中山修一著作集

著作集22 残思余考――わがデザイン史論(上)

第四部 「三つの巴」私論集

第一節 橋本憲三にかかわる瀬戸内晴美の言説および伝記小説について

一.瀬戸内の『談談談』における橋本憲三

橋本憲三が、妻高群逸枝の死後、東京の「森の家」での残務整理を終えて、自身の姉(橋本藤野)と妹(橋本静子)が住む熊本県水俣市へ移ったのは、一九六六(昭和四一)年一二月のことでした。この地で憲三は、逸枝の墓をつくり、『高群逸枝雑誌』(季刊)を発行することになります。この雑誌の編集を支えたのが、同じく水俣に住む作家の石牟礼道子でした。道子は、静子を立会人として、「森の家」での同居中に憲三と後半生を誓った間柄にありました。そのとき以来道子は、「最後の人」のメモを取り始め、『高群逸枝雑誌』が創刊されるや、ただちに連載に入ります。

一方、『高群逸枝雑誌』は全国的に評判を呼び、逸枝の業績は、さらに多くの研究者や学生たちを惹きつけました。その結果、絶えることなく逸枝巡礼者が水俣を訪れてくるようになったのです。そのなかのひとりに、作家の瀬戸内晴美がいました。一九七三(昭和四八)年の二月一日の憲三の「共用日記」(妻の逸枝が亡くなってからは事実上憲三単独の日記)には、瀬戸内の訪問が、こう記されています。

午後八時三十分-10時50分、瀬戸内さん、村上彩子さん(筑摩書房)とみえる。石牟礼さん同道

翌二月二日の日記には、次のような文字が並びます。

午前一一時、瀬戸内さん村上さん、Mさん。瀬戸内さんお墓まいりしてくださったと。紅梅白梅がさいていたと。室にいらず、そのまま水俣駅へ(庭で静子あう)

「Mさん」とは、石牟礼道子のことでしょう。このとき憲三は、庭に二階建ての建物を建て、一階を、藤野と静子が経営していた、食品や日用雑貨を扱う橋本商店の倉庫に貸し、二階を、自室と『高群逸枝雑誌』の編集室にあてていました。このとき筑摩書房の村上彩子が同伴していることや、その五箇月後に「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」が筑摩書房発刊の文芸雑誌である『文芸展望』に登場することから推し量れば、このときの訪問は、逸枝と憲三の伝記を書くに当たっての事前の了解をとるためだったのではないかと思われます。

瀬戸内は、『文芸展望』に「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」を連載するに先立って、松本正枝という女性に会って取材をしています。そのことが見て取れるのは、瀬戸内が、自著の『談談談』のなかで政治家の小沢遼子と中山千夏を相手に語る場面においてです。その箇所を、以下に引用します。

瀬戸内 ……だから私は男性で、内助の夫の系列というのを書こうと思って、岡本かな子と一平、高群逸枝と橋本憲三がいいと思って水俣へ行ってみたの。ところがだんだんいろんなことがことがわかってきてね。仲がいいかと思っていたら、その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって。
中山 普通との反対みたいね

瀬戸内が水俣の憲三宅を訪ねたとき、本当に憲三は、このようなことを瀬戸内に話したのでしょうか。上の引用で示していますように、「共用日記」によれば、憲三が瀬戸内に会ったのは、一九七三(昭和四八)年の二月一日のことで、このときがはじめてです。しかも、面談したのは、午後の八時三〇分から一〇時五〇分までの二時間と二〇分です。「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」といった内容のことを、憲三が初対面の瀬戸内に二時間余の短い会話のなかにあって語ったとは、にわかに信じることはできません。

続けて瀬戸内は、小沢と中山に対して、こんなことも話題にします。

瀬戸内 ……きのう私が訪ねて行ったおばあちゃまのところできいてみたの。「婦人戦線が潰れたところがよくわからないんですけど、逸枝さんはよく聞いてみると、男を作って、しょっちゅう逃げ出していたそうですが、ほんとうですか?」「ええ、ほんとうですとも。われわれの時代のアナキストは恋愛に対してもアナーキーで、逸枝さんはそれを実行なさいました。人の亭主でもなんでもおかまいございませんの」「だれか逸枝さんの相手で覚えている方ございませんか?」「はあ、ございますとも」そのおばあさんはそれからちょっと出ていってお茶を入れて、「うちの人です」(笑い)。
小沢・中山 へえー(笑い)

