「ウィリアム・モリスの家族史」を書くなかで、モリスの教育に対する考えが、断片的に資料に残っていることがわかりました。よく見るとそれは、富本憲吉夫妻が教育へ向けた視線と明らかに重なり合っていました。記憶から遠ざかる前に、モリスと富本夫妻の教育観をここに対比し、書き記しておきたいと思います。
まずモリスです。彼は、教育について以下のような認識をもっていました。
一八八六年か一八八七年の手紙ではないかと推定されていますが、日付のない手紙が残されています。ウィリアム・シャーマン師に宛てて出されたモリスの手紙です。そのなかに、こうしたことが書かれてあります。
……まともな人のすべてがそうするように、私の両親もまた、可能となる最も早い時期に、私の教育に対する責任を放棄しました。最初は乳母たちに、次に馬丁たちと庭師たちに、そして次に、少年農場とでもいうべき学校に、私の面倒をみさせました。私は、あれやこれやの方法を使って、こうしたすべてのことからひとつのこと、つまり、反抗するということを主として学びました1。
この手紙から数年後の一八九〇年に、モリスは、社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に「ユートピア便り」を連載します。そのなかで著者のモリスは、ハモンド老人にこう語らせます。
……子どもの実にさまざまな能力や気質がどうであろうとも、因習的に適齢と考えられている年齢に達すると学校へ押し込まれ、そこにいるあいだ子どもたちは、事実に目を向けることなく、お定まりの因習的な「学習」課程に従わされる、そのようなことをあなたは予期されていました。しかしあなた、そんなやり方は、肉体的にも精神的にも人が成長する( ・・・・ ) という事実を無視するものでしかない、とお思いになりませんか2。
次に、富本憲吉と妻の一枝が、教育についてどう認識していたのか、彼らが書き残したもののなかから、拾い出してみたいと思います。
一九一五(大正四)年生まれの富本夫妻の長女の陽は、順調に生育し、数え年の八つになり、いよいよ学齢に達しました。憲吉と一枝は、小学校に入れるか、このまま家庭での教育を続けるか、日々悩んでいました。以下は、一枝の文です。
小學校に出すには彼女は遥かに高く進み過ぎて仕舞つた……こんな子供を尋一[尋常小学校一年]に出せば學校に対する興味、學科に對する熱心さを失はせる事は勿論です……それかといつて社會人として彼女を見た時、學校生活から受けるものゝ多くあることを無視する事は善いことであらうかとも考へました。……學校に出ないとすれば當然彼女は一人である……子供同志の遊び、それはどんなに楽しいものか、そこからお互ひが受ける智識、経験、それは子供を最も子供らしく育てゝ行くではないか、しかし私達は、結局家庭で敎育することに決心しました3。
そのように決心した理由について、一枝は続けてこう述べています。
村の小學校の生徒の種が悪いのです、先生が悪いのです。……小學校に出すことは危険な場所に放すやうで不安でならなかったのです。それにその頃は、(今でもですが)小學教育、殊に初等科に對して一般的に私は信頼出來ないものを有つてゐました4。
このことからもわかるように、憲吉と一枝は、子どもたちの教育に非常に熱心だったのです。
それでは、憲吉と一枝は、この時期の学校を、どのような存在としてみていたのでしょうか。憲吉の目には、教室は「自由の牢獄」に映っていました。そして教師は、子どもの「成長せんとする心」に理解を示さぬ存在でありました。憲吉は、こう述べています。
午後三時、子供等は嬉々として烈しき白日の道に列をなして家路につく。子供等は何故にかく楽しげなるか。彼等は自由の牢獄に等しき教室と彼等の成長せんとする心に同情なき教師等の手より離れたるが故なり。教育はげに自由の牢獄なるかな5。
一方の一枝は、直接村の子どもたちに学校の様子を聞いたことがありました。「學校の先生の話をきいたら怖いといつた。學校の稽古は面白いかときくと、お伽噺を聞かしてもらふ時の方がいいといつた。本當の事をいつてゐる。本当にそうだと思つた」6。
このように憲吉と一枝は、当時の学校教育に強い不信をもっていました。ふたりは、過去を踏襲しないオリジナルな模様の創案を、その一方で、因習を断ち切った新しい家族の形態を――そのとき必死になって追い求めていました。それと同じ地平から教育や学校を眺めた場合、教育は、個性や個人、あるいは自由や創造性といった価値からあまりにも無縁の存在でありました。そして学校は、過去の旧い価値だけが堆積し、意味を失い廃墟と化した残骸物に似ていました。一枝が、「小學校に出すことは危険な場所に放すやうで不安でならなかった」と述べたとき、憲吉が、教室を「自由の牢獄」と表現したとき、過去の教育や学校を支えていた価値は完全に葬り去られ、この夫婦の理想は、長女の陽と、次女の陶のふたりの生徒だけが通う家庭内の「小さな学校」の私設へとつながっていったのでした。
明らかに、モリスと富本夫妻の教育観は共通していました。モリスにとって学校は、一方的に肥料がばらまかれて促成される「少年農場」でしたし、富本一枝にとっての学校は、一方的に旧弊な価値観が植え付けられる「危険な場所」でした。そして、そこで展開されているのは、モリスの言葉を借りるならば、「肉体的にも精神的にも人が成長する( ・・・・ ) という事実を無視する」教育であり、富本憲吉の言葉に従えば、子どもの「成長せんとする心に同情なき教師」による教練でした。
以上のようにモリスと富本夫妻の教育観を対照してみますと、モリスの「ユートピア便り」のなかで描き出された革命後の空想的世界を実践したのが、富本夫妻だったのではないかという気もしてきます。一九世紀後半の英国と二〇世紀前半の日本――何か不思議な近似性が認められるのは、なぜなのでしょうか。一考するにふさわしいテーマのように感じられます。
(二〇二二年七月)
(1)Quoted in Gillian Naylor ed., William Morris by Himself: Designs and Writings, Macdonald & Co (publishers), London & Sydney, 1988, p. 20.
(2)May Morris ed., The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XVI, p. 63-64.
(3)富本一枝「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』第18巻、1924年8月、28-29頁。
(4)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、29頁。
(5)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、5頁。
(6)富本一枝「安堵村日記」『婦人之友』第15巻6月号、1921年、157頁。