橋本静子の一周忌が巡ってきました。そして、その二箇月後の二〇〇九(平成二一)年の六月、堀場清子の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』が世に出ます。その「あとがき」に堀場は、こう記しました。
橋本静子氏の死は、単にひとりの女性の死には止まらない。九歳のとき、兄の妻になった高群逸枝に会った最初の日から、逸枝を愛し、生涯変わることがなかった。逸枝・憲三夫妻の貧しい研究生活を、物心両面で支え、夫婦の没後もひたすら顕彰に努めて来られた。その深い愛と、豊かな記憶と、つねに支持を表明してやまない強靭な意思が、活動を終熄したのである。なんと大きな喪失であったことか1。
そして堀場の記憶は、静子が亡くなる三年前の水俣訪問へと向かいます。
二〇〇五年一月、鹿野政直と私が水俣へ静子氏を訪ねたときの、彼女の言葉が蘇ってくる。 「憲三はね、いうなれば、普通ですよ。しかし、逸枝は天才です」。 高群逸枝に関する仕事では、いつも有りうる限りのご助力をいただいてきた。本稿の完成を、終焉に近い日まで気にかけていられたという。静子氏が亡くなるなど、思ってもみなかった私の愚かさ。しかも仕事が遅く、その「旅立ち」に間に合わなかったことは、痛恨の極みというほかない2。
西川祐子の『森の家の巫女 高群逸枝』の「あとがき」にあっては、静子の名は、「資料と参考文献については上村希美雄氏、河野信子氏、関陽子氏、橋本静子氏、古河三樹松氏から多くを教えられました」3の一文に見出されるのみです。同じく、栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』の「あとがき」には、「橋本静子さんには、私にはどうしても確認できない点をご教示いただき、感謝にたえません」4と、これまた短い言及しかありません。堀場の静子評との隔たりに、静子との距離感の違いを、ここに見出すことになります。
水俣に帰郷した橋本憲三のもとをしばしば訪れ、高群逸枝についての資料の収集に当たってきた堀場清子の手によって、静子没後一年目に、この『高群逸枝の生涯 年譜と著作』は上梓されました。逸枝と憲三に関する詳細かつ精緻な年譜と関連著作の一覧から構成されています。また、本書が対象とするのは、静子が亡くなる二〇〇八(平成二〇)年四月までです。そうした意味において本書は、両人の生涯と業績を知るうえでの欠かせない貴重な文献が整理された有益な資料集成となっているのです。このとき堀場は七八歳になっていました。それではなぜ、自身の晩年にあって、堀場はこうした性格をもつ書物を公にしたのでしょうか。この本は、従来一部にみられた、独断的な多弁と能弁によって成り立つ逸枝や憲三についての評論や評伝とは大きく異なり、書き手の言葉は最小限度に抑制されています。そこから判断しますと、踏まえなければならない必須の一次資料(エヴィデンス)の全貌を開陳することによって逆に生まれてくる、事実から乖離した一部の独善的な既往研究への暗黙裡の抗議の表明だったのではないか――もしかしたら、そうした思いが込められていたかもしれません。
余談になるかもしれませんが、私はその現われのひとつとして、憲三が書いていた「共用日記」の断片が、『高群逸枝の生涯 年譜と著作』のなかに隠れるようにして引用されていることに求めたいと思います。この箇所は、本稿においても援用し、憲三の行動と苦悩を跡づけるための貴重な証言として利用させていただきました。もっとも、なぜこのような形式で、「共用日記」のなかの一部の限られた文言を自著に忍ばせたのか、また、なぜ全文を公開しなかったのか、そして、この「共用日記」はその後どのような運命をたどったのか、疑問は尽きません。といいますのも、逸枝没後、憲三が単独で書き残した「共用日記」が完全なかたちで現在残されているならば、憲三研究は、格段に向上するにちがいないと思うからです。
そのように思う一方で、これだけの幾多の資料を渉猟し、見事にそれを年代順に整理したにもかかわらず、なぜ堀場は、自ら進んで逸枝と憲三に関する本格的な伝記を執筆しなかったのでしょうか。資料も能力も十分に備わっていたはずなのに……。
振り返ってみると、堀場が批判したのは、松本正枝のみです。この間堀場は、「うそをつく女」「名誉を毀損する女」「人権を無視する女」「差別をする女」「絵空事を書く女」そして「男性を嫌悪する女」を見てきていたにちがいありません。しかし、それらの女も、女であるがゆえに、別の次元にあって社会的、文化的、政治的抑圧を多かれ少なかれ経験していることを考え合わせるならば、それを無視して、批判の対象にすえることに同性としての躊躇が働いたのかもしれません。もし堀場が、逸枝と憲三に関するフル・スケールの伝記を書こうとするならば、そうした女たちが書いた逸枝と憲三についての先行研究に、どうしても対峙しなければならず、しかしながら堀場は、それに同意も不同意もできず、その結果として無言に徹し、論点を避けて通る道を選んだものと推量されます。
しかし、述べてきましたように、堀場は、憲三の痛みと静子の役割について、十分に知りえる立場にありました。いっさいの論評を抜きにした、この寡黙な『高群逸枝の生涯 年譜と著作』の刊行は、憲三と静子の実際を知る、せめてもの堀場にとっての良心の発露であったものと、私は理解します。加えるならば、わずかであろうととも、「共用日記」に見られる決定的な証言を自著に含ませたことに、私は、堀場の「ダイイング・メッセージ」を見るような気がします。といいますのも、それなくして私は、他者から浴びせられた汚名に対する憲三の無念も、道子を受け入れる憲三の覚悟も、何も明確に書くことはできなかったにちがいないと、いまや振り返るからです。
一方このころ、堀場より三歳年上の石牟礼道子も、自身の晩年と向き合っていました。憲三を亡くし、藤野と静子を見送ったいま、自分が蘇生した「森の家」を知る人は誰ひとりいなくなりました。道子は、何を頼りに生きていけばいいのか、自問したにちがいありません。道子は、主治医の山本淑子に、こう語ったことがありました。山本は、次のように、それを紹介しています。
四年前私は長女を亡くしたが、その時、幼少期からの長女をご存じだった石牟礼さんから「これからはふっこさんを山本家の柱となさいませ。」と言われた。死者を柱にとはどういう事だろうとその時は解せない気持ちが強かったが、思い返すと石牟礼さんは、早逝した弟さんを始め水俣病患者さん達、屍累々のなかを、その魂を柱として生きてこられた5。
この証言から連想しますと、「早逝した弟さんを始め水俣病患者さん達、屍累々」のみならず、憲三を喪ってこのかた、道子は憲三を柱として生きてきたものと思われます。そしていよいよ、その思いをかたちにするときが巡ってきたのです。
『最後の人 詩人高群逸枝』が藤原書店から上梓されたのは、堀場の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』から遅れて三年のちの、二〇一二(平成二四)年一〇月でした。本書は、『高群逸枝雑誌』に連載した「最後の人」に加えて、補遺として、「森の家日記」「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死」「朱をつける人――森の家と橋本憲三」を含む旧稿の数編と、「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」とによって構成されていました。そのなかの「森の家日記」については、編集部によって、次のような注釈が記されています。
本稿は、「最後の人」執筆のもとになった、石牟礼道子が森の家に滞在した時の覚え書(取材メモ)である。「東京ノート」と題されたこのノートは近年渡辺京二氏によって発見された。重要かつ興味深い記述があるため、ここにそのまま収録する6。
ここに述べられている「重要かつ興味深い記述」とは、いかなる記述なのでしょうか。次に挙げる箇所が、おそらくそれに該当する記述であることに疑いを入れる余地はないでしょう。「彼女」とは、高群逸枝を指します。
わたしは 彼女を なんと たたえてよいか ことばを選りすぐっているが 気に入った言葉が見つからないのに 罪悪感さえ感じる …… わたしは彼女をみごもり 彼女はわたしをみごもり つまりわたしは 母系の森の中の 産室にいるようなものだ7。
次に、七月三日のノートには、こう書かれてあります。
今晩更に高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った。それは橋本静子氏に対する手紙の形で(つまり、静子氏を立会人として)あらわした。午前三時これを書き上げる8。
そして、神秘に包まれた聖夜が明け、帰郷する七月一一日の朝が来ました。以下も、道子の「森の家日記」からの引用です。
六時目覚め。 木立の中の深い霧。 私の感情も霧の中に包まれてしまう。しかしそれは激烈で沈潜の極にあるものだ。 沐浴。 今朝の私は非常に美しい、貴女は聖女だ、鏡を見よと先生おっしゃる。悲母観音の顔になったと見とれる9。
「九時半、逸枝先生にお別れつげる。彼女は私の内部に帰る。切ない。玄関を出る」10。こうして道子は「産室」を出たのでした。
このように、書かれている内容は、極めて衝撃的なものでした。さらに加えて、衝撃的なことが、「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」のなかにも現われます。このインタヴィューは、二〇一二(平成二四)年八月三日に道子の自宅において行なわれました。聞き手は、藤原書店の藤原良雄です。
――憲三さんから逸枝さんのことをお聞きになって、憲三さんの姿もそばで見ておられて、[憲三さんのことを]そう思われたわけですね。 石牟礼 はい。憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が鮮明でした。おっしゃることも、しぐさも。何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる。 ――「最後の人」というのはどういう思いで。 石牟礼 こういう男の人は出てこないだろうと。 ――憲三さんのことを。 石牟礼 はい。高群逸枝さんの夫が、「最後の人」でした11。
ここではっきりと道子は、「最後の人」が橋本憲三であることを、世に告白するのでした。それには、多くの人が驚愕したものと思われます。といいますのも、石牟礼研究者たちは、これまでに「最後の人」を、こう解釈していたからです。たとえば、西川祐子は、次のように書いています。
石牟礼道子は『高群逸枝雑誌』に「最後の人」の序章、第一章「残像」、第二章「潮」、第三章「風」を連載した。連載は編集責任者であった橋本憲三の死、雑誌の終刊によって中断されたままである。「最後の人」という題名は、文明の最後をみとどける人ととれる。高群逸枝は、人類はしだいに子どもを生まなくなり、やがて寂滅すると、終末を予言したのであった。「最後の人」とはまた、チッソの工場がはきだす産業社会の毒に汚染される水俣の海とさまざまな生命の死を見届ける石牟礼道子その人でもある12。
また河野信子は、「最後の人」を、このように推断していました。
高群逸枝の史料処理をめぐっては、いくつかの錯誤が指摘され、『母系制の研究』からは、十五年戦争中のヒメの力への期待が導き出され、女たちの原記憶の潜在性を浮上させた。これらの事実をめぐって、石牟礼道子は「鬼の首をとったように」(一九九五年十月福岡市アミカスで開かれた「高群逸枝をめぐるシンポジュウム」のレジメ)はしゃぐものではなく、その最も内質である場にこそ、視線を集中させることを提言している。やはり、石牟礼道子にとって「最後の人」は高群逸枝であった13。
上の事例からもわかるように、道子にとっての「最後の人」が橋本憲三であることを指摘した研究者はこれまでに存在せず、それだけに、この公言は、石牟礼研究の全面的刷新をも招来しかねない、激震を伴って受け入れられたものと思われます。
「最後の人」が所収された『石牟礼道子全集・不知火』の第一七巻の刊行が、二〇一二(平成二四)年の三月です。それから七箇月後に『最後の人 詩人高群逸枝』は世に出ます。道子は、こう書きます。「この度、『最後の人』を『全集』のなかから取り出して、わざわざ単行本にして下さるという。藤原良雄氏のご厚意にはお礼の申しあげようもない」14。それでは、あえて『全集』から取り出し、どうしても「最後の人」を単行本として世に送り出さなければならなかった、その目的とは一体何だったのでしょうか。「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」のなかの藤原良雄と道子のやり取りのなかに、その一端を見出すことができます。「最後の人」の連載は、憲三が亡くなる直前に刊行された『高群逸枝雑誌』第三一号における掲載を最後として、あえなく終了します。それから三六年が経過していました。藤原の「どうしてずっと単行本にされなかったんですか」という質問に、道子は、こう答えます。
高群逸枝のファンはたくさんいますよね。ですから、慎んでいたという気持ちです。森の家に滞在する特典を与えられて、そこで『苦海浄土』まで書かせていただいて、『西南役伝説』の一部も書いているのです。それも全部、憲三先生の目を通って、とても大切な時間をいただきました15。
それに続けて、道子の意味深長な語句が並びます。「奇跡のような時間をいただきました。それをひけらかしたくない、と思っておりました。……そのうち、だれかが見つけて読んでくださるだろうと、そんな気持ちでした」16。評伝「最後の人」は、「森の家」で憲三と道子が交わした、静子を仲立ちとする「後半生の誓い」と、男女としての「聖なる夜」を含みます。掲載された『高群逸枝雑誌』は、はじめ五百部、のちに千部へ増刷されたとはいえ、少部数の、したがって必ずしも大きな影響力をもっているわけではない、地方発の雑誌でした。このことは、結果として道子にとっては、自身の「最後の人」をいたずらに人目に晒すことなく、実質的に封印することを意味していました。また、逸枝ファンのなかには、逸枝を玉座に祀り上げるも、その一方で憲三を、つまりは、自分が添い遂げようとしている「最後の人」を、足蹴にしては牢獄につなぎ止めようとする人も多くいました。道子にとってこれは、いわれのない耐えがたい仕打ちでした。それでも、寡黙を守り通しました。しかし、三六年の時が流れ、そろそろ死が迫ろうとするこの時期、道子の心情に大きな変化が生じたようです。思うに、「だれかが見つけて読んでくださるだろう」という、これまでの控えめな姿勢から、単行本にすることによって、自身と憲三の関係を、より多くの人にわかってもらいたいという解き放された思いへと、道子の心情は方向を変えたのではないかと判断されます。このとき道子は、すでに八五歳になっていました。これが、秘して死するよりも、生きて、真の愛の姿を広く世に告げることを、道子は望んだのではないかと考えるゆえんです。
しかし、別の考えも成り立つかもしれません。それは、執筆の当初から道子は、いつか来る最後の日まで待って、自身の「最後の人」を世間に紹介しようと、密かにこころに決めていたのではないかという解釈です。そうであるならば、「『最後の人』とはいい題だ。こちらも早く読みたい」17という憲三の気持ちに、この最後の時期に至り、ついに満を持して、望みどおりに、添い遂げることができたことになります。
いずれにしましても、「病気になって、怪我をして、視力も落ちました」18と語る身体的状況にあって、もはや道子には、そう多くの時間が残されているわけではなかったのでした。
道子は、藤原良雄のインタヴィューに答えるなかにあって、自分にとっての「最後の人」である橋本憲三のことが、走馬灯のように蘇ったものと思われます。そこで、以下に短く、ふたりの詩魂の交流をここに再現してみたいと思います。
石牟礼道子(旧姓吉田)は一九二七(昭和二)年三月に熊本県天草郡宮野河内において出生しました。それから数箇月後、石工を生業とする一家は、八代海(不知火海)を挟む対岸の水俣町に移ります。道子が物心ついたころには、すでに祖母のモカ(おもかさま)は精神に異常をきたしていましたし、父の亀太郎は、酒におぼれる日々を過ごしていました。一九四五(昭和二〇)年八月、日本は終戦を迎えます。そのとき一八歳の道子は、小学校の代用教員をしていました。その二年後、結婚話が持ち込まれます。しかし、結婚生活は、殺伐としたものでした。ここへ至るまでに、自殺未遂も複数回ありました。
それから一〇年ほどの歳月が流れます。水俣病の出現と拡大、『サークル村』の創刊と参加、弟の死、日本共産党への入党と離党――これが、おおまかな一九五〇年代後半における石牟礼道子の足取りでした。労働者をつなぐ「表現」の場として、炭坑のある筑豊の地で谷川雁や上野英信、森崎和江らによって創刊された文芸雑誌が『サークル村』でした。谷川雁も同じ水俣の出身でした。道子は、自分が置かれているこのころの状況について、こう書きます。
私はサークル村に入っててちょっと書いたり、谷川雁さんがやっておられた大正行動隊に行ってみたりしていました。短歌をやめかかっていたので、別な表現を獲得したかったのです。そのころ、自分を言い表せるものが何にもないと思って、いろいろ悩んでいました。結婚とは何ぞやとか。そして表現とは何かと19。
