中山修一著作集

著作集22 残思余考――わがデザイン史論(上)

第一部 ウィリアム・モリス論

第六話 ウィリアム・モリスと富本憲吉夫妻が愛したトルストイ

はじめに

ウィリアム・モリスと富本憲吉夫妻には、共通した愛読書がありました。その作家はトルストイです。この三人は、どのような事情があって、その作家に接近したのでしょうか。その背景などを以下に少し検討し、類縁性の有無について探ってみたいと思います。

一.ウィリアム・モリスにとってのトルストイ

トルストイの『戦争と平和』と『アンナ・カレーニナ』に言及した、二通のモリスの手紙が残されています。最初の手紙は、一八八八年三月(おそらく一七日)にエドワード・バーン=ジョウンズの妻のジョージアーナ・バーン=ジョウンズに宛てて出されたものです。ジョージアーナは、仲間内ではジョージーと呼ばれ、モリスが安心して心を開いて語りかけることができる女友達でした。ふたりの政治的信条も近いものがありました。それでは、その箇所を引用します。

私は、トルストイの『戦争と平和』を読み進めてきています。ほとんどおもしろみといったものはありませんが、大いなる称讃でもって読了するのではないかと感じています

他方、同じ手紙のなかで『アンナ・カレーニナ』については、こう述べています。

 私は、『アンナ・カレーニナ』に取り組むことはないと思います。読むには、何かもう少し刺激となるものがほしいのです。いま、自分の感情が穏やかでないのです

どう穏やかでないのでしょうか。以下の文章が、この文に続きます。

自分がかかわったこうした最近の問題について、これ以上にもっとやれたのではないかという気持ちがあり、その思いを払拭することができません。もっとも、私に何ができたのか、実のところ、それはよくわからないのですが。しかし、私の気持ちは打ちのめされ、惨めなものになっています

明らかに、この一文に、自信を失ったモリスの内面が投影されています。このときのモリスの苦悩は、何に由来していたのでしょうか。少し描写してみたいと思います。

上記の手紙が書かれた前年の一八八七年一一月一三日のことです。いまなお英国史に残る、残忍にも公権力が行使された「血の日曜日」と呼ばれる政治事件が勃発します。この日、およそ一万人にのぼる失業者、急進主義者、無政府主義者、そして社会主義者たちが、ロンドンの至る場所に集結し、トラファルガー広場へ向けて行進をはじめました。モリスは、同志とともに社会主義同盟の隊列に加わっていました。官憲は、トラファルガー広場への侵入を食い止めるため、進行するデモ隊を威嚇し、警棒で叩きつけ、馬で蹴散らしました。血が流れ、数名の死者と多くの負傷者が出る結末となりました。

次の日曜日(一一月二〇日)、トラファルガー広場での惨劇に抗議する集会が、ハイド・パークで開かれました。集会は、比較的抑制されたものでしたが、馬に乗った警官隊が配備され、手向かう人間を追い散らしにかかりました。そのときのことでした。その公園のちょうど南側に位置するノーザンバランド・アヴェニューで、エルフリッド・リネルという名の急進派の男性が、騎馬警官の馬に蹴られ、それが原因で、その後病院で死亡しました。モリスは「死の歌」という追悼詩を書き、ウォルター・クレインの木版画が添えられ、八頁の小冊子としてリチャード・レンバート社から出版され、一ペニーで販売されました。遺児となったリネルの子どもたちを助けるための募金活動でした。一二月一八日に、リネルの葬儀が執り行なわれ、モリスはひつぎ持ちを務めました。墓地へ着き、ひつぎが納められるとき、モリスは、次のような、人間味あふれる追悼の言葉を発したのでした。

特定の組織に属さないひとりの人間がここに横たわりました。一週間か二週間前までは全くの無名で、おそらく数人の人にしか知られていなかった人物です。……ここに眠る友人は、過酷な人生を歩み、過酷な死に遭遇しました。もし社会が、いまと違ったかたちで成り立っていたならば、この人の人生は、愉快で美しく、本人にとって幸多いものになっていたにちがいありません。なさなければならないことは、この地上をことのほか美しく幸福な場所にするように努めることなのです

この時期のモリスは、リネルの死と同時に、もうひとつ別の大きな問題に関心を向けていました。それは、トラファルガー広場で逮捕されたロバート・カニンガム・グレイアムとジョン・バーンズのその後についてでした。警察裁判所は、六週間の監獄送りを彼らに言い渡していたのです。ふたりがペンタンヴィル刑務所を出所したのは、年が明けた一八八八年の二月一八日でした。この日モリスは、ふたりを出迎えに行きました。その翌日に長女のジェニーに宛てて出されたモリスの手紙によると、グレイアムは、辻馬車に乗って妻とともにちょうど出ようとしているところで、何とか握手をすることができました。バーンズは、まだ到着していない妻を待つために、歩いて通りを行ったり来たりしていました。話をすることができました。彼はモリスに、朝食と夕食に食べるパンのかけらを差し出して見せました。「ちょうど二口分で、決してそれ以上多くはありませんでした」

モリスが、『戦争と平和』を読み始めたのは、ちょうどこの「血の日曜日」以降の、政治的動乱の余波の時期でした。

残されているもうひとつの手紙は、ジョージーに宛てて出された手紙から九日遅れの三月二六日の日付をもつ手紙で、次女のメイに宛てたものです。旅行先のエディンバラから出されています。以下に、該当箇所を引用します。

 ほとんどもう少しで『アンナ・カレーニナ』を読み終わります。芸術作品としては『戦争と平和』よりはいいように思います。しかしときどき、私にとって読みづらい箇所があります

これ以上、何も触れていませんが、『戦争と平和』に続けて、このあとすぐにもモリスは、『アンナ・カレーニナ』もまた、読了したものと思われます。

二.富本憲吉にとってのトルストイ

富本憲吉がトルストイに言及するのも、手紙のなかにおいてでした。その手紙は、一九一一(明治四四)年六月二六日の日付をもつ南薫造に宛てて出されたものです。富本にとって南は、東京美術学校においては兄のような存在の先輩で、英国留学中においてはよき相談相手であり、帰朝後も、無二の親友として交流が続いていました。トルストイの名前が登場するのは、その手紙の末尾の箇所です。以下に抜粋します。

田植の最中に僕獨り笛をふいて居る。何むだかトルストイが地獄の底からオコリに来る様な気がしてならぬ。

時間があったら手紙たのむ

文面から、このとき富本は、体たらくな自己を凝視していることがわかります。しかし、なぜトルストイなのでしょうか。このように富本がトルストイを引き合いに出していることから推量しますと、富本と南のあいだでかつてトルストイが話題にのぼっていた可能性があります。ふたりがまだ美術学校に通っていたころのことになりますが、一九〇五(明治三八)年一月二九日の週刊『平民新聞』終刊号に、金子喜一の「トルストイとク ママ [ロ]ポトキン」が掲載されています。たとえば、こうした一文を富本と南は一緒に読んでいたのかもしれません。そこにはこのような一節があり、富本はそれを思い起こし、いまの心境を南に伝えようとしたものと思われます。

