一九六四(昭和三九)年六月七日、高群逸枝は、国立東京第二病院において、誰に看取られることもなく息を引き取りました。それに至る様子を、『高群逸枝全集』(第一〇巻/火の国の女の日記)から抜粋しながら再現してみます。この文は、逸枝の死後、夫の憲三が書いたものです。
逸枝の容体が悪化しました。五月一〇日の夜明けを待って、憲三は、知人や友人に電話をしました。逸枝の後援者のひとりで医師の竹内茂代は、入院の必要性を説きました。それを受けて翌日の一一日、同じく後援者のひとりで参議院議員の市川房枝が「森の家」に到着。厚生省を通じて国立東京第二病院に決定した旨を憲三に告げたあと、ふたりは、市川房枝の養女の市川ミサオに逸枝の付き添いをまかせ、打ち合わせのために病院に出かけます。帰宅した憲三が、病室は共同室であることを告げると、逸枝は、ぜひとも個室にしてほしいといいます。続く一二日の朝、逸枝は救急車で家を出て、病院に向かいます。特別室ではありましたが、二人部屋でした。
憲三は、個室でないことが気になっていました。加えて、この病院が「完全看護制」で、自分が付添人として逸枝のそばにいることができないことを知ったときは、衝撃のあまり、その場に倒れ込んでしまうほどでした。これまで、「森の家」では他人の訪問を断わり、長いあいだ、夫婦ふたりだけの水入らずの暮らしをしてきた憲三にとっては、予想だにしない、不測の事態に遭遇したのです。一方、何年も家から一歩も出ることなく書斎の机に向かっていた逸枝にとっては、救急車はいうまでもなく、病院も病室も、全くなじみのない異質の空間だったにちがいありません。それでも、付添婦だけは、何とか病院側から提供されることになりました。入院初日のこの日は、時間が来ると握手を交わし、夜のことを付添婦によく頼んで、やむなく病院をあとにしました。
五月一三日、憲三は、個室の斡旋を願い出る口上書を書き上げると、さっそく病院に飛んでゆき、友人たちに手渡しました。受け取ったのは、市川の取り巻きである、おそらく浜田糸衛と高良真木だったのではないかと思われます。五月一六日の日記には、「故郷静子夫婦明日航空機でたつ」1と記されています。また、『高群逸枝全集』(第一〇巻/火の国の女の日記)には、以下のような憲三の文も読むことができます。Kとは、いうまでもなく憲三のことです。
個室については入院前日の病院あいさつの帰途、Kが病人の要求をきくまでもなく逸早く市川さんにそのあっせんを依頼した。病院費用については自宅ですでに用意がある旨を通じてあった。そして、あらためて入院翌日文書でもって依頼するとともに、K自身も庶務課長、婦長、主治医に頼んだ。……幸い可及的早く南側の明るい静かなもっともよい場所の一人室に移ることができてうれしかった2。
願いがかなって、個室に移ることはできました。しかし、「主治医は病名ないし病状についてKがたずねても、はっきりしたことは何もあかしてくれなかったが、Kは百科事典の『腹水』の項目からあれこれとたどっていって、重大な覚悟を要することを察知し、できうるかぎり現在の患者をまず安静させ、体力を維持して、療養を長期にみちびくことを考え、あまり友人たちの面会が多くて、しかも病人が自分を殺してげんきよく応対につとめて疲れるので、主治医に話して『面会謝絶――主治医』の標札を病室の入口に掲示してもらった。むろん主治医の方でもそれを必要としたのだろう」3。
しかしながら、憲三が病院側に要求した個室と面会謝絶は、市川房枝とその周囲の人たちに不快感を生じさせたようです。憲三は、このように書きます。
個室と面会謝絶の件は、思いがけなく、一部にまさつをおこした。Kは、生命の尊厳と、ひたすら彼女の心にしたがった。それを知った逸枝は「私たちは自分たちのこれまでの流儀を押し通しましょう」といった。 「でもそれは感謝とか友情とかの問題とはべつですね」 「そうですとも」4
市川房枝は、戦前の『母系制の研究』発刊のころから今日まで、親身になって逸枝を支えてきた後援者のひとりでした。おそらく市川は、逸枝に最良の医療を施すために、善意をもって参議院議員という立場から厚生省に働きかけ、国立東京第二病院への入院の斡旋をしたのでしょう。そして、時間の許す限り病室を訪れ、手を握りしめながら、思い出を語り、感謝の言葉をお互い交わし合って、最後の日を迎えたかったものと想像されます。市川を取り巻くほかの女性たちも、おそらくこれと同じ心情だったにちがいありません。しかし、真意が伝わらず、個室にかくまい、他者の面会を拒絶しようとする憲三の行為は、そうした人たちの願いを踏みにじるものであり、それが「まさつ」となったのでした。
一方、夫である憲三には、妻に対する固有の別の感情がありました。つまりそれは、残り少ない時間にあって多くの後援者たちが見舞いに押しかけ、それに無理をして応対する状況が続けば、妻の心身の衰弱は一気に進行するにちがいないという懸念でした。もっとも、そもそも三十余年ものあいだ「森の家」に引きこもり、来客を断ち、勉強机を友に生活してきた逸枝でしたので、個室と面会謝絶を強く望んだのは、むしろ逸枝の方だったのかもしれません。さらにそれらに加えて、完全看護という医療制度も、常にこの間、憲三を脅かしていました。のちに憲三は、石牟礼道子にこう語ります。
完全看護制などということがわかっていれば、入院などさせなかったのです。ここで、彼女が求め続けていた森の家でのいとなみを終わることができたのに、僕がうかつにも気付かなかったから、彼女のいとなみを断ってしまった……5。
完全看護制を敷くこの病院は、憲三にとって、決められた短い時間以外はもはや自分が入り込むことができない、いままでに経験のなかった、ふたりを分かつ異界でしかありませんでした。逸枝自身も、一日も早く帰宅し、いずれ来るかもしれない自身の最後を「森の家」で迎えたかったものと思われます。しかし、事態は切迫していました。次は、静子の文からの引用です。
前に、姉と私ども夫婦の水俣の居宅にお越しいただいている浜田糸衛様、高良真木様のお知らせと、兄憲三の知らせも届き、姉逸枝の急病を知りました。夫と私は羽田に着き、旧知の高良様のご運転のお車のご供与をいただきました。 同乗のかたから、「普通の人ではすぐに入院することができないのを、市川先生の国会議員の肩書きで入院することが出来た」とうけたまわりました6。
しかし、その車が向かったのは、逸枝が入院している国立東京第二病院ではなく、市川の執務室のある婦選会館でした。当然ながら、静子は、落ち着きませんでした。静子は書きます。「世事に才覚のない兄憲三に、入院ごとのお手助けを感謝申し上げましたが、早く病体をみきわめて、なんとしてでも早急に全快させねばと気負っていて、兄夫婦に早く会いたいと念願してばかりいました」7。やっと権威主義的儀式が終わり、病院に連れていってもらえたのは、その後のことでした。面会のあと、その足で、「森の家」にたどり着きます。静子の文はこう続きます。
兄と夫と私とで食事もしないで善後策を話し合い、早急に態勢をととのえました。姉フジノが当座用にと持たせて寄越した百萬円を兄に渡し、「いつでも、いくらでも、要るだけ送るから言ってよこせ」との伝言も伝えました8。
六月七日、その日を迎えました。憲三は、日曜日のため昼間自宅に帰ろうとしていた付添いの方と病院の廊下ですれ違い、あいさつを終えると、午前八時に病室に入りました。そのときの様子を憲三は、病院日記に、こう表現しています。括弧書きは、のちに自宅の日記に転写する際に書き加えられたものです。
逸枝の寝顔の(あまり)美しさに、さめるまで(立ったまま)みとれ(てい)た。また呼吸のやすらかさ。 彼女は神だ9。
昼食に出された流動食を見て、逸枝は食べたくないといいます。そこで、牛乳とアイスクリームを、ふたりで分け合って食べました。憲三は、逸枝の傍らで立ったり座ったり、懸命に看護に当たりました。その日の夕刻、逸枝と憲三が交わした最後の会話の場面を、以下に再現します。
