中山修一著作集

著作集22 残思余考――わがデザイン史論(上)

第四部 「三つの巴」私論集

第五節 栗原弘の「高群逸枝論」と栗原葉子の「橋本憲三伝」について

一.栗原弘・栗原葉子夫妻の水俣憲三宅訪問とふたりによる校訂本の刊行

石牟礼道子は、逸枝の死後、東京から水俣へ居を移した憲三の晩年の様子を、こう描写しています。

 水俣に移られてから、全集の売行と比例して訪問者たちがこの部屋に「防ぎようもなく侵入し」はじめていた。森の家の原則はくずれかけていた。卒論を控えた学生たちとか、新聞の人たちとか、いわゆる逸枝ファンの人たちだったが、なぜ氏が逸枝の蔭の人として終始されたか、その秘密を知りたい、隠されている・・・・・・それを直接氏の口からききたい、というのはその人たちのやみがたい希求のようであった。氏はたいてい寡黙に微笑して、例のように額の汗を拭きながら悪戦苦闘して答えられる

「防ぎようもなく侵入し」てきた訪問者たちはみな、憲三の「秘密を知りたい、隠されている・・・・・・それを直接氏の口からききたい」と思って、憲三の住む水俣の「森の家」に侵入してくるのです。憲三にとっては、ありがたくもあり、反面、迷惑なことでもあったでしょう。そののち訪問者たちが書いたもののなかには、憲三本人が自覚していた逸枝と自身の真実の姿とは大きく異なる内容でもって、世に発表されたものもありました。栗原弘と栗原葉子の著作も、例外ではありませんでした。

憲三の一九七三(昭和四八)年七月一〇日の「共用日記」に、栗原弘・葉子夫妻の来水の様子について、こう記されています。

栗原弘・葉子さん、河野さんの紹介名刺をもってみえる。同志[社]大院生(3年)、高群研究(婚姻)をしているとのこと。6時ごろ水天荘へ。葉子さんは同大学美術科出身。また院生になって勉強したいとのこと

続く七月二三日の「共用日記」には、「同志社大学院生(3年)栗原弘さんみえる。1月ぐらい下宿して、高群婚姻史についていろいろ質問したいとのこと。下宿について西条美代子さんを紹介する」、さらに七月三一日の「共用日記」には、「栗原さん、『平安鎌倉室町家族の研究』コピーはじめ、市役所で(ゼロックス)」との記載があります。

一方、『日本古代婚姻例集』の「あとがき」で栗原葉子は、憲三との出会いについて、このように書いています。

 私達は水俣の図書館で道を尋ねて高群のお墓を詣でたあと、憲三氏を訪ねたのだった。そのとき何を語ったのかほとんど記憶がない。ただ氏は、「革命はおきませんかネ」とつぶやかれた。倉庫の二階のその部屋にはベッドのうえに高群の大きな写真が飾られていて、氏の部屋の窓から逸枝の眠る山の中腹を望みながら「自殺しようとは思いませんが生き永らえようとも思いません」とおっしゃるような生活を送っておられた。憲三氏はその三年後の昭和五十一年死去された

栗原弘の校訂による『平安鎌倉室町家族の研究』が、一九八五(昭和六〇)年二月に国書刊行会から上梓されると、続いて、栗原葉子と栗原弘のふたりの校訂になる『日本古代婚姻例集』が、一九九一(平成三)年五月に高科書店から刊行されるに至ります。しかしながら、「平安鎌倉室町家族の研究」も「日本古代婚姻例集」も、憲三が述べるところによれば、「強いて採録するにもおよぶまいとして」、『高群逸枝全集』から除外されていた逸枝の手稿本だったのでした。

それへと至った経緯について、憲三は、最終回の配本となった第七巻「評論集・恋愛創生」の「解題/編者」のなかで、次のように語っています。

 全集には、はじめ、もう一巻、「平安鎌倉室町家族の研究」を予定していたが、編纂の最終段階で検討の結果、この原稿には書き込みが非常に多くて接合不明の箇所なども少なくなく、ことに表類にいっそうその難があり、その他にも書き入れ指定が果たされていない等、そのまま活字製版に付することは可能でないため、やむをえず、これは除外されるにいたった。別に、「日本古代婚姻例集」の採録も一応考えられたのであったが、その成果の精髄は「平安鎌倉室町家族の研究」とともに「招婿婚の研究」に吸収されていることではあり、強いて採録するにもおよぶまいとして、同じく除外されることになった

こうした背景に照らして考えますと、『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』が刊行され、世に流布したことに、静子は、遺族として、また著作権継承者として、驚きを禁じえなかったものと推量されます。といいますのも、道子が、こう証言しているからです。

[橋本憲三先生]ご生前私は、彼女[高群逸枝]に関する資料をいただきたいとお願いしたことは一度もなかった。橋本先生ご死去の直前からそのあとにかけて、彼女の女性史研究の資料をめざして、多くの人たちが意思表示をはばからないのを知って、私はある困惑に包まれた。憲三先生が死の直前まで「彼女のゴミ類」を焼却しようとされ、妹の静子さんに実行させられたのは周知のことである

一方、栗原葉子は、こう書きます。

 氏の葬儀の後、憲三氏の令妹橋本静子さんから高群の未完の遺稿「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」、高群の使っていた書物十冊ほど遺品分けのように譲り受けた

紹介していますように、「憲三先生が死の直前まで『彼女のゴミ類』を焼却しようとされ、妹の静子さんに実行させられたのは周知のことである」と、道子は書いています。であるならば、「彼女のゴミ類」であったにちがいない「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」が、どうして栗原夫婦の手に渡ったのか、私にはとても不思議に思われます。しかも、そのふたつの手稿本は、栗原夫婦の手を離れ、それ以降どのような経緯をたどったのかはわかりませんが、いまや熊本県立図書館に所蔵されているのです。

憲三の死後にあっても、静子は、憲三が書き残した遺言の内容に従って極めて忠実に行動していたものと思われます。といいますのも、逸枝が『女人藝術』に寄稿した文のすべてが、一九八六(昭和六一)年に龍溪書舎から刊行された復刻版からは、「著作権継承者の了解が得られませんでした」という理由により、削除されているからです。静子自らが、自分のことを「遺言による高群逸枝著作権継承者」と書いていますので、『女人藝術』の復刻版が世に出るに当たって逸枝の文の掲載を見送る判断をしたのは、静子本人だったものと考えられます。憲三の遺言書は現存していないようですが、おそらくそのなかに、『高群逸枝全集』以外の著作物は、今後いっさい人の目に晒してはならぬといったような指示がなされていたのではないかと想像されます。

他方、栗原弘の校訂本『平安鎌倉室町家族の研究』と栗原葉子・栗原弘の校訂本『日本古代婚姻例集』についていえば、それぞれの「あとがき」を見ても、高群逸枝著作権継承者である静子に刊行の承諾を得たとは明示されていませんし、静子もまた、何も語っていません。したがいまして、この二著にかかわって、遺稿が静子の手を離れ栗原夫妻の所有物になった経緯、実際にそれが出版に供されるまでの経緯、そして、それが現在熊本県立図書館に所蔵されるに至った経緯につきましては、いまもなお闇のなかにあるということになります。さらに加えていうならば、上に引用していますように憲三は、「この原稿には書き込みが非常に多くて接合不明の箇所なども少なくなく、ことに表類にいっそうその難があり、その他にも書き入れ指定が果たされていない等、そのまま活字製版に付することは可能でない」と書いていますので、それを信じるならば、このふたつの校訂本が、どれほどまでに正確なのか、それもまた、闇のなかにあるといえるのかもしれません。

二.栗原弘の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』での高群逸枝批判

栗原葉子と栗原弘のふたりの校訂になる『日本古代婚姻例集』が高科書店から刊行されてから三年が経過した一九九四(平成六)年の九月、同じ版元から栗原弘の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』が世に出ました。著者の栗原弘は、その「はしがき」において、こう述べています。

 高群逸枝は『母系制の研究』『招婿婚の研究』という大著を発表し、日本の原始古代社会に母系制が存在し、女性の地位が高かったことを主張した。今日、この高群学説には批判と賛同が複雑に交錯し、どちらかといえば、批判の方が多いといえるであろう。しかし、婚姻史・女性史の分野では今なおその影響力は少なくないといえる。筆者は大学院生の頃、村上信彦の論文に影響を受け、高群学説に傾倒した。その当時は、同学説が正しいと信じて二、三の論文を執筆した。その後、高群の遺稿『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』の出版にたずさわり二著を世に送り出した。二著は、高群学説の実証部であった。筆者は二著の校訂作業の過程で、高群学説の実証には根本的な誤りがあることに気付いた10

「筆者は大学院生の頃、村上信彦の論文に影響を受け、高群学説に傾倒した。その当時は、同学説が正しいと信じて二、三の論文を執筆した」と、栗原は書きます。その論文には、『高群逸枝雑誌』の二九号、三〇号、および三一号に掲載された「柳田国男の婚姻史像」も含まれるものと思われます。自身が書いているとおり、当時栗原は、明らかに、「高群学説に傾倒した」人物だったのです。

憲三の死によって、この雑誌は、三一号で事実上の廃刊となります。しかし、もろさわようこの「高群逸枝」を読んだ静子はその反論の場として、道子の協力を得て、『高群逸枝雑誌』を復刊したのでした。三二号となる終刊号の「編集室メモ」のなかで、ただひとりの同人であった道子は、この雑誌を振り返って、「この間、村上信彦氏を始め、河野信子、石川純子、西川祐子、栗原弘、寺田操諸氏の御高作を頂くことが出来たのは、甲斐ない同人の慰めであった」11と書きます。

