中山修一著作集

著作集22 残思余考――わがデザイン史論(上)

第四部 「三つの巴」私論集

第二節 瀬戸内晴美の伝記小説に向けられた言説について

一.瀬戸内の伝記小説を巡っての周縁からのまなざし

私は、瀬戸内の専門家ではありませんし、ほとんど彼女の作品も読んでいませんので、この作家を語る資格は全くありません。しかし、これまでの私の富本一枝研究において、瀬戸内晴美という小説家の存在については気づいていました。そこで、一枝のいとこの尾竹親と、一枝の古き友人の丸岡秀子の言説を引き、その範囲にあって瀬戸内作品の含み持つ特殊性の一端をここで紹介し、あわせて、それについて検討しておきたいと思います。

まず、富本一枝のいとこの尾竹親は、自著の『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』のなかで、次のようなことを書いていますので、引用します。

人間の言動というものは、決して一つの情景のみに定着して語られるべきものではなくして、その人間が生きた全存在の一環に組み込まれてこそ、はじめて、よりよくその映像を伝え得るものだと私は信じている。
 瀬戸内氏にしても、それが史実をもとにした小説で・・・あってみれば・・・・・・、フィクションとしてのある種の無責任さに救われているのだろうが、時間の経過というものは、得てして、伝説という神話をつくり上げたがるもので、いつかはそれが事実とまではならぬとしても、史実に欠けた情緒の補足としてのさばり返ることがよくあるものだ。私が、実名、或いは史実にもとづいた小説の安易さを恐れる理由が、ここにもあるわけである

以上の引用は、瀬戸内晴美の『美は乱調にあり』(一九六六年、文藝春秋)という本のなかで描写されている、青鞜社時代に紅吉(尾竹一枝、のちに富本一枝)が引き起こした、いわゆる「吉原登楼」事件における尾竹竹坡(尾竹親の父親)の役割を巡っての論点が念頭に置かれて書かれている箇所であろうかと思われます。はっきりと「フィクションとしてのある種の無責任さ」、そして「小説の安易さ」が指摘されているところに、注目する必要があります。

では、瀬戸内は、「吉原登楼」事件における尾竹竹坡の役割について、どう書いているのでしょうか。以下が、その該当箇所になります。

 またそれから、何程もたたないある日、紅吉の伯父の尾竹竹坡画伯の家に、明子と中野初子が訪れた時、竹坡は、三人の若い娘たちを相手に、機嫌よく酒をのんでいたが、興がつのって、「お前たち、女性の解放なんて大きなことをいっていて、吉原の女郎たちの生態も知らないじゃ話にならない。どうだ、これから見学につれてってやろうか。いっしょに行く勇気があるか」というような話になり、娘たちは、軽い好奇心と興味半分から、この通人の画伯にくっついて吉原見学に出かけてしまった。竹坡の上りつけの吉原大文字楼へ上り、竹坡のひいきの栄山という女を呼び、他愛もない話をして、何時間かすごし、その夜は帰ってきた

それでは、動かしがたい一次資料に残る、この箇所にかかわる描写は、どのようなものなのでしょうか。以下に三点、引用します。

まず、叔父竹坡による吉原遊郭紹介について、富本一枝本人は、こう説明します。

おまえたち偉そうに婦人の解放とか何とかいつているが、吉原というところには非常に氣の毒な――解放しなければならない女がたくさんいる、そこを知りもしないで偉そうなことをいつているのはおかしい。平塚さんにぜひとも――今で申す見學をなさいませんか、ということで、平塚さんも見たことがないし、ぜひ行きたいということになつて、五、六ママ人で参りました。このおじは……遊ぶことでも相黨だつたようです。そのおじの行きつけのお茶屋におじが話しておいてくれましたから、吉原でも一番格式の高いうちに案内されて、たいへん丁重に扱われました

次に、女三人の吉原登楼を記事にした『國民新聞』は、こう報じています。

七月の『青鞜』には雷鳥が左手で戀してるとか美少年を何うしたとか云ふ妙な事がある[。]其美少年と云ふのは夕暮に廔々白山邊を引張つて歩いて居るほんに可愛らしい學生帽を冠つた十二三の子供だ[。]それは兎も角此間の夜雷鳥の明子はること尾竹紅吉こうきち(數枝子)中野初子の三人が中根岸の尾竹竹坡氏の家に集まつた時奇抜も奇抜一つ吉原へ繰り込まうぢやないかと女だてらに三臺の車を連ねて勇しい車夫の掛聲と共に仲の町の引手茶屋松本に横著けにし箱提灯で送らせて大文字樓へと押上り大に色里の氣分を味つた

最後に、花魁「栄山」と一夜を過ごした平塚らいてうは、こう証言します。

ある日、紅吉が、叔父の尾竹竹坡氏からの話として、吉原見学の誘いを突然もちこみました。尾竹竹坡氏は、当時の日本画壇に異彩を放っていた尾竹三兄弟のひとり、なかでも天才的ということで名を馳せている人でしたが、紅燈の巷に明るい通人というか粋人というのか、そういう点でも知られていました。……竹坡氏は、姪の紅吉を通して、青鞜社やわたくしへの親近感というか、好意をもっていられたようで、その一つのあらわれが吉原見学の誘いともなったのでしょう。……そこは竹坡氏のお馴染みの妓楼で、吉原でも一番格式の高い「大文字楼」という家でした。「栄山」という花魁おいらんの部屋に通されましたが、きれいに片付いた部屋で、あねさま人形が飾られており、それが田村とし子の作ったあねさまだということを聞いて、紅吉はひどく興味をもち、田村さんを誘えなかったことを残念がりました。……おすしや酒が出て、栄山をかこみながら話をしたわけですが、栄山の話によると、彼女はお茶の水女学校を出ているということでした。……その夜、わたくしたち三人は花魁とは別の一室で泊まり、翌朝帰りました