瀬戸内は、「きのう私が訪ねて行ったおばあちゃまのところできいてみたの」といっていますが、この「おばあちゃま」というのは、たぶん松本正枝(本名は延島治)のことでしょう。そして、瀬戸内は、小沢遼子と中山千夏を相手にしたこの対談について、「本書のための語り下ろし 昭和四十八年五月十日赤坂にて」と書いています。それであれば、「おばあちゃま」を訪ねたのは、前日の五月九日で、水俣訪問から約三箇月後のことになります。そこから類推しますと、「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」と語ったのは、橋本憲三本人ではなく、松本正枝だった可能性が派生します。もしそれが真実であったとするならば、瀬戸内は、小沢遼子と中山千夏のみならず、多くの読者に対して、憲三にかかわっての虚偽の印象を植え付けたことになります。

瀬戸内の『談談談』が世に出たのは、一九七四(昭和四九)年二月です。憲三がこの本を手にしたのは、それから半年後のことでした。といいますのも、八月七日と翌八日の憲三の「共用日記」に、次のような文字が書き込まれているからです。

八月七日「石牟礼氏に電話。夕方みえる。みやげものもらう。お茶も。10時に辞去。辺境五と瀬戸内氏の談談談をもらう。睡眠薬服しすぐ就寝」。
八月八日「けさ、談談談を散見したら、一項目、さんたんたる事実無根の記事あり。……」

こうして憲三は、瀬戸内の『談談談』に事実無根の記述を見出すのでした。昨日人から聞いた醜聞を、真偽を確かめることもなく、さもおもしろそうに他人にいいふらし、さらにそのうえに、それを自慢げに文字に書く、瀬戸内晴美という作家に対して、憲三は、強い不信感を抱いたにちがいありません。

上に引用した『談談談』のなかからの二箇所は、逸枝と憲三の名誉にかかわって公然と事実を指示して毀損するものであるといわざるを得ません。この場合、指示された事実の内容に関して、その真偽が問われることはありません。つまり、書かれている文の内容が、真実であろうと虚偽であろうと、逸枝と憲三の名誉感情や自尊感情が公然と著しく毀損されていれば、刑法が定める名誉棄損罪が成立する可能性を排除することはできないのです。何ゆえに瀬戸内は、憲三にいわせれば「事実無根の記事」をかくも平然と書くのでしょうか。憲三は、いうまでもなく存命中の人物です。憲三の苦しみはいかほどだったでしょうか。私は、想像するにつけ、瀬戸内の真意を測りかねるとともに、その残忍さにこころが痛みます。

二.瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」における高群逸枝

明らかに憲三は、『談談談』において自身の、そして妻の名誉を毀損されました。しかし、これが最初ではありませんでした。

一九七四(昭和四九)年の三月二六日に、憲三は、瀬戸内晴美の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が掲載された、四月に発売予定の『文芸展望』第五号の見本誌が、筑摩書房の村上彩子から事前に送られてくると、二日後の二八日に、瀬戸内に宛ててはじめての手紙を書きました。一九七四(昭和四九)年の憲三の「共用日記」には、このように書かれてあります。

三月二六日「文芸展望5、村上彩子さんからとどく(筑摩書房)。瀬戸内氏『日月ふたり』3、掲載」。
三月二八日「瀬戸内氏にはじめて手紙をかく」

それではまず、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」には、どのようなことが書かれてあったのかを見てみたいと思います。憲三の瀬戸内宛ての反駁の手紙は、手紙としては実に長大なもので、そのなかで、「……というのはちがいます」「……混同ではないでしょうか」「……といったおぼえはありません」「……のことは私はしりません」「……全く考えられないことです」などといった表現を使って、幾つもの誤謬を指摘するのですが、そのうちの最大の核心部分は、『婦人戦線』のころの同人であった松本正枝が、逸枝の恋人が自分の夫の延島英一であったことを、聞き手の瀬戸内晴美に語る、次の場面でした。

