中山修一著作集

著作集10 研究断章――日中のデザイン史

第二編 月份牌――中国近代のカレンダー・ポスター(于暁妮との共著論文)

はじめに

一.近年の月份牌への関心について

月份牌 ユェフンパイ は、最近の二〇年間、中国で新たなブームとなっている。たとえば、中華民国の時代を物語るドラマや映画では、月份牌がその時期の視覚的表現のひとつのシンボルとしてしばしば使用されているし、またバーやレストランなどでは、郷愁を誘う店の雰囲気を醸し出すための小道具として月份牌が使われている。一方、愛好家による月份牌のコレクションに火が着くとともに、各地で実作の月份牌、あるいはその複製品が、商品として流通している。山東省龍口市に住む 趙青岩 ジョウ チンイェン も、この二〇年間、月份牌の収集活動を行なってきたコレクターのひとりである。そのコレクションは、おそらく一、〇〇〇点を超える数に達しているらしい。彼の話によると、最初月份牌を収集したときは、その価値はまだ人びとに認識されていなかったし、価格も低かった。しかし、時間がたつにつれて、月份牌の価値が見直され、値段も急速に上がっていった。一枚の月份牌が市場で何千元の価格になることもあったという。

このように月份牌が近年注目されるようになったわけであるが、その要因はいったい何だったのであろうか。まずひとつ目に考えられるのは、近年の中国経済の発展により、骨董品市場が過熱したことであろう。たとえば、上海国際商品拍売有限公司の主催による「二〇一一春季オークション」が二〇一一年六月二五日に上海大劇院の八階で行なわれた。そのなかには月份牌も含まれていた。 金梅生 ジン メイシャン が描いた「春夏秋冬時装仕女図 月份牌画原稿」【図一】の入札に際しては、最初二五万元~二八万元の価格からはじまり、最終的に八〇万六千四百元で落札された。この値段は、日本円で約一千万円に相当する。オークションに関する情報サイトである博宝拍売網において、二〇〇二年から二〇一一年までのオークションに出品された金梅生の作品の平均価格の統計が公表されている【図二】。この統計を見ると、二〇〇八年が八〇%の落札率で、それ以外の年はすべて一〇〇%となっており、近年の金梅生の作品の人気ぶりを示している。

ふたつ目の要因として考えられるのは、中国の近代化がはじまる中華民国の歴史について関心が高まったことであろう。たとえば、一九八〇年代後半から九〇年代の前半にかけて、香港ドラマの「上海灘」や「精武門」がテレビで放映されたのをはじめ、台湾の恋愛小説作家である 瓊瑶 チョン ヤオ の作品に基づき製作された「一剪梅」や「青々河辺草」などの同時期のテレビドラマも、中華民国の時代を背景にした恋愛ドラマであった。こうした作品は、大陸の人たちのあいだで大きな話題となり、これまで詳しく紹介されてこなかった中華民国時代の歴史や文化についての関心を駆り立てることになった。このような社会的背景と関連しながら、とりわけ、中華民国の時代に作製された美女月份牌に注目が集まるようになったのである。

さらにいえば、商業美術の初期の成功例として月份牌が現代の広告デザイナーたちから注目が浴びせられていることも、三つ目の要因として挙げることができるかもしれない。たとえば、香港の広告デザイナーの 陳幼堅 チェン ヨウジェン が、二〇一一年九月一九日から一二月二七日まで、ギャラリー二七において「上海宝貝」と題した月份牌の展覧会を開催した。陳は、『南方都市報』のふたりの新聞記者の質問に答えるかたちで、月份牌について次のように述べている。

古くて目立たないものが、ときどき我々のデザイン活動にヒントを与えてくれる。これらの美女ポスターは、厳密には、平面デザインとしての作品とはいえないかもしれないが、デザイン的要素が含まれた初期の広告であるといえるだろう。当時のこうした商業広告と現代の平面デザインとを比べれば、前者には独特の眼差しと視点が備わっている。しかしながら、両者には、変わることなく宣伝媒体としての役割が存在している。今日の我々のデザイン活動にとって大変参考にすべき価値がある