トルストイも、クラポトキンも、等しく露國の貴族で、而も時代の欠點をみて、两個等しく一身の地位幸福を犠牲として、社會民人のために起つた所の偉人である。彼等の胸中にひそめる思想は、實に社會民衆の幸福であつた。彼等两個が露國を愛し、露人を思ふの情は、恐らく他の何人にも劣らなかつたであらふ。然るに彼等两個は露國政府のために苦められた。トルストイは國教より見はなされた。クラポトキンは外國に放逐された

それでは、この手紙が書かれたときの富本の心のありようは、どのようなものだったのでしょうか。このことに関連しそうな、この手紙の別の記述箇所を、以下に引用してみます。

大和の空気、土の色、山の蔭、花の香、追想、古代の作品は皆僕自身の守本尊であるが、此處に住むで居る人間となると有金全体をカッパラって西洋で住むともコンナ国に住むものかと考へる程厭やだ

大和の昔ながらの旧い土地柄を憎む気持ちがよく表わされています。そして、また別の箇所では、富本は、こうも書いています。

Leach はウィリアム、モ ママ ママ スの様な小さい店を僕にやれとスゝメて居た。僕も何うかと思ふて居るが、コウ云ふ風に田舎で思ふ存分木版でもやる、片ヒマに河漁に行くと云ふ様になってはトウテイ東京へ出られない。早く麻上下を着せたいと家の人も云ふて居り僕自身も探して居るがサテとなると困るものばかり10

文中の Leach という人物は、英国留学からの帰国後、日本において知り合い、友情のきずなをつくり上げてきていたバーナード・リーチのことです。おそらく南に宛ててこの手紙を書く少し前に、富本は、孤独な田舎生活を心配するリーチからの手紙を受け取っていたものと思われます。

留学からもどると、ただちに東京での生活をはじめたものの、その生活に折り合いがつかず、生まれ故郷の大和の安堵村に帰還するも、結婚問題は五里霧中、将来の仕事の見通しも立たず、ただ木版画と魚釣りに明け暮れる日々。後年富本は、「私の履歴書」のなかで、このころの大和での生活を「精神的な放浪生活」と形容していますが、なぜ、こうした生活に陥ってしまったのでしょうか。ここへ至る富本の苦悩の様子を少し考えてみたいと思います。富本が、南に宛てて出した手紙のなかで、はからずもトルストイに言及せざるを得なかった背景が、ある程度判明するかもしれません。

富本は、イギリスから帰国すると、すぐにでも、帰朝報告として、かの地で調べてきたウィリアム・モリスの芸術と社会主義についてまとめ、世に問おうとしたにちがいありません。しかし、日本の社会状況がそれを許さなかったものと推量されます。以下は、晩年に語っている富本の認識です。

[イギリスから]帰ってきてモリスのことを書きたかっ ママ んですけれども、当時はソシアリストとしてのモリスのことを書いたら、いっぺんにちょっと来いといわれるものだから、それは一切抜きにして美術に関することだけを書きましたけれども11

富本がここで述べている「ちょっと来い」というのは、官憲による連行や検束、さらには検挙や投獄を意味しているものと思われます。

周知のように、『平民新聞』などにみられた反戦や非戦の論調に耳を傾けることなく、対露軍事行動の開始が御前会議で決定されると、一九〇四(明治三七)年二月一一日の紀元節の日に国民へ公表することを意図して、前日の一〇日に宣戦が布告されました。こうして日本は日露戦争への道を邁進することになります。

偶然ではありますが、同じこの年の四月に、富本は東京美術学校へ入学します。入学以前にすでに富本は、週刊『平民新聞』をとおしてモリスの社会主義の一端に触れています。入学後には、日露戦争反対の意志表示とも受け止められる「亡国の会」と書き記された自製絵はがきを郡山中学校時代の恩師に送っています。そして、「徴兵の関係があった」ために、卒業を待たずして、急きょ私費で英国へ留学します。目的は、「図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかった」ことでした。

韓国の保全が日露戦争のひとつの名目となっていました。その戦いに勝利するや、日本は韓国に対する政治的経済的支配を着実に進めてゆきます。これに対する韓国国民の怒りを象徴する出来事が、安重根による一九〇九(明治四二)年一〇月の伊藤博文の暗殺でした。安重根は翌年三月、旅順において死刑が執行され、一方、日本国内にあっては、日韓併合に至る侵略行為が阻まれることを恐れ、社会主義者や無政府主義者の根絶が企てられることになりました。おおよそこうした経緯をたどって大逆事件は発生するのです。

大逆事件の発端は、一九一〇(明治四三)年五月二五日の宮下太吉の逮捕でした。そしてその翌月の六月一五日に、イギリスから富本が帰国するのです。一二月一〇日、大審院において二六名の逮捕者について裁判開始。年が明けて一九一一(明治四四)年一月一八日、全員に有罪の判決言い渡し。何と六日後の一月二四日に、一一名の男性死刑執行。翌二五日、一名の女性死刑執行。こうして、架空の「天皇暗殺計画」の容疑により逮捕された社会主義者や無政府主義者の二六人のうち、『平民新聞』を創刊した幸徳伝次郎(秋水)と管野スガを含む一二人に対して、大逆罪での死刑が執行されました。その一週間後の二月一日付の南に宛てた書簡のなかで、富本は次のように述べています。

明治の今は僕等を苦しめる様に出来 ママ て居る時代とも考へられる12

富本の帰国後の東京滞在期間中に起こった大逆事件は、富本の政治的信条に少なからぬ衝撃を与えたものと思われます。そして、時を同じくして、『東京朝日新聞』が「危険なる洋書」を連載したこともまた、洋行帰りの富本に衝撃を与えたにちがいありません。といいますのも、富本はそのとき、モリスの伝記であるエイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を読み、日本に紹介しようとしているところだったからです。この本には、モリスの社会主義についても言及されていました。富本が帰国して三箇月が立った一九一〇(明治四三)年の九月一六日から翌月の四日にかけて、『東京朝日新聞』は、「危険なる洋書」の連載を展開します。ねらいは、自然主義や社会主義が伝統的な道徳や習慣に反する破壊思想であるとの立場から、「危険なる洋書」を取り上げ批判と攻撃を加えることでした。この連載で断罪されたのは、たとえば、モーパッサン、イプセン、ニーチェ、オスカー・ワイルド、ゾラ、クロポトキンなどで、それを紹介したり模倣したりしていた日本の文学者が標的とされました。また、実質一四回に及ぶ連載において取り上げられたのは個人作家だけではありませんでした。九月一八日の三回目の連載においては「露西亜小説」が論じられます。そのなかで筆者は、ロシアの作家であるトルストイについて、こう述べるのでした。

