中山修一著作集

著作集22 残思余考――わがデザイン史論(上)

第三部 高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論

第二話 高群逸枝の「母系制の研究」に思う

はじめに

著作集14『外輪山春雷秋月』所収の「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」を先ほど脱稿しました。そのなかの主人公のひとりである高群逸枝は、日本における女性史学の創始者として名高く、その最初の書が、一九三八(昭和一三)年に厚生閣から上梓された『大日本女性史 母系制の研究』でした。高群にとっての女性史学開祖の眼目は、かつては日本の原始・古代時代においても女性を中心にした社会が成立していたことを例証することでした。その後「母系制」は、高群の説くところによれば、家父長的な男性中心の家制度に取って代わられ、女性にとっての屈辱の時代が進行し、やっと明治期に入り、『青鞜』の発刊をひとつの道標として、新たに女性の時代の幕が切って落とされたのでした。

高群が概観する日本女性史を念頭に、「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」を擱筆したいま、改めて読み返してみますと、明らかにそこには、他者に見出した母親たる「妣」の系列としての「平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子の女三代」と、現世の生みの親たる「母」の系列としての「中村汀女、小川濤美子、小川晴子の女三代」との、ふたつの族母の歴史が横たわっていました。そこで、記憶が薄れる前に、異なる女系三代記を、短くここに書き留めておきたいと思います。

一.平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子の女三代

かつて一九一一(明治四四)年九月に『青鞜』を創刊していた平塚らいてうは、高群逸枝の詩集との出会いについて、このように記述しています。らいてうは、逸枝より八歳年長でした。

 わたくしが高群さんの存在を知ったのは遅く、大正十五年ごろかとおもいます。ふとした機会に、高群さんの詩集「東京は熱病にかかってゐる」ほか、二、三の彼女の文章を読んだときから、わたくしの魂は、すっかりこのひとにつかまえられてしまいました。
 初めて高群さんの著作にふれたとき、四、五日というものは、まるで恋人の姿や声やその言葉一つ一つが、たえず頭のなかを胸のなかを駆けまわるように、高群さんの詩句の断片で、わたくしの心は占められたかのようでした

逸枝の『東京は熱病にかゝつてゐる』は、一九二五(大正一四)年一一月に萬生閣から出版された全二五節から構成される長編詩です。らいてうは、『東京は熱病にかゝつてゐる』を読むと、おそらく誰かに、逸枝に宛てた伝言を託したものと思われます。一九二六(大正一五)年の四月、それを受け取って感動した逸枝は、近刊の『戀愛創生』と一緒に、らいてうに一通の書簡を送りました。以下は、その一部です。

 長い間今日を期待しておりました。あなたからのご伝言を承ることは私にとりまして当然なことでございます。私はあなたを母胎として生まれてきたものでございますし、私ほどあなたのために、激昂したり、泣いたりしたものがございましょうか

『青鞜』が発刊されたとき、逸枝はまだ一七歳の子どもでした。しかし、「新しい女」や「新しがる女」といった蔑称でもって世間から愚弄され、厳しく批判されることに触れた逸枝の魂は、怒りの炎に包まれていたのでした。逸枝の書簡は、次のように続きます。

 「人はみな悪人です。私が子供であって、かたきをうつことの出来ないのをお許し下さい」と、私は早い頃、あなたに対していのっていました。それはもう早い昔、あなたが世間から憎まれていらっしゃる頃でした。
 それから、事ごとに、あなたのために泣きました。それはもちろん私のためにでございます。私には、ひとの無知が、くるしかったのです

この短い一文から、らいてうの苦しみを自分の苦しみとして引き受け、「かたきをうつ」ために、そしてまた「ひとの無知」を瓦解させるために、その後の逸枝の、女性史研究という険しい学問への道は用意されたのではないか、そのようなことが想像できます。つまり、この文が暗示しているのは、らいてうが『青鞜』の創刊の辞として発した「元始、女性は實に太陽であつた」という仮説を、学問としてはっきりと実証してみたいという、逸枝の胸に深く刻まれた思いではないでしょうか。そうであれば、このときすでに逸枝には、詩人から学者へと向かう己の必然的な道筋が明確に見えていたにちがいありません。逸枝は、こういいます。

 私は学問が偏見を破る大きな武器であることを知った。……固定観念や既成観念への、火の国女性的なたたかいも、このへんからはじまった

ここに、火の国の女がもつ正義感と義侠心が情動し、詩人としての熱い感性を携えて、学者固有の、冷徹なる知の産出へと向かう、逸枝の、その瞬間的契機を見るような思いがします。