私「私はあなたによって救われてここまできました。無にひとしい私をよく愛してくれました。感謝します」。 彼女「われわれはほんとうにしあわせでしたね」。 私「われわれはほんとうにしあわせでした」。力を入れてこたえ、さらに顔を近づけて私が「……」というと、彼女ははっきりうなずいて、「そうです」といった。 彼女は心からそれをゆるし、そしてよろこんでいるのだった。いまこそわれわれは一心になったのだ。 七時十分に付添いさんが帰室したのちも九時までいたが、いよいよかえりのあいさつのとき、逸枝はかたく私の手をにぎり、「あしたはきっときてください」とつよいことばでいった。 これまでにない異様なショックを受けた。しかし、とどまることがゆるされない。……私は、祈り祈り帰家。 ――病院からのれんらくで十一時にかけつけた。そのとき、もう彼女の偉大な魂は一生の尊い使命を終え、永遠のねむりにはいっていた10。
最後に憲三が逸枝に伝えた「……」という伏せ字になっている箇所は、「すぐに自分もそっちに行くからね」という言葉に近い何かではなかったかと推量されます。死亡時刻は、一九六四(昭和三九)年六月七日の午後一〇時四五分、病名は、ガン性腹膜炎でした。あくまでも憲三は、ふたりして長く暮らしてきた自宅の「森の家」で、逸枝をしっかりと胸に抱き、最後の別れの言葉を交わしたかったのではないかと思われます。実際にそれができなかったことは、憲三にとって、もはや取り返しのつかない、まさしく「慙愧の極み」だったにちがいありません。
問題は、このあと起こります。霊安室での出来事です。この場面の再現は、以下の、その場にいた志垣寛の文にゆだねます。
六月七日、国立第二病院の死亡者室に横たえられた亡き人の枕頭には、従来長い間彼女のためにあらゆる協力と奉仕をいとわなかつた数々の名流婦人があつた。彼女たちに囲まれたたゞ一人の故人の骨肉者は夫憲三君一人であつた。橋本夫妻がいかに貧乏であつたかは、彼女たちがよく知つていた。だからこそ彼女たちは年々逸枝さんの研究費を扶け、治療費を扶け、そして今は死後の葬式まで心配していた。 しかし橋本君にしてみれば、せめて葬儀位は亭主たる自分の手で、自分の心ゆくまゝにとり行いたいと念願した。そのかげには憲三君をこの上なくいたわしく感じていた憲三君の妹さん(水俣在)があつた。妹さんは逸枝さんの臨終には居合せなかつたが、亡くなる数日前に訪ねて、治療費として百万円をおいて行つた。橋本君は今こそその金で逸枝を自分の思う通りに葬りたいと思つていた。 名流婦人たちは、橋本君の意中を察せず葬式万端、自分たちの手でとり行うべくすでに枕頭には葬儀やが呼ばれていた。初め橋本君は彼女たちからのがれたくて、葬儀は熊本でとり行うといつて彼女たちをおどろかせた。しかしせめて「告別式」だけはとのたつての要望から、橋本君も折れて、葬儀やが招かれたわけだ。その席上、橋本君は最高葬儀を注文し、彼女たちの眼の前で即金を渡した。これには流石名流婦人たちがびつくりしてしまつた。貧乏をうりものにする似而非ものであると怒つた。橋本さんがあんなお金持ちとは夢さえ思わなかつた。そんなにお金があるなら、先刻さしあげた「見舞金」は返してほしいといつた名流婦人もあつた。もちろんその金は返した。わたくしが現われたのはそれらの事件のあとであつた。 名流婦人たちは死亡広告に名を連ねる事を拒み、葬式にも列せず、僅かに平塚雷鳥、守屋東、伊福部敬子、住井すえ等々の数女史にすぎなかつた。 故人は原始女性は太陽であつたという平塚女史の言葉を実証すべく一生の研究を続けた。しかし女性解放は男性を奴隷化することとはいわなかつた。男も認め、女も認むることが故人の心ではなかつたろうか11。
このとき、逸枝死亡の知らせを受けて、逸枝の業績と生き方を慕う村上信彦も、病院にかけつけました。村上は、そのときの様子を、次のように書きます。
取るものもとりあえず、国立東京第二病院に駆けつけ、霊安室に直行した。室の中央の台の上に遺体が安置され、顔に白布をかけてある。一方に一段高い畳敷の小さな部屋があって、先客が集まっている。平塚らいてう、市川房枝、浜田糸衛、高良真木、熊本から来られた友人の五人である12。
村上が「熊本から来られた友人」といっているのが、志垣寛でしょう。おそらく当時、鎌倉に住んでいたものと思われます。志垣の妻の美多子が逸枝と熊本師範時代の同窓で、志垣自身は、戦前にあって憲三に平凡社への就職を斡旋しており、逸枝の葬儀に当たって葬儀委員長を務める人物です。また、志垣が語っている「名流婦人たち」というのが、市川房枝とそのグループの浜田糸衛と高良真木を指すものと思われます。
志垣の文からわかりますように、そのとき憲三は、逸枝の死亡広告を新聞に出すことを考え、友人のひとりとして名前を使わせてほしい旨、市川に頼みました。といいますのも、死亡広告を新聞に出すのは、逸枝の父親の作法に倣う、夫の役目と考えていたからです。死亡広告によると、一九二〇(大正九)年一二月一一日午後一一時、病に伏していた逸枝の母親の登代子が亡くなりました。逸枝はこのように書きます。「母が死んだとき父は九州日日と九州の両新聞に家族連名の死亡広告を出して有縁の人たちに知らせることを忘れなかったが、またこれは母への最後の父の敬意でもあったろう」13。死亡広告は、『九州日日新聞』には一二月一六日の五面に、『九州新聞』には翌一二月一七日の五面に、それぞれ掲載されました。
しかし市川は、逸枝の死亡広告に自分の名前を載せることを拒みました。それどころか、逸枝の遺体が安置されている部屋のなかにあって、「先刻さしあげた『見舞金』は返してほしいといつた名流婦人もあつた」のでした。『熊本日日新聞』の死亡記事によりますと、「十日午前十時から自宅で密葬。本葬は熊本で行なう予定。日時その他未定」14とあります。しかし、名流婦人たちの意向に押し切られ、熊本での本葬は断念せざるを得ませんでした。憲三の困惑と無念は、いかほどであったでしょうか。
死亡の翌日(六月八日)、ひつぎは、平塚らいてうや主治医らに見送られて病院を出ると、親しい人たちが待つ「森の家」に帰宅、書斎につくられた祭壇に安置されました。それから一五日の告別式までの様子を、憲三は、次のように記しています。
Kと静子とで美しく化粧し、『招婿婚の研究』一本、『恋愛論』原稿に、詩集を添え、長年の愛用――彼女の指にペンだこをつくった――万年筆にインキ壺、研究カード・原稿用紙・ノート・便箋、眼鏡等を棺内の枕元におさめ……庭の花ばなをいっぱい加えて、八日九日の通夜の後、十日夫と橋本高群両家の近親、竹内茂代さんら少数のものがみまもってだびに付し(代々幡葬祭場)、十五日森の家で葬儀(導師豪徳寺)と告別式を営んだ15。
告別式の様子を、翌六月一六日、『熊本日日新聞』は、写真入りで、こう報じました。「式には故人の郷里下益城郡松橋町から上京した中山町長をはじめ平塚雷鳥さん(評論家)人吉円吉氏(昭和女大教授)住井すえさん(作家)志垣寛氏、島田磬也氏、伊豆熊日社長代理井内同東京支社長ら多数が参列した。中山松橋町長の弔辞のあと、荒木精之氏からおくられた弔歌の朗読(島田磬也氏)寺本知事、伊豆熊日社長らの弔電披露があり、女性史研究に一生をささげた故人をしのぶにふさわしい盛儀だった」16。
無事に逸枝の葬儀が終わりました。しかし憲三は、霊安室での市川の言葉が気になっていました。さっそく告別式から二日が立った六月一七日、憲三は、妹の静子に口述筆記をさせた手紙に添えて、例の譲与金を市川房枝に返しました。以下は、その手紙文です。
拝啓 故高群逸枝こと、国立東京第二病院入院につきましてはご高配をたまわりましてまことにありがとうございました。そのせつ、金参万円也と記入されたご封筒を手わたされ、お見舞い金と思いちがいをいたしました。 そのとき療養費についておたずねになり、当座用にはとりあえず五〇万、その他充分の用意があることをお答えいたしました。 死亡いたしまして霊安室での通夜の席において、みなさまの前であの金は返して欲しい旨を申し入れられ恐縮いたしました。 葬儀を完了いたしまして、せいりにとりかかりましたので本日書留郵便をもってご返金申し上げます。お受け取り下さい。故人は参万円のことについてはなにも知りませんでした。旧来からの御厚情、深くお礼申し上げます。 昭和三十九年六月十七日 橋本憲三 市川房枝様17