そこで、道子の足は、図書館へ向かうようになりました。水俣には、淇水(きすい)文庫と呼ばれる、徳富蘇峰が寄贈した図書館がありました。館長の中野普は、本や文献といったものにまるで知識がなかった一家庭婦人に、噛んで含めるように、一から十までを教示しました。ここに、まさしくひとつの大きな出来事が待ち受けていたのです。道子は、そのときの衝撃を、このように文字にしています。少し長くなりますが、省略することなく、書き写します。
それまでの家庭生活にくらべてあまりに世界がちがうのに圧倒され、特殊資料室の大書架に誘われてたたずむうちに、ふと夕日の射している一隅の、古びた、さして厚味のない本の背表紙を見たのである。「女性の歴史・上巻・高群逸枝」とある。われながら説明のつかぬ不可思議な経験というよりほかないが、夏の黄昏のこの大書架の一隅の、背表紙の文字をひと目見ただけで、書物の内容については何の予備知識もないのに、その書物がそのとき光輪を帯びたように感じられた。つよい電流のようなものが身内をつらぬいたのを覚えている。そのため、しばらくその書物を手にとることがためらわれた。ややあって、なにかに操られるような気持ちでそれを手にとるとかすかな埃が立った20。
時は「夏の黄昏」という。高群逸枝が亡くなるのが一九六四(昭和三九)年の六月です。であれば、このときの『女性の歴史』(上巻)との出会いは、逸枝が亡くなる前年の、つまりは一九六三(昭和三八)年の夏の出来事ということになります。「ハットして読みふけりましたが、興奮しましてね。かねてから私が思っていることに全部答えてある。それですぐ高群逸枝さんに手紙を書きました。そしたら逸枝さんは一カ月くらいして亡くなられました」21。
道子が逸枝に宛てて手紙を書いたのが、逸枝が亡くなる一箇月ほど前であるとしますと、一九六四(昭和三九)年の四月か五月ころになり、道子は三七歳になっていました。逸枝が、「森の家」に入居し、女性史研究に着手するのも、三七歳のときでした。ふたりの女性の再出発の時期が、偶然でしょうが、重なります。道子の文に、このようなものがあります。
そのような出遭いが、水俣病問題とほぼ同じ時期におとづ(ママ)れて、わたしは、自分自身で名状しがたい何ものかに、突然変異を遂げつつあるのではないかという予感がしてこの頃内心異様な戦慄に襲われ続けていたのである。必然の時期が訪れたのだと言えなくもないのだった22。
高群逸枝の書物に遭遇したことは、決して単なる偶然ではなく、道子の生きづらさを感じる深刻な苦悩が引き寄せた結果だったのかもしれません。であれば、確かに道子にとって、生まれ変わって生き直すための、このときが「必然の時期」だったということになるでしょう。それ以降、異様な戦慄を覚えながら道子は、自身が名状しがたい何か別物に大きく変貌するにちがいないという予感を抱き続け、煩悶の時を過ごすのでした。
その間道子は、しばしば憲三に宛てて手紙を書き、自身の苦悩と逸枝への追慕の念を伝えたものと思われます。加えて想像するに、水俣にあって道子は、静子を訪ね、自分が宿す苦境の実際を同じく告白したにちがいありません。この期間が三者にとって、濃密な関係構築の時期となっていたことは、その後に続く出来事から判断して明らかなように推量されます。明らかにこの時期、道子は、死に傾く自身を生へと蘇らせる術(すべ)をひたすら逸枝の著作に見出そうとしていました。憲三との手紙のやり取りもしていました。そしてまた、原因不明の奇病が体を麻痺させ、それによりいのちを落とす人間の悲惨な姿に、血筋として自分が宿しているかもしれない狂死の発現を折り重ねるかのようにして、これまた必死になって、この病気と向き合っていたのでした。
そうしたふたりを取り巻く状況のなかにあって、いよいよ憲三と道子が巡り会う日が訪れました。憲三の「共用日記」には、次のような記述が残されています。時は、一九六六(昭和四一)年の五月と六月です。逸枝の三回忌(二周年)にあわせて、憲三が水俣に帰ってきたときのことでした。
五月一六日 静子と石牟礼さん訪問。 六月七日 二周年。……石牟礼さんお花。/ささやかな法事。読経。 六月八日 午後石牟礼さん。世田谷にいきたいといわれる。ごいっしょしていいとはなす。 六月二九日 15じ11分きりしまで出発、一週二週で帰水の予定。石牟礼さん同道。帰りはべつべつか23。
この日記にありますように、五月一六日に、憲三は静子と一緒に道子の家に行きました。憲三にとって道子に会うのは、これがはじめてだったのではないかと思います。しかし、静子の方は、栄町にいたころの子ども時分の道子を知っていました。道子は、こうも書き記しています。
橋本憲三氏の妹の静子さんという人をわたしは幼い頃から知っていた。というのも、水俣川の河口へうつる前に住んでいた栄町に、憲三氏の姉妹のお店がわたしの家の四、五軒先にあったのだ。食品の卸問屋をしておられた24。
道子はまた、次のように、静子のことを書いています。「静子さんは、わたしがどういう育ち方をしたか十分にご存知でいらしたにちがいない。祖母が街中をさまよっていた姿などもしょっちゅうごらんになっていただろう」25。それだけではなく、精神病院を出るや鉄道事故で死亡した道子の弟のことや、道子自身の自殺未遂のことも、静子は知っていたにちがいありません。しかし、静子は、そうしたことを理由に道子を避けるようなことは決してなく、むしろ温かく包み込むような、理解ある態度で接しました。次は、道子による静子についての人物評です。「妹の静子さんは、たいそうのびやかな見かけの美女で、頭脳明晰な人だった。時々お手紙を頂いたけれども、切れ味のある名文である」26。
六月八日の午後、道子は憲三に、「森の家」がある「世田谷にいきたい」と懇願します。しかし、その理由や目的については何も書かれてありません。この間の状況から判断すれば、おおよそ道子は、次のようなことを憲三と静子に伝えたのではないでしょうか。「尊敬する逸枝先生を慕いながら、再び自分は逸枝先生を妣として『森の家』で生まれ変わり、これからの後半生を憲三先生の後添いとなって、逸枝先生とともに過ごしてゆきたい、静子さんを立会人として――」。そのように推測する理由のひとつには、道子が「森の家」で書いた日記の冒頭に、次のような文字が並んでいるからです。
わたしは 彼女を なんと たたえてよいか ことばを選りすぐっているが 気に入った言葉が見つからないのに 罪悪感さえ感じる …… わたしは彼女をみごもり 彼女はわたしをみごもり つまりわたしは 母系の森の中の 産室にいるようなものだ27。
別の箇所で道子は、こうも書いています。
私には帰ってゆくべきところがありませんでした。帰らねばならない。どこへ、発祥へ。はるか私のなかへ。もういちどそこで産まねばならない。私自身を。それが私の出発でした28。
こうした文面を読むにつけ、産室としての「森の家」で、敬愛する妣なる逸枝の子宮に一度帰着し、そこから再び自分が生まれ落ちる――そのことへの道子の避けがたい衝動を、そこから感じ取ることができます。自分の出自、育った家庭環境、そしていまの結婚生活、そのすべてを産湯に洗い流し、別のもうひとりの「石牟礼道子」としてこの世に再誕生、つまりは再生を成し遂げる――何にもましてそのことを、道子は無心に願望していたのでした。
六月二九日、一五時一一分、水俣駅のホーム。その時が来ました。「いよいよ東京行き霧島に乗る。厳粛な気持ち。はじめて夜汽車に乗ることになった。瀬戸内海見えず。関門トンネルに気づかない。憲三氏とつい話しこんでしまったので」29。ふたりは、どのようなことを話題にしたのでしょうか。翌日の午後東京駅に着くまでのおよそ二五時間、ふたりの会話が途切れることはなかったでしょう。実にこうして、六九歳の憲三と三九歳の道子の一昼夜にわたる、生まれ変わりへ向けての厳粛なる道行きが、進んでいったのでした。
道子は、憲三について、こう吐露します。
ほとんど宿命的にかかえこんでしまった故郷水俣の出来事についても、同郷のよしみで直感的に把握していられた。その上突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動をも、たぶん理解されていたのだっただろう。静と動との極点を、わたしはゆきつもどりつせねばならなかった30。
水俣病との対峙、そして逸枝と憲三への恭順、このふたつが、道子の内面を駆け巡っていました。まさしくこの時期に形成された両要素が動力となって、こののちの道子の生涯を先導することになるのです。道子は、それについて、以下のように分析しています。
水俣のことも、高群ご夫妻のことも、一本の大綱を寄り合わせるかのごとき質の仕事であった。二本の荒縄をよじり合わせて一本の綱を作る。人間いかに生きるべきかというテーマを、二つのできごとは呼びかけていた31。
ここに引用した文は、そののちの道子の生涯を規定する極めて重要な言説であるように思われます。といいますのも、まさしく着床された土着的魂に導かれて描かれる普遍的な人類族母の史的再生――これが、その後の石牟礼文学を通底する「人間いかに生きるべきかというテーマ」の原像ではないかと考えるからです。
「産室」となる「森の家」でのふたりの生活がはじまりました。七月三日の日記に、「昨夜、というより今晩(一時)憲三氏(以下K氏と書く)より、ノートの御許し出る」32とあります。これは、尊敬してやまない憲三と逸枝を主人公とする伝記執筆のためのノートを意味します。この伝記は、水俣へ帰郷後、まず「最後の人」と題されて『高群逸枝雑誌』に連載され、そして最終的に、道子が八五歳のときに、『最後の人 詩人高群逸枝』として書籍化されます。それを思うと、まさしく道子の生涯は、これよりのち、「最後の人」とともに歩んでゆくことになるのでした。
同じく七月三日のノート(東京日記あるいは森の家日記)には、こう書かれています。
今夜更に高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った。それは橋本静子氏に対する手紙の形で(つまり、静子氏を立会人として)あらわした。午前三時これを書き上げる33。
その手紙は、次のように書き出されます。
深い感謝の気持でこの手紙を書きます。このたびの上京について、私自身にとっては破天荒なことであり、はためにはずいぶんづかづかとしたお願いを、みなさまによっておききとどけ下さいましたことに、貴女さまの御配慮が全面的に動いて下さいましたことを、その経緯の積み重ねがありましたことを、私は肝にめいじているつもりでございます34。
「高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った」という語句や「静子氏を立会人として」手紙を執筆していることから推測しますと、このとき道子は、女としての自身が寄って立とうとする立場を明確に「誓った」のではないかと思量されます。この手紙には、世俗的な「後添い」や「後妻」といった言葉はいっさい使われていませんが、配慮の「経緯の積み重ねがありました」という字句に目を向けますと、およそこの二年間にあって、しばしば道子は静子に会っては、そのことにかかわって暗に意思表示をしていたのではないかという推断の道が開きます。こうした「積み重ね」が、すでに引用で示しています、「突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動」となって、ここに顕在化したものと思われるのです。しかし、「静子を立会人として、高群夫妻と自分に対して、後半生について誓った」というわずか一語だけに頼って、本当にそれが「後妻」になるという意味を招来する、と即断していいものかどうか――。残されている資料のなかから、この疑問の解消に資するであろうと思われる事例を拾い上げ、以下五点について言及したいと思います。
一点目。「森の家」に滞在中の道子の書くもののなかに、「われわれの森はと云えばそれらの中にそびえ立ち、その夕闇の一瞬を司る」35という表現があります。また、別の箇所では、自身の外出からの帰りを「二時、わが家へ。化粧部屋で着替え」36と表現しています。もし、道子と憲三が明白な他人同士であれば、決して「われわれの森」とか、「わが家」とかいった表現は使わず、それぞれにおいて、事実に即して「憲三氏の森はと云えば……」、そして、「二時、憲三氏の家へ。……」という言葉遣いに、止めるのではないでしょうか。「われわれの」という所有格の表現は、これ以外にも散見されます。
また、憲三と自分を主語として書くに当たって道子は、数箇所で「わたくしたちは」という表現を使っています。たとえば、「秋から冬に入ってゆく空の重さを心に抱いて、わたくしたちは馬事公苑へゆく」37という箇所が、その例に相当します。単なる一介の滞在者であるならば、「憲三氏と私は」と書くのが通例でしょう。「わたくしたちは」と書く以上は、ふたりがすでに極めて親密な関係になっていたことを例証します。
二点目。その年(一九六六年)の一一月二四日、ひと足先に道子は、「森の家」をあとにして水俣に帰ります。しかし、そこでの生活が懐かしく思い出され、憲三に手紙を書きます。以下はその一節です。日付は一二月二〇日。「森の家」の処分がすべて終わり、すでに憲三も水俣に帰っていました。
お話がしたいと思います。お話に飢えています。……わたくしはよく逃げ出していました。トンコたちのように。 おもえばまるでわたくしはあの鶏たちとよく似ていました。……結構お二人にいたわられて、愛されさえして、(実際それは本当でしたから)うつくしくしあわせに暮させていただきました。まるで窓から飛びこむように、彼女の書斎にもお茶の間にも寝室にさえ飛び込んでいたのですから38。
この文にみられる「愛されさえして」「寝室にさえ飛び込んでいた」といった字句に注目するならば、道子は単なるひとりの食客として過ごしたのではなく、この言葉は、明らかに「森の家」での同居中、憲三と道子のあいだに性的関係があったことを示唆します。
三つ目。一九七六(昭和五一)年五月二三日、憲三が死去します。それに際して、主治医が、憲三に死期が迫っていることを告げたのは、静子ではなく、道子に対してでした。
最後の逸枝雑誌、三十一号の編集が終ってしばらくした頃、主治医の佐藤千里氏から、私は、もうあまりお互いの持ち時間がないことを具体的に知らされていた。つらいことだったが実妹の静子さんにその状態を理解してもらわなければならなかった39。
医師はその倫理において、人の生死を安易に他人に口外することはありません。それでは、なぜ佐藤は、肉親である静子に先立って、他人であるはずの道子にまず一番に伝えたのでしょうか。それは佐藤が、戸籍上はどうであれ、また、たとえ同居はしていなくとも、道子が実質上の憲三の内縁の妻であることを、これまでの付き合いを通して、すでに知っていたからにほかなりません。「もうあまりお互いの持ち時間がない」という表現に、そのことが十全に凝縮しているように感じられます。
四つ目。憲三が亡くなって四年が過ぎた一九八〇(昭和五五)年のこと、『高群逸枝雑誌』の終刊号が発行されます。道子は、「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」を表題にもつ一文を寄稿します。そのなかで道子は、次のように語ります。
……本稿は『高群逸枝雑誌』の発刊と終刊に立ち会いながら、ただただ無力でしかなかったひとりの同人として、森の家と橋本憲三氏の晩年について、いまだに続いている服喪の気持の中から報告し、読者の方々への義務を果したい40。
道子は、没後四年が立ったいまも、喪に服しています。これは、仕事上の限定された仲間関係の域を超えるものではないでしょうか。「森の家」での生活から憲三を看取るまでの一〇年間、道子は、水俣病闘争へ身を投じているさなかにあっても、こころは途切れることなく憲三に添い続けました。「喪主」であるとの隠された自覚は、次の最後の五番目の事例にみられるように、おそらく、その後引き続き最晩年に至るまで道子の心情の海底を支配していたにちがいありません。ここは、「高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った」という道子の言葉が、決して偽りではないことを信じたいと思います。
また、「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」のなかには、「わたしたちの逸枝はしかし、詩人としての出発に当ってまことよい理解者にめぐまれたといわねばならない」41という一文があります。注目すべきは「わたしたちの逸枝」という表現です。つまり逸枝は、単に「憲三の逸枝」ではなく、もはや「憲三と道子にとっての逸枝」という位置づけがなされているのです。理由は何でしょうか。逸枝は『孌愛論』のなかで「寂滅」という用語を使っています。本人によれば、その語が含意するところは、「他の新生命への發展」です。「森の家」を離れるとき、「寂滅(□□)の言葉はゆうべたしかめあった」42と、道子は書きます。つまり、この時点で、逸枝と憲三と道子の三つの巴はすでに一体化しており、そうした共有化された認識があったればこそ、「わたしたちの逸枝」という表現がここで現前化したものと考えられます。
