中山修一著作集

著作集22 残思余考――わがデザイン史論(上)

第一部 ウィリアム・モリス論

第五話 ウィリアム・モリスと富本憲吉の反戦の思想

はじめに

ロシアがウクライナに侵攻して、すでに四箇月が過ぎました。私が研究の対象としているデザイン史においても、戦争とのかかわりは深く、とりわけ、モダン・デザインに、そのことの反映を見ることができます。モダン・デザインの特徴のひとつが「国際様式」の追求でした。この様式は、地域固有の表現形式や伝統的な装飾を否定して、すべての人に受け入れが可能な、機能に徹した形状、多くの場合は数学的な幾何学に範をとった形態によって成り立っていました。その背景には何があったのでしょう。第一次世界大戦で傷ついたヨーロッパの良心的なデザイナーたちは、それを文化的衝突に由来するものであるとみなし、二度と戦争を起こさないために、地域ごとに根付く伝統的な視覚言語を一掃し、民族を超えて広く多くの人びとにとって判別可能となるような共通の新たな視覚言語の創案を訴えたのでした。こうして、モダニストのデザイナーたちによって、モダン・デザインは、歴史主義と装飾主義の排除に立った幾何学的抽象形態のうちに成立したわけですが、もともとは、第一次世界大戦の反省から生み出されたものだったのです。

通史としてのデザインの全体史とは別に、個別に私が研究の対象としているのが、一九世紀英国のウィリアム・モリスと二〇世紀日本の富本憲吉です。どちらも、それぞれの時代にあって戦争と対峙しています。このふたりのデザイナーの戦争に対する姿勢は、どのようなものであったのでしょうか。それぞれの反戦思想を紹介することを、本稿の目的としたいと思います。

一.ウィリアム・モリスの反戦思想

一八七六年の一〇月二四日に、モリスは『デイリー・ニューズ』の編集長に宛てて手紙を書きました。その手紙は実に長文で、次の文言で書き出されています。「イギリスは戦争に向かっているという噂が巷に広まっていることについて、見て見ぬふりをすることはできず、深い驚きのなかから、私は問います。誰の利益のために? 誰に反対して? そして、どんな目的のために?」。この寄稿文が、モリスの政治的発言としては最初のものでした。ここで論じられているのは、「東方問題」かかわる政策についてです。そこで、この問題に関連して、その背景を少し紹介しておきます。

イギリスにおける二大政党政治による大衆デモクラシーの時代が開幕するのは、第二次選挙法改正に基づいて実施された一八六八年一一月の総選挙においてであったとみなされています。このとき、自由党が圧勝し、それを受けてグラッドストンを首相とする自由党内閣が成立します。日本においては、ちょうど明治維新の年にあたります。続く一八七四年の総選挙では、今度は自由党に代わって保守党が勝利すると、ディズレイリが首相に返り咲き、彼による第二次内閣が組織されます。一八七五年、ディズレイリは、エジプトの財政難に乗じてスエズ運河の株式を買収し、翌一八七六年には、国王称号法の制定により、ヴィクトリア女王に「インド女帝」の称号が追加され、イギリス領インド帝国の国際的地位の強化が図られてゆきます。その一方で、オスマン帝国へのロシアの南下政策によってインド帝国とイギリス本国との通路網が遮断されることを懸念したディズレイリは、トルコをどう支援するのかという国際的な政治問題に直面することになるのです。そうした政治状況のなかにあって、一八七六年の春、トルコの統治に対して抗議する大規模な反乱がブルガリアで起きました。トルコはその鎮圧のために不正規の傭兵を含む軍隊を送り込み、蜂起に加わったおよそ一万五千人もの地域住民を無残にも虐殺し、八〇もの町や村を破壊しました。ディズレイリは、スエズ運河の権益を確保すると同時に、バルカン半島に勢力を拡大させつつあったロシアの脅威に対抗するために、トルコを支持しました。こうした経緯が、六月、自由党系の新聞である『デイリー・ニューズ』に掲載されると、半ば引退していたグラッドストンは九月、『ブルガリアの恐怖と東方問題』と題したパンフレットを作成し、そのなかで彼は、トルコの野蛮で残忍な鎮圧行動を容認するディズレイリの政治姿勢を批判したのでした。このパンフレットは、およそ二五万もの部数が売られ、大きな反響を呼び起こすと、ディズレイリの現実論に対抗するグラッドストンの道義論として政治論争へと発展します。モリスの『デイリー・ニューズ』の編集長に宛てた手紙は、そうした世相を受けるかたちで執筆されたのでした。