この手紙が公開されているのは、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」と題された文においてですが、さらにそのなかで、筆者である憲三は、市川からの金は「入院前日の五月一一日に自宅で受け取った……貳万円返金すべきところをあやまって参万円にしてしまった」18と、書き加えています。
一方で、別の理由から、逸枝の葬儀にかかわって気に病んでいた人物がいました。村上信彦は、逸枝死亡の知らせを受けて、病院にかけつけたときの自分の気持ちを、こう書いています。「『なぜもっと前に知らせてくれなかったのです』と廊下で橋本氏に食ってかかり、こんなことになるなら面会謝絶を無視して押し入ってでもいま一度会っておきたかった。面会謝絶を忠実に守ったばかりに唯一無二の機会を逸してしまった。おれはばかだった……。無念と怒りが渦巻いて、私は強く詰め寄った。さだめし血相を変えていたにそういない」19。このとき村上は、憲三から、東京では密葬のみとし、その後本葬儀を熊本で執り行なう予定であることを聞かされ、この日が事実上の最後の別れとなりました。しかしその後、周囲の意見に押されて、自宅の「森の家」で葬儀が行なわれることになり、案内状が送られてきたものの、村上は出席しませんでした。葬儀も終わった、六月一八日に村上は、らいてう宅を訪ねます。この日の話題は、主に逸枝のことでした。村上は、こう書いています。
いろいろ話しているうちに、らいてうが高群さんをどのように評価していたかも分かり、この二人の女性の関わりを興味ふかく感じた。そのとき私は十日前の霊安室でのはしたない振舞を詫びたのであるが、私がまず詫びねばならなかったのは橋本氏だったと分かる日が、やがてやって来るのである20。
しかしながら、村上の場合とは違って、憲三に向けられた市川房枝たちの憎悪は、決して氷解することはありませんでした。確執の核心部分は、個室と面会謝絶の問題だけに止まらず、金銭に関する問題にありました。赤貧に甘んじる学者夫婦と思い込み、これまで物品を支援してきた市川は、入院や葬儀を行なうに十分な資金が憲三にあることがわかると、怒りの炎に包まれたのでした。いうまでもなく、その多くは、水俣の藤野が用意したものであったのですが、そのことは伝わっていなかったようです。そのため、市川とその仲間は、葬式への参列も拒みました。そして、それに代わって、自分たちだけの追悼の会をもったのでした。それは、六月二二日に、婦選会館で催されました。『婦人展望』は、その様子を、短くこのように伝えています。
去る六月七日死去した女性史研究家高群逸枝の追悼会が六月二十二日午後二時~五時婦選会館においてひらかれ、次の諸氏が出席、故人をしのんだ。市川房枝、鑓田貞子、浜田糸衛、稲津もと、高良真木、中島和子、近藤真柄、児玉勝子、武石まさ子、市川ミサオ、両沢葉子21。
この雑誌の編集を担当していたのが、両沢葉子だったのではないかと思われます。のちにもろさわようこの筆名で、「高群逸枝」の評伝を書く人物です。また、このなかに名前が挙がっている浜田糸衛と高良真木は、逸枝の「望郷子守唄」の生地での建碑に際して、らいてうの提案により、東京での募金活動に奔走する一方、除幕式参列のあと、憲三の姉妹の住む水俣に足を運んだおりには、湯の児温泉の三笠屋旅館での一泊の接遇を受けていました。しかしながら、この追悼会は、逸枝をしのぶ場というよりは、憲三への悪口を並び立てる場と化したのではないかと想像されます。
一方熊本では、真に逸枝を追悼する文が、石牟礼道子によって草され、『熊本日日新聞』に寄稿されました。この段階で道子は憲三とまだ面識はありませんし、『苦海浄土』の作家として世に認められる以前のことになります。それでは、道子の「高群逸枝さんを追慕する」のなかから一節を引用します。
高群逸枝氏が、その女性史の中で、まれな密度とリリシズムをこめて、ほかに使いようもないことばで「日本の村」と書き、「火の国」と書き、「百姓女」と書き、「女が動くときは山が動く」と書いたとき、彼女みずからが、古代母系社会からよみがえりつづけている妣(ひ)であるにちがいない。(注=妣は母)22
末尾の括弧書き「注=妣は母」の文字は、道子のもともとの原稿にあったのか、編集作業中に付け加えられたものなのかはわかりませんが、これをきっかけに、道子の内面にあって、高群逸枝をもって自分の妣/母とみなす慕情の念が徐々に醸成されてゆき、こうしてこの時期、道子は、憲三に寄り添いながら逸枝の志を継ぎたいとする願望を固く胸に秘めるのでした。
逸枝臨終時の反目は、らいてう宅での話し合いへと進んでゆきます。次の引用は、七月七日に橋本静子宛てに出された志垣寛の私信にある末尾からの一節です。
平塚さんのきもいりで、近く例の女子連と会見することになっています。私が近く雑誌に逸枝さんのことを書くというのが評判になって、向うから会見を申込んできました。よく説明して納得させようと思っています23。
ここでいう「例の女子連」とは、市川房枝の取り巻きの浜田糸衛や高良真木たちを指すものと思われます。次も、同じく志垣から静子に宛てて書かれた七月一二日のはがきの一部です。「市川女史一派の人々数人とあい、くどくど不平談をきゝました。要するに橋本君が金持ちだった事が不満の種でした」24。
当時志垣が書こうとしていた文は、「高群さんと橋本君」と題されて、『日本談義』の八月号(一六五号)誌上の「高群逸枝女史追悼特集」に掲載されました。一方、この特集に憲三が寄稿したのは、「終焉記」という題の文でした。内容的は、逸枝の最期の入院に至るまでの経緯について、時系列に沿ってその様子が記述されています。さらに、その雑誌が刊行された直後に、今度は「高群追悼特集に添えて」という一文を起草します。擱筆日は、八月一五日です。この文を書かねばならなかった理由について、憲三は、こう記しています。
『日本談義』(165号)高群追悼特集のなかにみえる一グループと私とのことについて、グループの方では早く志垣氏に申し込んでらいてう家で会見、一方的な談話発表が行われたそうであるが、私はまだ誰にも深くは語っていない。私からみればすでに誤謬だらけといっていい風説が伝えられており、『談義』によっても誤伝をうみそうな危惧があり、この際私からの「真実」を明らかにすることは私のつとめの一つではないかと考えられてきた25。
この文は、A(市川房枝)、B(浜田糸衛)、C(高良真木)、D(初見の人)、E(市川みさを)と明記したうえで、「終焉記」のなかの論争点となるにちがいない重要な箇所を一つひとつ取り上げ、それについてより具体的に捕捉し釈明したもので、かなりの長文となっています。末尾の一節を、以下に引用します。
A(市川)は私が当然にも病人の身柄一切に責任を負って個室をとったり、葬儀を正したり、死亡広告を出したりしようとすることを迷惑がっているという実感を私に与え、しばしばあなた(私)はそれでよいだろうが、自分の面目は丸つぶれだという意味のことをいわれるのだが、私はそのつどけげんに思い、考えても見るが氷解できなかった。一つの実例をいえば、私は霊安室で主治医からの解剖希望をことわった。故人は肌身を人目にさらすことを極端にきらっていたから私はそれを尊重したのである。するとA(市川)はあなたはそれでよいだろうが病院にたいして自分の面目は丸つぶれだといったものである。…… 私はいま妻の霊前にぬかずいて一切のことがらをかなしく反芻し、彼女の声を聞こうとしている26。
