中山修一著作集

著作集10 研究断章――日中のデザイン史

第二編 月份牌――中国近代のカレンダー・ポスター(于暁妮との共著論文)

第四章 広告ポスターとしての月份牌の発展へ向けて――一九一五年以降

第一節 オフセット印刷の導入と広告ポスターの芽生え

日本人の技師たちが当時もたらしたのは、多色石版印刷技術だけではなかった。それ以外にも最新の印刷技術や教科書の編集方法、さらには洋本書籍の装丁法などが含まれていた。こうした広い意味での技術移転が、商務印書館の新しい血となり肉となり、同館の発展に貢献した。それからほぼ一〇年がたったのちの商務印書館の様子については、次の調査報告書に詳しく述べられている。これは、大正四年(一九一五年)に大阪の中田印刷所の大澤克と中田良夫のふたりが上海の印刷事情について行なった調査をまとめたものである。

 上海には御承知の通り我が東京の博文館のような組織を有してゐる商務印書館と云ふ印刷所がある、面積に於ては我が博文館よりも遥に膨大である、そして印刷ばかりでなく印刷機械から、紙、インキ其他の印刷材料に至るまで営業をしてゐる、丁度印刷のデパートメントストーアーと云ふものだ

さらに同報告書では、商務印書館が所有する印刷機械類が列挙されており、それを表にまとめると、次のようになる。

印刷部
活版ロール三二頁 六〇台      
平版ミシン菊全 一台
四六半截 五台
アルミ版四六全紙 一台
ママ セット自動紙差付 一台
凸版機 四台
写真部
全版カメラ機 一台   
半折 一台
四つ折 四台


ここから、当時の商務印書館がかなりの印刷能力を有していたことがわかる。印刷や製本にかかわる機械は、初期に日本から輸入した機械、アメリカから輸入したオフセット印刷機、ドイツ、イギリスなどのヨーロッパの国々から輸入した機械類であった。報告書のなかで中田良夫らは、「工場の設備は内地(日本)と殆ど変わりがない、中には内地よりも一層進歩したところがある」と分析し、さらには、「ここひとつ奮発 ママ ないと支那に後れるように思ふた」と、驚嘆している。

こうして商務印書館は、積極的に諸外国から印刷技術や印刷機械を輸入して、中国における近代的な印刷事業の発展に大きな貢献をなした。残された作品がきわめて少なく、同時に年代を特定するうえでの根拠となるものが不足している現段階においては、その前後の具体的な作品を対照して例証することはできないが、これらの技術と機械の導入により、月份牌にもこの時期新たな変化が生じたことは疑いを入れないであろう。

同じくこの時期、中国資本の商務印書館だけではなく、日本の印刷会社も積極的に中国に進出して、月份牌を印刷している。精版印刷株式会社がそのひとつであった。

印刷業界の専門誌『大阪印刷界』(のちに『日本印刷界』と改名)において、精版印刷株式会社の社名が頻繁に登場することから判断して、同社は当時の日本の印刷業界においてかなりの影響力を有していたものと推定できる。しかしながら、同社を知るうえでの資料はほとんど現存していない。そうしたなかにあって、私が入手した貴重な資料がひとつある。それは、昭和九年(一九三四年)に発行された『精版印刷株式会社ノ現況』という書物で、以下に、これを基に、この会社についての簡略な紹介を行なっておきたいと思う。

精版印刷株式会社は、明治三八年(一九〇五年)に日本精版印刷合資会社として創業し、大正五年(一九一六年)に「アルモ」印刷合資会社と合併して日本精版印刷株式会社を設立し、大正一〇年(一九二一年)に上海出張所を拡大して、上海に工場を設け、さらに、大正一二年(一九二三年)に市田オフセット印刷株式会社と合併し、そのとき精版印刷株式会社へと改称した

『精版印刷株式会社ノ現況』に記載されている、一九二九年(昭和四年)当時の精版印刷株式会社は、資本金三〇〇万円、従業員一、三七八人の大企業であった。そのうち上海分工場は、事務員二六名と職工五三六名で構成され、職工の内訳は九四人の日本人と四四二人の中国人であった。そして、この上海分工場の昭和三年度の一年間の印刷枚数は、一億九四四万一七九五枚で、売り上げ高は二、四三一、〇〇五・四〇円に上っていた。また同書には、上海分工場の住所は「斎斎哈路四号」と記述されているが、当時の地図にはこうした表記は見当たらず、したがって、おそらく「斎斎哈爾路」の間違いではなかったかと思われる。「斎斎哈爾路」は当時上海の共同租界にあり、周囲には日本系企業が多数存在していた【図二三】。

さらに同じく、『精版印刷株式会社ノ現況』によると、当時の上海分工場については、次のように記述されている。

 大正三年上海ニ出張所ヲ設ケ、南洋兄弟煙草会社及英米トラスト煙草会社等ヨリ大量ノ注文を獲得セリ、殊ニ欧州戦乱勃発ト同時ニ益々注文品殺到シ、一時中支方面ニ於ケル欧米印刷物ヲ駆逐スルノ盛況ヲ呈シタリ。玆ニ於テ年来ノ懸案タル支那ニ於ケル邦人経営ノ先駆タラントシ、且ツ在支事業経営ガ内地ニ比シテ、遥カニ有望ナルコトヲ考察シ、大正十年四月上海共同租界ニ土地及工場ヲ買収シテ、米国ヨリ新ニ新式オフセツト印刷機拾数台ヲ輸入シ、同年九月設備完成創業ノ運ビニ至レリ

精版印刷株式会社は、上海をはじめ、天津、青島、漢口など、中国の主要都市にある大手企業と業務提携を結んでいた。とくに英米煙草公司(英米トラスト)、花旗煙公司(米商)、三興煙公司(華商)、大東南煙公司(華商)、中和煙公司(華商)、スタンダード石油会社(米商)、テキサス石油会社(米商)、南洋兄弟煙草会社(華商)、華成煙公司(華商)、華達煙公司(華商)、瑞倫煙公司(華商)、主義煙公司(華商)、サンメード乾葡萄公司(米商)、ライジングサン石油会社(英商)、カラザス・ブラザーズ商会、東亜煙草株式会社、山東煙公司(華商)などの会社と取り引きをしていた

『精版印刷株式会社ノ現況』には、さまざまな種類の印刷物の見本が多数掲載されているが、「ポスター類」の見本のひとつとして、南洋兄弟煙草有限公司の社名入りの月份牌が紹介されている【図二四】。このことから、日本の精版印刷株式会社が煙草のパッケージのみならず、 月份牌 ユェフンパイ も印刷していたことがわかる。また、同書に掲載されている「意匠室」という題名の写真では、背景に見られるイーゼルに月份牌の原画らしきものが置かれている【図二五】。この原画が日本で日本人画家によって描かれたものであるのか、あるいは、中国で中国人画家によって描かれ、その後日本に運ばれ、それを基に製版されようとしているものであるのか、残念ながら、詳しいことはわからない。ただ、この原画にはまだ社名や商品名が書かれていないことから、少なくとも、商業広告ポスターになる最後の工程が、当時日本において行なわれていた可能性も十分に考えられる。【図二六】は精版印刷株式会社が印刷した月份牌の一枚である。

大正五年(一九一六年)に、日本精版印刷合資会社は、第二回広告画図案懸賞募集を主催した。そのとき、南洋兄弟煙草会社の月份牌が、第三等第一席を受賞した【図二七】。この月份牌を描いたのは、江蘇省出身の 周柏生 ジュウ ボシン であった。周は、本名を 周桐 ジュウ トン といい、著名画家である 周彬 ジュウ ビン の息子である。彼は宮廷画師の 黄山寿 ホァン シャンシュウ を師とし、古装人物画にも造詣が深く、一九一七年に南洋兄弟煙草公司広告部に入社し、同社をはじめ華成煙草公司や華美煙草公司などの会社のために月份牌を描いた画家である

一方、【図二八】は、『日本印刷界』(第七七号、大正五年三月)に掲載されている月份牌である。この図版のキャプションには、「支那向最新ポスター」と書かれ、その下に括弧に入れて、「現物多色オフセット、菊全判」と注釈されている。このキャプションには、どうかすれば見落としがちであるが、きわめて重要な用語がふたつ使われている。それは、「ポスター」と「オフセット」という用語である。そこで以下に、それをキーワードとして、当時の日中の状況について少し触れておくことにしょう。

まず、「オフセット」について。

すでに述べてきたように、日本の印刷会社である金港堂の技術者たちによってもたらされた多色石版印刷の技術によって、一九〇五年以降、月份牌の印刷は中国において飛躍的に発展した。商務印書館が一九一一年に『申報』に出したある広告では、多色印刷について、用途との関連において、次のような説明がなされていた。

 上海商務印書館は各種印刷品を印刷する(広告)。
……(三)多色石版印刷により各種の色彩図画を原図と同じように印刷することができます。(四)三色版により青[シアン]、黄[イエロー]、赤[マゼンタ]の三色の配合をもって数十色を印刷することができ、とても精巧かつ華美です。(五)玻璃版により文字、図画の濃淡を原本どおりに印刷することができます。(色彩月份牌、色彩地図、各色の証明書、株証券、利息書、商標、ラベル、名人書画、書法本、絵葉書等は、これを使うのが最も適切です)

この広告では、当時商務印書館の多色印刷方法が、「三色版」と「玻璃版」のふたつに分けられて紹介されているようにも読めるが、しかし実は、石版印刷は平版印刷の代表として、一時期平版印刷の代名詞にもなっており、ここでは、「多色石版印刷」と書いてあるが、本当は多色平版のことを指しているのではあるまいか。そして、この新しい平版印刷のことを「製版方法」(三色版)と「印刷方法」(玻璃版)のふたつの観点から紹介しているように読めるのである。したがって、この広告で紹介されている印刷法は、より正確にいえば「写真平版コロタイプ印刷」なのではないかと思われる。

一八六八年にフランスのルイ・デュコ・デュ・オーロンが、色の三原色である黄、赤、青によるカラー写真の原理を考案し、カラー・フィルターを使って、色を分解して表現する技法が導入された10。上の広告のなかで記述されているように、数十色もの色が使われなければならないような印刷物であっても、この方法によれば、わずか三色で同じ効果を得ることができた。この広告で言及されている「三色版」は、写真技術が多色印刷の製版に応用されていることを示している。写真製版は、光学的で機械的な方法であり、描き版のような人の手技に頼る方法よりは効率がよく、これによって、職人に対する技術的要求を大幅に下げる利点があった。さらに、「玻璃版」はまた、コロタイプ印刷ともいい、磨きガラス板に感光性ゼラチンを塗布し、図柄はフィルムで露光して形成する。光に当たると硬くなり吸水性が低くなるゼラチンの性質を利用して、インキの量を調整して印刷する。この方法は、平版と凹版の合わせ技であり、最も原画に近い画質が出せる。しかし、印刷の精度が高いが、耐刷性の低さに弱点があり、ひとつの版で最大で何百枚しか印刷できない。いまでは美術館などにおさめられる美術品コレクションの複製以外に用いられることはほとんどないが、その当時月份牌の印刷に使われていたのは、この広告から明らかである。【図一五】は、コロタイプ印刷による月份牌である。

