この時期、橋本憲三の妹の静子は、夫の英雄、兄の憲三、そして姉の藤野の三人の肉親を立て続けに亡くし、傷心の日々が続いていたものと思われます。そうしたなか、一九八〇(昭和五五)年の秋のある日、一冊の本が集英社から送られてきました。見るとそれは、集英社刊の円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)でした。これは、女性史に関する論集で、そのなかにもろさわようこが執筆した「高群逸枝」がありました。読み通した静子に、体の震えが止まらない、大きな憤りが吹き出してきたにちがいありません。何ゆえに、こうまで兄が罵倒されなければならないのか――。さっそく静子はペンを取り、もろさわに宛てて手紙をしたためました。これが、すでに廃刊となっていたはずの『高群逸枝雑誌』が息を吹き返し、「終刊号(第三二号)」として発刊されなければならなかった動機となる部分でした。この誌面に、その手紙は掲載されます。
それでは、一九八〇(昭和五五)年一二月二五日に刊行された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)の「編集室メモ」に目を向けてみましょう。ここに、橋本静子と石牟礼道子のそれぞれの名で、ふたつの文が所収されています。静子の文の前半部分に、この号を出すに至った背景が書かれてあります。長くなりますが、これこそが静子のこころではないかと思われますので、そのまま引用します。
『高群逸枝雑誌』は兄がひとりの手作りをたのしんだもので、私は終始を門外に居ました。家の孫三人に続いて同居の従業員夫婦の三人の子守りをしなければならず、姉が倒れて寝たままとなったりの事情などもありました。兄の没後も四箇年を過ぎました今、集英社の本に触発されました形で不本意にも終刊号を借ります仕儀となりましたことをなにとぞお許しくださいませ。また、兄生前をお支えいただきましたことを遅ればせながら深く御礼申し上げます。まことにありがとうございました。 『高群逸枝雑誌』を身近かにお支えくださいました石牟礼道子様お一人だけに事情を申し上げて終刊号を諒承していただきました。志垣寛様の御遺族の志垣美多子様、村上信彦様、鹿野政直様には、それぞれの玉稿の転載を御許可いただきましたことを厚く御礼申し上げます。編集は、水俣在住中の数少ない兄の知友であられた渡辺京二様にお願いしました。渡辺様は雑誌『暗河』の高群逸枝小特集の件で私宅をお訪ね下さったこともあり、その御縁を頼らせていただいた訳でございます。兄の主治医であられた佐藤千里様には、精神安定剤や栄養剤をおねだりしましたばかりでなく、おはげましや有益なご助言をいただきました。ただありがたく、御礼を申し上げる言葉もございません。失礼をいたしましたことはなにとぞ、御あわれみで御寛怨くださいますよう、臥してお願い申し上げます。 あたたかい陽ざしの此の頃を、兄夫婦の墓家と下段の私どもの墓家を毎日訪ねています。レリーフによりかかりますと、途端に私は八歳の少女になり「イツエねえちゃん。どうしよう?」とたずねます。「静子さん、もういいのよ。あなたもここにいらっしゃい」と声が返って来たように思いました。人は皆、死ぬことに決まっているのに。「お手紙」を書いたことにこころがいたみます1。
一方、道子の文には、こうした文字が並びます。後半部分の一節です。
思えば逸枝が古事記伝一冊を机上に置いて、研究生活への第一歩とした三十七歳と同じ歳に、そこへゆくことを許された私は、小学校国語読本によって初めて文字と出逢ったものの、女学校にもゆけなかった。逸枝にくらべれば文盲に等しく、帰郷した後も勉強し表現することがはばかられる身であった。そのようであったゆえに、誰にも気兼ねせず、あまつさえ夫に助けられて学問をした女性がいた、そのことを知っただけで、わたしの内部に核融合反応のような事が起きた。 役に立たない同人を先生はお叱りにならず、水俣病のことで書くビラにお目を通され、失明寸前を発見して頂き、医者につれて行って下さった。 お言葉の数々をテープに採らせて頂けばよかったが、不器用で思いもつかなかった。後世の為に如何ばかり意味を持ったかと悔まれるが、堀場清子氏による「おたずね通信」が残されたことは私どもの喜びである。 折にふれて洩らされる御言葉を私は、卓越した思想家、批評家の言として拝聴した。真の意味のラジカルさを身をもって行った人の言葉はじつに透明であった。御臨終には主治医の佐藤千里氏が立ち合われた。その間のことは『草のことづて』(筑摩書房刊)に記したのでここでは割愛した2。
この『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)は、次の論考で構成されていました。
もろさわよう子様へ 橋本静子 高群逸枝の入院臨終前後の一記録 橋本憲三 終焉記 橋本憲三 高群さんと橋本君 志垣寛 瀬戸内晴美氏への手紙 橋本憲三 橋本憲三氏の生涯 鹿野政直 高群逸枝の女性史学 村上信彦 朱をつける人 石牟礼道子
最初の「もろさわよう子様へ」と最後の「朱をつける人」に挟まれた論考は、いずれも旧稿からの転載であり、本稿においてもすでに引用も含めて言及していますので、ここでは、静子の「もろさわよう子様へ」と道子の「朱をつける人」に限定して、触れることにします。
静子の文は、次の言葉ではじまります。
集英社から『近代日本の女性史』第二巻が贈られました。この本のもろさわ様の御担当になる『高群逸枝』を拝見しましたので、初めてお手紙を差上げます。 兄憲三をいわれもなく侮辱されていますし、二人の四十五年の共生が憲三の卑しい志のゆえんであったと、意図してお書きになっているように思います。憲三には、いずれも「婦選会館」のかかわりで二度の面識と言われながら、二回の瞥見で他人の七十九歳の生を斬られたことは無謀だと思いました。 昭和三十九年(一九六四)六月十日、逸枝の代々幡葬祭場における葬儀で、「憲三の妹静子」(二〇七頁)としてお見知りいただいているようでございますが、逸枝国立東京第二病院入院前後の時にも私はもろさわ様を存じあげていません。…… 文章とは無縁で一行の活字もありません。性格は父母からの血が流れており、理不尽に対しては正直に腹を立てますから、おとなしい方だとは申されないかも知れません。生来、お茶目だと言われています。地位、名声、職業、風采などでは人を見ず、品性や志、それと人柄のあたたかさ、詩情などの情感にひかれます…… 姉逸枝の国立東京第二病院前後にかかわりました遺族のうち、ひとりの生き残りでもありますので、兄憲三のことと合わせて、私の見たこと、感得したことをお伝えしたいと思います3。
こうした前書きのあと本論に入り、もろさわの文のもつ誤謬や偏見の数々を、その頁を明記しながら、指摘してゆくのでした。それでは、そのなかから幾つかを引いてみます。
まず、もろさわが書く憲三に対する外見的差別の箇所についてです。もろさわは、こう書いていました。
やや小柄で口数のすくない憲三は、同じ部屋うちのはすむかいの机に、ときおり姿をみせたが、外交的で気配たくましい陽気な女たちの出入り多い場所柄のせいもあってか、来たのも帰ったのもまわりがあまり気づかぬ目立たぬ人だった。憲三は少年のおり傷つけた左眼が失明しているため、首をいささか左にかたむけ、肩をいからせ勝ちにしていた。物資のない戦中に使われた粗末ななわ編みの古びた買い物袋をいつも下げて持ち、膝のつきでた古ズボンをはき、ちびた下駄をせかせか飛び石に鳴らして、婦選会館へ入ってくる彼は、その気配に都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人でもあった。それから絶えて会うことがなく、十年余の歳月があったのだが、彼は当時と同じく、大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった4。
一方、この文について静子は、こう書きます。
このような御評価を読んで、私にはかえって兄の人柄がこの上もなくこのましくなつかしく思われました。「外交的で気配たくましい陽気な女たちの出入りの多い場所柄(二〇四頁)とお書きになっている婦選会館で、憮然としている兄の様子が偲ばれました5。
「それから絶えて会うことがなく、十年余の歳月があった」のち、市川房枝の紹介で逸枝は国立東京第二病院に入院します。市川房枝、鑓田貞子、浜田糸衛、高良真木といった面々のあとについて、もろさわも、逸枝を見舞いに病院へ向かいます。これが、婦選会館で遠目に見知って以来、もろさわが憲三を見る二回目の機会でした。すでに第三節「高群逸枝の臨終に関する市川房枝とその仲間の言動について」において引用していますので重複を避けるために省略しますが、もろさわは、ひとりずつ順番に病室に入り、最後に自分も病室に入ると、長話になることを心配した憲三から注意を受ける場面を描いています。これについて、一方の静子は、こう書きます。
病妻の全責任者は夫でありまして、責任者の申し入れを無視されてまでも、病者の不治性を知りながら何故に押し入ろうとされたのでしょうか。……ここはもう夫婦の領域。よろわないで、身つくろいしないで居れるのは夫婦か親子まで。他人はみだりに介在してはいけないし、病人の保護者からもとめられた時に、お手をさしのべられるのが、親切でありご友情とおもいます6。
病室での面会のあと、控え室に入った市川らが、逸枝の病状を憲三に告げることになりますが、その場面についてもろさわは、こう書いていました。