さて、上で紹介した一九二六(大正一五)年四月の高群かららいてうへの返信には、このような一節も書かれてありました。

あなたの伝記を書くことのできる、たった一人の存在が、私であることさえも、私はかたく信じています。私はもしかしたなら、あなたご自身よりも、もっとあなたをいい現わすことができるかも知れません。なぜなら、私はあなたの娘ですもの。あなたの血の純粋な塊が私ですもの

それから三一年の歳月が流れます。一九五七(昭和三二)年一二月、逸枝は、らいてうに宛てた手紙で、こう書くのでした。『女性の歴史』(下巻)のなかの第五章第二節の「先駆者平塚らいてう」の項(四百字詰め原稿用紙で八八枚)を書き終えたときのことです。

 らいてう伝を書くことは、私の年来の願いでしたが、いまこれを著書のなかで果たすことができました。思い切ってページを割き、心に祈って公平と的確を帰し、全力をあげて歴史的意義づけを試み、あなたに献ずる私の彰徳表を書きました。私はいまひどく愉しい気持ちです

さっそく、らいてうから応答文が届きました。らいてうもまた、逸枝と同じく、このとき「ひどく愉しい気持ち」に浸っていたものと思われます。「先駆者平塚らいてう」は、明らかに娘が書く母親像だったのです。

翌一九五八(昭和三三)年七月に発刊された『女性の歴史』の続巻をもって、四巻からなる逸枝の「女性の歴史」は完結しました。前代未聞の偉業として世に讃えられました。そうした燦然と輝く評価を受けて、「望郷子守唄」の詩作から八年と二箇月が立った、逸枝の六八歳の誕生日でもある、一九六二(昭和三七)年一月一八日に、逸枝の出生の地である熊本県の松橋町において「望郷子守唄」の碑の除幕式が執り行なわれました。この式典には、逸枝もそうでしたが、平塚らいてうも、体調かなわず、参列できませんでした。そこで、教育長の白木満義が、らいてうからの長文の挨拶文を代読しました。それは、このような言葉ではじまります。

 高群逸枝さんを生んだ、この松橋町――ことに、四歳から九歳までのもつとも大切な性格形成期を過ごしたと思われる、この寄田神社の境内に、地元青年方の純真な願いから出た御企画で、地元有力者の方々のご協力により高群さんの歌碑が建ちましたことは、ふるさとの自然と人とを限りなく愛していられる高群さん御自身はもとより、高群さんを敬愛しております友人達も、よろこびと感謝にたえない次第でございます

らいてうは、逸枝の『母系制の研究』と『招婿婚の研究』の業績に触れます。

女性史学と云うのは、高群さんの言に従えば、「女性の立場による歴史研究の学問」でありますが、日本に於ける母系制の存在と、それの父系制への推移の過程を資料によつて観察し研究したこの二大著述は、婦人を圧迫しその人格を無視してきた家父長制度が、決して太古から日本に存在した絶対的なものでないことを、実証したものであります

それから、かつて自身が発刊した『青鞜』へと話題をつなげるのでした。

 これによつて、わたくしが五十年前婦人雑誌「青鞜」の創刊に際し、「元始女性は太陽であつた、今女性は月である」と訴えたあの詩的表現に、はじめて科学的な裏付けが与えられたわけでございます

これは、明らかに母親が娘に贈る賛辞でした。つまり、母から子への、「全力をあげて歴史的意義づけを試み、あなたに献ずる私の彰徳表」だったのです。

それから六年後の一九六四(昭和三九)年の六月七日、逸枝は帰らぬ人になります。そのとき石牟礼道子が、「高群逸枝さんを追慕する」と題された追悼文を『熊本日日新聞』に寄稿します。これは、石牟礼が『苦海浄土 わが水俣病』の作者として名を成す少し前の文です。それでは以下に、「高群逸枝さんを追慕する」のなかの一節を引用します。

 高群逸枝氏が、その女性史の中で、まれな密度とリリシズムをこめて、ほかに使いようもないことばで「日本の村」と書き、「火の国」と書き、「百姓女」と書き、「女が動くときは山が動く」と書いたとき、彼女みずからが、古代母系社会からよみがえりつづけている妣(ひ)であるにちがいない。(注=妣は母)10