 逸枝の印象を訊くと、
「そうですねえ」
 と、ちょっと遠い所を見る目つきをして、
「とにかく変わった人でしたから」
 といい、口辺に微笑とも苦笑ともとれる笑いを浮べながら、
「あの人はアナーキストでしたからね……恋愛もアナーキーに実践なさいましたよ」
 という。
「ということは、橋本さんの他に恋人がいたということでしょうか」
「ええ、アナーキーな恋ですから」
「その頃の恋の相手の方を御存じでいらっしゃいますか」
 正枝さんは、小さな肩をちょっと落とすようにして、ふっと座を立つと部屋を出ていった。玄関のつきあたりにあった炊事場でお湯をわかしてきた薬かんをさげてほどなく部屋にもどってきた人は、白い柔和な表情で、またふっと軽く微笑して坐りながらさらりといってのけた。
「存じておりますとも」
 さっきの話のつづきのつもりらしい。
「うちの主人でしたから」

逸枝を中心とする無産婦人芸術連盟が結成されたのは、一九三〇(昭和五)年の一月でした。構成員は、伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子の一四名。そして、続く三月に、この結社の機関誌となる『婦人戦線』が創刊され、それは、翌年(一九三一年)六月刊行の第二巻第六号まで続きます。この間、松本正枝もこの雑誌に論考を寄稿しますが、瀬戸内に宛てた手紙のなかで憲三は、「松本さんの『婦人戦線』論文はほとんど(あるいは全部)延島さんの代筆。たぶん住井すゑさんはご存知でしょう」と書いていますので、松本正枝はこの雑誌の活動にほとんど加わっておらず、実質的には、夫の延島英一が関与していたことになります。これが、『婦人戦線』を巡るおおかたの環境でした。そして四〇年以上が経過したこの時期に至って、松本正枝は、逸枝と自分の夫の延島がその当時恋人関係にあったことを瀬戸内に暴露したのでした。

それに対して憲三は、手紙のなかで、どう反論したのでしょうか、次に、それを見てみたいと思います。「あの人はアナーキストでしたからね……恋愛もアナーキーに実践なさいましたよ」という語句については、「事実は全く正反対。恋愛論においても。実践において」10と主張し、「ということは、橋本さんの他に恋人がいたということでしょうか」という発語については、「現在の私、次号を読まない私には、『恋人』の語は適当とは思われません。強いて考えれば、表層的擬恋の状況とでもいうものではないかと思われるのです」11と、切り返します。逸枝と延島は、『婦人戦線』を通して、ともにアナーキストとして思想的に共感しあう間柄でした。瀬戸内の問いかけに、松本はそれを「アナーキーな恋」と表現し、一方の憲三は、「表層的擬恋の状況」という言葉で表わします。

いずれにいたしましても、このとき憲三は、自分と自分の妻が、事実と異なる姿でもって世間に公表されたことに、耐えがたい無念と屈辱を感じたのではないかと推量されます。そこで生前にあって憲三は、「この写しはあなたに参考にしていただこうと、気息えんえんながら起きて書いたものです。雑誌にいつかのせる気になるかも知れないとの潜在意識もあったらしくて」12と書き添えて、この手紙のコピーを石牟礼道子に託すのでした。事実その手紙は、「瀬戸内晴美氏への手紙」という題で、憲三の死後四年が立った一九八〇年一二月に刊行された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)において、実際そのとおりに、公開されることになります。憲三の無念は、彼を慕う、静子の無念でもあり、道子の無念でもあったのでした。

三.松本正枝の「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」に関して

それでは、松本正枝という女性につきまして、ここで少し検討しておきます。高群逸枝が主宰する『婦人戦線』が創刊されたのは、一九三〇(昭和五)年三月でした。それから七箇月遅れてその年の一〇月に、松本正枝の夫の延島英一が『解放戦線』を発刊しました。逸枝は、自身の『婦人戦線』だけでなく、延島の『解放戦線』にも寄稿します。一方延島は、松本正枝の筆名で逸枝の『婦人戦線』に論考を書きます。女性史研究者の堀場清子は、『婦人戦線』の同人であった住井すゑに、『婦人戦線』における松本正枝名の論考は、自伝特集号の際の文以外はすべて延島英一の代作であったことを確認したうえで、自著の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』のなかで、次のように自身の見解を述べていますので、ここに紹介します。