控え室へもどると、市川たちが、事実を憲三に告げることに決めていた。誰かが呼びに行き、やがて煩わしげに現れた憲三に対し、市川が主になって、逸枝の病状はそれなりの覚悟をしなければならない事態であることを言い聞かせた。はじめから体を硬直させ聞いていた憲三は「そういうことは、ぼくには耐えがたい」と、両掌で顔を覆い、椅子からくずれ落ちた。失神したのである。弱気であるというより、妻の存在を生き甲斐にしてきた憲三にとっては、世界のくずれる衝撃だったのだ。…… 注射のせいだろうか、十数分たつと、憲三は安らかな眠りから覚めるみたいに、おだやかな身じろぎと共に眼をあけた。ご気分はいかがですかと問うと、彼はそれに答えず、あんた誰? と言った。苦笑とともに私が名のると、彼は、鼻の先でかすかにうなずき、そのままそそくさと起き上がり、私にひと言の挨拶もなしに、妻の病室へあわただしく行ってしまった。彼には妻へのおもいだけがあって、他をかえりみるゆとりがないのだと、あたたかくつつんでおもいやらなければ、いささか腹立たしくなる態度だった7。
他方、この文について静子は、こう書きます。
妻は死ぬのではなかろうか。死なせてはならぬと、さぞかしうろたえたことでしょう。夫婦で四十五年もの長い間を暮らしていれば、椅子からくずれ落ち、失神もし、欠礼して、足も地につかないで病室へよろめき入ったのであろうと、兄の苦境が新しく思い遺られてかわいそうでなりません。 兄憲三とは物ごころついてから、姉逸枝とは八歳からのつき合いですが、もっとも良い夫婦振りと見ていますので、お記述の状況を拝見いたしまして、二人のいたみは私のいたみとなり、ひとを愛することの哀しみをかなしみ、一時は行を読み進めませんでした。狂乱、狂死とまでいかなかったことを、ありがたいことと思っております8。
続いて静子は、逸枝の遺体を前にした霊安室での市川と憲三とのやり取りのなかで、市川が葬式のクラスを差配しようとしたことについても、市川が逸枝の死亡広告に名前を出すのを断わったことについても、また、市川が憲三の貯えが数百万円であったことに驚き、先日憲三に渡した「見舞金」の返却を求めたことについても、もろさわの文のその箇所を引用しながら、それに対する自分の意見を述べるのでした。総じて、霊安室での市川と憲三のあいだに生じた反目にかかわる静子の考えは、このようなものでした。長くなりますので、全文紹介はできませんが、要所要所をつなぎあわせてみます。
ご記述をみますと、市川房枝様は他人のプライバシーの中に入られています。他家の葬式に、祭式のクラスをご自分の勝手で当惑なされることはございません。逸枝の入院にさきだって、一切の金銭のご相談もいたして居らず、物乞いはいたしていません。…… 兄の言った数百萬は一から九までのどの数百萬かは分りませんが、人生五十年といわれた頃の七十才の妻と、六十七歳の老夫婦では、子もなく年金もなくてこれ位(一から九のどの数百萬か知れませんが)のたくわえは、ある方が健全な生活体制ではないのでしょうか。少し位の余裕はもたないと、経済がひっぱくしてしまっていてはしごとに根性がすわりません。 四十五年も連れ添い、昨日まで手も取り合い言葉も交わした妻を、もう灰にせねばならぬのに、遺体に寄り添うのもくちづけをするのも人目をはばかる余裕などないことなども、すべてにご批判の目でご覧になっていますが……「人の死」にのぞまれたかたがたの非人間性を思います。 らいてう様は私どもへご会葬くださり、過分の御香料をお恵みいただき、引き続き御愛情を賜りました。「このときを境にして、市川、鑓田、竹内茂代らは憲三と絶縁」(二〇七頁)とありますが、このことは、その後らいてう様から変らぬ御厚誼をたまわりましたことと思い合わせますと、政治家と文学者の違いを思わずにはおれません9。
そして静子は、憲三と逸枝の夫婦について、かくも明確に語るのでした。これも長くなりますので、断片断片をつなぎあわせます。
逸枝は死の床で、「自分もお兄様を神様とおもっている」と、私にこたえています。[全集が]自分の手に成っていれば、巻末には、二人で歩いた越しかたの感慨をかたり、深い愛をかたり、感謝の言葉で結んだことを私は確信いたします。…… 二人が意中としたものは、「男は女を支配しない女は男を支配しない共同の社会」であり、そして「愛は創造するもの」とのぞんだのです。私はそう受け取っています。憲三は憲三の得手をふるい、逸枝は逸枝の得手で志に向かったもので、逸枝は先生、憲三は生徒、先生と生徒の落差を家事などで埋めた同志、同学、そして夫婦です。学問に志せば憲三は普通水準、逸枝は天才でした。…… 学問は日日に発展し停滞があってはならず、後学は批判、検討、修正して次なる後学へ引き継がねばならないと思います。逸枝はその著書で後学へ後をたのむと訴えています。二人は女性史学への門戸の前に辿りついただけのものです。 憲三は他の多くの男性と同じく……男性上位の体質でした。……或る日、女性の位置まで降りて来たのです。そして、男女が同等のところで住んで見れば、居心地よくてたのしくて、有頂天になって暮らしたのです。二人には、男の仕事、女の仕事という区別はありませんでした。こういう楽しい生き方に導いてくれてありがとうと、それからずっと思っていて、「神様」と呼んだのは、『小僧の神様』のあの神様と同義語です10。
『小僧の神様』は志賀直哉の短編小説です。神田の秤屋で丁稚奉公する小僧が、金持ちのお偉いさんに鮨をご馳走になり、その人を神様と崇めるようになるというのが、この小説の粗筋です。
こうして最後に静子は、「もろさわよう子様へ」を次の言葉で結びました。
何ヶ月か前に、郷土紙上の市川房枝様のお名前が出ている記事で、憲三のことがあしざまに書かれていてはらが立ったと、近親者からも聞いています。今回のことといい、何度もむしかえし活字になさらねばならないお心が理解できません。 私は文筆とは無縁で、一行も活字にした経験はございませんが、亡兄の縁にせがみ、『高群逸枝雑誌』終刊号の誌面を借りて、当面した一人だけの生存者として、真意をお届けいたしました。 昭和五十五年十月二十五日記11
それでは次に、道子の「朱をつける人」を見てみたいと思います。
静子が、もろさわの「高群逸枝」について、その誤謬を正そうとして正面から論じたのに対して、道子は、背後に回り、そのなかで侮蔑的に描写されていた逸枝と憲三を救い出そうとして、論理的にというよりは、むしろ詩的に、ふたりに備わる幾多の美質を説こうとします。道子は、まず、こういいます。
……本稿は、『高群逸枝雑誌』の発刊と終刊に立ち会いながら、ただただ無力でしかなかったひとりの同人として、森の家と橋本憲三氏の晩年について、いまだ続いている服喪の中から報告し、読者の方々への義務を果たしたい12。
憲三の死から四年が過ぎてなおも服喪に身を置く姿を見ると、単なる「ひとりの同人」の域を超えた道子の、「森の家」で静子を立会人として「高群夫妻とそして自分とに、後半生を誓った」13決意が蘇ります。道子は何としてでも、敬愛する逸枝と憲三を、落とされた闇のなかから救済し、その名誉を回復せねばならないのです。それが、道子が自覚する、まさしく「義務」だったのでした。道子が逸枝と憲三の夫婦を見る視点は、こうです。
私どもが夫婦の生き方に心をゆすぶられてやまないのはなぜなのか、愛の形はいろいろあろうけれども、この二人においては徹底的に相手に対して真摯にむきあい、慢性的な弛緩やなれあいが、みじんも感ぜられないからであろう14。
また道子は、自身の出自と重ねて、逸枝の作品を語ります。
筆者も血縁の中に父なし子やいわゆる精神異常者らが一人ならず二人ならず居て育ったが、逸枝もまた、生命がこの世の煉獄からも出生し、血の河を流れて野に出る姿を眺め、その意味を考え抜いたに違いない。『放浪者の詩』を読めば文章上の修辞ではなく、地獄の焔に遭う人であったことが読み取れる15。
道子は精神を病んだ文盲の祖母のもとで育ちました。道子の父が酒乱であれば、逸枝の父もそうでした。道子は、若い弟を鉄道自殺で失いました。憲三は、幼い妹を不慮の事故で亡くしています。加えていえば、憲三は、幼い日の事故で左眼を失明。同じく道子の左眼も、すでにこのとき、その視力のほとんどが失われていました。
さらに道子は、これまでの「恋愛事件」を念頭に、憲三の言葉を交えて、こうも語ります。
「擬恋もあったのです。彼女はなんというか、恋の上手な人だったものですから。誰だって彼女を見れば、恋せずにはいられなかったのでしょう。」(憲三氏の言葉)ということであれば彼女の持っていた蜜の香りがどのようなものであったか、悩殺されたものたちがいてもしかたがない。それにしても、憲三に向けてのみ終生積極的に愛を訴え、それを確認したがり、共に「完成へ」と歩んだのは、よくよくその夫を好きであったと思われる16。
さらに加えて、入院中の逸枝の気持ちを、こう察します。
死の数日前水俣から上京して、病院を見舞った義妹の静子さんに、「森の家に行ったら、ぜひ『留守日記』を読んで下さい」とわざわざ彼女がいったのは……森の家に帰りたいのを訴えていたのではあるまいかと思えてならない17。
「留守日記」とは、憲三が父親の法事でひとり帰郷したときに逸枝が書いていた日記です。おそらくこのときが、はじめてひとりで過ごす「森の家」での日々だったものと思われます。この日記には、いつもいる人がいない「森の家」に残された逸枝の寂しさ、さらには、無事の帰りを待つ逸枝の願いが切々と綴られています。静子は、逸枝のこの日記を読み、憲三に向けた逸枝の愛の深さを改めて知ったものと思われます。そして同時に、強い思いをもって逸枝が、一日も早く退院して「森の家」に帰り、再び憲三と一緒に暮らしたがっていることに気づかされたにちがいありません。
ここで、結婚を前にした逸枝が、憲三に宛てて書いた若き日の手紙の一節を想起したいと思います。
若い、氣高い、血氣が、妾をおそひます。ああ、妾どもの高潮した青春よ。妾はそれを決して萎らせないでありませう。……妾を愛して下さい。愛して下さい。愛して下さい。強く強く愛して下さい。 妾はあなたに抱かれて死にませう18。