上で引用した広告に見られるように、一九一一年の商務印書館は、耐刷性が低いにもかかわらず、この「石版写真平版コロタイプ印刷」を多色月份牌に最適な印刷法として宣伝していた。一方、一九一五年になると、商務印書館はアメリカからオフセット印刷機を輸入し、技師のジョージ・ウェバー(魏抜)を招いたという記録が残っている11。オフセット印刷は、それまでの直刷りと違い、完成した版面を一回ゴム胴に転写して、それをさらに紙に転写する【図二九】。「版より弾力性のあるゴムから紙に印刷するため、安価なザラ紙にもきれいに印刷できる」、また「紙よりも柔らかいゴムに転写するため、版の摩耗が抑えられ長持ちする」、さらには「版を作るときに原画(原稿)を反転させなくてよい」12などの理由で急速に普及したオフセット印刷は、コロタイプ印刷のような精密度の高い画質は出せないが、コロタイプより耐刷性をアップすることができ、大量印刷を可能にする技術であった。このオフセット機が、一九一五年においてすでに月份牌の印刷に用いられたかどうかは、資料が不足しているために現時点で明らかにすることはできない。しかし、一九一六年の『日本印刷界』が紹介している【図二八】の月份牌には、先に指摘したように、確かに「多色オフセット」の印刷方法が用いられている。【図二八】は、まさにこの技術変革の証左となる作品である。この時期から、月份牌の製作は大量生産の方向に向けてさらに大きく前進したものと思われる。別の言葉に置き換えるならば、明らかにそのことは、一般大衆に対する有効な広告ポスターのための生産的手段の準備が整ったことを意味していた。

それでは次に、もうひとつのキーワードである「ポスター」に関して。

この時期、日本で印刷された月份牌は、「ポスター」という名称で呼ばれている。しかし、この時期の中国においては、月份牌は、今日にいう「ポスター」に相当する「招貼」でもなく、かといって、月份牌の原義の「カレンダー」でももはやなく、名状しがたい、曖昧な表現上の形式ないしは範疇に置かれていたものと思われる。また一方、当時日本に滞在していた中国人の 徐瑾 シュ ジン は、『日本印刷界』に投稿した文章「支那一般広告法式」のなかで、当時の中国の広告方式を、主に「新聞紙面の広告」「招貼と白貼」「鉄道線路の広告と夜間広告」「電柱の広告」「内海航路汽船上の広告」「活動写真と劇場の広告」「雑誌に於ける広告」「店面の広告」の八つの種類に分けているが、月份牌については全く言及していない。現在の中国語では、ポスターのことを「招貼」ともいうこともあるが、徐の文章のなかで言及された「招貼」とは、「多くは街道の壁や公衆の共同便所内や城門の前に貼るもので、大抵花柳病に関する広告である、用ふる紙は赤色と黄色と青色と白色との四色に限つて居る、勿論文句だけで図案などは全然ないと云つても好い、稀に図案を入れて石版や活字で印刷したものもある、がしかし概ね木版である」13。この「招貼」は、明らかに前述した精巧な月份牌とは別物である。つまり、当時の中国において月份牌は、「招貼」でもなければ、「広告」の一種としても意識されていなかったといえるだろう。そもそも、「ポスター」という概念さえもなかったのである。

さらにいえば、【図二七】と【図二八】の二枚の月份牌は、日本の同時期の美人画ポスターとは明らかに視点が異なる。日本のポスターでは、美人が大きく描かれているとはいえ、視覚の中心に置かれているのはやはり商品である。他方、【図二七】の周が描いた月份牌は、美人が画面の一番重要な位置を占めており、商品は絵の背景に小道具として描かれているに過ぎない。すなわち、周の作品は広告的な要素を最小限にし、装飾的な役割を最大限にしているのである。「広告」と「装飾」のいずれを強調するのかという点において、当時の月份牌と、日本の商業ポスターとでは、明らかに異なっていた。そうであったにもかかわらず、日本では、周柏生の月份牌が「広告図案画」として入賞し、加えて、「優秀なポスター」としても紹介されたのである。

当時「広告」として中国では認識されていなかった月份牌が、なぜ日本にあっては「広告」あるいは「ポスター」の領域におさまっていたのだろうか。田島奈都子が『大正レトロ昭和モダンポスター展――印刷と広告文化史』のなかで、当時日本にあっては、目的の異なるふたつの原画募集の懸賞が行なわれていたことを指摘している。ひとつは、三越呉服店が行なっていたような、自社商品を売るためのポスター用原画の懸賞であり、もうひとつは、精版印刷株式会社が行なっていたような、第三者に転売できるような作品とそのような絵を描くことができる人材を発掘することを目的とした懸賞であった14。周柏生の作品が入賞したのは、後者の懸賞であり、彼の月份牌が中国人の好みにあい、市場に適応していると考えられたがゆえに、授賞が決定されたのではないのかと推測されるし、それゆえに、日本人の目には、周の作品は「広告」であるし、また「ポスター」と呼ぶにふさわしいものであったに違いなかった。

周の授賞した月份牌は、精版印刷会社が南洋兄弟煙草会社のために印刷した広告のひとつであるが、この作品は、受賞以前にあって、すでに市場に投入され、広告としての効果を勝ち得ていた可能性もないわけではない15。この事例が指示していることは、周の月份牌は、中国人に好まれて、すでに商品や企業の宣伝の手段に利用されていた可能性があつたことからすれば、いまだそれが「広告」として中国で認識されることはなかったとしても、実際には、すでに「広告」としての社会的機能を果たしていたといえなくもないのである。

第二節 印刷技術を学ぶ中国人留学生の存在

他方、この時期は、企業を介して日本の印刷技術が中国に伝えられただけではなく、多くの中国人留学生が日本に渡り、彼らによって印刷技術が移転された時期でもあった。彼らは、日本各地の学校で、印刷技術を含む自然科学や社会科学の幅広い領域において近代的な知識を学んだ。光緒二十二年(一八九六-七年)に一三人の中国人留学生が日本に渡ったのが、近代における日本留学のはじまりである16。以降、光緒三十三年までの留学者の総人数は一万二、三千人に達した17。『申報』によると、光緒三十一年(一九〇五-六年)に日本に在学していた中国人留学生の人数は、二、八一八人であり、日本各地の七〇校に分布していた18。これらの留学生のうち、卒業後に帰国した者は、朝廷の試験を受け、合格者は科挙試験合格者と同様、「挙人」出身と見なされて、実官に任命された19

しばらく帰国しなかった者もいた。徐瑾のように、日本の企業に入り、働きながら技術を身に付ける人も少なくなかった。彼らは、長年日本の有名企業に勤務し、その働きぶりは高い評価を得た。たとえば、『日本印刷界』は、このような留学生のひとりである 沈逢吉 シン フォンジ に対して、次のような評価を与えている。

 沈逢吉氏は上海芸術学校の出身にて殊に彫刻に妙技を有す目下東京凸版印刷株式印刷株式会社彫刻部員として益々其の特技を揮ひつつあり支那人中稀に見 ママ 前途有望の青年なり20

沈逢吉によれば、彼は凸版印刷彫刻部に配属後、日本人とともに仕事をすることで技術を習得し、さらにほかの会社も見学に行くなど日本の印刷業者のさまざまな実態を肌で感じることができた21。無論、彼は単に働いただけでなく、自分が日本で見たもの、感じたこと、そして身に付けたものを積極的に中国国内に発信したものと考えられる。沈逢吉や徐瑾は、中国と日本の印刷業界の状況について分析した文章を『日本印刷界』に投稿し、また、徐瑾と 劉傳亮 リュウ チュアンリャン は、日本の印刷技術の書籍を中国語に翻訳した。さらに、徐瑾は、大正四年七月に中国に帰り、日本で学んだ技術と経験を中国で発揮した。『日本印刷界』には、徐瑾の帰国を報じる次の記事が掲載されている。

 支那政府より留学生として派遣せられ日本にあること十一ヶ年東京高等工業学校製版科優等卒業生としてその秀才を認められ特に本誌漢文欄の担当者として尽くすところ尠からざりし同氏は今回支那華商石印局技師長として招聘せられ本月十六日東京駅発帰国の途に着けり、尚ほ帰国後における同氏の支那通信は漢文欄と共に本誌の最も好読物たらんとす氏や前途多幸なれ22

このように、『日本印刷界』という一冊の雑誌に限っても、三人の中国人留学生の名前が登場する。ここで述べられた彼らの活躍は、当時の多数の留学生のごく一部に過ぎないだろう。徐瑾らが翻訳した、柏谷末太郎のような日本の印刷技術者たちが著した書籍が、実際のところどれほど中国の印刷技術の向上に役立ったのかは、資料が不足しているために正確に例証することはできない。だが、少なくとも、当時の日本の最新の印刷事情がリアルタイムで中国に伝えられたことは確かであろう。もしかしたら、「広告」や「ポスター」という概念を中国に伝えたのは、彼らだったのかもしれない。しかし、残念ながら、彼らの活動と月份牌とを結ぶ実質的な資料は、いまだ見出されていない。

第三節 専門家としての月份牌絵師たちの活躍

月份牌が広告ポスターとしての形式を整えていく発展の過程は、同時に、専門家としての絵師たちの活躍の場を形成する道程でもあった。その主たる絵師が、 鄭曼陀 ヂェン マントオ 徐詠青 シュ ヨンチン 、および 但杜宇 ダン ドゥユイ の三人で、『申報』においても、しばしば取り上げられ、当時脚光を浴びた作家たちであった23

一九一〇年代半ばの『申報』に掲載された月份牌の広告を見れば、鄭曼陀の名前が常に広告コーナーに登場する。そのことから、鄭曼陀の絵が当時いかに人気があったのかを知ることができる。【図三〇】は一九一六年一月一日の『申報』である。新聞の半分の版面を占めるこの広告コーナーには、八つの広告が掲載されているが、そのうちの三つの異なる商品の広告に、「鄭曼陀が描いた月份牌を贈呈する」という文言に相当するコピーを認めることができる。

このような「鄭曼陀ブーム」とでも呼べる時流を発生させていた要因は、何だったであろうか。それはやはり、彼が描いた月份牌のなかに認めることができるふたつの新しい特徴に起因していたものと考えられる。ひとつは、擦筆水彩という技法が使用されたことであり、もうひとつは、時装の美人を月份牌のモティーフにしたことであった。

それではまず「擦筆水彩技法」について――。この技法は、鄭曼陀により最初に使用されたものである。鄭曼陀は、杭州の「二我軒」という写真館に務めた経験があり、擦筆技法を使い、肖像画を描くことを得意としていた。彼は、この擦筆人像画と水彩画のふたつの技法を融合し、新しい「擦筆水彩技法」と名づけられた描き方を編み出した。この技法は、まずカーボンと擦筆を使って、描いた人物に明暗を付け、顔の立体感をつくり出す。その上に透明な水彩色を施し、色を付ける。【図三一】は、一九五〇年代に 金梅生 ジン メイシャン によって描かれたこの技法の手順図である。

この方法で描かれた人物画は、それまでの中国画の伝統技法と違い、色彩はより鮮やかで、形はより鮮明であり、人物の皮膚は軽くて軟らかく感じられる特徴をもつ。しかも画面の構成は、伝統的な仕女画のように綿密さがありながらも、西洋画のような立体感を有していため、旧来の月份牌の画質を一新することとなった。

このような新技法が使用されて製作された月份牌は、おそらく当時の人びとに強烈な印象を与えたに違いない。 歩及 ブジ は、一九七九年の『美術』に投稿した「月份牌画和画家鄭曼陀先生」のなかで、鄭曼陀の作品について、当時の人たちは、「[人物が]画面から飛び出てきそう」「生き生きとした」「[描かれた人物の]目線が観客を追いかけているように見える」などの言葉を使って、その表現の新鮮さをほめたたえていた、と述べている24。その一方で、一九一〇年代以降の当時、「点啥画啥(客の希望したとおりのものを描くことができる)」といわれながらも、伝統的な技法でしか表現できなかった「古い」月份牌作家であった周慕橋25たちなどにとって、その活動の場は、その後徐々に狭くなっていく傾向にあった。

次に、モティーフとしての時装美女について――。歩及の「解放前的“月份牌”年画史料」によると、鄭曼陀が月份牌を描きはじめたころに、 費暁楼 フェイ ショウロウ 王小某 ワン ショウモウ などの作家たちの仕女画はまだ人気があった26。確かに一九一三年一月六日の『申報』を見ると、申報館が「仕女画幅」を贈呈するといった内容の広告が掲載されている。