[『解放戦線』は]延島英一の主宰で、解放社から5冊まで出た。逸枝は毎号力作の論文を寄せ、その高揚感から、英一との間に稀有の思想的共鳴があったと感じさせる。彼の妻松本正枝(本名延島治)は、1970年代になって瀬戸内晴美氏に、『解放戦線』は「二人の恋の記念碑」と語り、故事を白日の下に曳き出した。二人が‶恋愛関係″だったか否かを、私は審かにしない。……英一の側に恋愛感情のあったのは事実であろう。『婦人戦線』最後の2冊(2巻5号・6号)の「松本正枝」書名の論文は、あげて高群攻撃である。振られた男の恨み節とでもいうべきか。それにしても、代作によって『婦人戦線』同人になっていた(晩年に至るも同様の姿勢だった)、延島治という人の心理が、私には解りにくい13

瀬戸内が松本正枝に会った一九七三(昭和四八)年五月九日、両人がどのような会話をしたのかは、資料が残されていませんので、それを再現することはできません。しかしながら、三年後の一九七六(昭和五一)年九月に、『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』と題された私家版(国立国会図書館デジタルコレクション個人送信にて閲覧可能)が発行され、そのなかに、松本正枝の「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」という一文が掲載されていますので、そこから、松本が瀬戸内に話した内容を類推することができます。

この私家版が発行されたとき、『婦人戦線』の最終号の刊行年から数えて、すでに四五年が経過していました。また、瀬戸内が松本に取材した日から、この『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』が刊行された日までにあって、瀬戸内の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」は『文芸展望』に掲載され、すでに五回の連載をもって「了」となっていました。それでは、「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」のなかで、松本正枝は、その「恋愛事件」について、実際にどう書いているのでしょうか。

ラブレターを先に女性から手渡されてどうして男性がそれを受けないでいられましょう。「据膳食わぬは男の恥」という言葉を英一が教えられたのはその時だったでしょう。思想的に大いに共鳴しあいしかも肉体的に喜びを分ちあえる友はそうざらにいないでしょう。彼女は橋本氏にないものを彼に見出したのでしょう14

こうして、自分の夫の英一と逸枝のあいだに、肉体関係があったことを、誰にはばかることもなく、明言するのです。そして、瀬戸内の「日月ふたり」については、次のように言及します。

一つの事件を三人三様にいい立てるのですから、「日月ふたり」を文芸展望に発表されて橋本氏を高群氏という素材を名器に仕上げた人と評する瀬戸内さんの多大な研究・取材は実に大きいと思います15

最後にこの文を、松本はこのような言葉で結ぶのでした。

故人となった高群氏の「婦人戦線」時代を高く評価する人々、反面「実り少ない時期であった」と過小評価する、むしろ否定する橋本氏。しかし、高群氏をあの当時私が尊敬していた事、また今でも尊敬している事はかわりありません16

以上の三つの引用文から、松本が瀬戸内に語ったであろうと思われる会話内容が伝わってきます。瀬戸内は、のちに上梓した『人なつかしき』に所収の「日月ふたりのひとり 橋本憲三」において、松本という人物をこう評しています。

 正枝さんの話し方は決して逸枝さんと夫との情事を非難しているふうではなく、過去の事実として語っているという感じを受けたし、高群逸枝という天才女人の多面的な性格の説明にはなっても、逸枝の人格の瑕瑾として感じるような話し方ではなかった。
 ユーモラスで皮肉なことを、全く飄々とした顔でいってのけるのは、この人の天性のものか、晩年身につけたものかわからなかったが、私には好感が持てた17

瀬戸内は、ひたすら松本正枝の語りに好感を寄せます。そして、瀬戸内の目には、英一と逸枝の関係は「情事」として映りました。こうして、伝記執筆に必要とされる、事象にかかわるクロス・チェックがなされないまま、瀬戸内は、松本から得られた取材内容をそのまま信じ、「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」の執筆に入るのでした。