……トルストイの小説例へば「復活」などになると主人公が共産主義を實行しようとして實行し得ず煩悶して居る有樣が奨励的態度で書いてある13

大逆罪による死刑の執行、「危険なる洋書」への批判記事、いずれもが、西洋の空気に触れて帰朝した富本の初々しい精神に重くのしかかったものと思われます。他方で、当時美術界全体を支配していたのが、旧弊な秩序に守られた官僚主義であり、それに対しても、富本は苦しめられました。

以下は、上の書簡の一週間前の一九一一(明治四四)年一月二五日に、同じく南に宛てて出された手紙の一節です。美術学校の教授たちに対する強い反感が読み取れます。

昨夜美術学校の老朽だが形式上の上から面白い奮木造建築全部灰となった。原因は今未だ解らないが僕等が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は焼けた。外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あるのに敬愛すべき建築物が先き ママ 焼けて厭やな奴は世にハビコル。アゝ――14

次は、四月一九日のリーチの日記からの引用です。「個人的に独立して活動する画家や彫刻家や建築家には、めったに好機が訪れない。人びとは役人にへつらう習慣から逃れることができない。高村もトミーも、他の人もそうだが、反旗を揚げることができず、それで逃避したがっているように見える」。「高村」は高村光太郎を、「トミー」は富本憲吉を指します。そして、続く二七日の日記には、こう書かれてあります。「トミーは落ち着いて仕事に打ち込むために、五月三日ころに田舎へ帰る。高圧的な官僚主義的芸術の影響から逃れるためもあるのではないかと思う」。

一方、南に宛てた四月二二日の富本の手紙には、こうした文面を読むことができます。

展覧會は先づ成功の方だろう。……君や僕の版画、リーチのエッチングを買って行く人も大分ある。……室内の装飾、リーチのやった ママ [ズ]ックのステンシル、僕の椅子等大分評ばんが良い。……只例のバルーン、イワムらが何うも困った15

「バルーン、イワムら」とは、美術学校で美術史を講じていた教授の岩村透男爵のことです。続けて富本は、四日後の二六日にも南に書簡を送ります。

……急に荷物をまとめて来月二日頃大和へ歸る事になった。柏木の置ゴタツ吾楽の小品集も夢の様だ。誰れも大和へ行けと命令するものもなく、餘儀なく歸ると云ふ譯でもない。春の東京はカッフエー、プランタンにローカン洞にニギヤカな事だ。此の世界をのがれて肩をすぼめて旅に行く。

去年丁度ロンドンを立ったのも今頃。

何うせ大和へ行ったって長くは持つまいと思ふが例へばサラサラと来る風が細い枝を譯なく吹く様に病後の冷たい手足を運命に託して西へ行く16

こうして帰国後の一年は、あわただしく過ぎてゆき、喧騒の東京から逃げるようにして、「肩をすぼめて」安堵村へ帰る富本の胸には、どのようなことが去来していたのでしょうか。帰国後も変わらぬ友情で支えてくれる南が側にいました。相互に信頼できる友人としてリーチとの因縁にも似た出会いもありました。腸チフスで入院したときには、このふたりは見舞いに駆けつけてくれたりもしました。そして、吾楽殿での展覧会が、幸いにして、帰国最初の作品発表の場となりました。さらに、東京を離れるに際しては、五月八日付の南宛ての富本書簡によれば、「森田は僕の歸国を東京から夜にげと評し、岩村先生は国家のために何むとかと言はれた」17。このように引き止める者もありました。それでも富本の気持ちのなかには、何か満たされないものが沈着していたのです。

このときの富本の大和への帰郷には、政治への不信、美術界への反発、加えて、選ぶにふさわしい伴侶の不在が、大きく影を落としていました。どのひとつをとっても、簡単には解決ができそうにない大きな問題です。まさしく富本は、八方ふさがりの状態にあったのです。ここにおいて富本は、「田植の最中に僕獨り笛をふいて居る。何むだかトルストイが地獄の底からオコリに来る様な気がしてならぬ」と、自らの虚無的状態に対する罪悪感を南に吐露するのでした。

三.富本一枝にとってのトルストイ

憲吉が妻に選んだのは、平塚らいてうが興した青鞜社のかつての同人だった尾竹一枝でした。一枝も含め青鞜に集う女たちは、「新しい女」とも「新しがる女」とも呼ばれていました。結婚後、翌一九一五(大正四)年の早春に、憲吉と一枝は東京を離れ安堵村へ移り住むと、憲吉はそこで築窯し、製陶の道へと入っていきます。それからしばらくして、一九一九(大正八)年の一一月、らいてうは安堵村に一枝を訪ねました。そのときの様子を自伝『元始、女性は太陽であった』のなかで、らいてうは、こう書き記しています。

 一枝さんの書棚には、トルストイのものなどにまじって、教育関係の書物がどっさり並び、陽ちゃんと陶ちゃんは一枝さん自身の考案でつくらせたという、珍しいおもちゃで遊んでいました18

らいてうが訪問してからおそらくおよそ二年後のことでした、奈良女子高等師範学校(文科二年)のひとりの学生が富本一枝を訪ねてきました。この女学生が、のちに女性解放運動家として、そして社会評論家として活躍することになる丸岡秀子です。彼女の自伝的小説『ひとすじの道』のなかに、一枝の書棚についての描写があります。以下に、その箇所を抜き書きします。

 一枝の書架には、新しい本がぎっしりつめられ、机の上に置かれた原稿用紙と、インクとペンは、これまでの女の生き方を否定し、新しい生き方の模索のために、書き手を待っているようであった。

 その書棚には、女高師という名の学校の図書館では見られない‶禁じられた本″が並んでいた。トルストイ、ドストエフスキーからはじまって、ツルゲーネフ、ゴーリキーなどのロシアの作家のもの。そしてまた、バルザック、ユーゴー、デュマ、ゾラ、モーパッサン、ロマン・ローランなどのフランス文学者の名が背文字に並び、数え上げられないほどだった19

おそらくこの書棚は、結婚以前に双方がそれぞれに購入していた本と、結婚後に夫婦が購入した本とがすべて並べられた、憲吉と一枝の共有財産としての本箱だったものと思われます。