その手紙は、二日後の一〇月二六日の紙面に掲載されました。先に紹介しました、この手紙の書き出しに続いて、モリスは、こう述べています。三週間前であれば、こうした疑問に対して、自分は、このように答えたであろうというのです。「この戦争の目的と狙いは、(率直に真実を語るならば、強盗と殺人の集団である)トルコ政府に対して、全くのところ規律正しく勤勉でもある、かくたる支配に苦しむ人びとに何らかの生存の機会を与えるように迫ることなのである」。しかし、いまの状況は――、

ところがいまや、粗末な詰め物と化したわれわれの議会は、開かれてさえもいない。議会の開催を求める声に耳を傾けようとしなかったのである。議員たちは、とても忙しそうに狩猟にいそしみ、国民は口を閉ざしている

こうした政治的無関心が蔓延する状況のなか、モリスは、前段で述べた見解を越えて、以下のように自由党と労働者に向けて訴えます。

トルコのために戦争をしてはならない。盗人や人殺しのために戦争をしてはいけない!私は、すべての団体に属する分別と思いやりをもったすべて人に訴え、戦争とは一体何であるかということを考えてほしいと、その人たちにいいたいし、さらには、この戦争は、単におそらく正当性を欠いた戦争ではないのかということについても考えてほしいと、いいたい。負けても勝っても、残るのは恥辱であり、それ以外に戦争がもたらすものに何かあるだろうか

この手紙の末尾には「『地上の楽園』の著者 ウィリアム・モリス」と署名されています。まさしくこの寄稿文は、詩人たるモリスの政治への介入を世の人びとに知らしめるにふさわしい紙礫となりました。そうしたなか、ディズレイリのトルコとの同盟政策に抵抗するために、自由党寄りのひとつの圧力団体として東方問題協会が発足しました。モリスもその設立に関与し、チャーリー・フォークーとともに資金の提供を行ない、『デイリー・ニューズ』への投稿から一箇月後の一一月に、モリスはその協会の会計担当者に就任したのでした。

一二月八日、東方問題協会の最初の全国大会がロンドンのセント・ジェイムズ・ホールで開催され、チャールズ・ダーウィン、ロバート・ブラウニング、ジョン・ラスキンといった呼びかけ人たちがオーケストラ席に陣取り、モリスはその最前列にいました。しかしネッドは、万一の心労に備えて、離れた席にいました。女性たちは、別の後方の席に座りました。ジョージーの姿もありました。参加者はほぼ七〇〇名に達し、グラッドストンの演説を含め、集会は熱気に包まれ長時間続きました。年が明けると、一八七七年の四月二四日、ロシアがトルコに対して宣戦布告を行ないました。東方問題協会は、英国を紛争に巻き込ませるかもしれない政府の行動に抗議して次々と集会を開いてゆきます。そして五月一一日、モリスは、「イギリスの労働者たちへ」と題した宣言文を発表します。そこには、「正義を愛する者」との署名がみられ、主張するところは、おおかた以下のような文言のなかに現われていました。