市川房枝は、希代の女性史学者である高群逸枝の戦前からの後援者のひとりでした。そのため、逸枝の最期の入院に際して市川は、参議院議員という立場から、「清貧の学者」として、つまりは「施療患者」に準じる者として逸枝を受け入れられないか国立東京第二病院と掛け合っていたようです。また、葬儀に要するおおかたの費用についても、自身が負担する心づもりができていたかもしれません。その前提として、市川とその仲間には、逸枝と憲三は乞食同然の「貧民」であるというひとつの思い込みが、疑うことなく、長年意識下で形成されていたのでした。ところが憲三の口から、多額の資金が用意されていることを聞かされたのです。かくして、彼女たちがもつ暗黙の「貧民」像が崩れ落ちてしまいました。ここに、市川グループと憲三との反目の原因があったといえます。市川にしてみれば、自身が中心となってこれまで逸枝支援を要請してきた友人たちに対して、そしてまた、自身が仲介の労をとった病院に対して、「自分の面目は丸つぶれ」ということになるのかもしれません。一方の憲三は、なぜ自分の自由意思で妻の死に向き合うことができないのかという疑念に、そのときさいなまれたものと推量されます。
憲三は、「高群追悼特集に添えて」を書き上げると、この一文を、『日本談義』と一緒に、らいてうに送りました。すると、このような返事が返ってきました。
また本日は追悼号の「日本談義」ならびに委しい解説御送り頂き、早速ルンべを使って、少しずつ拝読しております。今迄一方的にのみきかされてはおりましたが、私なりの解釈、受けとり方はしておりましたが、あなた様から直接いろいろうかがいまして更に深く考えさせられ、遺憾に存じます点も少くありません。私もこんなに弱り込まず、今少し気力が出ましたら高群さんについて、ほんとに書きたいとおもいます。「火の国の女の日記」命あるうちに拝見したいものです27。
霊安室での確執を最後に、市川グループと憲三との交流は断絶します。他方憲三は、「森の家」での『高群逸枝全集』の編集作業を完了すると、藤野と静子が待つ水俣に帰郷し、その地にあって、逸枝の亡骸を納める石造の墓廟をつくり、あわせて、季刊の『高群逸枝雑誌』の発行に自身のもつすべての力を注ぐのでした。墓碑建立に際しても、雑誌刊行に際しても、らいてうのこころは、憲三とともにありました。東京では、らいてうが発起人となって、「森の家」の敷地あとの公園に高群逸枝の歌碑が生まれました。かくして、らいてうと憲三の親交と信頼はさらに深まり、らいてうの死が訪れるまで永続することになります。
ところが、憲三にとって思いもよらぬことが発生するのです。逸枝の死去から一〇年の歳月が流れた一九七四(昭和四九)年の七月、戸田房子の小説「献身」が突如として『文學界』に出現したのでした。
『文學界』に掲載された戸田房子の「献身」と題された小説は、逸枝の臨終の際に起こったある「事件」が主題化されていました。ここでもまた、憲三の認識とは大きく異なる描写が至る所で闊歩していたのです。その物語は、こうしてはじまります。
昭和三十九年晩春の朝のことである。二人の男が彼女の寝室に入って行き、ベッドの中の綿のはみ出た蒲団と色褪せて毛のすり切れた毛布にくるまっている鷹子を、そっと担架に移した。……門の前に待機していた白い救急車に鷹子を運び入れた。 鷹子の夫の楠昌之は、萎えた開襟シャツとズボンで担架のあとから歩いていた。彼は七十歳にはまだ間のある年齢であったが、老年に特有の黄ばんだ艶のない顔をして、額と鼻のわきに彫り込んだような皺をつくっていた。…… 彼のあとから、かなりおくれて、坂本滋子が両手に紙バックと風呂敷包みをさげて、急ぎ足で救急車の方へ近づいて来た28。
[本城]鷹子が高群逸枝で、楠昌之が橋本憲三、坂本滋子が、市川房枝の側近のひとりの女性、おそらくは画家の高良真木であることは明白で、医師の竹内茂代が発案し参議院議員の市川の紹介で入院が決まった国立東京第二病院に、一九六四(昭和三九)年五月一二日の朝九時過ぎ、逸枝が搬送されるところを描いている場面であることは、その事情を知る者にとっては、これもまた、容易に判断がつくことでした。そして、この物語には、市川房枝と竹内茂代が、脇田さつきと山下照代という仮名で登場しますし、石崎せつ子という婦人が、おそらくは平塚らいてうのことでしょう。
この小説では、全編にわたって、楠昌之つまり橋本憲三は、妻の気持ちを理解しない、横暴で利己主義に凝り固まった、腹黒い風采の上がらない男として描かれています。逸枝が息を引き取ったあとの霊安室での様子についての描写にも、その一例を見ることができます。それは、次のような会話で構成されています。
「実は脇田先生にお願いがあるのですが、お聞きいただけないでしょうか?」 「どういうことでしょう?」 「新聞に妻の死亡広告を出したいのですが、先生にお名前を出していただきたいのです。いかがでしょうか?」…… 「新聞広告をするとなれば、二、三十万は覚悟しなければなりませんよ」 「金はいくらかかってもかまいません」 「失礼なことを伺うようですが、ご用意があるのですか?」 「沢山ではありませんが、銀行預金が四百万ございます。亡き妻のために出来る限りのことをしたいと思います」 女たちはあッという愕きでいっせいに楠昌之に視線を集中した。四百万円! いったいどこから得たお金なのだろう。鷹子の悲惨な生活を見かねて授けつづけてきた女たちは、自分たちにすら縁遠い巨額な金を昌之が持っていたと知って茫然となった29。
続けて脇田さつきは、こういうのでした。
「私はね、楠さん、そんなにお金をお持ちでいながら、皆さんから金銭的な援助を平気で受けていらしたあなたのお気持ちがわかりません。私は、あなたがたお二人をいままで貧乏だとばかり思っていました。そのように事を運んできました。いま考えますと、貧乏でなかったあなたがたに対して大変失礼なことであったと思います。お詫びいたします。――死亡広告のことは、私の素志と相容れない点がありますので、私の名前を出すのは遠慮いたします。どうかあしからず」30。
「献身」が『文學界』に発表されたのは、一九七四(昭和四九)年の七月でした。ちょうどそのとき、村上信彦から、一〇月一日刊行予定の『高群逸枝雑誌』第二五号のための「私のなかの高群逸枝8」の原稿が送られてきました。そのなかで村上は、「最近出たモデル小説」31という用語を使って、その小説に触れていました。驚いた憲三は、「最近出たモデル小説」の詳細を問い合わせます。すぐにも返信がありました。八月三一日に書かれた村上からの返事は、以下のようなものでした。
ある雑誌のモデル小説というのは、「文学界」7月号の戸田房子の「献身」です。一読して、市川房枝たちの側からの考えだということが分かります。高群さん入院前后をめぐるあなたと一部の女たちとの対立をえがいたもので、私はあなたから事情を聞いていたのですぐ見当がついたのです。私としては、よむことをおすすめすべきかやめることをすすめるべきか判断がつきません。たゞ、よんだら不快を感ずるだけでしょう32。
そのあと憲三は、この小説を入手し、取り急ぎ読んだでしょう。もっとも、憲三の読後感は、調べる限り、資料には残されていないようです。しかし、「不快」どころか、実際には、突然背後から鈍器のようなもので頭を殴られたような、激しい衝撃を憲三は感じたにちがいありません。というのも、現に実在する人物が、小説という虚構空間に連れ込まれ、あることないこと、おもしろおかしく、罵倒され中傷されている場面に出くわしたとき、それに怒りを覚えない人はいないと思われるからです。「小説」である限り、そこに描かれている内容に、著者は責任をもつ必要はないかもしれませんが、名誉を棄損された「モデル」は、いかばかりの傷を負うことでしょうか。それにしても、「小説」という隠れ蓑をうまく使って、一〇年前の出来事がなぜいまになって蒸し返されなければならないのでしょうか。発表された時期を考えますと、瀬戸内晴美の「日月ふたり」に誘発されたとも考えられます。もしそうであれば、瀬戸内の罪は大きいといわざるを得ませんし、戸田の無神経さは批判されてしかるべきではないかとも思われます。