いよいよ最後に五点目として。「最後の人」の初回が、『高群逸枝雑誌』の創刊号に掲載されたのは、一九六八(昭和四三)年のことでした。それから数えて四四年後の二〇一二(平成二四)年、藤原書店から単行本となって世に出ます。この『最後の人 詩人高群逸枝』の巻末には、藤原良雄による「高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」と題されたインタヴィュー記事が収められています。
――憲三さんから逸枝さんのことをお聞きになって、憲三さんの姿もそばで見ておられて、[憲三さんのことを]そう思われたのですね。 はい。憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が新鮮でした。おっしゃることも、しぐさも、何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる。 ――「最後の人」というのはどういう思いで。 こういう男の人は出てこないだろうと。 ――憲三さんのことを。 はい。高群逸枝さんの夫が、「最後の人」でした43。
このインタヴィューのとき、道子はすでに八五歳になっています。亡くなる五年と数箇月前のことです。「最後の人」という題を道子が考えついたのは、「森の家」滞在中の一九六六(昭和四一)年の秋でした。
たぶんこのような一文を草せねばならぬ日が確実におとづ(ママ)れるのを予感しながら、あの「森の家」の一室で、ノートの表題を「最後の人」と名づけたのだった。 「最後の人としたのですか。なるほど、うん。よい題だなあ」44。
このとき憲三は、道子にとっての「最後の人」が自分であることを十分に理解していたことでしょう。それから時が流れ、道子にも最期が近づいてきていました。『最後の人 詩人高群逸枝』の出版とほぼ同じ時期、道子は、新作能「沖宮」を書きます。著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』の第一二章「道行――いざ妣たちが迎える天草灘海底の〈沖宮〉へ」において詳述していますように、描かれているのは、少年天草四郎と五歳のあやの、海底(うなぞこ)に沈む〈沖宮〉への道行きです。事実上の絶筆となるこの虚構空間において、おそらく道子は、自覚された死期が近づくまさしくこの時期に、四郎に憲三を託し、あやを自分自身に見立て、現世で果たせなかった実相を、悲しくも美しい幻想世界に置き換えて、誰にはばかることもなく、そのすべてを表出したのではないかと愚考します。
かつて道子は、「森の家」から静子に宛てて、次のような手紙を書いていました。
うつし世に私を産み落とした母はおりましても、天来の孤児を自覚しております私には実体であり認識である母、母たち、妣たちに遭うことが絶対に必要でした。…… つまり私は自分の精神の系譜の族母、その天性至高さの故に永遠の無垢へと完成されて進化の原理をみごもって復活する女性を逸枝先生の中に見きわめ……そのなつかしさ、親しさ、慕わしさに明け暮れているのです。そして私は静子様のおもかげに本能的に継承され、雄々しいあらわれ方をしている逸枝先生のおもかげを見ます45。
この言説から判断すれば、〈沖宮〉に住むいのちたちの大妣君は、まさしく逸枝その人であり、周りでそれを支えるいのちたちが、藤野であり静子であるということになります。かくして、逸枝、藤野、静子といった敬愛する妣たちが住む死界の〈沖宮〉へ向けて、読経がとどろき渡るなか道子は、最愛の「最後の人」である憲三に導かれて旅立つのでした。
以上に述べてきました五点を根拠として、私は、「森の家」での同棲生活にはじまる憲三と道子の親密な交わりを、男女関係のあり様にかかわる、現実世界に規定されるところの特殊なひとつの愛の形態とみなしたいと思います。その上に立って私は、「静子を立会人として、高群夫妻と自分に対して、後半生について誓った」という一語を、これよりのち憲三の「後添い」つまりは「後妻」となって生涯を生きてゆくことを契った道子の決意の表明であると解釈します。ここに、橋本静子の立ち合いのもと、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子の三つの巴が誕生し、生涯の強靭なきずなとなって、この巴はひたむきに生き抜いてゆくのでした。これを、逸枝の恋愛論に謳われる「寂滅」の完成形とみることもできるかもしれません。この間、数々のこころない罵声が憲三に浴びせられました。それに対して道子は、静子とともに毅然として闘いました。絶筆となる新作能「沖宮」において、道子は憲三に守られながら、恋い慕う妣たちである逸枝、藤野、静子の三人が待つ、天草灘の海底の死界へと向かいます。こうして、大妣君高群逸枝を巡る一大叙事詩は幕を下ろしたのでした。
上に見てきましたように、はっきりと道子は、『最後の人 詩人高群逸枝』において、自分にとっての「最後の人」が橋本憲三であることを、世に告白しました。この本の刊行から六年後の二〇一八(平成三〇)年二月、道子は帰らぬ人となりました。享年九〇歳でした。
それからおよそ四年が立ち、藤原書店から『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26、二〇二二年刊)が世に出ます。これは、多くの論者による論考を集めたもので、そのなかに、女性史研究家の岡田孝子の「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」が所収されていますので、ここに紹介します。
岡田は、「もうこれ以上の素晴らしい男性は出てこない、『最後の人』だと石牟礼道子にそこまで思わせた橋本憲三とは、どのような人物だったのか」46という問いを発します。しかし、『最後の人 詩人高群逸枝』に書かれていた記述内容は、岡田にとって驚きの連続だったようです。岡田が驚きの読後感を書き並べた箇所を、少し長くなりますが、以下に引用します。
「そこしか、わたしの身を置く場所はなかった」とはどういうことなのか。夫の弘や息子のいる水俣の「家」は、彼女の居場所ではないのだろうか。告白めいたことばでもある。しかも、この後さらに彼女は「その後の著書はすべて『椿の海の記』に至るまで、師が最初の読者、批評家であった」という。逸枝に対してと同じようなことを憲三は道子にしていたことになる。 「森の家日記」の十一月六日のメモは、なかなか衝撃的でもある。 「晴れ 弘より手紙、ガックリ、内容空疎」 当時の彼女の心境が実にリアルに記されていてドキッとさせられてしまう。それに、その前の七月五日には「彼女の遺品――帽子とオーバー――着てみよとおっしゃる。そのとおりする。鏡をみてみる。よく似ているとのこと。感動」。 七月十一日の日記は、さらに読む者に戸惑いを与える。「木立の中の深い霧。私の感情も霧の中に包まれてしまう。しかしそれは激烈で沈潜の極にあるものだ。沐浴。今朝の私は非常に美しい、貴女は聖女だ、鏡を見よと先生おっしゃる。悲母観音の顔になったと見とれる」。 このような記述が随所にあり、また、道子は甲斐甲斐しく一人住まいの憲三の食事から身の回りの世話までしている。全体を流れる不思議な関係の、それもどこか悩ましささえ漂う雰囲気を私は感じてしまうのだが、これは考え過ぎだろうか。……彼女は何を思い、『最後の人』で伝えようとしているのか47。
岡田は、『最後の人 詩人高群逸枝』に書かれてある、「森の家」での憲三と道子の同棲生活がどうにも理解できないようです。これまでに自分が獲得した憲三像と、この本のなかで道子が語る憲三像とが一致せず、混乱に陥ってしまったのではないかと思われます。ふたつの像の乖離を、もろさわようこの「高群逸枝」を引き合いに出して説明する箇所がありますので、同じく以下に示します。
一九五二年、初めての出会いの時、もろさわようこの目に映った憲三は「膝のつきでた古いズボンをはき、ちびた下駄をせかせか」と鳴らしながら歩き、「都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人」だった。十年余の後、病院で再会したものの、「大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった」し、「おもいを妻に密着させ、他者への配慮を欠く憲三の自己中心的な態度」「偏屈な男」等々と描写していて、石牟礼道子が描く憲三像とはあまりにもかけ離れている。道子は「一人の妻に『有頂天になって暮らした』橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しく典雅で、その謙虚さと深い人柄は接したものの心を打たずにはいなかった」と記しているのだから48。
もろさわのこの「高群逸枝」の文にみられる憲三についての外見差別(ルッキズム)的描写は、明らかに人権侵害であり、名誉棄損であるように考えられますが、岡田はこれにいっさい意を用いることなく、平然ともろさわの言説と道子のそれとを並置し論じており、これは、極めて問題的ではないかと思料されます。
以上が、批判を交えた、岡田の論文の中心部分の概要となります。引用で示していますように、岡田は、こう書きました。「石牟礼は何を思い、『最後の人』で伝えようとしているのか」。それであれば、「岡田は何を思い、「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」で伝えようとしているのか」と、問わなければなりません。以下に、三つの観点からそれにかかわって考察します。
まず一点目、道子の「貞操」に関連して。
繰り返しの引用になりますが、岡田は、道子の「貞操」に関して、このように書き、暗に批判をしています。
「そこしか、わたしの身を置く場所はなかった」とはどういうことなのか。夫の弘や息子のいる水俣の「家」は、彼女の居場所ではないのだろうか。…… このような記述が随所にあり、また、道子は甲斐甲斐しく一人住まいの憲三の食事から身の回りの世話までしている。全体を流れる不思議な関係の、それもどこか悩ましささえ漂う雰囲気を私は感じてしまうのだが、これは考え過ぎだろうか。
このとき道子には夫と息子がいますので、「森の家」の憲三との同居生活は、明らかに、世にいう「不貞」を犯したことになり、岡田の批判は、当然ながら、それなりの正当性をもちます。したがいまして、私は、岡田の言説を否定するつもりはありません。しかしながら、資料に残されている道子の置かれている状況についてもある程度の理解はできますので、あえてここに、「森の家」に駆け込まざるを得なかった道子の苦境を、少し長くなりますが、関連する資料に語らせてみたいと思います。
すでに書いていますように、石牟礼道子(旧姓吉田)は、一九二七(昭和二)年三月一一日、白石亀太郎を父とし、吉田ハルノを母として、亀太郎が当時建設事業に携わっていた熊本県天草郡宮野河内において出生しました。それから数箇月後、一家は、八代海(不知火海)を挟む対岸の水俣町に帰ってゆきました。亀太郎は吉田家の婿養子でした。ハルノの両親が松太郎とモカで、道子が物心ついたときのモカは、すでに精神に異常をきたしていました。石工である松太郎には、「おかねさん」と呼ばれる妾があり、そのことが主な誘因となって発症したようです。道子は、母のハルノよりも、祖母のモカの膝に抱かれて育ちます。
彼女は、私をひざの上にのせて頭をさすりながら、しわぶくようなやさしい声で、 どまぐれまんじゅにゃ泥かけろ 松太郎どんな地獄ばん(ばい) おかねがまんじゅにゃ墓たてろ どこさねいたても地獄ばん こっちも地獄 そっちも地獄 と呟いていました49。
続けて道子は、さらに自分の家の複雑さについて、こう語ります。
おさな心にも祖母のうたの意は心にしみてわかりましたし、松太郎とはわたしの祖父、おかねさんは祖父の権妻だと近所の小母さん達が教えますし、松太郎と祖母の間にわたしの母と(母)の妹、松太郎とおかねさんの間に母の異母妹、弟とがいてこのような家のムコになった父とがみんな同居しているありさまはちょっとした人間図絵でした50。
道子はのちの文においては、「おかね」ではなく、「おきや」という呼び名に置き換えて使っているのですが、その「おきやさま」について触れた箇所がありますので、以下に引用します。
祖父とその妾おきやさまとの間に生まれたみすずと兼人の二人だが、まるでこの世に来たことを申しわけないとでも思っているかのような生前であった。わたしの両親は、いわば胎ちがいの妹と弟とを何くれとなく気にかけて面倒をみていた。本妻が狂女であったことに気を兼ねていたのだろうか、この二人はそれとなくへり下っている様子があって、それがいじらしかったのかもしれない51。
このころ吉田家は、石屋として水俣の栄町通りに居を構えていました。『石牟礼道子全集』別巻に所収されている「わたしの栄町通り」(石牟礼道子自筆絵地図)によると、この通りには、風呂屋、髪結い、豆腐屋、飲食店、米屋、仕立て屋、遊郭、染物屋、鍛冶屋などが並んでいました。橋本憲三の姉の藤野と妹の静子が経営する商店も、この通りにあり、道子の家とは目と鼻の近さでした。「橋本家は食品をまかなう卸問屋で、お酒や炭俵、米麦、砂糖などを扱っておられた。小さい時には、お使いで黒砂糖などを買いに行っていたものだ」52と、道子は振り返ります。
藤野と静子が最初に店を開くのは、一九三三(昭和八)年の秋、水俣町古賀町においてでした。店は繁盛し、その後栄町に移ります。したがいまして、栄町通りで静子と道子が顔をあわせるようになったのは、静子が二三歳、道子が六歳のころのことだったのではないかと思われます。そのころ高群逸枝は、夫の橋本憲三の助けを受けて、東京の「森の家」で女性史研究の緒につきます。そのようなわけで、まだこのときの道子にあっては、藤野と静子が、高群逸枝の義理の姉妹であることなど、知る由もありませんでした。
道子の祖母のモカは、「おもかさま」と呼ばれ、父の亀太郎がとくにそうであったように、周りから大事にされていました。しかし、道子が回想するところによると、「どういう気持ちで徘徊するのかわかりかねるが、おもかさまは時々、人さまの家の前に立って、ひとり言をいう癖があった」53。ひょっとしたら、橋本商店の前に立って、何やらぶつぶつと口走る「おもかさま」の姿があったかもしれません。そうした「おもかさま」を引き取りにゆくのは、亀太郎やハルノだけではなく、幼い道子に課せられた大事な仕事でもありました。「気狂いのばばしゃまのお守りは、私がやっていたのです。ばばしゃまは私のお守りをしてくれていました。……ばばしゃまは雪のふる晩はとくに外に出たがり、疲れはてた母たちが寝ると、私はばばしゃまを探しに出ます」54。道子はまた、こうも書きます。「私も栄町の表通りを、裏返しにした着物を着て、裸足でよその家の前に立って、何か呟いている祖母を連れ帰しに行ったことがたびたびあった」55。
栄町には、「末広」という遊郭がありました。遊女たちは「おもかさま」をやさしく扱っていました。あるとき、「末広」でひとつの事件が起こりました。以下は、道子の回想です。
末広はじまって以来の器量よしのぽん太さんが殺されたというので、起きぬけに飛んでゆくと、半畳位血のしみこんだ畳が、夕方になると首白粉を塗って彼女が腰かけていた番台に、立てかけてありました。…… 番台に並んでいる淫売のひとたちは、並はずれてみんなやさしく陽気そうで、私も大きくなったら淫売になってやろうと思っていました56。
道子にとって栄町での生活は、そう長くは続きませんでした。八歳ころのときでした、祖父の松太郎が事業に失敗したことにより家が傾き、「差し押さえ」という苦難に遭遇したのです。そこで家族は、水俣川の河口にある当時「とんとん村」と呼ばれていた集落へと住まいを移します。粗末な小屋のような家でした。渚に出て魚介類や海藻といった海の幸に親しむことはできたものの、近くには火葬場や伝染病を扱う病院もあり、ここは、住むには決していい環境ではありませんでした。
道子の父の亀太郎は、精神を病み目が不自由な義理の母親である「おもかさま」には、とても愛情を示す人でしたし、そののちに道子が結婚したおりには、自力で家を建て与えてもいます。道子は、こう回顧します。父親は、「水俣川が氾濫するたびに集めておいた流木や、この町で一番先に乳牛を飼っていた人からゆずられたという材木を持ってきて、掘っ立て小屋まがいの新居を手作りで建ててくれたりした」57。
しかし亀太郎は、家族からは恐れられる一面ももっていました。
父は酒乱な上、泣き上戸でしたが、栗飯と茶碗が飛び散って、母が裸足で外に飛び出たあと、こわれた火鉢に「ちょく」という焼酎瓶を据え、「ミッチン、汝(われや)、このお父っちゃんにつきあうか」といって、冷たい盃をぶるぶるこぼしながらつきつける。私は……好かん、と思いながら、フーンと鼻で返事して、その盃を何べんも受けました。夜市で見たこわい「地獄、極楽」の中のやせた「餓鬼」たちが青い舌をたらんと出している、それを思い出し、父に似ていると思ったのです58。
精神錯乱の母に酒乱の夫――道子の母親のハルノは、「大変な苦労をしながら、没落した家を天性の明るさで支えてきた」59と、道子は語ります。後年のことになりますが、亡くなる一週間くらい前、道子がそれに触れると、ハルノは、悲痛な表情になり、こう答えました。