ところが栗原は、「その後、高群の遺稿『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』の出版にたずさわり二著を世に送り出した。二著は、高群学説の実証部であった。筆者は二著の校訂作業の過程で、高群学説の実証には根本的な誤りがあることに気付いた」と、書き記したのでした。『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』の遺稿がどのような経緯で静子の手を離れ、出版されるに至ったのか、その経緯の不明瞭さもさることながら、「二著の校訂作業の過程で、高群学説の実証には根本的な誤りがあることに気付いた」という言葉が目に飛び込んできたとき、おそらく道子は、仰天したものと想像されます。この変節は、何に由来するのか、これも想像するしかありません。純粋に研究遂行上のひとつの到達点だったのかもしれませんし、疑うわけではありませんが、何か別に隠された意図があったのかもしれません。

栗原弘の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』の「はしがき」は、さらに次のように続きます。

 高群学説の誤謬には洞富雄から鷲見等曜まで、実にさまざまな批判が行われてきた。筆者はそれらの多くが正しいことが理解できるようになった。しかしながら、従来の批判は、彼女がひたすら真実を追求した結果が不幸にも誤っていたとする見解に立っていたと思われる。ところが、筆者の追調査によれば、高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物であったことを確信するに至った12

鷲見の『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』は専門書であったこともあり、一般の人の目には留まらなかった可能性がありますが、栗原弘のこの本は、同じく学術書ではありますが、地元紙である『熊本日日新聞』の書評で取り上げられたということもあり、いやただそれだけではなく、評者が、逸枝の書は「極めて意図的な操作改竄の産物」であるとする著者の知見に言及していたこともあり、これまで逸枝の業績に全幅の信頼を寄せていたであろうと思われる多くの県民読者に、大きな驚きを与えたにちがいありません。おそらく、静子も道子も、この書評を読んだものと思われます。

書評の執筆者は、かつての『高群逸枝雑誌』への常連寄稿者であった、女性史研究家の河野信子でした。そのなかで河野は、この『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』を、次のように紹介しました。「高群逸枝の著作たちには魔力がある。読み始めたら、やめられなくなるのである。大著『招婿婚の研究』もまた例外ではない。本書はこの『招婿婚の研究』を〈だまし絵つき一大叙事詩〉とみなして、このだまし絵の図(だまし絵には地=ぢ=と図があって、そのいずれをとるかによって、人はそれぞれに異なった見解をもつ)を綿密に累積する手法で解析したものである」13。続けて河野は、本書の特徴と、それが歴史学に及ぼしている影響について、以下のような見解を示します。

 『日本霊異記』『今昔物語』『蜻蛉日記』をはじめとする数多くの文献史料の検討を経て、高群型抽出法には、ただの〈うっかりミス〉でない「意図された」抽出加工法が使われているといった結論を、栗原氏は提示した。……
 本書は、母系反証の書というよりは、史料の密林のなかの抽出法検証としてのまとまりを持ったものである。だが、本書の図もまた反証法のスタイルをとっているために、既に女たちのなかから、栗原氏の反証に対する反証といった、反例探しがはじまっている14

それでは、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』には、どのようなことが具体的に書かれてあったのでしょうか。その内容の中心となる部分を、幾つか以下に引用します。著者は、次のように、高群史学が「整然とした誤謬・・・・・・・」によって成り立っていることを説きます。

このように、高群が、事実に反して、妻方提供型を主流として描いたことによる誤謬・説明不足には、実に明快な法則性がみられる。
  婚姻の前半期(詳述)  婚姻の後半期(略述)
  外祖父と外孫(詳述)  祖父と内孫 (略述)
  母子関係  (詳述)  父子関係  (略述)
  両親と娘  (詳述)  両親と息子 (略述)
  夫と妻方  (詳述)  妻と夫方  (略述)
  家の女系伝領(詳述)  家の父系伝領(略述)
右のように、極めて意図的に、一方に偏った叙述構成となっている。このような「整然とした誤謬・・・・・・・」こそ、高群自身が、自身の誤謬を認めていた、動かぬ証拠というべきである。意図の内容を一語でいえば、族制上の非父系的(高群によれば母系制)側面を前面に押し出して、父系的側面を無視したわけである15

それでは、こうした「整然とした誤謬・・・・・・・」は、いかなることが原因となって生じたのでしょうか。高群史学にあっては、「男性史から女性史を自立させ、女性解放の歴史的根拠を打ち立てることが目標とされていた」16とみなす著者は、「整然とした誤謬・・・・・・・」の発生要因を、自身が抱く「理想」を優先させ、見出した「史実」を隠蔽したことに求めようとします。

 以上のような前提に立脚する高群の歴史研究は、避けて通ることができない難問を内包していた。一方で極めて実証的な作業を行いつつ、他方では、立証不可能な理想像を追い求めていたからである。ここでは、理想像への憧憬の強さが、客観的事実における整合性の範囲を逸脱し、過去の史実を改変させる危険性が内在していた。すなわち、高群史学とは、女性に関する歴史を、冷静にみようとする存在史ではなく、女性に生きる希望を与えることを使命とした当為史であったと言えよう。ここに、高群史学の特質(生命)があり、また問題点もあったのである。高群が、歴史研究の全生活中で、最大のエネルギーを投入したのが、五〇〇家族の調査であった。ところが、高群は、五〇〇家族の数量的分析結果をどこにも発表していない。五〇〇家族という膨大な事例を婚姻形態に分類し、それを各時代別に数量的に示せば、読者には、各時代の婚姻居住形態が一目瞭然で理解されるはずである。しかし、高群は、それらの正確な調査結果の報告を、明らかに拒否している。理由は、はっきりしている。高群が発見した史実・・と彼女の理想・・とが、齟齬していたからである17

こうして著者の栗原弘は、高群女性史学に「意図的な操作改竄」あるいは「整然とした誤謬・・・・・・・」という烙印を押したのでした。

三.反論としての石牟礼道子の「表現の呪術――文学の立場から」

一九九四(平成六)年の九月に『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』が刊行されると、学問の世界へとその影響は広がってゆきました。その一例を、翌年(一九九五年)一〇月に福岡市女性センター「アミカス」を会場に比較家族史学会との共催によって開かれたシンポジウム「『国家』と『母性』を超えて――高群女性史をどう受け継ぐか」に求めることができます。発表者は、石牟礼道子、栗原弘(『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』の著者)、西川祐子(『森の家の巫女 高群逸枝』の著者)の三人で、司会を上野千鶴子が務めました。

道子は、このとき栗原と対峙します。おそらく複雑な思いがあったものと想像します。といいますのも、一五年前に刊行された『高群逸枝雑誌』の終刊号(三二号)の「編集室メモ」において道子は、繰り返しの引用になりますが、「この間、村上信彦氏を始め、河野信子、石川純子、西川祐子、栗原弘、寺田操諸氏の御高作を頂くことが出来たのは、甲斐ない同人の慰めであった」と書いていたからです。道子の心中には、栗原の豹変にかかわって驚きと怒りが渦巻いていたものと推量します。また、自著の『森の家の巫女 高群逸枝』のなかで、松本正枝の言説を評価し、市川房枝の言動を暗に支持していた、もうひとりの発表者である西川祐子についても、道子は、それ相応の不快感を抱いていたにちがいありません。その意味で、このシンポジウムは、道子にとって一種の修羅場だったのでした。

各自の当日の発言内容をまとめた、このシンポジウムの報告書は、一九九七(平成九)年三月に、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)として、早稲田大学出版部から公刊されました。そのなかに、道子の「表現の呪術――文学の立場から――」を見ることができます。そこに、「当日のレジュメ」も再掲載されており、道子は、その冒頭に、こう書いています。

 かの有名な、
 われ日月の上に座す
 詩人 逸枝
というのを、まだわたしは読めていないと近頃思う。栗原弘氏の提出された、高群逸枝の歴史改竄説以来、結構このあたりでも、藪の賑わいが聞こえてくるからである。逸枝の業績を一瞥もしないで「やっぱりそうか」と鬼の首でもとったような揶揄が聞こえてくるけれども、もとよりそれは栗原氏の望まれることではあるまい。私は、壮大な仮説の古典として高群史学を読みたい18

当日の道子の実際の発言がどうであったのかは再現できませんが、その後に起稿した「表現の呪術――文学の立場から――」のなかから幾つか以下に引用して、「高群女性史をどう受け継ぐか」という主題に対しての道子の考えを探ってみることにします。道子は、どのような観点に立って、栗原弘の説く「意図的な操作改竄」から逸枝を救難したのでしょうか。まず道子は、「詩人としての逸枝」について言及します。

 栗原さんから投げかけられました高群さんの歴史歪曲説は大変ショックでございます。……
栗原説の事件で、わたくし、はっといたしましたのは、かの有名な、
 汝洪水の上に座す神エホバ
 われ日月の上に座す詩人逸枝
という詩を若年の折に、発表致しまして、大方の顰蹙を買いました。……
 詩人、芸術家というものは、その現身は世俗の中にあるほどに、巷を歩けば千の矢が飛ん来るという事も作品に書き付けております。そういう風にしか生きられないのが詩人ではないでしょうか。……
同時代の詩人たちにくらべて、熊本時代も処女詩集の時代も『婦人戦線』のときも、異性との家出事件も、「森の家」も、終始一貫、彼女は、一般社会からみれば、異様で、エキセントリックで、トラブルメーカーでさえありました19