上に引用した、富本一枝、『國民新聞』、および平塚らいてうの言説から判断しますと、竹坡は、その場の酔狂の勢いで三人の婦人を吉原見学に誘ったのではなく、また当日竹坡は、その三人の登楼に同伴しておらず、さらにいえば、三人は一泊して翌日に吉原を出たことになり、瀬戸内が書く、「竹坡は、三人の若い娘たちを相手に、機嫌よく酒をのんでいたが、興がつのって……どうだ、これから見学につれてってやろうか。……というような話になり」も、「娘たちは……この通人の画伯にくっついて吉原見学に出かけてしまった」も、「その夜は帰ってきた」も、どれも証言に反する記述になっているのです。このことが、竹坡の息子の親の目には、「フィクションとしてのある種の無責任さ」、そして「小説の安易さ」として映るのでしょう。

一枝の証言によれば、竹坡の提案は、事前にらいてうのもとに届けられ、その判断は本人にゆだねられています。一方、らいてうの説明に従えば、竹坡の提案は、青鞜社への援助、つまりは女性解放運動への支援の一環としてありました。手続き的にも、動機のうえでも、竹坡は、決して婦人を見下したり、粗末に扱ったりはしていないのです。それにもかかわらず、瀬戸内は、あたかもその場の酒の勢いで婦人を誘ったように書いているのです。それを読んだ親は、自分の父親が、いかにも軽薄で単純な男であるかのように扱われていることに、深い傷を負ったものと推量されます。らいてうの自伝によれば、竹坡の青鞜社への援助は、『青鞜』創刊一周年を祝う宴会のときも、なじみの料亭を紹介するというかたちでもって、現われています。尊敬する父の尊厳が貶められたような感覚を、瀬戸内の記述から息子は感じ取ったものと思われます。

瀬戸内の伝記小説の至る所で、三人の婦人への竹坡の吉原招待の事例にみられるような、誤った記述があるのかどうかは、私はすべてを調べていませんので、断定することはできませんが、かといって、改竄記述はこの一箇所のみであるという確証もまたありません。ただ、はっきりいえることは、たとえ一箇所であろうとも、虚偽表現によって傷つき苦しむ、本人はもとより、その家族や関係者が確かに存在するという、疑いようのない事実がそこには介在するということです。

このことは、逸枝と憲三を扱った小説「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」についてもいえます。瀬戸内晴美の文により傷つけられた憲三について、堀場清子は、「逸枝との愛の一体化と、女性史の大成とに生涯をかけ、女性一般の未来のために多大の貢献をされた氏の、最晩年での傷つけられ方が、いたましかった」と書き、石牟礼道子も、「逸枝亡きあとに書かれたこの作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった」と書きます。なぜ瀬戸内は、夫婦の生活という極めて人の私的な領域に勝手にも足を踏み入れ、公然と雑誌のうえで実名をもって吹聴したのか、それは知る由もありません。しかし一方で、その行為は、憲三本人にしてみれば、名誉棄損あるいは人権侵害という、刑法上のみならず道義上の問題にかかわる、許しがたい卑劣なものであって、病のなかもはや死に向かおうとしている当事者にとって、それがいかにつらいものであったか、これは、想像するに余りあります。

それでは次に、丸岡秀子の場合を見てみます。以下の引用は、自身の『田村俊子とわたし』の「あとがき」の冒頭の一文です。

 なぜ、いまごろになって、これを書いたのだろう、と書いてしまって思う。やっぱり、書かないではいられなかったからだった、というよりない。
 だが、ひとつには瀬戸内晴美さんが、『田村俊子』をまとめられたとき、わたしとしては俊子について思う存分、語れば語れる機会だった。瀬戸内さんからはそのために、何度かその機会を作るように依頼されたのだが、わたしは大病つづきのために、それができなかった。もしあのとき、健康で俊子を語っていたら、長いあいだの胸つがえは、ずっと前にとれていたかもしれない

瀬戸内晴美の『田村俊子』(一九六一年、文藝春秋新社)は、その一二年前に上梓されていました。それでも、丸岡は、田村(佐藤)俊子について書かざるを得ない思いにあったようです。丸岡を田村に紹介したのは富本一枝でした。一枝にとって田村は青鞜社時代以来の友人で、一方丸岡は、奈良女子高等師範学校の生徒であったときからよく知る若き知り合いでした。田村が海外生活を終えて帰国した一九三六(昭和一一)年の富本憲吉の窯開きのある日、ふたりは招待されて、面識を得ることになります。田村にとって、それからの三年というものは、思うように作品が書けず、金銭の管理が甘いがゆえに友だちを失い、窪川いね子(のちの佐多稲子)の夫である窪川鶴次郎との道ならぬ恋にも陥り、満たされぬ苦悶の歳月でした。田村は、何かにつけて丸岡を頼ります。丸岡も悪い気はしません。いつも寄り添うように、田村を支えます。こうして田村が中国に発つまでのおよそ三年間、田村と丸岡は誰よりも親しい間柄にありました。丸岡にとって、瀬戸内が書いた『田村俊子』には、自分の知る田村俊子が十全に反映されていなかったのでしょう。あるいは、丸岡の目からすれば誤謬が含まれていたのかもしれません。田村と丸岡のふたりがこの時期に交わし合った書簡という一次資料を全面的に援用して、何とかその移ろえる像を修正し、より正確で真実に肉薄した田村像を、どうしてもここで書かなければならないという切迫した状況に、丸岡は立たされていたものと思量します。

以上において、瀬戸内の伝記小説にかかわって、尾竹親と丸岡秀子が体験した事例を紹介しました。見てきましたように、私の研究の極めて狭い範囲においても、瀬戸内晴美(寂聴)が書いた「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」(『文芸展望』に五回連載)、『談談談』、『美は乱調にあり』、そして『田村俊子』には、記述の対象となっている人物の、まさしくその人本人、あるいは、その親族や関係者にとっては、承服しがたい、事実無根ないしはそれに近いと思われる内容が随所に含まれていたのでした。

そこで、そのことに関連して、以下に少しばかりの愚見を述べることにします。

『瀬戸内寂聴全集』第二巻の巻末に収められている「解題」は、次の文ではじまります。「本巻は、著者の伝記小説の分野の口火を切った『田村俊子』と、つづく大作『かの子繚乱』とを収録した」。私は文学史も文学論についても、知識がありませんが、ここで使用されている「伝記小説」という用語に遭遇したとき、強い違和感に襲われました。といいますのも、「伝記」はあくまでも「事実」に沿って記述されるものであり、ところが「小説」はそれとは異なり、書き手の自由な構想力ないしは想像力にゆだねられるものであると承知していたからです。つまり、私の理解では、「伝記」と「小説」では向かう方向が正反対であるはずなのです。ところが、それにもかかわらず、そのふたつが合体し、あろうことか一語になっていることに、私は違和感を覚えたのでした。

