周知のように、高群逸枝は、まず詩人として頭角を現わし、次にアナーキストとして論陣を張り、最後に、前人未踏のひとつの新しい学問として「女性史学」を打ち立てて、その名を歴史に刻んでいる人物です。一八九四(明治二七)年一月に生まれ、一九六四(昭和三九)年六月に没しています。一方、ここで取り上げるウィリアム・モリスは、一八三四年三月に英国において生を受け、一八九六年一一月に黄泉の客となっています。ふたりが活躍した時代は、およそ六〇年の開きがあります。モリスもまた、詩人として出発し、ステインド・グラスや壁紙やテクスタイルを扱う「モリス商会」のデザイナーとして人びとの身近な存在となり、同時に、社会運動の前衛に立つ政治活動家でもありました。
いよいよ晩年に入るとモリスは、中世の農民反乱を主題とした「ジョン・ボールの夢( A Dream of John Ball )」(歴史小説)を、現在の社会主義者の政治的行動を素材にした「希望の巡礼者たち( The Pilgrims of Hope )」(物語詩)を、そして、革命後の人びとが生きる新世界を描写した「ユートピア便り( News from Nowhere )」(夢想的物語)を著わしました。過去、現在、未来についてモリスのもつ社会思想上のヴィジョンが投影された三部作です。さらに加えて、最晩年のモリスは、アーニスト・ベルファット・べクスとの共著による『社会主義――その成長と成果( Socialism: Its Growth and Outcome )』を公刊し、そのなかで、過去から現在を経て未来へと進む社会主義とその運動の発展史を記述しました。こうしてモリスは、詩人にしてデザイナーであり、はたまた社会主義者(モリスは、友人に宛てた手紙のなかで自身を「セミ・アナーキスト」と呼ぶこともありました)としていまに生きる自己を(あるいは民衆を)客観的歴史のなかに発見し、その存在の確かさを証明しようとして、残る最後のいのちを燃焼させたのでした。
過去の歴史に遡行して、そしてまた、ひとつのヴィジョンの先にある未来を展望して、いまの自分ないしは自分たちの生存のあり方を確認しようとする、詩人にしてアナーキストがたどる、ある種宿命的な身のゆだね方を、一九世紀英国のウィリアム・モリスに続く、二〇世紀日本の高群逸枝にも求めることができるのではないかというのが、いまの私の内なる仮説なのです。それでは、高群の知るモリスについて、以下に描写します。
確かに高群は、モリスの「ユートピア便り」を読んでいました。わずか一箇所ではありますが、『戀愛創生』(萬生閣、一九二六年)のなかにおいて、それに関して言及しています。このモリスのユートピアン・ロマンス(夢想的物語)は、すでに過去においては堺利彦によって「理想郷」の訳題のもとに抄訳され、『平民新聞』に連載されていましたし、その後も、「芸術的社会主義」という名辞のもとにモリスの思想と実践に関する研究書や紹介書が絶えることなく続くなかにあって、高群が『戀愛創生』を発表する五箇月前の一九二五(大正一四)年の一一月には、布施延雄が「無何有郷だより」という訳書題でもって、至上社から上梓していたのでした。 それでは以下に、高群の『戀愛創生』から、モリスに関連する記述の一部を引用します。
ウイリアム・モリスの「無何有郷だより」をみると、多くの子供達が、そこでは、自由な生活をして、森から丘へと遊び戯れてゐる。そこには學校といふものはない1。
このなかの「子供達」を「女性たち」に、そして「學校」を「家庭」に置き換えて読み直してみますと、こうなります。「多くの女性たちが、そこでは、自由な生活をして、森から丘へと遊び戯れてゐる。そこには家庭といふものはない」。このとき高群が発見した、モリスの描くユートピアは、自らの心に宿す理想世界と完全に一致したものと思われます。といいますのも、同じく『戀愛創生』において高群は、原始社会における女性のあり方を、こう描写しているからです。
農耕の生活が安定するやうになつてくると、ここに始めて人類は、経済的に最も安定した生活を送ることが出來た。それと共に、母系制度が確實な形をとつて現はれ、民族は財産共有の基礎の上に立てられた。即ち、それは共産主義的な社會の形式であつた。婦人はこの血族團體の指導者であり、支配者であつて、大いに尊敬せられ、彼女の意見は、家庭内におけると同様、種族の問題に関しても大いに尊重せられた。彼女は仲裁者であり、裁判官であり、神官として宗教的信仰の義務を盡していた2。