イギリスの労働者たちへ、もうひとこと警告しておきたい。この国の裕福階級の一定部分の心のなかに横たわる、自由と進歩への激しい憎しみを君たちは知っているだろうか。……そうした人間たちが、君たちの階級について、そして、その階級の目標と指導者たちについて語るときはいつも、嘲笑と侮蔑が伴う。そうした人間たちが、もし権力を握ったならば(そうなったらイギリスはむしろ消滅した方がよいかもしれない)、君たちの正当な大望は阻止され、沈黙が強いられ、そして、君たちの手足は永遠に無責任な資本に縛られてしまうことだろう。……仲間たる市民たちよ、このことに目を向けたまえ。もし君たちが、いかなる不正をも正そうとするのであれば、もし君たちが、自分たちの階級を全体として平和かつ団結のうちに高めたいという、実に価値ある希望を心に抱いているのであれば……そのときこそ、怠惰を捨て去り、「不当な戦争」に反対の声を上げ、「中流階級」のわれわれにも、同じようにそうするようにと駆り立てるがよい……

ここに、のちにモリスをして社会主義者へと導くことになる、社会と政治に関する初期の率直な認識が開陳されているとみなしても、差支えないと思われます。これが、モリスに萌芽した反戦=社会主義の最初期の様相だったのでした。

東方問題協会での活動に端を発したモリスの政治活動は、加速してゆきました。一八八三年にはH・M・ハインドマンの率いる民主連盟(翌年に社会民主連盟に改称)に加わるも、意見の対立から翌年社会民主連盟を脱会します。次の一八八五年にモリスは社会主義同盟を結成し、機関紙『コモンウィール』の創刊にも献身的に携わってゆきます。モリスは、この『コモンウィール』に、一八八五年四月から翌年六月にかけて、現代における社会主義的生活について長編の詩の形式で物語った「希望の巡礼者たち」を、一八八六年一一月から翌年一月にかけて、中世のワット・タイラーの乱を主題とした「ジョン・ボールの夢」を、そして一八九〇年の一月から一〇月まで、革命後の理想社会を描いた「ユートピア便り」を連載します。いわゆるこれが、現在、過去、未来を舞台にした、モリスの社会主義が表出された散文ロマンスの三部作と呼ばれるものです。

ジョージ・バーナード・ショーは、モリスについてこういっています。「政治的に自分を定義しなければならないとき、モリスは、自分のことを共産主義者と呼んだ。……彼は、ありきたりのマルクス主義者ではなかった」。そのモリスは、こういっています。「完全なる社会主義と共産主義のあいだには、私の気持ちのなかでは少しの違いもありません。事実上共産主義は、社会主義の完成形のうちに存在します。社会主義が戦闘的であることに終止符を打って、勝利を得たとき、そのときそれは共産主義となるのです」

一八九〇年一〇月四日をもって、共産主義の世界に生きる人びとの様子を描いた「ユートピア便り」の連載が終了しました。そして、この完結が、モリスから社会主義同盟への事実上の「決別の辞」となったのでした。一一月二一日、モリスは社会主義同盟を撤退し、ハマスミス支部は、社会主義同盟との関係を断ち、名称をハマスミス社会主義協会に改めました。この時点での会員数は、およそ一二〇名でした。年が明けた一八九一年の三月、「ユートピア便り」は書籍化され、『ユートピア便り、あるいは、休息の新時代――ユートピアン・ロマンスからの数章』という書題でもって、リーヴズ・アンド・ターナー社から出版されます。こうして、凡百の関心のもとにいまに読み継がれる、まさに不朽の名作が世に出たのでした。

一八九八年までに、『ユートピア便り』は、フランス語、イタリア語、ドイツ語に翻訳され、日本にあっては、『平民新聞』において、一九〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七日付の第二三号までの連載を通して紹介されます。これは、枯川生(堺利彦)による抄訳で、「理想郷」というタイトルがつけられていました。これを読んだであろうひとりの若者が大和の地にいました。それが、郡山中学に通う富本憲吉青年だったのです。