次に道子は、「詩から学問へ」という文脈で、逸枝の業績を語ります。

詩というものは、その世に対して即効的で有効性のあることをいえるわけではない。表現と言うのはそういう宿命を持っています。ですから、その詩は、一種、呪術的に成らざるを得ない。古代呪術の力をもった詩人が希にいます。学術論文でそれをやろうとして、人跡未踏の女性史というものに取り組んだ時、彼女の内なる詩は点火されて……鳥瞰的な表現を幻視したのではないか。そういう欲求がせめぎ合ったのではないか。……
高群さんは、こうあって欲しいという女たちの国を最高に良い形で作り上げてみせる、という詩と学問との刺激的調和を、誰も書いた事のない、一種の飛躍的新世界。神話劇みたいな大叙事詩を書こうとする衝撃が、噴火状態になって出てきたのだと思います。そのとき、彼女にはやはり歴史上の女たちが乗り移って、心象世界の核に成ったのだと思います。
 そうすると、今まで調べてきた平安・鎌倉・室町の五百家族、藤原氏の日記の全部を読破するということで蓄積してきた資料の中から、彼女の詩的な欲求に応じて、資料の方が波頭を立てて彼女と呼応したのだと思います20

このように道子は、まず最初に詩人の幻視があり、次に史料から聞こえてくる歴史上の女たちの声に耳を傾け、最終的にそれを歴史的時間軸に並べ直し全体が俯瞰できるようにしたものが高群史学ではないかと、いうのです。栗原学説が、「意図的な操作改竄」という用語を使って高群史学を否定的にみなしたのに対して、明らかに道子は、それを肯定的にとらえ、詩人のもつ創造的エネルギーの産物として理解したのでした。果たして逸枝は、日本史学上の「ペテン師」ないしは「犯罪者」だったのでしょうか。それとも、女性史という新しい学問の「創造主」ないしは「預言者」だったのでしょうか。道子は、憲三の言葉を紹介して、このようにまとめます。

 橋本憲三先生は、常々、「あなたは、高群逸枝を信じなさい」とおっしゃっていました。私が聞こうとすると、早くも察知されて、「信じなさい、マルクスが、初期の頃に、人類の精神の富ということをいいましたが、高群が定説化した女性の為の精神の富は、みんなで、実らせて行く価値があるとぼくはおもいます。だから信じなさい」、といわれたことが、今思い当たります。その後、私は、水俣の事情とか、視力の事情とかがあって物理的に時間がとれなくて、勉強ができていませんが、今までやれずに来たのも幸運と思います。皆さんの実りのある研究成果を頂戴する事ができて、有難いと思っています21

それでは最後に、再び「当日のレジュメ」から一節を、少し長くなりますが、引用します。といいますのも、これが、このシンポジウムにおいて、道子が最もいいたかったことではないかと、推量するからです。

 人跡未踏であった女性史の原野にわけ入るのに、地母神たちの力に押されて、伏在する女たちの意識の総体に言葉を与えてきた逸枝を読みたいと思う。誰がこのことをなしえたろうか。壮絶である。お手本はなかった。創りあげてゆく仕事だった。創作というより創造であった。国づくりでさえあった。その体系は自ずから鉱脈の露頭がつながるようにあらわれたのではないだろうか。彼女自身「ボダ」をかぶりながらの仕事である。「一坑夫」の仕事だと謙遜している。
 学問的業跡というものは、いつかは乗り越えられる運命にある。そして学問というものは、乗り越えられてこそ意味があるのではないだろうか。しかしながら、あとからあとから出現する学説が流砂のように去ったあと、その流砂に洗われて、古典となって発光しながら横たわる作品もある。
 書かれる前から高群逸枝は古典として出現したのだった。それゆえ、稀なる介助者があらわれた。夫妻の業跡の意味を私はそうとらえたい。二人を洗う歳月の砂は、むしろ必要なのである22

道子の「表現の呪術――文学の立場から――」が所収された『ジェンダーと女性』が発刊されたのは、一九九七(平成九)年の三月一〇日でした。逸枝が亡くなって三三年の歳月が、そして憲三が亡くなって二一年の月日が、そろそろ流れようとしていました。発刊の翌日、道子は七〇歳の誕生日を迎え、それからおよそ四箇月が立った七月二五日に、静子は八六歳になりました。この間道子は、決して変わることなく、憲三については「先生」の敬称をつけて「橋本憲三先生」と書き、他方で、道子と憲三の契りの「立会人」となった静子をしっかりと支えました。おそらく道子は、こころの慰めに、一部この本を静子に献呈したにちがいありません。そのなかに見出した、「書かれる前から高群逸枝は古典として出現したのだった。それゆえ、稀なる介助者があらわれた。夫妻の業跡の意味を私はそうとらえたい。二人を洗う歳月の砂は、むしろ必要なのである」という道子の予言に、静子は、何かこころが洗われる思いをもったのではないかと推量します。

さてそこで、一方に『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』における栗原弘の「意図的な操作改竄」説を、そしてもう一方に「表現の呪術――文学の立場から――」における道子の「詩と学問との刺激的調和」説を置き、少しここで検討してみたいと思います。

一点目は、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』はどのような本であるのか、その特徴についてです。すでに一一年前の一九八三(昭和五八)年に弘文堂から出版されていた、岐阜経済大学教授の鷲見すみ等曜の『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』の書題に比べて、本書のタイトルに使われている「婚姻女性史像」という用語は、一見して内容がつかめず、実に不鮮明なものになっています。ここに外見上の特徴を見ることができます。一方、内容的にも、際立つ特徴があります。この本は、鷲見等曜の書籍とは異なり、日本の原始・古代・中世社会における婚姻にかかわる形態についての純粋な学術研究の書ではなく、その学問領域を母系制という観点に立って日本ではじめて開拓した高群逸枝の研究手法についての批判の書として成り立っているのです。内容を端的に表現する適切な書題を与えるとするならば、少し長くなりますが、「高群史学の誤謬とそれを導いた意図的操作改竄にかかわる今日的受容状況についての研究」といったほどのものになるでしょうか。実際、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』は、ふたつの部によって構成され、第一部「高群学説の受容と展開」において、家永三郎や村上信彦らによる高群学説の今日的受容の過程が批判的に跡づけられ、第二部「高群学説の意図的誤謬問題」において、いかにして逸枝が事実を無視して史料の改竄を行なったかが論じられています。結論的にいえば、鷲見等曜の『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』が、洞富雄の『日本母権制社会の成立』(一九五七年、淡路書房)に続く、この分野における高群史学に異を唱える新説の開陳であるとするならば、おそらくそれを受けての、栗原弘の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』は、高群史学の研究の方法論に着目し、それについて徹底的な批判を展開したところに、その特徴がありました。

二点目は、『母系制の研究』(一九三八年刊)と『招婿婚の研究』(一九五三年刊)における逸枝の研究手法を巡る栗原弘と道子の解釈の相違についてです。すでに『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』から引用することによって栗原弘の考えは紹介していますが、それを総じていえば、逸枝には、男性史から女性史を自立させ、女性解放の歴史的根拠を打ち立てなければならないという強い願望があり、そのために逸枝は、意図して、史料に見出した「事実」を隠蔽し、自身が理想に抱く女性世界の「虚構」を描いてみせた、ということになるでしょうか。それに対して道子は、まず詩人の幻視があり、次に史料から聞こえてくる歴史上の女たちの声に耳を傾け、最終的にそれを歴史的時間軸に並べ直し全体が俯瞰できるようにしたものが高群史学ではないか、と解釈するのです。

これを別の表現に置き換えるならば、栗原弘の見方は、定量的観点とでもいうべきものであり、その視点に立てば、自身が調査した五〇〇家族の婚姻居住形態を数量的に分析し、その結果を時代ごとの数的分布に置き換えて示せば事足りることを、逸枝は、あえてその調査結果を隠し、意図的に時代を延伸し、女性中心の結婚形態があたかも十全に存続したかのような「創作」を施したということになります。これに対して道子の見方は、定性的観点とでもいうべきものであり、その視点に立てば、自身が渉猟した平安、鎌倉、室町の五〇〇家族に関する史料のすべてを読破し、そのなかから、自分の詩的な欲求に呼応して近づいてくる「事実」に着目して歴史を編んだということになるのでしょうか。これに関して付言するならば、逸枝にとっての関心は、いつからその婚姻形態が減少し、別の形態に取って代わられ衰退したかではなく、たとえ一例であろうとも、その婚姻形態が存続したのはいつまでなのか、といった定性的な問題だったのではないかと推量されます。