なぜ瀬戸内は、いまだ存命中の、あるいは死去して日が浅い人物について、いっさいの証拠を示すことなく、したがって、プライヴァシーや人権への配慮もなく、そのために、その人の名誉と人格を傷つけかねない状況のなかにあって、あえて「伝記小説」という独自の領域を設定して描くに及んだのでしょうか。本人はもとより遺族や関係者からの反発を招いたのは、そのことに起因していたものと思料します。

参考までに、「伝記」と「小説」の分離を促した、ある書き手の一例を紹介しておきます。以下の文は、吉永春子の『紅子の夢』の「あとがき」から一部を引用したものです。吉永は、富本一枝との学生時代の一瞬の出会いが忘れられず、その強い衝撃が動機となって筆を執ることになりました。「紅子」が、尾竹紅吉こと富本一枝であることはいうまでもありません。

 ふとした機会から私は、彼女について書くことになり、改めて調査に入ったが、すぐに戸惑ってしまった。
 事実と、私の脳ミソに焼きついた存在とが、時には重なり、時には遠く離れ、複雑な線となって、縦横に走りまくり始めた。これはいけない、どっちにかしなければ。
 選択の結果が〈小説・紅子の夢〉ということになった。
 歴史上の人々の名前は実名にしたが、あくまでもそれは時代背景を生かすためで、人物表現はフィクションをベースにした10

これを読むと、執筆に際しての吉永に、明らかに、「事実と、私の脳ミソに焼きついた存在と」の激しいせめぎ合いが発生していることがわかります。つまりこれが、「事実」を基礎とする「伝記」と、「脳ミソに焼きついた存在」を描く「小説」の違いとなります。瀬戸内の「伝記小説」は、真実と虚構とがない交ぜになった、つまり「伝記」であるようで「小説」でもあるような、あるいは「伝記」でもなければ「小説」でもない、いまだ未分化の状態で存在していたものと思われます。その結果それは、何をもたらすことになるのでしょうか。

「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」を読んで、誤りを指摘するために瀬戸内に手紙を書いた一九七四(昭和四九)年の三月以降の憲三は、心身ともにさらに悪化が進み、一進一退の状態にありました。それから半年後に憲三を訪問した堀場清子は、そのときの様子を、こう描写します。

 朝日評伝選『高群逸枝』の取材のために、鹿野政直と私とが、はじめて橋本氏を訪ねた昭和四十九年九月、氏は「事件」の衝撃の渦中にあった。それ以外のことを聞こうとする私達の質問に対し、氏の答えはいつもその点にたちもどって、少なからず困惑させられた。逸枝との愛の一体化と、女性史の大成とに生涯をかけ、女性一般の未来のために多大の貢献をされた氏の、最晩年での傷つけられ方が、いたましかった11

堀場は、訪問当日の憲三の様子について、「『事件』の衝撃の渦中にあった。……最晩年での傷つけられ方が、いたましかった」と、表現しています。他方で、橋本憲三からの誤謬を指摘する手紙を受け取った瀬戸内晴美は、後年、自著の『人なつかしき』のなかで、こう書いています。

 それまで私に示されていたのとは全くちがう憲三氏があらわれた。私は憲三氏のショックが意外でもあり、意外でもないような気がして、複雑な想いにとらわれた12

「ショックが意外でもあり、意外でもない」と書く以上は、ほぼ間違いなく、執筆に当たって当初瀬戸内は、自身の「伝記小説」は「真実」を描いたものであり、そのため、そのなかで描写された人物は、すべてその記述内容に同意するはずであり、いわんや、それにより傷つくようなことなどありえない、と思い込んでいたのでしょう。しかし、存命中の人間が、いきなり「伝記小説」という舞台に引っ張り出され、まさに著者の「脳ミソに焼きついた存在」として脚色されて踊らされることになるとしたらどうでしょうか。そのとき、その登場人物が、実際の自分との違いに気づき、ショックと憤りを感じたとしても、それは、何ら不自然なことではないように思われます。他方で、観客である読者はどうでしょうか。おそらく演じられている物語を、虚構世界のそれとして楽しむのではなく、実名で語られている以上は、真実世界のそれとして誤認することでしょう。さらに加えて、その書き手が、これは事実ではなく、読み物という作り話ですからという弁明を残して、その場を立ち去ったとしたらどうなるでしょうか。描かれた人間は、行き場を失い、そこに倒れ込むしかありません。そして一方の読者は、与えられた虚飾の物語を真実として信じ込んでこれから生きてゆくことになるのです。いま一度、前述の、尾竹親が指摘した「フィクションとしてのある種の無責任さ」と「小説の安易さ」を、ここで想起しなければなりません。「伝記小説」のもつ限界と罪悪は、まさしくこの点にあったものと理解します。

ただ、一言付け加えておくならば、瀬戸内は、「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」に先立って、その七年前、一九六六(昭和四一)年一〇月発行の『婦人公論』(第五一巻第一〇号、六二-七一頁)において「奇蹟的な夫婦の愛に生きた天才高群逸枝の火の生涯」を発表しています。内容は、逸枝の自叙伝である『火の国の女の日記』(「高群逸枝全集」第一〇巻)と『今昔の歌』を要約した、誰も傷つけることのない、逸枝と憲三の関係を適切に描いた小伝になっていました。

二.高群逸枝と延島英一の「恋愛事件」を巡る堀場清子の解釈

それでは、「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」が発表されて以降の動きを、ここにまとめてみます。まずは、堀場清子の言説から――。