それでは、本当のところ、逸枝と英一の関係はどのようなものだったのでしょうか。それを解き明かす証拠となる一次資料が残されていないようですので、断定することはできません。あえていうならば、この言説は、不倫をしたであろうと思われる夫の、その妻の言説だということです。必要とされる証拠(エヴィデンス)は、あくまでも、不倫をした当事者の、日記か書簡に記された言説に求められなければなりません。そうした物証が現時点で存在しないのであれば、何らかの利害関係があることを排除できない妻の言説のみをもって、英一と逸枝の関係を「情事」ないしは「恋愛事件」と決定づけるのは困難ではないかと思われます。そもそも、四〇年もの歳月が流れた過去の夫の不倫を公言することによって、いかなる利益がその妻にもたらされるというのでしょうか。もし仮にこの言説が、何らかの理由から、たとえば、妄想や自虐的快楽のような精神的要因から、真実性を欠くものであったとするならば、どうでしょうか。夫の英一の名誉はいうまでもなく、その相手とその夫の名誉もまた、損なわれることになるのです。そこで、この「事件」を、記述の素材にするに当たっては、瀬戸内晴美には、極めて慎重な配慮が必要だったのではなかろうかと愚考します。つまり、最終的にいまだ事実確認ができていない以上、松本正枝の証言は、証拠としての有効性や信頼性に乏しく、一般的にいえば、伝記を執筆するに際しては、参考までに紹介することはあっても、事柄の断定に用いられるべきではないのではないかというのが、私が思料するところです。

さらに、一般論としての観点から、私見をいわせてもらえるならば、この世の中には、「情事」や「恋愛事件」に異常にも関心をもつ著述家や記者がいて、他方で、その人に、極端に誇張された「事件」を吹聴し、それを嬉々として文にする書き手の姿と、それを読んで端無くも歓喜する読者の姿とを、遠くから眺めては愉快な感情に浸る人間がいることは、否定しがたいのではないかということです。

松本正枝の「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」が掲載された『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』が私家版として公開されたのは、一九七六(昭和五一)年九月でしたので、逸枝の死去(一九六四年六月)からすでに一二年が立っていました。他方、憲三の死去(一九七六年五月)からは、まだ四箇月しか立っていません。なぜこの時期の出版になったのでしょうか、そして、その出版目的は一体何だったのでしょうか。静子と道子がこれを目にしたことを示す資料は残されていませんが、もし読んでいたとするならば、ふたりの胸中はいかがなものだったでしょうか。死者といえども、守られるべき尊厳も人権もあるはずです。憲三を亡くし服喪のさなかにある両人には、耐えがたいものが残ったものと推量されます。

四.瀬戸内の「日月ふたりのひとり 橋本憲三」に関して

「日月ふたり(最終回)――高群逸枝・橋本憲三――」が世に出たのは、一九七五(昭和五〇)年一月発刊の『文芸展望』(第八号)においてでした。それから八年が過ぎた一九八三(昭和五八)年に、瀬戸内晴美は『人なつかしき』を上梓します。これは、これまでの瀬戸内の交友録に相当し、「日月ふたりのひとり 橋本憲三」の一文も所収され、そのなかで瀬戸内は、「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」の執筆を途中で断念した経緯を回顧して、こう書いています。

 しかし、話が逸枝と延島英一の恋愛のことに進むと、俄然神経質になられて異常なほどしつこく、延島未亡人の正枝さんが、逸枝の手紙を秘蔵しているのではないかといって来られた。
 それまで私に示されていたのとは全くちがう憲三氏があらわれた。……正枝さんから私はそういうものは見せられていないといっても、信じてもらえないようであった。……
 私は正直いって、憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、「日月ふたり」を書きつづける意欲を失っていった18

しかし私は、この理由に、疑問をもっています。といいますのも、本人がそう語っている以上、そのことはそのとおりであるにちがいないと思われますが、それだけが理由となって「『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」わけではないのではないかと考えられる余地が、他方で残されているからです。

一点目。瀬戸内晴美と筑摩書房の村上彩子が、はじめて憲三を水俣に訪ねたとき、石牟礼道子も立ち会っています。おそらくそのとき、憲三がつくる『高群逸枝雑誌』のことが話題になり、道子も、この雑誌に逸枝と憲三の評伝である「最後の人」を連載していることを話したにちがいありません。それから一年が過ぎた一九七四(昭和四九)年の四月に、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が『文芸展望』に登場するのですが、ちょうど同じ月に、「最後の人 第十一回 第一章 残照2」も世に出るのです。当時ふたりは、まさしく競合するテーマで執筆しているのです。瀬戸内の連載回数は、いまだ三回で、道子のそれは、すでに一一回を数えます。扱っている資料は、松本正枝などからの聞き取りもありますが、主に瀬戸内が利用しているのは、逸枝と憲三が著わした『火の国の女の日記』です。一方の道子は、「森の家」での憲三との同居生活の実際から「最後の人」を書き起こすという、極めて恵まれた立場にありました。この先、道子の「最後の人」が出版されることになれば、瀬戸内の立場はどうなるでしょうか。