二.富本憲吉の反戦思想

それでは、富本憲吉の反戦=社会主義の様相はどうだったか、以下に見てゆきたいと思います。

一九〇三(明治三六)年一一月一五日、幸徳秋水や堺利彦らによる週刊『平民新聞』の創刊号が世に出ます。創刊一周年を記念して第五三号に「共産黨宣言」を訳載すると、しばしば発行禁止にあい、一九〇五(明治三八)年一月二九日の第六四号をもって廃刊に追い込まれることになる、日本における社会主義運動の最初の機関紙的役割を果たした新聞です。発行所である平民社の編集室の後ろの壁の正面にはエミール・ゾラが、右壁にはカール・マルクスが、そして本棚の上にはウィリアム・モリスの肖像が飾られていました。『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介されるのは、「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」という表題がつけられた、一九〇三(明治三六)年一二月六日付の第四号の記事においてでした。この記事は、一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた、村井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転載したものです。おそらくその間、この本は発行禁止になっていたものと思われます。それに続いて、一九〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七日付の第二三号までの連載を通して、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に連載されたモリスの News from Nowhere が、はじめて日本に紹介されることになるのです。それは、「理想郷」(今日では「ユートピア便り」の訳題が一般的です)と題され、枯川生(堺利彦)による抄訳でした。そこには、革命後の社会や人びとの暮らしがどのようなものになっているのかが描かれていました。

その『平民新聞』を奈良の安堵村で読んでいたひとりの若者がいました。大日本帝国憲法の公布を数年後に控えた、一八八六(明治一九)年の六月五日に生まれた彼は、その名を富本憲吉といいました。富本は郡山中学に通っていましたが、友人に畝傍中学に通う嶋中雄作がいました。のちに中央公論の社長を務める人物です。富本は、後年、当時をこう回顧しています。

私は友達に、中央公論の嶋中雄三[雄作]がおり、嶋中がしよつちゆうそういうこと[モリスのこと]を研究していたし、私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた。それにモリスのものは美術学校時代に知っていたし、そこへもつてきていちばん親しかつた南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行くとごまかしてイギリスに行った

こうして富本は、一九〇四(明治三七)年のこの時期に、確かにモリスの社会主義の一端に触れることになるのです。それはちょうど、主戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく反戦論など、なすすべもなく、御前会議でロシアとの交渉が打ち切られ、対露軍事行動の開始が決定された時期であり、一七歳の青年富本が中学校の卒業を控え、美術学校への入学を模索しようとしていた、まさにそのときのことでした。

一九〇四(明治三七)年の四月、富本は東京美術学校に入学します。一方、郡山中学校に在籍していたときに読んだ週刊『平民新聞』は、富本が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年一月二九日付の第六四号をもって、官憲の弾圧により廃刊へと追い込まれました。この新聞を通じてモリスの社会主義に触れていた富本は、その廃刊に接し、どのような思いを抱いたでしょうか。直接そのことを立証するのは難しいのですが、一九〇五(明治三八)年一一月一四日に富本が中学時代の恩師である水木要太郎に宛てて出した自製の絵はがきが残されており、そこから、当時の富本の政治的信条を読み取ることができます。この絵はがきの中央には「亡国の会」という文字が並び、その下の三つの帽子に矢が貫通しています。描かれている三つの帽子は、陸軍、海軍、官僚を象徴するもので、明らかに、当時の国家体制への批判となっています。この年、八月に日露講和会議が開始されると、合意内容に国民の不満は高まるも、陸海軍の凱旋がはじまると、一転して市中は異様な昂揚感に沸き返ります。富本のこの自製絵はがきは、ちょうどこの時期に出されているのです。

富本は、卒業を待たずして早めに卒業製作を提出すると、モリスの思想と実践を研究するために渡英します。それは、本人もはっきり口にしていますが、徴兵を逃れるためでもありました。ロンドンでは、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ日参しては、作品のスケッチをし、中央美術・工芸学校では、ステインド・グラスの技法を学びます。しかし、英国でモリスのデザインと社会主義にかかわる多くのことを受容して帰朝した富本を待っていたのは、過酷な日本の政治状況でした。

韓国の保全が日露戦争のひとつの名目となっていました。その戦いに勝利するや、日本は韓国に対する政治的経済的支配を着実に進めてゆきます。これに対する韓国国民の怒りを象徴する出来事が、安重根による一九〇九(明治四二)年一〇月の伊藤博文の暗殺でした。安重根は翌年三月、旅順において死刑が執行され、一方、日本国内にあっては、日韓併合に至る侵略行為が阻まれることを恐れ、社会主義者や無政府主義者の根絶が企てられることになり、おおよそこうした経緯をたどって大逆事件は発生するのです。