一般的には、栗原弘にみられる定量的観点の方が、今日における学術的手法に照らせば適切なように感じられますが、しかし、道子の定性的観点も、容易に捨て去ることはできません。なぜならば、たとえば古事記や日本書記にみられるように、日本史それ自体の発展の原初において、その最初の歴史記述は、必ずしも数量的観点、あるいは「客観的」観点によるものではなかったのではないかと思われるからです。日本史の一分科学である女性史においても同じことがいえ、道子の、「高群さんは、こうあって欲しいという女たちの国を最高に良い形で作り上げてみせる、という詩と学問との刺激的調和を、誰も書いた事のない、一種の飛躍的新世界。神話劇みたいな大叙事詩を書こうとする衝撃が、噴火状態になって出てきたのだと思います。そのとき、彼女にはやはり歴史上の女たちが乗り移って、心象世界の核に成ったのだと思います」という言説にも、それなりの真理が含まれているものと感得されるのです。私には、道子の「詩と学問との刺激的調和」という言辞にこそ、すべての学問の誕生にかかわる秘儀が隠されているように思料されます。つまり着目すべきは、逸枝という人間は、完成したひとつの学問が何代にもわたって継承されてゆくなかで活躍した一学徒ではなく、誰も見たこともない全く新たな学問が産み落とされる、まさにその瞬間に立ち会った詩人=学者だったという点にあるのです。

三点目は、上の二点目の問題点をさらに進化させた視点です。私は、逸枝の関心は、男性に比べ女性が優位に立っていた時代が、日本の歴史に有ったのか無かったのか、つまり、かかる「有無」の一点にあったのではないかと思います。といいますのも、逸枝自身、以下のように語っているからです。

マグレナン、モルガン等の説では、古代の雑婚時代には、人は母あることを知っても父あることは知らない。これが母系の淵源であるというのである。……
 そこで問題は、わが日本に母系制度の時代があったか否かということである。このことはこれまで男性史家の研究の手がまだまわりかねていて、女性史家のために未開拓のまま残されている処女地である23

ここからも明らかになるように、「日本に母系制度の時代があったか否か」という点に、逸枝の学問的問題意識はあったということです。さらに逸枝は、憲三にこう告げています。

ただ私の希望を率直にいうなら、それは私が将来有名な学者になることではなく、生涯無名の一坑夫に終わることなの24

坑夫の目指すものとは、一体何でしょうか。金の発掘に専念する坑夫であれば、その役割は、金の鉱脈を探り当て、必死になって金を採掘することであって、その鉱脈に、金が何割、その他の鉱物が何割ずつ含まれ、その全体がどのような鉱物で構成されているかを調査することではないでしょう。それは、あくまでも、地質学、あるいはそれに隣接する研究分野の学者の仕事であって、一坑夫の仕事ではないのです。ここに、逸枝の仕事が、どの時代に母系制度が何割あったのかという定量的分析にあったのではなく、「わが日本に母系制度の時代があったか否か」にかかわる定性的分析にあったことが、判明するのです。あえて学問の発展過程に照らしていえば、まずは母系制度の有無の発見が重要なのであって、そののちに、他の制度を加えた具体的分布状況を知るうえでの定量分析が続くものと私には考えられます。

逸枝は、「事柄の有無」の発見たる自身の定性分析の決定的勝利の瞬間を、次のような言葉でもって表現しています。少し長くなりますが、以下に引用します。

ある日私は、採集した婚姻語のカードをみて、ツマドヒ、ムコトリ、という婚姻語が日本古代の婚姻語の代表語であることを知り、この婚姻語の推移が、すなわち大まかには婚姻形態の推移をものがたっている-つまり、この二語がそのまま古代婚姻史の時代区分を反映している、ということを知った。そこで必然的にヨメトリ、という婚姻語の追及がこれにつづくことになる。
 このことは、かつて『母系制の研究』で、「多祖」現象を発見したときとおなじ一つの天啓的なひらめきというものだった。このとき私は、
「わがこと成れり!」
 と招婿婚研究への勝利感をおぼえたのだった25

定量分析の場合は、事象あるいは現象にかかわる、数量に置き換えられた分布状況の概観が招来されるものの、定性分析の場合は、事象ないしは現象にかかわる、ひとつの概念を手がかりに探索された存在そのものの発見につながることが予想され、逸枝の業績の核心部分は、まさしく後者の定性的分析にあったものと理解することができます。

四番目は、高群史学の本質そのものについての私見です。すでに引用で示していますように、栗原は、「筆者の追調査によれば、高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物であったことを確信するに至った」と書いています。そのことを念頭に、果たして、高群史学は「誤謬」だったのか、「極めて意図的な操作改竄の産物」だったのかにつきまして、私なりに反論したいと思います。

高群史学の本質を知るためには、そもそも逸枝は、女性という性の存在をどう見ていたのか、逸枝が女性史研究に向かった動機は何であったのか、日本における女性史研究の現状について逸枝はどう認識していたのか、日本の女性の全体史(通史研究)にかかわって、それをどう仮説化し構想していたのか、全体史を描くためには、仮説を裏づけるための前段の研究(特殊研究)として何を必要としていたのか、こうした設問について残されている逸枝の言辞をもって明らかにする必要があります。そのうえにあって、栗原の高群史学批判に合理性があるか否かを論じる可能性が開かれるものと思われます。

それでは、逸枝は、そもそも女性の置かれている状況をどう認識していたのでしょうか。あるいは、女性という性の存在をどう見ていたのでしょうか。逸枝は、自著の『戀愛創生』において、こう述べています。

 婦人ほど、悲惨なものが、今日あろうか。彼女は暗黒、彼女は打ちひしがれてゐる。八方から叩かれてゐる。死滅しないのは、死滅する餘裕がないからである26

別の箇所では、このようにも述べます。

 愛の女神を原始の森の中から連れてきて現在の家庭のなかにおしこめたならどうであらうか。彼女はきつと、遠い故郷にあこがれて涙の日を送るに違ひない。
(中略)
 しかし、耐へてゐるといふことは、あきらめてゐるといふことではない。彼女は、積極的に、かの光明と、自由とへ、この家庭を推し進めて行かうとする意志と、行為とをもつて立つであろう。
 このとき、彼女は社會に宣戦し社會に火蓋をきらねばならない27

ここにいう「愛の女神」とは、逸枝の化身であるにちがいありません。その彼女が、いままさに「社會に宣戦」を布告しようとしているのです。逸枝の信じるところによれば、結婚制度のはじまりとともに、自由で自然な「恋愛生活」も終わりを告げ、一夫一婦制のもと、妻は夫の私有財産の一部と化し、女たちにとっての耐えがたい屈辱の時代が幕を開けたのでした。

それでは、「愛の女神」がかつて住んでいた「原始の森の中」とは、どのような世界だったのでしょうか。それに相当する部分を拾い出してみます。

農耕の生活が安定するやうになつてくると、ここに始めて人類は、経済的に最も安定した生活を送ることが出來た。それと共に、母系制度が確實な形をとつて現はれ、民族は財産共有の基礎の上に立てられた。即ち、それは共産主義的な社會の形式であつた。婦人はこの血族團體の指導者であり、支配者であつて、大いに尊敬せられ、彼女の意見は、家庭内におけると同様、種族の問題に関しても大いに尊重せられた。彼女は仲裁者であり、裁判官であり、神官として宗教的信仰の義務を盡していた28

逸枝は、女を中心として成り立っていたであろうと思われる社会の根幹をなす「母系制度」に着目します。こうして、いまだ闇に閉ざされていた「女性の歴史」の発掘作業がはじまるのです。それは、男によってつくられた「歴史」を敵に回しての逸枝にとっての「聖戦」であったにちがいありません。といいますのも、それは、婦人解放のための史的根拠の創出であり、解放戦線に使用する「武器」の製造を意味したからです。

『大日本女性史 母系制の研究』に入るに先立って、逸枝は、これまで日本においてどのように女性史研究が進められてきていたのか、先行研究の状況を調べたものと思われます。それについての逸枝の認識はこうでした。

 外国には、たとえばエンゲルスの「家族私有財産および国家の起源」とか、ベーベルの「婦人論」などの、いわば女性解放の聖典ともいっていいものがあったが、わが国にはそれらしい学問の名に値するものといっては一つもなかった。
(中略)
 もっとも、たとえば河田嗣郎の「家族制度の発達」(明治四二)「婦人問題」(同四三)とか、堺利彦の「男女争闘史」(大正九)とかは、主として前記の外国文献等によった尊敬すべき編著であるが、その日本史ないしは日本女性史的観察となると幼稚というほかないものであった29

そこで逸枝は、このように考えました。

 日本では、女性解放の思想や運動は、明治以降顕著になったが、女性自体の被圧迫史ないし生活史については、ほとんどなんらの研究努力もはらわれていなかった。歴史を無視して現実の把握ないし未来の展望が可能であろうか。私はそうかんがえた。
(中略)
 そこで私は、日本女性史をテーマとし、「女性史」という新しい学問の一分野の開拓――つまり、女性史学の樹立というようなことをかんがえた30

次に逸枝は、「新しい学問の一分野の開拓」に向かうに当たって、その全体像を構想したにちがいありません。これについて逸枝は、一九三八(昭和一三)年に発表する『大日本女性史 母系制の研究』の巻頭の「例言」のなかで、以下のように、それを全五巻で構成したい旨の抱負を述べています。驚くべきことに、このような早い段階において逸枝は、自身の「女性史学」の全構想を示したのでした。ここに「高群史学」の全貌が姿を現わすことになります。

一、私が書かんとする女性史は、若しすべての事情が之を許すならば、次の五巻としたい考へである。
  1 母系制の研究
  2 招婿婚の研究
  3 通史古代 国初より大化迄
  4 同 近代 改新より幕末迄
  5 同 現代 維新より現在迄31

本人も語っていますように、前半の二著が特殊研究、後半の三つの書物が通史研究ということになるでしょうか。実に壮大な計画です。しかし、ほぼこのとおりに、執筆が進んでゆきました。以下は、その実際の刊行書籍の一覧です。