この引用からわかるように、陳は、月份牌を現代の広告デザインにとってのひとつの「ヒント」としてみなしている。事実、月份牌を「ヒント」とする広告デザインか近年多く見られるようになった。たとえば、上海静安麺包房の月餅の商品包装【図三】がそうである。さらには、申浦の「老上海風情」というチョコレートの商品包装【図四】や、絵ハガキ【図五】の事例もまた、それに相当する。一方、コンピュータを用いて月份牌の視覚効果を再現する試みも、最近、とくにネット上に現れている。たとえば、「用Photoshop手絵旧上海月份牌年画教程[フォトショップを使って旧上海の月份牌年画を描く手順]」と名づけられたサイト【図六】がその一例である。

これらの試みは、すべて月份牌のイメージを再利用するものであり、今日のデザイン活動の領域における、古くて新しい素材としての月份牌の可能性を示すものといえるであろう。一方、さきほどの『南方都市報』におけるインタビュー記事のなかにおいて、広告デザイナーの 韓湛寧 ハン ジァンニン も、こう語っている。

我々が月份牌などの古い商業美術品に魅了されるのは、それらの品質や技法が素晴らしいというだけではなく、最も重要なのは、いまのデザイナーたちが中華文化を表現する能力の欠如に気づいたことによるものである

韓のこの発言は、中華文化の発信の視点から月份牌を再評価しようとするものであり、陳だけではなく、韓もまた、月份牌を現代のデザイン世界に呼び戻し、新しい広告デザインに結び付けようとしているのである。

このように、概して一九九〇年代ころから、骨董に対する熱狂や、中華民国時代への郷愁と関心の高まりを背景としながら、現代のデザイナーにとってのイメージの源泉として月份牌が着目されはじめたのであった。つまり、中国の経済における改革・解放は、結果として歴史の改革・解放を招来し、とりわけ一九四九年の中華人民共和国の建国以前に見受けられた社会的文化的現象に対しての興味の扉を開くことになったのである。本書『月份牌――中国近代のカレンダー・ポスター』も、そうした文脈から産声を上げることになった。

二.月份牌研究の近年の成果物について

それでは、これまで月份牌はどのような形式と内容をもって研究されてきたのであろうか。重農軽商の伝統をもつ中国では、中華民国時代の代表的な商業ポスターである月份牌は、長いあいだこれまで軽蔑されてきた。ところが、一九八〇年代以来、中国経済の体制的変更により商業が一気に発展し、それに伴って、商業広告が改めて重要視されるようになった。そうした近年の状況のなかにあって、中国近代の商業広告や商業美術の歴史について関心がもたれはじめ、その一環として、月份牌の研究も浮上してきたといえるであろう。

そうしたなか、中国における学術研究の世界を概観すると、残念ながら、学会のような学術団体の組織化が遅れている一方で、大学における研究体制も必ずしも十分に整備されている状況にはなく、研究紀要のような学術論文を発表する場が、いまだにきわめて限られているのが実情であろう。そのため、月份牌に関する研究も、日常的に目にすることはない。その一方で、とても事実とは思えないような内容をもつ、月份牌に関する雑駁な日常文のたぐいが多数存在するのも、またひとつの特徴なのである。ここではそうしたものは除外して、近年の主要な学術的成果物として次の六点の書籍に焦点をあてて、そのなかで月份牌がどのように扱われているのかを紹介しておきたい。

[一]年欣『上海月份牌年画技法』上海人民美術出版社、上海、一九八四年。
[二]張燕風『老月份牌広告画』(上巻論述編、下巻図像編)漢声雑誌社、台北、一九九四年。
[三]王樹村『中国社会民俗史叢書 年画史』上海文芸出版社、上海、一九九七年。
[四]張偉『滬涜旧影』上海辞書出版社、上海、二〇〇二年。
[五]鄭立君『場景与図像――二〇世紀中国招貼芸術』重慶大学出版社、重慶、二〇〇七年。
[六]郭恩慈・蘇珏『中国現代設計的誕生』三聯書店有限公司、香港、二〇〇八年。

最初に挙げた 年欣 ニェン シン の『上海月份牌年画技法』という本は、書題からもわかるように、月份牌の技法について述べたものである。この著作は、複数の月份牌作家の幾点かの作品を取り上げ、月份牌製作における初歩的技法のほかに、描く道具、用いる紙などについて紹介している。さらに、月份牌の原画製作の過程についても、描く手順に従いながら、詳細に述べている。現在までにあって、月份牌の技法書はいまだこの一冊しか存在しておらず、その意味で貴重な資料となっている。しかしながら、広告製作の場にあって、コンピュータが援用される現在においては、その利用価値はもはや低く、手書き時代の遺物となった感がある。