なんの苦労じゃろか。あたいが十歳時分の頃じゃった、おもか様があのようにならいましたのは60。
そしてしばらく無言が続き、そのあとハルノは、こうつなぎました。
子供の頃は遊びにも行かず、泣き狂うて彷徨(さまよ)うおっ母さまの手を取りながら、あたいの方が親にならんばと思いよった。機(はた)織りの名人と言われよったがなあ61。
道子は、このようにいいます。「こういう家庭の中で育った私にも、狂気の血が伝わっているに違いない」62。
一九四五(昭和二〇)年八月、日本は終戦を迎えます。そのとき一八歳の道子は、小学校の代用教員をしていました。そして二年後、結婚話が持ち込まれます。そのときのことを、次のように道子は、述懐します。「結婚はまとまった。……家にいると弟たちの邪魔になりはすまいか、また口減らしをしなければ、という思いもあり、弟の友人というのが何よりありがたくて、ゆく気になった。……いまひとつ思ったのは、吉田姓であるよりも石牟礼姓を名乗った方が、ペンネームのようで面白い。……父は並々ならず石を尊敬していたから、石牟礼弘という弟の友人と式を挙げることになった」63。嫁入りに際して、父親の亀太郎は、道子にこう言い渡しました。「おなごは三界に家なし、というたもんぞ。いったん嫁にいったならば、二度とわが家に戻ってくると思うな」64。これを聞いた道子は、「わたしは強い衝撃を受けた」65とも、「わたしは大混乱に陥った」66とも、書いています。「おなごは三界に家なし」を、「子ども時代には親に従い、嫁いだあとの生活では夫に従い、夫を看取り年老いたのちは成人した子に従う」という意味に解すれば、女には安住の地はどこにもなく、現世は地獄、死したのちにやっと極楽にたどり着くことになります。このとき、女の生涯とは何なのかと、道子が疑問と怒りを感じたとしても、無理のないことでした。
そうしたこともあって、道子にとって結婚は、決して胸躍る出来事ではありませんでした。このように道子は述べています。
いわば私ははじめから妻というものになる気持ちはなく、その相手方を主人というものにする気もなかったようです。多分私は、かの女性ホルモン欠乏症愛情疾患の第二期的病状を呈していたのだと思うのです。愛情って何よと、私はうわごとをいいつづけました67。
それでは道子は、弘のことをどう呼んでいたのでしょうか。「十二年間一緒に暮らしている男の人のことをほかの人に、私はちかごろうちの先生は、というようです。ためらいためらい、そういってみるのです。その前はあの子のお父さんがとか、万やむを得ない場合はごくまれには「あの、シュジンが」といってしまいますが、いった直後、顔から火の出る思いがいたします」68。道子の夫の弘は学校の教師をしており、結婚翌年の一九四八(昭和二三)年に、長男の道生を道子は出産していました。「うちの先生」と呼ぶ自身の夫について、道子は、このようにも描写します。亀太郎が娘夫婦のために新居として小屋をつくるとき、弘も手伝っていたようです。
……若い父親は流木などを拾い集めて、三人の小屋をたて、もともと貧乏な私はその小屋を……ひそかに気に入ってもいたのです。でも小屋の中の生活はそういう訳にはゆきません。自分の目ざしているモラルと、彼の目ざしているモラルがなかなか接近しません。両方のモラルが接近しないというより、私は自分のモラルを満たしてくれない相手を憎みはじめていました69。
この時期、道子の苦悩は深刻でした。「田舎の嫁の一人としての疑問から始まって、代用教員を体験したり、化粧品や靴下を売ったり……そういうことをしながら思っていたことは、自分が今の世に合わないということだった。近代とは何か、という大テーマがわたしの中に根付きつつあった」70。
一九五二(昭和二七)年、熊本市で蒲池正紀が主宰する歌誌『南風』の会員になります。次の一首は、そのころ投稿した道子の作品です。
狂えばかの祖母のごとく緣先より けり落とさるるならんかわれも
この自作について道子は、このように解説します。
この祖母が青竹をもって全身をふるわせて叫びだす時、祖父はおどり出して行って祖母をけり落とすのです。祖母は如何にも悲痛に、チクショウになれ、チクショウになれえとしぼるようにいうのです。私はそれで、人間が一番呪われた状態になるのは、チクショウというものになるのだとおそろしく思ったものです71。
別の箇所で道子は、この作品について、次のようにもいっています。「これは私の二十代はじめのころの一連の作品で、この一連をちいさな短歌同人誌に出したとき、同人達はなんだかぎょっとして、批評の対象外の作品と思ったらしく沈黙した」72。そして、こう続けます。「日常的風詠が出されているサロン風の場所に、このような歌を持ちこんだのは……ゆき場がなくて……魂が吐血した状態だったにちがいない」73。さらに言葉が展開します。「この祖母も祖母の怨恨の元凶であった祖父の臨終もわたしが看取り、暫くするとこんどは弟が、精神病院から帰ってすぐに、汽車にひかれて死んだ。私の家系には狂死が多いのである」74。亀太郎とハルノの夫婦は、道子を長女として、そのあとに三人の息子とひとりの娘を設けますが、このとき鉄道事故でいのちを落としたのは、道子にとってはひとつ違いの弟の一(はじめ)でした。一には、三歳に満たない幼子がいました。そのときその童女は、「霜の立ちこめる枕木の間をかがみかがみ……文字どおり紅葉の掌に、死んだばかりの父の足の小指(おゆび)を拾いあげ、ちいさなエプロンのポケットに大切そうにおさめた」75。痛ましい弟の自死は、水俣湾の周辺の漁村で多くのネコ(猫)が死に、原因が不明のまま中枢神経疾患の患者が散見されるようになる年からおよそ五年が立った一九五八(昭和三三)年の晩秋のことでした。道子は書きます。
……おなじく前後して自殺したふたりの友人たちや、わが家系につらなってくるものたちの、かなしい微笑が浮かんでは通る。 後年、凄惨きわまる図絵がくりひろげられる水俣病事件史の中をゆくことになった。その経過の中で窮死した父を含めて、このものたちの微笑に、わたしは導かれていた。その生と死とをふたたび生き直しながら、自分の中に狂気の持続があることを、むしろ救いにも感じていた76。
一方で、水俣病の事件が社会に認知されるようになるなかで「窮死した父」の胸の内を、その娘は、次のように、なぞってみせます。
彼は自分の足がふるえる時ふと汽車にひかれて死んだ息子の、千切れた足を思い浮かべる。忘れかけていた娘のことを想い出す。親不孝者どもめ。彼は娘は嫁にやってからアカがかってきて、奇病のことなんかを書いているらしい長女のことを思う。親はどげん世間のせまかか。……呉れた娘に、白石亀太郎は、野垂れ死しても、世話にはならんぞ。会社に弓ひいたりなんのして77。
引用文中の「アカがかってきて」というのは、道子の日本共産党への接近を意味するのでしょう。入党は一九五九(昭和三四)年です。しかし、翌年には離党します。「奇病」は水俣病を指し、「会社」は、水俣病の原因企業とされる、新日本窒素肥料株式会社を示します。
弟の死は、道子にとって大きな衝撃だったにちがいありません。しかし、自身もこれまでに、未遂に終わりはしましたが、一度ならずもその経験がありました。三度目は、結婚直後のことでした。『評伝石牟礼道子――渚に立つひと』の著者の米本浩二は、「八八歳の道子に三度の自殺未遂について聞いた」78。それに対する返答は、次のようなものでした。
死にたかった。虚無的な気持ちが小さい頃からありました。なぜ死にたいか。ひとつには、この世が嫌いでね。今も嫌いですけど。よく我慢して生きてきたなと思う。悲しい。苦しい。それを背負ってゆくのが人間だと思う。嫌でたまらないから、ものを書かずにいられないのでしょうか79。
すでに引用で示していますように、「自分が今の世に合わない」という思いが、道子の心の底にうごめいていました。自殺への誘惑も、そのことにおそらく起因していたのでしょう。しかし、まだ生きている。それでは何を力としてこれから先、生きてゆけばよいのか――道子はそう自問したにちがいありません。そしてその問いは、「ものを書かずにいられない」という、強い衝動を道子にもたらしたものと思われます。かくして道子は、自分の悲しみや苦しみを全身から吐き捨てるかのように、他方でその気持ちを、他者の同じ状況に柔らかく重ね合わせるかのように、ものを書く作業に入ってゆくのでした。いわば、「我慢して生きる」ことの代償行為としての文筆活動が、ここにはじまるのです。しかし、死の誘いから生の延伸へとうまく接合させるには、どうしても必要なものがありました。それは、「生まれ変わり」あるいは「生き直し」にとって必要不可欠な、生存能力の再獲得のための祭儀としての装置でした。道子にとってのその祭祀舞台は、どこからもたらされ、どのようなかたちをとりながら構築されていったのでしょうか。見る限り、高群逸枝の『女性の歴史』(上巻)との衝撃的なこの時期の出会いと、「森の家」での橋本憲三とのおよそ五箇月に及ぶ生活とが、まさしくそれに相当するものであったのではないかと、私は、理解するのです。
たとい生い立ちとその後の結婚生活とが困苦を極めるものであったとしても、「貞操」の尊さは、いかなる場合にあっても守り通さねばならないという強固な性道徳観が、一方にあることは承知しています。しかしながら、耐えかねて自死を繰り返すも、それを達成できずに生き残った人間にとって残された道は、言葉は尽きませんが、自らの「生き返り」「再生」「蘇生」「生まれ変わり」「生き直し」ではないでしょうか。道子は、引用していますように、このころの自分を「魂が吐血した状態だったにちがいない」という表現をしています。これは、自身の手ではもはやいかんともしがたい極限の苦しみと悲しみを言い表わした言葉のように感じられます。こうした人間にとって、「魂が吐血した状態」からの解放、つまり「魂の蘇生」は、あって許されるべきものではないかというのが、私の思料するところです。もしここに、死守すべきものとして「貞操」を、換言すれば、操正しきをもって女の鏡となすといったような形式論的規範論を持ち出せば、道子の真っ暗闇の極限状態にさらに重しを載せることになりかねません。私は、これでは人間誰しも生きてゆけず、溺れかけている人間にこれ以上の過酷さを科すことは控えなければならないと信じているのです。
家を出るときの母親について、息子の道生は、後年こう回想しています。
普段は優しい母が突然、「東京へ行く」と言い出した。私としても進学のことやそれなりに青春の頃の悩みもあった。「大人になれば解かる時が来る」と言いながら「ほんとうの悲しみと言うことが解かるかおまえに」と何もこんな時に言わなくても良いではないかと思ったがそれ以上、何も問えなかった。母のただならぬ気配を私なりにその時感じた。「今、私はしんからおまえに伝えておきたいと思っていることがあるのよ」とも言い出した。父母から劣性の能力と感性しか遺伝しなかった私でもこのような「もの言い」の境地に立ち至った時の母の凄味だけは感じることが出来ていた。高群逸枝様のご主人、橋本憲三様に導かれての「森の家」訪問は母にとって重要な契機となったと自ら記しているが父にも私にとっても大きな衝撃であったし今後のありようの契機となった80。
注釈は何も必要ありません。本当に重い言葉であると、私は受け止めます。
次に二点目として、逸枝の「貞操」に関連して。
岡田は、「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」において道子の「貞操」にかかわって問題視していましたので、私は、考察の一点目として、上にあって道子の「貞操」問題を取り上げて論じました。一方岡田は、逸枝の「貞操」についても何か述べているかといえば、「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」において何も述べていません。そこに若干の疑問が生じます。そこで参考までに、逸枝の「貞操」について、ここで考察しておきたいと思います。
逸枝は手製の『少女集』(熊本市立図書館所蔵)のなかで、「操、厳かなる操の下に、いつ枝は清く住まんとぞ思ふ」と書いていましたし、憲三と会ってすぐにしたためた「永遠の誓い」には、「私はあなたへの永遠の愛を誓います。私に不正な行為があったら、あなたの処分にまかせます」81との文字が並んでいます。
逸枝が熊本から出京するとき携えていたのが、完成したばかりの「放浪者の詩」という詩集でした。これが、新潮社から出版されるのは、一九二一(大正一〇)年六月で、「長詩」「短歌連作」「短歌」から構成され、目次に先立ち「序」があり、それは、二三のアフォリズムで成り立っていました。ここに、この時期の逸枝の思考のすべての断片が、箱詰めされているように感じられます。以下は、その最初の言辞です。
一、放浪者は何の貞操ももたない82。
ここにある「貞操」を、女性にとっての性的関係の純潔さの保持という意味に解するならば、姦通罪を規定する当時の刑法に照らしてこのアフォリズムは、極めて挑発的で反逆的な様相を帯びます。これについては、逸枝は、自著の『私の生活と藝術』(一九二二年、京文社)のなかで、弁明しています。
それから四年後の一九二五(大正一四)年、逸枝が家出をして三日後の九月二二日の『東京朝日新聞』七面は、「高群逸枝家出す/夫を棄てゝ情夫と共に/紀州で自殺の恐れ」という見出しをつけて、こう報じました。
市外東中野一七二四橋本憲藏(ママ)の妻高群逸枝(三〇)は十九日午後五時過ぎ、同家に寄宿する夫憲藏の友人で、元日向の新しき村にゐた藤井久一(ママ)(二九)と共に二通の遺書を残したまゝ家出した…… 十九日之を知つた憲藏は全く失神せんばかりに驚いて直ちに警視廰に捜索願を出すと共に廿日午後五時半紀州那智山に向かつて急行したが兩人は情死のおそれがある由
「夫を棄てゝ情夫と共に」という見出し、そして、本文末尾の「兩人は情死のおそれがある由」の文言は、明らかに、憲三と逸枝の気持ちから、大きく乖離するものでした。その後、逸枝は、この記事により世間からの不要な批判や誤解にさらされることになるのです。
最後に、もうひとつ、事例を挙げておきます。逸枝も憲三も、すでに黄泉の客になったのちの話です。
一九七六(昭和五一)年九月に、『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』と題された私家版(国立国会図書館デジタルコレクション個人送信にて閲覧可能)が発行され、そのなかに、松本正枝の「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」という一文が掲載されています。この私家版が発行されたとき、『婦人戦線』の最終号の刊行年から数えて、すでに四五年が経過していました。「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」のなかで、松本は、自分の夫と逸枝の「恋愛事件」を暴露し、次のように、書いたのでした。
ラブレターを先に女性から手渡されてどうして男性がそれを受けないでいられましょう。「据膳食わぬは男の恥」という言葉を英一が教えられたのはその時だったでしょう。思想的に大いに共鳴しあいしかも肉体的に喜びを分ちあえる友はそうざらにいないでしょう。彼女は橋本氏にないものを彼に見出したのでしょう83。
このように松本正枝は、自分の夫の英一と逸枝のあいだに、肉体関係があったことを、誰にはばかることもなく、明言するのです。しかし、もはや逸枝も憲三も、それについて釈明も反論もする機会はありませんでした。
以上、私は、逸枝の「貞操」に関する事例を幾つか挙げて、紹介してきました。しかし、岡田は、「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」において、いっさい逸枝の「貞操」を問題にすることはなく、この文を、次のような言葉をもって結びに代えるのでした。
しかし、『婦人戦線』の最終号、「森の家」に閉じこもる直前に掲載された短編「みぢめな白百合花の話」は、当時の逸枝の心境を物語っているように、私には思えてならない84。
そのあとに、逸枝が書いた「みぢめな白百合の花」から短い一節を引用して、この岡田の「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」は終わります。こうして岡田は、とくに実証も論証もすることなく、暗に、憲三に虐げられる逸枝の孤独感を言外に漂わせながら、その姿を、いかにも「みぢめな白百合の花」であるかのごとくに、読み手に印象づけるのでした。「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」という主題には、どう見ても対応していない、的外れの幕切れです。道子の、「最後の人」である橋本憲三との「森の家」での同居生活がどうしても理解できないという窮地のなかから生まれた、思わせぶりな結論としかいいようがありません。
