周知のとおり、富本憲吉(一八八六―一九六三年)は、とりわけ陶芸の分野において大成した、日本の近代を代表する工芸家のひとりである。
富本は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)入学以前から、まだ日本にあってはほとんど紹介されていなかった、ヴィクトリア時代の詩人であり社会主義思想家であり、また同時にデザイナーでもあったウィリアム・モリス(一八三四―一八九六年)に関心を抱き、徴兵の関係から卒業製作を早めに提出すると、当時、親友の南薫造がすでにロンドンに滞在していたこともあって、一九〇八(明治四一)年の晩秋、モリスと室内装飾を研究するために私費でイギリスに渡ることになる。
それは、二二歳の青年富本にとって実に大きな出来事となるものであった。それから七十数年を経て、憲吉のこの英国留学を振り返って息子の壮吉は、次のように父に寄せる思いを書き残している。
明治末年、英国に留学した父の青年の日々、それは今では想像することもできない困苦にみちたものであったろう。 世界の果てから、言葉も自由でない日本の二十代そこそこの青年が欧州を見、世界を知り、しかも新しい東洋の美しさを感じとって自分自身の世界を作り上げて行ったことは、まさに驚嘆に値することと思う1。
「世界の果てから、言葉も自由でない日本の二十代そこそこの青年」が見たロンドン、そしてその地で知った「世界」とは、どのようなものだったのであろうか。その経験はまた、その後にあって「自分自身の世界を作り上げて行った」富本にとって、いかなる意味をもち、どのような栄養分となるものであったのであろうか。
一九一〇(明治四三)年の六月に帰国すると、富本は、一九一二(明治四五)年の『美術新報』の第一一巻第四号と第五号に二回に分けて、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を底本とする評伝「ウイリアム・モリスの話」を発表する2。この一文は、まさしく富本にとっての帰朝報告となるものであり、そしてまた、その後の工芸家としての活動へ向けての声明文としての性格を有するものでもあった。
モリスの何に興味をもって富本はイギリスに渡ったのであろうか。そして富本は、イギリスの地でモリスについて何を学び、何を日本へ持ち帰ったのだろうか。
そこで、富本とモリスを論じたこれまでの代表的な言説を拾い上げて、ここに整理しておきたいと思う。というのも、以下にみられる既往研究の実態と本研究へと向う私の動機とは、少なからぬ密接な関係において成り立っているからである。
富本憲吉が一九六三(昭和三八)年六月に死去すると、幾つもの追悼文が新聞や雑誌を飾った。そのとき中村精は、「富本憲吉とモリス――工芸運動家としての生涯」と題された追悼文のなかで、「富本氏は、ある意味においては、モリスの理想――大衆のためにいかによい工芸品をつくるかという問題を陶芸家としての生涯を通じてかかえつづけていた、とみることができよう」3と指摘し、モリスとの関連で富本の生涯を位置づけたのであった。それ以降も、富本とモリスの関係性は、幾人かの研究者や批評家にとっての、富本理解に欠かせない論点のひとつとなり、今日へと引き継がれていくことになる。
一九八〇(昭和五五)年には、「新しい思想と陶芸の出会い」と題する論文のなかで今泉篤男は、富本を「一つの思想を持った作家」として位置づけたうえで、「私自身のモリスについての不勉強を棚に上げて想定するわけではあるけれども、富本憲吉がウィリアム・モリスから学んだ思想の、陶芸家としての富本憲吉の上に投影したこととして私は三つのことを考えている」4と述べ、「アマテュ ー ( ママ ) リズムの尊重」「模様についての示唆」「大量生産に繋がる問題」の三つの観点を富本のモリス思想からの影響として示唆していた。
また、「人間国宝シリーズ」(全四三巻)として同年に講談社から刊行された『富本憲吉』においては、村松寛が、次のように、富本に及ぼしたモリスの影響に言及していた。「モリスの工芸理論はフランス、ドイツなどの各国に多大な影響を与えたが、同時に彼は詩人であり、社会改革論者としても大きな足跡を残した。憲吉はモリスのそれぞれの面から強い感銘を受けており、それは彼の晩年まで及ぶ」5。
一九八六(昭和六一)年は富本の生誕一〇〇年にあたる年で、それを記念する展覧会が開催された。その展覧会カタログにおいて「富本憲吉――その陶芸の思想について」論じた乾由明は、「富本憲吉の『思想』の実体について考えるとき、まず問題となるのはウイリアム・モリスとの関係である」6と指摘しつつ、すでに今泉が示唆していた三つの観点に触れたあとで、「モリスの思想がもっとも明確に見られるのは、[模様についての示唆よりも]むしろ大量生産にかかわる問題である」7と述べている。そしてその一方で、同論文の最後の部分では、帰国後の『美術新報』に掲載された、富本のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館での模写について言及し、「精美な作品よりも、素朴な原始の陶器や織物が多く写されている。プリミティブな仕事のもつ 剛 ( つよ ) さと品格に、すでに 惹 ( ひ ) かれていたのである。富本がモリスから学んだ最大のものは、おそらくこのアマチュアリズムの仕事の豊かさであった」8と結んでいる。