末尾の括弧書き「注=妣は母」の文字は、石牟礼のもともとの原稿にあったのか、編集作業中に付け加えられたものなのかはわかりませんが、これをきっかけに、石牟礼の内面にあって、高群逸枝をもって自分の妣/母とみなす慕情の念が徐々に醸成されてゆきます。こうしてこの時期、石牟礼は、逸枝の夫の橋本憲三に寄り添いながら逸枝の志を継ぎたいとする願望を固く胸に秘めるのでした。逸枝亡きあとの、新たな物語が、ここに開幕します。

石牟礼道子の地元の水俣には、徳富蘇峰が寄贈した淇水 きすい 文庫と呼ばれる図書館がありました。ここで偶然にも道子は、逸枝の『女性の歴史』(上)に出会うのです。これは、当時苦悩のなかにあった道子にとって天地振動に匹敵するものでした。道子はこう書きます。

 それまでの家庭生活にくらべてあまりに世界がちがうのに圧倒され、特殊資料室の大書架に誘われてたたずむうちに、ふと夕日の射している一隅の、古びた、さして厚 ママ のない本の背表紙を見たのである。「女性の歴史・上巻・高群逸枝」とある。われながら説明のつかぬ不可思議な経験というよりほかないが、夏の黄昏のこの大書架の一隅の、背表紙の文字をひと目見ただけで、書物の内容については何の予備知識もないのに、その書物がそのとき光輪を帯びたように感じられた。つよい電流のようなものが身内をつらぬいたのを覚えている。そのため、しばらくその書物を手にとることがためらわれた。ややあって、なにかに操られるような気持ちでそれを手にとるとかすかな埃が立った11

時は「夏の黄昏」。高群逸枝が亡くなるのが一九六四(昭和三九)年の六月ですので、このときの『女性の歴史』(上巻)との出会いは、逸枝が亡くなる前年の、つまりは一九六三(昭和三八)年の夏の出来事ということになります。「ハットして読みふけりましたが、興奮しましてね。かねてから私が思っていることに全部答えてある。それですぐ高群逸枝さんに手紙を書きました。そしたら逸枝さんは一カ月くらいして亡くなられました」12

資料的には、その後の道子の行動を一部始終正確に跡づけることは困難ですが、結果として、道子は憲三と巡り合い、そして、逸枝と憲三が暮らしていた東京都世田谷区にある「森の家」へと出立するのでした。一九六六(昭和四一)年の憲三の日記には、こう記されています。このとき憲三は、逸枝の三回忌(二周年)にあわせて、姉(橋本藤野)と妹(橋本静子)の住む水俣に帰省していました。

五月一六日 静子と石牟礼さん訪問。
六月七日 二周年。……石牟礼さんお花。/ささやかな法事。読経。
六月八日 午後石牟礼さん。世田谷にいきたいといわれる。ごいっしょしていいとはなす。
六月二九日 15じ11分きりしまで出発、一週二週で帰水の予定。石牟礼さん同道。帰りはべつべつか13

上の日記にあるように、六月八日の午後、道子は憲三に、「森の家」がある「世田谷にいきたい」と懇願します。しかし、その理由や目的については何も書かれてありません。この間の状況から判断すれば、おおよそ道子は、次のようなことを憲三と静子に伝えたのではないでしょうか。「尊敬する逸枝先生を慕いながら、再び自分は逸枝先生を妣として『森の家』で生まれ変わり、これからの後半生を憲三先生の後添いとなって、逸枝先生とともに過ごしてゆきたい、静子さんを立会人として――」。そのように推測する理由のひとつには、道子が「森の家」で書いた日記の冒頭に、次のような文字が並んでいるからです。「彼女」は、当然逸枝を意味します。

わたしは 彼女を
なんと たたえてよいか
ことばを選りすぐっているが
気に入った言葉が見つからないのに 罪悪感さえ感じる
……
わたしは彼女をみごもり
彼女はわたしをみごもり
つまりわたしは 母系の森の中の 産室にいるようなものだ14

別の箇所で道子は、こうも書いています。

 私には帰ってゆくべきところがありませんでした。帰らねばならない。どこへ、発祥へ。はるか私のなかへ。もういちどそこで産まねばならない。私自身を。それが私の出発でした15

