中山修一著作集

著作集22 残思余考――わがデザイン史論(上)

第一部 ウィリアム・モリス論

第七話 ウィリアム・モリスと富本憲吉――妻以外の女性の存在と作品

はじめに――論点の所在

ウィリアム・モリスは、生涯を通じて、妻のジェインと必ずしもうまくいったわけではありませんでした。しかし、モリスには、親しく友愛を交わしていたふたりの既婚女性がいました。ひとりは、ジョージアーナ・バーン=ジョウンズで、もうひとりは、アグレイア・コロニオという名の女性でした。また、モリスの関心は、重い病気を患っていた長女のジェニーにも向かっていました。

一方、富本憲吉も、妻の一枝との夫婦関係はよくなく、晩年には憲吉が家を出ます。そして、その後知り合い、仕事の手伝いをしていた石田寿枝という女性を伴侶として、自身が亡くなるまで一緒に生活をしました。

このように、ウィリアム・モリスにも富本憲吉にも、妻以外に、心を許した女性が存在していました。本稿にあっては、このふたりの男性が、それぞれに、かかる周りの女性(たち)とどのような心的な交流をしていたのか、さらには、そうした女性の存在が、男性自身の現実の仕事に何らかの影響を及ぼした形跡はなかったのか、このような論点を取り上げて若干の考察を加え、最後に、このふたりの男性にとって何か共通する内的な価値観のようなものがなかったのかどうか、できればそのことを見定めてみたいと思います。

一.モリスにとってのジョージー、アグレイア、そしてジェニー

ウィリアム・モリスとエドワード・バーン=ジョウンズは、オクスフォードに入学するときに偶然にも知り合い、その後、強いきずなで結ばれて、友情を取り交わしてきました。ほぼ同じ時期にそれぞれ結婚しました。モリスの妻はジェインといい、バーン=ジョウンズの妻はジョージアーナといいました。仲間内では、ジェインはジェイニー、ジョージアーナはジョージーの愛称で呼ばれていました。双方の家族とも、結婚後しばらくは、順調な生活が続いていましたが、一八六〇年代の終わりまでには、双方の家庭に暗雲が立ち込めていました。モリスの妻のジェイニーは、画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのモデルを再開し、愛情を移すようになっていましたし、他方、バーン=ジョウンズは、ギリシャ系の既婚女性であったメアリー・ザンバコに熱中していました。同じ思いをもつモリスは、傷ついたジョージーを慰めるために二五編の自作の詩を自筆した一冊の本をプレセントしました。一八七〇年のことです。『詩の本』と題されたこの彩飾手稿本は、苦しみのなかにあるモリスの心の奥を表現するものでもありました。

その第一編の詩題が「川の両岸」でした。その詩は、こうした言葉ではじまります。

おお冬よ、おお白い冬よ、汝は過ぎ去った
我は、もはや荒野に独り佇むことなく
円弧を描くように、木や石の上を飛び跳ねて、越えてゆく

しかし、すでに結婚しているふたりにとっては、詩の世界はそれとして、現実世界にあっては越えられない「川」が存在していたのでした。

こうしたモリスからの思いに対して、ジョージーがどう応じたのかを明らかにする証拠となるものは残されていません。しかし、モリスとジョージーの友愛は、生涯続きます。その内容は、残されているモリスからジョージーへ宛てて頻繁に出されている幾多の書簡から読み取ることができます。

ジョージーは、モリスの詩やデザインのみならず、政治姿勢に対しても共感していました。一八八八年五月二〇日に、社会主義同盟の第四回年次大会が開催されました。議会制支持派が大勢を占めるブルームズバリ支部の動議が否決されると、議会派は、執行委員選挙への候補者の擁立を拒否しました。モリスは折衷案を示し、和解への努力をしましたが、結局は功を奏すことなく、ブルームズバリ支部の活動は停止させられ、それに従い、独立したブルームズバリ社会主義協会が結成されるに至ったのでした。社会主義同盟自体は存続したものの、この内紛によってエイヴリング夫妻やアレグザーンダ・ドナルドといった知性派の会員を失い、アーニスト・ベルファット・べクスもまた、この年モリスから離れて、社会民主連盟に再加入してゆきました。他方、同盟内で優位を保ったのが無政府主義者の勢力でした。しかしモリスは、彼らが唱える直接的な暴力行為には同意できず、いまやモリスは、三年前に自らが主導して創設した社会主義同盟において孤立の身となったのでした。

社会主義同盟の年次大会からおよそ二箇月が立った、七月二九日、モリスはジョージーに、このような内容の手紙を書いています。

私はまた……理想的な社会主義や共産主義を受け入れることにかかわって、いかなることがいわれようとも、物事は確実にこの国家社会主義に向かって、しかも極めて急速に、進んでいると、いつも感じてきました。しかしここで、議会政治の全く退屈な優柔不断さに身をまかせてしまえば、私は、完全に用なしの人間になります。達成されるべき直近の目標が、そして、活動内容が、つまらない、少しでも国家社会主義に近づくことであれば、実現したところで、それは私にとって、ただのおもしろみを欠いた到達点であり、こうしたことを思うと、すべてが、私を全くうんざりさせてしまうのです

この時期、モリスの政治活動は、身を引き裂くような苦難を抱えており、それを共有し寄り添っていたのがジョージーだったのでした。

この年(一八八八年)の一一月に、一回目のアーツ・アンド・クラフツ展覧会が開催されます。そのとき展覧会の開催に連動して、印刷についてのエマリー・ウォーカーによる講演会が催されました。ウォーカーは、有能なタイポグラファーで、当時、社会主義同盟のハマスミス支部の書記を務めていました。モリスはこの支部の財務を担当し、ふたりの思想的立場は一致していました。この講演会にモリスも出席しました。娘のメイは、この講演が、父親にケルムスコット・プレスを創設するうえでの霊感を与えた、と述べています。それから二年後の一八九〇年にモリスは、社会主義同盟を脱会し、新たにハマスミス社会主義協会を設立し、その翌年の一八九一年に、私家版印刷工房であるケルムスコット・プレスを立ち上げるのでした。ここから、最終的に五三点の豪華本が出版されます。モリスにとっての人生最後の大きな事業でした。この間しばしば研究者や伝記作家は、一八七〇年にジョージーに贈った『詩の本』の製作経験が、ケルムスコット・プレス設立につながったことを指摘しています。もしかしたら、この私家版印刷所の設立自体が、晩年のモリスのジョージーに宛てた最後の贈り物だったのかもしれません。

他方、モリスには、アグレイア・コロニオという女友達が身近にいました。モリスとアグレイアの関係については、バーン=ジョウンズ家の娘婿で、モリスの伝記作家であるジョン・ウィリアム・マッケイルは、「愛情に満ちたもので、生涯続いた」とだけしか述べておらず、「愛情に満ちた関係」が具体的にどうであったのかは、現在のところ、その間にモリスが彼女に宛てて出した手紙の文面から推し量る以外に方法は残されていません。そこで以下に、幾つかの書面のなかの一部を切り取って紹介します。

一八七〇年の四月二五日に書かれたのではないかと推定されている、モリスからアグレイアに宛てた手紙が残されています。

 もしご在宅であれば、火曜日に伺います。そのときあなたに、梳毛の織物を持って行きます。

 ネッドがいうには、あなたは、チョーサーをどう読んだらいいかを知りたがっているとのこと、一巻ポケットに入れて持参します。失礼ながら、あなたを神秘へとお誘いいたします

アグレイアの正式名は、アグレイア・アイオニデス・コロニオといい、モリスと同年の一八三四年に、エドワード・バーン=ジョウンズ(通称ネッド)が当時夢中になっていたメアリー・ザンバコと同じような、ギリシャ系イギリス人の裕福な家庭に生まれました。このときすでに彼女は結婚し、ふたりの子どもをもっていました。アグレイアが生まれ育ったアイオニデス家の一族は、ラファエル前派の擁護者であり、また当時にあっては、モリス・マーシャル・フォークナー商会の支援者でもありました。この手紙が書かれたとき、モリスの妻のジェインは、ラファエル前派の画家のロセッティと、サセックス州のロバーツブリッジの近くのスキャランズという名の田舎町で逢瀬を楽しんでいました。この時期のロセッティの作品に、アグレイアを描いた肖像画がありますので、ジェインもロセッティも、アグレイアとは旧知の間柄だったと思われます。そして、この手紙から四箇月後に、例の『詩の本』がモリスからジョージーに三〇歳の誕生日のお祝いにプレゼントされるのでした。

次は、一八七三年の一月二三日に出されたアグレイア宛てのモリス書簡からの抜粋です。

家庭生活のことでいえば、私たちはクウィーン・スクウェアを引き払いました。書斎と小さな寝室は残してあります。……とても「小さな」家ですが、かわいらしい庭がついていて、ジェイニーと子どもたちにはいいだろうと思っています。……一方私は、会いたい人とは誰とでも、邪魔を気にすることなく全く安心して、いつでもクウィーン・スクウェアで会うことができます。……それに加えて、これまで私はこの家に一度たりとも愛着を感じたことはありませんでした。ここに住んでいるあいだ、私の身に多くのことが起こったのですが、いつも私はこの家の下宿人であると思ってきました。……今年、私にはアイスランドへの航海が必要になるだろうとの思いがしています

このときモリス一家は、住職一体となっていたモリス・マーシャル・フォークナー商会(のちにモリス商会に改組)があったクウィーン・スクウェアを出て、ターナム・グリーン・ロードの〈ホリントン・ハウス〉へ移ります。モリスはこの手紙で、クウィーン・スクウェアの住まいでは、自分は「下宿人」だったことを告白するとともに、「書斎と小さな寝室」は残し、「会いたい人とは誰とでも、邪魔を気にすることなく全く安心して、いつでもクウィーン・スクウェアで会うこと」ができることをアグレイアに告げるのでした。この引っ越しは、モリスのジェインとの部分的別居を意味します。この手紙が書かれたとき、モリス夫婦の関係は、もはや修復が不可能な状態でした。そこでモリスは、アグレイアに対して、「今年、私にはアイスランドへの航海が必要になるだろうという思い」を予告するのです。これは、モリスにとって二度目のアイスランド逃避行を意味しました。

帰国するとモリスは、おそらく九月一四日の日曜日に、ターナム・グリーンの〈ホリントン・ハウス〉の自宅からアグレイアに宛てて手紙を書きました。

ご存じのように、無事に帰っています。とても元気で幸せな気分です。金曜日の朝にグラーントンに上陸し、その日の夜の一〇時半ころに帰宅しました。土曜日の午後にあなたの家を訪ねたのですが、大変残念なことに、あなたは町に出ておられ、お留守でした。……旅は、とても首尾よくいき、アイスランドに対してもっていた印象がさらに強まり、愛着もいっそう深まることになりました。……恐怖と悲劇の国であるも、しかしながら美の国である、その地の栄光なる純朴さが、私のなかに存するすべての愚痴っぽい心根を叩き壊してくれ、妻と子どもたち、そして愛する人、そして友人たちの愛おしいすべての面影が蘇り、前にもましてさらに愛おしくなりました

この文面から、帰国するとすぐにもアグレイアを訪ねていたことがわかります。それにしても、この手紙のなかで触れている「愛する人(love)」とは、一体誰のことでしょうか。伝記作家のフィリップ・ヘンダースンは、それをジョージーであると解釈していますが、同じく伝記作家のフィオナ・マッカーシーは、アグレイア自身のことではないかと、判断しています。果たしてどちらでしょうか。その一文に続けてモリスは、こういっています。「あなたの面影も、これからもずっと、それらの人たちのなかにあってそこから見失わないようにしたいと思います。私があなたにお会いできるとき、お手紙を書いて、そう伝えていただけるよう、希望いたします」。確かにこの一節からは、モリスのアグレイアに対する強い恋心が伝わってくるのですが……。しかし、重要なことは、「愛する人」が誰かということよりも、この手紙を受け取ったアグレイア本人がこの箇所をどう読み、どう反応したか、ということではないでしょうか。しかし、残念ながら、それを実証する資料は残されていないようです。それでも、「愛する人」という一語には、極めて重要な意味が隠されているように思われます。というのも、その言葉は、このときモリスに「愛する人」が存在していたことを明示するからです。裏を返せば、もはや妻のジェインは、モリスにとって「愛する人」ではないということを意味します。