これが、女性にとっての屈辱社会が出現する以前に存在していたであろうと考えられる、高群にとっての理想世界でした。こうした認識が、高群をして女性史研究へと向かわせます。高群は、別の箇所でこう書きます。
愛の女神を原始の森の中から連れてきて現在の家庭のなかにおしこめたならどうであらうか。彼女はきつと、遠い故郷にあこがれて涙の日を送るに違ひない。
(中略)
しかし、絶へてゐるということは、あきらめてゐるといふことではない。彼女は、積極的に、かの光明と、自由とへ、この家庭を推し進めて行かうとする意志と、行為とをもつて立つであろう。
このとき、彼女は社會に宣戦し社會に火蓋をきらねばならない3。
ここにいう「愛の女神」とは、高群の化身であるにちがいありません。その彼女が、いままさに「社會に宣戦」を布告しようとしているのです。高群の信じるところによれば、結婚制度のはじまりとともに、自由で自然な「恋愛生活」も終わりを告げ、一夫一婦制のもと、妻は夫の私有財産の一部と化し、女たちにとっての耐えがたい屈辱の時代が幕を開けたのでした。そのような構想のもとに高群は、古代に見られた女性たちの自由な生き方が、いかなる制約を受けて不自由なものになってしまったのか、その歴史に、学問的根拠を与えようとする戦いに入ります。その成果の第一弾が、『戀愛創生』から一二年後の一九三八(昭和一三)年六月に厚生閣から公刊された、『大日本女性史 母系制の研究』だったのでした。そのようなわけで、日本における高群による女性史学創設には、前世紀イギリスのウィリアム・モリスの思想が少なからず引導の役目をなしていたと、仮に主張したとしても、それは決して過言にはならないのではないかと思われます。
それではここで、富本憲吉・一枝夫妻、ウィリアム・モリス、そして高群逸枝の、それぞれの教育にかかわる見解を少し列挙し、検討したいと思います。まずは、富本憲吉・一枝夫妻の教育観とその実践から――。
富本憲吉夫妻が東京での結婚後、憲吉の生地である大和の安堵村に帰郷したのは、翌一九一五(大正四)年の三月のことでした。その年の八月、長女の陽が生まれ、二年後の一一月に次女の陶が誕生します。順調に生育した長女の陽は数え年で八つになり、いよいよ学齢に達しました。憲吉と一枝は、陽を地元の村の小学校に入れるかどうか、日々悩んでいました。以下は、一枝の文です。
小學校に出すには彼女は遥かに高く進み過ぎて仕舞つた……こんな子供を尋一[尋常小学校一年]に出せば學校に対する興味、學科に對する熱心さを失はせる事は勿論です……それかといつて社會人として彼女を見た時、學校生活から受けるものゝ多くあることを無視する事は善いことであらうかとも考へました。……學校に出ないとすれば當然彼女は一人である……子供同志の遊び、それはどんなに楽しいものか、そこからお互ひが受ける智識、経験、それは子供を最も子供らしく育てゝ行くではないか、しかし私達は、結局家庭で敎育することに決心しました4。
そのように決心した理由について、一枝は続けてこう述べています。
村の小學校の生徒の種が悪いのです、先生が悪いのです。……小學校に出すことは危険な場所に放すやうで不安でならなかったのです。それにその頃は、(今でもですが)小學教育、殊に初等科に對して一般的に私は信頼出來ないものを有つてゐました5。
他方で、憲吉の目には、教室は「自由の牢獄」に映っていました。そして教師は、子どもの「成長せんとする心」に理解を示さぬ存在でありました。憲吉は、こう述べています。
午後三時、子供等は嬉々として烈しき白日の道に列をなして家路につく。子供等は何故にかく楽しげなるか。彼等は自由の牢獄に等しき教室と彼等の成長せんとする心に同情なき教師等の手より離れたるが故なり。教育はげに自由の牢獄なるかな6。
このように一枝と憲吉は、当時の学校教育に強い不信をもっていました。ふたりは、過去を踏襲しないオリジナルな模様の創案を、その一方で、因習を断ち切った新しい家族の形態を――そのとき必死になって追い求めていました。それと同じ地平から教育や学校を眺めた場合、教育は、個性や個人、あるいは自由や創造性といった価値からあまりにも無縁の存在でありました。そして学校は、過去の旧い価値だけが堆積し、意味を失い廃墟と化した残骸物に似ていました。一枝が、「小學校に出すことは危険な場所に放すやうで不安でならなかった」と述べたとき、憲吉が、教室を「自由の牢獄」と表現したとき、過去の教育や学校を支えていた価値は完全に葬り去られ、この夫婦の理想は、長女の陽と、次女の陶のふたりの生徒だけが通う家庭内の「小さな学校」の私設へとつながっていったのでした。