こうした文面を読むにつけ、産室としての「森の家」で、敬愛する妣なる逸枝の子宮に一度帰着し、そこから再び自分が生まれ落ちる――そのことへの道子の避けがたい衝動を、そこから感じ取ることができます。自分の出自、育った家庭環境、そしていまの結婚生活、そのすべてを産湯に洗い流し、別のもうひとりの「石牟礼道子」としてこの世に再誕生、つまりは再生を成し遂げる――何にもましてそのことを、道子は無心に願望していたのでした。

道子は、憲三について、こう吐露します。

ほとんど宿命的にかかえこんでしまった故郷水俣の出来事についても、同郷のよしみで直感的に把握していられた。その上突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動をも、たぶん理解されていたのだっただろう。静と動との極点を、わたしはゆきつもどりつせねばならなかった16

このなかの、「ほとんど宿命的にかかえこんでしまった故郷水俣の出来事」とは、水俣病のことを指します。水俣病との対峙、そして逸枝と憲三への恭順、このふたつが、道子の内面を駆け巡っていました。まさしくこの時期に形成された両要素が動力となって、こののちの道子の生涯を先導することになるのです。道子は、それについて、以下のように分析しています。

 水俣のことも、高群ご夫妻のことも、一本の大綱を寄り合わせるかのごとき質の仕事であった。二本の荒縄をよじり合わせて一本の綱を作る。人間いかに生きるべきかというテーマを、二つのできごとは呼びかけていた17

ここに引用した文は、そののちの道子の生涯を規定する極めて重要な言説であるように思われます。といいますのも、人間のいのちと暮らしについての無自覚な生後体験から、民衆へ寄せる私的かつ詩的な独自のまなざしへの昇華、――そしてその、まさしく着床された土着的魂に導かれて描かれる普遍的な人類族母の史的再生。これが、その後の石牟礼文学を通底する「人間いかに生きるべきかというテーマ」の原像ではないかと考えるからです。

「産室」となる「森の家」でのふたりの生活がはじまりました。七月三日の日記に、「昨夜、というより今晩(一時)憲三氏(以下K氏と書く)より、ノートの御許し出る」18とあります。これは、尊敬してやまない憲三と逸枝を主人公とする伝記執筆のためのノートを意味します。この伝記は、水俣へ帰郷後、まず「最後の人」と題されて『高群逸枝雑誌』に連載され、そして最終的に、道子が八五歳のときに、『最後の人 詩人高群逸枝』として書籍化されます。それを思うと、まさしく道子の生涯は、これよりのち、「最後の人」とともに歩んでゆくことになるのでした。

同じく七月三日のノート(東京日記あるいは森の家日記)には、こう書かれています。

 今夜更に高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った。それは橋本静子氏に対する手紙の形で(つまり、静子氏を立会人として)あらわした。午前三時これを書き上げる19

その手紙は、次のようなことも書き記されていました。

 うつし世に私を産み落とした母はおりましても、天来の孤児を自覚しております私には実体であり認識である母、母たち、妣たちに遭うことが絶対に必要でした。……
 つまり私は自分の精神の系譜の族母、その天性至高さの故に永遠の無垢へと完成されて進化の原理をみごもって復活する女性を逸枝先生の中に見きわめ……そのなつかしさ、親しさ、慕わしさに明け暮れているのです。そして私は静子様のおもかげに本能的に継承され、雄々しいあらわれ方をしている逸枝先生のおもかげを見ます20

この文からわかることは、現世の生みの親たる「母」と、他者に見出した母親たる「妣」との、ふたつの母系を、道子が認識していることです。そうしますと、道子にとっての「妣」が逸枝で、逸枝にとっての「妣」がらいてうということになります。

奇遇にも、「森の家」滞在中に道子は、憲三に連れられ、らいてう宅を訪問します。以下が、らいてうの印象を描写した道子の一節です。

 らいてう氏はやはり飛びぬけた女性。うしろ姿に優雅さの衰えぬ人である。「ベトナムが、ああいうことになりまして」という御挨拶。水の流れの中に水があるように、すいと自分の使命感を前に押し出す、するとみんなも流れていくという風である21

憲三はらいてうに、道子をどう紹介したのでしょうか。興味がもたれるところですが、残念ながら調べる限り、資料には残されていないようです。しかし、この出会いは、らいてうにとっても、印象深いものだったようです。「森の家」の整理がすみ、道子も憲三も、水俣に帰り、逸枝を顕彰するための『高群逸枝雑誌』の刊行にとりかかります。一九六八(昭和四三)年の一二月三〇日に書かれた、らいてうから憲三に宛てて出された手紙は、「お妹さまにも、今ちょっとお名前が浮びませんが御地の高群さん研究家のあのご婦人にもよろしくお伝え下さいませ」22という言葉でもって結ばれていました。「お妹さま」が静子で、「あのご婦人」が石牟礼道子であることは、明らかです。