すでに述べていますように、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」から五箇月が立った一九七四(昭和四八)年九月に、鹿野政直と堀場清子の夫婦が水俣に住む憲三を訪ねてきました。鹿野は早稲田大学の教授で、日本近代史の専門家です。妻の堀場は女性史家で、ともに、逸枝の生き方と業績に共感していました。取材を続けるために、堀場は憲三に申し出て、その年の一二月から、ふたりのあいだで、郵便を介した一問一答形式による「おたずね通信」がはじまりました。この「おたずね通信」が、憲三と堀場の共著のかたちをとって朝日新聞社から書籍化されたのが一九八一(昭和五六)年の九月でした。書題は『わが高群逸枝』(上下二巻)というもので、憲三が亡くなって五年が経過していました。そのなかで堀場は、逸枝と延島英一との「恋愛事件」につきまして、こう書いていますので、以下に紹介します。

 この「事件」について、断定的な発言をするだけの材料を、私はもたない。だから、私なりの疑問点と、高群逸枝という人物に対する私なりの解釈とを記すに止めたい13

こう前置きしたうえで堀場は、「その一、疑問点」と「その二、私の解釈」の両面から実に詳細に自身の考えを開陳します。「その一、疑問点」に書かれてある堀場の疑問点を短くまとめると、次のようになります。

(1)農民自治会婦人部に加入する過程を見ても、『婦人戦線』に書いた主要論文が夫の延島英一による代作であったことからしても、松本正枝が語る、夫と逸枝の「恋愛事件」だけが、無作為のものであるとは、考えにくい。
(2)「事件」が破局を迎える昭和六年の春までの半年間、連日延島は逸枝のもとに足を運び、性的関係があったように松本正枝は語っているが、住井すゑの証言によると、延島が毎日通っていたのは住井家であり、ましてや、憲三が在宅している家を、延島が頻繁に訪問することは、事実上不可能だったのではないかと思われる。
(3)一部のあいだで「憲三不能説」が根強く流布しており、これが原因で逸枝が延島に走ったという発想が導き出されている向きもあるが、夫との「一体化」を誓った妻が、それほどの欲求不満を抱いていたとは考えにくい。
(4)「恋愛事件」があったとされる半年間、同人の誰ひとりとしてそのことに気づかなかったのは、不思議に思える。他方、瀬戸内の「日月ふたり」でその「恋愛事件」が明るみに出ると、同人みなが、一様に、それを事実として受け入れたらしい点が、印象深い。
(5)昭和五年の年賀状に、逸枝は、これから研究生活に入ることを明言しており、この後の『婦人戦線』の刊行は、逸枝にとってはあくまでも「寄り道」であり、「恋愛事件」の破局が廃刊の原因であるとする意見には疑問が残る。

以上のような「疑問点」の抽出を踏まえての堀場の「解釈」は、こうでした。「私の高群逸枝解釈としては、どうしても『事件』の否定へと傾かざるをえない」14

「その一、疑問点」と「その二、私の解釈」における冷静な論点の整理と、それに基づく適切な判断に、私は、堀場のもつ資料収集能力と分析能力はいうに及ばず、伝記作家としての誠実さを強く感じます。

さらに、この文脈にあって堀場は、「松本正枝という人物には、私にはどうもわかりにくいところがある」15とも書き、「松本正枝氏の論文が、延島氏の代筆であることについては、住井さんもはっきり肯定されました」16とも書いています。しかしながら、憲三について、「逸枝との愛の一体化と、女性史の大成とに生涯をかけ、女性一般の未来のために多大の貢献をされた氏の、最晩年での傷つけられ方が、いたましかった」17と書く堀場でしたが、その元凶であった瀬戸内の、執筆にかかわる姿勢や手法については、この『わが高群逸枝』においては、いっさい触れられていません。つまり、瀬戸内に「恋愛事件」の情報を提供した松本正枝については、不信感をもって臨むも、その情報をそのまま信じて文にし、憲三を傷つけた瀬戸内の人間性については、完全に目を閉じてしまったのでした。著名な作家であるがゆえに、瀬戸内に配慮したのではないかと思われますが、松本正枝については詳しく私見を述べるも、瀬戸内については口をつぐむことは、そののちの憲三が被ることになる傷心と無念とを含む、この「恋愛事件」が引き起こした全容解明にはつながらず、片手落ちの、残念な結果を招いていると思量します。

三.瀬戸内の「日月ふたり」を巡る石牟礼道子の思い

『わが高群逸枝』の出版から四箇月後、今度は石牟礼道子が、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」を取り上げました。そこにおいて道子は、堀場が言及しなかった瀬戸内の記述の手法について触れるのでした。

瀬戸内は、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」のなかで、逸枝をこう描いていました。松本正枝の視線からの描写です。

 駅からわが家の方への一本道を歩いていくと、向うから逸枝が歩いてくる。今日もきれいに化粧して、袂の長い派手な着物を着た逸枝は、少女がするように、長い袂を両手で持ってひらひら蝶々のように両脇で躍らせながら、浮きたつような足どりでステップをふんでくるのだった。人の目も全く眼中にないように、その姿は何か抑えきれぬ喜びをそういうそぶりであらわしているとしか見えなかった。
 よほど嬉しいことがあるにちがいない、まるで子供のような人だ。ずっとそんな逸枝の姿を見つめながら正枝が近づいて声をかけると、逸枝は雷に遭ったように硬直して路上に突っ立ってしまった。大きな目をうつろに見開き、息もとまったように正枝をみつめてあえいでいる。
「どうなさったの、うちへいらっしゃったんじゃなかったの、延島はいませんでしたかしら」
 その道はわが家への一本道なので、正枝はこう問いかえした。逸枝はようやく夢からさめたように、
「あなた、まだ会社じゃなかったの、どうなすったの」
 と訊いた。詰問するような調子に、正枝はふたたび驚かされた。逸枝はそんな正枝の横をすりぬけると、挨拶もせずに駅の方へ走り去っていった。
 家に帰ると英一が同じように愕いた表情で迎えた18

一九八二(昭和五七)年一月号の『思想の科学』に掲載された、「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」のなかに、道子のそれへの解釈を見ることができます。瀬戸内の上の文を引用すると、それに続けて道子は、こう書いています。

 逸枝亡きあとに書かれたこの作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった。長い袖を両手に抱え、蝶のようにひらひらゆくような逸枝をかつて見た覚えがないといわれるのである。……正枝氏はそのような逸枝を、ご自分の夫君と愛を交わした姿と受け取られ、瀬戸内氏も、憲三との一体的夫婦の伝説がやぶれ逸枝に恋人がいたとされているのだが、わたしはそこに立ち入る気はない。逸枝は憲三氏の眼に触れるように延島氏からの求愛の手紙を常にそれとなく机辺に置いており、その間の事情と処理については、憲三氏自身の手記が残されている。(『高群逸枝雑誌』終刊号)19

