この、著作集22『残思余考――わがデザイン史論(上)』の第二部「富本憲吉・富本一枝論」は、現在、「目次」にもありますように、以下の三話から構成されています。 第一話 富本憲吉にとっての人間国宝認定と文化勲章受章の意味 第二話 私の著述に向けられたある批判に関連して(その一) 第三話 私の著述に向けられたある批判に関連して(その二)
ここで取り上げる富本憲吉は、一八八六(明治一九)年六月に大和安堵村の旧家の長男として生まれ、東京美術学校で図案(現在の用語法に従えばデザイン)を学び、ウィリアム・モリスの思想と実践に魅了され、卒業を待たずして英国に渡ります。一九一〇(明治四三)年に帰国すると憲吉は、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を参照しながら「ウイリアム・モリスの話」を執筆。擱筆後それは、一九一二(明治四五)年の『美術新報』第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)に分載されます。これが、憲吉にとっての帰朝報告であり、デザイナーとしてのモリスの側面を紹介する日本における最初の評伝となります。はじめて一枝が、安堵村に憲吉を訪ねるのが、「ウイリアム・モリスの話」が発表された、この年の二月のことでした。
一方一枝は、一八九三(明治二六)年四月に富山市の越前町で尾竹家の長女として生まれます。当時、父の尾竹熊太郎は、地方新聞の挿し絵を描くかたわら、自由民権運動に奔走する身でした。武士の家系に育った母親は、何につけても厳格で、厳しく子を育てました。学童期を東京と大阪で過ごした一枝は、夕陽丘高等女学校を卒業すると、女子美術学校に入学し日本画を学び始めますが、学校生活にうまく折り合いをつけることができずに中退し、一時大阪に帰ります。帰阪直前に、一九一一(明治四四)年九月に創刊されたばかりの『青鞜』のことを知り、大阪の地から、主宰者の平塚らいてうにしきりと手紙を書き、ついに翌年一月に青鞜社員となり、その二月に、英国帰りの新進美術家の憲吉とはじめて安堵村で顔をあわせるのでした。
こうした出会いを経て、ふたりは結婚します。さて、夫婦という私的領域において、その両人にとっての出発点となるものは、何でしょうか。おそらくそれは、結婚に際しての言辞であるにちがいありません。富本憲吉と尾竹一枝とのあいだに、どのような求婚の言葉が行き交ったのかは正確にはわかりませんが、封筒のない巻紙が残されています。内容からして、憲吉から一枝に宛てたもので、置き手紙だった可能性も、また、直接手渡された手紙だった可能性もあります。いずれにしても、すでにこのころから、ふたりは、「下谷區茅町二丁目十四番地」で、実質的な共同生活に入っていたのではないかと思われます。その巻紙の一部には、こう綴られていました。
アナタが家族をはなれて私の処に来ると思はれるが、私の方でも私は独り私の家族をはなれてアナタの処へ行くので、決して、アナタだけが私の処へ来られるのではない、例へ法律とか概観で、そうでないにしても尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家が出来るわけである。そう考へて居て貰ひたい。
この引用の出典は、山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」(『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、75頁)です。明らかにここには、「家」に拘束されない、対等の個人たる両性の結び付きとしての結婚観が示されています。一八九八(明治三一)年に公布された「明治民法」の第七五〇条では「家族カ婚姻又は養子縁組ヲ為スニハ戸主の同意ヲ得ルコトヲ要ス」と、また第七八八条では「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」と、規定されており、そのことを想起するならば、ここで示されている憲吉の婚姻についての見識は、家制度も家父長制も乗り越えた、まさしく革命的なものとなっているのです。あたかも、戦後の一九四六(昭和二一)年に公布された日本国憲法を先取りするものでした。といいますのも、日本国憲法の第二四条は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定しているからです。
ふたりの挙式は、一九一四(大正三)年一〇月二七日、日比谷大神宮において執り行なわれました。そのとき憲吉は二八歳、そして一枝は二一歳でした。翌年三月、ふたりは、大和安堵村にある憲吉の生家へと居を移し、住まいの建築に取りかかります。一九一五(大正四)年も押し迫った師走の二一日、家と窯と庭、すべてが整い、八月に生まれた陽と憲吉と一枝の三人の家族は、この新居に移り住みました。新生活にあたっての決意を、憲吉は次のごとく述べています。
我等此處にありて心淸淨ならむことを願ひ、制止するを知らざる心の慾望を抑壓しつゝ語りつ、相助け、相闘ひ、人世の誠を創らむとてひたすらに祈る。
出典は、富本憲吉『窯邊雜記』(生活文化研究會、1925年、25頁)です。これは憲吉独りの陶工としての創業宣言ではなく、「我等」という家族共同体の決然たる創設宣言として読むことができます。ここからわかるように、憲吉にとって家庭は、一方が一方を抑圧する場でも、それに対して一方が忍従する場でももはやなく、欲望を抑えた清廉な夫婦の闘争の場であり、協力の場であり、創造の場なのです。これが、憲吉にとっての「近代の家族」のイメージであり、この新しい夫婦の営みの原点となるものでありました。
こうして、憲吉と一枝の家族生活がはじまりました。果たしてその実態は、それより三一年遅れて公布される日本国憲法の、先に示した条文内容を真に先取りするものだったのでしょうか。もしそうであることがわかれば、富本憲吉と富本一枝が実践し、つくり上げた夫婦像は、現行憲法下のいまに生きる日本人の、ある意味で、理想的夫婦像の先駆けとして、高く評価されなければならないことになります。
それではこれよりのち、富本一枝と富本憲吉の、家庭のなかでの言動から主題にふさわしいと思われる箇所を選択し、それを可能な限り対照しながら論じてゆきたいと思います。どのような情景が可視化できるのでしょうか。一枝だけを見ていたら見えないもの、憲吉のみに照明をあてていたら陰に隠れてしまうもの、つまり両者のあいだに流れる何か空気のようなもの、すなわち、生まれては消え、消えては再び生まれゆく、微細な引き合う力と反発し合う力が、現像できるかもしれません。読者のみなさまと一緒に、その特異な画像を楽しみたいと思います。
最後に、読み手のみなさまに申し添えます。一話一話はそれぞれに独立完結したものであり、連続したものではありません。そこで、まず目次をご覧になり、興味を引く題目を選び取り、気の向くままに、一話、そしてまた別の一話を読み進められることをお勧めいたします。その結果、全体として、この両人のあいだに存する空気感が、どのようなものであったのかを、わずかなりとも感じ取っていただけるにちがいありません。そうなれば、書き手としての私の大きな喜びにつながり、先立って、ここにお礼を申し上げたいと思います。
(二〇二四年初秋)