二点目。「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」から五箇月後の九月、鹿野政直と堀場清子の夫婦が憲三を訪ねてきました。鹿野は、日本近代史を専門とする早稲田大学の教授で、堀場は女性史家です。ともにふたりは、逸枝の生き方と業績に共鳴していました。その年の一二月から、いよいよ橋本憲三と堀場清子のあいだで、郵便を介した一問一答形式による「おたずね通信」がはじまります。さらに年が明けた一九七五(昭和五〇)年の一月、再び鹿野と堀場の夫妻が憲三を訪問してきました。この先、憲三と堀場の「おたずね通信」が書籍化されることになれば、瀬戸内の立場はどうなるでしょうか。「日月ふたり(最終回)――高群逸枝・橋本憲三――」が『文芸展望』(第八号)に掲載されたのは、その月の一五日のことでした。文末には、「(了)」の文字が記されました。

三点目。橋本憲三が瀬戸内に宛てて送った手紙のなかには、「固有名詞――地名人名などの誤植は校正者にはわからないと思われるものがありますから、『日月ふたり』完結後に、正誤表をつくってみて、差し上げようと思っています」19という記述がありました。仮にこのまま連載を続け、今後そうした「正誤表」が『高群逸枝雑誌』などにおいて発表されることになれば、瀬戸内の立場はどうなるでしょうか。ましてや、固有名詞だけに止まらず、内容についての「正誤表」も公開されるならば、瀬戸内の文の信憑性や信頼性が厳しく問われることになりかねません。

さらには四点目として。「日月ふたりのひとり 橋本憲三」のなかで、瀬戸内は、「憲三氏と逸枝の愛のかたちを知りたかった」20と書いています。もしそれだけが執筆の目的であったとするならば、五回の連載をとおして、一九二五(大正一一)年の九月、逸枝が置き手紙を残して、当時自宅に寄宿していた憲三の友人男性と家を出た「事件」と、『婦人戦線』時代の逸枝と延島英一との恋愛を巡る「事件」とを書き終えたいま、もはや瀬戸内の関心は完全に燃焼してしまい、その後に続く、逸枝の女性史学の完成へ向けての物語まで書く意欲は最初からなく、五回目のここがちょうど連載の「(了)」にふさわしい時期だったのかもしれません。

以上の四点が、「憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」とする瀬戸内の言説を疑問に思う私の理由です。その裏付けとなるであろう傍証を以下に三つに分けて引用します。「日月ふたりのひとり 橋本憲三」の書き出しの部分です。

 最近、水俣の橋本静子さんから、『わが高群逸枝』という本の上下冊を贈っていただいた。著者は橋本憲三・堀場清子共著の体裁である21

『わが高群逸枝』(上下二巻)は、憲三の死去から五年後の一九八一(昭和五六)年九月に上梓されました。瀬戸内は、こう続けます。

 この本は、堀場さんが昭和四十九年九月から、水俣に隠棲されていた橋本憲三氏と接触を持ち、氏の全面的な協力を得て、研究途上の数々の質問を発し、それに憲三氏が答えるというユニークな方法を採り、その往復書簡や、口頭らしいものを中心に据え、未発表の原稿、日記、書簡等々の貴重な資料を投入した文字通りの労作である。高群逸枝研究としては、空前絶後といってはばからない、貴重で完璧に近い研究の見事な成果である22

この本が静子から送られてくる前の段階において、瀬戸内は、堀場と憲三の「おたずね通信」が進行しているのを知っていました。さらに続けて、瀬戸内は、こう明かします。

 私は堀場さんに一度もお逢いしていない。しかし堀場さんが熱心に橋本氏を訪ね、橋本氏が好意的に積極的に堀場さんの研究に手を貸されていることは、静子さんや石牟礼道子さんから伺って知っていた23

私は、以上三つに分けて引用した傍証をもって、「憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」とする瀬戸内の言説に、ある種の独善性を感じ取らざるを得ません。つまり、事実はそうではなく、進行している堀場と道子によるそれぞれの高群逸枝・橋本憲三伝の執筆が圧力となって、瀬戸内をしてそうさせたのではないかと、私は推量するのです。