その手紙は、翌一九六九(昭和四四)年四月一日発刊の『高群逸枝雑誌』第三号の「たより」の欄に、掲載されます。内容は、「森の家」の跡地に建設予定の「高群逸枝記念碑」に関するものでした。らいてうの体調がすぐれないなかにあっても、「高群逸枝記念碑」の建立の準備は進められてゆき、逸枝の没後五周年に当たる一九六九(昭和四四)年六月七日に、「高群逸枝記念碑」の除幕式が挙行されました。式典では、建碑世話人として一五名の名前が読み上げられました。そのなかには、平塚らいてうや渋谷定輔に加えて、熊本出身の俳人である中村汀女の名前もありました。健康がすぐれず上京できなかった憲三に代わって、友人の渋谷が遺族の挨拶文を読み上げます。碑の表には、逸枝自筆の詩章が刻印され、裏には、渋谷が原案を起草した、由来記がはめ込まれました。

その後も、らいてうと憲三の手紙のやり取りは続きます。次も、憲三のもとに届いたらいてうからの手紙です。「……まだ自伝もなかなか書き上がりませんが、老齢のため手術は出来ないものらしく、気長に治療をする覚悟をしております。〈渋谷区千駄ヶ谷 代々木病院より〉」23。それに対して憲三は、一二月一二日の日記に、「平塚さんにおみまい状(代々木病院三階病棟)」24と書いています。そして、年が明けた一九七一(昭和四六)年五月二四日、らいてうはその人生に幕を閉じたのでした。

二.中村汀女、小川濤美子、小川晴子の女三代

上に述べましたように、「高群逸枝記念碑」の建立に際し、その世話人のなかに、平塚らいてうとともに、中村汀女の名がありました。周知のように、汀女は、句誌『風花』の生みの親です。『風花』の誕生には、成城という文化人や資産家が集う新しい住宅地が舞台として存在していました。そして、その舞台に、戦時下において買い出しや疎開を通じて交流を深めていた女性たちが、新たな主役となって躍り出ようとしていました。そうした状況下において『風花』は、一九四七(昭和二二)年五月一日、戦後すぐのいまだ物資が乏しい困苦の時代に産声を上げたのでした。

平塚らいてうも、この『風花』の句会に参加するひとりでした。らいてうは、こう書いています。

知人の料理研究家中江百合子さんのさそいかけで、成城に住む婦人仲間の句会が、一九四六年十一月から、中村汀女さんをむかえてひらかれていました。わたくしがそれに加わったのは、四八年のはじめごろかと思います。……中江さんとごく親しいあいだがらの富本一枝さんも、ときには顔を見せますが、句作にはまったく加わろうとしません。……彼女の句というものは、ついぞ目にしたことがありません。……句会の日は……まだ物の不足していたころですから中江さんが手ずからつくってくれる、蒸し寿司やお雑煮をいただくことが、また楽しみの一つでした。……『風花』は、四七年に創刊されましたが、わたくしはその三号から出句しています25

らいてうは、『青鞜』創刊以前の日本女子大学校の学生のころから俳句をたしなんでいましたし、中江百合子は、富本一枝の夫で陶芸家の富本憲吉の陶器に季節の料理を盛り付けることをことのほか喜びとしていました。以下の二句は、一九四八(昭和二三)年一二月一日発行の『風花』(第一〇号)のなかの中村汀女選「風花集」からの抜粋で、前者が平塚明子(らいてう)、後者が中江百合(百合子)の作です。

大利根の堤はてなき月の人  平塚明子
十五夜の次郎丸まだ靑うして  中江百合

いうまでもなく、女性が主宰する文芸雑誌には、輝かしい歴史があります。一九一一(明治四四)年創刊の平塚らいてうの『青鞜』、一九一四(大正三)年創刊の尾竹一枝(のちの富本一枝)の『番紅花』、一九二八(昭和三)年創刊の長谷川時雨の『女人藝術』、一九三〇(昭和五)年創刊の高群逸枝の『婦人戦線』、そして一九三五(昭和一〇)年創刊の神近市子の『婦人文芸』がその好例となります。そのような意味で『風花』の発刊は、女性による主宰誌の燦然たる歴史を、戦後の新時代へ向けて架橋する、生命力に満ちた画期的な出来事であったといえるでしょう。加えて『風花』を特徴づけるのは、戦前の諸雑誌がどれも短命であったことに比べて、いまなお長命を堅持していることです。