〈ホリントン・ハウス〉に妻子を住まわせ、いままで使っていた自分の書斎と寝室をそのままクウィーン・スクウェアに残し、多くの時間を独り身で過ごすようになった時期の前後から、モリスは頻繁にアグレイアに手紙を出していますし、一方、ジョージーには、『オウマー・カイヤームのルーバイヤート』の彩飾手稿本や一回目のアイスランド旅行の日誌を贈呈しています。これらのことを考え合わせれば、ジェインの〈ホリントン・ハウス〉への転居を境に、その前後の時期に、モリスは、自分が本当に「愛する人」は誰であるのか、その存在を自覚するようになったのではないかと推量されます。

この間持続的に幻覚に襲われていたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは、一八七五年の冬、サセックスの海岸地帯のボグナーの外れにあるオルドウィック・ロッジで事実上の隔離状態にありました。ジェイニーは、娘のメイを連れて、その地に向かいます。そして、《アスタルテ・シリアカ》のモデルを務めるのです。この作品は、縦約一八二センチ、横約一〇六センチの、等身大を超える大作で、古代シリアの神を表象するものでした。ゆったりとした鮮明な緑色のローブを身につけた女神が正面から描かれており、胸元を取り巻く装飾紐に右手が添えられ、左手は、腰に巻き付けられた同種の飾り紐を握っています。その作者は、この作品に対して一編のソネットを用意しました。以下は、その最後の部分です。

すべてを見抜く愛の魔法
魔除け、護符、信託――
太陽と月とのあいだの神秘

この詩片にみられるように、おそらくゲイブリエルは、自分にとっての永遠の女性像をジェイニーに重ね合わせて、この作品を完成させたものと思われます。一方ジェイニーは、この作品のモデルをしながら、彼の病状を和らげるための最後の試みを行なっていたものと推測されます。クリスマスに一度ロンドンにもどると、ふたりの子どもを連れて、再びボグナーへ引き返し、ロセッティと一緒に過ごします。ゲイブリエルとの愛の生活を取り戻すために、ジェイニーはゲイブリエルの体調を何とか回復させようと必死に努力していたものと推量されます。しかし、その努力は徒労に帰し、彼女は自分の無力さに打ちのめされたにちがいありません。最初にゲイブリエルの精神的異常が表面化したのが一八七二年のことでしたので、それから四年が経過していました。一八七六年の春、こうしてジェイニーは、ゲイブリエルとの愛情関係に最終的に終止符を打つことを決意すると、ロンドンの夫のもとへと帰っていったのでした。

のちにジェイニーの新たな恋人となるウィルフリッド・スコーイン・ブラントの一八九二年五月五日の手記によれば、ゲイブリエルを熟愛していたのかという問いに対して、ジェイニーは次のような返答をしたようです。

最初はそうでした。しかし、長くは続きませんでした。彼がクロラールで自ら身を滅ぼしつつあるのに、それを止めるために何もしてあげられないことがわかったとき、私は彼の所に行くのをやめました――それに子どもたちのためにも

やはり、思春期に向けて成長しつつあったふたりの娘の手前、断続的であれ、妻が夫以外の男性と生活をともにすることは、はばかられたのかもしれません。しかし、上記引用のブラントの手記が同じく伝えていますように、ジェイニーにとってゲイブリエルは、「他の男性とは比べようもない人」であったことに変わりはなく、この愛の終焉は、ジェイニーに大きな喪失感をもたらしたものと思われます。しかし、その喪失感がいやされるための時間的猶予が与えられることもなく、すぐさま次の新たな苦しみが、母親であるジェインに、そして父親のモリスに襲いかかったのでした。

一八七六年の夏、一五歳の長女のジェニーにてんかんの発作が起こったのです。これは患者にとっても家族にとっても、過酷な打撃でありました。といいますのも、当時てんかんには治療の方法がなく、発作を防ぐことも、抑制することもできず、患者をひとりにしておくことができなかったからです。その一方で、大きな発作が繰り返し起こることによって、脳は徐々に損傷を受けてゆくのでした。これは、聡明であったジェニーから、学問の楽しみも結婚の幸せもすべてを奪い去ることを意味しました。

のちに、社会主義運動を通じてモリスと知り合うことになるジョージ・バーナード・ショーは、後年の一九四九年に「さらなるモリスのことについて」と題した一文を『オブザーバー』に寄稿し、そのなかで彼は、ジェニーとモリスの関係について、このように書きました。

モリスは、ジェニーが大好きだった。モリスは、同じ部屋でジェニーと一緒に座るときには、決まって彼女の腰に腕を回した。モリスは、ほかの人と話をするときは変わることがなかったが、ジェニーと話をするときには、声の調子が変わった

さらにショーは、ジェニーの病気が自分からの遺伝ではないかとモリスは考え、悲嘆にくれていたことを示唆しています。癇癪玉を爆発させては、静まり返るといったモリスの性質は、周りの多くの人が知るところでした。おそらくモリスは、そうした激しやすい自分の感情表現がジェニーに譲り渡され、てんかんという難病を発症させたものと、自分を責め立てていたにちがいありません。マッケイルがいうように、「彼女に向けられた彼の心配は、文字どおり、彼の人生の残りの最後の最後まで、続いた」のでした。

それでは、モリスがジェニーに示した、優しさに満ちた対応を少しみておきたいと思います。てんかんの発症以来、ジェニーは、母親とともに静養地に滞在したり、悪化した場合は、家族と離れて療養施設に預けられたりするようになります。そうしたなか、モリスからジェニーへの手紙は頻度を増してゆきます。

一八八二年の年が明けるとモリスは、ジェニーを連れて、バーン=ジョウンズ夫妻が前年にロティングディーンに購入した別邸へ行き、そこに滞在しました。この家は、サセックスの海岸近くにあり、ジェニーが体を休めるには、とてもいい場所だったにちがいありません。バーン=ジョウンズ夫妻は不在でした。モリスは、滞在中の一月一〇日に、こうジョージーに手紙を書きました。「着きました。ブライトンへの探索からいま帰って来たところです。……家はとても心地よく……バーミンガムでの講演のことで精を出して仕事をしています」10

ロンドンにもどると、おそらく一月一九日に書かれたのではないかと思われますが、再びジョージーに宛てて、モリスは手紙を出します。

 メイは今朝無事に落手しました。親切に送っていただき、ありがとう。ジェニーの方は、この週ずっととても健康で気分もよく、私も喜んでいます。疑いもなく、そちらでの滞在が彼女を元気にさせたものと思っています。火曜日が彼女の誕生日でした。私の愛するジェニーが二一歳になりました11

この手紙から、父親の娘たちに対する深い愛情が伝わってきます。まさしくモリスは、「第二の母親」を、あるいは「シングル・ファーザー」を演じているのです。

一八八二年の冬から翌年の春にかけて、モリスを除くモリス家の人びとは、ライム・リージスで過ごします。モリスは家族に会うためにそこを訪れ、ロンドンに帰ったあと、ジェニーに宛てて手紙を書きました。おそらく書かれたのは、一八八三年の一月一七日だったにちがいありません。

 無事に帰宅したという私からの知らせの手紙を、みんなとともに待ち受けていると思いますので、私はこうして愛するあなたに書いています。今日はあなたの誕生日です。もう一度、あなたのすべての幸せを祈りたいと思います12

創設者のヘンリー・メイアズ・ハインドマンからの誘いを受けて、発足して二年目の、イギリスにおける最初のマルクス主義の政治団体である民主連盟にモリスが加わったのは、この手紙が書かれたその日のことでした。奇しくもこの日は、愛してやまないジェニーの二二歳を祝う誕生日だったのです。

一八九〇年代へ向かうころのモリスの心労は、長女のジェニーの病気の悪化、次女のメイの恋愛の挫折と次の男性との交際、そして妻の夫以外の男性との情交という家庭内の問題だけでなく、それに加えて、自らが主導する社会主義同盟の活動の破綻、あるいは、新しく印刷事業を興すうえでの準備の多忙さといった仕事上の難局にも起因していたものと思われます。そしてついに、一時期、病床に臥す事態へと発展してゆきました。それは、ケルムスコット・プレスが設立された翌月の一八九一年二月のことでした。マッケイルは、このように書いています。

二月の終わりに向けてモリスは、幾度となく痛風に見舞われ、さらには、ほかの危険な症状にも襲われ、数週間、病の床に就いた。医者の診断によると、かなりひどく腎臓が侵されていた。医者は、モリスにこう告げた。今後あなたはご自身が病人であることを自覚し、体力の消耗を避け、極めて摂生した日常生活を送ることが肝要です13

不幸にも、同じくこの時期、ジェニーの容体も悪化しました。二月二八日のウィルフリッド・スコーイン・ブラントに宛てたジェインの手紙には、こう書かれてあります。ブラントは、ロセッティ亡きあとの、二番目のジェインの愛人で、知り合ったのは、一八八三年のことでしたので、すでに八年に及ぶ関係が続いていました。

私たちは、大変な悲しみに浸っています。かわいそうにジェニーが、脳脊髄膜炎にかかってしまいました。差し当たり危機は脱しましたが、いまだに彼女は重体で、日夜看護婦がふたりついています14

このときのことを、ブラントは、自身の一八九三年五月一八日の日記に、こう書き記しています。

モリス夫人は私に、ジェニーは一年半前に本当に発狂し、自分が父親を殺してしまったと思い込み、窓から身を投げようとした、と語った。狂暴になったジェニーはベッドに縛り付けられなければならなかった15

父親の病状を知ったジェニーが、その原因を自分の病気にあると思い込んだとしても不思議ではありません。ジェニーの発病以来これまでに書かれた幾多のモリスからジェニーへの手紙がはっきりと示していますように、常にモリスの心はジェニーにありました。そこで、このとき逆にモリスは、ジェニーの「発狂」の原因を、自分の体調不良と結び付けたにちがいありません。といいますのも、すでにこのときまでに、モリスとジェニーは、父と娘の揺るぎない深い愛情で結ばれていたものと思われるからです。父の病を心配する娘、一方、娘の病状に心を寄せる父親――。ふたりは、四月に入るとロンドンを離れ、フォウクスタンで療養します。おそらく他人の目には、幸福に満ち溢れた恋人同士のように映ったにちがいありません。しかしモリスは、医者の忠告をよそに、ここでも仕事に夢中になっています。

一度ロンドンにもどったモリスは、再びフォウクスタンへ行き、七月二九日、この地からモリスは、ジョージーに宛てて手紙を書きました。以下は、その書き出しです。

 言葉に出すのも恥ずかしいのですが、思うような体調ではありません。というよりも、むしろ、身を案じるほどのお馬鹿さんになっており、これがいまの私なのです16

同じ日に(つまり一八九一年七月二九日に)モリスは、もうひとりの心を寄せる女友達であるアグレイア・コロニオにも手紙を書いています。そのなかには、ジェニーを連れて、フランスへ行くことが示されていました。

私はジェニーに付き添って長いことここに滞在しています。ジェニーは発病以来、ほとんどここで過ごしています。いまや彼女は、この間に比べるとよくなっているようです――実際に元気にしています。万事がうまくゆけば、次の週の金曜日に、私は彼女を連れて、フランスに行くつもりでいます。これは、医者の指示なのです。……ところで、明日から一週間、ロンドンの町にいます。あなたはいらっしゃらないのではないかと思いますが、もしいらっしゃるようでしたら、来ていただいてお話ができれば、大変うれしく思います17

八月七日の金曜日に、モリスとジェニーは、フランスへ向けて旅立ちました。モリスは、八月八日、最初の訪問地のアブヴィルから妻のジェインに手紙を書きました。

ジェニーがいまメイに書いているので、この手紙は短いものになります。みな元気です。霧雨が降り始めたところですが、これまでとてもいい天気に恵まれました。この地を堪能しました。明日の朝アミアンへ向かうつもりです18