「日月ふたりのひとり 橋本憲三」を読み進めると、瀬戸内の独善的言説は、ほかの数箇所にも散見できますので、さらにここにおいて検討を続けます。

瀬戸内は、こう書いています。

「日月ふたり」を書きはじめると、憲三氏はたいそう喜ばれ、毎月懇切な批評や、誤りの訂正をして下さった。こまごましたお手紙で私にはすべて有難かった24

しかし、これが真実であるかどうか、私は、疑わしく思います。といいますのも、すでに引用で示していますように、一九七四(昭和四九)年三月二八日の「共用日記」に憲三は、「瀬戸内氏にはじめて手紙をかく」と書き記しているからです。これは、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が掲載された『文芸展望』が筑摩書房から送られてきた二日後のことです。つまり、ここから判断しますと、憲三は、「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」の第一回についても第二回についても、瀬戸内がいうような「懇切な批評や、誤りの訂正」など、いっさい送っていないのです。

さらに続けます。瀬戸内は、このようなことも書いています。

 しかし、憲三氏があんなに早く亡くなるとは思っていなかったので、その訃報に接した時はショックであった。……
 私はやはり「日月ふたり」を最後まで書きあげるべきだと思った。そうすることで、憲三氏のこの世で最も気にしていられた事柄の答えがでるだろうと思った。
 私はおくればせながら水俣へ出かけ、憲三氏のお悔みを静子さんに申し上げた。……
 私は母屋の仏間に通されて、心から読経し、世にも不思議な稀有な愛に結ばれた夫婦のために回向した。
 私は静子さんに「日月ふたり」を必ず完成すると誓った25

「憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」と書いていた瀬戸内でした。その憲三が他界したいま、もはや「次第にヒステリックになる追及」はありません。さらに、静子に対して、「『日月ふたり』を必ず完成すると誓った」瀬戸内でした。しかしながら、どういうわけか、瀬戸内がその執筆に向かった形跡は残されていません。残ったのは、ただ言葉の軽さだけだったのです。

最後にもうひとつ。同じく「日月ふたりのひとり 橋本憲三」のなかからの引用です。

橋本家の人々の大らかさとあたたかさは、静子さんでほぼ想像出来たが、橋本家の方々にお逢いして、いっそうそれが橋本家の家風から生まれるものだったということを納得したことであった。この家族だから、逸枝のような人物が受けいれられたのだとうなずけた。
 神経質な憲三氏だけが、ひとり際立っているように感じられた26

この家には、憲三の姉で独り身の藤野と、夫を亡くした妹の静子と、おそらくその子どもが住んでいたと思われます。憲三が死亡して二年後に藤野も亡くなります。瀬戸内のこのときの訪問は、何年の何月だったのかはわかりませんが、もし存命中であったとしても、藤野は病床に臥していました。瀬戸内は、「橋本家の方々にお逢いして」と書きますが、果たして静子以外に誰と会ったのでしょうか。また、「神経質な憲三氏だけが、ひとり際立っているように感じられた」と書きますが、最初の訪問のときは静子とは庭ですれ違っただけです。したがいまして、今回の面会が二回目となりますが、果たしてそれだけで、橋本家の家の様子や、憲三の性格が、本当に理解できるのでしょうか。

憲三と藤野の主治医で、このふたりを看取ったのが佐藤千里です。彼女は文筆家でもあり、憲三と藤野についての文を雑誌や新聞に寄稿しています。しかしながら、橋本家の内情に詳しい佐藤さえも、家族のなかで「神経質な憲三氏だけが、ひとり際立っている」ような描写は一度たりともしていません。それよりむしろ、憲三を含む橋本家の兄弟愛が多く描かれているのです。

その一例を以下に紹介します。一九五五(昭和三〇)年の四月、「森の家」に憲三の兄弟が集まり、兄弟会が開かれました。橋本家には、男四人、女ふたりの六人の兄弟姉妹がいました。そのとき、出席がかなわなかった水俣に住む藤野に感謝状を書くことになり、逸枝が毛筆しました。

