設立の当初、主として関係者の妻や姉妹たちが、忍耐を要する手仕事や補助的仕事の分野で貢献します。女性と手仕事(とりわけ、針仕事)は、当時の家庭生活にあっては、不離の関係にありました。女性の手わざは欠かせないものであり、その実態が、この会社の社会的生産活動に反映されたのでした。
その後、ケイト・フォークナーは、モリス商会にとって重要なデザイナーのひとりとして多くの壁紙のデザインに従事しますし、一八八八年の最初のアーツ・アンド・クラフツ展覧会においては、ジョン・ブロードウッドによって製作されたグランド・ピアノの全面に金と銀のゲッソー仕上げで装飾し、称賛を浴びます。一方、モリス夫妻の次女であるメイも、成人すると、とくに刺繍の分野で、この会社に積極的に参加します。さらに後年には、中央美術・工芸学校で刺繍の教師を務め、その教育にも携わり、専門的な刺繍家としての自立した道を歩むことになるのです。疑いもなく、こうしたケイトやメイの事例は、いかにして当時の女性たちが、家業の手伝い、ないしは内職としての手仕事から一歩前へ出て、社会的職業としての芸術的労働を勝ち得てゆくのか、その過程の一端を示すものであり、このふたりのなかに、一八六〇年代の英国に出現する「時の女」、そして、それに続いて九〇年代に登場する「新しい女」のひとつの原型のようなものが潜んでいたものと思われます。
第一回のアーツ・アンド・クラフツ展覧会の開催を翌年に控えた一八八七年一二月のある日、すでに面識があったC・R・アシュビーがモリスを訪ねてきました。一八六三年生まれのアシュビーは、ケンブリッジで歴史学を学び、一八八三年から建築家のG・F・ボドリーの事務所で働きはじめ、一八八五年にはじめて彼は、エドワード・カーペンターに会います。それは、カーペンターがウォルト・ホイットマン流儀の散文詩『デモクラシーに向けて』を出版した翌年のことでした。その本のなかでカーペンターは、産業革命以前に存在していた簡素な田園生活への回帰を唱道していたのです。建築家=工芸家のアシュビーがモリスを訪ねたのは、「ギルドあるいは美術学校」の設置を巡って支援を求めるためでした。しかし、モリスは、それについて難色を示します。すでにモリスは、もはや芸術の救済は、芸術それ自体の内部にあるのではなく、社会の変革のなかに存在することを確信するようになっていたのです。そこで、そのときモリスは、アシュビーに対して、真の芸術を復興させるためには、まずはそれに先立って、現行の芸術基盤をつくり出している政治・経済体制を革命によって変革する必要がある、と力説したにちがいありません。といいますのも、さもなければ、いくら芸術の復興に向けて努力をしても、やすやすとそれは、商業主義と機械的生産によって強固にかたちづくられている現行の体制に飲み込まれてしまう危険性が、モリスには十分に予想されていたであろうと思われるからです。モリスとの面会の様子を、アシュビーは次のように書き記しています。
ウィリアム・モリスと大量の冷たい水。昨晩モリスと過ごした。面会の約束のもとに。美術学校の提案について。
彼は、それは役に立たないし、いま私が執り行なおうとしていることは、そのためのいかなる基盤にも基づいていない、という23。
確かにこのときの面会には失望させられたものの、それでもアシュビーは、自らの理想主義を貫き、同志愛によって結ばれる工芸家の協同的営みを信じ、翌年の一八八八年、二五歳という若さで、ロンドンのイースト・エンドにあるトインビー・ホールに手工芸ギルド・学校を開設し、木工、皮工芸、金工、宝飾細工を主とする集団的製作の道へと入ってゆくのでした。
その後アシュビーは、一八九六年にモリスが亡くなると、「ケルムスコット・プレス」の設備の一部を手に入れることによって「エセックス・ハウス・プレス」を興し、一九〇〇年には、自ら独自のタイプフェイスをデザインし、そのタイプフェイスは、『ジョン・ラスキンとウィリアム・モリスの教えに向けての努力』にはじめて適応されました。しかしアシュビーにとって、喧騒のロンドンに欠けていたものがありました。つまりそれは、エドワード・カーペンターのロマン主義的社会主義に認められるような、簡素で正直な田園生活のなかにあって展開されうる同志的結合( カムレッドシップ ) であり、これはモリスの「フェローシップ」とほぼ同義をなす用語でもありました。
アシュビーが求めた田園は、コッツウォウルズに位置するチピング・キャムデンでした。この小さな村は、セント・ジェイムズ教会に象徴されるように、中世にあってはコッツウォウルズ地域の羊毛の集積地として、またヨーロッパへ向けての販売の拠点として繁栄していました。しかし一九世紀の後半に至ると、農業の衰退が進むにしたがって人口も減少し、また一八五三年の鉄道の開設に際しては、この地域を遠巻きにするように軌道が敷設されたこともあって、近代文明から取り残された、産業革命以前の「未発見」の田舎という様相を呈していました。一方、八〇年代に入ると、田園回帰運動への熱狂に促されて、幾人かの芸術家や建築家たちがすでにこの地に移り住みはじめようとしていました。そうした状況のなかにあってアシュビーは、五〇家族、総勢約一五〇人の男女と子どもとともにロンドンのイースト・エンドを離れ、チピング・キャムデンへの移住を決意するのでした。