いつもそうなのですが、このときもモリスは、自分から心が離れている妻に対して、実に丁寧な言葉遣いをしています。他方、ジェニーの容体は、メイに手紙を書ける程度には回復しているようです。続く八月一一日には、宿泊したボーヴェのホテルからモリスは、フィリップ・ウェブに手紙を書きます。三三年前の一八五八年の八月に、モリスは、ウェブとチャールズ・フォークナーと一緒にこの地を訪ねていました。そのときは、アミアンの大聖堂の塔の上で、モリスが肩に掛けていたカバンから金貨を落としてしまい、ウェブが足で押さえる一幕がありました。さらには、聖歌隊の席に座って絵を描いていたモリスが、紙の上にインクのボトルを落とすという出来事もありました。「三三年ぶりにここに来ています。きっとそうなると思っていたのですが、それほど感傷的にはなっていません」の語句で書き出されこの手紙には、ジェニーについての記述も読み取ることができます。

私たちは一時間以上も聖職者席にいて、十分に楽しみました。教会を立ち去ろうとしたとき、ジェニーは、そこを離れるのを拒もうとするほどでした。彼女は、うれしがり、体調もよく、そして、幸福感に浸っています19

八月二六日までにはふたりはフランスから帰国しました。モリスとジェニーにとって、この夏休みの旅行は、大いなる気分転換と転地療養の役割を果たしたものと思われます。モリスが亡くなる五年前の、父と娘による愛に満ちた海外旅行でした。

死期が迫った一八九六年九月一日、モリスはジョージーに手紙を書きました。そこには、わずかに一〇文字が並んでいました。「すぐに来てください。いとおしいあなたのお顔を一目見たいです(Come soon. I want a sight of your dear face.)」20。これがモリスにとって自筆の最後の手紙となりました。この手紙から一箇月後の一〇月三日、モリスは旅立ちました。享年六二歳でした。

モリスが亡くなると、ジョージーの義理の息子のマッケイルがモリス伝記の執筆の任に当たります。必要とされる多くの資料を提供したのは、妻のジェイニーではなく、これまでモリスの心に親密に寄り添ってきていたジョージーでした。彼女もまた、夫が亡くなると、一九〇四年に『エドワード・バーン=ジョウンズの思い出』を出版します。明らかにこの本は、「思い出」のもうひとりの主人公がモリスとなっているように、読むことができます。一九二〇年にジョージーは他界します。そのときマッケイルは、『タイムズ』へ寄稿した弔文のなかで、彼女がモリスと意気投合していたことを強調しました。

さらにマッカーシーのモリス伝記の記載内容に従いますと、それに先立って、アグレイアは、娘の死に強い衝撃を受けて、その日のうちに、刺繍用のはさみで腹部とのどを繰り返し突き刺し、ケンジントンの自宅で自死していました。一九〇六年のことです。周りの誰にとっても、心の痛む最期だったにちがいありません21

モリスの妻のジェインは、一九一四年に旅先のバースで帰らぬ人となりました。残されている彼女からブラントへの最後の手紙は、一九一三年五月二三日のもので、その手紙の末尾には、「もし私が秋にロンドンにいれば、お知らせいたします」22と、書かれてありました。

モリス家の長女のジェニーは、母親が亡くなるまでは、一緒に別荘の〈ケルムスコット・マナー〉で過ごしましたが、それ以降は、収容施設に送られ、一九三五年に息を引き取ります。生涯、独身でした。

次女のメイも晩年は〈ケルムスコット・マナー〉で暮らし、『ウィリアム・モリス著作集』(全二四巻)と『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』(全二巻)の編集に多くの情熱を傾け、その後一九三八年に死去します。結婚するも離婚し、子どもはありませんでした。

こうして二〇世紀に入り、モリスにとっての身近な存在であったすべての女性たちが黄泉の客となったのでした。

二.なぜモリスは晩年に豪華本作成に向かったのか――ひとつの推論的考察

見てきましたように、モリスの生涯には、妻のジェインに以外に、心を砕く三人の女性がいました。晩年の死に向かうモリスの脳裏には、何が去来していたでしょうか。ジョージーとアグレイアに対しては寂しくも永遠の別れという自覚があったものと思われますが、ジェニーに対しては、それだけではなく、これからはじまる父のいない彼女の新しい生活に思いを致すにつけ、おそらく胸を引き裂かれるような悲しみと苦しみが襲っていたものと推測されます。

こうしたジェニーへの特別の思いが、ケルムスコット・プレス版の豪華本つまりは高価本の出版となにがしか関係するようなことがなかったのかどうか、少し考えてみたいと思います。

誰の目にも、ケルムスコット・プレスから生み出された一連の書籍は、決して判読性を重視した用に即した日常書ではなく、見る楽しみに重きを置いた飾るための美本のように映ります。こうした過剰な装飾性は、モリスの芸術観から幾分逸脱しているように思われます。まずはこの点から論を進めます。

ケルムスコット・プレスを創設した一八九一年は、モリスにとってさらなる体調悪化を招いた年でもありました。しかし、それ以降も、モリスの政治活動は続いていました。そのひとつの舞台であるモリス家の自宅には、日曜夜に開かれる集会に社会主義者たちが集まってきます。そのなかのひとりにW・B・イェイツがいました。彼の回想するところによりますと、集会のあと夕食をともにしていたとき、モリスは、かつて自分が装飾した住宅に悪口を放ち、次のようにいったようです。

こんな家を私が好むとでも、あなたはお思いでしょうか。どちらかといえば私は、大きな納屋のような家が好きなのです。その家では人は、片隅で食事をし、別の片隅で料理をし、三つ目の隅で眠り、そして、四つ目の隅で友人たちを遇するのです23

このことを裏付けるかのように、フィリップ・ウェブの伝記作家であるW・R・レサビーは、その本のなかで、サー・ロウジアン・ベル邸の内装にかかわって、以下のようなモリスの逸話を紹介しています。

 モリス自身、その家の装飾を描く仕事に加わった。サー・ロウジアン・ベルは、アルフリッド・パウエル氏に、こう語っている。ある日のこと、モリスが、興奮した様子で言葉を発し、歩き回っているので、訪ねるために近寄ってゆき、何かうまくゆかないことでもあるのか、と聞いてみた。「彼は、狂った獣のように、私に襲いかかってきた――『ただ自分は、金持ちの豚のように下品な贅沢のために人生を投げ出しているだけなのさ』」24

ここで思い出されてよいのは、一八七一年のアイスランド旅行中にモリス一行が立ち寄った一軒の民家についてです。グラーントンの港からダイアナ号が出航して二日後の朝、フェロー諸島が見えてきました。朝食のあと下船すると、モリスへのアイスランド文学の教授者である、同行していたエイリーカ・マーグヌースソンが知り合いの店に案内し、それからその店主の家に行きました。この家について、モリスは日記に、こう書いているのです。

私たちは……とても親切な奥さんによって、実にかわいらしい木造の家に迎え入れられました。船の船室にとてもよく似ていました。……清潔感にあふれ、白のペンキで塗られており、(室内の)居間の壁は一面、大きな植木鉢から伸びるバラとツタで覆われていました25

おそらくモリスにとっての愛すべき家は、こうした装飾のない素朴な造作の家だったにちがいありません。

こうした過去の幾つかの事例からいえることは、モリスが理想とする芸術は、どちらかといえば機能的で、余分なものが加えられていない清潔なデザインでした。同時に、少数の金持ちの贅沢のためにではなく、普通の民衆の暮らしのために存在する芸術でした。それでは、書物についてはどうだったのでしょうか。「ケルムスコット・プレスの設立目的に関するウィリアム・モリスの覚え書き」という一文があります。モリス本人によって、自宅の〈ケルムスコット・ハウス〉において、死去する前年(一八九五年)の一一月一一日に書かれたものです。それは、このような一文から、書き出されています。

私は、明らかに美を要求する何かを生み出す希望をもって、本の印刷をはじめました。その一方で、同時に本は、読みやすくあるべきであり、人の目をくらませるようなものであっても、あるいは、珍奇な形の文字によって読み手の知性を邪魔するようなものであってもならないのです。これまで私は常に、中世のカリグラフィーと、それに取って代わった初期の印刷術とを大いに称讃してきました。一五世紀の書物に関しまして、この間私が注視してきたのは、それらは永遠に美しさを失っていないということでした。それは、ひたすらタイポグラフィー自身の力によるものでありました。多くの本にあっては潤沢な装飾で満たされていますが、そうしたものは必ずしも付け加えられる必要はないのです。そしてこれが、本を生み出すうえで私が理解していた本質部分でしたし、それによって本は、印刷の作品となり活字の配列となって見る楽しみを与えるものになるのです。この視点に立って私の冒険に目を向けてみたとき、私は、主として以下の諸点に配慮しなければならないことに気づきました。それらは、紙、活字の形、文字間の相関的な空き、単語と行、そして最後が、頁上の印刷要素の位置関係だったのでした26

ここでモリスは、中世のカリグラフィーと一五世紀のタイポグラフィーを称賛しています。そして、それを現代的に復興することが、モリスにとってのケルムスコット・プレス設立の目的であったわけです。他方でモリスは、「本は、読みやすくあるべき」ことにも、意を向けています。それでは、なぜ、過去の書籍形式の復興とはいえ、現代人にとって決して読みやすいとはいえない本づくりになったのでしょうか。しかも、ケルムスコット・プレス版の書籍は、いずれも少部数で高価でした。たとえば、四〇番目に刊行された書籍で、八七点のバーン=ジョウンズの木版によるイラストレイションをもつ『ジェフリー・チョーサー作品集』の場合は、四二五部が紙に印刷されて二〇ポンドで販売され、一三部がヴェラムに印刷されて一二〇ギニーで売られました。

この価格は、いまの通貨に換算して、いくらくらいだったのでしょうか。一八八五年二月に刊行された月刊機関紙『コモンウィール』の創刊号(第二版)の題字右下には、「一ペニー」の文字が印刷されています。どの判型で、何頁で構成され、何部印刷されていたのか、その正確な規格はわかりませんが、こうした月刊紙が、いま日本で発刊されるとしたら、どれくらいの販売価格がつけられるだろうかと考えた場合、仮にそれを、二〇〇円としてみます。そして、便宜上現在の貨幣単位を用いて一〇〇ペニーをもって一ポンドと仮定します。すると、一ペニーが二〇〇円、一ポンドが二万円になります。それをもとに換算しますと、『ジェフリー・チョーサー作品集』の紙印刷版の二〇ポンドという価格は、現在の日本円にしておよそ四〇万円になるのです。そしてそれは、四二五部が完売すれば、総額一億七千万円の売り上げになることを意味するのでした。

定価二〇ポンド(現在の日本円換算で約四〇万円)では、『ジェフリー・チョーサー作品集』は、一部の知的富裕層の書棚に眠る単なる美的資産になるほかありません。明らかに、モリスの理想とする芸術の形式から逸脱しているのです。なぜ理想と現実のあいだに、かくも大きな矛盾が生じたのでしょうか。何か特別な要因がそうさせているとしか考えようがありません。おそらくそこに介在していたのは、完治する見込みのない重い病を患っている長女ジェニーの将来を憂慮する父親の切実な内的苦しみだったのではないでしょうか。

モリスの家系は、母方は長命でしたが、父方は短命でした。モリスの母親が死去したのは、モリスが亡くなる二年前の一八九四年でした。しかし、一方の父親は、一八四七年に五〇歳の若さで早くも亡くなっています。こうしたことから、モリスは、自分の生涯が、父親に似て、比較的短いものになることを意識していたものと思われます。そうであれば、自分の死後、長い期間生きることになる娘のために、まとまった資産を残すことをモリスがこの時期に真剣に考えていたとしても、とくに不思議ではありません。ケルムスコット・プレスの設立と、モリスの体調悪化の時期が重なるのも、見過ごすことはできません。

それから五年後、モリスが実際に亡くなると、残された遺言の内容に沿って、さっそく遺産や遺品の整理がなされました。そのための管財人に、F・S・エリス、シドニー・コカラル、エマリー・ウォーカーの三名が任命されました。エリスは、長年にわたるモリスの本の出版人でした。コカラルは、モリスが亡くなる二年前にケルムスコット・プレスの秘書に任命されていました。ウォーカーは、社会主義同盟のハマスミス支部における同志であり、古建築物保護協会のメンバーでもありました。管財人のもと、モリスが所有していた高額な写本のコレクションやモリス商会の株が売却され、借家であった〈ケルムスコット・ハウス〉も、今後の出費を抑えるためにただちに解約されました。こうして、評価額五五、〇〇〇ポンドの遺産が、モリスの遺言どおりに、信託のかたちで妻と娘たちに残されました。ジェインは年間一、〇〇〇ポンドを、そしてメイは、母親が死去するまで、年間二五〇ポンドを受け取り、ジェインの死後は、母親に支給されていた分をジェニーとメイで相続する取り決めがなされたようです。