「この作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった」――これが、みぢかにいて憲三に寄り添っていた道子の実感だったのでしょう。そして道子は、逸枝のその蝶のごとき姿に、表題のとおり「本能としての詩・そのエロス」を見ているのであって、最後にこの文をこのように結ぶのでした。

蝶のように浮き立つ足どりの逸枝はじつは詩の刻の人なので、健全な日常にいきなり出逢ってたちすくむ姿の背後には、彼女の詩篇のすべてが放電するように広がってゆくのをわたしは見る20

つまり、あえて換言すれば、この道子の結語は、詩人の情感は、文字や文のうえだけでなく、舞や踊りにみられるように、身体のもつたおやかさにも現われるものであり、そうした非日常な身体表現を見誤って、「愛を交わした姿」であるとか「恋人がいた」といった世俗用語に置き換えてしまうことに内在する虚しさのようなものを暗に示しているのではなかろうかと、私は思料します。

しかし、高群逸枝を対象とするこれまでのおおかたの伝記作家は、瀬戸内晴美の描写を無条件に信じ、したがって、松本正枝の証言に疑いを入れず、それに反して、夫の橋本憲三については、ヒステリックで弁解がましく、多くのことを隠匿する、不誠実で自己中心的な男として描写するのが通例でした。それでは、道子以降の、そうした事例を、西川祐子と栗原葉子の言説のなかに見てみたいと思います。

四.「恋愛事件」と「日月ふたり」についての西川祐子と栗原葉子の見解

石牟礼道子の「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」が一九八二(昭和五七)年一月号の『思想の科学』に掲載された二箇月後の三月、西川祐子の『森の家の巫女 高群逸枝』が新潮社から上梓されます。そのなかで、それに関連して西川は、次のように描写しています。

 以前わたしが「高群逸枝と『婦人戦線』」(「思想」、岩波書店、一九七五年三月号)と題してこの雑誌の歴史をたどった小論を発表したとき、現在もそれぞれの分野で活躍しているかつての同人の方々から、「婦人戦線」の廃刊の直接の原因は資金難でも内部論争でもなく、高群逸枝の恋愛であったという注意を受けた。恋の相手は松本正枝の夫、延島英一。「婦人戦線」と同じく解放社から出され、高群も毎号のように執筆していた延島英一編集の「解放戦線」はふたりの恋の記念碑であったという指摘もあった。当時すでに瀬戸内晴美の小説「日月二人」(「文芸展望」一九七三年夏号-一九七五年冬号)がこの恋をとりあげていた21

そして、この記述は、次のように続きます。

「婦人戦線」の同人たちは四十五年後に回想文(『埋もれた女性アナキスト、高群逸枝と「婦人戦線」の人々』、一九七六)を作ったが、そのなかで最も生き生きと当時を語っているのは松本正枝であって、「婦人戦線」という空間を造ることにうちこみ、燃焼して生きた時間があったことを感じさせる。彼女は高群逸枝が恋人すなわち松本自身の夫に、手紙をわたそうとして心も軽く両手で長いたもとを蝶のようにヒラヒラさせながら歩いていくところに偶然行きあった衝撃の印象を、まるで昨今のように鮮やかに描いている22

西川は、「『婦人戦線』という空間を造ることにうちこみ、燃焼して生きた時間があったことを感じさせる」と書きますが、憲三や住井すゑの証言によれば、「松本正枝」を筆者名とする『婦人戦線』誌上の論考は、どれも夫の延島英一による代筆であり、それが事実であれば、延島英一の妻「松本正枝」(本名は延島治)は、名義を貸しただけで、実質的には『婦人戦線』の活動にほとんどかかわっていなかったものと思われます。また、西川は、「彼女は高群逸枝が恋人すなわち松本自身の夫に、手紙をわたそうとして心も軽く両手で長いたもとを蝶のようにヒラヒラさせながら歩いていくところに偶然行きあった衝撃の印象を、まるで昨今のように鮮やかに描いている」と書き、あたかも恋文でも渡すために逸枝は延島宅を訪ねたような印象を与えています。しかし、『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』に所収されている、松本正枝の「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」では、路上で正枝に出合った逸枝は、「どちらへ?」という正枝の問いに、「これから延島さんにお願いがあってお宅へ伺うところ」と、答えています。ふたりは家に入り、正枝が台所でお茶の用意をしていると、「これを」という逸枝の声が聞こえてきたものの、座敷にお茶をもってゆくと、もう逸枝の姿はありませんでした。「お願い」は、英一が妻に語ったところによれば、翻訳のことだったようです。明らかに西川の言説は、正枝の描くところを越えたものになっているのです。

一方で瀬戸内は、正枝と逸枝の出会いの場面を、延島宅から帰る情景に置き換えて描くのでした。いま一度引用しますと、「今日もきれいに化粧して、袂の長い派手な着物を着た逸枝は、少女がするように、長い袂を両手で持ってひらひら蝶々のように両脇で躍らせながら、浮きたつような足どりでステップをふんでくるのだった。人の目も全く眼中にないように、その姿は何か抑えきれぬ喜びをそういうそぶりであらわしているとしか見えなかった」。あたかも、いましがた延島宅で「何か抑えきれぬ喜び」を味わってきたかのような印象を与える表現になっています。おそらくこうした、特別な意味を匂わす意図的表現が、直接的か間接的かは別にして、何らかの影響を及ぼし、たとえば西川の、「彼女は高群逸枝が恋人すなわち松本自身の夫に、手紙をわたそうとして心も軽く両手で長いたもとを蝶のようにヒラヒラさせながら歩いていくところ」という表現に連なっていったのではないかと推量します。

実際には正枝は、「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」において、次のように書いています。

 ある日私は会社から帰る線路際の道を歩いて行くと先へ蝶のように両手で長い袂をヒラヒラさせながら足取りも軽く女の人が行くので、人道車道の区別のない道でめずらしい人だと思いながら段々近づいたら何と高群さんだったのです。門外不出と宣言している人なので驚き後ろから声をかけると、高群さんはびっくりした様子で立上がり忽ち厳しい表情であら松本さんいつも今頃お帰りですか?……ええいつも今頃と返事をしながらどちらへ? 「これから延島さんにお願いがあってお宅へ伺うところ」……23