(1)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938(昭和13)年6月。
(2)高群逸枝『招婿婚の研究』大日本雄辯會講談社、1953(昭和28)年1月。
(3)高群逸枝『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年4月。
(4)高群逸枝『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955(昭和30)年5月。
(5)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年6月。
(6)高群逸枝『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年7月。
 

最後の『女性の歴史』の続巻が刊行されるのが一九五八(昭和三三)年ですので、「森の家」での執筆開始から悠々二七年の歳月をかけて全巻完結することになります。

見てきましたように、逸枝の視点からすれば、女性の歴史は、次のようになります。今日の女性は悲惨な状況に置かれているが、かつては、自由な恋愛を楽しむ一方で、社会組織の指導者として、宗教儀式の神官として、その責務を果たしていた。そころが、一夫一婦制の結婚制度の出現によって女性の地位は地に落ち、無残にも男性の圧迫に耐えて生きるようになり、いまやっと、それからの解放がはじまろうとしている。一言でいえば、このようになるでしょう。そして、もしこうした視点に立って女性の歴史を書こうとすれば、どうしても古代の女性の生き生きとした実態を例証する必要があり、そこで逸枝が向かったのが、「母系制」と「招婿婚」の研究でした。つまり、このふたつの特殊研究は、通史研究にとって欠かすことのできない心臓部となるものだったのです。そして、このことの実証を待って、はじめて逸枝は、構想どおりに「女性の歴史」の全史完結へと向かうことになるのでした。

このことが意味するのは何でしょうか。私は、逸枝が望んでいた歴史研究は、あくまでも、これまでに誰も明らかにすることのなかった日本女性の全体史を日本ではじめて書き表わすことであり、それを描き出すうえでの重要な指標として逸枝が着目したのが、「母系制」と「招婿婚」だったのではないかと思料します。別の言葉で言い表わすならば、逸枝にとっての「母系制」と「招婿婚」の研究目的は、古代の婚姻制度に焦点をあてて、それが全体としてどのような状態であったのかを明らかにすることではなく、日本の女性の歩みのなかにあって、女性が中心となっていたとみられる社会的制度、とりわけ、それを裏づける婚制が存在していたのか否か、もし存在していたとするならば、どの時代まで実際に存続したのか、それ自体を特定することにあったのではないかと推量されます。その意味において、逸枝の研究は一貫しており、何ら矛盾も逸脱もなく、このようにして、上の引用にあるように、「『女性史』という新しい学問の一分野の開拓――つまり、女性史学の樹立」がなされたのでした。ここに、高群史学の揺るぎない価値が認められるものと思われます。

逸枝が行なった「招婿婚」研究は、「女性史」の創出という文脈からの婚制の研究でした。しかしながら、「婚姻制」という一般的な学術上の関心に照らして、古代の婚制が必ずしも「招婿婚」のみではないことが明らかになれば、そのときは、当然のこととして、逸枝の「招婿婚」は偏ったものに映るでしょう。その代表的な研究が、鷲見等曜の『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』であると思われます。しかし、それを推して、栗原がいうように「意図的な操作改竄」あるいは「整然とした誤謬・・・・・・・」と断定できるかといえば、それは別であろうというのが私の考えです。といいますのも、研究というものは、目的と方法論に加えて、「文脈」が重要な鍵を握り、その範囲で齟齬なく整合性を保ち完結していれば、そこに学問的誠意を認めるべきであると考えるからです。ここでいう「文脈」とは、土壌、あるいは時空や次元という用語に置き換えることもできます。異なる土壌に咲いた花の美醜を論じてもあまり意味をなしませんし、異なる時空に生きた人間を比較してその善悪を語ってもあまり生産性はありません。私は、逸枝の『招婿婚の研究』と鷲見の『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』では、執筆に当たっての「文脈」が異なっていると認識します。つまり私は、前者は、新しい学問の創出という「文脈」において、後者は、従来からの学問的関心の延長という「文脈」において開花した業績であると信じているのです。

すでに引用をもって示していますが、栗原は、「高群学説の誤謬には洞富雄から鷲見等曜まで、実にさまざまな批判が行われてきた。筆者はそれらの多くが正しいことが理解できるようになった。しかしながら、従来の批判は、彼女がひたすら真実を追求した結果が不幸にも誤っていたとする見解に立っていたと思われる。ところが、筆者の追調査によれば、高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物であったことを確信するに至った」と、書きます。論点の相対化という意味において、その研究を別の「文脈」から批判することは許されるにしても、それを横目で眺めては自身の力に借用し、「極めて意図的な操作改竄の産物」という言葉でもっていたずらに退けてしまうならば、学問の発展に水を差す結果を招きかねません。私は、異なる立地基盤にあって成り立つ異なる研究業績については、それぞれの「文脈」とそこから生み出された成果内容とにあくまでも敬意を表し、虚心のなかにあって評価すべきではないかと考えます。

五番目は、「意図的な操作改竄」ということについてです。栗原弘の定量的分析の観点からすれば、調査結果を全面的に開示しなかった逸枝の行為は、「意図的な操作改竄」ということになるのかもしれませんが、しかしながら、史料が語りかけてくる声に耳を澄まし、それを文にした可能性のある逸枝自身には、己が「意図的な操作改竄」を行なったという自覚はなかったのではないかと想像されます。たとえば、多数の白と黒の碁石が床一面に広がっているなか、自分がほしいと思う白の石を拾い上げることだけに強く動機づけられた人にとっては、一方の黒の石が目に入らないということはないでしょうか。つまりこの場合、主題となるのは、全体として石が何個あり、そのなかから白を幾つ手にしたかという数量にかかわる問題ではないのです。逸枝が調査したといわれている五〇〇家族のうち、自分にとって関心のある家族だけが目に止まり、そうでない家族の存在は視野から消えていたということはなかったでしょうか。そういうことが人間の心理学的現象として実際にあるのであれば、あえて「意図的な操作改竄」として、騒ぎ立てる必要はないのです。道子の、「栗原弘氏の提出された、高群逸枝の歴史改竄説以来……『やっぱりそうか』と鬼の首でもとったような揶揄が聞こえてくるけれども、もとよりそれは栗原氏の望まれることではあるまい」という言説に、そのことがにじみ出ているように感じられます。

他方、栗原弘は、「筆者の追調査によれば、高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物であったことを確信するに至った」と書いていますが、「意図的な操作改竄」を主張する以上は、つまり、逸枝の研究手法を犯罪視する以上は、いつ、どこで、どのようにして、「意図的な操作改竄」が行なわれたのか、「意図の働き」の全体的実際にかかわっての事実確認が必須となります。その決め手(エヴィデンス)は、もしあるとすれば、いまだ発掘されていない、逸枝の日記か書簡に見出されるかもしれません。いずれにしましても、この点の実証は、今後の高群研究における不可欠な要素となるものと考えます。もし仮に立証できなければ、栗原は「筆者の追調査によれば、高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物であったことを確信するに至った」と書きますが、その見立てに普遍性はなく、あくまでも単なる栗原個人の「確信」にすぎなかったということになります。

あえてここで、これに関連する逸枝自身の言説を、以下に五つ引いておきます。

 私は学問が偏見を破る大きな武器であることを知った。……固定観念や既成観念への、火の国女性的なたたかいも、このへんからはじまった32

 研究は、道のない道をみずから汗して切りひらいて行くのだから、根気が必要で、飛躍はぜったいに許されない。私の上着は光線を一方からうけるので右半身が色あせ、おなじ方の袖は手首とひじのところが、いつもすり切れるのが例だった33

婦人解放およびその運動の推進力となる女性史は、女性被圧迫の歴史を筋みちをたてて科学的に立証するものでなければならない34

私の研究も/ようやく整理の段階に入った
心には種々のものがみちあふれ/なにか読めば/つれて湧くものがある
喜びと不安-/私は私の心にいう/「科学者であれ」35

この道に入ってはや一五年/その間にまわりの畑や森は宅地となり
国も破れ/あらゆるものは移ろい変わった
だが変わらないのは私の労作しごと
ああ無限の学究/はてしない道よ36

以上を引用しながら私は、逸枝の生涯が、あたかも「ペテン師」や「犯罪者」の生涯に似て、歴史に「意図的な操作改竄」を加えるために存在していたとは、にわかに信じがたいという思いを強くしたことを、ここに告白しておきます。

最後に六番目として、高群史学の今後についてです。引用に示していますように、道子は、こう書きます。「学問的業跡というものは、いつかは乗り越えられる運命にある。そして学問というものは、乗り越えられてこそ意味があるのではないだろうか」。この見解は、極めて妥当なものでしょう。そして、すでにとっくに、乗り越えられているともいえます。たとえば、鷲見等曜は、自著の『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』の「はじめに」において、「日本家族史の研究における高群逸枝氏の業績は巨大である。私もはじめ氏の説に依拠して、勤務校で社会学の講義を行なっていたが、氏の所論に多くの矛盾があることに気づきはじめた」37と述べ、日本の平安時代の婚制が、東南アジア社会にみられる双系制に酷似している点を根拠に挙げ、逸枝が述べる母系原理に基づくものでないことを、本文において立証しようとするのでした。