次の[二]の書籍は、雑誌『漢声』(六一号と六二号)に掲載された特集である。六一号が上巻の論述編で、六二号が下巻の図像編である。著者の 張燕風 ジャン イァンフォン は、一九四七年に瀋陽に生まれ、台湾とアメリカで主として統計学を学び、その後約二〇年間、アメリカの企業で働く。さらに一九九一年に北京中央美術学院で美術史を学び、翌年から上海に居住地を移し、一九九四年にこの本を上梓することになる。そうした略歴からしてわかるように、この著者はもともと月份牌の研究者として活躍してきた人ではない。内容的にはこの本は、この人自らが約一年間のうちに収集した月份牌のコレクションについての論述と作品紹介になっているのである。

[三]の著者の 王樹村 ワン シュウツゥン は、一九四九年に華北大学美術系と中央美術学院で絵画と芸術理論を学び、その後雑誌『美術』の編集に携わり、さらに年画の調査のために、一九五三年に政府が設立した中国民族美術研究所に入所し、それ以降(文化大革命の時期には中断があったものの)、その研究所で主として年画の研究を行なっている。王は、当時中国史上最大級といわれた『楊柳青年画資料集』を一九五九年に出版したこともあり、今日においても、伝統年画の研究領域においての第一人者といわれている。彼は、民間美術である年画を、その役割や表現形式によって、門神、紙禡、灯屏画、月份牌、仏経版画、戯出画、吉祥画、風俗画などのジャンルに分類し、月份牌を伝統年画の一種と考えている。果たして月份牌を年画の領域に区分することが妥当なのかどうかは、本書の第一章第一節において詳細に分析したいと思っている。

[四]の 張偉 ジャン ウェイ の著作『滬涜旧影』では、美術、映画、広告などのさまざまな方面から、中華民国時代の上海という都市にかかわって、その近代化の様相が描き出されており、そのなかで月份牌は、近代都市「上海」のひとつの象徴物として紹介されている。

[五]の 鄭立君 ヂェン リジュン の著作『場景与図像――二〇世紀中国招貼芸術』は、中国のポスターの発展史について分析したものである。その本のなかの月份牌に関する部分では、とくに月份牌の出現時期について『申報』のなかに記述された内容を証拠資料に使い、王樹村の説と張偉の説に取って代わる新しい説を提出している。果たしてそれが正しいのかも、本書第一章第一節において、明らかにされることになるであろう。 総じてこれらの研究([三][四]および[五])は、民俗史あるいは広告史に関連して月份牌を部分的かつ一面的に取り上げているといえる。つまり、月份牌そのものを主たる研究の対象に据えたものではないのである。

最後の六番目の書籍は、最近発展が著しいデザイン史研究の立場から書かれたものである。この本の著者である 郭恩慈 ゴオ エンツウ は、香港理工大学設計学院の副教授であり、 蘇珏 スウ ジョイ は、香港中文大学哲学系修士課程在学の学生である(二〇〇八年現在)。この本は、ふたつの部分によって成り立っており、前半は、一八四二年から一九四九年までの中国デザインの編年史であり、後半は、中国近代デザインの事例研究となっている。しかしながら、『点石斎画報』については一節を設けて言及しているものの、月份牌そのものについては、数点の図版が掲載されているだけで、内容的にはいっさい言及されていない。このことをもって、民俗史や広告史のみならず、デザイン史の分野においてもいまなお、月份牌に十分な学問的関心が払われていないことの証左として指摘することも可能であろう。

なお、いまのところ、単行本としてアメリカ合衆国で出版された月份牌研究書が、以下のように一冊存在する。ただし、この本の中国語および日本語への翻訳書は、いまだ刊行されていないようである。

Ellen Johnston Laing, Selling Happiness: Calendar Posters and Visual Culture in Early-Twentieth-Century Shanghai, University of Hawai‘i Press, Honolulu, 2004.