逸枝の臨終を主題にした「献身」は、憲三にとりまして、細部の事実関係には承服しがたい箇所が多々含まれていたにしましても、出来事自体は実際にあったことですので、憲三をそう驚かすものではなかったかもしれません。しかし、実際の出来事に事寄せて、個人を攻撃する態度には、憲三は、許しがたく耐えがたいものを感じ取ったにちがいありません。それは、次のような、霊安室での楠昌之と脇田さつきの、死亡広告と金銭を巡る会話をそばで聞いていた坂本滋子の心情を描写した箇所によく表われています。
坂本滋子は昌之から金の話を聞いた瞬間から、打ちのめされた気持ちになっていた。…… 昌之の行為はずるくきたない。どこまで男らしくない男であろうと、滋子は彼を心の底から軽蔑した。そういう男と半世紀近くも一緒に暮してきた鷹子のことを思うと、だまされつづけた鷹子が可哀想でならない。なぜ昌之との共同生活を解消しなかったのかと、いまさら言ってみても仕方がないが……日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか33。
しかし、ここに描かれている逸枝と憲三の関係は、真実ではありません。幾多の一次資料が示すなかにあって、以下に、三つの証拠(エヴィデンス)を紹介します。
ひとつは、最初の出会いから四五年が立ったのを記念して、一九六二(昭和三七)年の旧暦の七夕前夜に逸枝と憲三が交わした「誓い」の言葉です。逸枝本人の文です。以下に、それを引用します。
誓い われわれは貧しかったが 二人手をたずさえ 世の風波にたえ 運命の試れんにも克ち ここまで歩いてきた これから命が終わる日まで またたぶん同様だろうことを誓う そしてその日がきたら 最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない すべて土に帰そう 相見てから四十五周年 一九六二年七夕前夜34
もうひとつは、一度すでに上に紹介している文です。逸枝との最後の別れを描写した、憲三の病院日記からの再引用となります。
逸枝の寝顔の(あまり)美しさに、さめるまで(立ったまま)みとれ(てい)た。また呼吸のやすらかさ。 彼女は神だ。
そして、憲三は、こうも書きます。これが三つ目の証拠(エヴィデンス)になります。疑うことなく、ここに、逸枝に対する憲三の真心のすべてが現われていると思います。長くなりますが、引用します。
彼女のいなくなってしまった森の家は告別の日をかぎりに呼吸をとめて無意味な存在と化した。やがてそれも朽ちはてよう。 彼女とKと、生涯の終わりには、いっしょの墓にはいるが、しばらくあとにのこされたものが不自然にあとをおったりしないようにかんがえ、彼女がまだ生きていたその手で書き、Kにも納得させた「誓い」の最後の結末はとうとうKがこれをはたさねばならないことになった。 最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない すべて土に帰そう 『火の国の女の日記』の整理がついたら、骨をいだいて、最後の二人の眠りの場所へいそごう。彼女がいつも恋しがっていた、あたたかい南のふるさとの丘の日だまりに、人しれずいとなまれる妻夫墓に、まず妻をねむらせよう。 そしてKはしばらく墓守りとなり静かな死のおとずれを待たねばならない。-35
このわずか三つの証拠(エヴィデンス)だけからしても、何人といえども、逸枝と憲三のこのふたりの愛に疑念を抱く人はいないのではないでしょうか。
にもかかわらず、「献身」は、そこにくさびを打ち込もうとするのです。だからといって、ここで、高良真木がモデルではないかと思われる坂本滋子や著者の戸田房子を責めることはできません。男性を清算して女性を新生させようとする思考は、もとをただせば、逸枝が創案したともいえるからです。逸枝が主導した無産婦人芸術連盟の標語であった「強権主義否定」「男性清算」「女性新生」を想起すれば十分でしょう。しかしながら、上で引用した、坂本滋子の心情を戸田房子が描いた表現部分、つまり、「だまされつづけた鷹子が」「日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか」の箇所は、明らかに事実とは異なっています。それにしても、事実を曲げてまで、男にだまされた女の哀れさという虚構をつくり上げ、そのうえに立って女性を擁護し男性を断罪するところに、潜在的に定型化されたこの時代の女性の固定的視点がにじみ出ているようにも感じ取れます。果たしてこれが、どうあろうとも男性を悪の化身として措定し、それを標的に闘おうとする、同時代の女性解放運動家たちにとっての日常活動の常套手段というものだったのでしょうか。あるいは、それとの関連が深い女性史やモデル小説(あるいは伝記小説)と呼ばれるものにおける当時の際立つ記述手法のひとつだったのでしょうか。逸枝の葬儀の際に委員長を務めた志垣寛の言葉を、改めてここで想起すべく、再度引用してみます。
名流婦人たちは死亡広告に名を連ねる事を拒み、葬式にも列せず、僅かに平塚雷鳥、守屋東、伊福部敬子、住井すえ等々の数女史にすぎなかつた。 故人は原始女性は太陽であつたという平塚女史の言葉を実証すべく一生の研究を続けた。しかし女性解放は男性を奴隷化することとはいわなかつた。男も認め、女も認むることが故人の心ではなかつたろうか。
こうして「献身」は、書かれていることの真偽はともかく、市川房枝とその周辺の女たちに秘められていた不満の大きさと執念の深さだけではなく、自らが確信する女性擁護/男性断罪の定式をも、自ずと表出した「女性史」の一幕となったのでした。
戸田房子の「献身」が突然にも『文學界』に出現したのは、逸枝が他界して一〇年の歳月が流れた一九七四(昭和四九)年の七月のことでした。このとき、筆舌を超える表現しがたい鈍い波動が憲三を襲ったにちがいありません。戸田房子という作家は、逸枝の入院や臨終に立ち会った形跡はありませんので、浜田糸衛や高良真木のような人に取材したか、あるいはそうした人が、戸田を使って書かせたのではないかと、憲三は即座に直感したことでしょう。一〇年前のらいてう宅が「例の女子連」による「不平談」の場と化したように、今回の「献身」においても、さながら彼女たちの怨念の吹き溜まりとなっていたのです。そこで憲三は、少しでも自身と妻に科せられた、いわれなき汚名を晴らすために、過去に『日本談義』に書いていた「終焉記」のコピーに、未発表のまま手もとに残しておいた「高群逸枝特集に添えて」のコピーを添付し、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」という題をつけて、みぢかな人に配布しました。いまとなっては、どれだけ多くの人が過去のこの出来事を覚えていたか、そこまではわかりません。また、このふたつの文が、どれだけ汚名解消に役立ったか、それも知ることはできません。しかしながら、当時の憲三にしてみれば、一〇年もの時が経過したいまになって、再び受難に遭遇することになった妻の名誉を救い出し、その夫たる自分自身を慰謝する方法は、これ以外に残されていなかったのではないでしょうか。かくして、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」が、憲三にとっての最後の抗弁となりました。
この間、病魔に侵された憲三の心身は、さらに深刻度を増していました。無念のうちに憲三が息を引き取ったのは、それから二年後の一九七六(昭和五一)年五月二三日のことです。最期は、藤野、静子、道子、主治医の佐藤千里が憲三に寄り沿って旅立ちを見送り、誰しもがその無念さにこころを通わせ、暗黙のうちにしっかりと引き継いだものと推量されます。