モリスにとっての最大の関心は、遺された妻と娘たちの生活、とりわけ、病に侵されていたジェニーの将来の生活に向けられていたにちがいありません。一般的に考えて、母親のジェインよりも娘のジェニーの方が長生きします。そうしたこともあって、孤独のうちに生きる娘の生活の最後の最後までを間違いなく確実に保障するために、遺族自身が遺された財産の管理を行なうのではなく、管財人の手によって遺産が管理される道をモリスは選んだものと思われます。

三.富本にとっての石田寿枝

富本憲吉と尾竹一枝は、一九一四(大正三)年の一〇月二七日に、日比谷の大神宮神殿で白滝幾之助夫妻を仲人として結婚式を挙げました。そのとき憲吉は二八歳、一枝は二一歳でした。

憲吉は、一八八六(明治一九)年に大和の安堵村の旧家に生まれ、東京美術学校で図案(現在の用語法に従えばデザイン)を学び、ウィリアム・モリスの思想と実践に魅了され、卒業を待たずして英国に渡ります。その地で親しく交わったのが、画家の白滝幾之介と南薫造でした。帰国すると憲吉は、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』27を参照しながら「ウイリアム・モリスの話」を執筆し、擱筆後それは、一九一二(明治四五)年の『美術新報』第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)に分載されます。これが、憲吉にとっての帰朝報告であり、工芸家モリスを紹介する日本における最初の評伝となりました。続けて二年後の一九一四(大正三)年九月、今度は、東京竹川町にある美術店田中屋において「富本憲吉氏圖案事務所」を開設します。『卓上』(第三号)に掲載された広告には、この事務所の営業品目として、「印刷物(書籍装釘、廣告圖案等)、室内装飾(壁紙、家具圖案等)、陶器、染織、刺繍、金工、木工、漆器、舞臺設計、其他各種圖案」が挙げられていました。ここに、一九世紀英国に設立されたモリス・マーシャル・フォークナー商会(のちのモリス商会)に範をとった、日本における最初のデザイン事務所が誕生するのです。

一方の一枝は、一八九三(明治二六)年に富山市の越前町にて出生します。日本画家の尾竹越堂(本名は熊太郎)が父親でした。しかし、六年後の一八九九(明治三二)年の富山市を襲った大火事により、両親と別れ祖父母に連れられて一度は東京に出るも、その後一枝は、両親とともに大阪の地で暮らすようになります。夕陽丘高等女学校を卒業すると、絵の勉強のために上京し、越堂の弟で、同じく日本画家の尾竹竹坡(本名は染吉)のもとに身を寄せます。一九一一(明治四四)年の秋のある日ことでした。表庭の掃除をしていたら、郵便配達人から叔母宛ての一通の封書を受け取るのです。叔母と一緒に封を切ると、平塚らいてうが創刊した『青鞜』の発刊の辞と青鞜社の規約が同封されていました。のちに一枝は、このときのことを、「私にとつては天地振動そのものであつた」28と語っています。年が明けた翌年(一九一二年)のはじめに、念願かなって一枝は、青鞜の社員になります。しかしそこで、幾つかの波紋を引き起こすのです。「メゾン鴻の巣」で飲んだ「五色の酒」、らいてうらを誘っての「吉原登楼」――いずれもが、当時の女性の規範を越えるものでした。青鞜時代の一枝は、紅吉 こうきち を自称していました。こうして、紅吉の起こした波紋は青鞜社全体に及び、「新しい女」とも、さらに揶揄して「新しがる女」とも世間で呼ばれるようになり、また一方で、当時らいてうとのあいだで進行していた「同性の恋」が破綻したこともあって、結果的に、約一年の所属を経て、紅吉は青鞜社から離れることになるのでした。

南薫造は、一九一二(明治四五)年の一月号(第三巻第一号)の『白樺』に、「私信徃復」と題して、当時富本憲吉と交わしていた双方の手紙を寄稿しました。それを見た一枝は、高い理想を抱きながらも現実に苦悩する若き美術家に一度会ってみようと思ったのでしょう。一枝がはじめて大和の憲吉宅を訪れたのは、このときのことでした。それから一年が過ぎ、青鞜を退社した一枝は、一九一三(大正二)年三月に、雑誌『番紅花 さふらん 』を創刊します。その雑誌の表紙絵や裏絵を提供したのが憲吉です。こうして、ふたりの情感は深まり、結婚へと向かうのでした。

一枝自身は、一九一三(大正二)年一月号の『新潮』のなかで、「舊い新しいの意味が、昔の女と今の女と云ふのなれば、私は昔の女が好きで且つそれを尊敬し、自分も昔の多くの傑れた女の樣になりたいと思つて居ます」29と、述べています。このように、決して一枝は「新しい女」などではなく、どちらかといえば、旧い伝統的な価値を身にまとった女性でした。そしてまた、結婚に際して『淑女畫報』(一九一四年一二月)に掲載された暴露記事のタイトルが、「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」というものでした。この記事のなかでさらに注目されてよいのが、「紅吉女史は女か男か」という見出し語に続けて、紅吉のセクシュアリティーに関して詳述されていたことでした。そのことが原因であった可能性もありますが、ふたりは東京での新婚生活を早々に切り上げると、翌一九一五(大正四)年の春に安堵村に帰還し、憲吉はこの地に窯を築き、作陶の道へ入ってゆくのです。ここでの田舎暮らしは、どのような生活だったのでしょうか。

一枝は、一九一七(大正六)年一月号の『婦人公論』に寄稿した「結婚する前と結婚してから」のなかで、次のように告白しています。憲吉と一枝には、近代精神の体得という観点から見れば、年齢的な差もあり、体験、知識、語学力のどの面においても、おそらくいまだ大きな開きがあったものと思われます。

 彼と私は、思想に於いてまだまだ ひど く掛け離れてゐる。……私の心は悩む、そして度々考へた。単純な自然的な正直な生活を營むには、未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ。それがどんなに彼を寂しく悲しくするか知れない30

ここで一枝は、「未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ」といっていますが、これは、体の性と心の性がどうしても一致しないことに由来する違和感や、それに伴う自責の念といった心的状況についてであろうと思われます。さらに一枝は、「夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる」31とも書いています。憲吉が、一枝を「指導してゐる」のは、ひとつには、当時普通とはみなされていなかった妻のセクシュアリティーの克服にかかわる問題に関してであり、いまひとつには、良妻賢母の思想にみられるような旧弊な女性観からの解放にかかわる問題に関してであったに相違ありません。これらの問題、わけても、一枝のセクシュアリティーにかかわる問題は、この夫婦の大きな重荷となって、その後のふたりの人生に暗い影を生じさせてゆくことになるのでした。

一九二六(大正一五)年の秋、富本一家は、安堵村を出て、東京の千歳村に移り、そこで憲吉は築窯します。その移転の背後には、妻の性的自認と性的指向の問題が作用していました。東京に居を転じても、一枝の女へ向ける関心は変わることなく続きます。資料に残っている名前を列挙するだけでも、それなりの数になります――深尾須磨子、軽部清子、横田文子、そして大谷藤子。その間、憲吉は、作品の実績が世に認められるようになり、必ずしも本意ではありませんでしたが、帝国芸術院の会員に推挙される一方で、東京美術学校の教授にも就任します。

一九四五(昭和二〇)年四月、米軍、沖縄本土に上陸。八月、広島と長崎に原爆投下。そしてポツダム宣言を受諾し、日本は敗戦します。八月一五日、終戦のこの日を、当時美術学校の教授をしていた憲吉は、疎開で出張していた岐阜県の飛騨高山で迎えました。一枝と三人の子どもたち(陽、陶、壮吉)は、大谷藤子の実家のある埼玉県の秩父で――。憲吉五九歳、一枝五二歳の暑い夏の日でした。

戦争が終わりました。憲吉と一枝の、戦争にも似た関係も、そのとき終わりました。寒冷地における焼き物の試作のために残留していた飛騨高山から、一九四六(昭和二一)年の一月に祖師谷にもどると、六月には家を出て、単身憲吉は、安堵村へ帰ってゆきました。のちに憲吉は、『日本経済新聞』に掲載された「私の履歴書」のなかで、こう綴っています。

私にしてみれば、二十年間の東京生活の間に、船腹の貝殻のようにまといついたすべての社会的覊絆や生活のしみを、敗戦を契機に一挙に洗い落としてしまいたかったのである。すでに郷里の大和へ一人で引き揚げる覚悟もついていた。私は陶淵明の帰去来の辞の詩文を胸中ひそかに口ずさみながら大和へ発った。……あれもこれも投げ捨てて、とにかく裸一貫で私は大和へ帰った32

このとき憲吉は、帝国芸術院にも東京美術学校にも、辞表を提出しています。おそらく間接的であれ戦争遂行の一端を担ったことへの自責が、そうした判断をさせたものと推量されます。他方、それではなぜ、憲吉は家を出る必要があったのでしょうか。一九六九(昭和四四)年九月の『婦人公論』(第五四巻第九号)に掲載された、女性史研究家の井手文子による「華麗なる余白・富本一枝の生涯」のなかに、以下のようなことが書かれてあります。

 なぜ、憲吉は一枝のもとを去ったのであろう。その別離の理由を水沢澄夫はある日彼から聞いた。長くためらったのち、憲吉は「あの人はレスビアンだった」と言ったという33

これが事実であるとするならば、憲吉は、結婚以来の一枝のセクシュアリティーにかかわる問題に、もはや耐えかねて家を出たことになります。しかし、本当に一枝は「レスビアンだった」のでしょうか。確かにこの間、一枝の性的指向は女へ向かいました。しかし、性自認は、「男」だった可能性もあります。性別表現のなかの服装に着目すれば、一枝は生涯和装で過ごし、とくに独身時代は、男性と見まがうようなマントや袴を着用し、その後も好んで、男物と思われる帯や下駄を使用しました。雅号については、どうでしょうか。青鞜時代の一枝は、「紅吉」の二文字を使いました。後年一枝は、「あれはやはり私の小さい時から持っているその気分から出たものです」34と語っています。「紅」が女を、「吉」が男を表象しているとすれば、身体の性が女で、心の性が男であることを、無意識のうちに、あるいは意識的に、言い表わしていたのかもしれません。もしそうであれば、一枝は、「レスビアン」ではなく、FTM (female to male) の「トランスジェンダー」であったことになります。もっとも本人は、生涯にわたって「カミング・アウト」することはありませんでした。憲吉が敗戦を機に自ら家を出て、心機一転、新たな生活をはじめた背景には、こうした夫婦間の深刻な問題が作用していたものと考えられます。

大和に帰った憲吉は、そこから毎日京都に通い、友人の窯を使わせてもらって仕事をしますが、時間の浪費と身体の疲労は隠すことができず、ついに京都に定住することになります。そしてそこで出会ったのが、石田寿枝という女性だったのです。

一九四九(昭和二四)年一〇月二五日の『毎日新聞(大阪)』に目を向けてみます。そこには、「秋深む温泉郷 女弟子と精進の絵筆 夫人と別居の陶匠富本憲吉氏」という見出しをつけて、憲吉が石田寿枝とともに奥津温泉に遊ぶ様子が報じられています。長文の記事ですので、その一部分を切り取って、以下に引用してみます。一〇月五日ころから滞在し、街を散策するふたりの姿が、いつしか人のうわさになりはじめました。記者が、滞在先の河鹿園を訪ねます。記事は、次の一節からはじまります。

吉井川上流の温泉郷“奥大津”のホテル、河鹿園の奥まつた二階の一室に絵皿をならべてしきりに絵筆を運ぶ老陶匠とそのかたわらで毛糸の編物をしながら食事から一切の身のまわりの世話をしているその女弟子との厳しい師弟の規律の中にも和やかな愛情あるひたむきな生活が去る五日ごろからはじまった。……時折りこの奥津村(岡山県苫田郡)の湯の街に散策の歩を運ぶ二人の姿はいつしか人のうわさを生みはじめた。……一昨年夏以来、東京世田谷区祖師谷二丁目の自宅から姿を消し夫人一枝さん(五六)とは別居して京都の清水寺近くの五条坂の陶工松風栄一氏の一室を借りうけた富本憲吉氏は近く出版する「富本憲吉作品集」の原稿執筆のためとはいえ、ひよつこりこの河鹿園に女弟子とともに姿をみせたのだつた35