この本の著者は、ミシガン大学中国研究センターの研究員を務めているエレン・ションストン・ライング(Ellen Johnston Laing 梁庄愛倫)という研究者である。本書は、全一〇章で構成され、主として二〇世紀初期の月份牌 (Advertisement Calendar Posters) の動向と絵師について焦点があてられている。

こうして見ると、月份牌研究は、まさにその緒に付いたばかりであり、学術書のみならず学術論文もいまだ少なく、今後、量的にも質的にも、この分野の研究が発展することが望まれているところなのである。そうした現状にあって、とりわけ、月份牌の通史の記述と、それによる全体像の把握が急務であることは、言をまたないであろう。本書は、そうしたことを念頭に置いて、執筆が進められている。

それでは、月份牌にかかわる作品集についてはどうであろうか。それについての近年の刊行物を紹介しておきたい。事実上、代表的な作品集としては、以下に挙げる五点がすべてであるが、いずれも、二〇年代および三〇年代の視覚的に華やかな月份牌が集められた作品集であり、その前後に出現している、そうした形式と内容とは異なる月份牌は、ほとんど掲載されていない。これは、現存するものがほとんどないことも確かであろうが、それよりもむしろ、月份牌を、社会・文化史的視点からというよりも、美術史的視点から読み取ろうとする傾向の強さを表わしているようにも感じられる。つまり、「美術作品」の観念に照らして、それに合致しそうな限定的なある時期の「美しい」月份牌のみが選択されて、それをもって、月份牌の作品集が構成されているのである。

そうした意味において、以下に示すおおかたの作品集の実態は、あくまでも「月份牌の部分集」であり、本来求められなければならない「月份牌の全集」とはなっておらず、したがって、それだけを見た人は、「月份牌イコール、二〇年代と三〇年代の美女月份牌」といった誤った認識をもちかねない内容となっているのである。

[一]『老上海広告』上海画報出版社、上海、一九九五年。
[二]『老広告』上海人民美術出版社、上海、一九九八年。
[三]『中国近代広告文化』吉林科学技術出版社、吉林、二〇〇三年。
[四]『老月份牌年画―最後一瞥』上海画報出版社、上海、二〇〇三年。
[五]『美女月份牌』上海画報出版社、上海、二〇〇八年。

一方香港では、次の作品集が、一九九四年という比較的早い時期に刊行されている。そして同じ出版社から翻訳書(英語版)も、同じく一九九四年に刊行されている。

[一]『都会摩登』三聯書店(香港)有限公司出版、香港、一九九四年。
[二]Chinese Woman and Modernity Calendar Posters of 1910 s -1930s, Joint Publishing (HK) Co., Ltd., Hong Kong, 1994.

さらに、日本にあっては、福岡アジア美術館・兵庫県立美術館・新潟県立万代島美術館において月份牌に一部関係する展覧会が二〇〇四年に開催され、同展のカタログ(図録)として『チャイナドリーム――描かれた憧れの中国――広東・上海』が刊行されている。この展覧会においては、福岡アジア美術館が所蔵する作品のうちの約五〇点の月份牌が主として展示された。日本においてまとまった量の月份牌をコレクションする美術館は、現在のところ、福岡アジア美術館、この一館となっている。

なお、上に列挙した作品集のなかの図版について気づいたことをいえば、展覧会図録である『チャイナドリーム――描かれた憧れの中国――広東・上海』と雑誌『漢声』(六一号と六二号)を別にすれば、どの作品集においても、作品の出典(クレジット)が明らかにされていないということである。このことは、図版の無断借用や許可を得ない転載を意味するだけではなく、月份牌の実作が、どこにどれくらい現存しているのかさえもわからなくさせている。

三.本書執筆の目的と方法について

こうした先行研究の特徴を踏まえたうえで、本書の目的は、次のように設定されることになる。

[一]月份牌の起源とその出現を促した社会的要因を特定すること。
[二]月份牌の出現から衰退までの全過程を一貫した視点から論じること。つまり、単に思弁的な美的側面からの記述に終始することなく、月份牌の機能や表現に関して社会的文化的文脈から実証的に分析を行なうこと。
[三]さらに加えれば、企業(スポンサー)、絵師、製作技法、印刷技術、さらには利用者にかかわる月份牌の生産と消費の構造に着目し、たとえ資料の少数性ゆえに断片的なものになろうとも、その歴史的実態を明らかにすること。
[四]一方、二〇年代および三〇年代における、高度の印刷技術を駆使して展開される月份牌が「商業広告ポスター」として完成の方向へ向かう過程において、本来の「カレンダー」として機能が縮小ないしは排除されて、その部分が独立した形式になる過程にも関心を寄せ、そうした「ポスター」と「カレンダー」の分裂という点についても例証すること。
[五]中華人民共和国の建国以降の政府指導による月份牌の「改造」に関しての実態の一側面を明らかにすること。