 多色印刷の仕女画幅を贈呈します。
 当社は、多色印刷の仕女画幅を二回にわたって贈呈しました。大変好評で、たくさんの方々から、三回目の贈呈日を聞かせてほしいとの手紙をちょうだいしました。いまちょうど印刷所に送ったところです。[今回の絵は]とてもきれいで、色も品があり、精良な品質を追求しています。各界の希望に応じられるものと思います。印刷ができましたら、改めて贈呈日をお知らせします、楽しみにしてください27

この贈呈広告は、申報館が掲載したものであり、以前贈呈した仕女画幅が大変高い評判を受けたことが書かれている。仕女画というのは、古装の美女を描く絵のことで、伝統的な中国絵画のなかでよく見受けられるテーマである。しかし、翌年の一九一四年になると、「時装仕女」が描かれた月份牌が出現している。

 中華図書館は本と一緒に多色月份牌を贈呈します。
 当館は開業以来二年、政、学各界の称賛を受け、大変恐縮な思いを感じています。感謝の意を表わすために、陽暦の二月一一日から、名家周慕橋さんが描いた時装仕女の多色月份牌を贈呈いたします。本館が出したリストに載せられた書籍を店頭で購入したお客様に、総額一元を超えれば一枚を贈呈いたします。あるいは、手帳一冊と交換することもできます。二一日まで。
 上海棋盤街 五一六號28

この広告は、『申報』に掲示された周慕橋により描かれた時装女性の月份牌の広告であるが、同時期に鄭曼陀も同じように時装女性をモティーフとする月份牌を製作していた。以下は、一九一五年一月一日の『申報』に掲載された広告である。

 上海國華書局 恭賀新禧 多色月份牌を贈呈いたします。
 新年を迎えるこの時期、世間万像が一新します。当局は、鄭曼陀氏にお願いして、美女が椅子の隣に立つ絵を描いてもらい、多色石版印刷で月份牌を製作しました。氏は、有名な当代の大画家で、彼の描くことにかけてのうまさを知らない人はいません。しかしこれまで、半身像しか描かないことが多く、ほとんどの作品に背景がありませんでした。今回のこの図は、当局の要請に応じ、特別に全身像が描かれています。楚々として立つ美人の可憐な様子が人の心を癒します。その背景となっている室内もとても華麗です。それを今回は月份牌にして製作しましたので、座右に置いていただければ、日付を調べることができ、実用品として使えます。壁に掛ければ、目を楽しませることができ、装飾品としても使えます。本当にこれ以上考えられない優れものです。(後略)29

この広告が掲載されたのは一九一五年であり、鄭曼陀がはじめて『申報』に名前が掲載された一九一四年一一月二四日の広告から半年しかたっていなかったにもかかわらず、国華書局は、鄭曼陀を「知らない人が」いないほど「有名な当代の大画家」と称賛している。間違いなく同時期の鄭曼陀の作品であることを確信できる作品が、時装女性を描いた一九一四年の《晩粧図》である。この作品については、その後「月份牌画和鄭曼陀先生」のなかで歩及が言及している。【図三二】は、「月份牌画和鄭曼陀先生」で使用されている図版であるが、不鮮明である。【図三三】は、ネット上の同作品である。歩及は、「月份牌画和鄭曼陀先生」のなかで、こう記述している。鄭曼陀が「一九一四年に審美書館で描いた《晩粧図》は、嶺南派画家である 高劍父 ガオ ジァンフ 高奇峰 ガオ チフォン の兄弟から称賛を受けた。また高劍父は、この絵に長い跋文を書いた。話によると、[この絵は]日本で印刷されたものらしく、鄭曼陀のデビュー作でもある」30

鄭曼陀は、同時期の月份牌画家の徐詠青と協力して作品を製作したことがあった。鄭が人物を描き、徐が背景を描く月份牌は、当時「合璧」と評判された31

徐詠青は、西洋絵画技法が得意で、他の画家と共作する以外に、単独で水彩風景の月份牌も製作していた。【図三四】は、徐詠青が描いた風景月份牌である。一九一九年一月二五日の『申報』を見ると、新たに設立した図画事務所についての広告を徐詠青自身が出していたことがわかる。

 画家徐詠青のお知らせ。
 弊社はいまも徐家匯の土山湾にありますが、現今のさらなる利便性を考えて、当日から図画事務所を上海申報館ビルに特設しました。各種図画の仕事および印刷製版などの仕事を受け付けます。(しかし、一切道徳に違反するものを除く)。御用の方は毎日午後にご来社ください32

この広告から、徐詠青は、各種の図画の製作および印刷、製版に関する仕事を行なっていたことがわかる。そしてまた、月份牌の製作以外にも、彼は美術教育にも力を入れていた。この広告のすぐ傍には、同じく徐詠青画室の学生募集の広告が掲載されている。

 徐詠青畫寓招生
 又本寓招收學生數名,每日由弊人親自教授,學科:鉛筆,毛筆,鋼筆,擦筆,水彩畫,油畫以及五彩石印等。卒業期三年,凡有志專門圖畫之青年即日速來報名,章程函索附郵票即寄。上海徐家匯土山灣南三角地徐詠青畫寓啓。

 徐詠青画寓の学生募集。
 当社は学生を数名募集します。毎日小生自らが指導します。指導内容としては、鉛筆[絵]、毛筆[絵]、万年筆[絵]、擦筆[絵]、水彩画、油絵および多色石印刷技術など。修業期限は三年で、図画を志す青年はすぐにも申し込んでください。切手を添付すれば募集要項を郵送します。
 上海徐家匯土山湾南三角地 徐詠青画寓 啓33

この広告から読み取れるように、徐は、西洋画や擦筆絵、石版印刷技術などの授業を行なっていた。しかし、彼が描いた人物月份牌は、人気が起こらず、失意のうちに、彼は上海を去って香港に渡り、その後消息を絶つことになる34

一九一〇年代の『申報』に掲載された広告のなかにその名前が認められる、もうひとりの月份牌画家は、但杜宇であった。一九一八年二月一四日に『申報』に次のような広告が掲載されている。

 謹賀新年 国華書局は美女月份牌を書籍の景品として贈呈します。
 「おめでとう」の祝いの言葉があちこちで響き渡り、新年の喜びを天下のみなさんはともに楽しんでいます。当局は、このめでたい時節を飾るのにちょっと喜ばしいものを贈呈します。それは、記念品として、お買い上げの書籍と一緒に贈呈する但杜宇さんが描いた双美人の月份牌です。この絵は、杜宇さんが最も得意とする作品で、木陰の下で、ふたりの美人が一緒に遊んでいる場面を描いたものです。ひとりは、欄干をもちながら、ほほえんでいます。もうひとりは、流し目がとても美しいです。大喬小喬35のようにふたりともに美しく、別の駄作とは全く比べ物になりません。当局が出版した小説は、一律三割引きです。一元を満たすと月份牌一枚を、二元以上であれば二枚を贈呈します。たくさん買えば、たくさんもらえます。上海以外の町で郵送購入の場合には、送料が一割増えます。月份牌の送料は一枚つき七・五分。有効期限は一月末まで。しかし、月份牌の数量は限られていますので、そのうちになくなり次第終了いたします。お早めにお越しください36

この広告は、国華書局が掲載した広告である。ここから読めるように、但杜宇は、国華書局のために月份牌を製作した。その作品は残されていないようであるが、その内容は、この広告文に見られるように、明らかにふたりの美人をテーマとする絵であった。

但杜宇は、月份牌画家としては殆ど今まで注目されることはなかった。しかし研究者のあいだでは、中国の早期の映画監督のひとりとして認められる存在であった。但について、ひとりの日本人研究者である佐藤秋成は、「ヴィジュアリスト但杜宇の足跡――一九一〇~一九二〇年代を中心とする中国画壇・文壇・映画界の動きに関する一考察」のなかで、次のような記述を試みている。

 中国映画史において、但杜宇のようなユニークな足跡を残した人物はおそらく数多くいないだろう。映画監督として主に一九二〇年代の前半から三〇年代の後半にかけて活躍した但は、本格的に映画を撮る前に、西洋画、漫画、イラストレーション、そして写真分野ではすでに頭角を現し、数々の作品を発表した名の知られた存在であった。一九一八年に、彼は上海において映画製作会社「上海影戯公司」を興し、一九二一年から三七年まで計四三本の作品を手がけた37

佐藤は、別の論文「埋もれた中国映画史の断片――シネアスト但杜宇とその知られざる映像の世界」において、映画監督としての但は、「常にカメラとライトの位置に細心の注意を払っており」38、このことによって、画面の装飾性が高められ、軟調で抒情的な雰囲気をつくり出すことに成功している、と評している。このような但の独特な美意識は、映画監督になる前の画家としての経験に何か関係があるのであろうか。佐藤は、同じく「ヴィジュアリスト但杜宇の足跡――一九一〇~一九二〇年代を中心とする中国画壇・文壇・映画界の動きに関する一考察」のなかで、『上海美術誌』と『二十世紀上海美術年表』に基づき、但が一九一〇年代から一九三〇年代までに製作した美術作品の一部をピックアップしている。その内容を見ると、但は、月份牌以外にも、漫画、美人画、スタイル画などのさまざまな領域に属する作品を製作していることがわかる。しかも、ほぼどの絵も、当時の女性をテーマにしており、これが、但の作品のひとつの共通した特徴となるものであった。

しかし、この特徴は、但の作品に限られた特徴ではなく、一九一〇年代の後半以降に製作された月份牌それ自体の特徴でもあった。そこで次の第四節においては、「新女性」の登場とその実態について述べ、続く第五節においては、『申報』と『申報画刊』に現われた美女をモティーフにした月份牌とその製作技法について言及しようと思う。

第四節 「新女性」の登場とその実態

前節で見てきたように、一九一〇年代の半ば以降、月份牌絵師の名前が頻繁に『申報』の広告に出現していた。また、彼らが描く月份牌のモティーフにしばしば女性が登場するようになった。これが、今日「月份牌」として一般に呼ばれるものであり、この時期から一九三〇年代の半ばまでのあいだにあって、いわゆる「商業広告ポスター」として、その内容と形式を整えながら完成へ向けて発展していくのである。

それでは、なぜこの時期に月份牌のモティーフとして女性が新たに登場してきたのであろうか。そのような「新女性」とは、どのような女性たちだったのであろうか。

この時期の中国においては、清王朝の統治が次第に崩壊し、国内では自由と民主化に対する要求がますます激しくなった。そしてついに、一九一一年一〇月一〇日に武昌蜂起が起き、武装兵士の反乱により辛亥革命の幕が開いた。この革命によって、二〇〇〇年の歴史をもつ中国の王朝専制体制は崩れ去り、一九一二年一月一日、中国史上はじめての共和制国家である中華民国臨時政府が設立した。武昌蜂起の勝利から中華民国臨時政府の設立までわずか二箇月しかなかったが、これは決して容易に手に入った成果ではなく、長年の抗争と犠牲による必然的な結果であった。