記事のなかには、憲吉が記者に語った談話の内容が、次のように引用されています。

石田君は郷里が島根県なので帰り道に一寸寄つてもらい仕事の手助けを頼んだのがつい長くなつてしまつた。妻とは性格が合わぬので別居したが戸籍はまだ切れていない。東京の祖師谷で“山の木書店”というのを経営しているらしいが生活は相当苦しいと聞いている。石田君とは仕事の上だけのつながりであるが私が石田君と奥津に来ていることがわかれば世間は決してそうは思わぬだろう。二、三年のうちにははっきりしたいと考えている36

島根県の出身の石田とは帰省の帰り道にここで合流し、仕事の手助けをしてもらいながら、長期の滞在になったようです。「先生」「石田君」と互いを呼び、かいがいしく世話をする夕食の際の石田の振る舞いを織り込みながら、さらに記事は続き、石田の経歴が、こう記述されています。

東京の女子美術を中退。当時官吏であつた父と一緒に朝鮮の京城に渡り戦後引揚げて来た石田さんは在籍中からずつと絵画の創作を続けていたという。いまでは父母とも他界し三高を卒業して大学受験準備中の弟さんと京都で一緒に暮しながら現在富本氏が仮寓している松風氏の元で陶芸の勉強をしているそうだ……石田さんは名を寿枝といい年は三十三、京都左京区川端丸太町に住む人で昭和二十三年、富本氏が京都松風陶歯会社内に窯を築いたとき、松風工業研究所で輸出陶器の研究を続けていた石田さんは助手になり、同年十二月松風工業を退いて富本氏の身のまわりの世話などをするにいたつたもの、一方、一枝夫人は平塚雷鳥女史の青鞜社に尾竹紅吉のペンネームで活躍した女性解放運動の先駆者である37

ある意味でこの記事は、憲吉にとって都合のよいものであったかもしれません。といいますのも、著名既婚男性が若い女性と温泉地に長期滞在していれば、仕事上のつながりといえども、「世間は決してそうは思わぬ」わけであり、石田との関係をいつ、どのような方法で世間に公表するかを、この滞在に至るまでのあいだに、憲吉は思案していたとも考えられるからです。翌春には、京都市立美術大学における教授採用の発令も待っていました。そうした観点に立てば、この記事は、率直に記者の質問に応じていることなどから判断して、必ずしも不意を突かれた暴露記事ではなく、因果を含めて懇意の記者に書かせたものだったのではないのかという推量も生まれてきます。さらに推量を進めれば、この新聞記事には、郷里での報告をすませ、これから実質的な結婚生活(内縁関係)をはじめるにあたっての世間へのお披露目の意味が暗に含まれていたのかもしれませんし、両人にとってみれば、この奥津温泉での長期滞在は、事実上の新婚旅行を意味するものだったのではないかとも考えられます。もはや両親を亡くしていた石田の孤独感と、すでに家庭生活を放棄していた憲吉の寂寥感とが、どこかで相通じ、ふたりのあいだに共感と同情が生まれていたことも否定することはできません。そしてまた、三〇歳ほどの年齢の差を考えるとき、対等な男女の愛というよりはむしろ、父親と娘にみられる親子の愛に近いものが、このときまでに両者間に形成されていた可能性も、十分に残されます。いずれにしましてもこの記事は、世間的に名が知られた陶匠の新しい私生活へ向けての公的な宣言であることはいうまでもありませんが、それだけではなく、意識的に石田に光をあてさせることによって、俗にいう「日陰の女」の身になることを避けようとする憲吉の何らかの配慮が作用して生まれたのではないかという推量もまた決して排除できないのです。

以上がこの記事の本文であり、そのあとに、「別れようと思わぬ」という小見出しをつけて、次のような一枝の談話が続きます。

ことしの三月ころ松風さんから主人が助手の女の方と結婚する意志があるらしいと聞きましたが信用しませんでした。私は別れようとは夢にも考えたことはありません。朝夕、富本の作品を眺めて暮しておりますが、富本の心の奥には私があることと確信しています。富本の幸福のためによく話合つて見ましよう38

本文記事のなかの「二、三年のうちにははっきりしたい」という憲吉の言葉は、今後離婚にかかわる協議に決着をつけ、正式に籍を入れて、石田と結婚したいという意味のことを示唆しているものと思われます。ところが一枝は、「私は別れようとは夢にも考えたことはありません」という明確な意思表示をします。結局は、富本は離婚をすることができず、その後寿枝は、内縁の妻として、憲吉が死亡するまで添い遂げることになります。「秋深む温泉郷 女弟子と精進の絵筆 夫人と別居の陶匠富本憲吉氏」という見出しの記事が『毎日新聞(大阪)』に掲載されてから一三年後、「京都市東山区山科御陵檀ノ後七ノ三」にふたりにとっての新しい住まいが完成し、狭い借家を出て、そこへ移ります。しかし、富本がこの新居で暮らすのは、一年ほどの実に短いものでした。翌一九六三(昭和三八)年六月八日、七七歳の誕生日の三日後、富本は帰らぬ人となるのです。憲吉と寿枝の事実上の夫婦生活は、こうして短期のうちに終焉したのでした。

四.なぜ富本は晩年に色絵金銀彩に向かったのか――ひとつの推論的考察

富本の陶器を特徴づける作風は、大きく、大和時代の染付けと白磁、東京時代の色絵、そして京都時代の色絵金銀彩に分けることができます。これを見る限り、陶技の進化を示しているように思われますし、そこに、陶工として歩むべくして歩んだ必然的な道程を見出すことも可能です。しかし、富本憲吉が書き残している芸術観に照らして考えるならば、きらびやかな色絵金銀彩は、本当に陶芸家としての純粋な芸術的意思によって、ただそれだけで生み出されたのか、少々疑問に思われないでもありません。もしそうした疑問に妥当性があるならば、京都時代に富本が向かった色絵金銀彩には、別の要因があったことに、つまり考えられるに、この時期石田寿枝という新しい内助者の出現があったことに着目しなければならないことになります。以下に、そのことにかかわって若干検討したいと思います。  最初に取り上げたいのは、富本の陶工としての初心が、「高い倫理性」にあったということについてです。これに関しましては、安堵村で作陶に入ったころの一枝と憲吉の以下の言説が如実に裏付けます。

一九一七(大正六)年の『美術』四月号に目を向けますと、そこには「富本憲吉君の藝術」と題した特集が組まれ、七人の執筆者によって憲吉の人物評や作品評が掲載されています。この特集「富本憲吉君の藝術」には、さらにもう一編、妻である一枝の「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」も、あわせて掲載されていました。そのなかで一枝は、夫の正直で悲壮なまでの日々の工場 こうば での奮闘ぶりを紹介する一方で、憲吉をこう讃美するのでした。

 模樣について、製陶について、今日の彼を導いたものは、矢張り細心の研究であつた。……恰度良心と思想が一致であらねばならなぬ如に、彼の藝術は良心と仕事が常に一致して働いている。……彼は、彼の模様が、未だに人々に理解されず、少しの注意も拂つてゐない今の世に對して決していゝ感情をもつてゐない。……惡辣な手段を常使してゐる者と、正直な方法で仕事をしてゐるものとが、何故もつとはつきり區別されぬだろう。どうして彼の模樣がもつとよく人々等に解つてくれぬか。……總てこんな事が彼に孤獨の感じを起させてゆく、彼の道は寂しい、しかも、苦しい。けれど、それは總ての「先驅者」の運命ではなかつたろうか。いきほい彼は、沈黙で心の感激を抑えてゐる。……これからさき、いつか、彼の模樣によつて……豊富に生産されてくるなら、彼は最も喜ばしい慰藉をそこに得る事が出來やう。けれ共、不幸にして、そんな時期は、まだまだめぐつて來まい。……何故、正直な方法によつて勝つことがこんなに困難なのか、私は眞當に考へずにはおれなくなる39

一枝は、憲吉の芸術に「良心と仕事」の一致、つまり、仕事における彼の倫理観の高さを見ているのです。そして同時に、「これからさき、いつか、彼の模樣によつて……豊富に生産されてくるなら、彼は最も喜ばしい慰藉をそこに得る事が出來やう」と、量産へ向けての将来の展望も記すのでした。この時期一枝は、憲吉の最大かつ最良の理解者でありました。そして、この一枝のエッセイのあとの次の頁に、実は憲吉の「工房より」が続きます。そのなかで憲吉は、自分の念願をこう書きつけるのでした。

 大仕掛に安いものを澤山造るには可なりの資金が必要であります、私は今その資金を何うすれば良いか、せめて陶器だけでも何うにかして見たいと思ひますが私の貧しい財産では一寸出來兼ねます。若し私の望みが少しでも達せられて安い陶器で私の考案模樣になつたものが澤山市場に現はれて今ある俗極まる普通陶器と値でも質でゞも戰つて行ける日があるならば大變に面白いと思ひます。私は今、日夜その事を思ひつゞけます40

「大仕掛に安いものを澤山造るには」、当然のこととして、空間、設備、材料、工人などの問題が控えます。今後資金の問題を何とか克服して、自分の模様になる美しくも安価な陶器を普通の人びとの生活のために量産したい――これが本窯を安堵の地に築くにあたっての憲吉の望みであり、目標でもあったのでした。

次に取り上げたいのは、この間富本が追及していた「量産陶器」の試みについてです。東京へ移転すると、一九二七(昭和二)年の八月に新しい窯を設けます。しかし、冬の寒さで陶土が凍り仕事ができないことがわかり、冬場は、地方の窯元で過ごすことになります。憲吉がはじめて地方の窯に出かけたのは、一九二九(昭和四)年のことで、場所は信楽でした。後年、このときのことを振り返って、憲吉は、こう書いています。

 私は若い時分、英国の社会思想家であり工芸デザイナーであるウイリアム・モリスの書いたものを読み、一点制作のりっぱな工芸品を作っても、それは純正美術に近いものだ。応用美術とか工業美術とかいうのなら、もっと安価な複製を作って、これを大衆の間に普及しなければならない、という考えを深く胸にきざみつけていた。信楽にいったときは、その考えを実行に移したもので、このときの大皿は絵だけを私が描いたものだから、安く売ることができた。ロクロから仕上げまで、一貫して自分で作る陶芸と、ロクロは職人まかせにして、絵付けだけをやる場合とでは、そこにハッキリした区別をおき、後者にはあまり高い値段を付けてはならないというのが私の終始一貫した信条である41

人びとの生活における物質的平等性を担保しようとすれば、どうしても一定の量を確保しなければならないし、同時に、安価でなければなりません。これが富本の一貫した念願であり、いままさしくここ信楽において、安くて美しい量産陶器の試作に挑んでいるのです。富本にとっての「高い倫理性」と「量産陶器」は、疑いもなく表裏をなすものでありました。

三番目に取り上げたいのが、富本が最も愛したのは、いっさいの装飾を排した「白磁」であったということに関する本人の言説です。以下は、後年憲吉が回顧する、東京時代の作陶風景です。

轆轤で形をつくります。そうして出来上がった二、三〇個の皿や鉢や壺を戸外の干し台の上に一列にならべます。

そのうちから最も形の整った約三分の一を白磁に選ぶ。次の三分の一を彫線や染め付けに用いる。最後の三分の一を色絵の素地とする42

その理由は、「染め付けや色絵は、いわばほかに見どころがあり、形の欠点を補うことができるが、白磁の形は、いっさいゴマカシのきかない純一のものでなければならないと考えている」43からです。憲吉は、白磁の美しさを、人間の裸体の美しさになぞらえます。次は、自著の『製陶餘録』(一九四〇年刊)からの引用です。

 模様や色で飾られた衣服を脱ぎすて、裸形になつた人體の美しさは人皆知る處であらう。恰度白磁の壺は飾りである模樣を取り去り、多くの粉飾をのぞきとつた最も簡單な、人で言へば裸形でその美しさを示すものと言へよう。……私は白磁の壺を最も好んでいる44