これは、まさしく、エデンの園の再来を意味するものでありました。こうして工房における生産活動は開始され、加えてこのギルドには、演劇や歌唱やスポーツだけでなく農耕も取り入れられてゆきます。農業と手工芸が統合された共同体の建設こそ、アシュビーの理想郷だったのです。しかしこの理想の共同体は六年間しか維持されることはなく、一九〇八年に崩壊します。明らかに、アーツ・アンド・クラフツの理想は、粗暴な資本主義の力の前に、敗退したことになります。モリスの予言が的中した歴史的瞬間でした。
一八六一年のモリス・マーシャル・フォークナー商会の設立から一九〇八年のアシュビーの手工芸ギルド・学校の崩壊までが、アーツ・アンド・クラフツの実質的な活動期間でした。『英国のインダストリアル・デザイン』の著者のノエル・キャリントンは、このように書いています。
アーツ・アンド・クラフツ運動は英国中に広がり、大きな中心地には、その土地のギルドと団体があった。多くの芸術家=工芸家は、画家や彫刻家と同じやり方で生計を立てていた24。
ウィリアム・モリスの次女のメイによって女性芸術ギルドが創設されるのが一九〇七年でした。英国全土に点在するギルドや家庭内工房で働く芸術家=工芸家のなかには、それなりの数の女性が含まれていたものと思われます。イヴが糸を紡いだように、手の工芸は女性と相性がよく、ここに、多くのイヴが登場してくる基盤があったのでした。そこは、寝食をともにする生活の場であり、徒弟に技術を教える教育の場であり、そして同時に、装飾芸術(生活用品)を製作する労働の場でもありました。つまり、生活=教育=労働の三位一体の共同体がギルドであり家庭内工房だったのです。しかし、ギルドや家庭内工房にみられた教育機能は近代の学校として外部化され、他方、製作機能は、近代の工場へと変容する運命にありました。かくして、「革命」なき現行の政治・経済体制のなかにあっては、ギルド的製作の仕組みは永続することができず、その結果、イヴたちの仕事の場も奪われてゆきます。こうして「女たちのアーツ・アンド・クラフツ」は、事実上終わりを告げたのでした。
もっとも、「女たちのアーツ・アンド・クラフツ」につきましては、いまだ学術上の照明がほとんどあてられていません。今後の研究が期待される、とても魅力的な課題といえます。
モリス存命中の実際のヴィクトリア時代にあって、彼が描く理想世界は実現することはありませんでした。しかし、彼はそれに代わって、書物のなかでそれを描いてみせました。その代表作が「ジョン・ボールの夢」と「ユートピア便り」です。前者の「ジョン・ボールの夢」については、すでにある程度言及していますので、ここでは、後者の「ユートピア便り」について少し触れておきたいと思います。
「ユートピア便り」は、モリスが社会主義同盟を脱会する前に『コモンウィール』に書かれた最後の作品です。したがいまして、この散文ロマンスは、モリスにとっての社会主義同盟への遺言書であり、そしてまた、決別の書となるものでありました。そのときまでにモリスの脳裏には、近未来に革命が起こり、その後に新しい世界が生まれ、そこにあっては、階級が消滅し、平等な男女が喜びのある労働を楽しみ、その成果物である芸術が生活に安らぎを与える――そうした解放された楽園の映像が投射されていたにちがいなく、その画像が語りに代わり、現実の体験が取り入れられながら、「ユートピア便り」というロマンスのかたちをなして、『コモンウィール』の紙面に凝縮していったのではないかと、推量されます。
しかし、これは単なる一個人の夢物語に止まるものではありません。モリス自身にとっては、当時の社会と労働と芸術の置かれている暗黒的状態を適切にも分析した結果の、極めて個人的な文学的所産といえるかもしれませんが、他方それは、誰もが共有可能な極めて普遍的な未来社会へ向けての淡くも強靭な展望をはらむものでした。モリス本人はそれを、「ヴィジョン」という言葉でもって表現しています。以下は、「ユートピア便り」の最後の言葉です。
そう、そのとおり!私が見てきたように、もしほかの人もそれを見ることができるならば、そのときそれは、夢というよりは、むしろひとつのヴィジョンと呼ばれるようになるかもしれない25。
「ひとつのヴィジョン」――確かにモリスは、これを後世に残したのです。重要な遺産ではないかと思います。
それとは別に、一九五五年、E・P・トムスンの『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』が公刊されます。この本の最後の部分で、著者のトムスンは、政治活動家としてのモリスを、「決して歴史が追い付くことのできないような人間のひとり」26と、結論づけました。これもまた、重要な指摘ではないかと思われます。