そのなかにあって最も目を引くことは、この時期から女性の解放運動がはじまったことである。女性に関する問題は、民族の生死存亡にかかわる問題である、と当時の知識人に認識され、広く社会の注目を集めた。女性の教育、経済、政治、婚姻、生育などの諸問題、さらに延長して、家庭のあり方や子どもの教育などが最も熱い話題となった。この時期の女性問題についての研究は、すでに多数存在している。たとえば、中国にあっては、羅蘇文の『女性与近代中国社会』39や夏暁虹の『晩清女性与近代中国』40が中国の女性と近代国家の関係について論じているし、日本にあっては、中山義弘の『近代中国における女性解放の思想と行動』41と須藤瑞代の『中国「女権」概念の変容――清末民初の人権とジェンダー』42が、この時期の女性解放について照明をあてている。これらの研究はそれぞれ固有の角度から論述されているものの、共通しているのは、近代中国の女性問題が西洋の女性問題と違う特徴をもっていることを示していることである。つまり、半植民地である清末民初における中国女性は、男性の専制と戦うと同時に、社会的専制と戦わなければならならなかったし、さらには、ひとりの国民としては、侵略者である異民族とも戦わなければならなかったのである。別の言葉でいえば、この時期の中国の女性は、単純な両性間の利害問題のなかだけではなく、男に対する女、専制に対する民主、異民族に対する自民族といった三重の戦いが混在するきわめて苛烈な問題群のなかに身を置いていたのである。女性を取り巻くこうした複雑で困難な状況は、当時の社会の各界各層から注目を集めることになった。

たとえば二〇世紀初頭の『申報』を見ると、「女性」についての記事が一日も欠かさず掲載されている。総じて内容としては、「新しい女性」についてのニュースや紹介に加えて、さらには、そうした女性たちのあるべき姿についての論議が目立ち、社会の各方面からの意見が寄せられていた。ひとつの例を挙げると、 何立三 ヘ リサン という人物が、一九一二年三月一〇日の『申報』に次のような文章を寄稿していた。

 西洋の考えが東へとやってきて、女学校が林立し、学術のうえで自由あり。化粧をやめ、鉄血に従事し、軍事のうえで自由あり。共和制度が確立し、参政権を得、政治のうえで自由あり。新聞に意見が掲載され、言論のうえで自由あり。皮靴を履き、はやりの化粧をし、[恋人と]手をつないで堂々と街を歩き、行動のうえで自由あり。喫茶店や劇場に出入りし、娯楽のうえで自由あり。[恋人と]甘い恋心を語り、ともに白髪までの約束を結び、婚姻のうえで自由あり。さらにそのうえに、軽薄な女が思わせぶりな態度を示し、風流な男の魂は奪われ、みだらなことも何のその、交際のうえでも自由あり。「不自由」の三文字は昔の女子に付けるのはよいとしても、いまの女子に付けることはできない。数千年来、愚鈍無知なかよわい女子たちが一気に自由の領域に駆け登り、気勢が沸き上がり、止めることもできず、さらに勢いは男性を上回る。これは今日の女性の大いなる幸福ではないか43

何立三は、「学術」「軍事」「政治」「言論」「行動」「娯楽」「婚姻」「交際」の八つの「自由」を並び立てて、「今の女子」は「昔の女子」と全く違い、「不自由」などなく、むしろ「自由」過ぎることに対して驚嘆しているのである。この記事と同じように、この時期の報道に見られる主たる特徴は、女性たちを新式の女子と旧式の女子の二種類に分けて比較をしていることである。そして彼女たちを分ける基準として用いられる最も重要な尺度が、「教育」を受けたかどうかであった。

中国の近代女子教育は、一八五〇年代に上海で芽生え、清道光三十年(一八五〇年)に創立された裨文女塾44から数えて、一九四九年五月までに上海で設立された女子小学校と中学校の総計は、一八校45に及んでいる。しかしそのほとんどが、一九一二年以前の創立である。一九〇七年末までにあって、全国的に見れば、女子学堂は四二八校、女子学生は一五、四九八人までに達しており、また、一九〇三年から一九〇八年までの五年間で、全国の女子学校数は五八・五倍に膨れ上がった46。こうした数字から判断して、清末のこの時期、女子教育がかなり重視されていたことがわかるであろう。こうした女子学校の学生たちは、当時「女学生」と呼ばれ、一〇歳前後の子どもたちだったと思われる。

清末文人にとって、西洋は「先進」と「文明」の代表と見なされ、「新」という言葉は、中国の伝統と相対することを示す言葉として使用されていた。つまり、「新」には「西洋の」あるいは「西洋化された」という意味が含まれていたのである。そして、一般的にいえば、「自由」や「文明」などの西洋から伝来した言葉が、「新式の女子」としての女学生たちと結び付けられていた。こうして彼女たちは、「自由」や「文明」のシンボルとなったのであった。

『申報』の「自由談」コーナーの口絵においても、長きにわたって常にこのような「自由な」女性をテーマとする絵が登場していた。【図三五】と【図三六】がその例である。

一方、一九二〇年代の月份牌である【図三七】に描かれている女子も、上で述べた意味での「自由な」女性であろう。彼女は、一通の手紙をもって、西洋式の暖炉の鏡の前に立っている。洋服を身にまとい、手に西洋の腕時計を付けている。さらには、周りの室内の環境も西洋式のものとなっている。暖炉の上には若い男性の写真が置かれている。恋人かもしれない。明らかに、彼からの手紙が届き、彼女は、その彼のことを思いながら手紙を読んでいるのである。まさに何立三が述べた、服装や言動などに「自由」をもつ「今日の女子」なのである。

しかしながら、女学生が「自由」と「文明」のシンボルとして持ち上げられる一方で、ある女学生が官僚の妾になったという話を『申報』は興味深げに記事にしている。

 女学生の価値 松江[の地から]。
 郡西松秀女学校の元学生で、現在、文秀女学堂の手工教諭である 張宝瑛 ジャン ボイン さんは、年のころは一六歳、容姿はとても可憐である。ちょうど某官長は奥さんを亡くしたばかりで、彼女を見るや、とても気に入った。ついに六〇〇の大金を出して彼女を購入し、妾のひとりとして彼女を連れて赴任した47

女子教育が注目されたこの時期に、『申報』の教育ニュースのコーナーである「学務」の欄において、旧式の文人が「自由」と「文明」のシンボルである女学生を購入し妾にしたという記事が掲載されているわけであるが、今日の眼からすれば、絶妙な皮肉となるであろう。しかし、記事の原文には、その行為につての評論はなく、ただ、その言葉づかいから判断すれば、この記事を書いた著者は、「某官長」のこの行ないをとても風雅な行為として受け止めているようである。若くてかわいく、そのうえに、元女学生で、現在は女学校の先生でもある、そのような女性を妾にするのは、当時の知識人男性にとっては、ハイカラで、人がうらやむ行為だったようである。

さらに注目されてよいのは、この記事の表題が「女学生の価値」となっていることである。ここから判断して、記者がこの記事で伝えたかったメッセージは、「女学生」であれば、妾になっても値段が違う――これも女子教育の「おかげ」であろう、ということだったのではないだろうか。もしそうしたメッセージがこの記事に込められていたとするならば、当時の「女学生」や「新女性」はそのことをどのように受け止めたであろうか。資料が不足しているので、断定することはできないが、女性のなかには、とりわけ貧しい女性にあっては、そのように考え、環境を改善するために自分も「教育」を受けたいと望む人もいたのかもしれない。

一方、「新式の女子」は、旧式の文人だけではなく、新式の文人にとっても、違った意味で、ある種心を動かす存在であった。つまり、旧式文人は新式女子を「飾り」として求めたのに対して、新式文人は新しい女子を「つくる」ことに情熱を傾けた。以下はそのひとつの具体例である。当時の雑誌である『新女性』に掲載された 章錫琛 ジャン シチン の「一個実際問題的討論」という文章は、このような新式の男性のことについて述べている。

西洋的教育を受けた「新式の文人」であるP君は、両親の強い意思によって「旧式の女子」のLさんと結婚した。結婚後彼は、彼女を「新式の女性」に改造することを誓った。彼は両親を説得し、彼女を学校に通わせ、初等の教育を受けさせることにした。彼の目標は、彼女が経済の面で自立できることであった。そして彼は、その目標を達成するまではどんな困難があってもあきらめないとの決心をした。しかし、そのあとふたりのあいだに何人かの子どもができ、彼女は育児と家事に追われ、学校をあきらめようとする。彼は、彼女のこの考えに不満を感じ、乳母を雇って子どもの世話をさせるか、あるいは、末子の赤ちゃんを殺すか、こうした解決案を彼女に提示した。赤ちゃんを殺そうとしたのは、この子に将来ちゃんとした教育を受けさせることができず、社会に「有害な人間」になってしまうよりは、いま殺した方がいいという見解に彼が立っていたからにほかならなかった。彼の考えによれば、第一に、女性は職業をもたなければならならず、男性に頼り寄生するのは完全な人格の養成に有害となるものであった。第二に、彼だけでは家族を養うことが困難であり、もし彼女が外で働くことができるならば、家計の助けにもなる。これに対して、彼女の意見はとても単純であった。彼女は、職業をもつことはいいことであると認めながらも、家庭と職業の両立は極めて困難なことであると感じ、家庭を捨ててまで職業に専念することは、母親としての自分の天職と母性感情に反することであると考えたのであった48

この事例のなかに、新式女性に対する当時の新式男性がもつ考えを垣間見ることができる。彼は、自分が「新女性」の「創作者」を気取っていて、彼女を自分の望むとおりにつくろうとしているのである。そして彼がつくろうとする「新女性」の形象は、必ず教育を受け、そのことによってひとつの職業をもつことができ、経済的には男性に頼らなくてもよいだけではなく、男性を助けることもでき、そうして女性は男性と同じように人格的に完全な人間になる、というものであった。しかし、彼の「新式女性」についてのこの理想像は、女性の実際の生理と感情を無視するものであり、彼の一方的な女性に対する理想像でしかなかった。明らかに、この理想像は情熱的ではあるが、現実と離れた「虚像」だったのである。

上に述べてきたことから明らかのように、旧式男性と新式男性では、「新女性」に対する眼差しと態度が違っていた。しかし、共通しているのは、いずれの男性も「新女性」をひとつのシンボルとして見ている点である。前者は、彼女たちを自分自身の「飾り」として見ているし、後者は、自分自身の理想を投影した新たな形象へと彼女たちをつくり変えようとする視点が介在する。意味する内容は異なるものの、旧式男性も新式男性も、「新女性」を虚像としてとらえていることには変わりがない。このことは、当時製作された月份牌にも、投影されている。【図三八】の月份牌は、鄭曼陀が一九一四年に描いた《執巻沈吟図》という作品であると思われる。題目の《執巻沈吟図》とは、「本をもって物思いに耽っている図」という意味である。一方、【図三九】は、 胡伯翔 ホ ボシャン (が一九二九年に描いた月份牌《閑情》で、この《閑情》という題目は、「悠々とした気持ちと」いった意味をもつ。モティーフは、いずれもこの時期の「女学生」ではないかと思われる。おもしろいのは、描かれた女性は、ともに移ろうように遠くを見つめ、画面を見る人(この絵の鑑賞者)と目線をあわせることのないポーズで描かれていることである。明らかに、この絵を製作した絵師は「夢見る少女」の雰囲気を表現しようとしているのであろう。その幻想的で静寂な、そして人を遠ざけようとする自我にこもった夢想的な雰囲気は、「新式女性」としての当時の「女学生」の虚像や虚無そのものであり、《執巻沈吟図》も《閑情》も、移ろいやすい「夢」の世界を表象していたのではないだろうか。

この時期のほとんどの女子学校は、「賢妻良母」の養成を主要な教育目的としようとしていた。しかし、ここでいうところの「賢妻良母」は、家のなかにあって夫と子どもに従わなければならないとする伝統的な「賢妻良母」の意味とは異なる。たとえば、「知識を啓発し、礼教を保存することの両立」49を旨とする女子師範学堂では、「女子教育の興起は家庭教育の根本であり、家庭教育は社会を改良し、国民を養成する基本である。……教育を受けた女性は、必ず家政を整理し、児童を保育することができる」50との認識に立っていた。清末において 梁啓超 リャン チチョ によって提出された「新民説」という考え方では、女性のうちの「十分の六ないしは七の女性は[生産に従事することなく]利益を享受するだけの存在でしかない」51と認識され、女性は「国民」として認められていなかった。しかしその後、女性は「国民」である男性を産むという事実に鑑みて「国民の母」として重視されるようになった。「国民」を生み、「国民」を教育する女性は、利益を享受するだけの存在ではなくなり、国家に対して自らの義務を果たしていると考えられるようになり、女性もまた男性と同じようにひとりの「国民」として認められ、「女国民」という言葉さえも出現した。 初我 チュワ という署名の人物は、『女子世界』に投稿した「新年之感」と題名した文章において、こう書いている。