ここから、自分が死ぬときは憲三の腕のなかで、という逸枝の思いが伝わってきます。しかし、病院は完全看護。神と崇めて止まない妻に、そうしてあげられなかった夫の無念は、いかほどだったでしょうか。さらにいえば、憲三が死亡広告と葬儀の費用としてそれなりの資金を用意していたことに対して憤慨し、死亡広告に友人代表に名を連ねることを拒んだことは、それぞれにそれぞれの考えがあるとしても、逸枝の遺体の前にあって、その死に打ちひしがれている本人を前にして、これまでに分け与えたものを返してほしいという言葉を市川から浴びせられたときの憲三の、その思いは、いかほどだったでしょうか。
憲三は、入院に際して受け取っていた「お見舞い」のお金を、葬儀後市川に返金しました。しかし、もろさわは、「市川は主宰する婦人問題研究所を通じ、昭和二十四年(一九四九)から昭和三十六年(一九六一)末まで逸枝の研究に対する物心両面で援助をつづけていた」とも、「それだけの貯えがあるなら、人からの寄金はもらうべきではなかった」と、憲三に対して市川が言い放ったとも、書いていますので、市川が逸枝の霊前で返還を求めたのは、単に数日前に渡していた「見舞い金」のみならず、この間の一二年にわたる「物心両面」での援助と「人からの寄金」のすべてだったのかもしれません。
一方、憲三については、こう書きます。道子は「森の家」で、自身の出発作となる『苦海浄土』の初稿となる「海と空のあいだに」を書いていました。
その後の著書はすべて『椿の海の記』に至るまで、師が最初の読者、批評者であった。いかに透徹し卓越した批評家であられたことか。水俣のせんすべない事情はえんえんにひき続き、今に至るも恩師から託された御志を果たせないでいる。御死去に逢い、はなはだしい気落ちからいまだに立ち直れないのである19。
道子の文の特徴は、至る所で話題が切り替わり、ストーリーが発展していくことです。この「朱をつける人」においても、文の途中で、道子が、市川房枝ともろさわようこに触れる箇所がひとつだけありますので、以下に、引用して紹介します。もっともこれは、本題の「弱法師」を語るうえでの単なる枕詞として使われているにすぎません。
この稿を書く途中に、もろさわ・ようこ様の御労作(『文芸復興期の才女たち』集英社)を拝読する機会にめぐまれた。深く考えさせられる事であった。市川房枝女史にも、もろさわ・ようこ様にも水俣のことで御高恩をこうむっており、長く忘れがたいこととして、ここに深謝をのべておかねばならない。さて、もろさわ様による、逸枝死去の夜の場面、憲三が、「妻の遺体に寄りそって接吻をくり返し『約束どおりあなたの自伝は、かならずぼくが完成させますからね』とそのたび(・・・・・)ごとに(・・・)云っていた」という箇所まで読み至ったとき、紙面が消去されてその下から幻聴というべきか謡曲のあの「弱法師(よろぼし)」がろうろうと聴こえ始め、それよりというもの幻覚の能舞台が浮上してやまない20。
こう書いた道子は、ここから、「幻覚の能舞台」におけるシテとワキの独自の詞章を導入しますが、流れは、文盲のシテの弱法師による憲三と逸枝を扱った謡へと進みます。おそらくこれが道子に聞こえる「幻聴」なのでしょう。
ワキ 「おうこれなる籬(まがき)の梅の花が、弱法師が袖に散りかかるぞとよ シテ 「そうてやな。〽憲三が妻の逸枝は芹摘みに、憲三は窓に、窓には梅の花21。
このシテの謡曲は、逸枝の『妾薄命』のなかの次の歌に由来しているものと思われます。
憲三が妻の逸枝は芹摘みに 憲三は窓に 窓には梅の花22
この歌は、極めて示唆に富みます。といいますのも、「逸枝が芹を摘み、憲三が窓辺にいてそれを待つ」情景を、「逸枝が原稿を書き、台所にいながら憲三がそれを待って編集する」情景へと置き換えるならば、どうでしょうか。逸枝と憲三とのあいだの、前代にはほとんど見ることのなかった革新的な夫婦の役割分担の形式がほのかに見えてくるからです。それは、すでに紹介しています、静子が「もろさわよう子様へ」で書いていた以下の文と完全に合致します。
憲三は他の多くの男性と同じく……男性上位の体質でした。……或る日、女性の位置まで降りて来たのです。そして、男女が同等のところで住んで見れば、居心地よくてたのしくて、有頂天になって暮らしたのです。二人には、男の仕事、女の仕事という区別はありませんでした。
ここに、道子も静子も、憲三の人間性の本質を見出したのでした。さらに唐突な発想が許されるならば、道子の最晩年の新作能「沖宮」のもともとの種子は、このときのシテの「そうてやな。〽憲三が妻の逸枝は芹摘みに、憲三は窓に、窓には梅の花」の台詞にあったのではないかと、私は推量するのです。
さて、道子の文はさらにここで一転し、「弱法師」から「朱をつける人」へと分け入ります。いよいよこの文のクライマックスです。
一九七八(昭和五三)年の暮れ、道子は、沖縄の久高島に行き、その地に残るイザイホーの名で知られる祭儀を見学しました。道子はこう書きます。「一二月一四日(昭和五十三年)初日の『夕神遊(アシ)び』から始まった神事の第三日目、『花さし遊び』の日が、とりわけわたしには感銘深く思われた」23。「『夕神遊(アシ)び』から始まった祭儀は三日目に入り、『花さし遊(アシ)び』の中の『朱つき』『朱つき遊(アシ)び』へと展開してゆく」24。
イザイホーは、三〇歳を超えた島の既婚女性が神女となるために行なわれる、一二年に一度開催される一種の通過儀礼で、そのなかのひとつの儀式が、根人と呼ばれる男性主人が、ナンチュと呼ばれる巫女の額と両頬に朱印をつける神事です。道子の論考の題に用いられた「朱をつける人」は、そこに由来します。
道子が「久高島で十二年に一回、午年(うまどし)に行なわれるイザイホーの神事をまのあたりにした時、胸に去来してやまないことがあった」25。それは道子にとって、「今は亡き森の家のふたりに、生命の奥の妙音を聴くような、あるいは生命の内なる宇宙の、光源の島にたどりついたような秘祭」26だったのでした。道子は、「朱をつける人」を、次の言葉で結びます。
深い感動の中にいて、「花さし遊(アシ)び」の中の朱つけの儀式、素朴な木の臼に腰かけているナンチュと、その額にいましも朱をつけるようとしている根人の姿に、著者には高群逸枝とその夫憲三の姿が重なって視え、涙ぐまれてならなかった。 逸枝がいう憲三のエゴイズムは、男性本来の理知のもとの姿をそのように云ってみたまでのことであったろう。その理知とは究極なんであろうか。久高島の祭儀に見るように、上古の男たちは、懐胎し、産むものにむきあったとき、自己とはことなる性の神秘さ奥深さに畏怖をもち、神だと把握した。そのような把握力のつよさに対して女たちもまた、男を神にして崇めずにはおれなかった。そのような互いの直感と認識力が現代でいう理知あるいは叡智ではあるまいか。 憲三はその妻を、神と呼んではばからなかった27。
こうして、もろさわから憲三に浴びせられた罵声への反論として書かれた、道子の「朱をつける人」は終わります。
それではこれより、一方に戸田房子の「献身」ともろさわようこの「高群逸枝」を、他方に橋本静子の「もろさわよう子様へ」と石牟礼道子の「朱をつける人」を置き、市川と憲三の反目に関連して以下に、「もろさわの執筆の意図について」と「市川とらいてうの行動の違いについて」のふたつの点から検討を加え、最後に、「この問題についての私の個人的見解」を述べてみたいと思います。
まず一点目として、もろさわの執筆の意図について検討します。
上に述べてきましたように、静子は、もろさわの文にみられる誤認や偏見について、その該当箇所の頁数を明示したうえで引用し、反論を企てました。一方の道子は、幻覚に現われた「弱法師」や実際見聞した「イザイホーの祭儀」を事例としながら、逸枝と憲三の美質をたたえました。そこで研究者である私は、もろさわの執筆意図は何であったのかという、ふたりとは別の観点に立ち、ここで、少し思いを巡らせてみたいと思います。
まず、もろさわの「高群逸枝」に付記されているものを紹介します。それは、巻頭の最初の一頁に現われており、「高群逸枝略年譜」「参考文献」「著者・もろさわようこ」で構成されています。「参考文献」に挙げられているのは、『高群逸枝全集』全十巻(理論社)、『高群逸枝』(鹿野政直、堀場清子著・朝日新聞社)、『娘巡礼記』(高群逸枝著・堀場清子校訂・朝日新聞社)、『火の国の女 高群逸枝』(河野信子著・新評論)の四点です。「著者・もろさわようこ」には、女性史・婦人問題研究家と記載されています。
次に、「高群逸枝」の内容上の特徴を指摘します。節題は明示されていませんが、形式上「その死をめぐって」「詩と真実」「愛と自由」「所有被所有をこえて」の四つの節で構成されています。特徴的なことは、最初の「その死をめぐって」と、続く「詩と真実」「愛と自由」「所有被所有をこえて」とのあいだには、明らかに大きな断絶があることです。といいますのも、前者において、逸枝の臨終の際に見せた夫憲三の野暮で自己中心的な態度が強調され、後者において、妻逸枝の史的業績が称讃されているからです。もっとも、「参考文献」の多くは既知の二次資料であるため、それを単になぞっただけの後者の記述内容には、目新しさはほとんど何もありません。
最後に、「高群逸枝」の書式上目につくところを指摘します。もろさわは、「女性史・婦人問題研究家」ということですので、おそらくこの文を学術論文ないしはそれに準ずるものとして執筆したものと思われます。しかし、学術論文であれば、その書式上、最初に執筆の目的が明示され、本文での考察を踏まえて、最後には結論が述べられなければなりません。しかしながら、もろさわの文には、「はじめに/まえがき/緒言」と「おわりに/あとがき/結言」に相当するものは何もなく、それゆえに本来そこで明示すべき、この論文の目的も結論も、何も明かされていないのです。