数年前に取材に来た瀬戸内に、おそらく正枝は、このようなことを語ったであろうと思われます。しかし瀬戸内は、すでに指摘していますように、明らかに、この引用文のとおりには、つまりは、取材時の聞き取りどおりには、書いていません。なぜ証言内容を尊重しないのでしょうか。疑問が残ります。それであれば、正枝が書く上の引用文の内容が真実なのでしょうか。しかしながら、これが、真実を描写したものであるという保証もまた何もないのです。といいますのも、すでに引用で示していますように、憲三から聞いた話として、道子はこう書いているからです。「長い袖を両手に抱え、蝶のようにひらひらゆくような逸枝をかつて見た覚えがないといわれるのである」。もし仮に、正枝が書くことが真実であったとしても、ここから、瀬戸内の表現へ、その一方で西川の表現へと加飾されてゆくのを見るにつけ、いかに真実がかき消されているのかがわかります。いずれにいたしましても、少なくとも瀬戸内の表現には、故意に粉飾された描写が含まれていることは確かでしょう。

さらに正枝は、「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」において、瀬戸内については、このように書きます。

「日月ふたり」を文芸展望に発表されて橋本氏を高群氏という素材を名器に仕上げた人と評する瀬戸内さんの多大な研究・取材は実り大きいと思います24

果たして、瀬戸内の「日月ふたり」は、「橋本氏を高群氏という素材を名器に仕上げた人」という文脈で書かれているでしょうか。どう読んでもそのようには読めません。もしそうであれば、憲三は、瀬戸内に抗議の手紙を書く必要はなかったわけであり、そのことを想起するならば、正枝のこの文は、自分への取材で得られた情報を基にして成り立つ瀬戸内の文を単に誉めそやしているように読めます。また、なぜ正枝は、この文のなかで、自分が証言した内容と異なる内容に瀬戸内が改竄していることを指摘し、苦言を呈さなかったのでしょうか。むしろ、改変に意を得たかのような書きっぷりになっているところに、どうしても不可解さが残ります。

一方、西川については、このように書きます。

 同志[社]大で仏語を教えていられる西川祐子氏のお手紙によれば……「婦人戦線」を同大の書庫で出会い「大きな衝撃をうけました」とのこと。西川さんは十六号までくりかえし読み「思想」一九七五・三月号に立派な論文を発表されました。私など無我夢中で書いた物をまた一人一人の執筆者を冷静に分析されていられるのですから大きな驚きです25

ここで正枝は、『婦人戦線』への寄稿文を、自分が「無我夢中で書いた物」といいます。これは、本当でしょうか。夫の延島英一が「松本正枝」の名を使って代筆したものではないでしょうか。それを想起するならば、正枝という人物のいびつな性格ないしは特異な精神状態の一端が浮かび上がってきます。

ここまで傍証を積み重ねてきますと、私のなかにひとつの推論が生じます。

すでに、上に引用で紹介していますように、西川は、自著の『森の家の巫女 高群逸枝』において、次のように書きました。

 以前わたしが「高群逸枝と『婦人戦線』」(「思想」、岩波書店、一九七五年三月号)と題してこの雑誌の歴史をたどった小論を発表したとき、現在もそれぞれの分野で活躍しているかつての同人の方々から、「婦人戦線」の廃刊の直接の原因は資金難でも内部論争でもなく、高群逸枝の恋愛であったという注意を受けた。

私の推論のひとつは、このとき西川が「注意を受けた」というその人は、松本正枝ではないかという視点です。

他方、これは、第一節「橋本憲三にかかわる瀬戸内晴美の言説および伝記小説について」において引用した文になりますが、『談談談』のなかに、以下のような瀬戸内の言説があります。

「婦人戦線が潰れたところがよくわからないんですけど、逸枝さんはよく聞いてみると、男を作って、しょっちゅう逃げ出していたそうですが、ほんとうですか?」26

もうひとつの私の推論は、実はこの言説は、「『婦人戦線』の廃刊の直接の原因は資金難でも内部論争でもなく、[夫と]高群逸枝の恋愛であった」という正枝の証言を、瀬戸内が自己の固有の流儀に従い改変した表現ではないかという視点です。

このふたつの推論に真実があるとするならば、年を重ね高齢に至った正枝は、自ら積極的に瀬戸内と西川に、自分の夫と高群との「恋愛事件」を口に出しては、それをもって『婦人戦線』廃刊の理由に仕立て上げていたことになります。ここでひとつの仮説を立ててみます。自覚のうえに立った事実の吹聴とは異なり、もしこれが、認知症による嫉妬妄想に起因するものであったとすればどうでしょうか。この観点も必ずしも否定できないような気がします。その理由のひとつの根拠は、正枝の「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」が所収されている『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』には、「『婦人戦線』同人のころ」と題された座談会の記事も収録されており、そのなかで正枝が語っている、以下のような発話内容にあります。

わたしは男の子二人。いまは、都の老人ホームに入っています。子どもたちは大きくなればみんな家をとび出して家庭を作っていますから。延島英一が死んでからあとは、本当に解放されました。生きているうちはやはり、なにかとしばられますから。くだらないことを言って叱られたり27

これを私は、こころの奥に存在する過去への不信感と未来への不安感を、現在の気丈夫な言葉で覆った言説であると読むこともできるのではないかと、かすかに思うのです。

もうひとつの理由の根拠は、これもすでに第一節「橋本憲三にかかわる瀬戸内晴美の言説および伝記小説について」において引用したものの再録となりますが、瀬戸内自身が、聞き取り調査をした際の正枝の様子を、こう語っていることです。