おそらく今後も、次の世代の研究者たちによって新しい学説が生み出されてゆくにちがいありません。といいますのも、女性の歴史にかかわる、「恋愛」「性的少数者」「結婚と離婚」「出産と育児」「労働と政治」「教育とその継承」「財産とその管理」「母子関係と父子関係」「住居と服と家具」「看病と介護」といった観念は、それ自体が同時代的な現象に呼応して変化するものであり、新しく生み出された文脈から史料を再読し、改めてその主題への接近を試みれば、自ずと新説の誕生が続く可能性が予想されるからです。

一方で道子は、「あとからあとから出現する学説が流砂のように去ったあと、その流砂に洗われて、古典となって発光しながら横たわる作品もある」ともいいます。問題は、そうして生産された幾つもの説を時間軸に沿って並べてみたとき、逸枝の研究がどう位置づくのかということではないでしょうか。日本の婚姻や家族を主題に考察した、これからも長く続くであろう研究の全体史のなかにあって、逸枝の業績が、確固としてその先史に位置づくのであれば、道子がいうように、それは「古典となって発光しながら横たわる」ことになるのではないかと思われます。そのとき人は、これも道子が指摘するように、「古代呪術の力をもった詩人が希にいます。学術論文でそれをやろうとして、人跡未踏の女性史というものに取り組んだ」最初の人間が高群逸枝だったのです、という讃美に満ちた評価を逸枝に付与するにちがいありません。

以上六点が、栗原弘の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』に対しての、道子の解釈を援用したうえでの私の個人的見解です。

しかしながら私は、上記の問題以上に、栗原の次の言説に強い危惧を感じます。といますのも、栗原は、単に『母系制の研究』や『招婿婚の研究』といった学術の範囲を超えて、逸枝の「意図的な操作改竄」を意図的にすべての著作にまで敷衍化しようとしているからです。その箇所を以下に引用します。

 高群の誤謬問題について、参考になるのは、『火の国の女の日記』である。その中で、高群は、酒乱の父に苦悩した家族であったにもかかわらず、「一体的同志的」結合を遂げた理想的夫婦であるかの如く描写している。これは、明らかに、自己の理想的夫婦像を、父母に投影した、事実に反する虚構である。彼女の場合は、通常一般の人間が、親族の恥を隠すために、事実を改竄する性質のものと一線を画さなければならない。というのは、自己の理想のために、事実が曲げられるのは、彼女の著作に共通しているからである。高群は、自分の父母の過去の事実を正確に把握しており、また叙述のための方法論上の錯誤があったとは思われない。その上で、高群は、極端な事実の変容をおかしているのである。……ただし、『母系制の研究』『招婿婚の研究』は研究書であり、日記と同等に扱うことはできない。もちろん、それは通常の人ならばそうなのである。高群はそうではない。彼女には、詩も研究書も日記も同等の作品なのである。それ故に、すべてに共通した創作原理が存在している38

しかしながら、よく読めばわかるように、実際には逸枝は、『高群逸枝全集』の第一〇巻の「火の国の女の日記」のなかで、父親の酒乱ぶりについて、はっきりとこう書いているのです。

 酒のみがはじまると、子供部屋のない家なので……家を追い出されて、しょんぼりと立っていただろう小さかった私のおもかげが、いまも目に浮かぶようにみえてくるのである。こうして子どもの私は、酒の座のいとわしさや、喧騒や、そこに露出される人間どもの悪鬼めいた姿などにしょっちゅうおびえていたが、いっぽうではまたそうした人間どもに同情もするといった複雑な人生観の芽ばえをも引きだしていたのだった39

さらに、父親の酒癖の悪さについては、『婦人戦線』の「自伝」のなかで、逸枝は、このようにも表現しています。一三か一四歳になったころの話です。逸枝に思いを寄せる少年がいました。

 酒亂の父が母をぶんなぐろうとして追つかけたりする。近所の子供達は、面白がつて見物する。そんな時、彼は近所の人達とともに子供達を追つぱらつたり、母を逃がしたり、父を寝かしたりしてくれた。さわぎが静まつて、弟達も寝てしまふ頃まで、彼はわたしの家の石段のそばに立つて、わたしのことを心配してくれてゐた40

また父親の勝太郎は、酩酊すると自制を失い、横溢する性欲を妻にぶつけ、暴力を振るうことも日常的でした。

 わたしの次に弟達が生れた。……この頃から、わたしの家には、呑んだくれどもが、毎日のやうにやつてきた。その上、子として浅ましくも、悲しく感じられたことは、父の母に對する限りなき欲望の追求である。おお、そのため美しかつた母は瘠せ衰へた。また彼女は、子供に対する氣兼ねからも、われらの「呑んだくれおやじ」の暴力に烈しく抵抗し、そして大ていそれが原因となつて、踏まれたたかれた41

加えて逸枝は、自分の自伝的小説である『黒い女』に、このようにも、書いているのです。

 私は父を恐れてゐた。が愛してもゐた。父は飲んだくれではあつたけれど、それが悪人だらうか42

逸枝が父親の酒癖について書いているこれだけの実例を挙げれば、栗原が書くところの、「高群は、酒乱の父に苦悩した家族であったにもかかわらず、『一体的同志的』結合を遂げた理想的夫婦であるかの如く描写している。これは、明らかに、自己の理想的夫婦像を、父母に投影した、事実に反する虚構である」という一文が、いかに事実に基づかない虚妄の言であるかは、すぐにも明らかになるでしょう。したがいまして、これにより、「彼女には、詩も研究書も日記も同等の作品なのである。それ故に、すべてに共通した創作原理が存在している」と決めつける、その前提が崩れたことになります。前提が崩壊した以上、栗原の結論も、それに従い自然消滅します。それでも、逸枝の「詩も研究書も日記も同等の作品」であり、そこには「すべてに共通した創作原理が存在している」ことを主張しようとするのであれば、「詩も研究書も日記も」一著一著そのすべての逸枝の著述にかかわって、いかに「創作原理」が働いた虚偽の作品となっているのかを、信頼できる一次資料に基づいて余すことなく例証すべきではないでしょうか。それができなければ、もはや学術的な価値をもった有益な指摘どころではなく、単に威圧的で攻撃的なだけの傲慢な言説の領域へとはかなくも帰結するのではないかと思量します。

改めて、上に引用した栗原弘の文にもどります。このなかで栗原は、逸枝の「意図的な操作改竄」や「創作原理」をもってして、単に『母系制の研究』や『招婿婚の研究』といった学術研究書のみならず、詩や日記等を含む逸枝の全著述に共通する特徴であると断言しました。しかし、もしそうであるとするならば、逸枝の書き残したものはすべて、改竄ないしは創作されたものになりますが、ところが栗原は、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』のなかにおいて、しばしば逸枝の『火の国の女の日記』や『日本女性社会史』から引用して、立証のための根拠として使っているのです。これは、明らかに矛盾した行為といわざるを得ません。なぜならば、『火の国の女の日記』や『日本女性社会史』が、本当に全編にわたって操作され創作されたものであるならば、史料としての信憑性も信頼性もなく、物事を判断するうえでの証拠(エヴィデンス)とはなりえないのではないかと愚考するからです。

最後にあえて付け加えるならば、栗原の、「『母系制の研究』『招婿婚の研究』は研究書であり、日記と同等に扱うことはできない。もちろん、それは通常の人ならばそうなのである。高群はそうではない。彼女には、詩も研究書も日記も同等の作品なのである。それ故に、すべてに共通した創作原理が存在している」という発話は、著述家として逸枝の人格を全面的に否定するものであり、すべての人がこれを受け入れるには、困難性がつきまとうのではないかというのが、この論点に対する私の結論です。

さらにもうひとつ個人的な愚見をここに加味することが許されるならば、逸枝の「詩も研究書も日記も同等の作品」であり、そこには「すべてに共通した創作原理が存在している」ことを主張したものの、それが虚妄の可能性があることが判明したいま、その言説が所収されている栗原の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』それ自体そのものにこそ、「創作原理が存在している」可能性があり、私自身は、今後の女性史、とりわけ婚姻史や家族史の研究の発展のなかにおいて、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』が、いかように先行文献として検討されてゆくのか、その推移を注視したいと考えます。

しかしながら、堀場清子は、自著の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』(二〇〇九年、ドメス出版)のなかで、次のように書いていますので、紹介します。堀場は、この本にかかわって、静子が死去する二〇〇八(平成二〇)年四月一五日をもって筆を置く考えであったようですが、静子の死から一〇日が立った、四月二五日に栗原弘の『平安前期の家族と親族』が校倉書房から出版されたことを受けて、次のように記します。全文、引用します。

栗原弘氏ははじめ、高群史学へのもっとも深い傾倒者だった。高群の大部の遺稿『平安鎌倉室町家族の研究』(国書刊行会・1985)を校訂・出版し、夫人の葉子氏とともにやはり高群の遺稿『日本古代婚姻例集』(高科書店・1991)を校訂・出版された。転じて高群史学へのもっとも痛烈な批判者となり、さらにその境域を超えて、重病をも克服して、平安前期における新たな家族・親族像を描出された。同書の発行日は、本稿の下限と決めていた橋本静子氏死去の日から、10日遅れる。しかし栗原史学の到達点を敬し、唯一の例外として掲示した43