さらに目につく書式上の特徴的なことをいえば、本来であれば、本文で論点を考察するに際しては、一次資料を引用し、それぞれの引用文に通しの注番号を付したうえで、巻末に出典(たとえば、著者名、書名、出版社名、発行年、引用頁等)としてまとめられるべきところ、それも存在しないという点です。このことは、記述内容にかかわっての追検証を拒む結果を生み、論述内容の信憑性や信頼性が担保されていないことを意味します。換言すれば、もろさわの文は、学術的論考に求められる実証や論証という方法論の点から程遠いものになっており、作家論とも作品論とも、あるいは伝記ともいえず、「参考文献」に目を通した際に受けた単なる感想文、ないしは、それを基にした自由な創作文の類に陥っているのです。
以上の指摘からもわかりますように、もろさわは、「高群逸枝」を書かねばならなかった実際の「意図」を明確にしていないため、それについてはもはや、外部の人間には判断できない闇の部分として残っているのです。しかし、書く以上は何か「意図」があったにちがいなく、したがって私はここに、次のふたつの点から推測してみます。
ひとつは、「その死をめぐって」と「詩と真実」「愛と自由」「所有被所有をこえて」とのあいだにみられる内容上の断絶をどう解釈すればいいのかという論点からの推測になります。こうした叙述の構図に、夫と妻、つまりは男と女のあいだにくさびを打ち込もうとする、際立つもろさわの潜在的価値観が、私には感じ取れます。言い換えれば、「女性を善、男性を悪」とみなす、単純な図式が支配する、埋め込まれた固定概念、あるいは、刷り込まれた偏見に近いものが、もろさわの精神内部にあったのではないかと思われるのです。つまり、ここに私は、本人がどれほど意識していたかはわかりませんが、もろさわのひとつの執筆の「意図」が隠されているように思料します。
しかし、上の「朱をつける人」のなかで道子が述べていますように、逸枝と憲三は、「徹底的に相手に対して真摯にむきあい、慢性的な弛緩やなれあいが、みじんも感ぜられない」夫婦であったにちがいありません。ふたりは、理想とする「一体化」を目指し、完遂したのです。もろさわには、それへの認識が乏しかったように思われます。あるいは、見たくない現象だったのかもしれません。いずれにせよ、少なくとももろさわは、逸枝と憲三の夫婦が見せたひとつの真実の愛のかたちを見誤っていたことだけは、確かでしょう。そうであれば、もろさわの「意図」は、完全に不発に終わったということになります。しかし、それはあくまでも一面的な見方であって、続く「三.『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)の波紋」と「四.市川房枝グループと橋本憲三との確執を巡るその後」において語るように、その後の実際の動きを見れば、必ずしも、不発に終わったわけではありませんでした。いやむしろ、その「意図」は継承されてさえゆくのでした。
次は、もろさわの執筆「意図」にかかわるふたつ目の推測です。静子も道子も、批判の対象としているのは、もろさわの文の最初の節に相当する「その死をめぐって」のなかの記述です。逆の観点に立てば、もろさわがこの文でどうしてもいいたかったことは、この「その死をめぐって」にあったのではないかということになります。つまり、「詩と真実」「愛と自由」「所有被所有をこえて」は二義的なものであり、逸枝の臨終に際して市川房枝とその仲間たちがとった言動の正当性をいま一度公にし、それを世に定着させることが、もろさわの一義的な「意図」だったのではないかと思われるのです。
すでに戸田房子が、小説という形式をとって、逸枝の臨終に際しての市川と憲三の確執を主題として「献身」を書き、そこで、憲三の人間性を否定しました。戸田はこの両者の確執の場にいませんでしたので、戸田は、市川かその仲間に取材し情報の提供を受けたうえで執筆に臨んだか、あるいは、その場にいた市川なりその仲間なりが、戸田にもちかけてこの小説を書かせたかの、おそらくそのどちらかでしょう。いずれにしましても、この内容は空想では書けませんので、執筆に当たって、著者の戸田と、市川あるいはその仲間の誰かが事前に接触していたことは間違いないと思われます。そう推量する私は、戸田の「献身」に続く、市川側の主張を強く世に訴えるための第二弾が、市川の側近のひとりにちがいないもろさわの手になる「高群逸枝」だったのではないかと位置づけているのです。以上の推論が正しければ、もろさわは、市川の思惑を忖度したうえで、自ら書く「高群逸枝」でもって、この反目に対し市川側に勝利を呼び込もうとしたことになり、これが、もろさわが執筆に当たって抱いていた、私が推測するもうひとつの「意図」ということになります。
しかし、すでに引用していますように、もろさわの文を読んだ静子は、ただちにもろさわに手紙を書き、その最後を次の言葉で結びました。
何ヶ月か前に、郷土紙上の市川房枝様のお名前が出ている記事で、憲三のことがあしざまに書かれていてはらが立ったと、近親者からも聞いています。今回のことといい、何度もむしかえし活字になさらねばならないお心が理解できません。
何ゆえに「何度もむしかえし活字に」しなければならないのでしょうか。静子のみならず、私もまた、もろさわの文の出現に、市川側の怨念の強さなり執念の深さなりを感じ取ります。その意味で、静子と道子が力をあわせて刊行した『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)での反論は、もろさわにしてみれば、意表を突かれた驚きであったにちがいありません。であれば、このもろさわの「意図」も、やすやすと瓦解したことになります。しかし、それはあくまでも一面的な見方であって、続く「三.『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)の波紋」と「四.市川房枝グループと橋本憲三との確執を巡るその後」において語るように、その後の実際の動きを見れば、必ずしも、瓦解してしまったわけではありませんでした。いやむしろ、この「意図」もまた、継承されてさえゆくのでした。
次に二点目として、市川とらいてうの行動の違いについて検討します。
すでに前節の「高群逸枝の臨終に関する市川房枝とその仲間の言動について」において紹介していますように、もろさわは、「その死をめぐって」において「このときを境にして、市川・鑓田・竹内茂代らは憲三と絶縁」28と書いています。それに対して静子は、「らいてう様は私どもへご会葬くださり、過分の御香料をお恵みいただき、引き続き御愛情を賜りました」29と書きます。ここに、憲三と「絶縁」した市川房枝と、憲三に「引き続き御愛情」を示した平塚らいてうとの違いがありました。これに関しては、もはや市川の行動につきましては資料に残されていませんが、他方のらいてうの行動につきましては、資料に求めることができますので、以下にそれを紹介します。
一九六四(昭和三九)年六月に逸枝が亡くなると、憲三は、逸枝の遺志に従い、途中で絶筆となっていた『火の国の女の日記』(のちに『高群逸枝全集』第一〇巻に流用)の後半を書き上げます。そして、一周忌にあわせるように理論社から上梓され、逸枝の霊前に捧げられます。その後、引き続き憲三は「森の家」にこもり、『高群逸枝全集』(全一〇巻)の編集に当たります。その間、水俣に住む妹の静子がしばしば訪ねては、憲三の身に回りの世話と仕事の手伝いをします。一九六六(昭和四一)年六月の逸枝の三回忌にあわせて水俣に帰った憲三は、このときはじめて石牟礼道子に会い、道子の懇願を受け入れ、ふたりは「森の家」へ向かいます。そこで道子は、静子を立会人として憲三との後半生を契るのでした。そしてふたりは、「森の家」の処分が終わると、この年の終わり、それぞれに水俣に帰ってゆきます。
年が明け、一九六七年を迎えました。二月、『高群逸枝全集』第七巻が刊行され、これをもって全巻の配本が完結しました。他方で憲三は、逸枝の霊骨を入れる石造の墓廟建立に向かい、没後三年目の命日を前にして、無事納骨をすませます。憲三にとって、全集の完結、墓廟の建造に続く、三番目の大きな仕事は、季刊の『高群逸枝雑誌』の刊行でした。創刊号が世に出たのは、この年の一〇月一日のことでした。ここから、道子の「最後の人」の連載がはじまるのでした。
少し前置きが長くなってしまいましたが、らいてうと憲三との交流を示す資料は、実は、この『高群逸枝雑誌』に残されているのです。
続く一九六九(昭和四四)年四月一日発刊の『高群逸枝雑誌』第三号の「たより」の欄に、らいてうからの手紙が掲載されます。前年の一二月三〇日に書かれたその手紙には、このようなことが記されていました。
いよいよ年も暮れようとしております、心ならずもご無沙汰申し上げましたが、あなた様のお心づくしで高群逸枝研究の雑誌が出ますことを心からうれしくおよろこびいたします。…… お立派なお墓が出来上がりましたことを知りうれしくおもいます。 この夏頃でしたが、やっとの思いで、お住いの跡――桜児童遊園を訪れました。……あの告別式の日の森のお家の印象はどこにも見出せません。 ……お二方さまのお住いの跡であることも、あのコウカンな女性史をおかきになったところであることも何一つの表示もないのを、また近所の人たちも全く何も知らないらしいのをたいへんさびしく感じました30。
おそらくこのとき、「高群逸枝記念碑」のようなものをこの公園に建立する思いが、らいてうの頭をよぎったようです。しかし、「その後私の健康がすぐれない日のみ多く病院のご厄介になったりしておりまして心ならずも年末を迎えてしまいました。この冬を何とか無事に乗り越えまして、春とともに元気を出したく念じております」31。そして、この手紙は、「お妹さまにも、今ちょっとお名前が浮びませんが御地の高群さん研究家のあのご婦人にもよろしくお伝え下さいませ」32という言葉でもって結ばれています。「お妹さま」が橋本静子で、「あのご婦人」が石牟礼道子であることは、明らかです。少なくとも逸枝の「森の家」での葬儀の際に、静子とらいてうは顔をあわせていますし、道子は、「森の家」滞在中に憲三に連れられて、らいてう宅を訪れています。