このように、いっさいの模様や彩色を排除した、純粋な形態の美しさだけで成り立つ白磁に、富本は心を奪われます。白磁同様に、全く無駄のない美しさをもったものが、確かに富本の少年時代にありました。それは時計という機械でした。

 私は時計の裏をひらき機械を見ることを一つの楽しみとしてゐる。今はあまりやらないが、少年時代にはこのことに熱中したあまりに時計師にならうと本氣に考へたものだ。……私が少年であった時代には勿論、飛行機も自動車の玩具もなく、手に持つていじることの出來たものと言えへば、この時計だけであつた。……もし私の現在が少年期であつたなら、私は自動車のエンヂンを楽しみ、その美しさに心をうばはれてゐよう45

すべての造形美術が、時計や飛行機や自動車のような機械のもつ美しさに倣うとするならば、美というものは、装飾という美術的要素に由来するのではなく、その形態に必要不可欠な構造という工学的要素から発生することになります。富本は、こう明言します。

 今私は、建築及び工藝を通じて、必要缺くべからざる構造が必然的に美をうむと言う理論の根本的な問題に達した。すくなくとも装飾は第四第五次的のものであつて、殆んどすべての既成造型美術に對して感興をひかなくなつてゐることは本當である46

富本ははっきりと、こうも言い切るのです。「装飾の遠慮と云う語が建築にあるが、装飾の切り捨てを私は要求する」47。それでは、美と用途の関係については、どう考えているのでしょうか。それについて富本は、「陶器に詩はない、然し實用がある。美も用途という母體によつて生み出された美でない限りは皆嘘の皮の皮といふ感がする。用途第一義」48を唱えます。明らかに、機能主義に立っているのです。

以上に見てきた幾つかの言説は、まさにモダニズムの論理であり、富本がこの時期、完全なるモダニストのデザイナーであったことを明らかに例証するものでした。

最後に四番目として、京都市立美術大学の教授就任後に執筆された「わが陶器造り」のなかで主張する「公衆の日常用陶器」の改善について触れてみたいと思います。「わが陶器造り」を読み進めますと、富本がこう語る箇所が目に入ります。

美術家にいたっては食器のような安価品は自分ら上等な美術品を焼くものには別個の問題としているようにみえる。しかし公衆の日常用陶器が少しでもよくなり、少なくとも堕落の一途をたどりゆくのを問題外としておいてそれでいいのだろうか。私は大いに責任を感じる。一品の高価品を焼いて国宝生まれたりと宣伝するよりは数万の日常品が少しでもその標準を上げることに力を尽す人のいないのは実に不思議といわねばならない49

一九五五(昭和三〇)年に開催された「作陶四十五年記念展」において白眉の陳列品となったのが、《色絵金銀彩四弁花文八角飾箱》でした。まさしく富本のいう、国宝のごとき「一品の高価品」であろうといえます。そうであるならば、この作品は、安価な「公衆の日常用陶器」とは、どうしても相容れません。「わが陶器造り」のなかでの主張を越えて、そしてまた、これまでの白磁や染付け、あるいは色絵を越えて、なぜこの時期、富本は、高価で装飾性に富む「色絵金銀彩」へと向かったのでしょうか。以下に、そうした設問を念頭に置きながら、石田寿枝との出会いが要因となっていたのではないかという思いの立証にかかわって、少し考察をまとめてみたいと思います。

「色絵金銀彩」へと向かった事情を、富本は、こう語っています。

世間が落ち着くにつれ、私の生活もだんだん改善された。そして小さいながらも市中[上京区新烏丸頭町]に一軒を構えることができるようになった。生活にゆとりができるにしたがい、陶芸の仕事も知らず知らず手のこんだものに移ってきた。大正時代、大和にいるころから、しばしば手掛けたことのある色絵金銀彩も戦後七、八年して、ようやく本格的に取り組むことができるようになった50

富本は、「生活にゆとりができるにしたがい、陶芸の仕事も知らず知らず手のこんだものに移ってきた」といっています。しかし、この言葉には、「内助者としての石田寿枝との出会いがあったことにより」といった、暗に省略されていると思われる文言を頭に挿入し、「内助者としての石田寿枝との出会いがあったことにより生活にゆとりができるにしたがい、陶芸の仕事も知らず知らず手のこんだものに移ってきた」と読むのが、妥当なように思われます。他方で富本は、「大正時代、大和にいるころから、しばしば手掛けたことのある色絵金銀彩」といっていますが、資料に残されている限りにあっては、富本が、大和時代に色絵金銀彩を手掛けた形跡はありません。色絵の技法を習得するのは、明らかに東京時代なのです。富本本人が、別の資料のなかで、次のように語っています。

こうして各地方の伝統を研究して、最後に(四十九歳の時)焼物の技法としては最も複雑な色絵の研究に九谷に行きました。ここには牡丹の咲くころから米を刈り取るころまで、およそ十ヵ月ばかり北出塔次郎君の所にいて、研究を重ねました51

ここから判断しますと、色絵金銀彩を「大正時代、大和にいるころから、しばしば手掛けた」という言説はほぼ虚偽に近く、実際は、石田寿枝と知り合った数年後から手掛けた新たな陶技ということになります。

金銀彩には、技術上の大きな問題が横たわっていました。富本は、こう説明します。「焼物に銀彩を施すことは無理である。銀は変化はなはだしく、数年たつと銹て灰黒色になってしまう。……また、金銀彩を焼き付ける場合、金と銀とでは火に溶ける温度が違う。金が十分に焼き付くまで温度を上げると、銀はよほど厚くかけておいても蒸発してしまうおそれがある」52。そこで富本は、「白金泥を少量混入することを考えた。そうすると、銀が赤に付着する時間と、金の付着する時間がほぼ同じ時間になることがわかった」53。こうして、金、白金、銀の三種を混ぜ合わせた新しい合金が工夫されることによって、銀に変色をきたさない、富本独自の色絵金銀彩がこのとき生まれたのでした。

それでは、色絵金銀彩の陶器は、当時の価格として、いくらで売りに出されたのでしょうか。辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』のなかで、一九五五(昭和三〇)年の「作陶四十五年記念展」において陳列されるための《色絵金銀彩四弁花文八角飾箱》の製作を手伝った小山喜平の言葉が引用されていますので、ここでそれを借用させていただきます。

 やっと出来たと思っても乾かしている間にキズや亀裂が入って、大変だった。結局二個だけ仕上ったら、先生から、これで今度の展覧会の目玉が出来た、とたいそう喜んでもらった。それを出品される四十五周年展に、先生のお伴をして上京した。展覧会場で富本先生の交際の幅の広さ、ファン層の厚さに驚かされた。宮さまも親しい態度で接して来られるし、労働者スタイルの人も。先生の態度は、相手の貴賤を問わず、全く同じ物腰で対応される。私が手伝った大八角飾筥にいくらの値段をつけられたのか知りたくて、先生に尋ねたら、『五五万円につけた』とこともなげなお返事で、驚いたが、その作品が二点とも売れたのです54

消費者物価指数の変動の推移に着目しますと、一九五〇年の値を一にしたとき、現在の二〇二二年は、その八・五倍になるといわれています。仮に八倍として、一九五五年の《色絵金銀彩四弁花文八角飾箱》の五五万円を現在の価格に換算してみます。すると、その価格が、四四〇万円に匹敵することがわかります。これが二個売れたわけですので、このときの展覧会は、《色絵金銀彩四弁花文八角飾箱》だけでも、いまの貨幣価値に直して八八〇万円の売り上げがあったのでした。

この展覧会から七年後の一九六二(昭和三七)年、「京都市東山区山科御陵檀ノ後七ノ三」に建設中であった新居が完成し、富本憲吉と石田寿枝はそこへ引っ越します。新烏丸頭町の借家は、二間ほどの居室と、上絵の仕事をするために増築された別室とからなる、実に簡素な設えでありました。こうして、長いあいだの幾分不自由な仮住まいの生活が終わりました。しかし一方で、憲吉の体は日に日に弱まりはじめていました。このことを考えるならば、この新しい家の建設は、自分が住むためというよりも、むしろ、十数年にわたる内助の功に対する感謝の気持ちとして、自分よりもはるかにこれから長く生きることになるであろう伴侶たる石田寿枝へ遺すためのものだったにちがいありません。その観点に立つならば、この新居建設を見越して富本は「色絵金銀彩」へ着手したという推断は、決して排除されるべきではないように考えます。

五.おわりに――ふたりの男性に共通する内的思い

ここまでに論述してきましたように、ウィリアム・モリスは晩年に豪華本の製作に入りました。富本は、晩年に色絵金銀彩に着手しました。どちらも高価なもので、庶民の手の届くものではありませんでした。元来ふたりが持ち合わせていた共通する認識は、芸術とは、単に富裕者の所有欲を満たすだけの「芸術のための芸術」という自己目的を充足するために存在するのではなく、社会に生きる普通の人びとの日常生活を成り立たせるうえでの美的形式を創出するためになければならないというものでした。したがいまして、その点に着目いたしますと、モリスにとりましても富本にとりましても、この晩年の挑戦は、これまでに自身が抱いてきていた芸術論からは幾分かけ離れた行為だったということができます。

他方で、モリスには、病を抱えてこれから長く生きることになる娘のジェニーがいましたし、富本には、この時期に見出した三〇歳ほど年の離れた若い伴侶の存在がありました。死期を迎えるにあたって、このふたりの男性が、その置かれている現実的な立場に立って、それぞれの女性の将来に思いを馳せ、その生活を何とか保障したいという心根から、自己の製作活動の晩年における選択を完遂したのではないかという、ひとつの可能性を、この間の論述のなかで示唆してきました。

モリスにして、富本にして、晩年にそうした行動をとらせたのは、何だったのでしょうか。結論的にいえば、おそらくそれは、「扶養の義務」に対しての強い脅迫観念だったのではないかと、考えられます。以下に、そのことにつきまして、少々吟味したいと思います。

まず、モリスの場合に関して――。

モリスの妻のジェインと娘のメイに関する伝記作家であるジャン・マーシュは、モリスがジェインと結婚するに際しての「家族の扶養」という問題について、このような説明をしています。当時モリスは、年間九〇〇ポンド相当の財産を父親から相続しており、一方のジェインの父親は、年に三〇ポンドを稼ぐのがやっとのことでした。

いずれにせよ彼女が、財政状態について多くを聞いていたとは思われない。家族の財産を管理するのは夫の権利であり、妻を養うのは夫の義務だったからである。それに加えて、モリスのような地位の紳士は、妻の家族を含めて、金銭的に困っている親戚は誰であろうと、援助するように期待されていた。こうして、[ジェインの両親である]ロバート・バーデンとアン・バーデンは貧困から救われ、老齢や病気のために救貧院に入れられる恐怖からも救い出されたのである55

モリスが結婚するのは一八五九年で、死去するのが一八九六年ですので、四〇年弱の歳月が流れていましたが、男性に課せられた「扶養の義務」という観念は、いまもなお社会に根強く息づいていたものと思われます。その間、モリスは積極的に社会主義運動に参加し、女性解放論者の立場にありました。以下の一節は、一八八六年一〇月一六日にチャールズ・ジェイムズ・フォークナーに宛てて出されたモリスの手紙からの引用です。

 性行為は、両者の自然な欲望と思いやりとの結果として生じるのでなければ、獣的であるだけでなく、それにもまして悪質である。……いまだに人間的な思いやりに加えて獣欲主義も残っているようですが、法律上の私たちの結婚制度が意味する、現行の金銭ずくの売春制度よりは、限りなくいいでしょう。……明らかに現在の結婚制度は、賃金制度と同じ方法によって維持されているにすぎず、つまるところ、それは、警察であり軍隊であるのです。妻が一市民として自らの生活費を稼ぎ、子どもたちも市民として、暮らして行ける権利が奪い取られないようになれば、人びとを法的売春へと強制する要因も、あるいは、人びとを金銭目的のだらしのない行為へと駆り立てる要因も、いっさいすべてがなくなることでしょう56