 私は、女子が国民の母と聞き、精神[思想]が事実の母と聞いた。[女性は]尊い神聖な資格[天性]をもち、高貴完璧な精神を養成し、自由な思想を吸収して、それを千万人に伝える。これは新中国の新女子である。[彼女たちは]この二〇世紀の新事業を行なう52

この文章では、「国民の母」としての女性は、子どもを産み育てる役割を担うという意味で、近代化する新しい中国における「新女性」であることがうたわれており、彼女たちが行なう「新事業」は、子どもの教育をとおしての旧い過去を切り離す事業であり、新しい未来をつくり出す事業であることが主張されているのである。

こうした、「国民の母」としての女性に投影された「期待」や「理想」は、二〇年代中期以降の月份牌にも、見出すことができる。いうまでもなく、その多くは若い奥さんをモティーフにした作品であった。【図四〇】は 謝之光 シェ ジグァン が描いた一枚の月份牌である。画面中心に母親としての女性が描かれ、三人の子どもがその周りを囲んでいる。彼女は赤いシルクのチャイナドレスを着、耳にはダイヤモンドのイヤリングを、手首には舶来品の腕時計を、そして指にはエメラルドのリングを付けている。一方子どもたちは、水色や薄いピンクの洋服を着ている。そして後景の本棚には、多くの本が並べられている。これらのことは、彼女たち一家は知識人階級に属し、母子ともに健康で裕福な生活を送っていることを暗示している。おもしろいのは、この家庭の男性主人がこの画面から抜け落ちていることである。この月份牌のスポンサー企業は「中国大東煙草公司」という煙草会社である。この作品の絵師である謝之光は、このような美人妻と健康な子どもをもつことを「夢」とする、そうした男性を消費者として設定しているのであろうか。それとも、自分もこの絵に描かれた「夢」のような生活を送りたいと思う、そうした女性の関心を引こうとしているのであろうか。いずれにせよ、社会や男性が女性に対して抱く「理想」や「期待」や「夢」の実態が二〇年代から三〇年代にかけて変化していく過程にあって、月份牌のなかの女性の形象は、より現実的で家庭的な「国民の母」を主題化する方向へと移っていったのである。この時期、このような「家庭的」な雰囲気を表現する月份牌がしばしば出現している。たとえば【図四一】や【図四二】などの作品がその例である。

月份牌で表現されたこの時期の女性を見ると、一方では、上で述べてきたように、清純な女学生から世俗的な幸福を象徴する若奥さんの形象へと推移する道筋がつくられながらも、その一方では、「かよわい女学生」から「勇猛な愛国者」としての女性形象へと変化するもうひとつ道筋が用意されていったことがわかる。

清末からはじまった女子教育の推進により、女性が社会に進出する度合いが深まると、女性自身による闘争の重心は、「私という個人的な女性」の権利(たとえば、教育を受けたいと思う権利)を求める闘争から、「私たちという社会的な女性」の権利(たとえば、政治や選挙に参加したいと思う権利)を求める闘争へと移り変わるようになった。たとえば、一九一二年三月二四日の『申報』には、「女子以武力要求参政権」(女子が武力で参政権を要求する)と題された記事が掲載された53。このようなニュースの出現からもわかるように、当時女性たちは、国政への参加を要求することにより、自身が「国の主人である国民の一員」であることを確立したいという考え方をもちはじめるようになった。実際、女性の参政権はすぐにも認められることはなかったが、この時期の社会にあって、女性が「国民の母」として認識される一方で、女性も「国民の一員」として認識されるようになり、女性も男性と同じように国や民族に対して責任をもつべきであるとする考えが、胎動しはじめた。たとえば、一九一一年一一月一六日付の『申報』には、このような「国民の一員」として自らをみなす女性の「愛国者」に関する記事が掲載されている。この記事の述べるところによると、尚侠女校の学生五、六人が、軍事の長官に「女国民軍」を組織するべく要請書を提出した。この要請に対して、軍事長官は次のような返事を行なった。

……君たちの要請書を読み、女子が国を愛する気持ちが男性に劣らないことがよくわかった。もし女性がみんな君たちのような愛国者になれば、我が国はきっと世界の強国となるであろう。君たちが、化粧を落とし、男性と同じように戦う覚悟をもつことは、おそらく異族者たちを落胆させるに違いない。しかし、軍事は紀律が第一である。もし訓練のうえ敵を制し、確かに侮りを防ぐことができれば、[政府は]武器と経費などの諸問題を解決することを約束する。軍務にかかわるものなので、すみやかにしっかりと規則に従って処理しなければならない54

この長官の返事を読むと、明らかに「愛国者」としての女性に対して、肯定的な評価をし、励ましている。これも、当時の社会の主流となる思想傾向であった。この傾向は、一九一〇年代末にピークを迎え、具体的な行動の事例となったのは、一九一九年の「五四運動」であった。「五四運動」とは、第一次大戦の終戦に伴い、パリ条約の締結により、青島をはじめとする山東省での利権が、ドイツから日本へと移転されることに対して中国全土で起こった反発運動であった。この運動は、女学生を含む学生たちのあいだから最初に起こり、工農商各界が支持する愛国運動へと広く展開していった。女学生は、この運動の主体ではなかったが、このことにより、女性がはじめて男性と一緒に国のために前線に立って戦う存在として社会的に認識されたといえるであろう。

この時期から、「愛国者」である女性の形象は、しばしば月份牌を含む多数の宣伝媒体において取り上げられた。多いときには、自然性としての「女性」という性別をわざと曖昧化して、中性的な「愛国者」の姿として出現した。たとえば、このような性別を曖昧化する形象が月份牌に投影された事例として、花木蘭を挙げることができる。

一九三四年二月一日付の『申報』には、中国華東煙草股份有限公司の梹榔牌という煙草の広告【図四三】が掲載されている。そして、その広告のなかに《呉宮入贅図》【図四四】と《木蘭従軍図》【図四五】の二枚の月份牌の写真が載せられており、その右上のコピーには、この煙草を買った人に、この月份牌を贈呈すると書かれてある。二枚の月份牌のうち、一方の《呉宮入贅図》では、伝統的に縁起のよいめでたい話が主題になっている。もう一方の《木蘭従軍図》で描かれている 木蘭 ムラン は、中国における伝承文芸や歌謡文芸などで語られる物語上の女性主人公である。伝説上の人物である木蘭の姓は「花」「朱」「木」「魏」などと一定していないが、京劇では「 花木蘭 ホァ ムラン 」とされる。老病の父に代わり、娘の木蘭が男装して従軍する。異民族(主に突厥)を相手に各地を転戦し、自軍を勝利に導いて帰郷するというストーリーである。

この物語は、南北朝時代の作品である「木蘭詩」や「木蘭辞」に根拠を置いている。見てきたように、その主題をもつ月份牌が『申報』に掲載されるのが一九三四年であり、それに先立つ一九一六年には京劇の主題として復活し、遅れて一九三九年には映画の主題にもなっている。この映画は、日本軍の占領下にあった上海の美商中国聨合影業公司華成製片厰が製作した映画「木蘭従軍」で、監督の 卜万蒼 ブ ワンツァン たちによる異民族(すなわち日本)への抵抗の意思を暗に示した作品とされている。

京劇の「花木蘭(または木蘭従軍)」は、 梅蘭芳 メイ ランファン が共作し演じた、新しい演目であった。この芝居のなかで彼は、女性が男性と同じように国を救う義務と能力をもっていることを表現した。彼は、創作の理由について、こう語っている。

 三四年前(一九一六年)の中国は、現在の状況とは大きく違います。普通の女子は、男性に頼り家に隠れて生きていて、社会に出ることがあまりありませんでした。同時に一般男性たちも、女性は大したことはできないと思っていました。この二種類の間違った観念を修正し、女性の愛国心を呼び起こすうえで、「木蘭従軍」の上演は意義があったと思います55

こうして木蘭は、本来は伝説上の古代人物であるにもかかわらず、期待される当時の女性の役割になぞらえられながら、新しい意義を担わされたのであった。芝居の最後の場面は、一二年の軍隊生活を終え、木蘭が部下を連れて家に帰ってきたシーンである。再び女の姿に戻った木蘭も見て、同じく従軍していたその部下はとても驚いた。そこで木蘭は彼にこういう。「われらが従軍していく途中、君は、女の人はいいよね、苦労なく家で楽な生活を送っているのだから、といったよね。まだその話を覚えているかしら」56。こうして、その部下を困らせたところで、この芝居は終わる。これは原詩とほとんど同じ結末であり、全ストーリーのおちでもあった。

しかし、一九三九年に創作された映画「木蘭従軍」57では、このシーンで終わるのではなく、木蘭は、別の部下の 劉元度 リュウ ユァンド と結婚することをもってラストシーンとなる【図四六】。この結末は、原詩のなかに見られる、国防における男性と同等の能力を有する女性像からは、幾分乖離したものとなっている。男装しているときの、いかにも男らしい木蘭と、その後実際の女性に戻ったときの、いかにも女らしい木蘭の表情や動きにも、かなり差を認めることができる【図四七】。監督が表現したかったメッセージは、いくら社会に貢献しても、女はやはり家庭に戻り、結婚することが最終の幸福であるということだったのであろうか。

このように見ていくと、一九一六年の京劇「木蘭従軍」から一九三九年の映画「木蘭従軍」までのあいだに、木蘭をとおして問われた女性への「期待」や「理想」は、確かに大きく変化していた。つまり、前者の作品は、女性に対する偏見を是正するとともに、女性の愛国心を高揚させることが主たる目的にすえられており、後者の作品は、愛国心的活躍後の家庭への復帰が女性の幸福と結び付けられていたのであった。ちなみに、映画「木蘭従軍」で表現された木蘭が戦場から家に戻るシーンとよく似た構図をもつ月份牌が存在する。【図四八】がその作品である。

三〇年代の月份牌を見ると、そこにはもうひとつの異なった「夢」が存在していたことがわかる。それは、京劇という舞台の上に立ち現われた「夢」の化身であった。その人物は梅蘭芳(一八九四-一九六一年)【図四九】で、名は ラン 、字は 畹華 ワンホァ 、芸名を蘭芳といった。二〇世紀中国京劇界の代表的な女形役者である。彼は、北京の演劇世家に生まれ、祖父、父、伯父とも昆、京両劇の名優であった。八歳から芸を学び、一一歳から舞台に立ち、世を去る一九六一年まで、彼が舞台で創作した多くの女性形象は、人びとに忘れがたい印象を残した58。これらの女性形象は、あるときは伝統のなかの人物であり、あるときは時事ニュースのなかの主人公であり、あるときは神話のなかの女神であり、またあるときは当時の小説のなかのヒロインであった。しかも、彼が創作した人物は、すべて彼独自の魅力をもち、観客を魅了し、彼の名を知らない人がいないほど人気の高い俳優であった。

