日本にあってもモリス・パタンは、壁紙やカーテン地だけでなく、便箋やマグカップやカレンダーなどのさまざまな日用品の絵柄にも用いられ、人気のデザインとなって今日まで流通してきています。一方これとは別に、学問の世界においてもモリスへの関心は高く、明治末年以来、絶えることなく、研究の対象として不動の位置を占めてきました。私もまた、学生時代にモリスの魅力に惹かれ、これまで半世紀にわたってモリス行脚の日々を送ってきたひとりです。そうした私に機が熟し、昨年の夏以来、私は、南郷谷の山奥の小庵に隠棲しながら、ウィリアム・モリスの伝記の執筆を進めています。
一八三四年に生まれ、一八九六年に亡くなったウィリアム・モリス【図一】は、一九世紀の英国を代表する詩人にしてデザイナーで、そして社会主義者でありました。モリスはまず、詩人として世に認められてゆきます。モリスの最初の詩集である『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』(一八五八年)が出版されたのは、二四歳のときでした。その後、苦悩と思索の日々にあって断続的に詩作は続き、代表的な作品に、『イアソンの生と死』(一八六七年)、『地上の楽園』(一九六八―七〇年)、『愛さえあれば』(一八七二年)、そして『折ふしの詩』(一八九一年)などがあります。こうしてモリスは、ヴィクトリア時代を代表する詩人として、その名声を確立するのです。
モリスは一八五九年にジェイン・バーデンと結婚します。新居となる〈レッド・ハウス〉【図二】を設計したのは、友人で建築家のフィリップ・ウェブでした。詩の世界に続いて、モリスのロマンティシズムは、今度は、〈レッド・ハウス〉の調度品に刻み込まれてゆきます。協同者はウェブ、そして、ラファエル前派の画家として活躍していたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティやエドワード・バーン=ジョウンズといった芸術家たちでした。モリスにとって、人がもつ精神的内面と、人が生きる空間的内面とは、同じ地平にあり、室内を構成する家具、壁紙、テクスタイル、テーブル・ウェア、ステインド・グラス――これらはすべてみな、詩情が物質化されたものにほかなりませんでした。こうして新居の〈レッド・ハウス〉は、工人の技術の結晶体である中世のカセドラルを想起させるに十分な、美しい家として誕生し、この経験のうえに立って、一八六一年、二七歳のときにモリスは、室内用品のデザインと製作を業務とするモリス・マーシャル・フォークナー商会(一八七五年に、単独経営のモリス商会に改組)を設立することになるのです。これが、モリスがデザイナーとして、そしてまた、ビジネスマンとして身を立てる瞬間でした。
その後モリスは、公的活動にも積極的に参加します。最初の活動は、一八七六年に設立された東方問題協会を舞台としたもので、モリスは、ブルガリア問題へのトルコの弾圧を支持する勢力に抵抗するように英国民に呼びかけています。翌一八七七年には、チュークスバリー寺院の修復を理不尽な破壊行為であるとみなしたモリスは、すばやく仲間を集めると、反対の声を上げます。そのときに設立されたのが、現在も続く古建築物保護協会でした。
こうしたことを起点として、モリスの政治活動は加速してゆきました。一八八三年にはH・M・ハインドマンの率いる民主連盟(翌年に社会民主連盟に改称)に加わるも、意見の対立から翌年社会民主連盟を脱会します。次の一八八五年にモリスは社会主義同盟を結成し、機関紙『ザ・コモンウィール』の創刊にも献身的に携わってゆきます。モリスは、この『ザ・コモンウィール』に、一八八五年四月から翌年六月にかけて、現代における社会主義的生活について長編の詩の形式で物語った「希望の巡礼者たち」を、一八八六年一一月から翌年一月にかけて、中世のワット・タイラーの乱を主題とした「ジョン・ボールの夢」を、そして一八九〇年の一月から一〇月まで、革命後の理想社会を描いた「ユートピア便り」を連載します。いわゆるこれが、現在、過去、未来を舞台にした、モリスの社会主義が表出された散文ロマンスの三部作と呼ばれるものです。
