中山修一著作集

著作集22 残思余考――わがデザイン史論(上)

第一部 ウィリアム・モリス論

第三話 ウィリアム・モリスの最初の社会への反抗

「ウィリアム・モリスの家族史」を書いているとき、彼の幼少期について、私が主として参照したのは、ジョン・マッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』(一八九九年刊)でした。著者のマッケイルは、モリスの無二の友人であったエドワード・バーン=ジョウンズ夫妻の娘婿で、刊行は、モリスが亡くなって三年後のことでした。

この本を読んでいて、私の目に止まった短い文がありました。それは、次の一節でした。

ウェリントン公爵の葬儀の日、モリスは、独り馬に乗ってウォルサム・アビーへ行き、こうしてその日を過ごした。彼は、ロンドンへ行って、その儀式を見るのを拒んでいるのである。これは、のちの彼の社会主義的感覚に幾分つながるものであった

ウェリントン公爵は、ワーテルローの戦いで反仏連合軍の先頭に立ち、ナポレオンを失脚に追い込んだ英国陸軍の偉大な指揮官として国民の記憶に残っていました。死亡したのは一八五二年九月一四日で、享年八三歳。このときモリスは一八歳でした。一一月一八日の葬儀の日、多くの国民が喪に服するなか、モリスは、その輪に加わることなく、独り別の行動をとったのです。ウェリントン公爵の軍務に不満があったのか、それとも、国家的葬儀の形式に不満があったのか、それはわかりませんが、これが、ウィリアム・モリスにとっての最初の社会的反抗となるものでした。それから約三〇年後の一八八三年一月、モリスは民主連盟の会員となり、これを起点として彼の社会主義運動は、本格化するのでした。

(二〇二二年七月)

(1)J. W. Mackail, The Life of William Morris, VOLUME I, Longmans, Green and Co., London, 1899, p. 26.