らいてうの体調がすぐれないなかにあっても、「高群逸枝記念碑」の建立の準備は進められてゆき、逸枝の没後五周年に当たる一九六九(昭和四四)年六月七日に、「高群逸枝記念碑」の除幕式が挙行されました。式典では、建碑世話人として一五名の名前が読み上げられました。そのなかには、平塚らいてうや渋谷定輔に加えて、熊本出身の俳人である中村汀女の名前もありました。健康がすぐれず上京できなかった憲三に代わって、渋谷が遺族の挨拶文を読み上げます。碑の表には、逸枝自筆の詩章が刻印され、裏には、渋谷が原案を起草した、由来記がはめ込まれました。そして、それ以降も、らいてうの死が訪れるまで、らいてうと憲三の親交は、書簡を通じて続いてゆくのでした。
歴史を振り返るならば、平塚らいてうと市川房枝が、本格的に高群逸枝を支援するようになるのは、『大日本女性史 母系制の研究』が一九三八(昭和一三)年六月に刊行されるのに先立って発足した「高群逸枝著作後援会」にまでさかのぼらなければなりません。呼びかけたのは、らいてうと『東京朝日新聞』の竹中繁子でした。呼びかけに応じて発起人となった人は六五名で、そのなかに市川の名もありました。『大日本女性史 母系制の研究』の巻末には、「紹介辭」が収録されています。これは、「高群逸枝著作後援会」作成の近刊案内にかかわる印刷物に寄せられていた推薦文を再録したものでした。執筆したのは、麻生正藏、市川房枝、尾崎行雄、金子しげり、下田次郎、下中彌三郎、高嶋米峰、竹内茂代、竹田菊、新妻伊都子、福島四郎、三木清、吉岡彌生、らいてうの各氏でした。そのなかから、らいてうと市川のそれぞれの一節を以下に引用します。まず、市川の「紹介辭」から――
弱い肉體と闘ひながら女性史第一巻「母系制の研究」の大冊を完成出版された女史に、心からの敬意と感謝を捧げると同時に、廣く一般の方々――特に婦人の方々に對し、女性の手になるこの女性史を是非とも書架に飾られんことをおすゝめします33。
次に、らいてうの「紹介辭」から――
畏友、高群逸枝女史、久しき以前より我が國に眞の女性史なきを慨嘆し、昭和五年、大發願を起し、爾來その研究、編纂に全生活を没入し、獨力、奮勵、今日に至つたことは、すでに世に知られてゐます。一昨年、女性史に先立ち、その副産物「大日本女性人名辭書」を上梓、朝野を驚嘆させましたが、今回いよいよ、その本願である女性史、第一巻、出版の運びとなりましたことは、慶賀の極みで、女史を知り、女史の胸中を察しうるわたくしは、まことに感慨無量、言うべき辭を見出しません。 女性自身、女性の立場から書いた女性史が、いかに意義あるものであるか、今更言ふまでもありませんが、特に女性の中の女性、高群女史その人によつて書かれたことを一層のよろこびとし、こゝに二重の意義を見出すものであります34。
こうしてはじまった高群逸枝支援でしたが、逸枝の死に際しての確執が原因となって、市川とその仲間は、憲三と絶交します。しかしながら、逸枝にとっての最大の支援者のひとりであったらいてうは、自身の死が訪れる最後まで、憲三に寄り添います。その違いは一体何だったのでしょうか。学者への援助のあり方、夫婦という存在を見るまなざし、人の死を洞察する感性等にかかわって、ふたりの考えに微妙な差異があったということになるのかもしれません。すでに紹介していますように、静子はこれを「政治家と文学者の違い」に求めました。交渉によって利を見出す政治家と、共感によって魂を揺り動かす文学者の相違が、静子の念頭にあったものと思われます。
それでは、最後に三点目として、この問題についての私の個人的見解を述べなければなりません。そのためにまず、参考までに、鹿野直政、平塚らいてう、橋本藤野、石牟礼道子、橋本静子、高群逸枝の言説を引きながら、この問題を検討してみたいと思います。
憲三が死去して一年が立った一九七七(昭和五二)年七月に、『高群逸枝』が朝日新聞社から上梓されます。前半部分を堀場清子が、後半部分を鹿野直政が担当します。以下は鹿野の言説です。
市川房枝を代表とする多くの女性の善意が、研究生活を支え、逸枝の研究の成果が女性全般を益する。この稀有な協力関係が、最後の段階で対立をあらわにした。……当時者同士の感情がどうであるにもせよ、後援は実際に研究を支えたのであり、そのみのりはすでに「女性文化」として、現に全女性の上に還元されつつある35。
これは、対立が存在したことは事実であるとして、現実に目を向けると、後援自体は実を結びつつあることを強調するものとなっています。もろさわの「高群逸枝」が世に出る前の文です。
次は、らいてうの言説です。これは、市川と憲三の対立に直接言及したものではありませんが、人を援助することの意味を考えるうえで、極めて示唆的であると思われるため、ここに引用します。尾竹竹坡に関しては、第二節「瀬戸内晴美の伝記小説に向けられた言説について」において詳しく書いていますので、ここでは省きますが、『青鞜』創刊一周年の祝宴についての竹坡の役割について、らいてうは、こう評しています。
尾竹竹坡さんがこの家[鶯谷の料亭「伊香保」]の常連であったことから、竹坡さんの御紹介でここを使ったのでした。そのため、竹坡さんからあらかじめ申しふくめられていたのでしょうか、会のあとでわたくしが支払いをしようとしても、どうしても受けとりません。竹坡さんがこうした好意をわたくしたちに示してくれたことには、紅吉との関係だけでなく、世間の非難のなかに立つ青鞜社を後援してやろうという、竹坡さんらしい気骨のあるお気持ちもあってのことでしょう36。
たとえらいてうといえども、一見さんであったり、まして女性であったりすれば、当時、一流料亭の宴席を予約することは困難だったものと思われます。竹坡はそれを熟知していたのでしょう。「伊香保」の紹介と支払いだけではなく、第二節「瀬戸内晴美の伝記小説に向けられた言説について」において詳述していますように、竹坡は、「吉原」見学の際にも、青鞜の女たちに便宜を図り、支援しています。青鞜の運動に対して竹坡が行なったこのふたつの事例が示していることは、何でしょうか。少なくとも私がそこから学ぶことは、あくまでの一般論になりますが、支援金、助成金、補助金、義援金、寄付金、献金、見舞金、名目は何であれ、人が人を金銭によって援助するということは、らいてうのいうような「気骨のあるお気持ち」によって純粋になされるものであって、それによって何か見返りを期待したり、途中で意見の対立が生じたからといって過去にさかのぼって返金を要求したりするようなことなど、全くの論外であるということでした。あえていえば、逸枝の死後、らいてうが中心となって「高群逸枝記念碑」が建てられるのも、青鞜時代の若き日に経験した竹坡の「気骨のあるお気持ち」と何か相通じる思いが、おそらくそのとき、高齢のらいてうを揺り動かしたにちがいありません。
逸枝の最大の公的理解者が平塚らいてうであるとするならば、逸枝にとっての最大の私的援助者は、夫である橋本憲三の姉の橋本藤野でした。藤野は、「森の家」が老朽化したとき、その修復費用を用意しました。また、「森の家」の土地を買い取ってほしいという地主からの要請を受けて、その代金の一部を用立てたのも藤野でした。藤野は、文字を読まなかっただけでなく、書くことにも困難を覚えていたものと推察されます。以下は、逸枝が死期迫るなか入院するときの見舞いの手紙の一部です。片仮名で書かれています。しかし、その心根は美しく、人を感動へと導きます。
マイニチカミホトケニ、ネンジテイマス。/ヒヨウノシンパイワ、イリマセン。イクライツテモ、ミナマタカラオクリマス。/ビヨウキニ、マケズ、シツカリキバリナサイ、クンゾ[憲三]モアナタモ、ミナマタデオセワシマスカラ、アンシンシテ、ヨウジヨウヲシテクダサイ/イツエサマ/フジノ/テガフルエテカゝレマセン37。
道子は、この藤野について、こう書き記しています。
「憲三夫婦はお国のために勉強しているのだから、わたしたちが養うてやらんばならん」とおっしゃって、水俣の店の収入を存分に森の家に送金しておられた由である。…… 姉君は逸枝さんの本は読まれなかったそうだが、「憲三夫婦はお国のために勉強している」というお言葉には、はっとするものがある。人間は何のために勉強するのか、という問題に対して、文字をほとんど読まれなかった方が、「お国のために勉強する」と考えられたとは、深い問いかけをわたしたちに与えずにはいられない。私自身はお国のために勉強するという言葉は思い浮かばなかったけれども、そういう考え方があったのか、と反省させられる。解釈はいろいろあるだろうけれども、深い説得力がある38。
藤野と逸枝は、同じ年です。藤野は、逸枝が同居人と家出したことを知っても、逸枝を非難するようなことはありませんでしたし、実の弟が、妻のために食事をつくり、洗濯をするのにも、何ら苦言を呈することはありませんでした。そしてまた、故郷に足が向かないからといって、この夫婦を責めるようなこともありませんでした。ひたすら藤野は、逸枝の文筆活動を支援するのでした。ここに、代償をいっさい求めない、誠心誠意の援助のあり方を見るような気がします。
最後に、静子の言説を引きます。
姉逸枝は、著書の『女性の歴史』(講談社刊、現理論社『高群逸枝全集』)の中で「市川さんのことほめすぎた」と、のちに話しております39。
この言葉も、とても示唆に富んでいます。逸枝は、『女性の歴史』(下巻)において市川について、要約すれば、次のように描写していたのでした。「平塚らいてうを信念の人、山川菊栄を言論の人とするならば、市川房枝においては実践が先行し、そのうえに言論がめばえ、信念が固められるといってよい行動過程がみられる」40。「房枝は、自己の能力と、運動の究極的必然性(社会主義)と、現段階での可能面とをふまえて『実践』する実践者であった。そして、その実践には、つねにつよく『貫徹』が期された」41。ところが、逸枝支援においては「貫徹」できず、「断絶」という結末を迎えたのでした。ここで、もうひとつ示唆に富む、鹿野の言説を紹介します。