大逆事件の発端は、一九一〇(明治四三)年五月二五日の宮下太吉の逮捕でした。そしてその翌月の六月一五日に、イギリスから富本が帰国するのです。一二月一〇日、大審院において二六名の逮捕者について裁判開始。年が明けて一九一一(明治四四)年一月一八日、全員に有罪の判決言い渡し。何と六日後の一月二四日に、一一名の男性死刑執行。翌二五日、一名の女性死刑執行。こうして、架空の「天皇暗殺計画」の容疑により逮捕された社会主義者や無政府主義者の二六人のうち、『平民新聞』を創刊した幸徳伝次郎(秋水)と管野スガを含む一二人に対して、大逆罪での死刑が執行されたのでした。その一週間後の二月一日付の南薫造に宛てた書簡のなかで、富本は次のように述べています。

明治の今は僕等を苦しめる様に出来 ママ て居る時代とも考へられる

富本にとってこの時代は、イギリスで調べてきたモリスのことを書くに書けない、受難の時代であったということができます。富本は晩年、こう書いています。

[ロンドンから帰ってその]後の話ですが岩村 とおる 氏の美術新報に大和から原稿を送ったことがありました。それに美術家としてのモリスの評伝を訳して出しましたが、社会主義者の方面は書きませんでした。あの当時もしも書けば私はとっくに獄死して、焼物を世に送ることはできなかったかもしれません

モリスの評伝とは、一九一二(明治四五)年に『美術新報』に二回に分けて連載した「ウイリアム・モリスの話」を意味します。このとき富本は、モリスの社会主義を書くことは控えました。「獄死」を感じ取ったからです。それももっともなことで、モリスの News from Nowhere を「理想郷」と題して『平民新聞』に抄訳して連載した堺利彦は、その後一時期、獄窓の人になっていたのでした。

富本憲吉は、一九一四(大正三)年七月の半ばに奈良の安堵村を出て、上州の鹿沢温泉へ行き、ここで尾竹一枝に求婚すると、大和へ帰ることなく、そのまま東京へと向かいました。こうして、九月一日に美術店田中屋内に、「モリス・マーシャル・フォークナー商会」に倣うかたちで「富本憲吉氏圖案事務所」が開設されるのでした。このとき富本は「東京に來りて」を執筆します。やはり、イギリスやモリスのことが思い出されたのでしょうか。ヨーロッパでは、第一次世界大戦が勃発していました。留学中に知り合った友だちの顔が一人ひとりまぶたに浮かんできたのかもしれません。富本の戦争嫌悪の情感がこの一文にも宿っています。

世界は大戰の波に渦まき、フツトボールの競技に號外を以て熱狂せしロンドンは今如何にして野蠻にして禮を知らぬ新興の國を打たむとはする。われに禮をおしへ義を開發せしわが友は如何に又何處にあらむ。血と劍は争ひの最後の手段にして第二位に屬すべきものなる可し。最後にして第一位にあるものは藝術なる可し。友よ健闘せよ、第二位も第一位も皆藝術家にして戰士なる汝の手にあり