晩年に執筆した「円通院の世界地図」と題されたエッセイのなかで、一方の生徒であった陶は、「小さな学校」の私設へと向かう経緯につきまして、こう述べています。のちに母親の一枝から聞かされたのではないかと思われる内容も含めて、陶はしっかりと記憶していたのでした。
母は遠い東京から嫁いで来ておりましたので、早速上京して行動を開始、当時自由教育家としてダルトンプランを実行しておられた牛込原町の成城小学校の校長小原国芳氏に御相談の末、小原先生も個人教授の私設学校の事を大賛成して下さり、東大大学院の卒業生の中から優秀な方を推薦して頂く事まで御約束頂き、母は安堵に帰ってまいりました7。
また別のエッセイ「安堵のことなど」のなかでも、陶は、この「小さな学校」について触れています。そこには、こうしたことが明かされています。
さっそく教室は母屋の裏の祖先の墓地内に建てられた小さなお寺「円通院」が模様変えされ、当時関西で一番の木工会社、大阪の内外木工所に子供用の小さな勉強机と椅子、大きな黒板等注文されました。……壁には大きな黒板と世界地図がかけられてあり、先生用の大きな机の上には特別大きな地球儀が置かれてありました。……先生は母屋の表門の門屋(昔の門番さんの宿舎)を宿舎とされ、一切のお世話はお祖母さんの家でして下さったようです8。
一方で、陶が「安堵のことなど」のなかで書いているところによりますと、「小さな学校」の開設には、別の思いが含まれていたようです。
姉が学齢に達した時に両親は熟考の末、寺子屋教育で2人の子供達を育てることに決めました。上野の美術学校を卒業年度に早々とイギリスに留学して数年間を過ごした父は、2人の子供をイギリスで見聞きして来た進歩的な教育と同じ様式で育てたいと考えました。理想にもえた父と母は相談を重ね、周囲の反対を押し切って寺子屋教育を実現したわけです9。
陶が述べている「イギリスで見聞きして来た進歩的な教育」とは、果たしてどんな教育だったのでしょうか。
富本憲吉が渡英した目的は、一九世紀の社会主義者でデザイナーであったウィリアム・モリスの思想と実践に触れることでした。モリスは、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に「ユートピア便り」を連載し、翌年に単行本化され、リーヴズ・アンド・ターナー社から発売されます。そのなかで著者のモリスは、ハモンド老人にこう語らせるのです。
……子どもの実にさまざまな能力や気質がどうであろうとも、因習的に適齢と考えられている年齢に達すると学校へ押し込まれ、そこにいるあいだ子どもたちは、事実に目を向けることなく、お定まりの因習的な「学習」課程に従わされる、そのようなことをあなたは予期されていました。しかしあなた、そんなやり方は、肉体的にも精神的にも人が成長する( ・・・・ ) という事実を無視するものでしかない、とお思いになりませんか10。
富本が一九〇九(明治四二)年二月から翌一九一〇(明治四三)年五月までの英国滞在期間中にこの単行本の『ユートピア便り( News from Nowhere )』 を手にしていた可能性を全く排除することはできませんし、たとえそうでなかったとしても、モリスと近似的な教育観を富本がもっていたことに変わりはありません。明らかに、当時の教育を批判する論拠がふたりに共通しているのです。一九世紀の英国の教育は、モリスの言葉を借りるならば、「肉体的にも精神的にも人が成長する( ・・・・ ) という事実を無視する」飼育であり、二〇世紀の日本の教育は、富本の言葉に従えば、子どもの「成長せんとする心に同情なき教師」による教練でした。このようにモリスと富本の教育観を対照してみますと、モリスが「ユートピア便り」のなかで描き出していた社会革命後の空想的世界における教育を、意識的であったのか無意識的であったのかは別にして、日本において実践しようとしたのが、富本夫妻だったのではないかという気がします。