明らかに逸枝は、後援の結果要求される(と彼女の感じる)「服従」と「奉仕」……被支配の立場に反感をもち、自分は「若いときから そういう俗哲学と戦ってきた」という。支配しえない場合、相手は判で押したように「敵意」をもち、「周囲の幇間たちをまきこんで迫ってくるが、こちらはそういう敵意に対して、愛をもって対立する。けっきょく敵意は愛には勝てぬ。負ける」(62、7、21)。この態度には、彼女の性格の特色がよくあらわれている。守屋東、生田長江、下中弥三郎等の場合もそうであるように、彼女はいかに恩のある相手であっても、いささかでも自分を軽んじたり、誤った(と彼女の思う)見解や主張を表明することを見逃さなかった。どこまでも徹底的に追及するのを常とした。若き日の憲三にたいする厳しい批判も、その例外ではない42。
ここに名前が出てくる、守屋東は、逸枝の『放浪者の詩』の出版を新潮社に取り次いだ人物であり、生田長江は、逸枝の「日月の上に」を『新小説』への掲載へと便宜と図った人物であり、下中弥三郎は、逸枝の『東京は熱病にかゝつてゐる』の巻頭の「讀んでください――序にかへて」において逸枝を絶賛した人物です。
逸枝が、静子に「市川さんのことほめすぎた」といっているとすれば、たとえ支援に対して恩義は感じていたものの、何か自分を軽視したり、支配したりしようとする市川の言動に気づいていたのかもしれません。といいますのも、これもすでに、第三節「高群逸枝の臨終に関する市川房枝とその仲間の言動について」において紹介していますが、入院に際しての個室と面会謝絶を病院に要求する憲三の態度への市川の反発を、ベッドに横たわる逸枝に憲三が語る、次の会話が残されているからです。憲三は、このように書きます。
個室と面会謝絶の件は、思いがけなく、一部にまさつをおこした。Kは、生命の尊厳と、ひたすら彼女の心にしたがった。それを知った逸枝は「私たちは自分たちのこれまでの流儀を押し通しましょう」といった。 「でもそれは感謝とか友情とかの問題とはべつですね」 「そうですとも」43
以上のように、鹿野直政、平塚らいてう、橋本藤野、石牟礼道子、橋本静子、高群逸枝の言説を引きながら、この問題を全体的に検討してみますと、結果としていえることは、真の支援というものは、相手の魂を蹂躙したり、自分の徳になるように相手を利用したり、相応の利益を相手に要求したりするようなものではないということです。そして、もうひとつ検討結果としていえることは、逸枝と憲三の夫妻は、霊安室での市川と憲三との確執以前にあってすでに、市川の援助の姿勢とその背後にある人間性とに、何らかの違和感を覚えていたということになりそうです。加えて、あえていえば、市川の幇間として、存命中の逸枝と憲三は、浜田糸衛と高良真木を、逸枝の死後の憲三は、「献身」を書いた戸田房子を、そして憲三の死後の静子と道子は、「高群逸枝」を書いたもろさわようこを、そのようにみなしていたかもしれません。
この問題に関連して、ここに、逸枝自身の言説を引いておきます。市川の支援を念頭において書かれたものではおそらくないでしょうが、人が人に贈与することの危険性を、逸枝は、こう認識していたのでした。
……もっと甚だしい場合では、たとえば他から進んでなされた贈与などでも、多くの場合、それが通俗的な取引的観念もしくは恩恵的観念を結果的に形成し、両者間に、ともすれば、怨疾とか心おごりとかが、かもしだされる危険を伴うおそれがあるからである44。
この逸枝の言説は、霊安室での市川と憲三の確執を先取りしているように読むことができないでしょうか。
見てきましたように、市川房枝は、希代の女性史学者である高群逸枝の戦前からの後援者のひとりでした。そのため、逸枝の最期の入院に際して市川は、参議院議員という立場から、「清貧の学者」として、つまりは「施療患者」に準じる者として逸枝を受け入れられないか国立東京第二病院と掛け合っていたようです。また、葬儀に要するおおかたの費用についても、自身が負担する心づもりができていたかもしれません。その前提として、市川とその取り巻きには、逸枝と憲三は乞食同然の「貧民」であるというひとつの思い込みが、疑うことなく、長年意識下で形成されていたにちがいありません。ところが憲三の口から、多額の資金が用意されていることを聞かされたのです。かくして、彼女たちがもつ暗黙の「貧民」像が崩れ落ちてしまいました。たとえて表現すれば、いつも餌を与えてかわいがっていた病弱の飼い犬が、最後の死に際になって飼い主に逆らい、自力で立ち上がると、元気な姿で大声を出して、周りを威嚇するかのように自身で自身の死に場所を決めようとした、といったところでしょうか。しかしながら、逸枝も憲三も、市川の飼い犬ではないのです。ここに、市川グループと憲三との反目の原因があったといえます。市川にしてみれば、自身が中心となってこれまで逸枝支援を要請してきた友人たちに対して、そしてまた、自身が仲介の労をとった病院に対して、「自分の面目は丸つぶれ」ということになるのかもしれません。一方の憲三は、なぜ自分の自由意思で妻の死に向き合うことができないのかという疑念に、裏を返せば、なぜ妻の死が他人の手によって私物化されなければならないのかという疑念に、そのときさいなまれたものと推量されます。そこで、それらのことも踏まえながら、この問題につきましての私見を以下に少し述べることにします。
結論的にいえば、たとえどんなに生前故人に多大な援助を与えていたといえども、入院や葬式は、最終的には、遺された親族の判断にゆだねられるべき事柄であって、仮に親切心からであろうとも、あるいはまた、たとえ「貧民」とみなす思い込みがあったにせよ、強引にそのなかに割り込み、差配しようとする行為は厳に慎むべきことではなかったろうかと理解します。
他方、憲三が貯えていた金融資産についてですが、逸枝は自由業ですので、退職金があるわけでも、年金が保証されているわけでもなく、年をとり筆が細れば執筆料の収入も細くなり、かといって、ときおり恵まれる支援の金品もあくまでも相手次第で、いつ途切れるかわからず、そのような家計環境のなかにあって、常にその日暮らしをするわけにもゆかず、したがって、老後の生活や、医療や葬式などのために将来必要となるであろうと思われるしかるべき資金を用意していたからといって、必ずしもそれは、非難に値する事柄ではなかったのではないかと思量します。
逸枝が亡くなる日まで、着るものも貧相、家具や食器も貧弱、口にするものも粗食であったこのふたりの、貧しさに甘んじた暮らしぶりを考えたとき、また、たとい日ごろはそうであろうとも、愛する妻との最後の別れのときだけはできる限りの贅を尽くして見送りたいという夫の心情を考えたとき、日常的にはその支援行為に深い謝意を捧げながらも、このとき市川が示した言動ばかりは「考えても見るが氷解できなかった」状況に立たされてしまった憲三のつらさは、いかばかりのものであったろうかと推察されます。
総じていえば、この対立には、明らかに個人的問題に対する過剰介入が災いしているように思われますし、加えれば、男性の行為のすべてを強権行使の結果とみなすような、ひとつの強固な一部の女性固有の視点が、さらに問題を複雑化させているとも、感じられないわけではありません。社会的経験を積んだ今日にあっては、著名人の場合、近親者による本葬儀と、その後の「お別れの会」が切り分けられて営まれるようになってきていますが、当時にあってはいまだその線引きは明確でなく、あたかも遺族と後援者との綱引きを見るかのような、そのときの混乱と双方の不信は、誠に不幸な出来事であったとしかいいようがありません。
静子の「もろさわよう子様へ」と道子の「朱をつける人」が掲載された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)は、千六百部印刷され、定期購読者のほかに「全国国公私立大学の文学部法学部図書館、全国国公立図書館、全国主要新聞社本支社、主要雑誌社・図書出版社、女性史関係機関」45等に寄贈されました。
年が明け、一九八一(昭和五六)年を迎えました。終刊号発行に関する『朝日新聞』の取材に、道子は、次のように応じました。
同人は憲三先生と弟子の私のふたり。実際にはお手伝いもできぬままであった。終刊号をいつにするかと思っているうちに、妹さんがもろさわさんに長い手紙を書かれた。また憲三先生が書き残されたものもあった。この雑誌は逸枝ファンのための雑誌。それらを読者にお渡しするのが、遺族と、同人の義務と考え、ここに集録し、終刊号としました46。
このインタヴィューは、一月一四日の「点描」欄において、「32号を発行して終刊 『高群逸枝雑誌』」という見出し記事のなかで紹介されました。それに対抗するかのように、今度はもろさわようこが、『毎日新聞』に寄稿します。以下は、二月二六日の「視点」欄に掲載された、もろさわの「市川房枝さん」の一部です。
市川さんとはまったく無関係に、私が執筆した文章が原因になり、昨年末、市川さんに対する誤解をもとに編集された小雑誌が出た。このことについて市川さんは、誤解にもとづく悪口は言われ馴れている、事実はかならずあきらかになることを信じているので、気にしていませんと、濶達に笑っていた47。
もし、静子の「もろさわよう子様へ」と道子の「朱をつける人」が、「誤解にもとづく悪口」であるとするならば、「事実はかならずあきらかになることを信じている」という他者依存の姿勢ではなく、自ら進んでその「誤解」と「事実」の内実について開陳することをもって道義とみなしたい私は、市川房枝本人と、その養女の市川ミサオの書いた書籍に当たってみました。しかし少なくとも、市川房枝の随想集『だいこんの花』(一九七九年、新宿書房)と、市川ミサオの回想記『市川房枝おもいで話』(一九九二年、NHK出版)とを見る限りにおいては、そのことについてはいっさい触れられていませんでした。