理由があって早々に「富本憲吉氏圖案事務所」をたたむと、一九一五(大正四)年、富本夫妻は大和の安堵村にもどり、そこで本窯をつくり、いよいよ陶芸の道へと入ってゆくのでした。しかし、安堵村の生活には、常に警察の目が光っていました。かつて憲吉が「ウイリアム・モリスの話」を書いたことも、また、かつて一枝が青鞜社の社員であったことも、官憲の目からすれば、体制に抗う行為のひとつとして、受け止められていたのかもしれません。あるいは、当時の人的交流に疑いの目が向けられた可能性もあります。数例を挙げるならば、一九一七(大正六)年に憲吉と一枝は、幼子の陽を伴い、和歌山の新宮にある西村伊作邸を訪ね、そこに約一箇月間滞在しました。西村の周辺では、叔父の大石誠之介が大逆事件に連座して死刑に処されていましたし、友人には、美術家や文学者のみならず、社会主義者の賀川豊彦や堺利彦なども含まれており、のちに西村本人の手によって、自由主義的な校風をもつ文化学院が創設されます。一九二三(大正一二)年には、自由学園の創設者の羽仁もと子が、卒業旅行として第一期生を率いて富本家の本宅に宿泊しています。そのなかには、のちに社会運動家として活躍することになる石垣綾子や、童話作家で児童文学者となる村山籌子 かずこ が含まれていました。それからしばらくして、一枝は、川崎・三菱両造船所での労働争議の際に陣頭に立って指揮した賀川豊彦へ宛てて綾子を紹介する文を書いていますし、一方籌子は、富本一家が東京に移転したのちの一九三一(昭和六)年に、ロシアから帰国したプロレタリア文化運動の指導者である蔵原惟人を密かに連れてゆき、富本家にかくまわれるように手配を整えました。また、当時しばしば安堵村の富本家に顔を出していた、奈良女子高等師範学校の学生だった丸岡秀子が記憶するところによれば、マルクス主義者の片山潜の娘が、日本を去る前に富本家に立ち寄っていました。こうした人的な交流の影響もあってのことでしょうか、警察の監視下にあるような状態は、安堵村時代以降も、アジア・太平洋戦争が終結するまで連綿と続くことになります。

一九三七(昭和一二)年七月の盧溝橋事件に端を発し、日支事変(日中戦争)が起こると、その拡大とともに、言論や物資がさらに統制され、自由や人権が一段と制約され、戦時国家へ向けた体制再編がいよいよ急速に進み、暗黒のアジア・太平洋戦争へと向かう道を、ひたすら日本は転がり落ちてゆきます。そうしたなか、一九四〇(昭和一五)年の六月に、『窯邊雜記』(一九二五年刊)に続く、富本にとっての二番目の随筆集となる『製陶餘録』が世に出ました。ちょうど満五四歳の誕生日を迎えたときのことでした。「序」において、富本は、こう書いています。

年齢の故であらうか近頃の私は、文章、繪、特に陶器に對し、以前程の感激を以て接する事が出來なくなつた。これは一つには、矢張り世界中が熱鐡を互の柔かい身體にぶちこみ合つて居て、今日ありて明日なき命と云ふはかない世情の反影による事と思ふ10

富本は、戦争拡大へと向かう世情のなかにあって、自己の製作意欲の減退を感じ取っています。この『製陶餘録』の最終章が「長崎雜記」です。これは、一九三〇(昭和五)年の長崎の各地の窯で体験した様子を記したものですが、そのなかに、次のような一節があります。

 兎に角一日四五百個轆轤し得る工人が弐拾幾人全力をそそいで造り出す素地の大洪水が非情な圓滑さと速度で窯に流れ込むその壯觀。われわれの陶器は實に兒戯に等しい。(波佐見西ケ原工場にて)11

富本の念願は、量産陶器にありました。それは、量産することによって普通の人びとが日常に使う安価な陶器を保障することを意味したのでした。

一九四五(昭和二〇)年八月、終戦を迎えると富本は、すべての財産を家族に残し、独り東京を出て、生まれ育った大和にもどり、その後すぐさま京都の地で新たな戦後生活をはじめます。次は、京都市立美術大学の教授時代に執筆した「わが陶器造り」のなかの一文です。

美術家にいたっては食器のような安価品は自分ら上等な美術品を焼くものには別個の問題としているようにみえる。しかし公衆の日常用陶器が少しでもよくなり、少なくとも堕落の一途をたどりゆくのを問題外としておいてそれでいいのだろうか。私は大いに責任を感じる。一品の高価品を焼いて国宝生まれたりと宣伝するよりは数万の日常品が少しでもその標準を上げることに力を尽す人のいないのは実に不思議といわねばならない12