一枝自身は、一九一三(大正二)年一月号の『新潮』のなかで、「舊い新しいの意味が、昔の女と今の女と云ふのなれば、私は昔の女が好きで且つそれを尊敬し、自分も昔の多くの傑れた女の樣になりたいと思つて居ます」と、述べていますように、決して「新しい女」などではなく、どちらかといえば、旧い伝統的な価値を身にまとった女性でした。そしてまた、結婚に際して『淑女畫報』(一九一四年一二月)に掲載された暴露記事のタイトルが、「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」というものであり、この記事のなかでさらに注目されてよいのが、「紅吉女史は女か男か」という見出し語に続けて、紅吉のセクシュアリティーに関して詳述されていたことでした。「紅吉 こうきち 」という名は、青鞜時代の一枝のペンネームです。

書棚に並べられた本に関しての新思想にかかわる読書の指南役は、もっぱら憲吉が担っていたにちがいありません。一枝は、一九一七(大正六)年一月号の『婦人公論』に寄稿した「結婚する前と結婚してから」のなかで、次のように告白しています。憲吉と一枝には、近代精神の体得という観点から見れば、年齢的な差もあり、体験、知識、語学力のどの面においても、おそらくいまだ大きな開きがあったものと思われます。

 彼と私は、思想に於いてまだまだ ひど く掛け離れてゐる。……私の心は悩む、そして度々考へた。単純な自然的な正直な生活を營むには、未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ。それがどんなに彼を寂しく悲しくするか知れない20

さらに一枝は、「夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる」21とも、書いています。憲吉が、一枝を「指導してゐる」のは、ひとつには、一枝のセクシュアリティーにかかわる問題(つまり、体の性と心の性がどうしても一致しない違和感や不安感にかかわる問題)についてであり、いまひとつには、妻であり母であることにかわわる問題(つまり、自我を殺し、家に縛られる女性像と、そこからの解放や自立を求め、行動する女性像とのあいだの越えがたい溝)についてであったにちがいありません。おそらく憲吉に勧められ一枝がトルストイに接近したのは、この時期だったものと推量されます。

それから歳月が流れ、一枝は、砧村の成城学園滞在のためにふたりの娘(陽と陶)を連れて上京します。『讀賣新聞』(一九二五年九月二九日)は、「よき母=尾竹紅吉さん 愛嬢を連れて上京 奈良の山奥から 昔忘れぬ都に憧れて」という見出しのもとにそのことを記事にしました。以下は、そのなかの一節です。

子供がある樣になつてからは育児や家事に追はれ、ろくろく勉強も出來ませんが、夜分は十時頃から一時頃までも讀書にふける事があります[。]これ迄はトルストイ物が好きでしたが、近頃はピーター、クロポトキンやアルツイバーセフの物などが好きになりました、もツと讀んで研究を積みたいと思ひます22

これが、安堵村における一枝の読書生活の一端を物語る資料です。しかしながら、翌一九二六(大正一五)年の秋、富本一家は、あたかも追われるかのようにして、安堵村を出て、東京へと向かいます。一枝のセクシュアリティーに関する問題が背後にあったようです。

おわりに

以上に述べてきましたように、残されている資料からわかることは、ウィリアム・モリスが読んだトルストイの作品は、『戦争と平和』と『アンナ・カレーニナ』で、一八八八年のことでした。しかしながら、富本憲吉と妻の一枝が読んだトルストイ作品が何であったのか、そしていつのことだったのかは、正確に特定することはできません。ただ、三者に共通していることがありました。それは、苦難の時代にトルストイに接近しているということです。

モリスについていえば、一八八七年一一月に起こった「血の日曜日」の暴動事件以降、自らを襲った政治活動への極度の疲労感が、その誘因となっていました。憲吉についていえば、モリスの芸術と社会主義に憧れて英国に渡るも、帰朝するや否や、美術界を支配する官僚的権威主義に、そしてさらには、社会主義を弾圧する政治的状況に直面し、それに強く苦しめられたことが、要因となっていました。他方、一枝についていえば、自己の性的少数者としての悲痛や、近代の新しい女になりきれないことに伴う苦痛が、その遠因となっていました。そうした事情を考えますと、明らかに三者は、己の苦しみの由来を探り、その解決の方途を模索するなかにあって、トルストイが描いた世界に入っていったことが判明いたしました。

追記(1)――富本憲吉夫妻の愛読書とその後の思想と行動

本稿で得られた結論は、以上のように、ささやかで微小のものです。しかし、このトルストイ体験がとりわけ富本憲吉夫妻ののちのちの人生に及ぼしたと推量される世界は、決して微小ではなかったように感じられます。そこで、「追記(1)――富本憲吉夫妻の愛読書とその後の思想と行動」と題しまして、これより若干の考察を行ない、彼らのその後の政治的生涯を短く跡づけてみたいと思います。

富本家の本箱を陣取っていたのは、『東京朝日新聞』が指弾するところの「危険なる洋書」であり、同じく丸岡秀子が命名するところの「禁じられた本」でした。トルストイをはじめとする、このような愛読書が、どのように富本夫妻の思想と行動を形づくっていったのでしょうか。どの本の内容が、富本夫妻のどのような精神基盤の形成に寄与していたのかを、一対一の関係で具体的に実証することは実際上困難なように思われますが、全体としては、若き日に愛読した書物が、その後のふたりの思想と行動の血肉になっていたことは明らかなように推量されます。それでは以下に、このことについて幾らかなりとも例証してみたいと思います。

一九二〇(大正九)年、憲吉は、『女性日本人』一〇月号に「美を念とする陶器」を寄稿します。そのなかで憲吉は、陶器だけではなく、自分たちの考えや生活も見てほしい、と読者に呼びかけるのです。

 私の陶器を見てくださる人々に。何うか私共の考へや生活も見てください、私は陶器でも失敗が多い樣にいつも此の方でも失敗をして居りますが陶器の方で自分の盡せるだけの事をしたつもりで居る樣に此方についても出來るだけ良くなるためにつとめています。それが縦ひ非常に不十分なものであつても23

ここからわかることは、明らかに憲吉は、陶器と生活とのふたつの事象についてともに改善を図ろうとしていることです。生活における改善のなかには、一枝のセクシュアリティーの克服に関する問題や、女性としての近代的な生き方に関する問題が含まれていたものと思われます。

家庭運営上の革新的な原理は、一九一七(大正六)年の「富本憲吉氏夫妻陶器展覧会」の名称にみられますように、生み出される陶器は夫婦共有の協同作品であるという認識をもたらしただけではなく、家事にかかわる夫婦の役割分担にも、変化をもたらしました。以下の一節は、同じ号の『女性日本』へ一枝が寄稿した「私達の生活」のなかからの引用です。