もろさわようこの「高群逸枝」が世に出たのは一九八〇(昭和六五)年のことで、憲三の死から四年、藤野の死から二年が過ぎていました。この文は、逸枝を扱った短編の評論あるいは評伝の類といっていいでしょうか。所収されているのは、集英社を版元とする、円地文子監修の『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)です。節の番号は付されていませんが、「その死をめぐって」「詩と真実」「愛と自由」「所有被所有をこえて」の四節で構成され、後ろの三つの節が、逸枝に関する事実上の本文になっています。もろさわ本人が巻頭に示していますように、使われている参考文献は、『高群逸枝全集』全十巻(理論社)、『高群逸枝』(鹿野政直、堀場清子著・朝日新聞社)、『娘巡礼記』(高群逸枝著・堀場清子校訂・朝日新聞社)、『火の国の女 高群逸枝』(河野信子著・新評論)の四点です。多くは既知の二次資料であるため、それを単になぞっただけの記述内容には、目新しさはほとんど何もありません。さらにいえば、目的も結論も設けられておらず、学術的論考に求められる書式のうえからも、実証や論証という必要とされる方法論のうえからも程遠いものになっています。それだけではありません。第一節に相当する「その死をめぐって」が、なぜその後に続く本文の導入に使われているのかも、その必然性と整合性に鑑みて疑問が生じます。しかし、ここに、もろさわ独自のある意図が隠されているように感じられます。といいますのも、この「その死をめぐって」におきまして、逸枝の入院と葬儀に際しての、市川房枝をはじめとする、もろさわ自身を含むその取り巻きが感じ取った憲三への不満と恨みが語られているからです。それでは、私の用意した本稿における文脈に沿って、「その死をめぐって」の記述内容を検討してみたいと思います。
「その死をめぐって」のなかで著者のもろさわは、はじめて憲三を見たときの自分について、こう書いています。
橋本憲三を私が見知ったのは、『招婿婚の研究』を頒布するため、高群逸枝著作刊行後援会の事務局が、婦選会館に設けられた昭和二十七年(一九五二)だった。そのころ私は、やはり婦選会館に事務所を持つ日本婦人有権者同盟の事務局に勤務、機関紙の編集をしていた36。
このとき、もろさわは、実際に憲三と言葉を交わしたとは書いていませんので、遠目に「見知った」だけだったのかもしれません。
二度目に憲三の姿を目にしたのは、逸枝が入院している病院へ見舞いに行く、市川房枝、鑓田貞子、浜田糸衛、高良真木といった面々に加わって同行したときのことでした。そのときの様子を、もろさわは、次のように描写します。
逸枝の入院先は国立第二病院。おとずれたそこで、私たちは、面会しないでほしいと、逸枝の夫橋本憲三からすげなく言われた。彼は妻の執筆のさまたげになるので、従来から面会者の整理をして、ほとんどの訪問者を断っていた。その習慣を、病院においても、妻の疲労をおもんばかってつづけることをしているらしい。…… 憲三のすげないもの言いは従来からのことだが、逸枝への熱いおもいを持ちよっている者たちに対する、いかにも迷惑気な態度は、その場をしらけさせた37。
市川から順番に病室に入って逸枝と言葉を交わし、最後に、もろさわが入室しました。もろさわが書くところによると、そのときの憲三の態度は、こうでした。
私がまだ挨拶もしないうちに、私のうしろに立った憲三は、逸枝にはわからないように私の上着の裾を強くひっぱった。早く帰れという合図である。……私は、口早に名のって去ろうとすると、逸枝が追うように身をおこして手をさしだしてきた。……「ありがとう!」という言葉は明るく、手の握力もまだ強かった。一分たらずの面会だったが、どんな場合も他者に全身的にま向かう逸枝の誠実な精神の位相が、いたいほど胸にひびき、病室をでたとたん、視線が熱くうるんだ38。
おそらく憲三にとってもろさわは、記憶に薄い見知らぬ人同然の人物であったにちがいありません。また、もろさわと逸枝の関係がどのようなものであったのかも、不明です。もろさわは、「私がはじめて会ったのは、彼女の死の二十日ほど前である」39と書いていますので、このときの見舞いが初対面だったと思われます。そうした人たちが、たとえ「一分たらずの面会」であったとしても、最後に一目見ようと、波のように病室を訪れてくれば、明らかに妻の容体に悪い影響を与えることを、そばで看病する夫はよく知っていたのでした。反目の底流に、一方に見舞いをする側の思いがあり、その一方で、病人を守ろうとする者の思いがあり、そのふたつの思いの乖離が、そこに存在していたといっていいでしょう。
それでは、霊安室での市川と憲三との反目が起きた、そのときの様子を、もろさわはどう描いているのでしょうか、以下にまとめてみます。もろさわ自身は、霊安室にいませんでしたので、描写内容は、市川本人からか、浜田糸衛や高良真木といった仲間から聞いたことをもとに再構成したものであるにちがいありません。
まず、新聞への死亡広告の出稿を巡っての反目ですが、もろさわは、こう描写しています。
ことのおこりは、遺体の移された霊安室において憲三が全国紙と郷土紙に逸枝の死亡広告を大きく出すと言いだし、それに強く反発したのがまず市川房枝だった。……憲三は死亡広告は妻に対する夫の最後のはなむけであると強く主張してゆずらなかった。市川らは憲三のその主張に、妻に対する愛もさりながら、かつて出版社にいて広告宣伝のことも手がけ、その効果をよく知っている男の、それなりの計算の俗臭を感じ取って、快いおもいをしなかった40。
逸枝は生前、こう書いていました。「母が死んだとき父は九州日日と九州の両新聞に家族連盟の死亡広告を出して有縁の人たちに知らせることを忘れなかったが、またこれは母への最後の父の敬意でもあったろう」41。実際に死亡広告は、母親が死亡して五日後の『九州日日新聞』に、そしてその翌日に『九州新聞』に、それぞれ掲載されています。憲三は、この高群家の麗しき前例に倣おうとしたまでであり、もろさわが書く、「かつて出版社にいて広告宣伝のことも手がけ、その効果をよく知っている男の、それなりの計算の俗臭」でないことは、明々白々ではないでしょうか。死亡広告に、名を出したくないのであれば、率直にそれを憲三に告げ、辞退するだけでよかったのではないでしょうか。死亡広告を「それなりの計算の俗臭」と感じ取る市川とその仲間の感性に、私は何か異質性を感じます。
結局、『熊本日日新聞』における死亡広告は、「夫 橋本憲三 親戚代表 橋本英雄 高群晃 友人代表 家永三郎 志垣寛」の連名により、逸枝の死亡から四日後の六月一一日朝刊四面に掲載されました。友人代表のうち家永三郎は、高群史学の最大の理解者のひとりである東京教育大学の歴史学の教授です。一方、熊本出身で教育者や編集者の経歴をもつ志垣寛は、憲三と逸枝をよく知る古くからの友人で、葬儀委員長の任に当たる人物です。
次に、葬儀費用を巡っての確執についてです。もろさわは、こう続けます。
葬儀社が霊安室をおとずれたときだった。祭式は中クラスでいいのではないかとする市川に対し、憲三は最上クラスを主張してゆずらなかった。市川は当惑して言った。わたしはそんなにお金だせませんよ、と。市川は主宰する婦人問題研究所を通じ、昭和二十四年(一九四九)から昭和三十六年(一九六一)末まで逸枝の研究に対する物心両面で援助をつづけていた。そして逸枝の入院に際しても、先立つものはとおもいやり、まず、とりあえず五万円を憲三に渡している。そんななりゆきから、葬式一切も彼女は負担する覚悟でいたのだ42。
すでに引用によって明示していますが、憲三は、市川からの金は「入院前日の五月一一日に自宅で受け取った……貳万円返金すべきところをあやまって参万円にしてしまった」と、書いています。もろさわが書く「五万円」というのは、明らかに誤認です。また、入院に際して憲三は、これもすでに引用で紹介しているとおり、市川に対して、「病院費用については自宅ですでに用意がある旨を通じてあった」と、書いています。逸枝が死亡すれば、喪主は憲三です、市川ではありません。市川は、後援者のひとりにすぎないのです。それにもかかわらず、なぜ市川は、「祭式は中クラスでいいのではないか」と口を挟むのでしょうか。さらには、なぜ、「葬式一切も彼女は負担する覚悟でいた」のでしょうか。これもまた、私には不明です。
ここに至って、市川と憲三の確執は頂点に達したようです。続いて、もろさわは、以下のように書きます。