後年のモリスは、残された装飾美術のひとつである印刷と造本の分野において新たな活動の場を開拓することになります。自宅の〈ケルムスコット・ハウス〉の近くに、私家版印刷工房であるケルムスコット・プレスを設けると、生涯の友人であったエドワード・バーン=ジョウンズが挿し絵などを担当して協力しました。この印刷工房から、五三点の書籍と九点の冊子が印刷されます。そのなかには、キーツやシェリーやロセッティの詩集、ラスキンの「ゴシックの本質」や「チョーサー作品集」などが含まれ、こうして、モリスのお気に入りの作品が、「理想の書物」となって生み出されていったのでした。
モリスは終生、美しい家に住むことと、美しい本をもつことを理想としていました。結婚と新居の建設をきっかけとしてモリス・マーシャル・フォークナー商会が設立されると、その工房から「美しい家」にかかわる多様な室内用品が製作され、販売さてゆきました。そして、いよいよ晩年になると、これまでの愛読書や自著が「美しい本」となってケルムスコット・プレスから復刻されてゆきます。こうした人生の流れを踏まえますと、「美しい家」も「美しい本」も、見事にモリスは成功を収めたということになります。他方モリスは、ジェインを見初めたとき、「我が貴婦人の礼讃」と題された詩を書き、そのなかで、将来の「美しい妻」の姿を描写します。そしてさらに、ジェインをモデルにした《王妃グウェナヴィア》という画題をもつ作品【図三】を完成させます。しかし残念なことに、「美しい妻」につきましては、明らかに失敗に帰しました。それは、ジェインとロセッティとの愛情問題が主たる要因となっていました。生涯、ジェインとモリスは、二五編の詩で構成されたモリスの彩飾手稿本であります『詩の本』(一八七〇年)の最初の詩題のように、「川の両岸」に立つ関係のままで終わってしまったのでした。
ところで、モリスの日本への影響は早く、一八九六年に死去すると、ただちにその年に追悼文が『帝國文學』に掲載され、『地上の楽園』の詩人として讃美の言葉でもって言及されます。モリスの詩は、この熊本の地においても、早い段階で紹介されていたにちがいありません。東京帝国大学でのラフカディオ・ハーンの講義録のなかにモリスの詩が登場しますので、前任校であった第五高等学校在職中に、すでにハーンは、モリスを論じていた可能性があります。また、夏目漱石がイギリスに渡るのは、モリスが亡くなって数年後のことですが、そのとき漱石は、モリスの詩のみならず、彼が唱道していた「理想の書物」にも影響を受けたものと思われます。いまでこそ、文庫本などに所収されている漱石の作品はどれも文字のみで組んでありますが、一九〇六年の初版の『漾虚集』などを見てみますと、はっきりと文学と視覚芸術の交流、別の言葉でいえば、作家と画家の協同を読み取ることができるのです。漱石のあと、五高で教鞭をとったのが厨川白村でした。彼は、一九一二(明治四五)年六月号の『東亜の光』に「詩人としてのヰリアム・モリス」を寄稿しています。
一方、社会主義者としてのモリスは、週刊『平民新聞』の紙面を通じて紹介されます。発行所である平民社の編集室の後ろの壁の正面にはエミール・ゾラが、右壁にはカール・マルクスが、そして本棚の上にはウィリアム・モリスの肖像が飾られていました。この『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介されるのは、「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」という表題がつけられた、一九〇三(明治三六)年一二月六日付の第四号の記事においてでした。この記事は、一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた、村井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転載したものでした。それに続いて、一九〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七日付の第二三号までの連載をとおして、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』に連載されたモリスの「ユートピア便り」が、はじめて日本に紹介されることになります。それは、「理想郷」と題され、枯川生(堺利彦)による抄訳でした。