ここでモリスは、性交は両性間の思いやりに満ちた自然な欲求の行為であり、そのためには、それに反する、現在の社会にみられる家庭内の売春制度も、市中での男性相手の性の売り買いも、なくさなければならず、そのためには、女性が職に就き、収入を得るようになり、経済的に自立することが重要である、と説いています。

それでは、実際のモリス家の女性たちはどうだったのでしょうか。妻のジェインは、対価を得ていたかは別にして、刺繍や絵のモデルといった仕事を単発的に経験したことはありましたが、生涯定職に就くことはありませんでした。長女のジェニーは、本人の意思がどうであったにせよ、現実的には、病に侵されているがゆえに職を得ることはできませんでした。次女のメイは、父親が亡くなるまでは主として刺繍家としてモリス商会で働き、その後一時期、中央美術・工芸学校で教師を務める機会を得たものの、最終的には独り身の生活を送ることになります。そうした状況を見越して、夫であり、父親であるモリスは、自分の死期が迫るにつれて、妻とふたりの子どもを金銭的なかたちで扶養しなければならないことを当然のこととして受け入れ、それへの具体的な対応に思いを巡らしていたものと考えられます。こうした思いが、自らの芸術論を横に置かせ、直接、間接は別にして、少なくとも遠因となって、ケルムスコット・プレスにおける豪華本、つまりは高価本が生み出されるに至ったのではないかというのが、私の推論です。

次に、富本の場合に関して――。

富本憲吉の「憲」の一字は、三年後に発布が予定されていた「大日本帝国憲法」の「憲」から借用されたといわれています。ここでは、一八九八(明治三一)年に公布された「明治民法」を見てみます。第七五〇条では「家族カ婚姻又は養子縁組ヲ為スニハ戸主の同意ヲ得ルコトヲ要ス」と、また第七八八条では「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」と、規定されています。明らかに、婚姻により夫は妻を扶養する義務を負うことになるのです。しかし憲吉は、尾竹一枝との結婚に際して、次のような自身の見解を披歴しています。

アナタが家族をはなれて私の処に来ると思はれるが、私の方でも私は独り私の家族をはなれてアナタの処へ行くので、決して、アナタだけが私の処へ来られるのではない、例へ法律とか概観で、そうでないにしても尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家が出来るわけである。そう考へて居て貰ひたい57

ここには、「家」に拘束されない、対等の個人たる両性の結び付きとしての結婚観が示されているのです。

憲吉と一枝が結婚するのが、一九一四(大正三)年の一〇月で、憲吉が家を出て、故郷の安堵村へ帰還するのが、一九四六(昭和二一)年の六月のことでした。この間一枝は、数編の小説を書き、エッセイも断続的に執筆し続けました。そうした仕事のなかで文筆家としてわずかながらの収入はあったかもしれませんが、全体としては、明らかに一枝は、夫に扶養される家庭婦人でした。それでは、憲吉が家を出たとき、財産の分与はどう行なわれたのでしょうか。このことにつきましては、残されている一通の手紙が少しその事情を物語ります。その手紙は、一九四八(昭和二三)年の夏に、陶の夫の海藤日出男に宛てて、憲吉から出されたものです。以前憲吉が仕事場としていた工場 こうば を少し改装して、自分たちの生活空間として使わせてもらえないかという陶夫婦の問い合わせに対する返事らしく思われます。

要事から書きます 工場は勿論 あの家に附属したもの故、諸君のうち誰が使用され様とも結構であります 私は去年八月申し送りました通り家の半分を一枝に その残りの半分を三人におくりましたから私のものではありません、あの家には私の書物や衣服がありますが帰へって行くのがいやでモウ一切捨てるつもりで居ます58

この手紙から、家の半分を一枝に、残りの半分を陽、陶、壮吉の三人の子どもに分与したいとする意向が、すでに家族に伝えられていたことがわかります。これにより、祖師谷の家屋敷と工場はもちろんのこと、家具調度品から作者留め置きの作品に至るまで、さらには預貯金や野尻湖の別荘も含めて、すべて家族に残したまま憲吉は東京を離れたものと推察されます。まさに裸一貫、生まれたままの姿で、生まれ故郷に帰ったことになります。これが、原因や理由はどうであろうとも、自分独りの一方的な判断で東京を去り、その結果稼ぎ手を失うことになった家族への、憲吉なりの償い方、ないしは責任のとり方だったのかもしれません。あるいは、一枝とのいっさいの関係を断とうとする、離縁にあたっての憲吉の強い意志の表われだったのかもしれません。さらには、折半しなかった理由には、今後の壮吉の養育費や教育費などへの配慮が含まれていた可能性もあります。いずれにせよ、このとき憲吉は、家族だけではなく、すべての社会的地位も、そしてすべての財産も放棄しました。こうして、戦争が終わると、時を同じくして、三二年に及ぶ憲吉と一枝の結婚生活も最終局面を迎えるのでした。

京都に出て友人の家を間借りし、窯を借りての作陶という戦後の身を切るような苦難の時期に、憲吉は、石田寿枝と知り合います。ふたりが生活に入ったときは、憲吉は無一文に近かったのではないかと想像されます。しかし、ふたりの生活が進行し、落ち着いてくると、憲吉は、この内助者の将来に思いを巡らせるようになったものと思われます。三〇歳ほどの年齢差があります。自分の死後、いま一緒にいる伴侶は、どこでどうして暮らしてゆくのだろうか。すでに一枝には、別れるに際して、すべての財産を残したことを考えるならば、このとき憲吉が、寿枝にも同じように、将来の生活を保障するにふさわしい屋敷と金融資産と自作の陶器を残すことに思い至ったとしても、何ら不思議ではありません。その思いがおそらくひとつの誘因となって、憲吉は、勢いこれまで主張してきた自己の芸術論を横に置いてまで、色絵金銀彩という高額の値のつく焼き物に向かったのではないでしょうか。これが私の推断するところです。

それでは最後に、ケルムスコット・プレス版の高額の本づくりに対してモリスは、どう考えていたのでしょうか。他方、色絵金銀彩という高値の陶器を、憲吉は、どのような思いでつくっていたのでしょうか。ここでは「投機対象としての芸術品」という文脈から考察します。

まず、モリスの場合に関して――。

ウィリアム・サムエル・ピータースンの著書に『ケルムスコット・プレス――ウィリアム・モリスの印刷にかかわる冒険の歴史』がありますが、そのなかで著者は、エリスがコカラルに宛てて出した手紙の一部を引用しています。ここにその箇所を再引用させてもらいます。

『チョーサー』二七ポンド――先週のサザビー商会でのこと。私たちは、生きていれば(私たちのうちの何人かは)、これが一〇〇ポンドになるのを目にするだろう――59

サザビー商会は、当時豪華本や稀覯書を中心に扱う競売会社でした。この手紙が書かれたのは一八九九年です。一八九六年に出版されたときの最初の価格は二〇ポンドでしたので、三年間で七ポンド値上がりしたことになります。もし近い将来一〇〇ポンドの値がつくようになれば、何と五倍の価格に跳ね上がることになります。エリスもコカラルも、モリス遺産の管財人でした。おそらく、この投機現象を歓迎したものと思います。といいますのも、この『チョーサー作品集』をはじめケルムスコット・プレス版書籍の五三点すべてを、おそらく数部数ずつ、モリス家の遺族は所蔵していたものと考えられるからです。そうであれば、莫大な金額の資産が新たに生み出されることになります。つまり、夫であり父親であるモリスが遺した豪華本は、まさしく金の卵を産む不死鳥だったのでした。

一九二八年の一一月、モリス巡礼者として〈ケルムスコット・マナー〉へやってきたのが、関西学院の北野大吉という研究者でした。当時ここでは、モリスの次女のメイと、そのパートナーのメアリー・フラーンシス・ヴィヴィアン・ロブが共同生活を営んでいましたが、北野が訪問したときはメイは入院中でしたので、北野を案内したのはロブ嬢でした。食堂での接遇と一階の案内が終わると、北野は二階へ通されました。以下は、北野が書き止めている、そのときの様子です。

 それから二階に案内された。先づ第一がモリス夫人の寝室であつた。こゝにはモリス自身の作品以外に冩眞が澤山に列んで居た。そして友人のモルガンから送られた器物が所々に飾られて居たのも目立つて居た。

 次はモリス自身の寝室である。この室内にはモリスの著作並に出版圖書が整然と列んで居た。そしてベッドの上にはモリスの「チヨーサー」が恭しく置かれて居る。ロツブさんの説明ではこの「チヨーサー」の時價が數千圓とか數萬圓とかする相だ。流石に私もこれには一寸驚かされた。手垢のつかぬ樣 ・・・・・・・ に大事にして中を見て呉れとの話であつた。御尤もな御注意であると思つたので、最大の注意を以て拝見に及んだ60

このとき北野が目にした『チョーサー作品集』は、どうやら当時の日本円にして「數千圓とか數萬圓とかする」まさしく高値の本になっていました。この金額は、現在の価格に換算して、どれくらいだったのでしょうか。一九三四(昭和九)年はモリスの生誕一〇〇年にあたり、日本でも記念行事が幾つか催されました。そのひとつが『モリス記念論集』の刊行で、北野も「モリスの人及思想」を寄稿しますが、この本の価格が弐円八〇銭でした。A5判のサイズで二六〇頁あります。この体裁の本がいま刊行されるとして、その定価を二、八〇〇円と仮定するならば、この間の書籍価格の変動は、ちょうど千倍になります。そして、その変動域に従うならば、北野の訪問時の『チョーサー作品集』の「數千圓とか數萬圓」という時価は、現在の日本円に置き換えますと、「数百万円とか数千万円」の金額になるのです。そのように算出してみますと、エリスがコカラルへの手紙のなかで伝えた、「私たちは、生きていれば(私たちのうちの何人かは)、これが一〇〇ポンドになるのを目にするだろう」という、『チョーサー作品集』の価格高騰についての予言が、すでに北野が〈ケルムスコット・マナー〉を訪問した一九二八年の時点で達成されていたことになります。

それでは、モリス自身は、ケルムスコット・プレス版の書籍が投機の対象となり、高騰することを見抜いていたのでしょうか。モリスは、一八九五年のインタヴィューに答えて、その可能性を示唆しています。

私は、利益の大半を「先買い人と買い占め人」が占めたのではないかと心配しています。しかし、これをいやがっても私には、これをどう変えるべきか、現状ではその手段が思いつかないのです61

同じようなことを、富本もいっています。一九六三(昭和三八)年六月に富本が亡くなると、さっそく蔵原惟人が筆を取り、「富本憲吉さんのこと」と題して『文化評論』に寄稿し、戦前、非合法の共産党員であった自分を富本家がかくまってくれた経験を公表します。そのなかで蔵原は、そのときの富本の様子を、こう描写するのでした。

 「実は私はほんとうに多くの人が平常使えるような実用的なものを作って安く売りたいのですが、まわりのものがそれをさせないのです。美術商などは、‶先生、そんなに安く売られては困ります″というのですよ」ともいっていた。若い時ウイリアム・モリスの生活と芸術の結合の思想に傾倒していた富本さんは生涯その理想をすてなかったようだ62

モリスも富本も、製作、つまりは労働の対価として適切な価格で売りたいのでしょう。しかし、社会のメカニズムがそれを許しません。そうであれば、うがった見方になるかもしれませんが、そのメカニズムを承知のうえで、あるいは、そのメカニズムにあえて身をゆだねるかたちで、モリスは豪華本に挑戦し、富本は色絵金銀彩に向かったのではないかと考えられます。おそらく製作に取り組んでいるあいだは、このことも、心に宿る女性のことも忘れて、夢中になって邁進したにちがいありません。こうして、その結果、『チョーサー作品集』のような、書籍製作における革命的作品が生まれ、他方、《色絵金銀彩四弁花文八角飾箱》のような、焼き物製作における前人未到の作品が世に出たのでした。

しかし、このとき、モリスの胸に、他方、富本の胸に、何が去来していたでしょうか。モリスは、一八七七年の「装飾芸術」(のちに「小芸術」に改題)と題された講演のなかで、新しい芸術の誕生にとって望まれるものとして「簡素さ」ということを強調しています。

 趣味の簡素さ、つまりそれは、甘美にして高尚なるものへの愛なのですが、それを生み出す生活の簡素さが、私たちが待ち望む、新しくてよりよい芸術の誕生にとって必要とされるすべての事柄なのです。簡素さは、田舎家だけではなく宮殿においても、至る所で必要とされます63