二三日雨が降りつゞいて洗濯物がたまる時がある。そんな時、私と女中が一生懸命で洗つても中々手が廻りかねる[。]それを富本がよく手傳つて、すすぎの水をポンプで上げてくれたり、干すものをクリツプで止めてくれたりしてゐるのを見て百姓達はいつも冷笑した。「いゝとこの主人があんな女の子のやる事をする」といって可笑しがる。……可笑しいと云ふより、本當は危険視してゐたかも知れない。同じ村に住む自分達の親類になる人さへ、私達の生活は「過激派の生活だ」と言つて、自分の若い息子をこゝに遊びに寄すことをかたく禁じているのだ。私達が一緒に、一つの食卓をかこみ、同じ食物で食事をすまし、一緒に遊び、一緒に働くことが危険でたまらないのだ。私達は、その人達の考へこそ可成り危険だと思ふのに24

読んでのとおり、一枝は憲吉のことを、「旦那さま」とも「主人」とも呼ばず、「富本」と呼んでいます。他方憲吉は、家事のすべてを一枝に押し付けるのではなく、積極的に自らも参加します。こうした生活の実態こそが、ふたりにとって、封建的な旧い習俗から解き放された、正直で、真実で、純粋な生き方であったにちがいありません。これが、一枝のいう、「夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる」、その具体的な実践例だったのかもしれません。しかし、村人や親類はそうした生活や考えを危険視しました。それだけではなく、官憲の目にもまた、それは「過激派の生活」に映りました。『近代の陶工・富本憲吉』の著者の辻本勇は、すでに英国に帰っていたリーチに宛てて出された手紙のなかで、憲吉は、こうしたことを書いているといいます。

「日本や国家のことについては書かないで下さい。警察がぼくへの君の手紙を調べているようだ」とか、「手紙は陶器のことだけを書いて下さい、君の手紙は竜田郵便局からまず警察署へ送られ開封され読まれているようだ、君には考えられもしないことだろうが……これが近代日本なのだ」25

かつて憲吉が「ウイリアム・モリスの話」を書いたことも、また、かつて一枝が青鞜社の社員であったことも、官憲の目からすれば、体制に抗う行為のひとつとして、受け止められていたのでしょうか。あるいは、当時の人的交流に疑いの目が向けられた可能性もあります。数例を挙げてみます。一九一七(大正六)年に憲吉と一枝は、幼子の陽を伴い、和歌山の新宮にある西村伊作邸を訪ね、そこに約一箇月間滞在しました。西村は、叔父の大石誠之介が大逆事件に連座して死刑に処されていましたし、友人には、美術家や文学者のみならず、社会主義者の賀川豊彦や堺利彦なども含まれていました。のちに西村は、自由主義的な校風をもつ文化学院を創設します。一九二三(大正一二)年には、自由学園の創設者の羽仁もと子が、卒業旅行として第一期生を率いて富本家の本宅に宿泊します。そのなかには、のちに社会運動家として活躍することになる石垣綾子や、童話作家で児童文学者となる村山籌子 かずこ が含まれていました。それからしばらくして、一枝は、川崎・三菱両造船所での労働争議の際に陣頭に立って指揮した賀川豊彦へ宛てて綾子を紹介する文を書いていますし、一方籌子は、富本一家が東京に移転したのちの一九三一(昭和六)年に、ロシアから帰国したプロレタリア文化運動の指導者である蔵原惟人を密かに連れてゆき、富本家にかくまわれるように手配を整えました。また、当時しばしば安堵村の富本家に顔を出していた、奈良女高師の学生だった丸岡秀子が記憶するところによれば、マルクス主義者の片山潜の娘が、日本を去る前に富本家に立ち寄っていました。こうした人的な交流の影響もあってのことでしょうか、警察の監視下にあるような状態は、安堵村時代以降も、アジア・太平洋戦争が終結するまで連綿と続くのでした。

米価の高騰が民衆の生活を圧迫し、暴動事件へと発展したのが、いわゆる米騒動と呼ばれるもので、一九一八(大正七)年の七月の富山での勃発以降、全国規模の広がりをみせます。そのとき以来、何らかの対応を富本家の戸主としての憲吉に迫るような状況が生まれたものと思われます。以下は、一九二五(大正一四)年九月二八日の『讀賣新聞』に掲載されている一枝の証言です。

此頃は私共の村にも産業革命の波が押寄せて参りました[。]小地主の苦痛は一方でありません[。]小作人は組合を作つて地主側と對抗し、いろいろの運動を起しますので大地主は別ですが小地主は全く立つ瀬がないやうです、私は先だつて富本の實家へも、其産業革命の近附いた事を話して地面を賣り拂ふやうに告げましたが都會と異り田舎に居ると、そんな事がハツキリわかります。けれどそれは不思議でもなんでもない當然の事で今迄の社會がそんな風でなかつた事が寧ろ不思議なんです26

地主であるがゆえの不安と苦悩が常に憲吉の身に影を落としていたことは、十分に想像できます。それでも憲吉には、地主と小作農の関係が今後どのようなかたちへ向かうのか、つまりこの社会的課題の決着の方向性として農地の解放のようなことがどう行なわれるのか、ある程度の確信をもって展望されていたにちがいありません。といいますのも、憲吉はのちの座談会で、モリスの社会主義が話題になる文脈において、こう語っているからです。

 私は大正のはじめ頃、いまに小作権を持っている者が、地主から田地をとってしまうようになるといったんですが、叔父がそんな因業なことをいうなといってけんかした。戦後叔父が死ぬ前にあいつのいうようになってしまったが、どうしてあいつは知っていたのだろうといったそうです27

座談会でのこの発言が『民芸手帖』に掲載されるのは、一九六一(昭和三六)年の九月号なので、憲吉が死去する二年前のことです。この発言は、自分が社会主義者、ないしは社会主義の適切な理解者であったことを暗に自ら告白する最初で最後の語りとして受け止めて差し支えないものと思われます。

一方、戦前一枝は、官憲の手によって一時期身柄を拘束されたことがありました。一九三一(昭和六)年四月のある夜のことでした。前年の七月に、当時の共産党中央委員会の命令のもと非公然とソ連に渡り、モスクワで開かれたプロフィンテルン(労働組合国際組織)の第五回大会に出席したのち、党の事情でそっとこの二月に日本に帰ってきていた蔵原惟人が、村山籌子の案内で、畑のなかの暗い道を通って密かに富本家を訪れたのです。蔵原は、当時の日本にあってプロレタリア文化運動を理論面で支える中心的な人物でした。一方、藏原を富本宅へ案内した村山籌子は、舞台芸術の演出家の村山知義の妻であり、当時童話作家で詩人として活躍していました。村山知義の二度目の収監が、一九三二(昭和七)年の二月で、蔵原惟人が獄窓の人になるのが、同年の七月のことでした。それからちょうど一年後、今度は一枝が官憲の手によって連行されます。一九三三(昭和八)年八月一三日の『週刊婦女新聞』は、「富本一枝女史檢擧――警視廰に留置、転向を誓ふ」という見出しをつけて、次のように報じました。