モリスが描く理想社会においては、革命前に見受けられた「お定まりの因習的な『学習』課程に従わされる」教育はすでに崩壊し、「肉体的にも精神的にも人が成長する( ・・・・ ) という事実」に即した新しい教育が展開されていたであろうことが推量できます。高群は、『戀愛創生』のなかで、さらに詳しくモリスの教育観に触れて論述していますので、ここに紹介します。
モリスがいふやように、将来にあつては、學校敎育といふものはなくなるかも知れない。否、母性の本能からいへば、なくなさねばならない。そして、そこには極めて科學的な施設、圖書館や、研究所や、講座などの施設が、完全に行はれ、子供達は自由に、それを利用するやうになるであらう11。
この思想は、『戀愛創生』から半世紀の歳月が流れた、近代運動の終焉時期の前後にあたる一九七〇年代に、オーストリアの生まれでアメリカ合衆国で活躍するイヴァン・イリッチが展開した「脱学校化社会論」を先取りしているともいえます。イリッチは一連の著書によって、近代の産業化社会のなかにあって最も極限にまで制度化が推し進められたものとして、「学校」や「病院」などを取り上げ、その限界を指摘したうえで、それに代わるオールターナティヴな領域の再生を訴えました。「学校」でいえば、たとえば、制度化された教科書、制度化された教師の資格、制度化されたカリキュラムと知識などがそうです。そうした「学校化」の制度化が極限にまで達しますと、当然ながら、実感を伴わない無味乾燥な知識が受動化された児童に一方的に注入される場としての「学校」が独り歩きをはじめるようになるのです。イリッチは、そのような限界点にまで到達した現行の「学校化」に警鐘を鳴らし、それに対置するところの「脱学校」の領域の存在を示唆したのでした。
しかし、このイリッチの見解も、もとをただせば、高群逸枝『戀愛創生』を越えて、さらにウィリアム・モリスの「ユートピア便り」に行き着きます。逆にいえば、これほどまでにモリス思想の射程は長いのです。その射程をさらに現代まで延ばすと、こうなります。
近代運動が崩壊すると、主として環境問題に目を向けるグリーン主義者たちが英国に登場します。ナイジェル・ホワイトリーは、自著の『社会のためのデザイン』のなかで、グリーン主義者にみられる労働観をふたつに大別したうえで、「双方のグループとも、自分たちの指導者としてウィリアム・モリスを要求している」12と分析しています。最近では、日本人で英国南部のブライトンに定住するブレイディみかこが、モリスに言及しています。コロナ禍のなかで発した保守党のボリス・ジョンソン首相の「社会というものは存在する」という言辞をとらえて、「だが、この考えは伝統的に労働党のものだったはずだ。この分野では、労働党は豊かな歴史的リソースを持っている。19世紀のウィリアム・モリスまで遡り、後にR・H・トーニーが発展させた倫理的社会主義は、コロナ禍を経た英国の人々に広く支持されそうな思想だ」13と、ブレイディみかこは指摘します。引用の出典は、『他者の靴を履く――アナーキック・エンパシーのすすめ』です。副題にある「アナーキック(anarchic)」は、「アナーキズム(anarchism)」や「アナーキスト(anarchist)」に連動する形容詞で、「無政府主義の」とか「無政府状態の」とかいう意味になります。一方の「エンパシー(empathy)」は、一般的に「共感」と訳されることが多いようですが、もう少し多様な意味を込めるために、そのままの片仮名表記がなされているのでしょう。つまり副題の意味は、「無政府的な共感」を下地に置く、「強固な制度や体制的な考えに支配されない、目の前の他者へ向けた、自由で人間的な感情の移入のすすめ」といったほどのニュアンスになりそうです。いずれにしましても、「アナーキック・エンパシー」の源流を求めて歴史を遡行するならば、アナーキストであった高群逸枝に、さらにその上流に位置するウィリアム・モリスに、たどり着くのではないでしょうか。
私は、「はじめに――わが内なる仮説」のなかで、次のように書きました。
過去の歴史に遡行して、そしてまた、ひとつのヴィジョンの先にある未来を展望して、いまの自分ないしは自分たちの生存のあり方を確認しようとする、詩人にしてアナーキストがたどる、ある種宿命的な身のゆだね方を、一九世紀英国のウィリアム・モリスに続く、二〇世紀日本の高群逸枝にも求めることができるのではないかというのが、いまの私の内なる仮説なのです。