この人気の高さは月份牌にも反映され、その形象が紙の上に再現されていった。一般的にいって、月份牌に描かれる人物はほとんどが女性で、たとえ男性が描かれる場合あったとしても、主要人物として描かれるのはきわめて稀であった。梅蘭芳の場合も、月份牌に登場するときは女装した梅蘭芳であった。【図五〇】はこの一例である。この一枚は、伝統小説『紅楼夢』の第二三回「西廂記妙詞通戯語 牡丹亭艶曲警芳心」の一節から取った、「黛玉葬花」という芝居の一場面を画像化したもので、ヒロインの 黛玉 ダァイユイ (梅蘭芳)が、落ちた花を土に埋めながら、のちに自分が死ぬとき、誰がわが身を埋めてくれるのであろうか、と嘆き悲しんでいるシーンである。ここからもわかるように、この芝居で使用された化粧法や服装は、すべてこれまでの京劇と違っており、面目一新の視覚的感銘を観客に与えた59。【図五一】は、「黛玉葬花」を創作したときの服装を試着している写真である。この演目が上海の天蟾舞台ではじめて上演されたのは民国五年(一九一六年)の冬で60、【図五〇】の月份牌がつくられたのは民国十六年(一九二七年)で、この演目は彼が亡くなるまで続いた。

同じように、梅蘭芳の創作新京劇として「 廉錦楓 リァン ジンフォン 」がある。これは、伝統小説の『鏡花縁』から取ったものである。病気の母親のために海に潜り、なまこを取っているときに、ヒロインの廉(梅蘭芳)は漁師たちに捕らえられるが、幸いにも、 林之洋 リン ジヤン という男性に助けられる。彼女は恩返しに巨貝を殺し、そのなかの真珠を林に捧げた。しかし、実際の舞台の上では、こうした巨貝や真珠も、物質化したものは何ひとつ存在せず、役者の立ち振る舞いだけで物語が表現されていく。【図五二】は、梅蘭芳がこの演目のなかで演じている踊りの場面である。そして、それが投影された月份牌が【図五三】である。この作品の絵師は、この写真を参考にしながら描いたのではなかろうか。しかしこの月份牌には、実際の舞台には存在しない貝や貝の妖精、背景の山や川が描き出されている。明らかにこれは、梅蘭芳が演じる「夢」の世界の視覚化といえるであろう。

梅蘭芳が舞台で演じた形象は、いずれもが生き生きとした女性であったために、観客のなかには、彼を女性として見ていた人も少なくなかった。 易順鼎 イ シュンディン が梅蘭芳について書いた「万古愁曲」と題された詩には、こう書かれている。「舞台の下に座っている者が百も千も万もいる。私には彼らが思っていることがわかる。男たちは、蘭芳を嫁にしたい、女たちは、蘭芳の嫁になりたい」61。まさに梅の存在は、女性と男性の双方にとっての「夢」の形象であり、そのことが、この時期の月份牌のなかで開花していくのである。

第五節 『申報』および『申報画刊』のなかの美女月份牌とその製作技法

前節において、一九一〇年代半ばから三〇年代末までに見受けられた「新女性」の出現のその実態の一部を描写し、あわせて、そうした女性が形象化された幾つかの月份牌を紹介した。この節では、それを受けて、『申報』および『申報画刊』に登場したすべての美女月份牌を抽出したうえで、個別作品にかかわって、主としてその製作技法の特徴について言及してみたいと思う。

ここで使用する『申報画刊』62という資料は、本書の「はじめに」においてすでに触れているように、上海書店出版社が一九八八年に出版した復刻版で、一九三〇年代『申報』の副刊として出版された『申報図画週刊』63と『申報図画特刊』64のふたつの画報から構成された、あわせて三五六期の総称である。このふたつの画報の刊行時期は、一九三〇年五月一八日から一九三七年八月一二日までの時期に相当し、週一回65、付録として『申報』本紙と一緒に読者に販売されていた。『申報』本紙がシリアスな雰囲気もっていたのに比べて、『申報図画週刊』と『申報図画特刊』(以下、略称して『画刊』と記す)は、全面が写真で埋められ、もちろん長い文章はなく、写真の下にわずかな文字が写真の説明文として配されるかたちになっていた【図五四】。発刊当時の『画刊』には、次のような広告【図五五】が掲載されていた。

 写真を募集します。
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 (乙)学芸写真 考察、旅行、研究、発掘をシステム的に紹介するもの、はやりの絵画、彫刻、建築、裝飾に相当するもの。
 ほかに、多くの人の注目と関心を引くものであれば、すべて歓迎します。入選されたものは、一枚一元から五元の謝礼を差し上げます。とくに素晴らしいものなら、特別の謝礼を出します。入選の是非にかかわらず、原画はお返しいたします。
 申報図画増刊編集部 謹啓66

上の広告のとおり、『画刊』において報道された内容は、国内外の時事ニュースだけではなく、ファッション、珍聞異事、外国(先進国家)の流行情報、異民族(非先進国家)の風習などさまざまな領域に関連していた。そのなかで女性についていえば、たとえば、前総統の令嬢の海水浴姿【図五六】に見られるような、上海や北京などの大都市の「社会名媛たち」が、報道の対象となっていた。つまり、名家に生まれ、裕福な生活をしているお嬢さん、新興メディアとしての映画の女優さん、さらには、ある程度(少なくとも中学校までの)新式の教育を受け、服に敏感で、新しいものや西洋のものを素早く、しかも大胆に受け入れる、ファッションリーダー的な存在の女性たちであった。そのような意味で、この『画刊』にも、当時の女性の行動が、確かに反映されていた。

一九二三年の『申報』にはじめて月份牌に関する写真が掲載されてから、一九四九年に『申報』が廃刊になるまで、『申報』および『申報画刊』に掲載された月份牌、ないしは月份牌に関する写真図版は計二六点であった。二六点の内訳は、『申報』において一六点、『画刊』において一〇点。そして月份牌そのものが一八点、月份牌に関する写真や絵などが八点であった。内容的には、広告が二一点、写真記事などが五点。また、広告二一点の内訳は、煙草五点、化粧品五点、食品二点、日常用品二点、薬品五点、印刷品二点となっていた。

それではこれより、そのなかの幾つかの月份牌およびその関連写真を取り上げ、表現上の特徴を明らかにし、それをとおして、全体として一九二〇年代から三〇年代の月份牌に刻み込まれた視覚世界の一端を指摘してみたいと思う。

一九二三年一月一二日、『申報』の広告コーナーに月份牌贈呈の広告が掲載された。従来のこの種の広告と違い、贈呈する月份牌の写真が掲載されている【図五七】。これが、『申報』に見ることができる最初の月份牌の画像である。その意味で、これは貴重な広告といえる。しかし、この月份牌の画質はそれほど鮮明ではなく、細部まで読み取ることができない。全体としては、清朝時代の服を身にまとった老人が、右手に肝油をもって、右手に抱いた幼子と前にいる小さい子どもに、おそらく差し出そうとしている場面であろう。暦が記載されているかどうかは判別できない。コピーの一部には「この上の図は月份牌の見本です。これはあまりきれいではないですが、本物は一〇種類の色が使われ、とてもきれいです」とある。この広告主は、肝油を販売する外国(イギリスかドイツ)の会社で、一瓶を購入した人に、この月份牌一枚を贈呈することが述べられている。この月份牌の実作が今日において現存する可能性は、きわめて少ないと思われる。

その翌日の一月一三日の『申報』を見ると、月份牌を印刷することができるという中華印書館の広告が掲載されている【図五八】。この月份牌には、まだ広告主の社名や商品は盛り込まれていない。そして、その広告文には、こう書かれている。

 みなさま、この双美人図は、上海の名画家の鄭曼陀氏が最も自慢するところの作品であります。当館は高額の潤筆料を支払い、何度も何度も交渉をして、やっと原画を手に入れました。当社の製版部の最も優れた技術をもつ技師が、数箇月をかけて、きわめて精巧な製版法を用い、それを一五の色版に分けて印刷しました。各工場やお店の屋号と広告を加えて月份牌につくり上げ、贈呈品として使うのにとても便利です。御社の知名度を上げることや、商品を宣伝することにかかわって大変効果があります。それに価格は良心的で、ものは美しいです。もしご利用をいただく場合には、ぜひ当館までご足労をいただき、見本をご覧になってください。もし見本を郵便でご請求される場合には、市内は切手二〇分、市外は三〇分を添付してください。切手のない封筒には返信できませんので、ご了承ください67

この広告に掲載された月份牌の写真も、残念ながら鮮明なものではなく、おおよその輪郭しかわからないが、モティーフに使われているのは双美人で、向かって右手の女性が本をもっていることから判断して、ふたりは女学生であろう。着ている服も、清朝の常服ではなく、スカートのデザインからわかるように、一九二〇年代の流行の服を身に付けている。この月份牌の原画作家である鄭曼陀の製作過程については、資料が少なく、双美人を直接見て描いたのか、写真をもとに描いたのか、あるいは、想像的に描いたのかは、現時点でそれを判断することはできない。

おそらく薬に関連する会社と思われる、この「種徳園」の月份牌の実物は、現存していないものと思われるが、同じ原画を使用し、社名と商品名だけが入れ替わった月份牌が、現在残されている。それは、瑞士国汽巴化学厰を広告主とする月份牌である【図五九】。春の庭園にたたずむふたりの美人が仲よさそうにポーズを取っている。鄭曼陀の原画は、図案化された枠で囲まれていて、枠の上部には「瑞士国汽巴化学厰」とメーカー名が明記されている。下部は三つの部分に分かれ、中央に一九二三年の一二箇月分のカレンダー、その左に商品の図案、右に会社の紹介を読み取ることができる。【図五八】と対照すれば、「種徳園」の月份牌にも同じように枠があることがわかる。上で引用した一月一三日の『申報』の広告に述べられているように、この時期の月份牌は、原画に枠が付けられ、さらにそれから「各工場やお店の屋号と広告を加えて」完成したようであり、メーカーの屋号と商品を入れ替えることによって、幾つもの違うメーカーが、同じ原画と枠を使って月份牌という形式の広告を作製していたことがわかる。

同じように複数のメーカーに使われた月份牌は、同年の二月一日にも掲載されている。【図六〇】は「種徳園」のもう一枚の月份牌である68。この月份牌は、同じく鄭曼陀によって描いたもので、ひとりの女性が釣り竿をもって湖畔で釣りをする様子が描かれている。右上の隅の部分には詩が書かれている。そして、その下には落款を認めることができる。この形式は、伝統的な中国画にしばしば見られる「画のなかに詩がある」表現の趣に倣ったものであろう。しかし、同じ原画を使った【図六一】の月份牌は、周りは枠で囲まれ、上にメーカー名の「駐奉 中俄煙草公司」が、下には英語で「RUSSIA CHINA TOBACCO MFG,CO.」と記入されている。両サイドには、「請将愛慕此美麗画片之至意仰移歓迎吸本公司各種煙草[この美しい絵を愛する気持ちを我が社の各種煙草にもお分けください]」のキャッチコピーが書かれている。さらには、原画にあった詩と落款は消されている。このように手を加えることによって、原画の中国伝統的な雰囲気は薄められ、メーカーの外国資本のイメージが強調されることになる。もっとも、別の観点に立てば、広告への純化へ向かう過程において、詩と落款が姿を消し、キャッチコピーが新たに登場していると見ることもできるであろう。