青鞜社時代の新婦人として尾竹紅吉の名で賈つた現在女流評論家であり美術陶器製作家富本憲吉氏夫人富本一枝女史は過日來夫君と軽井澤に避暑中の處、去る五日單身歸京した所を警視廰特高課野中警部に連行され留置取調べを受けてゐるが、女史は先週本欄報道の女流作家湯浅芳子氏と交流關係ある所から、湯浅女史を中心とする女流作家の左翼グループの一員として約百圓の資金を提供した事が暴露したもので、富本女史は野中警部の取調べに對して去る七日過去を清算轉向する事を誓つたと28

すでに述べていますように、大和の安堵村における富本一家の生活には警察の目が向けられていましたが、東京移転後の千歳村での生活においても、それは、一段と厳しいものとなって、続いていました。長男の壮吉の親友だった詩人で作家の辻井喬は、後年こう振り返っています。

 尾竹紅吉は私の同級生富本壮吉の母親であった。彼とは中学・高校・大学を通じて一緒だったが家に遊びに行くようになったのは敗戦後である。それまで富本の家は警察の監視下にあるような状態だったから、壮吉も私を家に誘いにくかったのである29

戦争が終わり、新しい社会の建設がはじまると、しばしば一枝は、「社会主義」を口にするようになります。一九六一(昭和三六)年は、『青鞜』創刊五〇周年を祝う記念すべき年でした。この年の九月三日に発刊された『朝日ジャーナル』(第三巻第三六号)には、座談会「婦人運動・今と昔――この半世紀の苦難の歩み――」が掲載されています。この座談会へは、平塚らいてう、山川菊栄、富本一枝、市川房枝が出席し、井手文子が司会を務めました。そのなかで一枝は、これからの若い女性たちに期待を寄せて、このように語るのでした。

 いまの母親大会とか、そういうものが、一つのデモに終わってはならないということもありますが、社会主義社会でないと、本当の解放はあり得ないにしても、いまの世では無理なことがたくさんあって、放っておいてはダメですから、やはりやっていかなければならない。その意味では、これからの若い人たちに信頼する以外に手がないし、また恐らくうまくやるだろうと思っています30

一枝が、平塚らいてうとともに、進んで新日本婦人の会の結成に参加し、中央委員になったのは、亡くなる四年前の一九六二(昭和三七)年の一〇月のことでした。

それから八箇月後、憲吉は一九六三(昭和三八)年六月八日に黄泉の客となります。すると、さっそく蔵原惟人が筆を執り、「富本憲吉さんのこと」と題して『文化評論』に寄稿し、戦前、非合法の共産党員であった自分を富本家がかくまってくれた経験を公表します。そのなかで蔵原は、そのときの憲吉の様子を、こう描写するのでした。

ある時「社会主義になったら私の仕事など役にたたなくなるのだから」という意味のことを私にいった。私は「そんなことはありません。社会主義になったらその時こそあなたの作品はほんとうに大衆のものになるのです」というと、「そうですか」と、なお半信半疑の様子だった。

 「実は私はほんとうに多くの人が平常使えるような実用的なものを作って安く売りたいのですが、まわりのものがそれをさせないのです。美術商などは、‶先生、そんなに安く売られては困ります″というのですよ」ともいっていた。若い時ウイリアム・モリスの生活と芸術の結合の思想に傾倒していた富本さんは生涯その理想をすてなかったようだ31

そして蔵原は、この「富本憲吉さんのこと」において、このようなことも書き記します。

富本さんは戦後、日本芸術院会員、東京美術学校教授を辞任して、郷里である奈良県安堵村の旧宅に帰り、京都で陶業に従っていたが、そのあいだ京都府委員会の同志を通じて、わが共産党の活動にも協力して下さっていた32

しかし、生前憲吉が「共産党の活動にも協力」していたことについては、残る資料には何も見出すことができません。モリスをして「社会主義者」と呼ぶのも、戦後の晩年になってからのことでした。それほど憲吉の口は堅かったのです。

次の文を想起したと思います。文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)のなかの一節です。生前の一九五六(昭和三一)年に口述され、没後六年が立った一九六九(昭和四四)年に第一法規から上梓されています。

[ロンドンから帰ってその]後の話ですが岩村 とおる 氏の美術新報に大和から原稿を送ったことがありました。それに美術家としてのモリスの評伝を訳して出しましたが、社会主義者の方面は書きませんでした。あの当時もしも書けば私はとっくに獄死して、焼物を世に送ることはできなかったかもしれません33

憲吉が『美術新報』に寄稿した「モリスの評伝」とは、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を底本に使った、一九一二(明治四五)年の『美術新報』第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)に分載された「ウイリアム・モリスの話」です。しかし、モリスの社会主義について触れることはありませんでした。このとき憲吉は「獄死」を意識しています。堺利彦が『平民新聞』にモリスの「理想郷」を訳出したのちに投獄されたことや、大逆事件で社会主義者の多くが極刑に晒されたことが念頭にあったのかもしれません。あるいは、「危険なる洋書」や「禁じられた本」に、何らかの影響を受けていた可能性も考えられます。いずれにせよ、裏を返せば、それほどまでに、憲吉の社会主義理解は深く進んでいたのでした。しかし、優先させたのは、「焼物を世に送ること」でした。

モリスは、はっきりと自分が社会主義者であることを聴衆の面前で公言しています。一八八三年、モリスは、卒業校であるオクスフォード大学と新たなかかわりをもつことになります。民主連盟に加わる四日前の一月一三日に、満場一致でモリスは、エクセター・カレッジの名誉フェローに選出されたのでした。バーン=ジョウンズも一緒でした。七月二日には、ふたりは、エクセターのフェローとして迎え入れられ、ホールでの正式の晩餐会に臨みます。次にオクスフォードへ行く機会が訪れたのは、一一月一四日のことでした。このときモリスは、「芸術と民主主義」(のちに「金権政治下の芸術」に改題)と題して、講演を行なったのです。議長席には、スレイド校(ロンドンのユニヴァーシティー・カレッジのスレイド純粋美術学校)の教授を務めていたジョン・ラスキンが着きました。ここでモリスは、これまでの幾つかの講演でしばしば言及していた芸術の現状を繰り返し指摘します。