それでは、これらの目的を達成するためには、どのような方法を用いればよいのであろうか。問題なのは、研究対象である月份牌の残存の状態である。すでに触れているように、日本において月份牌をコレクションする美術館は、現在のところ、福岡アジア美術館のみである。しかしながら、この美術館が所蔵するものは、とくに一九二〇年代および三〇年代の月份牌である。一方、本国中国にあっては、上述のように一部の個人コレクターによる収集はあるものの、公的な美術館や博物館、あるいは研究所での収蔵状況の詳細は、いまのところ不明である。

こうした実態について一般的に考えられるのは、「カレンダー」としての月份牌であろうと、「ポスター」としての月份牌であろうと、それが消費財であったがために、使用後は、これまでほとんどが廃棄される運命にあったのではないかということである。とりわけ人の注目を集めやすい「美女図」としての月份牌はまだしも、初期の「中西合暦(中国暦と西洋暦を併載したカレンダー)」としての月份牌については、ほとんど残存していないのではないだろうか。また同時に、文化大革命の時代においては、資本主義文化の象徴として月份牌はみなされたことによって、その多くが破棄された可能性がある。そのようなわけで、いずれにしても、本書にあっては、編年的かつ系統的に収集され保管されている、まとまった量の実作の月份牌を研究の対象とすることは、現実的にできないのである。つまり、残存する作品をもって、月份牌の全体史を描くことは、現状では不可能ということになる。それでは、代替の方法として、何が考えられるだろうか。つまり必要とされるのは、月份牌が誕生したのではないかと思われる時期から衰退する時期までにあって、月份牌に最も密接に関係していたであろうと考えられる文書資料(信頼するにふさわしい一次資料)なのであるが、それは、日刊新聞『申報』をおいてほかにないのではないかと判断される。

四.基本資料としての日刊新聞『申報』等について

それではここで、『申報』について簡単に紹介しておきたい。

『申報』とは、一八七二年にイギリス人のアーニスト・メイジャーにより上海で創刊された中国語の商業新聞である。メイジャーは、香港で茶の取引を行う商人であった。同時にまた、漢文に精通した教養人でもあった。彼は、茶の商売の失敗の後、効率よく収益が得られる新聞刊行の事業に投資することを選んだ。そうして『申報』は創刊されることになった。

創刊当時の『申報』は、中国の官報と同様、朝臣の奏章、詔令、詩文などを掲載する一方で、「国家の政治、風俗の変遷、中外交渉の要務、商売貿易の利弊、およびいっさいの驚愕すべきことや喜ぶべきこと」について「その真実を探究し、読む者にわかりやすく伝える」ことを目的としていた。また、役人や知識階級だけでなく、より多くの層の人びとが、購読者となることも想定されていた。さらには、創刊時から利潤追求が強く意識されていたため、広告収益の増大がはかられるとともに、創刊当初は隔日刊であったのが、第五号から日刊となった。紙面を占める広告の割合が高いことが、この新聞の大きな特徴であった。『申報』は、一九一〇年二月に経営権がメイジャーから上海の資産家の 席裕福 シ ユイフ に渡り、その後、一九一三年には 史量才 シ リャンツァイ に売却された。史は、編集、経営、販売にかかわるさまざまな改革を行ない、『申報』の発展を促した。創刊時は上海が中心であった販売の範囲は、徐々に全国の各都市、および日本や欧米にまで広がっていった。抗日戦争初期には上海での刊行は一時休止するものの、一九三八年一月一五日から七月三一日の期間には漢口版が、一九三八年三月一日から一九三九年七月一〇日の期間には香港版がそれぞれ刊行されている。そして、最終的には、一九四九年に廃刊となる。こうした経緯のなかにあって、『申報』は、中国で最も歴史の長い商業新聞であり、その分野にあっては最も影響力の大きい中国語新聞のひとつとなったのである。