    感謝状
  橋本ふじの様
あなたは、終始父母のために計
りその老後を楽しませること
につとめられました。
また私ども兄弟にも絶えず
愛情を頒たれました
ここに兄弟会東京開催
にあたり記念品を贈り感謝します。
  昭和三十年四月十一日 兄弟会
    球磨村 橋本秀吉
    東京都 橋本憲三
    福岡市 橋本武雄
    人吉市 橋本袈義
    水俣市 橋本静子27

このとき作成された感謝状を、藤野は、亡くなるまでとても大事に部屋に飾っていました。続けて佐藤千里は、このように書きます。

 眠っているようなふじのの胸に、妹の静子は壁の感謝状を下ろしてそっと抱かせてやった。野辺の送りをすませた後もその感謝状は、勳何等とやらの勲章よりもっとさん然たる光を放って私の目に灼きついている28

こうして藤野は、深い姉妹愛に抱かれて、逸枝と憲三の待つ世界へと旅立ったのでした。

この事例を根拠に考えますと、家族のなかで「神経質な憲三氏だけが、ひとり際立っている」という瀬戸内の観察には、ある種欺瞞的な違和感が生じます。こうした表現でもって強調することによって、「日月ふたり」の執筆中断を、瀬戸内はどうしても「神経質な憲三」のせいにしたかったのかもしれません。しかし、生きて、瀬戸内の「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」を読まされなければならなかった憲三の心情を察するならば、その精神的衝撃は極めて大きく、その結果、神経質にも、ヒステリックにも、なろうというものです。逆に、そうならない方がおかしいかもしれません。瀬戸内のこの小説と、続いて発表される戸田房子の小説「献身」とが、病にあった憲三の死期を早める、決して小さくない要因になったのではないかと、私は推量します。憲三が死を迎えるのは、それから二年後のことでした。

このときの瀬戸内の水俣訪問は、何が目的だったのでしょうか。謝罪の意味がこめられていたのかどうかはわかりません。しかし、たとえそうであったとしても、静子は、瀬戸内がこれまでに書いた文を許すことはなかったものと思われます。といいますのも、瀬戸内の水俣訪問の前かあとか、それは断定できませんが、憲三の死から四年が立った一九八〇(昭和五五)年の一二月、生前瀬戸内に宛てて書き、そのコピーを道子に預けていた憲三の抗議文が「瀬戸内晴美氏への手紙」という題名となって、静子と道子の手によって刊行された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)に掲載されることになるからです。

それでは、次の第二節「瀬戸内晴美の伝記小説に向けられた言説について」において、瀬戸内の書く伝記小説について、かつて関係者はどのような思いでそれを読んでいるでしょうか、その事例の一部を拾い上げてみたいと思います。そして同時に、堀場清子、石牟礼道子、西川祐子、および栗原葉子といった論者は、「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三」をはじめとする瀬戸内の言説をどう読み、どのような思いに駆られているでしょうか、その事例についても検討してみたいと思います。

(1)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、178頁。

(2)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(3)瀬戸内晴美『談談談』大和書房、1974年、⑳⑥頁。

(4)同『談談談』、同頁。

(5)同『談談談』、⑳④頁。

(6)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、186頁。

(7)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、184頁。

(8)瀬戸内晴美「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」『文芸展望』第5号、1974年4月号、424頁。

(9)橋本憲三「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、59頁。

(10)同「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、54頁。

(11)同「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。

(12)同「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、52頁。

(13)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、58-59頁。

(14)松本正枝「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』私家版(国立国会図書館デジタルコレクション)、1976年9月、31-32頁。

(15)同「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』私家版(国立国会図書館デジタルコレクション)、33-34頁。

(16)同「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』私家版(国立国会図書館デジタルコレクション)、34頁。

(17)瀬戸内晴美『人なつかしき』筑摩書房、1983年、69-70頁。

(18)同『人なつかしき』、69-70頁。

(19)前掲「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、58-59頁。

(20)前掲『人なつかしき』、69頁。

(21)同『人なつかしき』、66頁。

(22)同『人なつかしき』、同頁。

(23)同『人なつかしき』、67頁。

(24)同『人なつかしき』、69頁。

(25)同『人なつかしき』、70-71頁。

(26)同『人なつかしき』、71頁。

(27)佐藤千里「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と真實』通巻第350号 8月号、1978年7月、47頁。

(28)同「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と真實』通巻第350号 8月号、48頁。