 ユーモラスで皮肉なことを、全く飄々とした顔でいってのけるのは、この人の天性のものか、晩年身につけたものかわからなかったが、私には好感が持てた28

わずかながらここに、正枝が「晩年身につけたもの」が認知症由来の嫉妬妄想であった可能性が暗示されているように、私には読めるのです。一方、これもあくまでも単なる可能性にすぎませんが、言葉のもつ作用と反作用の機能に照らすと、瀬戸内は、正枝の話法に「好感が持てた」のではなく、実際には「違和感が持てた」のではないかという推量も成り立ちそうです。それであれば、「違和感が持てた」にもかかわらず、逸枝の「恋愛事件」に関する正枝の証言のおもしろさにひたすらこころが奪われて、「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」の執筆に入っていったことになります。果たして真相はどうだったのでしょうか。残念ながら、すべてはいまだ、闇のなかにあるとしかいいようがありません。

これまでの検討にあって、結局何ひとつ、断定できる確かなものは残りませんでした。しかし、西川祐子と堀場清子との立場の異同だけは、確かなこととして鮮明に残りました。といいますのも、自著の『森の家の巫女 高群逸枝』のなかで西川は、こう書いているからです。

 松本のあまりにいさぎよいふるまいと、半世紀後まで残った鮮やかな記憶は、その後生涯をともにした夫にたいする愛着の深さと、同時に年上の同性である高群にたいする愛情を表していはしないだろうか29

この文に、西川が松本正枝に寄せる絶対的信頼が表出しているように思われます。すでに紹介しているように、堀場は、「松本正枝という人物には、私にはどうもわかりにくいところがある」と、書いています。明らかに、正枝に対する西川と堀場の評価は、完全に対立するのです。しかし、堀場にみられる分析的手法は、西川にはありません。

その一方で、西川は、瀬戸内の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」についても、憲三の「瀬戸内晴美氏への手紙」についても、先行する重要な文献であるにもかかわらず、いっさいその内容に分析を加えていません。つまり西川は、意識的であったのか、無意識であったのかはわかりませんが、「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」が含み持つ虚偽性と残酷性に関して完全に目を伏せ、結果的に瀬戸内に同調してしまったのでした。この点については、西川も堀場も全く同じ立場に立っているということになります。しかしながら、その理由については、ふたりとも本人は何も語っていません。

この文脈にあって、検討すべきこれ以上の傍証は残されていないように感じます。いずれにいたしましても、正直にいって私は、これまでに上に縷々引用した、瀬戸内の、また西川の、そして正枝の、どの文につきましても真意がどこにあるのかを判断しかねます。といいますのも、瀬戸内、西川、正枝の相互の言説のあいだに、あまりにも多くの矛盾や乖離があるからです。これが、私が信憑性や信頼性を維持できない大きな理由なのです。

それでは、次の話題に入ります。瀬戸内の文の影響あるいは継承は、これだけに止まることはありませんでした。栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』(一九九九年、平凡社)に目を向けてみますと、そのことが、色濃く影を落としていることがわかります。

まず、栗原の、憲三に向けるまなざしにかかわる箇所を引用します。

 橋本憲三とは、いったい何者だったのだろうか。鑚仰の中の逸枝像にまつわる得体の知れない不分明さの秘密を知りたくて、多くの研究者は背後にある影のような憲三の存在にいきつく。が、ぶ厚い不分明な壁の前に、ある者は断念し、ある者は嫌悪する。理知の言葉で掬おうとすればするほど、結ぶ像は下手物性を帯びるからで、真面目な研究者はだまされたような、うさんくささを味わわされる。だが、大抵、「稀有な」とか「かけがえのない」といった修飾語をつけ、不分明さの究明は意識的、無意識的に避けられてきたように思われるのである30

憲三に対する極めて否定的な評価です。そう評価する根拠を栗原は四点挙げています。しかしここでは、西川祐子と秋山清の言説に見出そうとするふたつの根拠は横に置き、本稿の文脈にとってより重要であると思われる、そのなかの二点の根拠に絞って、以下に検討します。

一点目の根拠として、栗原は、堀場清子や夫の鹿野政直の研究に対しても「憲三にはこれ以上の他人の介入を許すまいとする不可侵の壁があり、氏に対する遠慮や敬意が研究者にあればあるほど、不分明さを突き崩すことを断念させている」31ことを挙げています。

こう断言するに当たって、栗原は、いかなる証拠(エヴィデンス)になるものも明示しておらず、したがって、追検証はできません。私はこの栗原の断言に少なからぬ疑問をもちます。といいますのも、憲三が死亡すると、鹿野政直は、「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」と題された追悼文を『朝日新聞』に寄稿し、そのなかで、「彼女の作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、その夫がかかわりあっている。橋本氏の編集者的な才能はその妻に向かって集中し、彼女のプロデューサーになった、というのがわたくしの観測である」と評し、末尾を、「橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として(否定のかたちは、必ずしもそれが唯一ではないにせよ)、いわば『新しい女』にたいする『新しい男』として、位置づけられるのが至当ではなかろうかと、わたくしは、氏をいたむ念とともに夢想する」32という文で締めくくっているからです。この追悼文から、「多くの研究者は背後にある影のような憲三の存在にいきつく。が、ぶ厚い不分明な壁の前に、ある者は断念し、ある者は嫌悪する」といった栗原の言説などとても想像することはできません。さらに、堀場と鹿野の橋本家との交流は、憲三が死去したのちも続き、亡くなって二九年が過ぎた「二〇〇五年一月、鹿野政直と私が水俣へ静子を訪ねた」33ときの思い出を、堀場は、のちに書き記すことになるのです。こうした交流の永続性や親密性からも、「理知の言葉で掬おうとすればするほど、結ぶ像は下手物性を帯びるからで、真面目な研究者はだまされたような、うさんくささを味わわされる」という栗原の言説が、いかに尋常なものではなく、妄言に近いものであるかがわかります。

憲三を酷評する二点目の根拠として、栗原は、「作家の瀬戸内晴美は、憲三と逸枝夫婦を小説化しようとして、『文芸展望』に『日月ふたり』の連載を始めたが、途中で匙を投げている。逸枝のある恋愛事件に話が進むと、憲三が異常なほどしつこく、意固地さに凝り固まりヒステリックになったために、執筆継続の意欲を失ったと、後に『人なつかしき』に記している」34ことを挙げています。