こうして見てみると、確かに『申報』こそが、月份牌の実態を最も正確に例証することができる可能性をもつ文書資料といえるのではないだろうか。たとえば、ひとつには、時期にかかわってである。月份牌は、おそらく清末に出現し、一九四〇年代に衰退することになるのであるが、一方の『申報』は、一八七二年に創刊されて一九四九年に廃刊されている。明らかに両者は、発行時期(製作時期)において共通しているのである。次に、発行(製作)された地域について着目してみよう。月份牌も『申報』も、ともに上海を中心に広がりを見せた印刷物であった。この点においても共通している。さらに、メディアとしての発信対象についてであるが、このことでいえば、月份牌も『申報』も、おおかた共通した購読者や購買者によって支持されていたものと思われる。つまり、主として上海という都市に集まる生活者を対象として、『申報』は記事と広告を通して、月份牌は、暦ないしは画像を通して、共通する関心事を発信していたものと考えられるからである。こうした主として三つの理由から、月份牌の全体的な歴史を記述するための最も適切で必須の一次資料として『申報』が着目されるのである。

そうしたことを踏まえて、まず『申報』の複製版(四〇〇冊、上海書店、上海、一九八三年)のなかの月份牌の実態にかかわる広告と記事をすべて抜き出し、それを一覧表としてまとめる作業を行なうことになった。そうした準備をへて、次にこれらの資料を根拠資料(ないしは証拠資料)として利用しながら、月份牌の出現から衰退までの全体史の一端が描き出されていった。

しかしながら、当然ながら、『申報』に掲載されている月份牌に関する広告も記事も、少なくとも一九二〇年代までは、ともに文字によって記述されているわけであり、そのことは、月份牌の社会的文化的文脈における実態や背景を例証するうえでは有効であるとしても、必ずしも、画像そのものの分析にとっては有効であるとは限らない。つまり、テクストとイメージの乖離が存在する可能性があるからである。そこで、その点を補うために、副次的に別の資料を援用する必要性が生まれた。

ひとつには、当然ながら、可能な限り残存する月份牌の実作を熟覧することであった。これについては、すでに述べたように、主として趙青岩の個人コレクションと福岡アジア美術館の所蔵品が熟覧の対象となった。

さらに、もうひとつには、当時刊行された「画報」のなかの画像を、貴重な手掛かりを提供する視覚資料として積極的に利用することであった。それに関しては、まず『点石斎画報』(点石斎石印書局、上海、一八八四年から一八九八年ころまで刊行)を挙げなければならないだろう。この複製版にはふたつのヴァージョンが存在し、ひとつは広角鏡出版社が出版した複製版(二冊、香港、一九八三年)で、もうひとつは大可堂から出版された複製版(一五冊、二〇〇一年)である。前者は、部分的復刻であるが、創刊者のアーニスト・メイジャーの「序」が付け加えられている。後者は、「序」はないものの、おそらく、ほぼ全体を復刻したものといえるが、もともとの版形に手が加えられた可能性があり、さらには、現代語による解説が新たに加えられているにもかわわらず、残念ながら、その内容に誤謬が認められる箇所も目につく。それでもこの『点石斎画報』が重要なのは、この『画報』の絵師のなかで、たとえば 周慕橋 ジュウ ムチョ 張志瀛 ジャン ジイン などのように、のちに月份牌の作家になった人たちが含まれており、その人たちの月份牌の実作を分析する際の重要な手掛かりを提供しているからである。

次に挙げなければならないのが、『申報図画週刊』(申報館、上海、一九三〇年から一九三二年まで刊行、ときには『特刊』のいう名称も使用される)と『申報図画特刊』(申報館、上海、一九三四年から一九三七年まで刊行)である。このふたつの『週刊』と『特刊』の特徴は、豊富な写真が掲載されていることであるが、そのなかの幾つかが月份牌に転用されており、とくにこの点において、月份牌研究になくてはならない一級の画像資料となっている。もっとも、復刻されるにあたっては、『申報図画週刊』と『申報図画特刊』は合本され、『申報画刊』(二冊、上海書店、上海、一九八八年)というタイトルに変えられている。