ところが憲三が言った。金なら数百万円の貯えがあるのだから、と。驚きの声が市川とともに居合わせた人びとから洩れた。高群夫妻の清貧生活はつとに名高く、当時、経済的心くばりをその身辺に寄せていた人びとのうち、憲三が言ったほど貯えは、そのおおかたの人びとが持っていなかったからである。そのため歯に衣きせないもの言いをする市川が、むきつけに憲三に言った。それだけの貯えがあるなら、人からの寄金はもらうべきではなかった、と。憲三も憤然と言った。ならば、返します、と43。
それにしても、何ゆえに逸枝の遺体を前にして、市川は、「それだけの貯えがあるなら、人からの寄金はもらうべきではなかった」と、いわなければならなかったのでしょうか。死者に対する遺族の敬愛の情を著しく傷つける暴言といわざるを得ません。「ならば、返します」という憲三の怒りの買い言葉も、当然のように感じられます。逸枝は、このふたりの会話をどのような思いで聞いたでしょうか。
もろさわは、「金なら数百万円の貯えがある」と憲三がいったと書いています。二百万円なのか三百万円なのか、あるいは四百万円なのか、正確な金額はわかりませんが、実際にそれに近い資金を憲三は用意していたものと思われます。といいますのも、病状悪化の知らせを受けて水俣から東京に来た妹の静子は、このときの様子を、すでに上で引用していますように、こう書いているからです。「姉フジノが当座用にと持たせて寄越した百萬円を兄に渡し、『いつでも、いくらでも、要るだけ送るから言ってよこせ』との伝言も伝えました」。実際、姉の藤野は、逸枝入院の知らせを聞くと、次のような手紙を逸枝に送っています。藤野は、事実上「無文字世界」の人でした。
マイニチカミホトケニ、ネンジテイマス。/ヒヨウノシンパイワ、イリマセン。イクライツテモ、ミナマタカラオクリマス。/ビヨウキニ、マケズ、シツカリキバリナサイ、クンゾ[憲三]モアナタモ、ミナマタデオセワシマスカラ、アンシンシテ、ヨウジヨウヲシテクダサイ/イツエサマ/フジノ/テガフルエテカゝレマセン44。
ここからもわかりますように、逸枝の入院費用の手当て、退院後の水俣での静養の世話については、憲三の姉の藤野が、すべて自らの手で行なう腹積もりでいるのです。これが遺された者たちの遺志でした。
さらに加えるならば、逸枝が亡くなる八年前のことです。一九五六(昭和三一)年の八月一一日、水俣では静子が筆を執り、憲三宛てに手紙を書きました。内容を部分的に引用します。
店の近くに広い土地つきの頑丈で古風な大きな二階作り……の家があるのを求めました。……兄さん達が年をとられて寄り添って暮らしたいと思われるとき、いつでも来ていただいてよいために。いつでも行って暮らしてもよい処があると思われるだけで今安心してお仕事なさっていいわけです。 兄さん達も含めて、老後の暮らしがたつように設計をたてています。(静かな、樹木のあるよい処です)…… いつでもお出になってください。それまでは、ただおしごとだけを、と思っています。 借金をしましたが、それはちゃんとした目あてがあるのですから心配はいりません。しばらくは苦労しますが、兄さん達のためと、私達のために頑張ります45。
これが、東京の兄夫婦に寄せる水俣の静子の思いでした。ここに、心温まる、深い兄弟愛と家族の強いきずなを感じます。人が人を支えるということは、こういう行為を指すのではないかとも思料します。
さて、そこで思うことは、たとえ、「市川は主宰する婦人問題研究所を通じ、昭和二十四年(一九四九)から昭和三十六年(一九六一)末まで逸枝の研究に対する物心両面で援助をつづけていた」としても、決してそのことが、遺族の気持ちを押しつぶしていいという理由にはならないのではないかということです。いうまでもなく、もしそのようなことになれば、一瞬にして、善意が暴力へと一転してしまうからです。
他方、『熊本日日新聞』の死亡記事によりますと、「十日午前十時から自宅で密葬。本葬は熊本で行なう予定。日時その他未定」46とあります。しかし、市川たちの意向に押し切られ、熊本での本葬は断念せざるを得なかったようです。といいますのも、志垣寛が、次のように書いているからです。
名流婦人たちは、橋本君の意中を察せず葬式万端、自分たちの手でとり行うべくすでに枕頭には葬儀やが呼ばれていた。初め橋本君は彼女たちからのがれたくて、葬儀は熊本でとり行うといつて彼女たちをおどろかせた。しかしせめて「告別式」だけはとのたつての要望から、橋本君も折れて、葬儀やが招かれたわけだ47。
亡くなった逸枝の遺志、そして喪主たる夫憲三の思い、それが断たれたときの無念というものは、筆舌に尽くしがたいものがあったと推量します。なぜ、遺族の意向を尊重し、その気持ちに寄り添おうとしないのでしょうか、ひとりの後援者としての領分をはるかに越えた、越権行為ではないかと、私は思料します。
さらに、もろさわの描写するところでは、その結末は、このようになりました。
平塚らいてうが霊安室をおとずれたのは、これらのやりとりがあったあとだった。…… このときを境にして、市川・鑓田・竹内茂代らは憲三と絶縁、逸枝の遺体が荼毘に付されるときも、その時刻を葬儀社から聞いて葬祭場へゆき、逸枝との最後のわかれをして、彼女たちはそのままひきあげた。…… 自宅でおこなわれた葬儀に参列しなかった市川らは、その二、三日後、婦選会館三階の和室に逸枝の写真と著書を飾り、「高群逸枝をしのぶつどい」を持ち、逸枝を敬愛する十人ほどの女たちがよりつどった48。
以上が、もろさわの筆が語る、霊安室にあっての市川とその仲間たちが展開した言動であり、その後に続く斎場と婦選会館での出来事の顛末ということになります。
この一連の確執の動きは、学者への支援のあり方、夫婦愛の理解のあり方、そして、死者の弔いのあり方を巡っての市川と憲三の考え方の相違に起因していたということができます。それだけであれば、個々人によって見解の違いというものはあるものでしょうから、それほど声を大にして問題にする必要はないようにも、感じられます。しかし、もろさわの「その死をめぐって」には、明らかに憲三に対する外見差別が含まれており、私は、こちらの方が、より深刻で大きな問題が潜んでいるのではないかと考えるのです。それでは、外見差別に通じる文言を、以下に挙げてみます。それは、もろさわが「婦選会館に事務所を持つ日本婦人有権者同盟の事務局に勤務、機関紙の編集をしていた」ときに見た、高群逸枝著作刊行後援会の事務局に足を運ぶ憲三の風采について描写したものです。
やや小柄で口数のすくない憲三は、同じ部屋うちのはすむかいの机に、ときおり姿をみせたが、外交的で気配たくましい陽気な女たちの出入り多い場所柄のせいもあってか、来たのも帰ったのもまわりがあまり気づかぬ目立たぬ人だった。憲三は少年のおり傷つけた左眼が失明しているため、首をいささか左にかたむけ、肩をいからせ勝ちにしていた。物資のない戦中に使われた粗末ななわ編みの古びた買い物袋をいつも下げて持ち、膝のつきでた古ズボンをはき、ちびた下駄をせかせか飛び石に鳴らして、婦選会館へ入ってくる彼は、その気配に都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人でもあった。それから絶えて会うことがなく、十年余の歳月があったのだが、彼は当時と同じく、大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった49。