本節の冒頭において述べたように、『申報』の『画刊』が一九三〇年五月一八日に発刊した。この『画刊』は、前述のとおり、写真を主体として、いろいろな側面から報道される、いわゆる「画報」の一種であった。しかし、この写真を主体とする画報としては、決してこれが中国における最初のものではなかった69。それでも、この『画刊』が注目されなければならないのは、先行する画報である『良友』(一九二六年に創刊)とは違い、『画刊』に掲載された写真が月份牌絵師の興味を引き、月份牌の製作に利用されたことである。『画刊』に掲載された写真がしばしば月份牌の原型として使われたのである。たとえば、【図六二】は、一九三七年五月一三日の『画刊』に掲載された写真で、チャイナドレスを着た上流階級の女性が西洋的なモダンなソファに腰掛けている。この一枚の写真が原型となって、陰丹士林布地を広告する月份牌(【図六三】)は製作されたものと思われる。署名からもわかるように、この月份牌は、月份牌絵師として、いまなお名声を博していた 杭稚英 ハン ジイン 【図六四】の作品である。 『美術研究』の一九五九年第二号の五三頁に掲載されている歩及の「解放前的“月份牌”年画史料」70によると、杭稚英(一九〇一-一九四七年)は、一三歳から練習生として商務印書館美術室に入り、中国画、西洋画擦筆水彩画、商業デザインなどの課程を習得した。そして一九二一年から翌年にかけて、商務印書局の発行部で直接客とのやり取りの仕事をしている。一九二三年ころに独立し、「稚英画室」という名称のデザイン事務所を設立、月份牌のデザインと製作業務にあたった。稚英画室は、商務印書館美術室の後輩の 金雪塵 ジン シュエチン (一九〇四-一九九七年)、稚英の弟子の 李慕白 リ ムバイ (一九一三-一九九一年)といった凄腕の月份牌画家を擁していた。稚英は、会社の運営や営業などの仕事に没頭し、本人が直接月份牌描くことは少なく、「稚英」と署名された月份牌は、実はこの三人の共同作業によってつくられたものが多かった。慕白が人物を描き、雪塵が背景を描き、最後に稚英が全体のまとめと修正を行なう。彼の事務所では、七、八人の絵師がおり、分業の方法で月份牌が製作されていた。さらに歩及の見解に従うと、このようなやり方は、効率がよく、質を保つことができ、新たな作品が続々と製作され、最盛期には年間八〇種類以上もの月份牌が製作された。

稚英画室の作品はモダンな美女をモティーフとするものが多く、その「嗲、甜、糯、嫩」(女性の魅力に満ちた甘く、モチモチとしてみずみずしい感じ)を備えた女性は、その後においても、月份牌を語るうえでなくてはならない、月份牌を代表する形象となっている。稚英画室の作品の特徴は、多くの場合写真を参考して製作することであった。『画刊』に掲載された写真を参考にして製作された月份牌の事例のほとんどは、稚英画室による作品である。これは、稚英画室が『画刊』をとおして同時代の実際に存在する女性に目を向けており、社会や文化の動きに積極的に呼応して創作していたことを示している。こうした製作態度は、鄭曼陀のそれとは異なるものである。鄭曼陀の原画があくまでも伝統的な形式に沿うものであるとするならば、稚英画室の作品は、同時代の関心をテーマにした広告という機能を十分に意識したものであった。そういう意味において、鄭曼陀は伝統的な流れを保つ自己の内面の表現者としての「絵師」の側面をもつ一方で、杭稚英は、同時代の社会的文化的背景から新たに登場してきた市場の要求を表現する「デザイナー」としての側面を確かに持ち合わせていたといえるであろう。それは、一八八五年生まれの鄭と一九〇一年生まれの杭の世代から生じる格差によるもであったとしても、確実にこの時期、視覚表現の世界は、新たな広告や宣伝といった形式と内容に直接向き合おうとしていたのであった。

それではここで、稚英画室における月份牌製作における写真の利用方法について、三つの事例を挙げて分析してみたいと思う。ひとつ目の事例は、ソファに座る女性の画像が反転されて月份牌へ応用された事例で、ふたつ目の事例は、室内でローラースケートを楽しむ女性の横長の構図を変形させて縦長の月份牌独自の形式へ応用した事例である。そして最後の三つ目の事例は、屋外で琵琶をもった五人の女性たちの集団写真が、ひとりの美しい女性が琵琶を奏でるモティーフへと生まれ変わった月份牌の事例である

まずひとつ目の事例――。これは、ソファに座る女性の画像が反転されて月份牌へ応用された事例である。【図六二】は、すでに述べたように、一九三七年五月一三日の『画刊』に掲載された写真である。見てもわかるように、左向きの女性がソファに腰掛けている。一方、これを利用したと思われる月份牌が【図六三】である。しかしこの女性は右向きに座っており、明らかに写真が反転された状態の絵になっている。さらに月份牌には、「陰丹士林」という布地の商品名が加えられている。別の観点からこの写真と月份牌を比べてみると、前者の構図は横長であり、後者の構図は縦長である。例外を除いて大多数の月份牌に見受けられる構図は縦長であり、この写真も、そうした月份牌の形式にあわせるために変形されたものと思われる。

ふたつ目の事例も、横長の写真を縦長の月份牌の形式へ転用された事例である。【図六五】は、一九三六年一月五日の『画刊』に掲載された写真である。見てもわかるように、凍った湖でアイススケート楽しむ女性がモティーフとなっているが、その構図は横長である。一方、この写真を利用したと思われる月份牌が【図六六】である。しかしこの女性の構図は縦長であり、明らかにこの作例もまた、この横長の写真が変形されて月份牌の縦長の形式にあわせられているといえるであろう。こうした変形が必要であったがために、写真に見られる左足は、【図六六】の月份牌にあっては、より高く上げられ、右手は前向きから後ろ向きへと変えられているのであろう。これからわかることは、写真のポーズの身体的自然さが、月份牌の形式にあわせる過程において、幾分不自然なポーズへと描き改められていることである。また、服装や場面に着目すれば、屋外でアイススケートをする写真の女性は、どこにでも見られるような日常の普段着を着ているように見えるが、一方の月份牌の女性は、流れるようなエレガントな服に身を包み、場面は、屋外から室内に変わり、優雅にローラースケートを楽しんでいるのである。写真から月份牌への応用は、この事例から推察すれば、日常から非日常の世界、つまり憧れの世界への変形と考えることもできるかもしれない。こうした現実世界から虚構世界への越境を大胆に試みることによって、この時期、月份牌は、新たに広告という機能を担っていったのであった。それは、視点を変えれば、「カレンダー」の世界から「ポスター」の世界への越境でもあった。

最後に三番目の事例について分析しなければならない。一九三六年六月一八日の『画刊』に掲載された【図六七】は、国立北平女子文理学院音楽系の女子生徒が琵琶を演奏する場面の写真である。この写真では、五人の女性が並んで琵琶を演奏しているが、この写真をもとにして製作されたと思われる月份牌が【図六八】であり、描画の対象は五人の女性からひとりの女性と変わっている。写真と対照してみれば、月份牌に描かれた女性の上半身は、写真の右から二番目の女性を参照し、下半身は、写真の一番右の女性を参照していることがわかる。しかしながら、【図六八】で描かれている女性の足に着目すると、写真のように左足を右足の上にのせて足組みしているポーズではない。なぜなのだろうか。琵琶を演奏する女性は、昔から芸人や妓女などの下流階層の女性であった。琵琶を演奏することは、彼女たちが生きるために必要な技であったし、演奏するためには、どうしても技術的に演奏者は足を組む必要があった。つまり、足を組んで琵琶を奏でることは、演奏者自身、下流階層の人間であることを表明することと同義だったのである。そう考えると、このような女性のイメージを、当時月份牌が担おうとしたとは考えにくい。この月份牌の絵師は、足を組ませないことによって、つまり「正しい、行儀のいい姿勢」を取らせることよって、ここで描かれる女性は下流階層に属する女性ではなく、「上流階層のお嬢様」が芸術としての音楽を楽しむ場面を懸命に表現しようしていたと考えられるのである。しかしその結果、わざと足を組まないようにしたがために、この女性の座り方に見られる表現は、この作品をして、視覚的に不安定で不自然な姿勢をさらけ出すことになった。それでもこの作品は、確かに、足を組まないで琵琶を演奏する場面を描くことで、「新しい女性」の出現を強調し、象徴化していたのであった。

以上の三つの事例は、稚英画室における月份牌製作における写真の利用方法についての事例であったが、これから以下に分析するふたつの事例は、稚英画室以外の絵師たちの写真利用に関する事例紹介である。ひとつ目の事例は、二匹の犬を連れた若い女性の写真が、異なるふたつの月份牌に利用された事例で、ふたつ目の事例は、屋外でアイススケートを楽しむ女性の緊張した表情を享楽的な表情に変形させて月份牌へ応用した事例である。

まず前者の事例について――。「中国育狗会之展覧」と題された写真が一九三一年五月二四日付の『画刊』に掲載された【図六九】。この写真は、ひとりの女性が二匹のボルゾイ犬を連れたものである。ボルゾイ犬は、従来からロシア貴族のペットであって、ロシア皇帝がイギリスのヴィクトリア女王にプレゼントしたことでも有名であった。ロシア革命後、この犬は貴族の象徴とも見られていたので、ロシアでは大虐殺され、数量が激減した。この写真は、「中国育狗会」が主催した展覧会で賞を取った犬とそれらの飼い主である。おそらく上海に逃亡したロシア貴族が連れてきたものであろう。その意味で、当時ボルゾイ犬は貴重な存在であり、また、そうした犬を所有しているこの女性も、決して一般の女性ではなかったであろう。さて、この写真を使って作製されたと思われる月份牌の実作が二種類あり、【図七〇】と【図七一】がそれである。【図七〇】の署名は「梅生」となっている。間違いなく金梅生の作品であろう。チャイナドレスを身に付けたひとりの女性が、二匹のボルゾイ犬を連れている姿が描かれている71。写真と比べれば、月份牌では女性は左側に立ち、二匹の犬の立ち位置は同じであるが、前方にいる犬の頭の様子が、月份牌では、後の犬の頭に転用され、月份牌に描かれている前の犬の頭は、写真とは逆に右向きに変わっている。こうして、写真では、女性と二匹の犬の顔の方向性は外へ向けて無秩序に発散していたが、月份牌では、その作製の過程においてその構図が矯正され、三者の視線が内向きに秩序立てられて整頓された表現となっている。これは、見る側の視線の無意味な移動と分散を防ぎ、全体としてひとつの作品として視覚的に把握することを助ける効果をもつことになったものと思われる。こうした工夫が、写真を利用して月份牌を製作するうえで、どうしても必要とされた表現上の手法となっていたようである。

一九三一年五月二四日付の『画刊』に見られる「中国育狗会之展覧」と題された写真【図六九】が利用されたもうひとつの月份牌の作例が【図七一】である。これは、 志厰 ジチャン が描いた中国鶴峰煙公司の名誉牌煙草の広告である。この月份牌では、女性は右側に立ち、犬は、二匹から一匹となっている。女性と犬の顔、ともに左向きとなっている。この両者の目の位置が左へ延長され交差するところに、この絵の背景として描かれている西洋式の庭園が存在する。このような構図を用いることによって、この作者は、犬の飼い主であるこの女性が、西洋的で近代的な裕福な生活を享受する人物であることを暗示しようとしたのではないだろうか。事実、この作品には、一番底辺となる箇所に「摩登狗児図」という文言が挿入されている。これは、「狗児(犬)」の発音であるgou/erと、女性のgirlをかけており、「摩登」はmodernを表わすために、「近代犬」と「近代女性」の双方を表現した実に巧みな言葉遣いとなっているのである。

次に後者の事例について――。この事例に関連する写真【図七二】は、一九三六年二月二〇日の『画刊』に掲載されたものである。写真に付けられているキャプションを見ると、この女性は、北平(北京)中南海氷上競技大会のこの年の女子チャンピオンであることがわかる。服装も冬の厚着であるし、顔の表情もとても真剣で、ちょっと疲れているようにも見える。ところが、この写真にヒントを得て作製されたものと思われる月份牌【図七三】は、そのすべてが一変する。モティーフの女性は、ひとりからふたりになり、服は冬物から夏の薄着へ変えられ、場面も、川(あるいは湖)から個人の庭園に置き換わり、それに加えて最も目を引くのは、ふたりの女性のセクシーで豊かで挑発的な表情である。こうした身体的要素を強調し、人の関心を引こうとする表現へと変えられていく手法もまた、上で指摘した現実世界から虚構世界への越境と同様に、広告や宣伝に求められるものであり、この作例から、そうした効果を月份牌が担おうとしていたことがわかる。明らかに、一九二〇年代から三〇年代にかけて、写真を参考して月份牌を描く手法が頻繁に用いられている。この手法は、商業的な月份牌の製作においてきわめて効率的で効果的な手段となってこの時期成熟していったといえるであろう。