富本の英国留学の主たる目的がモリス研究にあったことは既知の前提としてそれまで語られてきたが、しかし一九九〇年になると、それが揺らぎはじめ、「ウィリアム・モリスの工芸思想に共鳴してというのが表向きの理由であり、また美術学校で学んだ大沢三之助(建築学教授)や諸先輩が[ロンドンに]居たからと諸処で[富本は]語っているが、実際には親友の南薫造の後を追ってというのが主要な理由だったらしい」9という新たな解釈が現われてくることになる。
そして同様に、モリスの影響は、大量生産への志向を含む、富本の全生涯の活動を貫くものであったというこれまでの大方の理解を越えて、九〇年代に入ると、モリスの富本への影響は、帰国後の数年間の活動に限定されるのではないかという論調へと推移していくのである。
たとえば、一九一〇年代の日本美術を再発見する目的で一九九五(平成七)年にひとつの貴重な展覧会が企画され、その展覧会カタログに所収された、「工芸の個人主義」という表題をもつ論文のなかで、土田真紀は、「個人作家による工芸と無名工人による工芸……全く対照的なこの二つの工芸観は、富本が『絵と更紗の貴重さを同等のものと云ふ事』に気付いた[一九一二年の]時点では、まだ一つに交じり合っていた」10ことを指摘する一方で、結論として、次のように推論するのである。「しかしその富本自身に一九一〇年代初頭と末では大きなずれがみられ……モリス的工芸家から求道的陶芸家へという彼自身の行き方に関わる変貌があったように思われる」11。
続いて一九九九(平成一一)年には、『南薫造宛富本憲吉書簡』が大和美術史料第三集として奈良県立美術館の尽力によって編集され、刊行された。この書簡についての解説文を執筆した宮崎隆旨は、「まとめに代えて――ウィリアム・モリスの影響」という一節を最後に設け、以下のように述べている。「富本憲吉がモリスの影響が顕著にみられるのは、イギリス留学から帰国後の数年間で、それもかなり柔軟な受容であり、また当時は賞賛していたモリスの『良い趣味』のデザインは、富本がその創作に厳しい信念を確立するようになると『オリジナリティが乏しい』ものに移り、結果的には、[すでに乾由明が一九八六年の論文で指摘していた]独学の技術で生まれた『アマチュアリズムの仕事の豊かさ』が、陶芸家としての富本憲吉に受け継がれたと言えよう」12。
こうした、モリスからの影響は帰国後の一時期のものであり、しかも特定の側面に限られるとする論調は、その後さらに変位し、富本のモリスからの思想的影響は存在しなかったかのような認識さえも現われるようになった。
二〇〇〇(平成一二)年には、「モダンデザインの先駆者 富本憲吉展」が開催され、その展覧会カタログに収められた論文において、山田俊幸は、一九一二(明治四五)年に『美術新報』に投稿した「ウイリアム・モリスの話」のなかで富本が述べている「大變面白いものであると考へて居りました」という文言の意味は、モリスの思想ではなく、「図案(模様)」であったと断言し、さらに山田は続けて、こうも述べている。もはやここでは、富本はモリスの思想からは無縁の存在であったかのように語られているのである。「富本にとって大事なことは、単にモリスの思想を知ることでも、また、モリスの真似をし、モリスのように仕事を行うことでもなかった。それは、さまざまなところに応用されているモリスの『模様』だったのである」13。
以上に概観してきたように、富本の死去以降のこの四〇年のあいだにあって、モリスと富本を結ぶ関係は、さまざまな立場の研究者や批評家によって、実にさまざまな関心から論じられてきた。つまり、あえて総括するならば、意識的であろうと無意識的であろうと、自らの立場や関心に由来する眼差しに基づいてモリスと富本との結節点が選択され、それぞれがそれぞれにモリスを巡る富本像をつくり上げていた、といえそうなまでに多様で、相互に異質な解釈がそこには存在していたのである。そして最近では、「富本憲吉の軌跡」の冒頭において、松原龍一は、「先行研究も多々あり、今更新しい見解は見つからない」14とも述べている。果たしてそうであろうか。もはやその余地がないほどまでに、富本研究は完成の域に達しているのであろうか。
一般的にいって、特定の事象や人間を扱った既往研究を時系列に並べてみた場合、先行する研究成果を十分に踏まえながらも、発掘された新資料によって古い知見を更新しながら、あるいは、新しく生み出された論理のもとに主題化されたアプローチを試みながら、さらには、これまでにない別のコンテクストに置き換えることによって新たな解釈の可能性を開拓しながら、次の段階へと少しずつ入っていく過程が何がしか認められるものである。しかし、上に挙げた富本とモリスに関連したテクストにおける時系列的配置に特徴的なことは、明らかに、そうした学術的な深化や発展の過程がほとんど見受けられないということである。なぜなのだろうか。ひとつ気づかされることは、一部を除けば、そのほとんどが、概してその研究の手法において、かつて富本が書き残したモリスへの言及に依拠しながらも、富本なりモリスなりへの程度の異なる個人的共感の一方向的連鎖によって成り立っているということである。つまり、関連する資料を正確に読み解き、それによって両者の関係の実態を少しでも明らかにしようとする実証的な精神が多くの場合欠落しているのである。したがって、これほど多くの異なる見解がこれまでに提示されてきているにもかかわらず、そのなかにあって論証の過程がほとんど明示されていないことに起因して、現状では、解釈の違いを再検証する方途も閉ざされ、より妥当な見解をそこから選択する機会さえも失われているのである。