このように、「栗原史学の到達点を敬し」と書く堀場の視点と、したがいまして、上で論述しました私の栗原批判とは相容れません。

見てきましたように、堀場は、橋本憲三と橋本静子の兄妹に対する適切なる理解者であり、ふたりの苦しみを正しく共有していたにちがいありません。しかし、一方で堀場は、唯一松本正枝については批判したものの、瀬戸内晴美や市川房枝、そして、戸田房子やもろさわようこのみならず、栗原弘についても、その言動に深く立ち入って論評することは避け、口をつぐんでしまいました。ある意味で、いさかいを嫌う温厚な性格の持ち主だったのかもしれませんが、別の観点につけば、「優柔不断」や「八方美人」とみなされても致し方のない立ち位置にあったようにも見受けられます。おそらくこれが、もろさわの文を批判した静子の、瀬戸内、もろさわ、栗原の文に反論した道子の、ふたりが感得した堀場にかかわる印象だったのではないかと、勝手ながら私は推量します。

これよりのち、私に宿る批判精神はさらに延伸され、それは以下に、栗原弘の妻である栗原葉子の著作『伴侶 高群逸枝を愛した男』において展開されてゆくことになります。

四.栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』での橋本憲三批判

すでに引用によって紹介していますように、道子は、「書かれる前から高群逸枝は古典として出現したのだった。それゆえ、稀なる介助者があらわれた。夫妻の業跡の意味を私はそうとらえたい。二人を洗う歳月の砂は、むしろ必要なのである」と予言しました。

予言どおりに、さらに新しい「二人を洗う歳月の砂」が、「表現の呪術――文学の立場から――」の発表から二年後の一九九九(平成一一)年二月に、沖合からの流砂となって静子と道子の立つ渚にたどり着きます。それは、平凡社から刊行された『伴侶 高群逸枝を愛した男』という本でした。著者は、栗原弘の妻の栗原葉子で、静子にとって過去に面識のある女性でした。この本の「あとがき」で著者は、このように書いています。

 橋本憲三については、夫との会話の中で度々話題にのぼっていたことだった。だが、私は自分で執筆するつもりはなく、堀場清子氏か石牟礼道子氏がいずれ書かれるであろう決定版憲三論の、ただ、読者でありたいと思っていた。で、待った。待って、待って、待ちくたびれて、とうとう大胆にも自分で筆を執ることを決意した44

道子は先のシンポジウムで、こう語りました。「熊本時代も処女詩集の時代も『婦人戦線』のときも、異性との家出事件も、『森の家』も、終始一貫、彼女は、一般社会からみれば、異様で、エキセントリックで、トラブルメーカーでさえありました」。その高群逸枝を支え、生涯をともに過ごしたのが、夫の橋本憲三でした。道子も静子も、はじめて目にする憲三に関する評伝ですので、その内容に強い関心を向けたものと思われます。とりわけ、記述内容に関わる憲三からの執拗な追及によって「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」の連載が中止に至ったと語る著者の瀬戸内晴美の言説について、そして、逸枝の入院と臨終に際しての市川房枝のグループと憲三とのあいだに生じた確執について、さらには、著者の夫の栗原弘が指摘した、逸枝作品の「意図的な操作改竄」説について、著者の栗原葉子が、それをどう書くのかが、ふたりにとっての最大の関心事となったにちがいありません。しかし、前者のふたつの論点につきましては、第二節「瀬戸内晴美の伝記小説に向けられた言説について」と第四節「市川房枝とその仲間の言動への反論とその後について」におきまして、すでに触れていますので、ここでは主に、著者の夫の栗原弘が指摘した、逸枝作品の「意図的な操作改竄」説について、著者は、それをどう書いているかを見てみます。以下がその該当箇所です。

 厖大な文献から練り出された高群史学の心臓部は、日本では平安中期になって夫婦の同居が開始され、その婚姻形態は夫が妻の家に住む妻方居住婚が一般的で、婿取式後の夫婦は絶対に夫の家に帰らないという点にあった。それを根拠にして、日本の婚姻制度は古代より一貫して家父長制であったのではなく、古代母系家族から家父長的家族へ移行したとするのが高群学説の骨格であった。だが、彼女とほぼ同じ一〇年をかけて原資料に当たって逐一検証した栗原弘によれば、高群が自説の根拠とした平安中期の妻方住居婚の事例は、高群が調査した五百家族中、藤原道長家族のたった一例のみ。道長家族は主流どころか例外的一例に過ぎなかった。が、問題点はこの次である。《女性の地位が高かった母系古代から、父系に移行して女性の地位は低下したのだ》という予めの構想のために、逸枝は調査結果そのままを提示するのではなく、史料操作や改竄まで行って婚姻史を体系化してしまったのである45

それでは、そうした逸枝の行為を、憲三はどう見ていたのでしょうか。筆者は、このように推断します。

 ところで、こうした逸枝の「意思的誤謬」を、夫の憲三が知らなかったということがありうるだろうか。逸枝の書く一行一句一字を余さず読み、書き過ぎた指の痛みや背の凝りまで体験を共有していた憲三が、これを知らなかったという方が不自然である。否、それどころか、憲三は隅から隅まで知り尽くしていたのであった。……あるがままの客観的史実の上に構築するのが、実証史学の学問的誠意と真理であるとするならば、憲三は、いわば歴史学の自殺行為にも等しい改竄の共犯者だったのである46

「憲三は、いわば歴史学の自殺行為にも等しい改竄の共犯者だったのである」と断じる、栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』を読んで静子と道子は、どのような感想をもったでしょうか。その気持ちを自分なりにおもんばかりながら、以下に、三点について考察を加えてみたいと思います。

一点目――。

上の引用にあるように、栗原は、「が、問題点はこの次である。《女性の地位が高かった母系古代から、父系に移行して女性の地位は低下したのだ》という予めの構想のために、逸枝は調査結果そのままを提示するのではなく、史料操作や改竄まで行って婚姻史を体系化してしまったのである」と書きますが、これについては、すでに私の見解を述べていますので、繰り返しません。しかしながら、「憲三は、いわば歴史学の自殺行為にも等しい改竄の共犯者だったのである」と断じる点につきましては、少し私は疑問をもちます。といいますのも、もし憲三が「共犯者」であるとすれば、逸枝が、その犯罪の「正犯」となるからです。私が疑問に思うのは、果たして逸枝の女性史研究は「犯罪」だったのか、という点です。私は、「今まで調べてきた平安・鎌倉・室町の五百家族、藤原氏の日記の全部を読破するということで蓄積してきた資料の中から、彼女の詩的な欲求に応じて、資料の方が波頭を立てて彼女と呼応したのだと思います」という道子の理解に連なりたいと思います。といいますのも、すでに書いていますように、私は、新しい学問の最初に詩的想像力があり、それが定性分析の手法をともなって、かかる学問の存在が発掘されるものと信じているからです。換言するならば、私は、高群史学は、「犯罪」によって生み出された学問的残滓などでは決してなく、いままでに誰も見たことのない女性史が最初に可視化された「創造」の産物であるとみなしているのです。女性史という学問が、現在までにおいてかくも活性化していることをもって、その証左としたいと思います。

二点目――。

栗原は、「あるがままの客観的史実の上に構築するのが、実証史学の学問的誠意と真理である」と書きます。私も、全くそのとおりであると思います。異存はありません。しかしながら、栗原の『伴侶 高群逸枝を愛した男』には、そのことが十全に投影されていません。といいますのも、自身の文が他者の文の無断借用で成り立っている箇所が散見されるからです。以下に、その事例を三つ挙げ、対照します。いずれの例も、この本の書き出しの部分です。

球磨地方は古くから木材や木炭や楮などの産地であったが、筏で流す木材以外の物資は、みな川船で八代には運ばれた。……戻りの曳船は……一勝地で一泊して……
(栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、24頁)

球磨地方は木材、木炭、楮などの産地ですから、木材は筏で流すのですけれども、……八代で荷さばきをして、戻りの、上りの船が一勝地で一泊するわけです……
(石牟礼道子「最後の人 第十八回 第四章 川霧 1」『高群逸枝雑誌』第31号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1976年4月1日、25頁)

嵐が吹いて、雑木林が向こうまで透けて見えるようになる頃には、落葉をかき分けると、むかごと呼ぶ山芋の実が転げ出てくる。その実を白い細糸に通して輪にし、熱い灰の中に埋めて焼くのが子供たちの楽しみで、プーンと香ばしい焦げた匂いがしてきたら食べ頃だった。
(栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、25頁)

山里では嵐が吹いて、雑木林が疎らに透けて見えるやうになる頃、その下の落葉を漁ると中から鬼灯大の山芋の實が、いくつとなく轉げ出た。山里の子供達は争つてそれを拾つて、白い細糸に通した……そのひめの輪を熱い灰の中に埋めてゐた。……間もなくひめは焦げて快よい匂ひが、ぷんと二人の嗅覺をそそつた。
(橋本憲三・高群逸枝『山の郁子と公作』金尾文淵堂、1922年、59-60頁)

 夕方になると、うち連れて何十艘となく入ってきていた川船が、全くその姿を見せなくなった。また、往来も火の消えたような寂しさで、すうと威勢よく幾台もの俥が客を乗せて、燕のように入り乱れて飛び交った賑やかな昔の面影もみられなくなった。
(栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、30頁)

夕方になると打連れて何十艘となく這入つて來た河船も全くその姿を見せなくなり、往來は恰度火の消えたやう、すうと威勢よく幾臺の俥が燕のやうに入り亂れて飛び交つた昔の面影は、再び見られなくなつて了つた。
(橋本憲三・高群逸枝『山の郁子と公作』金尾文淵堂、1922年、9-10頁)