いま私たちの労働環境を見渡しますと、幾つもの悲惨な事象が目に映ります。長時間の時間外労働で死に追いやられた人がいます。職場でハラスメントを受けて精神的病に陥った人がいます。非正規雇用のため、いつ解雇されるか不安におののいている人がいます。モリスの時代と比べてどうでしょうか、労働環境はよくなっているでしょうか。さらに悪化しているようにも見えます。一方、ごみ集積場に目を向けると、まだ使えると思われる品物や服が、山のように廃棄され、自然や資源を蝕んだ欲望の痕跡が残されているのに気づきます。アダムとイヴの時代を象徴する「労働と芸術」は、いまどこに隠れているのでしょうか。身近な現象を眺めただけでも、モリスの思想と実践に、歴史が追い付いてきていないのは明白です。ひょっとすると、永遠に歴史は、モリスに到達することができないのかもしれません。
一八八八年八月の、おそらく二八日に、モリスはジョージーに手紙を書きました。その全文は、次のとおりです。
しばらくのあいだ私は、組織化されたすべての社会主義がそのいのちを使い果たしてゆくのを見つめてみようと覚悟を決めています。しかしながら、それでも私たちには、やるべきことはあるのです。たとえば、知性ある人びとにその問題を考えるように強く働きかけてゆくことです。そうすれば、何か都合よく連携の環境が整い、やがて、私たちの活動が再び必要とされるようになるのです。そのときまだ生きていれば、再び私は、そのなかに割り込ませてもらうつもりでいます。私には、ひとつの利点があります。すなわちそれは、そのときの私は、いまのこの最初の段階よりも、なすべきことは何であるのか、そして、差し控えるべきことは何であるのかについて、より多くを知っているだろうということです27。
このように、モリスは、連携の準備が整い、自分たちが行なった活動が必要になった場合には、そこに割り込ませてもらう、といっています。困難を抱える時代に生きる人間にとって、そしてまた、モリスの「ひとつのヴィジョン」の共有を望む人間にとって、この言葉は、心強いメッセージとなるのではないでしょうか。
やっとここまで話を進めてきました。この拙稿には、「はじめに」において書きましたように、騒ぎ立てすることなく静かにジェインを見つめるモリスのまなざしを、どう理解したらいいのかというテーマが課題として設定されていました。以下は、設問者の義務としての、それにかかわるわずかながらの結論的考察です。
モリスとジェインの夫婦は、一般的な基準からすれば、決して理想的なものではありませんでした。しかし、モリスにとってそのことは、完全な別居や離婚を呼び寄せるほどの深刻なものではなかったようにも見えます、換言すれば、モリスが時代や社会に対して抱える大きな「ひとつのヴィジョン」からすれば、夫婦の問題は、モリスにとっては、そのなかの単なる微細な一部分でしかなかったのではないかという気がしているのです。すでに引用で示していますように、アグレイアへ宛てた手紙のなかでモリスは、「ひとつ欠けているものがあるからといって、あまりにもそれを多くの事柄に向けるべきではありません」と、いっています。そしてまた、同じ手紙のなかで、「何としてでも、世界を自分の身の丈に縮めたくありません。事物を大きくしかも優しく見つめたい!」とも、いっています。微細な一部分の欠落が、自分の人生の隅々までをも破壊するわけではなく、モリスにしてみれば、夫婦問題を含めて常に「ひとつのヴィジョン」を、放棄することなくしっかりと胸に秘め、それを「大きくしかも優しく」そして粘り強く、自らの一生涯のなかにあって育てたかったのではないかと推測します。
そして加えるならば、不治の病をもつ娘のそばに常に立っていたかったのではないでしょうか。もし、別居でも離婚でもしようものなら、一番苦しみ悲しむのはジェニーです。学業も仕事も結婚も、すべてを諦めなければならなかったジェニーから、両親の姿までもが消えてしまったら、どうなるでしょうか。モリスは、たとえジェインがそばにいなくとも、ジェニーのそばにいられることが、より充足的だったのではないかと、いま思いを巡らしています。しかし、過去の歴史上の夫婦の問題のことであろうとも、他人がいたずらに憶測を交えて口を挟むことは、慎むべきなのかもしれません。それでもなお、現代に生きる人間は、よりよく生きるうえで、過去に生きた人間に学ぶしかないのです。
私が書き終えた『ウィリアム・モリスの家族史』も、そうした思いから執筆されたものでした。私は、この家族史を最初にモリスに読んでもらいたいし、批評してもらいたいし、そして、不適切な部分についての指摘があれば、ただちに訂正したいとも思っています。それは、モリスに倣って自分自身がよりよく生きるために、より正確なモリス像を手に入れたいと願っているからにほかなりません。たとえかなわぬ夢と知りながらも――。
以上をもちまして、タイトルにあります「モリス伝記擱筆後の雑感」とさせていただきます。いつもながらの稚拙な文になってしまいましたが、最後までお読みいただいたお一人おひとりに、「ありがとうございました」の言葉を捧げたいと思います。
(二〇二二年六月)
(1)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME I 1848-1880, Princeton University Press, Princeton, 1984, p. 172 (LETTER NO. 180).