このように本書においては、基本となる文献資料である『申報』の広告と記事を補ううえで、以上に述べたように、実作の熟覧とあわせて、『点石斎画報』と『申報画刊』が、とりわけ月份牌の画像を分析するうえで援用されることになった。

五.本書の構成について

前述のとおり、本書の目的は、趙青岩の個人コレクションと福岡アジア美術館の所蔵品を参照しながらも、主として『申報』のなかの広告と記事、そして『点石斎画報』と『申報画刊』なかの図版と写真を基本資料として、月份牌にかかわる通史を記述することにある。

『申報』(一八七二-一九四九年)に掲載された月份牌の実態に関連すると判断される広告と記事は、広告が四四四点、記事が二点あり、総計で四四六点であった。圧倒的に広告の点数が多く、記事の点数が少ない。その一方で、この時期を通じて一般に導入されることになる西洋画や、伝統的な水墨画のような「美術作品」については、『申報』においては広告ではなく記事のなかでしばしば取り上げられている。そのことから、この時期の人びとは、月份牌を「美術作品」とはみなしておらず、単なる「商業印刷物」として軽視していたことがわかる。しかし、過去においてそうだったからといって、今日においてもなお、論じるに値しない表現形式として、研究の対象から月份牌を除外することは不当ではないかと思われる。なぜならば、『申報』および『点石斎画報』と『申報画刊』を基本資料として、社会的、文化的、技術的文脈に沿って、月份牌の誕生から衰退までを全体史として描くことは、進行中の当時においては関心が薄かったとしても、時をへた今日の関心からすれば、中国にとっての西洋化の全体的プロセスの一端が、あるいは中国における近代化の全体像の一側面が明らかに例証されることになり、このことの学術的価値は決して無視されるべきではないと推量されるからである。

本書にあって、月份牌を通史の観点から時代区分するに際しては、したがって、基本資料として用いる『申報』のなかでの月份牌に関する記述内容の特異点に着目しなければならないことになる。

その一方で、『申報』の創刊(一八七二年)から廃刊(一九四九年)までにあっての月份牌に関する広告および記事の年度別件数についても、その推移の傾向に着目しなければならない。はじめて広告に月份牌が登場するのが、一八七〇年代の半ば(第一期)で、次の八〇年代および九〇年代に広告件数の膨張が見られ(第二期)、その後一時期激減する。しかし、一九〇〇年代および一〇年代において、件数は徐々に回復する(第三期)も、二〇年代および三〇年代は再び減少に転じ(第四期)、一九三九年を最後に、それ以降広告から月份牌は姿を消すことになる(第五期)。

そこで本書においては、この五つの段階的変化に着目し、それぞれの時期の広告に表われた記述内容におおかた対応するかたちをとりながら、基本的に各章の題目は付けられている。また、注については、章ごとに番号を付けたうえで一括して巻末に整理されている。次に図版についても、全体として通し番号を付し図版出典とあわせて、同じく巻末に記載されており、さらにそのあとに、主要参考文献と索引が続く。ただし、索引における中国人名の発音については、ウェード式ではなく、現在大陸で使用されているピンインを用いて表記している。以上が、おおよその本書の構成である。

最後に、感謝の気持ちを書き留めておきたい。調査の期間中、月份牌の熟覧の機会を快く与えていただきましたご親切に対し、月份牌コレクターの趙青岩氏と福岡アジア美術館の学芸員のみなさまに、この場をお借りして心からのお礼の言葉を申し述べたいと思います。ありがとうございました。

二〇一三年 盛夏

于暁妮
中山修一

(1)謝宇野・胡可「月份牌映射当下設計師不具備中華文化的表達能力?」『南方都市報』南方都市報社、2011年10月22日付。

(2)同上。

(3)1872年4月30日付『申報』。

(4)「民国時期上海の広告とメディア」(『史学雑誌』第114編第4号、山川出版社、2005年、8頁)において、著者の村井寛志は、1925年に刊行された『清華学報』のなかの「五種類的広告分析」(『清華学報』2-2、1925年)のデータに基づき、『申報』を含む5社の新聞紙について、1923年11月ころに掲載された全体の紙面に占める広告の割合を計算している。『申報』に掲載された広告と非広告の比率は54:46であり、これによって、当時の『申報』の広告の割合が、全紙面の54%を占めていたことがわかる。ちなみに、この割合は5社のうち2位であった。