さて、続く三月、今度は『朝日ジャーナル』が、この『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)を取り上げました。まず、このような導入の文からはじまります。
キラと光りつつ、はじらう風情で南九州の片すみから出されていた『高群逸枝雑誌』の終刊号が昨年末に出た。この雑誌は、女性史学の創始者・高群逸枝(一八九四-一九六四)と一体の存在であった夫の橋本憲三が、亡妻の魂を抱きつつ編集していたものであり、七六年五月、憲三の死後、妹の橋本静子がいちはやく終刊を宣言していたから、あらためての終刊号に、おや? と思った人も多かろう。
静子による「編集室メモ」によると、この刊行は「集英社の本に触発され」てのことだという。「集英社の本」とは『近代日本の女性史2 文芸復興の才女たち』で、静子を‶触発″したのは終章の「高群逸枝」(もろさわようこ)の憲三認識のありようなのだが、いまはそれに触れる暇はない48。
この記事の執筆者は、もろさわの「高群逸枝」に触れることはありませんでした。しかし、この間のこの雑誌を、以下のように、高く評価しました。
雑誌は消えたが、そのなかからいくつかのすぐれた研究書が生まれた。『高群逸枝と柳田國男』(村上信彦、大和書房)、『火の国の女・高群逸枝』(河野信子、新評論)、『両の乳房を目にして』(石川純子、青磁社)は雑誌連載をもとにしてできたものであり、初の本格的評伝『高群逸枝』(鹿野政直・堀場清子、朝日新聞社)も、この雑誌なくしては生まれなかった49。
ここに言及されている、村上信彦『高群逸枝と柳田國男』、河野信子『火の国の女・高群逸枝』、そして石川純子『両の乳房を目にして』につきましては、私の力をもってしては、どうしても十全に読み解くことができず、誤読が生じることを恐れ、本稿におきましてはいっさい触れていませんので、あえてここに書き添えます。
ところで執筆者は、最後にこの記事をこのような言葉で締めくくります。
そしてこの五月、橋本憲三・堀場清子による三千枚に及ぶ『わが高群逸枝』が朝日新聞社から出版される。石牟礼道子のライフワーク『最後の人』が一日も早く完成されることを祈る50。
『朝日ジャーナル』に『高群逸枝雑誌』終刊号についてのこの書評が出たとき、静子は、七〇歳になっていました。あえて終刊号として『高群逸枝雑誌』を発行し、憲三が書き残していた「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」「終焉記」「瀬戸内晴美氏への手紙」の三つの文と、それに加えて自身の「もろさわよう子様へ」の手紙とを、広く世に公開したいま、静子には、これまでに受けた度重なる兄への攻撃に対して、少しは撥ね返すことができ、なすべきことはすべて成し得たという安堵の気持ちがあったにちがいありません。またその一方でこのとき、「編集室メモ」に書かれてあるように、「イツエねえちゃん。どうしよう?」「静子さん、もういいのよ。あなたもここにいらっしゃい」というふたりが交わした会話を、深く胸にしまい込んだかもしれません。これ以降、逸枝や憲三にとって不名誉となる、他者が浴びせる言動に、もはや静子は口を開くことはありませんでした。
他方で道子は、このとき五四歳になっていました。『朝日ジャーナル』のこの記事は、道子のことを、「憲三が亡妻の幻影をそこにみてたよりにした同人・石牟礼道子」51と形容しました。「朱をつける人」を書いた道子の方は、憲三のことを、逸枝に対してだけでなく、自分にも朱をつけてくれた人として受け止めていたにちがいありません。道子にとって憲三は、「最後の人」であると同時に、「朱をつける人」だったものと思量します。
それでは、その後に続く伝記作家たちは、この市川房枝グループと橋本憲三との確執をどう描いてきたのでしょうか。ここでは、西川祐子の『森の家の巫女 高群逸枝』と栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』を事例として、検討します。
『近代日本の女性史 第二巻(文芸復興の才女たち)』に所収されたもろさわようこの「高群逸枝」から二年が立った一九八二(昭和五七)年に、西川祐子の『森の家の巫女 高群逸枝』が新潮社から上梓されます。そこにこのような一節があります。
橋本憲三が高群逸枝の死後、早い時期に森の家をひきはらった一つの原因は高群逸枝の最後の病い、入院、葬儀をめぐって橋本憲三と市川房枝をはじめとする後援の人びととの間に生活感情、経済観念、彼女の仕事の成果の所属についての考え方の違いが明らかになったためであった52。
この本は、橋本静子の名義で熊本県立図書館に寄贈されていますので、おそらく静子は、この箇所を目にしたものと思われます。そして、市川を頭とするそのグループとの反目が原因となって、敬愛する兄が、あたかも負け犬のごとくに、東京での居場所を失い、そそくさと田舎に逃げ帰ったかのように読み取れるこの一節に、静子は「これは違う」と、憤慨の声を上げたにちがいありません。さらに加えれば、西川は、「彼女の仕事の成果の所属」にかかわって憲三と市川とのあいだに対立があったごとくに書いていますが、憲三の遺言によって著作権の継承者となっていた静子は、これを読んで、「逸枝の著述物はあくまでも著者たる逸枝に属するものであり、後援者である市川らに帰属するものではない」との思いにかられたものと思料します。西川は、いかなる根拠(エヴィデンス)に基づいて、公然とこうした文を書いたのでしょうか。いっさい証拠となるものが示されていません。したがって、この文言の追検証は、いまや不可能な状態にあるのです。しかしながら、「彼女の仕事の成果の所属」という表現でもって西川は、市川の逸枝支援はあくまでも先行投資であり、没後著作権が市川の手に渡り、印税によって回収することが意図されていたことを示唆しているのかもしれません。
他方、逸枝の死後、憲三は、逸枝の書きかけの自叙伝に筆を足し、『高群逸枝全集』の編集を終えると、自宅の「森の家」を世田谷区役所に売却するや、ただちに藤野と静子の待つ水俣に帰還し、その地で、逸枝の墓廟を建設し、『高群逸枝雑誌』の刊行に着手します。この一連のプロセスに市川グループとの確執が直接的にも間接的にも介在していたことを立証するにふさわしい資料は見当たりません。むしろ、このプロセスが逸枝と憲三にとっての既定のコースであったことを示す傍証は、幾つも残されています。
たとえば一例を挙げると、逸枝は、静子に宛てた一九四〇(昭和一五)年の手紙に、こう書いています。「私が年とって動けなくなったらあなたが養ってくださるってありがとう。感謝します。あと十五年――私たちもそうすればよぼよぼになることでしょう。喜んで静子さんのところへ帰りたいと思っています」53。また、この年の帰省のおりに橋本家の墓所である空華塔を参拝した逸枝は、「いずれ私の骨もこの墓にはいることであろう」54と書いています。そして、逸枝が亡くなったときの一九六四(昭和三九)年六月九日の『熊日』(朝刊九面)の初報を見ると、「高群逸枝さん(本名橋本イツエ、女性史研究家、評論家)は東京・目黒の国立第二病院入院中、七日午後十時四五分ガン性腹膜炎のため死去、七十歳。……十日午前十時から自宅で密葬。本葬は熊本で行なう予定。日時その他未定」と書かれてあり、喪主を務める憲三の意向は、本葬は熊本で行なうことであったことがわかります。逸枝の遺志に背き、なぜこれがかなわなかったのか、実はそのこと自体が問題なのですが、ここではそれは横に置くとしても、以上の断片的な三つの傍証からしても、憲三は、急逝した逸枝の亡骸を、東京での残務整理が終わり次第、一刻も早く熊本に持ち帰りたかったのは明らかでしょう。そのことは、憲三の次の文が例証します。
『火の国の女の日記』の整理がついたら、骨をいだいて、最後の二人の眠りの場所へいそごう。彼女がいつも恋しがっていた、あたたかい南のふるさとの丘の日だまりに、人しれずいとなまれる妻夫墓に、まず妻をねむらせよう55。
憲三は、はっきりと「骨をいだいて、最後の二人の眠りの場所へいそごう」と書いています。ところが西川は、何ひとつ証拠を示すこともなく独断的に、上で引用したように、「早い時期に森の家をひきはらった一つの原因は……橋本憲三と市川房枝をはじめとする後援の人びととの間に……考え方の違いが明らかになったためであった」と書くのです。調べてもそれを裏づける資料は存在せず、私には、これは明らかに西川の作り話のように思われますし、なぜそのようなことをするのか、私の目には極めて不可解に映ります。
西川は、さらにそのあとに言葉を継いで、「入院のために森の家を出て白昼の光に照らされたとたん、森の隠者は人びととの心をつなぐ力を失ったかのようである」56とも、書いています。しかし、これにもまた信憑性はありません。といいますのも、市川房枝との関係は、霊安室において今後の葬儀のあり方を巡っての考えの違いが露呈して以降、確かに断絶したものの、他方で、同じくその場にいた平塚らいてうとの憲三の友好は、生涯にわたり続いてゆくからです。「森の家」の跡地につくられた公園に、その後逸枝の記念碑が建立されるのも、らいてうをはじめとする、逸枝の人柄と業績とを真に偲ぶ人たちの尽力によるものだったことに疑いを挟む余地はありません。こうした事例をみぢかに見ていた静子が、自分の実の兄を、あたかも世間知らずの陰険な自己中心主義者であるかのごとくに、「人びととの心をつなぐ力を失ったかのようである」と書く西川の言説に、少なからぬ不快感をもったであろうことは、容易に想像できます。しかし、もろさわの「高群逸枝」を目にしたときに「もろさわよう子様へ」を書いて以降、もはや静子は、逸枝や憲三を扱った書籍や雑誌文に対して反論することはありませんでした。年齢も傾き、世間の悪意に対抗するだけの気力がすでに失われていたのかもしれません。