一九八七(昭和六二)年四月、『風花』創刊四〇周年と米寿を祝う会が、ホテルオークラにて華やかに開催されました。そして、その翌年の九月二〇日に、呼吸不全のため、作句と選句に捧げた八八年の中村汀女の生涯が幕を閉じました。

主宰者は、中村汀女から娘の小川濤美子へ、そしてその娘の小川晴子へと引き継がれてゆきます。創刊からしばらくのあいだ富本一枝が編集を担当した汀女の句誌『風花』は、その後長く愛読され続けるも、惜しまれて二〇一七(平成二九)年の一〇月号(七七四号)をもって終刊します。最終号に「終刊のごあいさつ」を寄稿した汀女の孫の小川晴子は、そのなかで、創刊号の「後記」に一枝が書いていた言葉を引用して、こう記しました。

 『風花』創刊号の後記に富本一枝氏が記された「風花を立派なものにするためには編集者の責任が重大であることは申すまでもありませんが、良き投句者と好意ある読者のご支援がなければ成し遂げられないことです。」との文章があります。「風花」の七十年の歴史は、まさにこれを築き上げてくださった会員の皆様の、俳句を詠む喜びと、結社を愛する深い情熱と、弛まない精進の結晶であります。『風花』は私共の心の支えであり、大きな誇りでもあります26

こうして『風花』自体は、第七七四号を最後に七〇年という永久の歴史に幕を閉じ、翌月号(通算七七五号)からは誌名を一新し、『今日の花』へと生まれ変わりました。「今日の花」は、汀女が自戒の言葉としていた「今日の風、今日の花」に因むといいます。「今日には今日の風が吹き、今日には今日の花が咲く、自然に抗わず、それに身を任せよ」といった汀女の自然観がこちらへと伝わってくるようです。

翌月号(二〇一七年一一月号)から、句誌名が『風花』から『今日の花』へと変更され、主宰者も、汀女の娘の小川濤美子から、その娘の小川晴子に引き継がれ、その創刊第一号(通巻七七五号)が、新たに世に出てゆきました。他方で、『今日の花』の表紙を飾るイラストには、『風花』創刊号の表紙のために富本憲吉が描いたイラストがアレンジされて、再利用されました。こうして、創刊号の「後記」において一枝が記した精神と、創刊号の表紙のために憲吉が創案したイラストが、悠々七〇年もの時空を超えて、いまなお生き続けようとしているのです。

ところで、句誌名が『風花』から『今日の花』へと変更され、主宰者も、汀女の娘の小川濤美子からその娘の小川晴子へと引き継がれた翌年(二〇一八年)に刊行された『文』(第一一六号)のなかにおいて、小川晴子の「十七文字のなかに日々のドラマが込められている」という一文に出会うことができます。その末尾に、次の文字が並びます。

 私の七十年間で祖母との思い出は尽きません。祖母と母と三代続けて俳句とともに人生を歩んでいます。この家に生まれた宿命ですが、俳句が身近にあったおかげで、日々を言葉とともに重ねていくことができる幸せを実感し感謝しています27

この文には、左に筆者の小川晴子、中央に中村汀女、右に汀女の母の亭が、縁側でくつろぐ写真が添付されています。ひょっとしたら、この写真を撮ったのは、汀女の娘で、晴子の母である小川濤美子だったかもしれません。ここに「母系制」の実像の一端を見る思いがします。さらにそれは、次の年(二〇一九年)に発刊された小川晴子の句集『今日の花』にも現われます。晴子はその「あとがき」に、こう書いているのです。

 女系三代の俳句の道を歩むことは、宿命かと感じる昨今です。
昭和四十五年頃、東京・代田の中村の家の茶の間で、母と私が火鉢で寒餅を焼いていましたところに、祖母がすうっと横に座りました。寒餅を焼きながら、おしゃべりをしていましたら、祖母が言いました。
 「お父さんやパパさんには悪いけど、こうやって三人だけで居るのは良いね…」と。
 私は、そのときの祖母の顔と声を今でも忘れられません。俳人として忙しい七十歳代の祖母が安らぐ家庭、家庭の存在の大切な事を教えてもらいました28