岡田の、道子の「貞操」に向けられたまなざしからすれば、逸枝の「貞操」についても問題視していいはずなのですが、岡田はいっさいそれに触れることなく、逸枝の疎外された悲哀のようなものを匂わせて、この文を閉じます。私はここに、少なくない疑問を感じます。岡田の文の副題は「望月百合子・高群逸枝・石牟礼道子――『最後の人 詩人高群逸枝』を読む」です。なぜここに望月百合子が登場するのか、その必然性に疑問がないわけではありませんが、とりあえず望月は除外し、高群逸枝と石牟礼道子のふたりに限って念頭に置くならば、なぜ岡田は、「貞操」に関して、道子に対しても逸枝に対しても同じ視点から論じないのでしょうか。なぜ岡田は、道子の「貞操」をしきりと問題視するも、一方の逸枝については「みぢめな白百合の花」として哀れむのでしょうか。その理由は、本人の意識あるいは無意識のなかにあるものでしょうから、ここでは、憶測や詮索は控えますが、おそらくは隠された意図があるにちがいありません。もし仮に、道子の「貞操」を嫌悪し、同時に、逸枝の「貞操」を否定するならば、岡田のこの論考は崩壊し、破綻する可能性があります。私の思料するところでは、このふたりの女性の実際の歴史を好意的に受容しようとするのであれば、道子の場合は「現世に適応できない女の魂の生き返り」という文脈から、他方逸枝の場合は「原始社会における女の純白な恋心」という文脈から、かかる「貞操」問題については肯定的な見地に立つ必要があるのです。思うに、前者の文脈が、現世に生きる人間の生存苦からの救済を願う石牟礼文学の、後者の文脈が、原始古代に生きた自由な女性の再来を希求する高群史学の、まさしくその源泉になるものではないでしょうか。いずれにいたしましても、ここに見受けられる不公平で恣意的な岡田の姿勢は、道子に関しても、逸枝に関しても、さらには、このふたつの文脈の重要性に気づいていた編集者たる憲三に関しても、適切な理解を産み落とすことのない、整合性を欠いた不毛なアプローチではないかというのが、私が考えるところです。換言すれば、私の見るところでは、憲三なくしては、逸枝の学問も道子の文学もなかったでしょう。つまり、三人は分かちがたい、離れることのありえない「三つの巴」となってこの世に存在しているのです。
岡田は、こう書きました。「石牟礼は何を思い、『最後の人』で伝えようとしているのか」。それであれば、「岡田は何を思い、「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」で伝えようとしているのか」と、問わなければなりません。
それでは最後に、その問いの三点目となる、もろさわようこの「外見差別」の援用に関連して、考察を進めます。
これも再度の引用になりますが、岡田は、「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」のなかにあって、もろさわの言説と道子のそれとを並べて、こう書きました。
一九五二年、初めての出会いの時、もろさわようこの目に映った憲三は「膝のつきでた古いズボンをはき、ちびた下駄をせかせか」と鳴らしながら歩き、「都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人」だった。十年余の後、病院で再会したものの、「大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった」し、「おもいを妻に密着させ、他者への配慮を欠く憲三の自己中心的な態度」「偏屈な男」等々と描写していて、石牟礼道子が描く憲三像とはあまりにもかけ離れている。道子は「一人の妻に『有頂天になって暮らした』橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しく典雅で、その謙虚さと深い人柄は接したものの心を打たずにはいなかった」と記しているのだから。
ここで描かれている言辞を、原文に沿って再生してみます。もろさわについては、こうです。
やや小柄で口数のすくない憲三は、同じ部屋うちのはすむかいの机に、ときおり姿をみせたが、外交的で気配たくましい陽気な女たちの出入り多い場所柄のせいもあってか、来たのも帰ったのもまわりがあまり気づかぬ目立たぬ人だった。憲三は少年のおり傷つけた左眼が失明しているため、首をいささか左にかたむけ、肩をいからせ勝ちにしていた。物資のない戦中に使われた粗末ななわ編みの古びた買い物袋をいつも下げて持ち、膝のつきでた古ズボンをはき、ちびた下駄をせかせか飛び石に鳴らして、婦選会館へ入ってくる彼は、その気配に都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人でもあった。それから絶えて会うことがなく、十年余の歳月があったのだが、彼は当時と同じく、大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった85。
最初この文を読んだ私の目には、疑うことなく憲三に対する外見差別(ルッキズム)であると映りました。そしてまた、この一文は、明らかに人権侵害と名誉棄損が表出されている、ある種悪質な描写であるとも思量しました。なぜ岡田は、こうした文を引用するのでしょうか。私には、極めて疑問に感じられます。
他方、道子の言辞は、岡田の引用と変わりありませんが、出典も含めて、このようになります。
一人の妻に「有頂天になって暮らした」橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しく典雅で、その謙虚さと深い人柄は接したものの心を打たずにはいなかった86。
もろさわの「高群逸枝」を読んだ静子は、すでに第四節「市川房枝とその仲間の言動への反論とその後について」において詳述していますように、このように反論しました。
兄憲三をいわれもなく侮辱されていますし、二人の四十五年の共生が憲三の卑しい志のゆえんであったと、意図してお書きになっているように思います。憲三には、いずれも「婦選会館」のかかわりで二度の面識と言われながら、二回の瞥見で他人の七十九歳の生を斬られたことは無謀だとおもいました87。
しかし岡田は、もろさわの文は「支援者の側から描いたためか、憲三批判を冒頭に置いた異例な評伝で、憲三の妹、橋本静子が怒りをあらわにした文章を『高群逸枝雑誌』終刊号に載せている」88と書くのみで、静子の「もろさわよう子様へ」の内容には踏み込まず、具体的にいっさい何も触れていません。なぜなのでしょうか。憲三の妹の、しかも無名の女の文など取るに足らないものであるとして無視し、切り捨ててしまったのかもしれません。
また、『高群逸枝雑誌』終刊号には、静子の「もろさわよう子様へ」と同じく、道子の「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」も掲載されています。静子の文が、もろさわの「高群逸枝」に対しての直接的な反論であるのに比して、道子の文は、間接的な反論、換言すれば、憲三の美質の積極的な開陳によって成り立っています。なぜ岡田は、この道子の「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」への言及を避けたのでしょうか。はなはだ疑問です。
実際のところ、憲三の死に際して、静子も道子も、こころからの献身的対応をしています。以下は、道子の文からの引用です。病床にありながらも憲三を思う姉の藤野の気持ちも、よく伝わってきます。なかに出てくる「佐藤さん」という人物は、憲三の主治医の佐藤千里で、佐藤の母親と逸枝が幼年時代の同期生でした。
静子さんこの十日間ほとんどお睡りにならない。…… 佐藤さん、午後からほとんどつきっきり、いよいよフェルバビタール打たねばならぬようになったようですとおっしゃる。お悩みのご様子。 先生のお姉さんの藤野さんが、若主人におんぶされておいでになる。そしておんぶされたまま肩越しに、よく透る声で、 「憲さぁん、憲さぁん!姉さんが面会に来たばぁい。もう、もの言わんとなあ」 とおっしゃる。そのお声の愛情、哀切かぎりなく、先生の寝息と交互に、 「おお、思うたより、やせちゃおらんなあ。憲さぁん、うつくしゅうしとるな」 静子さんも佐藤さんも髪ふりみだしている、たぶん私も。徹夜89。
この文の初出は、「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」です。一部字句の修正はありますが、『最後の人 詩人高群逸枝』に再録されていますので、岡田の目に止まっているものと思われます。憲三とはわずか二回しか顔をあわせたことのないもろさわの外見差別的な言説を信じるか、静子とともに憲三の最期を必死に看取った道子の、憲三に寄せる実感としての言説を信じるか、それは人さまざまでしょうが、比べれば、その信頼性なり信憑性は、明らかなように思われます。
岡田は、こう書きます。
石牟礼道子に師と慕われた橋本憲三だが、彼への評価は意外なほど否定的なものが多い。もろさわようこの評伝「高群逸枝」(『文芸復興の女たち』、『近代日本の女性史』第二巻)は、その一つに挙げられる90。
もろさわの「高群逸枝」の文にみられる憲三についての外見差別的描写は、明らかに人権侵害であり、名誉棄損であると思う私にとって、疑問に感じられることは、何ゆえに岡田は、この文を自分自身の曇りのない目を通して再検討することもなく、平然と援用しては、憲三についての旧弊なる悪評の再生へとつなげていったかという点です。ここに、はしなくも私は、「彼への評価は意外なほど否定的なものが多い」という認識の、無批判的で無自覚的な、安易なる拡大再生産の実相に遭遇すると同時に、たとえば世俗にいう「長い物には巻かれろ」とか「虎の威を借る狐」とか「寄らば大樹の陰」いったようなことわざの去来に直面するのです。
以上、「道子の『貞操』に関連して」「逸枝の『貞操』に関連して」、および「もろさわようこの『外見差別』の援用に関連して」の三つの視点から、岡田孝子の「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」を考察しました。
蛇足ながら終わりに一言、申し添えます。石牟礼道子の「朱をつける人」の副題は「森の家と橋本憲三」です。したがいまして、ここで論じました岡田悦子の「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」とは、同じ主題のもとに執筆されていることになります。しかし、道子と岡田の寄って立つ立場にも、両者が書き記した内容にも、明らかに雲泥の差が認められます。おそらく思考の差異や価値の違いに由来するものでしょうから、どちらが正しく、どちらが間違っているかについての言及は無意味でしょう。しかしながら、私自身は、道子の置かれている状況に共感し、道子が、憲三が、そして静子が愛して止まなかった高群逸枝の側に寄り添っていることを、ここに告白せねばなりません。そして、それと同じ視点から、次の山下悦子の「小伝 高群逸枝」に対しても、批判的に検討してゆきたいと思います。
一方、『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』には、女性史家で評論家の山下悦子の「小伝 高群逸枝」も所収されていますので、これについても、触れておきます。山下の文の特徴は、西川祐子の『森の家の巫女 高群逸枝』や栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』と同じで、一次資料(エヴィデンス)からの引用を示す注番号も、したがって出典の明記もなく、本文内容の真実性を再検証することは事実上困難となっており、一次資料によって実証されることを本義とする伝記というよりはむしろ、逸枝の人生に関する個人的な視点からの感想文ないしは解釈文として読むしかありません。それだけではなく、逸枝の墓碑の図版キャプションを「詩碑『望郷子守唄の碑』」とするといった、信憑性に著しく欠く箇所も見受けられます。記述されている内容は、概略、逸枝の思いに理解を示さない自己中心的で欺瞞的な性格をもつ憲三をからませながら、疎外された逸枝の苦悩の人生を描き出しています。おおかたこれは、これまでしばしば逸枝の伝記や評論にみられた記述の観点と手法を踏襲したものといえます。以下に、その一例を挙げてみます。山下は、「森の家」の売却益に着目し、こう述べるのでした。
橋本が石牟礼に語った一〇〇〇万円(当時のお金)しか残らなかったという言葉が事実に基づくかは疑問も残るが、森の家を売って今のお金でいえば数千万から億単位の資産を得たことは間違いない。こういった事実から筆者に見えてくるのは、高群逸枝は徹頭徹尾「無産者」を貫いた人であり、無欲の人、「放浪者の詩」を生きた人だったということである。 若い頃、妻子を持つことは負担になるからと瞬間恋愛説をいい、金持ちの後家との結婚が理想だなどと言って高群を悩ませた橋本だったが、かなりの財産を稼ぎ、財を残して死んだ高群は、最高の女性だったということになるだろう。ぼろ着をまとい、栄養失調になるまでやせ衰え、死ぬ直前まで研究し続けて……91
全編においてそうなのですが、この引用文にも、高群を哀れんでは擁護し、憲三を利己主義者とみなしては切り捨てようとする著者の思惑がよく表われています。もしこれを、逸枝や憲三なり、また、静子や道子なりが読むことができたとするならば、どう反論したでしょうか。いまや四人とも永眠の身にあります。そこで、彼らの無念の思いに耳を傾け、私なりに、以下に三つの視点から代弁してみます。
第一の視点――売却代金の収入と支出の観点から。
山下は、「森の家」の処分に伴う収益についてしか言及していません。正しく憲三を知るためには、そのお金が何に使われたか、つまり、収入と支出の両面から検討する必要があり、このままでは、明らかに片手落ちというべきものであって、読者に間違った印象を与える原因にもなりかねません。憲三は、公園への転用を計画する世田谷区に「森の家」を売却すると水俣に帰還し、一階を実家の商品倉庫に、二階を雑誌の編集室と自身の居室に使う、二階建ての家をつくります。また、逸枝の遺骨を納めるために石造の大きな墓廟をつくります。その正面左手には、彫刻家の朝倉響子に製作を依頼した逸枝のレリーフがはめ込まれました。さらに憲三は、逸枝の業績を顕彰する目的で、季刊の『高群逸枝雑誌』を、死が訪れるまで刊行し続け、没後の終刊号(第三二号)は、静子の編集により世に出ます。この雑誌には、いっさい広告はありません。編集や出版にかかわる費用も、全国の主要な大学や図書館への配送料金も、すべて自前によります。この間、豪華な食事を楽しんだり、美酒に酔いしれたり、外国はもとより、国内にあってさえも旅行へ出かけたりした憲三の形跡は残されていません。ひたすら清貧に甘んじ、こころから逸枝を追慕する日々を送るのでした。
ここで重要なことは、あくまでも当時の具体的金額によって、収入と支出の全体的バランスを明らかにすることではないかと愚考します。そうすれば、憲三が、逸枝への恭順の思いのなかにあって、いかほどの金子を実際に使ったかがわかり、自ずと正しい憲三像が見えてくるはずです。つまりは、ふさわしい地道な調査をしたうえで、換言すれば、公平で正確な動かしがたい証拠(エヴィデンス)に基づいて、もしするのであれば、憲三の品行を云々すべきであったものと思われます。そうしたことがいっさいなされず、単に憶測による収入の面だけを強調して、一方的に憲三を、「財産を稼ぎ、財を残して死んだ高群」の遺産を喜び勇んでわがものにする、あくどき「有産者」の夫であるかのように、にべもなく断罪しているところに、この山下論考の異質性を見出すことができるのです。
第二の視点――逸枝と憲三の夫婦像の観点から。
果たして逸枝は、意に反して、夫に服従するようなかたちにあって、「ぼろ着をまとい、栄養失調になるまでやせ衰え、死ぬ直前まで研究し続けて」いたのでしょうか。これもまた、思い込みや印象に頼らず、一次資料を根拠として問われなければならなかったものと判断します。以下に、逸枝の憲三の夫婦としての愛のかたちについて、断片的ではありますが、一次資料に語らせてみます。
逸枝が家出をし、迎えにきた憲三と再会を果たした一九二五(大正一四)年九月二八日の逸枝の日記からの引用です。
私の非常識および行為、衝動、それらは私にとっては一種の宿命であって、私はそれにうちかつことはできない。それの生む汚名、不名誉は、私一人が負うべきこととして、いままでは苦しんできたが、夫は私をはなさないから、では私はそうした決心をすてよう。そして夫にいだかれた誇りとして夫をぜったい信頼し夫とともに生きかつ死のう。そうするしかほかない92。
憲三が旅館で逸枝に渡した手紙が、憲三から逸枝への愛の誓いとするならば、この九月二八日の日記文は、さながら逸枝から憲三への愛の誓いとして読むことができそうです。
次は、ふたりが会って四五周年になる一九六二(昭和三七)年の七夕前夜に、逸枝と憲三が誓い合った言葉です。
われらは貧しかったが 二人手をたずさえて 世の風波にたえ 運命の試れんにも克ち ここまで歩いてきた これから命が終わる日まで またたぶん同様だろうことを誓う そしてその日がきたら 最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない すべてを土に帰そう93
さらに、逸枝と憲三の夫婦に向ける道子のまなざしを、以下に二点、引用します。