一方、発行や流通という点からも、この時期月份牌は、より専門化し、大規模化していた。スポンサー企業にとって直接絵師とやり取りする機会は少なくなり、それに代わって発行業者が、その両者のあいだに立って重要な役割を担うことになった。歩及の「解放前的“月份牌”年画史料」によると、毎年五月から八月ころに、印刷会社や出版社は、計画的に絵師に原稿を注文して見本をつくり、一一月ころから、各地の卸し屋や企業が上海に集まり、サンプルを選び、その後、仕上がった月份牌を購入し、全国各地、さらには国外(主に南洋、インド、南アメリカなどの華僑集中地)で発行した72。こうした製作と発行とスポンサーの三者の分離と専門化によって、月份牌の製作や発行は確かに効率的になっていったし、月份牌の発行範囲もかなり大規模になった。あわせてこの時点で、単なる一枚の景品のための装飾的な絵から、上述したような専門的な計画と流通のシステム化と、稚英画室に見られるような分業と全体的な製作のコントロール化とを基盤とした広告ポスターへと、月份牌が変貌したことも、認めてよいであろう。

しかし、こうした実質的変化は、これまで月份牌が担っていた合暦としてのカレンダーの機能を希薄にしていったし、さらには、商業的表現の強さに対する批判を招来することにもつながっていった。次の第五章「商業的月份牌の衰退と政治的改造」は、そうした側面に焦点をあて、月份牌の政治的視点からの変容を明らかにしたいと思う。

(1)大澤克・中田良夫「上海の一瞥――商品とレッテルと広告・支那人の気風と印刷」『日本印刷界』第69号、大正4年7月、40頁。

(2)同上、同頁。

(3)『精版印刷株式会社ノ現況』精版印刷株式会社、昭和9年、1頁。

(4)昭和十九年凸版印刷株式会社により合併され、凸版印刷株式会社の大阪支社および大阪工場となった。『会社早わかりシリーズ・40・凸版印刷』株式会社教育社、1983年10月、10頁を参照。

(5)『精版印刷株式会社ノ現況』精版印刷株式会社、昭和9年、6頁。

(6)同上、1頁。

(7)同上、9頁を参照。

(8)陳超南・馮懿友『老広告』上海人民美術出版社、1998年、12頁を参照。

(9)1911年10月18日付「申報」。

(10)寺本美奈子「大正昭和期初期の平版印刷技術革新――ポスター印刷の基礎」、田島奈都子編集『大正レトロ昭和モダンポスター展――印刷と広告の文化史』図録、姫路市立美術館、2007年2月、47頁を参照。

(11)張樹棟・龐多益・鄭如斯等『中華印刷通史』財團法人印刷傳播興才文教基金會、1998年10月初版電子版、第13章第2節を参照。http://33.cgan.net/book/books/print/g-history/big5_12/13_2.htm#1323。2013年3月31日現在。

(12)寺本美奈子「大正昭和期初期の平版印刷技術革新――ポスター印刷の基礎」、田島奈都子編集『大正レトロ昭和モダンポスター展――印刷と広告の文化史』図録、姫路市立美術館、47頁。

(13)徐瑾「支那一般広告法式」『日本印刷界』第73号、大正4年11月、28頁。

(14)田島奈都子編集『大正レトロ昭和モダンポスター展――印刷と広告の文化史』図録、姫路市立美術館、2007年2月、107頁を参照。

(15)実際、周の作品は中国の市場の好みに適合していた。そのことは、精版印刷会社と南洋兄弟煙草との関係からある程度例証することができる。中田祐夫の回想録によると、彼の父、中田熊次が中田印刷所と精版印刷会社の社長を兼任していた際、中田家は南洋兄弟煙草公司の社長である簡照南の一家と親交をもっていた。簡照南は中国人資本家であるが、一時期日本国籍を有していたことがあった。このことは、のちに中国で日本製品排斥運動が生じたとき、南洋兄弟煙草公司の製品が排斥される理由となり、それにより営業が大きな打撃を受け、中田印刷所と精版印刷会社も中国での仕事が激減し、ついには中国から撤退して、最終的には凸版印刷と合併した。これらの事実から、精版印刷が南洋兄弟煙草公司からいかに多大な注文を受けていたかが想像できる。南洋兄弟煙草公司の製品の売り上げに比例して、中田印刷所と精版印刷会社の事業も繁盛していったに違いない。つまり、中田印刷所・精版印刷会社は、南洋兄弟煙草公司と唇歯の関係にあったのである。

(16)舒新城編『近代中国留学史』、1939年中華書局版より影印、上海文化出版社、1989年、22頁を参照。

(17)「学部奏咨輯要・第1編」、十洲古籍書画社編『中国近代教育史料匯編・晩清巻』全国図書館文献縮微複製中心、2006年。

(18)「調査留学日本人数表」、1905年9月22日付『申報』(第2面)。

(19)舒新城編『近代中国留学史』、1939年中華書局版より影印、上海文化出版社、1989年、279頁を参照。

(20)沈逢吉「日本印刷業者への希望」『日本印刷界』第72号、大正4年10月、44頁。

(21)同上。44-45頁を参照。

(22)「徐瑾氏の帰国」『日本印刷界』第69号、大正4年7月、52頁。

(23)本節「専門家としての月份牌絵師たちの活躍」において取り上げるのは、鄭曼陀、徐詠青、および但杜宇の3人の絵師たちであるが、『美術研究』(中央美術学院)の1959年第2号の57頁に掲載された「解放前的“月份牌”年画史料」のなかで、著者の歩及は、1949年以前に活躍した月份牌絵師のリストを整理している。そこには、次のような名前が挙げられている。冷石、福榮、王承英、袁秀堂、徐硯、金少梅、鄭少章、李少章、胡曼英、果禪、廷康、卓金明、趙藕生、丁悚、張光宇、龐亦鵬、荻寒、汪耀、陳梓青、曼厰、耀先、叔達、瘦鶴、胡維敏、銘生、殷悅明、景吾、唐琳、志翔、朱鴻、稚良、顏元、顏文梁、蟬聲、金肇芳、吳少云、謝慕蓮、周柏生、周慕橋、丁云先、鄭曼陀、徐詠青、謝之光、杭稚英、金雪塵、李慕白、何逸梅、胡伯翔、金梅生、楊俊生、張碧梧、楊馥如、章育青、張大昕、王柳影、江風、俞微波、邵靚云、孟慕頤、徐寄萍、陳澤之、忻禮良、魏瀛洲。ここで注目されてよいのは、但杜宇の名前が挙げられていないことと、名前が挙がっている絵師はすべて男性であることである。

(24)歩及「月份牌画和画家鄭曼陀先生」『美術』1979年第5号、10頁を参照。

(25)歩及「解放前的“月份牌”年画史料」『美術研究』1959年第2号、51頁を参照。

(26)同上、52頁。

(27)1913年1月6日付『申報』。

(28)1914年2月12日付『申報』。

(29)1915年1月1日付『申報』。

(30)歩及「月份牌画和画家鄭曼陀先生」『美術』1979年第5号、10頁。

(31)歩及「解放前的“月份牌”年画史料」『美術研究』1959年第2号、52頁を参照。

(32)1919年1月25日付『申報』。

(33)1919年1月25日付『申報』。

(34)歩及「解放前的“月份牌”年画史料」『美術研究』1959年第2号、52頁を参照。

(35)大喬小喬は、三国時代の絶世の美人姉妹であり、大喬は孫策(伯符)の妻、小喬は周瑜(公謹)の妻であった。

(36)1918年2月14日付『申報』。

(37)佐藤秋成「ヴィジュアリスト但杜宇の足跡――1910~1920年代を中心とする中国画壇・文壇・映画界の動きに関する一考察」『演劇映像』41号、早稲田大学演劇映像学会、2000年、45頁。

(38)佐藤秋成「埋もれた中国映画史の断片――シネアスト但杜宇とその知られざる映像の世界」『演劇研究センター紀要VIII 早稲田大学21世紀COEプログラム〈演劇の総合的研究と演劇学の確立〉』早稲田大学演劇研究センター、2007年、241頁。

(39)羅蘇文『女性与近代中国社会』上海人民出版社、1996年。

(40)夏暁虹『晩清女性与近代中国』北京大学出版社、2004年。

(41)中山義弘『近代中国における女性解放の思想と行動』北九州中国書店、1983年。

(42)須藤瑞代『中国「女権」概念の変容――清末民初の人権とジェンダー』研文出版、2007年2月。

(43)何立三「自由談中之自由声」、1912年3月10日付『申報』(第8版)。

(44)1850年にアメリカ公理会伝道師のイライジャ・コウルマン・ブリッジマン(Elijah Coleman Bridgman、l801年~l861年)夫婦により創建され、所在地は老西門外白雲観の隣(今方斜路西林后路102号)で、上海歴史上はじめての女子学校であった。

(45)上海地方誌事務室「上海県誌 南市区誌 第二十九編 教育」。この「上海県誌」は、現在、以下のサイトに再録されている。
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2249/nanshi/node44792/index.html。2013年3月31日現在。

(46)杜学元『中国女子教育通史』貴州教育出版社、1996年、333頁を参照。

(47)1908年12月3日付『申報』。 

(48)章錫琛「一個実際問題的討論」『新女性』第1巻第4期、1927年、227頁。

(49)「学部奏遵議設立女子師範学堂摺」、李又寧・張玉法編『近代中国女権運動史料1842-1911』下冊、伝記文学出版社、1991年、990頁。

(50)「江督飭辦女師範学堂」、1907年4月25日付『申報』(第11面)。

(51)梁啓超『新民説』中州古籍出版社、1998年。155-156頁

(52)初我「新年之感」『女子世界』第11期、1904年10月。頁の記載はない。

(53)1912年3月24日付『申報』。

(54)1911年11月16日付『申報』。

(55)梅紹武・屠珍等編『舞台生活四十年』(梅蘭芳全集第1卷)、河北教育出版社、2000年、397頁。

(56)同上、401頁。

(57)卜万蒼監督、欧陽予倩シナリオ、陳雲裳主演、美商中国聨合影業公司華成製片厰撮製、1939年。

(58)梅紹武・屠珍等編『舞台生活四十年』(梅蘭芳全集第1卷)、河北教育出版社、2000年、1-3頁を参照。

(59)同上、293頁を参照。

(60)同上、294頁を参照。

(61)易順鼎「万古愁曲为歌郎梅蘭芳作」『琴志楼詩集』上海古籍出版社、2004年、13頁。

(62)復刻版の表紙には『申報画刊』と書かれているが、奥付は『申報画冊』となっている。

(63)1930年5月18日創刊、1932年1月24日廃刊、総87期、他祝日専門号1期。

(64)1934年3月15日創刊、1937年8月12日廃刊、総265期、他祝日専門号3期。

(65)発刊当時は、毎週日曜日に刊行されていたが、1935年からは毎週木曜日の出版へと変更された。また、祭日には曜日に関係なく、「特刊」という名称を使って出版されたものもあった。たとえば、1930年10月10日は辛亥革命記念日であったため、金曜日であるにもかかわらず、出版された。

(66)1930年5月18日付『申報図画増刊』。

(67)1923年1月13日付『申報』。

(68)1923年2月1日付『申報』。

(69)すでに1926年に画報『良友』が創刊されている。

(70)歩及「解放前的“月份牌”年画史料」『美術研究』1959年第2号、53頁を参照。

(71)この図版は原画と思われるが、『チャイナドリーム』のなかでは、同じ原画を用いた光華汽灯厰の広告ポスターが残されていることが明記されている。

(72)歩及「解放前的“月份牌”年画史料」『美術研究』1959年第2号、54頁を参照。