そうするとそのとき、事態はこうなるのです。大芸術家たちの精神は偏狭なものになり、孤立することによって共感は凍りつき、一方の協同的芸術も、行き先を失います。いやそれだけではありません。それに加えて、大芸術と小芸術がともに生存するうえでのまさしく飼料そのものが破壊されつつあるのです。芸術という泉は、その源で汚染されているのです34

こうして話が進行し、ついにモリスは、自身が社会主義者であることを述べるに至るのでした。

 といいますのも、私は「社会主義者と呼ばれる人たちのひとり」だからなのです。そのため私は、経済的な生活状態にかかわって革命が起きるだろうと確信しているのです。……封建制度下の個人的な関係と、ギルドに所属する工芸家の団結的な企てにつなぎ止められた、未発達状態の中世から、自由放任主義の競争が全面的に吹き荒れる一九世紀へと至る変化は、私が思いますに、それはそれ自身で、無秩序を招来しようとしているのです……35

そして、モリスはいいます。「芸術とは、人間の労働の喜びの表現なのであります」36

一方の憲吉は、どうだったでしょうか。自ら進んで自身の政治的信条を公言することも、政治運動に参加することもありませんでした。慎重にも表面上は、いわゆる「日和見的な姿勢」を貫いたのです。すでに引用していますように、蔵原に対して富本は、「実は私はほんとうに多くの人が平常使えるような実用的なものを作って安く売りたいのですが、まわりのものがそれをさせないのです」と、語っています。おそらく富本は、真の芸術が生活のなかから生まれた大衆のものであることを、モリス同様に、理解していたでしょう。しかし、それでも富本は、モリスと違って、その理想的実現に向けて、わが身を社会主義運動に投じることはなかったのでした。あえて推断するならば、このことにかかわって憲吉は、生涯にわたってこう思い続けていたかもしれません。「田植の最中に僕獨り笛をふいて居る。何むだかトルストイが地獄の底からオコリに来る様な気がしてならぬ」。しかしながら、敗戦に至るまでの長いあいだ警察の監視下にあるような過酷な状態にあるなかにあっては、本人にとっては、社会主義者ないしは共産主義者であることを喧伝するまでもなかったにちがいありません。

モリスは、真の「芸術」を再生させるために実質的に「主義(イデオロギー)」に身を投じました。モリスを師とした富本は、自分の「芸術」を確保するために形式的には「主義」を捨象しました。時代も社会も異なるにせよ、英国と日本のそれぞれの地域を代表するふたりの偉大なデザイナーの大きな違いが、ここにあったのでした。しかし、はっきりしていることは、デザインとは、使用において生活にかかわることであり、同時に、生産において社会にかかわることであり、そこでは、常に真の意味での「芸術」と、あるべき理想の「政治」とが考察の対象となり、深くイデオロギーとかかわっているということではないでしょうか。モリスも富本も、まさしくそのことにいち早く気づいた近代初期の傑出したデザイナーだったのです。

追記(2)――富本一枝の読書熱と自己のセクシュアリティー

以上、富本憲吉と富本一枝の生涯にわたる思想と行動に関連して概略的に記述してきましたが、ここから見えてくることは、その源泉となるものが、富本家の本棚を占めていた「危険なる洋書」や「禁じられた本」と呼ばれる、若き日のふたりの愛読書だったのではないかということです。しかし、この本棚には、別の特異な書物類も隠れるようにして隅の方に並べられていた可能性があります。それは、一枝の性的少数者としてのセクシュアリティーに関連する知識を提供する本であったと想像されます。のちに長女の陽は、自己の半生を扱った短文の自伝小説「明日」(一九三五年三月号の『行動』に掲載)を書くことになりますが、そのなかに、以下のような、一枝が読書をする情景が描かれています。「瑛子」が筆者の陽であることは、間違いありません。

瑛子は、まだ幼かつた自分や妹を寝かしつけ、父が寝室にはいつてから、はじめてやつとほつとしたやうに、それも極めて遠慮ぶかい恰好で夜中の二時三時まで本を讀んでゐた母の姿をよく思ひだす。そんな時どうしても安心して眠ることが出來なかつたことも思いだされる。父が苛々して、やはり寝ないで母が本を讀むのを止めるまで待つてゐる、その氣配が母を背中から刺し透すよりもつとつよく瑛子にもかんじられてゐたから。異様に光つた眼をして落ちつかないその父の姿をみると、「お母さんの馬鹿、もう止めればいゝのに。なんて厭な母さんだらう。いゝ加減にしないかな」と、瑛子までやきもきしなければならなかつた。これらは瑛子がまだ六つか七つ頃の記憶だつた37

執筆当時(あるいは、おそらく生涯にわたって)陽は、母親のセクシュアリティーに関する悲痛については気づいていなかったものと思われます。そこで、母親が夢中になって読書をするのは、文学への執拗な情熱に起因しているものと考えていました。しかし私は、その可能性を決して否定するわけではありませんが、別の誘因があってこの時期、人目につかないように夜遅くそっと本を開き、自分の不思議なセクシュアリティーと向き合っていた可能性もあるのではないかと想像しているのです。そしてその本は、『變態性慾論』、あるいは「性的叢書」(全一二編)ではなかったかと思われます。

富本憲吉と尾竹一枝は、一九一四(大正三)年の一〇月に結婚をし、翌年の三月に住むところを喧騒の都会から田舎の村へと移し、同年の八月に第一子の陽が誕生します。この転居には、一枝に備わる「同性の愛」からの解放が暗にもくろまれていました。

すると、ちょうどこの年の六月、羽太鋭治と澤田順次郎の共著になる『變態性慾論』が春陽堂から出版されます。著者の肩書きは、羽太鋭治が「ドクトル、メヂチーネ」、そして澤田順次郎が「國家醫學會會員」となっており、総頁数七〇〇頁を超える大部なもので、主として同性愛と色情狂を扱っていました。明確な証拠は見出せませんが、おそらく憲吉と一枝は、この本を読み、ここから多くのことを学んだものと思われます。

この本の「第一編 顚倒的同性間性慾」の「第七章 女子に於ける先天的同性間性慾」が、内容的に、とりわけふたりの関心事になったものと思われます。まず「緒論」のなかで、女性間性欲の海外での名称として、「サフヒズム」「レスビアン、ラブ」「レスビアニズム」などが使われていることが紹介され、一方わが国においては、異名として「といちはいち」「おめ」「でや」「おはからい」「お熱」「御親友」などの隠語があり、「おめ」とは「男女」を指すことも述べられています。「緒論」に続いて、この第七章は、「第一節 女性間性慾の原因」「第二節 女性間性慾の行はるゝ社會の階級」「第三節 女性間性慾者の情死」「第四節 外國に於ける女性間性慾」「第五節 女子精神的色情半陰陽者」「第六節 女子同性色情者」「第七節 女性間同性色情と男子的女子との中間者」「第八節 男性的女子」「第九節 男性化又男化」の全九節で構成されています。そしてさらには、「第九章 顚倒的同性間性慾の利害及び其社會に及ぼす影響」の「第三節 矯正及び治療法」もまた、ふたりにとって興味のある箇所だったものと思われます。というのも、ここには、催眠術によって異性に対する性欲を回復させる「催眠療法」、運動、食物、精神の慰安による「攝養法」、そして、異性との正式な交接を招来する「結婚療法」が挙げられていたからです。