それにしても、憲三にむけてのみ終生積極的に愛を訴え、それを確認したがり、共に「完成へ」と歩んだのは、よくよくその夫を好きであったと思われる94。 私どもが夫妻の生き方に心をゆすぶられてやまないのはなぜなのか、愛の形はいろいろあろうけれども、この二人においては徹底的に相手に対して真摯にむきあい、慢性的な弛緩やなれあいが、みじんも感ぜられないからであろう95。
このように、全くの他人である山下の言説を一方に置き、片や一方に、当事者である逸枝、憲三、道子の言説を置いて対照してみますと、その違いが鮮明に浮かび上がってきます。両言説は、はっきりと完全に分かれるのです。どちらが適切な観察でしょうか。それはもはや言を俟たないのではないでしょうか。こうした山下の言説を知れば、想像するに、逸枝も憲三も、そして静子も道子も、草葉の陰にあって、無念の情に駆られたにちがいありません。いまや四人とも人間界を離れ他界の地にあります。そこで、彼らが抱くであろう屈辱の情念を私なりに受け止め、あえてここに、以下の文を引用してみます。これは、逸枝の文で、自身と夫憲三との関係を示したものです。
私の人生はすべて受け身に終始したように思われる。-はじめは父に従い後には夫に従った。……この点では、私はいわゆる受け身の労働者ではあったけれど、また主動的な開拓者であり、この場合には、父と夫は、私への命令者でも、また、かいらい師でもありえず、その反対でさえあった。以上のような相互関係にあることが父、夫の希望でもあったともいえよう。 彼らは、私の教育者であるとともに、また未知なる私への期待者であり、俗語でいえば物質的精神的な投資家でもあったろう96。
逸枝は、「私の人生はすべて受け身に終始したように思われる」と書きます。これを逸枝は、自分の欠落点として「優柔不断」とも「曲従」とも「奴隷根性」とも呼びました。そのことは、逸枝には自ら主体的に、自身の人生の枠組みをつくったり、物事への対応方法を構築したりする能力に欠け、その部分に関しては夫の憲三にすべてを依存していたことを意味します。逸枝は還暦を前にして、次のように日記に書き記しています。
逸枝よ。銘記せよ。弁証法は、自分ひとりの心のなかでなせ。 右のように規定したところ、私はひどくさびしくなり、生気がなくなった。私には「社会」がなくなった。夫は私の「社会」であったから。……つまり自主性がないのだろう97。
ここで重要なのは、自分には「自主性がない」だけでなく、自分に開かれた「社会」がまさしく夫であったことを、妻の逸枝本人が自ら認めていることです。しかし、ひとたび憲三によって枠組みが与えられるや逸枝は、「感情革命」をとおしての定型詩から自由律詩への転換において、アナーキズムの論戦において、そして女性史学の開拓においてそうであったように、実行や実践という地平にあって、周りの予想と期待をはるかに超えるその能力を発揮するのでした。これこそが、「物質的精神的な投資家」としての「夫の希望でもあった」のです。「教育者」であり「投資家」である夫と、「労働者」であり「開拓者」である妻の相互信頼関係の精緻が、最終的に、ふたりが求める愛の「一体化」を招来していったものと私は考えます。
「教育者」であり「投資家」である夫と、「労働者」であり「開拓者」である妻――このふたりの関係を示すひとつの事例を以下に引いておきます。逸枝の言葉です。
東京に出ることは、若い貧しい私たちには必至的な運命であって、いちどは二人いっしょに出ようとしたが、収入のあるものがのこって、そうでないものを助けるという常識的な考えにおちついた98。
そして、このとき憲三は、「私の出京については生活費は保障するから、むりなことはしないようにといってくれて、だまって旅費百円を本の下において帰った」99。そして、東京に着いてからは、「Kからは毎月三十円送ってきた」100のでした。
この事例が示すように、逸枝と憲三は、それぞれがもっている資質を最大限に生かすために互いに支え合っているのであって、山下が示唆するような、搾取/被搾取あるいは抑圧/被抑圧といったような関係において成り立っているのではありません。山下は、憲三にしてみれば、「かなりの財産を稼ぎ、財を残して死んだ高群は、最高の女性だったということになるだろう」といいますが、この言説が、いかにこの夫婦の実態からかけ離れた独断的なものであるかは、明らかでしょう。といいますのも、逸枝の憲三に向ける思いは、次のようなものだったからです。
たまに夫が外出すると、その留守のさびしさはたまらない。もう帰るか、帰るかと、門に出て待ちくたびれる。こういう私という女はなんといったらいいだろう。とても学者の型ではない101。
一方の憲三が逸枝に寄せる情感も、全く同じであったものと思われます。不足の部分を相互に補って「一体」となって生きてきたふたりです。山下が夢想するように、「かなりの財産を稼ぎ、財を残して死んだ高群は、最高の女性だった」などと、本当に逸枝の死去に際して憲三は思ったでしょうか。一方が死んだとき、残った一方が、いかに悲しみの淵にあったのか、山下と違って私は、そのことに思いを馳せます。
それでは、あえてここで、収入や資産に関する、逸枝その人の言説を引用しておきましょう。
私は、夫の扶養ということを、可能不可能とは全く別にして、生来的に問題にしたことがない。それと同時に、結婚後の同居生活では、近代個人主義とは別に-それは非難しないが-徹底的に共同だった。夫はなんの介意なしに私のえた印税を処理した。夫の収入に対する私の態度も同じだった102。
この逸枝の言葉をもって、山下の言辞がいかに異質なものであるかを示す証拠にしたいと思います。山下が書くように、「高群逸枝は徹頭徹尾『無産者』を貫いた人」であったわけではなく、逸枝本人が書くように、逸枝と憲三は、「徹底的に共同」を貫いた人だったのです。「資産は共有、作品は合作」であることを自認する逸枝が、もし山下にみられる、こうした自身についての、真意から遠く離れた身に覚えのない記述を読むことができたならば、なぜ、どのような意図があってこのような虚妄を弁じるのか、恐怖感さえ襲ってきたものと推量します。
第三の視点――伝記執筆の観点から。
山下がいうように、果たして憲三は、まともな服も食事も与えず、妻に強制労働を強いては巨万の財をなした、本当に無慈悲な夫だったのでしょうか。
山下が書く前段の「若い頃、妻子を持つことは負担になるからと瞬間恋愛説をいい、金持ちの後家との結婚が理想だなどと言って高群を悩ませた橋本だった」という文言は、『高群逸枝全集』(第一〇巻/火の国の女の日記)のなかの、「彼は理想的な妻の像を、『金持の若後家』に発見した、と私にいってきかせた。彼女はたぶんあらゆる点で負担にならない存在でありうるだろうから、と」103の一文に由来しているのではないかと想像しますが、それに続く後段の「ぼろ着をまとい、栄養失調になるまでやせ衰え、死ぬ直前まで研究し続けて」という、憲三によって虐げられた様相を含意させる文言につきましては、どうしてもそれに関する出典が確認できません。実証主義を重んじる私にとっては、不信の一語がよぎります。ひょっとすると、本稿第三節の「高群逸枝の臨終に関する市川房枝とその仲間の言動について」においてすでに紹介していますように、戸田房子が自作の「献身」において坂本滋子に、「だまされつづけた鷹子が」「日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか」104と語らせていますので、それに倣ったのかもしれません。しかしこれは、あくまでも小説であり、真実を書いたものではありません。
ここに、私は、伝記書法の本義に立って、ふたつの疑問をもつことになります。
一点目は、なぜ山下は、何ひとつ根拠(エヴィデンス)を示すことなく、こうした言説を披歴するのかという点です。追検証の機会を閉ざしているということは、記述内容の真実性が担保されていないことを意味します。明らかに恣意的な言説といわざるを得ません。これでは、やすやすと歴史の歪曲へとつながってゆきます。
二点目は、なぜ山下は、前段と後段のふたつの話を強引に結び付けるのかという点です。前段は、逸枝と憲三が城内校において最初の同居生活を送った一九一九(大正八)年の話で、後段は、逸枝が亡くなったあと憲三が「森の家」を売却する一九六六(昭和四一)年の話です。この間四七年の歳月が流れています。人はこの間成長し、思考の代謝を成し遂げます。さらにはまた、もし後段の話に焦点をあわせて語ろうとするのであれば、四七年も前の話を持ち出すのではなく、同時期の話でもって、裏づけるべきではないでしょうか。この場合大事なことは、第三者である私が多弁や強弁を弄すのではなく、当事者たちが書いている歴史的資料に語らせることではないかと思量します。そこでまず、晩年に至るまでの節目で、逸枝が憲三に示した思いを三点、拾い上げて以下に引きます。次に、逸枝が死亡するころの逸枝、憲三、静子、道子のそれぞれの言辞を同じく三点、揺るぎない証言として、続けて引用します。
憲三の仕事からの帰宅を待つ逸枝は、自分が家出をしたとき旅館で渡された憲三からの手紙を読み返していました。そしてそこに、書き込みをします。おそらくこれが、これよりのち死が訪れるまでの、逸枝の憲三に対する偽らざる思いであると考えられます。
大正十四年十二月十日夜。まだお帰りになりません。今夜もこのお手紙を出して見ました。もう何処にも行きません。あなたに仕えようが足らないとき、私はこのお手紙を出して見るのです。 私とあなたとがこの地上から去って後もたぶんこのお手紙は残りましょう。私は王様のお姫さまよりなお幸福です。夢と血と愛をえて、天国に行くことができるのですもの。 あなたも私も地上では貧乏な夫婦でございます。人はみな誤解しています。けれども何一つ私をいまはあなたから裂くものはない上に、私はよろこんであなたとならば死を迎えましょう。私ほどの生の執着をもった女でも、この不可思議な事実を心のなかに確かめうるとは、まあ何て不思議でしょう。愛がはるかに死よりも強いことを今私は知り、この上なく喜んでいます。いつでも もう 死ねますから。このさき幾年生きるでしょう。なるだけおじいさんとおばあさんになるまで生きましょうね。私はまだ仕えかたが足りませぬ。心ゆくまでつくしてからなら、何の思い残すこともない105。
次は、逸枝の「留守日記」のなかから引用する一節です。一九四一(昭和一六)年に死去した父親の辰次の三周忌にあわせて憲三は水俣に帰ります。「森の家」に残る逸枝は、その間の思いを「留守日記」に綴りました。
ご飯をたべてきた。はじめて新しく炊いた。のりとざぜん豆のおかず。夫にもよそい、お茶も二人ぶん。上にあがると、きのうとおなじ夕焼けである。窓からみていると、あの欅の下から夫がやってくるような錯覚がおこる。こたつに火をいれる。むこう側の夫の影にあいさつして机にむかう。影はふかく頭をたれてねむっている。ああまた日没時だ。風がさびしい。かきおとしたが、のこりのぼた餅をたべた。ちょうどお母さんが夫からもらってたべてくださったであろう時刻に。つめたくはあるが、うまかった。いまごろ水俣ではどんなだろう106。
三点目として、静子に宛てて書かれた逸枝の手紙の下書きが残されていますので、その一部を引用します。逸枝は、自身の女性史研究が、夫である憲三との「合作」として成り立っていることを自覚しているのでした。
主人のすゝめで、いまの仕事をはじめた時から、私は一身上の娯楽も名利心もすてゝしまい、戸外一歩も出ないで暮しています。主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない「女性史」を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです。だからこの仕事は、名前は私ですが、主人と私の合作です107。
ここからは、逸枝が死亡するころの逸枝、憲三、静子、道子のそれぞれの言辞です。同様に三点、拾い出してみます。まず、逸枝と憲三の病室での会話です。
私「私はあなたによって救われてここまできました。無にひとしい私をよく愛してくれました。感謝します」。 彼女「われわれはほんとうにしあわせでしたね」。 私「われわれはほんとうにしあわせでした」。力を入れてこたえ、さらに顔を近づけて私が「……」というと、彼女ははっきりうなずいて、「そうです」といった。 彼女は心からそれをゆるし、そしてよろこんでいるのだった。いまこそわれわれは一心になったのだ108。
次は、静子の言辞です。
逸枝は死の床で、「自分もお兄様を神様とおもっている」と、私にこたえています。[全集が]自分の手に成っていれば、巻末には、二人で歩いた越しかたの感慨をかたり、深い愛をかたり、感謝の言葉で結んだことを私は確信いたします。…… 二人が意中としたものは、「男は女を支配しない女は男を支配しない共同の社会」であり、そして「愛は創造するもの」とのぞんだのです。私はそう受け取っています。憲三は憲三の得手をふるい、逸枝は逸枝の得手で志に向かったもので、逸枝は先生、憲三は生徒、先生と生徒の落差を家事などで埋めた同志、同学、そして夫婦です。学問に志せば憲三は普通水準、逸枝は天才でした109。
最後に、道子の言辞を引用します。
深い感動の中にいて、「花さし遊(アシ)び」の中の朱つけの儀式、素朴な木の臼に腰かけているナンチュと、その額にいましも朱をつけるようとしている根人の姿に、著者には高群逸枝とその夫憲三の姿が重なって視え、涙ぐまれてならなかった。 逸枝がいう憲三のエゴイズムは、男性本来の理知のもとの姿をそのように云ってみたまでのことであったろう。その理知とは究極なんであろうか。久高島の祭儀に見るように、上古の男たちは、懐胎し、産むものにむきあったとき、自己とはことなる性の神秘さ奥深さに畏怖をもち、神だと把握した。そのような把握力のつよさに対して女たちもまた、男を神にして崇めずにはおれなかった。そのような互いの直感と認識力が現代でいう理知あるいは叡智ではあるまいか。 憲三はその妻を、神と呼んではばからなかった110。
山下が持ち出した後段の話、つまり、「ぼろ着をまとい、栄養失調になるまでやせ衰え、死ぬ直前まで研究し続けて」という文言に、山下は、妻の生き血を吸うような憲三の残忍さを含意させたかったのでしょうが、以上紹介した言説からは、それを裏づけるものは何ひとつ見出すことはできません。明らかに静子がいうように、逸枝と憲三は、「憲三は憲三の得手をふるい、逸枝は逸枝の得手で志に向かったもので、逸枝は先生、憲三は生徒、先生と生徒の落差を家事などで埋めた同志、同学、そして夫婦」でした。換言すれば、あの神話のなかの「双頭の蛇」にも似た、あるいは、「ナンチュと、その額にいましも朱をつけるようとしている根人」の姿にも似た、双方の存在と役割を認め合い、互いに互いを「神と呼んではばからなかった」、まさしく見事に「一体化」を成し遂げた同志同学の夫婦だったのです。そして、その学問的成果は、逸枝本人が認めるように、ふたりの「合作」として誕生したのでした。
上に紹介した逸枝と憲三の夫婦が実際に書き残した言説や、静子や道子のようなみぢかな人間によって観察された不動の証言を無視してまで、全くの赤の他人が、証拠を示すこともなく、いたずらによく知りもしない夫婦の世界に土足で踏み込み、無残にも両者を引き裂くようなことはあってはならぬものと私は承知します。なぜならば、いうまでもなく、たとい死者であろうとも、そこには毀損することのできない名誉と、侵害することのできないプライヴァシーとが、厳然と存在するからです。誰しもが、上の引用文(家出をしたときに渡された憲三からの手紙への逸枝の書き込み)のなかに示されている次の文言、つまり、「何一つ私をいまはあなたから裂くものはない」という、憲三に寄せる逸枝の熱い思いを、いついかなる場合においても、謙虚な姿勢にあって反芻すべきであろうと、私は確信します。
伝記というものは、まず主人公の、次にその周囲の人びとの、書きしたためた一次資料をもとに実証および論証しながら、時間の流れと文脈とに沿ってその人生を描いてゆくものですが、山下の手法は、それとは大きく異なり、四七年前の「妻子を持つことは負担になるからと瞬間恋愛説をいい、金持ちの後家との結婚が理想だ」という憲三の言説を引っ張り出しては、最晩年にあっての逸枝は「ぼろ着をまとい、栄養失調になるまでやせ衰え、死ぬ直前まで研究し続けて」いたという、妻に対する憲三の非人間的な抑圧行為の根拠に使います。しかし、繰り返しになりますが、この間示してきた幾多の引用からもわかるように、憲三の妻への残虐行為を立証するにふさわしい一次資料(エヴィデンス)は、いっさい存在しません。果たしてこれが、伝記執筆の本道といえるのか、私には、はなはだ疑問に思われますし、さらにいえば、こうした記述をもって、人は「悪意」とか、あるいは「偏見」とか、いうのではないでしょうか。「悪意」や「偏見」からは、真実に肉薄して人の生涯が描き出されなければならない正当な伝記は、決して生み出されることはないというのが、私の譲ることのできない信念です。
以上、「第一の視点――売却代金の収入と支出の観点から」「第二の視点――逸枝と憲三の夫婦像の観点から」「第三の視点――伝記執筆の観点から」の三つの視座から、山下悦子の「小伝 高群逸枝」のもつ問題点を考察しました。
しかし、これをもってすべての問題が抽出されたというわけではありません。まだ問題が残っていますので、もう少し考察を続けます。