モリスのいう「簡素さ」とは、贅沢や過剰の対極にあるものです。この言説と、それから一九年が経過して生み出された『チョーサー作品集』のあいだに、隔たりはないのでしょうか。一方で富本は、同じように、このようにいいます。「眞正の藝術はその生活より湧き上つたものでなければならぬ事を私は堅く信じる」64。これが、大和時代に富本が信じていた真の芸術の姿です。この言説と、京都時代の《色絵金銀彩四弁花文八角飾箱》とのあいだに、つながりはあるのでしょうか。

こうした両人の言説を横に置きながら、それぞれの実際の作品と見比べてみますと、明らかにそこには、なにがしかの乖離が認められます。作品には、確かに全面的に「美神」が宿っていますが、自らの主張からの逸脱をかすかにも本人たちが認識していたとすれば、この「美神」は、疑うことなく「魔物の化身」であることに実は気づかされていたにちがいありません。これが、両者の晩年の製作の様相の一端だったのです。モリスは、芸術や社会について大いに論じ、講演集として一八八二年に『芸術への希望と不安』65を、そして一八八八年に『変革の兆し』66を出版します。しかし、ケルムスコット・プレスを設立したあと、まとまった自身の芸術論を本にすることはありませんでした。他方富本も、大和時代を総括するものとして『窯邊雜記』(一九二五年刊)を、そして東京時代を総括するものとして『製陶餘録』(一九四〇年刊)を著わすのですが、京都時代の作陶を凝視した本人独自の芸術論を展開することは、結果的にありませんでした。なぜなのでしょうか。偶然にもふたりに共通した晩年の風景でした。主張から離反した実践が、そこにあったためだったのではないかというのが、いまの私の思いです。

ふたりはともに、社会主義者でした。モリスは、社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に寄稿した「ユートピア便り」のなかで、社会革命後に出現した新世界における生産と消費について、次のように描写しています。

私たちがつくる品物は、必要とされるから、つくられているのです。人は、あたかも自分自身のためにつくるかのように、隣人の使用のためにつくります。いかなる人もそれについての知識がなく、いかなる人もそれを制御することができない、そのような、得体の知れない市場のためにつくるのではありません。そもそも、売ったり買ったりする行為がいっさいないのですから。もしかすると欲しがられるかもしれないといったことを見越して、品物をつくるようなことがあれば、それこそまさに、狂気の沙汰といえましょう。そんなものを無理に ・・・ 買わされてしまうような人は、もはや誰ひとりとしていないのですから67

おそらくこのような社会観と芸術観を富本も共有していたものと思います。蔵原惟人は、富本が発した言葉をこう記憶していました。

ある時「社会主義になったら私の仕事など役にたたなくなるのだから」という意味のことを私にいった。私は「そんなことはありません。社会主義になったらその時こそあなたの作品はほんとうに大衆のものになるのです」というと、「そうですか」と、なお半信半疑の様子だった68

なぜ富本は、「半信半疑」だったのでしょうか。必要を越えて美しいものを所有したいという過剰な欲望が存在し、それを見越して法外な高値をつけて売買し、こうした泡のような利益を、それに群がる人びとのあいだで分配しようとする行為が、普遍的な人間の本性に根差したものであるとするならば、たとえ、社会主義の体制が出現したしたところで、結果は同じことになるのではないかと、このとき富本は感じていたのかもしれません。

確かにここに、新しい芸術と新しい社会に向けての「運動」の発生基盤がありました。「得体の知れない市場のために生産するのではありません」という倫理的で理想的な言葉を、書籍にも陶器にも、当人たちは、その製作にあたって、すぐにもあてはめることができるのであれば、ぜひともあてはめたかったにちがいありません。しかし、富本は生涯にわたって、優れてよき理解者であったとしても、直接「運動」に参加することはありませんでした。他方モリスは、確かに積極的に「運動」に参加しますが、本人の思いどおりに、自らの存命中に新世界が出現することはありませんでした。

生きている生身の人間は、その現実のなかでしか生きることはできません。しかし、言説や作品は、いくらでも現実から離れて浮遊することができます。そうしたイマジネイションの産物が、この文脈にあっては、言説としては「ユートピア便り」であり、作品としては、『ジェフリー・チョーサー作品集』(ケルムスコット・プレス書籍の代表作のひとつ)であり、同じく《色絵金銀彩四弁花文八角飾箱》(富本の色絵金銀彩の代表作のひとつ)であったように思われます。しかしながら、そうした物質的生産物は、現実を離脱した夢想の結果として単に異次元の世界において成り立っていたのではなく、モリスにとっては娘のジェニーという存在が、富本にとっては伴侶の石田寿枝という存在が、現実の堅牢な礎石となって下支えをしていたにちがいない、私にはそのように、感じられるのです。

以上の触感的記述をもちまして、本論文の主題であります、ウィリアム・モリスと富本憲吉というふたりの男性にかかわる、特定の女性の存在と作品とのあいだに存する、決してこれまで可視化されることのなかった関係の結論といたします。

私は、この拙稿をまとめるにあたり、次のふたつの書物を、いつもその間手もとに置いていました。

The William Morris Kelmscott Chaucer: A Facsimile of the 1896 Edition, with 87 Original Illustrations by Edward Burne-Jones, Omega Books, Hertfordshire, 1985.

『富本憲吉陶芸作品集』美術出版社、1974年。

ここに見ることができる『ジェフリー・チョーサー作品集』と《色絵金銀彩四弁花文八角飾箱》は、一方はファクシミリ版であり、一方は図版であるため、圧倒されんばかりの実作のもつ力はありませんが、かつて対面した面影をたどるには十分でした。ファクシミリ版であれ、図版であれ、眺めていれば、いろいろな思いが胸をよぎります。作品が成立するにあたっては、これについての本人の言説に従わなければなりません。しかしその一方で、作者自身が口にすることができない動機があって、それに導かれるようなかたちで作品が成り立つ場合もあるのではないでしょうか。デザイン史家として私は、本稿においてその部分に着目して、光をあてたかったのです。実証しようにも、影の部分であるがゆえに決定的な証拠に乏しく、それができないもどかしさもありました。そのため、誰しもが納得できる結論には至っていないかもしれません。しかしそれでも、これまでに胸のなかに密かに宿していた残像だけは余すことなく書き終えたと思っています。そのことが、私にはありがたく思われます。こうした独りよがりの駄文に、根気強く最後までおつきあいいただきました読者のお一人おひとりに、心からお礼を申し上げなければなりません。本当にありがとうございました。

(二〇二二年一一月)

(1)A Book of Verse: A Facsimile of the Manuscript Written in 1870 by William Morris, Scolar Press, London, 1980, paperback edition 1982, p. 1.

(2)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part B] 1885-1888, Princeton University Press, Princeton, 1987, p. 791 (LETTER NO. 1510).

(3)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME I 1848-1880, Princeton University Press, Princeton, 1984, p. 116 (LETTER NO. 111).

(4)Ibid., p. 176-177 (LETTER NO. 183).

(5)Ibid., p. 197-198 (LETTER NO. 209).

(6)Quoted in Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938. Pandora Press, London, 1986, p. 130.

(7)Quoted in ibid.

(8)Quoted in Philip Henderson, William Morris: His Life, Work and Friends, Thames and Hudson, London, 1967, p. 166.

(9)J. W. Mackail, The Life of William Morris, VOLUME I, Longmans, Green and Co., London, 1899, p. 328.

(10)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part A] 1881-1884, Princeton University Press, Princeton, 1987, p. 92 (LETTER NO. 766).

(11)Ibid., p. 94-95 (LETTER NO. 770).

(12)Ibid., p. 151 (LETTER NO. 841).

(13)J. W. Mackail, The Life of William Morris, VOLUME II, Longmans, Green and Co., London, 1899, p. 255.

(14)Wilfrid Scawen Blunt and The Morrises, by Peter Faulkner, William Morris Society, 1981, p. 28.

(15)Quoted in Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938. Pandora Press, London, 1986, p. 222.

(16)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME III, 1889-1892, Princeton University Press, Princeton, 1996, p. 327 (LETTER NO. 1913).

(17)Ibid., p. 327-328 (LETTER NO. 1914).

(18)Ibid., p. 334 (LETTER NO. 1921).

(19)Ibid., p. 335-336 (LETTER NO. 1922).

(20)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME IV, 1893-1896, Princeton University Press, Princeton, 1996, p. 391 (LETTER NO. 2485). Also see J. W. Mackail, The Life of William Morris, VOLUME II, Longmans, Green and Co., London, 1899, p. 332.

(21)See Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, p. 677-679.

(22)Wilfrid Scawen Blunt and The Morrises, by Peter Faulkner, William Morris Society, 1981, p. 45.

(23)Quoted in Philip Henderson, William Morris: His Life, Work and Friends, Thames and Hudson, London, 1967, p. 303.

(24)W. R. Lethaby, Philip Webb and his Work, Oxford University Press, London, 1935, p. 94-95. first appeared as a series of articles in The Builder in 1925.

(25)J. W. Mackail, The Life of William Morris, VOLUME I, Longmans, Green and Co., London, 1899, p. 245.

(26)A Note by William Morris, on his Aims in Founding the Kelmscott Press, reprinted MCMLXIX by Photolithography in the Republic of Ireland at the Irish University Press, p. 1-2.

(27)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897.

(28)富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、85頁。

(29)「謂ゆる新しき女との対話――尾竹紅吉と一青年」『新潮』、1913年1月、107頁。

(30)富本一枝「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』第2巻、1917年1月号、74頁。

(31)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、76頁。

(32)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、223-224頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載。]

(33)井手文子「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』第54巻第9号、1969年9月、346頁。

(34)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、233頁。

(35)『毎日新聞』(大阪)、1949年10月25日、2頁。

(36)同『毎日新聞』、同頁。

(37)同『毎日新聞』、同頁。

(38)同『毎日新聞』、同頁。

(39)富本一枝「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」『美術』第1巻第6号、1917年、28-29頁。

(40)富本憲吉「工房より」『美術』第1巻第6号、1917年、30頁。

(41)前掲『私の履歴書』(文化人6)、219頁。

(42)同『私の履歴書』(文化人6)、214頁。

(43)同『私の履歴書』(文化人6)、214-215頁。

(44)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、64-65頁。

(45)同『製陶餘録』、139-140頁。

(46)同『製陶餘録』、140-141頁。

(47)同『製陶餘録』、107頁。

(48)同『製陶餘録』、109頁。

(49)『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、43頁。

(50)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、226頁。

(51)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、76頁。口述されたのは、1956年9月12日。

(52)同「写真解説」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』、57頁。

(53)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、226-227頁。

(54)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、186-187頁。

(55)Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938. Pandora Press, London, 1986, p. 27.

(56)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part B] 1885-1888, Princeton University Press, Princeton, 1987, p. 584 (LETTER NO. 1284).

(57)山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、75頁。

(58)海藤隆吉「祖師ヶ谷の家」『富本憲吉のデザイン空間』(展覧会図録)、松下電工汐留ミュージアム編集、2006年、6頁。

(59)William S. Peterson, The Kelmscott Press: A History of William Morris’s Typographical Adventure, Oxford University Press, Oxford, 1991, p. 194.

(60)北野大吉「ケルムスコット・マノア訪問記」『商学会雑誌』18、関西学院高等商業学部、1929年6月、94頁。

(61)Quoted in William S. Peterson, op. cit., p. 195.

(62)蔵原惟人「富本憲吉さんのこと」『文化評論』8、1963 - NO. 21、58頁。

(63)May Morris ed., The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXII, p. 24.

(64)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、47頁。

(65)William Morris, Hopes and Fears for Art: Five Lectures Delivered in Birmingham, London, and Nottingham 1878-81, Ellis & White, London, 1882. 217pp. Also see May Morris ed., The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXII, p. 1-152.

(66)William Morris, Signs of Change: Seven Lectures Delivered on Various Occasions, Reeves & Turner, London, 1888. 202pp. Also see May Morris ed., The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXIII, p. 1-140.

(67)May Morris ed., The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XVI, p. 97.

(68)前掲「富本憲吉さんのこと」『文化評論』8、同頁。