(2)Ibid.
(3)Ibid.
(4)Ibid., pp. 172-173.
(5)Ibid., p. 173.
(6)Ibid.
(7)William Morris’s Socialist Diary, edited and annotated by Florence Boos, Journeyman Press, London and New York, London History Workshop Centre, 1985, p. 22.
(8)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part A] 1881-1884, Princeton University Press, Princeton, 1987, p. 151 (LETTER NO. 841).
(9)Wilfrid Scawen Blunt and The Morrises, by Peter Faulkner, William Morris Society, 1981, p. 22.
(10)May Morris ed., The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XVI, p. 228.
(11)Ibid.
(12)Ibid., p. 230.
(13)Lewis F. Day, Every-Day Art: Short Essays on the Arts Not Fine (reprint of the 1882 ed. published by B. T. Batsford, London), Garland Publishing, New York and London, 1977, pp. 5-6.
(14)May Morris ed., The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXII, p. 58.
(15)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part B] 1885-1888, Princeton University Press, Princeton, 1987, p. 479 (LETTER NO. 1160).
(16)Ibid., p. 480 (LETTER NO. 1160).
(17)Ibid., p. 755 (LETTER NO. 1470).
(18)Ibid., p. 791 (LETTER NO. 1510).
(19)May Morris ed., The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXIII, p. 271.
(20)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part B] 1885-1888, Princeton University Press, Princeton, 1987, p. 584 (LETTER NO. 1284).
(21)J. W. Mackail, The Life of William Morris, VOLUME I, Longmans, Green and Co., London, 1899, p. 154.
(22)Jan Marsh, Pre-Raphaelite Sisterhood, Quartet Books, London, 1985, p. 204.
(23)Quoted in Alan Crawford, C. R. Ashbee: Architect, Designer & Romantic Socialist, Yale University Press, New Haven and London, 1985, p. 28.
(24)Noel Carrington, Industrial Design in Britain, Georg Allen & Unwin Ltd, 1976, p. 23.
(25)May Morris ed., The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XVI, p. 211.
(26)E. P. Thompson, William Morris: Romantic to Revolutionary, Lawrence and Wishart, London, 1955, reprinted by Pantheon Books, New York in 1976, p. 730.
(27)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part B] 1885-1888, Princeton University Press, Princeton, 1987, p. 806 (LETTER NO. 1524).