それでは最後に、汀女が、母・亭を偲ぶ句と、晴子が、祖母・汀女を慕い、母・濤美子に寄り添う句とを、以下に紹介して、この一節を閉じることにします。

曼珠沙華 抱くほどとれど 母恋し  中村汀女
麻日傘 祖母の香りの なつかしき  小川晴子
母の歩に 合はせ旅の 日石蕗明り  小川晴子

おわりに

私は、著作集14『外輪山春雷秋月』に所収する「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」を執筆しながら、高群逸枝が着眼した「母系制」や「女性の歴史」について思いを巡らしていました。すると、書いているその拙文に、たまたまでしょうが、ふたつの異なる女系ないしは族母が存在することを見出しました。ひとつは、「平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子の女三代」で、もうひとつは、「中村汀女、小川濤美子、小川晴子の女三代」です。前者は、他者に見出した母親たる「妣」の系列です。後者は、現世の生みの親たる「母」の系列です。

高群が書いた『母系制の研究』は、後者に属する「女系」に焦点をあてた研究書です。しかし、前者に相当する「女系」については、専門外のことであり、詳しくはわかりませんが、いまだ歴史学の研究の対象とはなっていないような気もします。

逸枝は、何ゆえにらいてうの娘を自認して生きたのか、道子は、何ゆえに逸枝を妣として生き直しをしたのか――こうした事例は、古代から現代まで、途切れることなく存在する可能性があります。ここに、もうひとつの「母系制」の歴史を見るような思いがします。

一方、高群の『女性の歴史』(全四巻)は、「女性が中心となっていた時代」から「女性の屈辱の時代」を経て「女性はいま立ち上がりつつある」時代へと移行する史的観点から描かれています。しかしながら、「中村汀女、小川濤美子、小川晴子の女三代」の事例を見ますと、そうした一種進歩主義的な単線的視点を越えて、小川晴子が書く「家庭の存在の大切な事」が、普遍的な不動の響きを伴って伝わってきます。

果たして、女性は太古からこのかた、どう生きてきたのでしょうか。「母」を内部にもち、ひとつの「宿命」を自覚して生きる族母たち。他方で、「妣」を外部にもち、いのちの「再生」を待って生きる族母たち。これまで女性たちは、この「母」と「妣」の左右両極の、そのはざまに存する大地(養母、継母、義母等を含む)にあって、おおかた生きてきたように感じられます。「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」を書きながら、春の雷鳴、そして秋の名月のもと、阿蘇外輪山に私はその身をゆだね、「母なる大地」にかかわって、かくたる夢想に一時浸ったことを、ここに書き留める次第です。

(二〇二四年八月)

(1)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、305頁。

(2)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年(第1刷)、233頁。

(3)同『高群逸枝全集』第九巻、同頁。

(4)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、62頁。

(5)前掲『高群逸枝全集』第九巻、234頁。

(6)同『高群逸枝全集』第九巻、442頁。

(7)『高群逸枝』「高群逸枝を顕彰する会」発行、2014年、11頁。熊本県立図書館所蔵。

(8)同『高群逸枝』、同頁。

(9)同『高群逸枝』、同頁。

(10)石牟礼道子「高群逸枝さんを追慕する」『熊本日日新聞』(六面)、1964年7日3日。

(11)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、12頁。

(12)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、439頁。

(13)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、153頁。

(14)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、244-245頁。

(15)石牟礼道子「高群逸枝との対話のために(1)まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 3、1967年9月、1頁。

(16)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、12頁。

(17)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、287頁。

(18)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、247頁。

(19)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(20)同『最後の人 詩人高群逸枝』、248-249頁。

(21)同『最後の人 詩人高群逸枝』、261頁。

(22)「たより」『高群逸枝雑誌』第3号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年4月1日、28頁。

(23)「たより」『高群逸枝雑誌』第11号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1971年4月1日、30頁。

(24)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、167頁。

(25)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった④』大月書店、1992年、79-80頁。

(26)小川晴子「終刊のごあいさつ」『風花』終刊号(第774号)、2017年、3頁。

(27)小川晴子「一七文字のなかに日々のドラマが込められている」『文』第116号、公文教育研究会発行、2018年7月、13頁。

(28)小川晴子『句集 今日の花』角川文化振興財団、2019年5月、234-236頁。