しかし私は、すでに本稿において、瀬戸内が「執筆継続の意欲を失った」経緯について検討し、それは、「憲三が異常なほどしつこく、意固地さに凝り固まりヒステリックになったため」ではないことを示唆しました。したがいまして、このことについては、もはやここでは繰り返しません。問題なのは、栗原が、いかなる疑問を呈することもなく瀬戸内の文を全面的に承認し、自身の憲三批判の拠り所に使っていることです。なぜ、先行するひとつの研究事例として、自らの確かな目をもって瀬戸内の執筆態度や方法について、批判的に検討を加えないのでしょうか。そうしていないということは、自分の都合にあわせて自身の思考を放棄し、著名作家である瀬戸内の威のなかにやすやすと身を隠したことを意味し、そのことが伝記作家として問題的であるのではないかと私は思量するのです。といいますのも、伝記作家には、自身の利害を超えて、使用する資料の信憑性や信頼性にかかわって、事前に細心の注意を払って吟味することが強く求められるからです。

いずれにしましても、西川は瀬戸内に直接触れるのを避けるも、瀬戸内に情報を提供した松本正枝のいさぎよさを称賛します。他方栗原は、瀬戸内を積極的に利用しながら、自身が憲三を批判するうえでの後ろ盾に使います。これらの姿勢は、石牟礼や堀場が示した態度とは大きく異なります。「恋愛事件」につきまして、石牟礼は瀬戸内の手法を問題にしましたし、堀場は、正枝の言動と対峙しました。しかし、石牟礼と堀場を別にすれば、残念ながらここに、逸枝と憲三に関する伝記執筆の今日的水準が横たわっているのです。すでに引用によって紹介していますが、瀬戸内の小説によって父親が侮辱された尾竹親は、無念の思いをこうした言葉で書き表わしました。「瀬戸内氏にしても、それが史実をもとにした小説で・・・あってみれば・・・・・・、フィクションとしてのある種の無責任さに救われているのだろうが、時間の経過というものは、得てして、伝説という神話をつくり上げたがるもので、いつかはそれが事実とまではならぬとしても、史実に欠けた情緒の補足としてのさばり返ることがよくあるものだ」。尾竹親のこの言葉は、私の目には、極めて示唆的で、的を射た言葉であるように映ります。

この問題をさらに別の角度から眺めてみます。瀬戸内晴美(寂聴)の作品に伊藤野枝を扱った「美は乱調にあり」と「諧調は偽りなり」という題の伝記小説がありますが、全集(『瀬戸内寂聴全集』第十二巻、新潮社、二〇〇二年)に収められたそれらの作品の巻末には詳細な「参考文献」の一覧が加えられています。一方、逸枝を扱った伝記である西川祐子の『森の中の巫女 高群逸枝』にも、憲三を扱った伝記である栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』にも、確かに巻末に、「参考文献」として関連資料の一覧が存在します。しかしながら、小説であろうと、伝記であろうと、「参考文献」の一覧があるからといって、書かれてある本文が真実であるという保証にはなりません。『森の中の巫女 高群逸枝』と『伴侶 高群逸枝を愛した男』のふたつの伝記は、本文には、一次資料を引用した際に付ける注はいっさいなく、したがって、一次資料によって構成される実証から遠く離れた、単に著者本人の多弁なり能弁なりに頼って語られているのです。それゆえに、これらの伝記は、全集に所収されている瀬戸内の「美は乱調にあり」および「諧調は偽りなり」と、書式上何ら変わりがなく、小説ないしは創作文として読むしかありません。本来的に伝記というものは、歴史学の一部であるがために実証研究を旨とすべきである以上、その観点に立つ私には、明らかにここに、今日の伝記執筆における問題点が潜んでいると思料されます。

それでは次の第三節「高群逸枝の臨終に関する市川房枝とその仲間の言動について」に入ります。この問題も、逸枝や憲三や道子に関心を寄せる研究者であれば、誰しも避けて通れぬ、検討を要する課題であると思われます。

(1)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、217頁。

(2)『瀬戸内寂聴全集』第十二巻、新潮社、2002年、90頁。

(3)「『靑鞜社』のころ」『世界』第122号、岩波書店、1956年2月、129頁。

(4)「所謂新らしき女(二)」『國民新聞』、1912年7月13日、土曜日。

(5)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、37-39頁。

(6)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、183頁。

(7)石牟礼道子「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』思想の科学社発行、1982年1月号(通巻349号)、44頁。

(8)丸岡秀子『田村俊子とわたし』中央公論社、1973年、239頁。

(9)『瀬戸内寂聴全集』第二巻、新潮社、2001年、836頁。

(10)吉永春子『紅子の夢』講談社、1991年、274-275頁。

(11)前掲『わが高群逸枝 下』、183頁。

(12)瀬戸内晴美『人なつかしき』筑摩書房、1983年、69頁。

(13)前掲『わが高群逸枝 下』、183頁。

(14)同『わが高群逸枝 下』、186頁。

(15)同『わが高群逸枝 下』、183頁。

(16)同『わが高群逸枝 下』、187頁。

(17)同『わが高群逸枝 下』、183頁。

(18)瀬戸内晴美「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」『文芸展望』第5号、1974年4月号、427頁。

(19)前掲「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』思想の科学社発行、44頁。

(20)同「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』思想の科学社発行、同頁。

(21)西川祐子『森の家の巫女 高群逸枝』新潮社、1982年、124頁。

(22)同『森の家の巫女 高群逸枝』、同頁。

(23)松本正枝「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』私家版(国立国会図書館デジタルコレクション)、1976年9月、30頁。

(24)同「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』私家版(国立国会図書館デジタルコレクション)、34頁。

(25)同「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』私家版(国立国会図書館デジタルコレクション)、同頁。

(26)瀬戸内晴美『談談談』大和書房、1974年、⑳⑥頁。

(27)座談会「『婦人戦線』同人のころ」『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』私家版(国立国会図書館デジタルコレクション)、1976年9月、17頁。

(28)瀬戸内晴美『人なつかしき』筑摩書房、1983年、70頁。

(29)前掲『森の家の巫女 高群逸枝』、126頁。

(30)栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、18頁。

(31)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、19頁。

(32)鹿野政直「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」『朝日新聞』、1976年6月7日、夕刊5面。

(33)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、249頁。

(34)前掲『伴侶 高群逸枝を愛した男』、19頁。