別の箇所でもろさわは、「おもいを妻に密着させ、他者への配慮を欠く憲三の自己中心的な態度は、ことあるごとにあらわれたらしい」50と書いていますので、市川らは、ことあるごとに「他者への配慮を欠く憲三の自己中心的な態度」について、もろさわに言い聞かせていたことがわかります。そこでもろさわは、市川やその仲間の気持ちを忖度して、こうした外見差別的な表現に駆り立てられていったのかもしれません。あるいは、見たままのことを思ったとおりに書いているのかもしれません。それはわかりません。しかし、書く人の思いとは別に、これを読んだ人は、どういう思いになるでしょうか。おそらく憲三について読者は、服装や持ち物に気品ある大人の気配をいっさい宿さず、身体に障害をもち、そのため歩き方においても醜く、野暮でひねくれた、始末に負えない悪餓鬼風の価値のない男という印象をもつのではないでしょうか。こうした見た目や容姿において他者を評価する姿勢は、当時の日本の状況はどうであったかわかりませんが、今日にあっては外見差別や外見至上主義と呼ばれるルッキズムに相当し、性差別、性的少数者差別、人種差別、あるいは障害者差別に通じる一種の差別行為としてみなされるようになっているのです。
すでに黄泉の客となっている憲三本人は、もはやこれに反駁することはできません。まして、妻である逸枝は、自分の夫をこのように貶められ、もし生きているとしたら、どういう思いをもつことになったでしょうか。憲三の実の妹の橋本静子も、そして、憲三を恩師として崇敬する石牟礼道子も、その苦しみは同じで、ここに、憲三の死後廃刊となっていた『高群逸枝雑誌』が蘇り、その誌面にあって静子と道子の無念の思いが開陳されることになるのでした。次の第四節「市川房枝とその仲間の言動への反論とその後について」におきまして、そのことを概観してみたいと思います。
(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第4刷)、476頁。
(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(3)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(5)石牟礼道子「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」『高群逸枝雑誌』第18号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年1月1日、27頁。
(6)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、4頁。
(7)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、5頁。
(8)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。
(9)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、477頁。
(10)同『高群逸枝全集』第一〇巻、479頁。
(11)志垣寛「高群さんと橋本君」『日本談義』日本談義社、1964年8月、57-58頁。
(12)村上信彦「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年10月1日、18頁。
(13)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、236頁。
(14)「高群逸枝女史死去 女性史研究に不滅の功績」『熊本日日新聞』、1964年6月9日、9面。
(15)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、480頁。
(16)「弔歌に故人しのんで 高群逸枝さんの告別式」『熊本日日新聞』、1964年6月16日、7面。
(17)橋本憲三「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、36-37頁。
(18)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、36頁。
(19)前掲「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、18頁。
(20)同「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、18-19頁。
(21)月刊『婦人展望』、1964年7月号、3頁。
(22)石牟礼道子「高群逸枝さんを追慕する」『熊本日日新聞』、1964年7月3日、6面。
(23)前掲「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、22頁。
(24)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。
(25)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、21頁。
(26)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、38-39頁。
(27)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、22頁。
(28)戸田房子「献身」『文学界』文藝春秋、1974年7月号、80-81頁。
(29)同「献身」『文学界』、114-115頁。
(30)同「献身」『文学界』、115-116頁。
(31)前掲「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、21頁。
(32)前掲「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、25頁。
(33)前掲「献身」『文学界』、116-117頁。
(34)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、449頁。
(35)同『高群逸枝全集』第一〇巻、482頁。
(36)もろさわようこ「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)集英社、1980年、204頁。
(37)同「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、202頁。
(38)同「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、202-203頁。
(39)同「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、201頁。
(40)同「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、205-206頁。
(41)前掲『今昔の歌』、236頁。
(42)前掲「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、206頁。
(43)同「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、同頁。
(44)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、350頁。
(45)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年(第1刷)、434頁。
(46)「高群逸枝女史死去 女性史研究に不滅の功績」『熊本日日新聞』、1964年6月9日、9面。
(47)前掲「高群さんと橋本君」『日本談義』、58頁。
(48)前掲「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、207-208頁。
(49)同「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、204-205頁。
(50)同「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、205頁。