安堵村への転居後、最初に発表した本格的な一枝のエッセイが、一九一七(大正六)年の「結婚する前と結婚してから」(『婦人公論』一月号)でした。そのなかで一枝は、こうしたことを書いています。「都會を出立して田舎に轉移した彼と私は彼の云ふ高い思想生活を私達の爲めに營むべく最もよい機會をここに見出したことに強い自信とはりつめた意志があつた」。そしてさらには、「彼は、都會は、私を必ずや再び以前に歸すことを、再び私の落着のない心が誘起される事をよく知つてゐた」。憲吉と一枝の夫婦は、結婚をひとつの好機ととらえ、一枝のいうところの「落着のない心」、つまり同性へ向かう性的指向が二度と誘発されることがないことを強く望んだにちがいありません。そのためには、都会を離れ、対象となるような若くて美しく才能あふれる女性と触れ合う機会がほとんどないこの大和の田舎へ移転し、高い精神性のもとに新しい生活をはじめることが、ふたりにとっては、どうしても必要だったのです。

そうした夫婦の精神的苦悩を和らげ、解決に導くうえで、それに関しての知識を提供してくれる書物は、この夫婦にとってなくてはならないものであったと考えられます。

一九二〇(大正九)年には、日本性學會発行の性的叢書の全一二編が、澤田順次郎を執筆者として、天下堂書房から順次刊行されました。そのなかには、第三編『神秘なる同性愛 上巻』と第四編『神秘なる同性愛 下巻』が含まれており、内容的には、全体としては『變態性慾論』と大きく変わるところはなかったものの、最新の情報として、一枝の秘めたる知的欲求を満たすものであったにちがいありませんでした。著者の澤田順次郎は、「同性愛を治するには、先づ精神病學上より、是の原因(先天若しくは後天)を確めて、之れに對する療法を講ずること必要である」と前置きしたうえで、前の共著と同じく、ここでも同性愛の治療法として、「催眠療法」「攝養法」「結婚療法」の三種を説くのですが、とりわけ「攝養法」には、次のような、具体的記述が新たに加わり、一枝の目を引いたものと思われます。

此の法の主要なるものは、運動、食養及び精神の慰安である。

 運動は室内に於いてするよりも、戸外運動の方が宜しい。遠足、遊戯なども有効にして、夏には水浴を試むるがよい。……轉地は必要であるけれども、學校、敎會、音楽會、等すべて同性の多く集合するところへ、出ることは禁じなくてはならぬ。それから食物は、亢奮性のものを避けて、成るべく沈静性のものを選ばなくてはならぬ。又、精神には慰楽を與へて、安静に保つべきこと勿論であるけれども、常に心に閑暇を生じさせるよう、仕向けなくてはならぬ。斯くの如くして、固く攝養を守るときは、是の疾患は次第に薄らいで、異性に對する性慾を、恢復することがある38

「催眠療法」については、澤田は、「軽症の者には適するけれども、重症の者にあつては、殆んど無効なりと謂ふの外はない」と記述しています。そうであれば、「結婚療法」はもはや該当しないので、一枝にとっての有効な治療法は「攝養法」に絞られ、とりわけ、戸外運動(とくに夏の海水浴)、食事(亢奮性食物の忌避と沈静性食物の摂取)、それに心の閑暇(精神的な慰楽と安静)に加えて、女性の集まる場所への出入りの禁止が、その当時の一枝にはあてはまったのではないかと想像されます。

富本家の本棚を占めていたのは、「危険なる洋書」や「禁じられた本」だけではなく、『變態性慾論』や「性的叢書」(全一二編)も、人目を遠ざけるようにして、隠し並べられていたのではないかというのが、いまの私の仮説です。実証は難しいかもしれませんが、今後もこうした関心をもって関連する資料に目を通してゆきたいと考えています。

(二〇二二年一〇月)

(1)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part B] 1885-1888, Princeton University Press, Princeton, 1987, p. 755 (LETTER NO. 1470).

(2)Ibid.

(3)Ibid.

(4)Quoted in J. W. Mackail, The Life of William Morris, VOLUME II, Longmans, Green and Co., London, 1899, p. 193.

(5)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part B] 1885-1888, Princeton University Press, Princeton, 1987, p. 744 (LETTER NO. 1457).

(6)Ibid., p. 761 (LETTER NO. 1477).

(7)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、15頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(8)『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、521頁。

(9)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、14頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(10)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、14頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(11)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。

(12)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、14頁。

(13)『東京朝日新聞』、明治43(1910)年9月18日、6頁。

(14)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、12頁。

(15)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、20頁。

(16)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、22頁。

(17)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、23頁。

(18)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、78頁。

(19)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、110-111頁。

(20)富本一枝「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』第2巻、1917年1月号、74頁。

(21)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、76頁。

(22)『讀賣新聞』、大正14(1925)年9月29日(朝刊)、7頁。

(23)富本憲吉「美を念とする陶器」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、50頁。

(24)富本一枝「私達の生活」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、56-57頁。

(25)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、121頁。

(26)『讀賣新聞』、大正14(1925)年9月28日(朝刊)、7頁。

(27)「座談会 富本憲吉の五十年(続)」『民芸手帖』40号(9月号)、1961年、44頁。

(28)『週刊婦女新聞』、1933年8月13日、2頁。

(29)辻井喬「アウラを発する才女」『彷書月刊』2月号(通巻185号)弘隆社、2001年、2頁。

(30)座談会「婦人運動・今と昔――この半世紀の苦難の歩み――」『朝日ジャーナル』第3巻第36号、1961年、77頁。

(31)蔵原惟人「富本憲吉さんのこと」『文化評論』8、1963 - NO. 21、58頁。

(32)同「富本憲吉さんのこと」『文化評論』、同頁。

(33)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年。

(34)May Morris ed., The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXIII, p. 171.

(35)Ibid., pp. 172-173.

(36)Ibid., p. 173.

(37)富本陽子「明日」『行動』第3巻第3号、1935年、242-243頁。

(38)澤田順次郎『神秘なる同性愛 下巻』(性的叢書第四編)天下堂書房、1920年、195-196頁。