本文を書き終えたところで山下は、こう書きます。「最後に、ここでは高群逸枝の死後、一二年間生きた橋本憲三に触れる予定だったが、枚数の関係で別の機会に譲りたいと思う」111。筆が止まった理由は、「枚数の関係」もあったのかもしれませんが、それだけではなく、石牟礼道子が『最後の人 詩人高群逸枝』のなかで書いていた、橋本憲三との親密な関係を理解することができなかったことに、多くの要因があったものと推量します。つまり、逸枝を抑圧する夫として憲三を見立て「小伝 高群逸枝」を草した自身の観点と、憲三をして典雅なわが恩師であり自身の「最後の人」とみなす道子の観点との両極にあって、山下自身、どうしても折り合いをつけることができなかったのではないでしょうか。そこで、そのことにかかわって、高群逸枝、橋本憲三、橋本静子、石牟礼道子へ向けられた、著者である山下悦子のまなざしがよく現われている箇所を拾い出し、少し長くなりますが、以下に引用してみます。
「憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が鮮明でした。おっしゃることも、しぐさも。何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる」。「こういう男の人は出てこないだろうと」「高群逸枝さんの夫が『最後の人』でした」という石牟礼の言葉を読んだとき、石牟礼と橋本のワールドが見えてきたのだ。それは明らかに高群逸枝の世界とは別のものである。 夫と息子のいる石牟礼は三九歳、橋本六九歳の森の家での奇妙な同居生活(六月二九日~一一月二四日)。この間同居生活を導いた橋本の妹橋本静子の真意も筆者には理解し難いものがある……。馬事公苑へ行った時のこと、「先生」とわたくしの表現が「わたくしたち」、「わたくしたち」とかわる場面があったり、肉感的な表現も見え隠れする箇所があったりと、それが何を意味するのかというような意味深な表現も多々ある本が『最後の人』なのである。…… [憲三から道子は]眼鏡をプレゼントしてもらい、中村屋のカレーを食べといったような楽しいデートを森の家に籠ってからの高群は経験したことはなかったのではと思うと、なにか割り切れないものを感じる。橋本のために甲斐甲斐しく食事の世話もする石牟礼は高群とは違い、伸びやかな性を発散できるタイプの女性であり、橋本は石牟礼に高群を重ねるというより、三〇歳も年下の石牟礼との同居生活に楽しさを感じていたのではないだろうか。…… 高群の死後のこととはいえ、森の家での若い女性との奇妙な同居生活、しかもそれに協力した橋本の妹静子(高群にとっては小姑)という事実に対し、多くの女性はいい感情をもたないのではないか112。
「小伝 高群逸枝」の末尾にこのように書く著者は、本文の記述内容においてと同じく、あくまでも憲三を、妻に曲従を強いり、支配しては劣等感に陥らせようとする、理解しがたい異質の人間としてみなしているといえます。あたかも、自分にわからないものは否定し排除しようとするかのような視線です。自分の観点を死守するためかもしれませんが、そうしたまなざしは、周りの橋本静子にも石牟礼道子にも、同じく向けられるのでした。静子の役割、道子の思いへの共感は、ここには微塵もありません。このことは、とりもなおさず、裏を返せば、逸枝と憲三に対する全き理解の不在を意味します。
上の引用にありますように、山下は、「この間同居生活を導いた橋本の妹橋本静子の真意も筆者には理解し難いものがある」と書きます。すでに道子につきましては詳しく言及していますので、そこで最後に、静子の名誉のために、以下に、一次資料を援用して、静子の人物像の一端を描き出しておきたいと思います。
最初は、憲三に連れられて逸枝が橋本家をはじめて訪れたときの様子です。逸枝は、こう描きます。
義父は長髯をたれた偉丈夫で正義の人、寛容の人であり、義母は私の母と似た愛そのものの人だった。その他にあたたかい兄姉弟妹たちがいた。私はKにつれられてこの家をたずねると、すぐにとけこんでしまった。この点で一生を通じてひじょうに幸福だった113。
とりわけ「一生を通じてひじょうに幸福だった」のは、妹の静子の存在でした。逸枝は、静子を、こう描写します。
お母さんの叡智と美しい容姿は、妹(静子)がそっくりうけついでいるといってよいが、ちがうところは、妹には近代的知性がくわわっていることであろう。この妹は、私が嫁したときは九歳の少女であったが、成長とともに、私のふかい理解者になってくれた114。
逸枝本人が述べるように、静子こそが、生涯にわたる逸枝の最大の理解者でした。この静子の存在に目が向かない山下は、もはやその時点においてすでに、逸枝の人生と業績についての全くの無理解者ということになるのではないでしょうか。
次は、一九四〇(昭和一五)年の四月二九日に、逸枝が静子宛てに書いた手紙の一節です。英雄は、静子の夫です。
おたよりありがたく拝見、お写真なつかしくなつかしく。先日は英雄さまこまごまお手紙まことにうれしく存じました。…… 私が年とって動けなくなったらあなたが養ってくださるってありがとう。感謝します。 あと十五年――私たちもそうすればよぼよぼになることでしょう。喜んで静子さんのところへ帰りたいと思っています115。
次は、一九五六(昭和三一)年の八月一一日、憲三に宛てて書いた静子の手紙からの部分的引用です。
店の近くに広い土地つきの頑丈で古風な大きな二階作り……の家があるのを求めました。……兄さん達が年をとられて寄り添って暮らしたいと思われるとき、いつでも来ていただいてよいために。いつでも行って暮らしてもよい処があると思われるだけで今安心してお仕事なさっていいわけです。 兄さん達も含めて、老後の暮らしがたつように設計をたてています。(静かな、樹木のあるよい処です)…… いつでもお出になってください。それまでは、ただおしごとだけを、と思っています。 借金をしましたが、それはちゃんとした目あてがあるのですから心配はいりません。しばらくは苦労しますが、兄さん達のためと、私達のために頑張ります116。
一九六四(昭和三九)年六月の逸枝の死去から一九六七(昭和四二)年二月の全集の完結まで、およそ三年の歳月が費やされました。その間憲三は、「森の家」にひとり残って、執筆と編集の作業に当たります。そして、その最初のおよそ二年間は、水俣に住む妹の静子がしばしば訪れては、憲三の身の回りの世話と仕事の手伝いをしました。このように憲三は書いています。
東京第二病院にあなたを見舞いに航空機で飛んできてくれた夫妻、とりわけあなたが愛した静子。あなたの没後、医者通いをしながら自伝「火の国の女の日記」を整理したり、書き継いだりしているひとりぼっちの私をみかねて、二た月のうちの二週間ずつ十回ぐらいやってきて何彼と援助してくれた静子117。
一方で静子は、「森の家」の庭の様子を、実に情感豊かな文で書き表わします。以下は、その一部です。
通称「森の家」の四季を見た訳ですけど、野鳥が運んだ糞の中の種子の植物がいろいろの種類で自生していました。鳥たちはどこからとんで来るのか、群をなして幾群かで一日中を訪ねていました。 栗の実を拾い、むかごを採り、ポポの木は大きくなってしまって、もうたべきれない程、胡桃の木もあって、リスだか野ねずみだか見たことがあります。柿の実は固く熟して甘く、二階の窓からも採れました。ゆすら梅の甘ずっぱい赤い実、姉が書斎にしていたところの前にはぶどう棚があって、いっぱい実りました。少しクリーム色の入った白のバラは、お葬式の時の写真にもあざやかに写っています。木戸の入口から玄関までのフェルト草履の感覚、あれは、何十年だか住んでいたあいだ中の落葉がかき集められて作られたのだそうです118。
このあとも、静子の細やかな自然観察が、清楚な文となってさらに続いてゆきます。
静子の文については、道子が、こう評しました。「妹の静子さんは、たいそうのびやかな見かけの美女で、頭脳明晰な人だった。時々お手紙を頂いたけれども、切れ味のある名文である」119。同じく憲三も、静子の文を高く評価します。次は、道子が聞き取った憲三の静子評です。『高群逸枝全集』が完結したのちの「別巻」(写真集)刊行を構想するときのことでした。「静子にも書かせる。アイツは凄い文を書くんだから。子守りしながらヒョイヒョイあんな葉書でも書いてよこす」120。また憲三は、道子にこのようなこともいっています。「あいつは編集者になるとよかったがな。逸枝の仕事を高く評価してくれて、仕送りのしがいがあると言っていましたよ」121。
次は、もろさわようこの悪意ある評伝「高群逸枝」を読んで、もろさわに手紙を書いたときの静子の心情です。
あたたかい陽ざしの此の頃を、兄夫婦の墓家と下段の私どもの墓家を毎日訪ねています。レリーフによりかかりますと、途端に私は八歳の少女になり「イツエねえちゃん。どうしよう?」とたずねます。「静子さん、もういいのよ。あなたもここにいらっしゃい」と声が返って来たように思いました。人は皆、死ぬことに決まっているのに。「お手紙」を書いたことにこころがいたみます122。
次は、伝記作家の堀場清子が見た静子です。
橋本静子氏の死は、単にひとりの女性の死には止まらない。九歳のとき、兄の妻になった高群逸枝に会った最初の日から、逸枝を愛し、生涯変わることがなかった。逸枝・憲三夫妻の貧しい研究生活を、物心両面で支え、夫婦の没後もひたすら顕彰に努めて来られた。その深い愛と、豊かな記憶と、つねに支持を表明してやまない強靭な意思が、活動を終熄したのである。なんと大きな喪失であったことか123。
次は、静子自身による自己分析です。
文章とは無縁で一行の活字もありません。性格は父母からの血が流れており、理不尽に対しては正直に腹を立てますから、おとなしい方だとは申されないかも知れません。生来、お茶目だと言われています。地位、名声、職業、風采などでは人を見ず、品性や志、それと人柄のあたたかさ、詩情などの情感にひかれます124。
最後に、「森の家」で憲三と後半生を契るに際して、立会人である静子に送った道子の手紙から引用します。道子は、静子に続いて、ひとり「森の家」で「高群逸枝全集」の編集に力を注ぐ憲三に寄り添います。
さっき憲三先生はおやすみにあがられました。その時お許しをえて、御二階から逸枝先生の世にもうつくしい目元の御写真をこのお茶の間におつれ申してきました。 まっすぐに私を見とおしておられる御写真の前で、今夜さらにここの御二方と何よりも私自身に対して誓ったことを思い返して、静子様にも御報告申し上げねばならぬのでそれを申しのべます。 うつし世に私を産み落とした母はおりましても、天来の孤児を自覚しております私には実体であり認識である母、母たち、妣たちに遭うことが絶対に必要でした。…… つまり私は自分の精神の系譜の族母、その天性至高さの故に永遠の無垢へと完成されて進化の原理をみごもって復活する女性を逸枝先生の中に見きわめ……そのなつかしさ、親しさ、慕わしさに明け暮れているのです。そして私は静子様のおもかげに本能的に継承され、雄々しいあらわれ方をしている逸枝先生のおもかげを見ます125。
以上、「この間同居生活を導いた橋本の妹橋本静子の真意も筆者には理解し難いものがある」という山下の言説に対して、静子という女性をよりよく理解するために必要と思われる幾つかの言辞を引いてきました。ここに、多弁や能弁とは異なり、静子という女性の人間性を造形するうえでの一次資料のもつ否定しがたい証拠としての十全なる重みがあり、したがって、もはや、余分な注釈は必要ないと思います。それでも、あえて、私なりの総括を、以下に短くしてみます。
「森の家」での同居生活をはじめるとき、道子は、死と隣り合わせの、まさしく魂が吐血したような、苦悩の極地にありました。生まれ育った、言葉では言い表わしがたい悲惨な家庭環境、結婚後の、これまた口で表現しえない苦悶の家庭生活、そして、この世の出来事とは思えない、まぢかに見る、生死をさ迷う水俣病患者――問うても答えは見つからず、すべてがふさがれた状態にあって出会ったのが、逸枝の「女性の歴史」でした。ここに道子は、死から生へと再び生き返るための一条の光りを見出し、いまに生きる、その夫の憲三に、魂の救済を求めたのでした。憲三は、決してすがる道子を見放したりすることはなく、道子をしっかりと受け止めました。それは、逸枝の生の精神にかなうものでもありました。ここに、逸枝の最大の理解者である静子をもって立会人とし、憲三と道子の同居生活がはじまるのです。
山下は、「橋本のために甲斐甲斐しく食事の世話もする石牟礼は高群とは違い、伸びやかな性を発散できるタイプの女性であり、橋本は石牟礼に高群を重ねるというより、三〇歳も年下の石牟礼との同居生活に楽しさを感じていたのではないだろうか」と書きます。つまり、山下には、ふたりの「森の家」生活が性の享楽の場に見えるようです。しかし、私の目には、そのようには映りません。道子は、「森の家」をあとにするとき、「寂滅(□□)の言葉はゆうべたしかめあった」126と書いています。□□にいかなる文字が隠されているのか、それは、憲三と道子のふたりだけが知ることであり、当然ながら、誰にもわかりません。しかしながら、逸枝自身、自著の『孌愛論』のなかで、確かに「寂滅」という語を使っていました。参考のために、以下に、その用例を引用します。
くりかえしいえば、孌愛は合體(もしくは自己解消)を理想とするものであり、これにたいして生殖は分裂(もしくは自己保存)を意味するものである。これはアミーバの昔から不變の原則なのである。 では、この兩者の關係は、究極なにを指向するかといえば、……それは人類の無限の増殖よりは、人類の完全な合體――無性化、そして人類の寂滅(もしくはさらに他の新生命への發展)なのであろう127。
もし、憲三と道子が、この逸枝の「寂滅」にかかわる言説を前提として、道子が東京を発つ前日の「ゆうべたしかめあった」のであれば、「生殖」を超えて、「新生命への発展」を確認し合ったことになるのではないでしょうか。こうして憲三と道子のふたりは、最終的に逸枝の予言に従って、新たな生命体としてここに再び蘇ったのでした。つまり、「寂滅(□□)」の□□のなかには「再生」ないしは「蘇生」の二文字が入るのではないかというのが、私の愚考するところです。さらには、静子の判断もまた、ほぼ同じだったのではないかと信じます。それであれば、憲三と道子の「森の家」での同居生活は、立会人である静子個人に備わる、人間の生命に関する優れて知的な優しさと聡明な洞察力とによって導かれたものであったといっても過言ではないのです。思うにここに、逸枝、憲三、道子の「三つの巴」を相結ぶきずなとしての静子のいのちがあったのでした。
私は、静子という女性の存在と役割に、ただただ敬服するのみであることを、この場を借りて告白しておきます。加えて、あえて私の告白を延伸するならば、このようになります。「森の家での若い女性との奇妙な同居生活、しかもそれに協力した橋本の妹静子(高群にとっては小姑)という事実に対し、多くの女性はいい感情をもたないのではないか」と山下は弁じますが、これは強弁の域を出ず、人数の多い少ないは別にして、静子の真の姿を知った女性の幾人かは、それのみならず男性の幾人かも、山下の弁にこそ、「いい感情をもたないのではないか」と私には思われます。
今年(二〇二五年)で道子が死去して七年になります。『最後の人 詩人高群逸枝』は、事実上の彼女の遺作であり、遺言となるものでした。しかしながら、ここに至って、そこに書かれてある道子の遺志としての叫びを読み解く人はいません。なぜ道子は、全集から取り出してまでも、単行本として最期のこの時期にあって、さげすまれ足蹴にされてきた、自分の「最後の人」である橋本憲三を世に送り出したのでしょうか。敬愛する恩師である「最後の人」に捧げられた道子の言葉の一つひとつに、いま私は、静かに耳を傾けたいと思います。
(1)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、249頁。
(2)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(3)西川祐子『森の家の巫女 高群逸枝』新潮社、1982年、229頁。
(4)栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、252頁。
(5)山本淑子「『沖宮』を観劇して 死者を柱となさいませ」『道標』第63号、発行所・人間学研究会、2018年、22頁。
(6)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、244頁。
(7)同『最後の人 詩人高群逸枝』、244-245頁。
(8)同『最後の人 詩人高群逸枝』、247頁。
(9)同『最後の人 詩人高群逸枝』、265頁。
(10)同『最後の人 詩人高群逸枝』、266頁。
(11)同『最後の人 詩人高群逸枝』、453-454頁。
(12)西川祐子「一つの系譜――平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子」、脇田晴子編『母性を問う(下)――歴性的変遷』人文書店、1985年、188頁。