果たして、本文において、この仮説が実証できたでしょうか。「教育」というひとつの限られた文脈からの、しかも短い考察でしたので、決して十全とはいえません。しかしそれでも、私なりに少し見えてきたことがあります。それは、高群も、モリス同様に、小さきもの、弱きもの、名もなきものに目を向けているということです。モリスは、大芸術(富者や権力者の蔵に眠る私有物としての絵画や彫刻)と、小芸術(壁紙やテクスタイルなどの民衆の生活をかたちづける装飾芸術)との中世終焉以降の歴史的分離に目を向け、幾多の講演でそのことへの不安について語り、社会運動、とりわけアーツ・アンド・クラフツ運動に対する論理的根拠を提示しました。一方高群は、強権と資本の支配するなかでの、男性に抑圧された女性の生と愛、あるいはそれに深く関連する結婚様式に関心を寄せ、原始社会から現代に到るまでの女性史記述の正当性を果敢にも持ち出し、実際に自らがその行為の先陣に立ちました。これが、高群をもって日本における女性史学の開祖者とみなすゆえんです。このように、「大芸術/小芸術」と「男性/女性」のそれぞれのあいだに存する史的営為にかかわる認識が、このふたりには共通するのです。提起された問題は、歴史研究と運動実践の双方の本質にかかわる、極めて重要な論点を含みます。したがいまして、稿を改めて再び論じてみたいと思います。
それでは最後に、高群逸枝の夫の橋本憲三の言葉を、以下に引用します。これが、生前の高群の熱望するところだったようです。
[すべてを書き終わったら]また出発しましょう。あたたかいところに行って、そこで私は『女性の歴史』で書けなかった未来像を叙事詩のかたちで描くでしょう。たぶん私の最後の叙事詩となるでしょう14。
この一文は、最晩年には、暖かい原郷であるあの熊本の「火の国」に帰還して、モリスに倣って「ユートピア便り」を書きたいという、見果てぬ夢を語っているようにも読めます。本人が述べていますように、その叙事詩が描く内容は、『女性の歴史』(上、中、下、および続の全四巻)で扱われた女性の過去と現在の姿に続く、解放のための闘争に立ち上がった女性たちのその後の未来社会になることが想定されていたようです。しかし、それが世に出ることは、残念ながら、ありませんでした。
(二〇二三年一〇月)
(1)高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、253-254頁。
(2)同『戀愛創生』、44-45頁。
(3)同『戀愛創生』、278-279頁。
(4)富本一枝「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』第18巻、1924年8月、28-29頁。
(5)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、29頁。
(6)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、5頁。
(7)富本陶「円通院の世界地図」『もぐら』桐朋女子高等学校音楽科文集委員会編集、1988年、92頁。
(8)富本陶「安堵のことなど」『富本憲吉――白磁と模様――』(図録)、府中市郷土の森事業団、1987年、62頁。
(9)同「安堵のことなど」『富本憲吉――白磁と模様――』(図録)、同頁。
(10)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge/Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XVI, p. 63-64.
(11)前掲『戀愛創生』、255頁。
(12)Nigel Whiteley, Design for Society, Reaktion Books, London, 1993, p. 67.
(13)ブレイディみかこ『他者の靴を履く――アナーキック・エンパシーのすすめ』文藝春秋、2021年、169頁。
(14)橋本憲三「三つの言葉――後記にかえて」『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、483頁。