一九六三(昭和三八)年六月に富本が死去するや否や、官憲の手から逃れるためにかつて富本家に身を隠したことがあった蔵原惟人が筆を執り、「富本憲吉さんのこと」と題して、そのときの様子を公表します。以下はその一部です。

ある時「社会主義になったら私の仕事など役にたたなくなるのだから」という意味のことを私にいった。私は「そんなことはありません。社会主義になったらその時こそあなたの作品はほんとうに大衆のものになるのです」というと、「そうですか」と、なお半信半疑の様子だった。

 「実は私はほんとうに多くの人が平常使えるような実用的なものを作って安く売りたいのですが、まわりのものがそれをさせないのです。美術商などは、‶先生、そんなに安く売られては困ります″というのですよ」ともいっていた。若い時ウイリアム・モリスの生活と芸術の結合の思想に傾倒していた富本さんは生涯その理想をすてなかったようだ13

さらに蔵原は、こう書き記しています。

富本さんは戦後、日本芸術院会員、東京美術学校教授を辞任して、郷里である奈良県安堵村の旧宅に帰り、京都で陶業に従っていたが、そのあいだ京都府委員会の同志を通じて、わが共産党の活動にも協力して下さっていた14

富本の陶芸家としての姿勢は、富裕層の床の間に飾られるような高価な一品ものの美術作品をつくるのではなく、市井の人びとの食卓に日々並べられる安価で丈夫な焼き物をたくさんこしらえることでした。それは、陶芸家としての自らの職能が、個人的な行為なのか、社会的な行為なのかという問題と大きくかかわります。後者の立場を生涯一貫して支えたのが、富本の反戦=社会主義の思想だったのです。

おわりに

モリスが、社会という外に向かって積極的に行動を展開する社会主義者であったのに対して、富本は、個という内面に向かって深く根を下ろす社会主義者だったという違いはありました。しかし、反戦の姿勢は、ともに共通して強固なものであったものと思われます。いまのロシアのウクライナ侵攻を両人が見れば、どう反応したでしょうか。モリスは、こういうでしょう。「負けても勝っても、残るのは恥辱であり、それ以外に戦争がもたらすものに何かあるだろうか」。一方、富本は、「世界中が熱鐡を互の柔かい身體にぶちこみ合つて居て、今日ありて明日なき命と云ふはかない世情」を憂えるにちがいありません。モリスも富本も、トルストイ作品の愛読者でもありました。あえていま、「ウィリアム・モリスと富本憲吉の反戦の思想」を論題に選んで記述したのは、一介のデザイン史家として、歴史上の人物の言説を拾い上げ、そこになにがしかを学ぶためでした。モリスの壁紙やタピストリーにしても、富本の陶器にしても、決して風化することなく、多くの人にこれまで愛されてきました。そこには、反戦=社会主義の精神がともに根底に横たわっていました。作品のみならず、この反戦=社会主義の精神もまた、同じく風化させることなく、今後も受け継がれてゆくことを私は心から願いたいと思います。

(二〇二二年七月)

(1)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME I 1848-1880, Princeton University Press, Princeton, 1984, p. 324 (LETTER NO. 351).

(2)Ibid., p. 325 (LETTER NO. 351).

(3)Quoted in J. W. Mackail, The Life of William Morris, VOLUME I, Longmans, Green and Co., London, 1899, pp. 349-350.

(4)Morris as I knew him by Bernard Shaw, William Morris Society, London, 1966, p. 11. Also see May Morris ed., William Morris: Artist, Writer, Socialist, Volume II, Blackwell, Oxford, 1936, p. 10.

(5)May Morris ed., The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXIII, p. 271.

(6)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。

(7)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、14頁。

(8)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年。

(9)富本憲吉「東京に來りて」『卓上』第4号、1914年9月、21頁。

(10)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、1頁。

(11)同『製陶餘録』、211-212頁。

(12)『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、43頁。

(13)蔵原惟人「富本憲吉さんのこと」『文化評論』8、1963 - NO. 21、58頁。

(14)同「富本憲吉さんのこと」、同頁。