この『平民新聞』における紹介記事を読んで、美術家であり社会主義者であるモリスの仕事に関心を抱いたのが、のちに陶芸家として大成する富本憲吉でした。彼は、東京美術学校の卒業を待たずしてイギリスに渡り、帰朝後の一九一二(明治四五)年に、二回に分けて『美術新報』(二月号と三月号)に評伝「ウイリアム・モリスの話」を寄稿します。しかし富本は、社会主義への弾圧が続く時勢にあって、モリスの社会主義思想に触れることはなく、美術家としてのモリス紹介に止めます。その後、加田哲二の『ウヰリアム・モリス――藝術的社會思想家としての生涯と思想』(岩波書店、一九二四年)、大熊信行の『社會思想家としてのラスキンとモリス』(新潮社、一九二七年)、さらには、モリス生誕百年記念協會編による『モリス記念論集』(川瀬日進堂、一九三四年)が公刊され、こうして戦前にあって、今日へと至る日本におけるモリス研究の土台がつくられていったのでした。
モリスの思想と実践を考えるとき、とても重要な意味をもつのが、彼の詩題のひとつに使われた「川の両岸」という概念ではないかと思います。「川の両岸」という観念は、家庭人としてのモリスとジェインという一組の夫婦にとっての主題に止まらず、ウィリアム・モリスというひとりの社会人にとっても、同じく主題になりえたにちがいありません。といいますのも、「川の両岸」という観念は、中世の「ゴシック精神」とヴィクトリア時代の「新しい英国精神」という関係にも、また当時の「資本」と「労働」という関係にも、投影することがモリスには可能だったと思われるからです。前者のふたつの岸のあいだには「ルネサンス(人間中心主義/自然の汚染化)」という川が、後者の岸のあいだには「搾取(利益至上主義/労働の疎外化)」という川が流れていました。しかしモリスは、人間の愛情問題とは違って、こうした時代の濁流には、極めて現実的な、そして毅然とした態度で抵抗しました。
川が存在する限り、夢が現われ、ユートピアが語られ、ヴィジョンが提示されます。たとえば現代の英国にあっては、グリーン主義者たちが、歴史のなかから懸命にモリスを呼び出しています。彼らが見ているのは、一言でいえば、「自然破壊」や「労働破壊」、そして「生活破壊」という複合化された濁流なのです。環境や資源の限界を逸脱した生産=消費構造から、私たちはどう脱却を図るのか。高度に細分化した労働から全体的に把握可能な労働へと、私たちはどう転換するのか。生活用品の量的所有の豊かさから質的使用の喜びへと、私たちはどう脱皮し、どう自ら制御可能な生活形式を創出するのか。こうした社会文化的な課題が、いま問われているのです。
かつて私は、ジャン・マーシュの『ウィリアム・モリスの妻と娘』(晶文社、一九九三年)【図四】という訳書を公刊したことがありました。この訳業をとおして、これまでの伝記作家や研究者がいかに妻のジェインの存在を無視していたかを知りました。いま書いている伝記では、上で述べた社会文化的な課題を念頭に置きながらも、モリスとジェインという男女の生涯を、同等の重みをもつ存在として描こうとしています。擱筆しましたら、現在全一二巻で構成されています私のウェブサイト「中山修一著作集」【検索】のなかの第六巻『ウィリアム・モリス研究(続編)』にアップロードすることを考えています。
図1 41歳のウィリアム・モリス。
図2 〈レッド・ハウス〉の裏庭からの眺め。
図3 ウィリアム・モリス《王妃グウェナヴィア》。1858年。モデルは、のちに妻となるジェイン・バーデン。
図4 ジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』(中山修一ほか訳、晶文社、1993年)の表紙。
本稿に用いました【図一】から【図三】の図版はすべて、次の書物から複製しました。
J. W. Mackail, The Life of William Morris, volume I, Longmans, Green and Co., London, 1899.
なお、【図四】は、執筆者の個人所有物からの複製となります。
【初出:「ウィリアム・モリスの伝記の執筆に邁進する」『KUMAMOTO』No. 34号、くまもと文化振興会、2021年3月、55-60頁。】