(13)河野信子「『火の国』から『近代』を問い直す――高群逸枝と石牟礼道子」、加納実紀代編『リブという〈革命〉――近代の闇をひらく 文学史を読みかえる⑦』インパクト出版会、2003年、246頁。
(14)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、464頁。
(15)同『最後の人 詩人高群逸枝』、452頁。
(16)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。
(17)同『最後の人 詩人高群逸枝』、464頁。
(18)同『最後の人 詩人高群逸枝』、452頁。
(19)同『最後の人 詩人高群逸枝』、436-437頁。
(20)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、12頁。
(21)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、439頁。
(22)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、13頁。
(23)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、153頁。
(24)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、274-275頁。
(25)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻、275頁。
(26)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻、同頁。
(27)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、244-245頁。
(28)石牟礼道子「高群逸枝との対話のために(1)まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 3、1967年9月、1頁。
(29)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、246頁。
(30)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、12頁。
(31)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻、287頁。
(32)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、247頁。
(33)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。
(34)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。
(35)石牟礼道子「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、5頁。
(36)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、271頁。
(37)石牟礼道子「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」『高群逸枝雑誌』第18号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年1月1日、24頁。
(38)石牟礼道子『潮の日録 石牟礼道子初期散文』葦書房、1974年、219頁。
(39)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、56頁。
(40)石牟礼道子「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、78頁。
(41)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、84頁。
(42)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、327頁。
(43)同『最後の人 詩人高群逸枝』、453-454頁。
(44)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、8頁。
(45)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、248-249頁。
(46)岡田孝子「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、200頁。
(47)同「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、201-202頁。
(48)同「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、203頁。
(49)石牟礼道子「高群逸枝との対話のために(2)まだ覚書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 5、1968年3月、5頁。
(50)同「高群逸枝との対話のために(2)まだ覚書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 5、同頁。 なお、その後この文が所収される、石牟礼道子『潮の日録 石牟礼道子初期散文』(葦書房、1974年、216頁)においても、また石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』(藤原書店、2012年、432-433頁)においても、松太郎の権妻つまり妾の名は、「おかね」ではなく「おきや」に置き換えられています。
(51)『石牟礼道子全集・不知火』第六巻/常世の樹・あやはべるの島へほか、藤原書店、2006年、592頁。
(52)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻、297頁。
(53)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻、59頁。
(54)石牟礼道子『潮の日録 石牟礼道子初期散文』葦書房、1974年、51頁。
(55)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻、305頁。
(56)前掲『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、68-69頁。
(57)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻、211-212頁。
(58)前掲『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、71頁。
(59)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻、304頁。
(60)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻、同頁。
(61)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻、304-305頁。
(62)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻、305頁。
(63)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻、208-209頁。
(64)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻、210頁。
(65)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻、同頁。
(66)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻、同頁。
(67)前掲『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、54頁。
(68)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、47頁。
(69)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、55-56頁。
(70)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻、259頁。
(71)前掲『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、63頁。
(72)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、255頁。
(73)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、同頁。
(74)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、同頁。
(75)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、256頁。
(76)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、257頁。
(77)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、82頁。
(78)米本浩二『評伝石牟礼道子――渚に立つひと』新潮社、2017年、68頁。
(79)同『評伝石牟礼道子――渚に立つひと』、同頁。
(80)石牟礼道生「多くの皆様に助太刀されて母は生きて参りました」『道標』第61号、発行所・人間学研究会、2018年6月、7頁。
(81)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、130頁。
(82)高群逸枝『放浪者の詩』新潮社、1921年、1頁。
(83)松本正枝「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』私家版(国立国会図書館デジタルコレクション)、1976年9月、31-32頁。
(84)前掲「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、210頁。
(85)もろさわようこ「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)集英社、1980年、204-205頁。
(86)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、358頁。 なお、この一文の初出は次のとおりです。石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、53頁。
(87)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、3頁。
(88)前掲「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、203頁。
(89)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」、63-64頁。 なお、のちにこの一文は、石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』(藤原書店、2012年、377-378頁)に集録されます。
(90)前掲「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、203頁。
(91)山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、50-51頁。
(92)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、229頁。
(93)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、449頁。
(94)前掲「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、91頁。
(95)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、93頁。
(96)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、354頁(隠しノンブル)。
(97)前掲『高群逸枝全集』第九巻、419-420頁。
(98)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、202頁。
(99)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、179頁。
(100)同『高群逸枝全集』第一〇巻、184頁。
(101)前掲『高群逸枝全集』第九巻、429頁。
(102)同『高群逸枝全集』第九巻、515頁。
(103)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、169頁。
(104)戸田房子「献身」『文学界』文藝春秋、1974年7月号、116-117頁。
(105)橋本憲三「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、21頁。
(106)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、310-311頁。
(107)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、311頁。
(108)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、479頁。
(109)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、13頁。
(110)前掲「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、99頁。
(111)前掲「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、51頁。
(112)同「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、51-53頁。
(113)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、162頁。
(114)高群逸枝『愛と孤独と 学びの細道』、理論社、1958年、86-87頁。
(115)前掲『高群逸枝全集』第九巻、251頁。
(116)同『高群逸枝全集』第九巻、434頁。
(117)橋本憲三「題未定――わが終末期 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年7月1日、25頁。
(118)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、13-14頁。
(119)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻、275頁。
(120)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、310頁。
(121)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻、275頁。
(122)橋本静子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、100頁。
(123)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、249頁。
(124)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、3-4頁。
(125)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、248-249頁。
(126)同『最後の人 詩人高群逸枝』、327頁。
(127)高群逸枝『孌愛論』沙羅書房、1948年、9頁。