剽窃や盗用という概念は、研究者や研究機関によりその解釈は幾分異なりますので、ここでは使用しません。しかし、「実証史学の学問的誠意と真理」をいうのであれば、きちんと原文を引用し、注番号を付したうえで、巻末にその出典(著者名、書名、出版社名、発行年、該当頁など)を記すべきだったのではないかと思量します。こうした箇所がここだけなのか、全編にわたっているのかは、すべてを調べたわけではありませんので断言できませんが、いっさい本文にあって、一次資料を引用したことを示す注が施されていないのは事実であり、したがって、書かれている内容を出典に当たって追検証をすることはできません。つまりそれは、栗原がいうところの「実証史学の学問的誠意と真理」から程遠く、記述内容の真実性が担保されていないことを意味するのです。

三点目――。

瀬戸内晴美、戸田房子、もろさわようこ、西川祐子といった人たちによる伝記執筆にかかわって推移するこの段階にあって、注目されてよいのは、とりわけ、記述内容に関わる憲三からの執拗な追及によって「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」の連載が中止に至ったと語る著者の瀬戸内晴美の言説について、そして、逸枝の入院と臨終に際しての市川房枝のグループと憲三とのあいだに生じた確執について、さらには、著者の夫の栗原弘が指摘した、逸枝作品の「意図的な操作改竄」説について、著者の栗原葉子が、それをどう書いているのかという点にあります。つまり換言すれば、注目されてよいのは、先行研究を、栗原はどの立場から、どう分析しているかという点にあるのです。

栗原は、瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」には触れますが、その反論である憲三の「瀬戸内晴美氏への手紙」には目を伏せます。また、もろさわようこの「高群逸枝」には言及しますが、その反論である静子の「もろさわよう子様へ」も道子の「朱をつける人」も、無視します。さらに栗原は、夫の著作である『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』の正当性は主張しますが、その反論である道子の「表現の呪術――文学の立場から――」には、聞く耳をもちません。栗原弘は、高群女性史学に対して「整然とした誤謬・・・・・・・」という名辞を与えました。その表現に倣うならば、栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』には、「誤謬」かどうかは別にして、先行文献の扱いにおいて、際立つ「整然とした偏り」が明らかにみられるわけであり、その点をここで強調してもいいかもしれません。そうした偏りは何に由来するのでしょうか。本人は何も書いていませんので想像するしかありませんが、夫が、逸枝を「正犯」に見立てたのを受けて、妻は、憲三を「共犯者」に仕立て上げることに、自身の役割を見出した可能性も排除できないのではないかとも思われます。そうであれば、これが、この本の執筆に際しての裏に隠された真の意図ということになります。

繰り返しになりますが、最重要事項として伝記作家に求められるのは、資料を取り扱うに際しての中立性と公平性です。いうまでもなく、そのことが担保されていなければ、対象人物の真実性に肉薄することはできません。逆に、もしそこから逸脱して恣意的に資料の選別を行なうならば、その結果、明らかに書かれる内容は、自ずと偏向へと向かいます。もっとも、そのことが最初から確信的に意図されているのであれば、もはや批評の対象にさえならないものと思量します。

栗原は、当該書の「あとがき」のなかで「小著を橋本憲三と高群逸枝の墓前に一冊……捧げます」47と書いています。捧げられた憲三と逸枝は、自分たちの言動に「犯罪」という烙印が押されてしまったその書を読み、草葉の陰で何を思ったでしょうか。もはや、あえて想像することはここでは控えます。

以上が、三つの視点からの私の考察です。

論じていますように、このような一方的観点に立った、著者にとって都合のいい憲三批判の単なる羅列に、静子も道子も、言葉を失ってしまったのではないかと愚考します。ふたりは、この本について、何も語っていません。これもまた、必要不可欠な、逸枝と憲三の「二人を洗う歳月の砂」であってみれば、多弁を労せず無言のうちにそれを甘受し、いつかは、逸枝の作品同様に、ふたりの「一体化した近代の夫婦」像も、神話世界の「双頭の蛇」のごとくに、あらゆる歴史の流砂に耐え忍んだ古典像となって発光するにちがいないことを静かに夢想していたのかもしれません。

以下は、再び「あとがき」からの引用です。

私は自分で執筆するつもりはなく、堀場清子氏か石牟礼道子氏がいずれ書かれるであろう決定版憲三論の、ただ、読者でありたいと思っていた。で、待った。待って、待って、待ちくたびれて、とうとう大胆にも自分で筆を執ることを決意した。だから、こうして書き上げた今も、大先輩の前に頭を垂れて審判が下されるのを待っている気分である48

一見挑発とも受け止められかねないこの言葉を、堀場清子と道子がどう受け止めたのかは明確にするだけの資料が残されていないようです。また、本人たちが「審判」を下す目的で上梓したのかどうかもわかりませんが、遅れること二〇〇九(平成二一)年に、堀場は『高群逸枝の生涯 年譜と著作』を世に問い、一方の道子は、二〇一二(平成二四)年に『最後の人 詩人高群逸枝』を世に出すのでした。前者の作品は、これよりのちのさらなる実証研究になくてはならない、精緻を極めた、逸枝の「年譜と著作」が綴られ、後者の作品において、自身にとっての「最後の人」が橋本憲三その人であることを告白するのでした。

見てきましたように、生前にあってのみならず、逸枝と憲三の死後にあっても、ふたりに関心をもつ人の波は絶えませんでした。憲三の存命中、瀬戸内晴美は、自身の小説の連載断念に至った原因を憲三の意固地でヒステリックな性格のせいにしました。戸田房子は、逸枝と憲三の夫婦仲に土足で割り込んでは、自説を展開しました。憲三の死去後も、もろさわようこは、風体貧しく、品行卑しき男として憲三を罵りました。西川祐子は、『婦人戦線』時代にあって逸枝と自身の夫が性的関係にあったことを告白した妻の松本正枝の行為を勇気あるものとして賞賛しました。栗原弘は、逸枝が書いたすべての著作が事実を隠蔽した偽造品であると推断しました。栗原葉子は、人前に仁王立ちし、ふたりの恥部を隠す熱演者として憲三を描写しました。こうした幾度となく押し寄せてくる受難のなかで、憲三同様に静子も、自身の晩年を過ごすのでした。静子にとっては、なぜここまで、兄夫婦が誹謗中傷の渦に巻き込まれなければならないのか、自分自身、理解ができなかったかもしれません。それは、道子も同じであったでしょう。といいますのも、道子が描く憲三像は、次のようなものだったからです。

 一人の妻に「有頂天になって暮らした」橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しく典雅で、その謙虚さと深い人柄は接したものの心を打たずにはいなかった49

しかしながら、静子も、栗原葉子のこの本の刊行から九年後の二〇〇八(平成二〇)年四月、この世に別れを告げ、他界します。水俣川の堤のサクラが散るなか、道子は静子を見送ります。こうして、遺されたのは道子独りとなりました。静子九六歳、道子八一歳の春の出来事でした。

(1)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、58頁。

(2)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、180頁。

(3)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、181頁。

(4)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(5)高群逸枝編、栗原葉子・栗原弘校訂『日本古代婚姻例集』高科書店、1991年、i頁。

(6)『高群逸枝全集』第七巻/評論集・恋愛創生、理論社、1967年、372頁。

(7)石牟礼道子「夢の中のノート」『毎日新聞』(夕刊)1979年10月17日、3面。

(8)前掲『日本古代婚姻例集』、i頁。

(9)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、3頁。

(10)栗原弘『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』高科書店、1994年、i頁。

(11)石牟礼道子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、101頁。

(12)前掲『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、i頁。

(13)河野信子「著作を綿密に解析」『熊本日日新聞』、1994年11月13日、11面。

(14)同「著作を綿密に解析」『熊本日日新聞』、同面。

(15)前掲『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、359頁。

(16)同『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、368頁。

(17)同『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、同頁。

(18)石牟礼道子「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、早稲田大学出版部、1997年、213頁。

(19)同「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、206-209頁。

(20)同「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、209-211頁。

(21)同「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、211頁。

(22)同「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、214頁。

(23)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、263頁。

(24)同『高群逸枝全集』第一〇巻、242頁。

(25)同『高群逸枝全集』第一〇巻、290頁。

(26)高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、295頁。

(27)同『戀愛創生』、278-279頁。

(28)同『戀愛創生』、44-45頁。

(29)高群逸枝『愛と孤独と 学びの細道』理論社、1958年、9-10頁。

(30)同『愛と孤独と 学びの細道』、9-10頁。

(31)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、1-2頁。

(32)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、62頁。

(33)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、229頁。

(34)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、246頁。

(35)同『高群逸枝全集』第一〇巻、332頁。

(36)同『高群逸枝全集』第一〇巻、333頁。

(37)鷲見等曜『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』弘文堂、1983年、i頁。

(38)前掲『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、364頁。

(39)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、28頁。

(40)高群逸枝「高群逸枝――わが戀の記――」『婦人戦線』(特輯自傳)第1巻第10号、1930年12月、21頁。

(41)同「高群逸枝――わが戀の記――」『婦人戦線』、19頁。

(42)高群逸枝『黒い女』解放社、1930年、63頁。国立国会図書館デジタルコレクション。

(43)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、242頁。

(44)栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、250頁。

(45)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、189頁。

(46)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、190-191頁。

(47)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、253頁。

(48)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、250頁。

(49)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、53頁。