次に、栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』に目を移します。この本は、一九九九(平成一一)年に平凡社から出版されたもので、著者の栗原が書く、市川と憲三の対立を巡る見解にかかわる記述は、以下のとおりです。
逸枝の入院と死をめぐる経緯は、逸枝の死後一〇年目に出た戸田房子のモデル小説「献身」(『文学界』)によって、さらに憲三の逝去後には、もろさわようこが「高群逸枝」(『近代日本の女性史』)を書いて広く世間の目に触れた。私はここでこれらの作品の出来を云々するつもりは全くないし、また、市川房枝ら高群逸枝著作刊行後援会のメンバーであった人々と憲三のどちらが正当であるかを論議するつもりはない。ただ、双方の齟齬のあまりの大きさに、憲三の生き方がいかに世間からは理解され難いものであったかを知るのみである57。
このように、栗原は、「市川房枝ら高群逸枝著作刊行後援会のメンバーであった人々と憲三のどちらが正当であるかを論議するつもりはない」と中立性を装いながらも、実際には、「憲三の生き方がいかに世間からは理解され難いものであったか」を理由に、憲三を暗に断罪するのでした。ところが不思議なことに、ここにあって栗原は、戸田房子の「献身」ともろさわようこの「高群逸枝」には言及するものの、なぜか、橋本静子の「もろさわよう子様へ」と石牟礼道子の「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」には言及しないのです。その理由は何なのでしょうか。そこに、この本の隠された意図があるように思われますので、次節の「栗原弘の『高群逸枝論』と栗原葉子の『橋本憲三伝』について」に場所を移して、さらに詳しくこの問題を検討することにします。
しかしながら、この文脈における結論としていえることは、『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)以降に発行された伝記にあって、少なくとも西川の『森の家の巫女 高群逸枝』と栗原の『伴侶 高群逸枝を愛した男』の事例に見る限り、憲三に捧げる静子の気持ちも道子の思いも、全く受け入れられることはなかったということになります。
(1)橋本静子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、100頁。
(2)石牟礼道子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、101頁。
(3)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、3-4頁。
(4)もろさわようこ「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)集英社、1980年、204-205頁。
(5)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、5頁。
(6)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、7頁。
(7)前掲「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、203-205頁。
(8)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、6頁。
(9)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、9-11頁。
(10)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、13頁。
(11)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、19頁。
(12)石牟礼道子「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、78頁。
(13)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、247頁。
(14)前掲「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、93頁。
(15)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、87頁。
(16)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、91頁。
(17)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、92-93頁。
(18)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、193-194頁。
(19)前掲「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、94頁。
(20)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、94-95頁。
(21)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、95頁。
(22)高群逸枝『妾薄命』金尾文淵堂、1922年、136頁。
(23)前掲「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、96頁
(24)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、97頁。
(25)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、96頁。
(26)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。
(27)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、99頁。
(28)前掲「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、207頁。
(29)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、11頁。
(30)「たより」『高群逸枝雑誌』第3号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年4月1日、28頁。
(31)同「たより」『高群逸枝雑誌』第3号、同頁。
(32)同「たより」『高群逸枝雑誌』第3号、同頁。
(33)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、「紹介辭」の2頁。
(34)同『大日本女性史 母系制の研究』、「紹介辭」の10頁。
(35)鹿野政直・堀場清子『高群逸枝』(朝日評伝選15)、1977年、323頁。
(36)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、63頁。
(37)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、350頁。
(38)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、275頁。
(39)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、6頁。
(40)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958年、314頁。
(41)同『女性の歴史』下巻、316頁。
(42)前掲『高群逸枝』(朝日評伝選15)、323頁。
(43)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第4刷)、476頁。
(44)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年、496-407頁。
(45)前掲、橋本静子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、100頁。
(46)点描「32号を発行して終刊 『高群逸枝雑誌』」『朝日新聞』(夕刊)1981年1月14日、5面。
(47)視点「市川房枝さん」『毎日新聞』(夕刊)1981年2月26日、5面。
(48)談話室「『高群逸枝雑誌』の終刊」『朝日ジャーナル』第23巻第9号、通巻1150号、1981年3月6日、78頁。
(49)同、談話室「『高群逸枝雑誌』の終刊」『朝日ジャーナル』第23巻第9号、通巻1150号、79頁。
(50)同、談話室「『高群逸枝雑誌』の終刊」『朝日ジャーナル』第23巻第9号、通巻1150号、同頁。
(51)同、談話室「『高群逸枝雑誌』の終刊」『朝日ジャーナル』第23巻第9号、通巻1150号、同頁。
(52)西川祐子『森の中の巫女 高群逸枝』新潮社、1982年、225頁。
(53)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年、251頁。
(54)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、293頁。
(55)同『高群逸枝全集』第一〇巻、482頁。
(56)前掲『森の中の巫女 高群逸枝』、225頁。
(57)栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、211頁。