果たして、富本へのモリスの影響は、全生涯にわたるものだったのであろうか、帰国後の一時期だったのであろうか、あるいは、そもそもモリスの影響などはなかったのであろうか。一方、仮に影響が認められたとして、その影響は、工芸家としての姿勢にかかわる側面だったのだろうか、模様そのものであったのであろうか、それとも社会主義にかかわる部分だったのだろうか。あるいはそのすべてであったのであろうか。いうまでもなくこれらの疑問は、富本研究の根幹をなす部分なのである。しかし、将来的に、こうした閉鎖された解釈の乖離を越えて収斂し、いずれが結論になろうとも、適切な資料を援用した論理的考察から導き出された結果でない限り、これまで同様に、信頼性や説得力に欠けるものとならざるを得ない。したがって、それを回避するために、現時点において、入手可能な資料を駆使し、留学以前にあって富本がモリスを知るに至った過程を明らかにしたうえで、英国におけるモリス研究の実態を再現し、それをふまえて、帰国後に執筆された「ウイリアム・モリスの話」の内容を再吟味することが、この研究主題にとっての必須の初歩的要件となるのは、疑いを入れないであろうし、そしてまた、こうした基礎的研究の積み重ねのうちにあって、富本へのモリスの影響を論じたとしても、それは、決して遅延を招いたことにはならないであろう。いままさに、学術的な地平からの本格的な富本研究が要請されなければならない理由が、ここにあるのである。
以上に述べたことが、本研究を進めるうえでの動機ないしは前提となるものである。そのうえに立って、本研究では、モリスの富本への影響を、予見をもって過大視することも過小視することもなく、富本が実際に書き残したものや信頼にたりうる周辺の原資料を可能な限り多量かつ適切に援用し、さらには未公開の図版を含む、貴重な関連図版を駆使することによって、渡英以前にあって、富本がどのようにしてモリスに関心をもつようになり、英国においてはいかにしてモリス研究に従事したのかに焦点をあて、主として、東京美術学校に入学した一九〇四(明治三七)年から英国から帰国する一九一〇(明治四三)年までにあっての富本のモリスへの関心形成の過程にかかわって、現時点におけるその全貌を実証的に再構成し、それをもって今後の富本研究のさらなる発展に資することが主たる目的とされている。
以上の目的を達成するために、本研究では、富本のモリスへの関心形成の過程が時系列に従って学生時代と英国留学に大きく二分割されたうえで、英国留学に関しては、その内容に沿ってさらにふたつに分けられ、それぞれが各章を担い、したがって全体としては三章による構成となっている。各章題は、次のとおりである。
第一章 英国留学以前の東京美術学校時代 第二章 ロンドンでのウィリアム・モリス研究 第三章 英国生活とエジプトおよびインドへの旅
第一章「英国留学以前の東京美術学校時代」においては、いかにして学生時代に富本は、モリスの思想と作品に関心をもつようになり、モリス研究のための英国留学を決意するに至ったのかにかかわって、現時点で利用できるすべての資料に即しながら、その詳細が明らかにされている。
本章の前半では、郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じて富本はモリスを知るようになり、自らも、当時の日本における唯一の社会主義運動の機関紙であった週刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」の抄訳を読んでいたことや、一九〇四年に東京美術学校に入学すると、文庫に所蔵されていた『ザ・ステューディオ』のなかのモリス関連の最大二八点の図版からモリス作品を知るに至った経緯について明らかにされている。さらに続けて、日露戦争に対する富本の政治的信条や、夏目漱石の「文芸における哲学的基礎」に関する講演から富本が得た知見にも触れたうえで、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を含む三冊の書物のなかの何冊かを読んだことが、おそらく富本の英国留学を決定づける要因になったことを示唆している。
後半では、学生時代に富本が製作した三つの作品である、東京勧業博覧会(一九〇七年)に出品した《ステインド・グラス図案》、『翠薫遺稿』の装丁、および卒業製作の《音楽家住宅設計図案》について分析し、その特質と意味について論じている。その結果、この時期富本は、とりわけ、ステインド・グラスや文字表現、さらには西洋文化以外のもうひとつの異文化に対して強い関心をもっていたことが例証されている。
こうして富本は、徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると、一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあって、室内装飾を学ぶとともに、美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事に触れるために、一九〇八(明治四一)年の晩秋に、私費により英国へ向けて出立するのであるが、英国留学の実態については、それに続くふたつの章が用意されている。
富本を乗せた船が、ロンドンのアルバート・ドックに接岸したのは、一九〇九年のおそらく一月のことであった。下宿に落ち着くと、さっそく富本は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ毎日のように通い、展示されている作品のスケッチに精進することになる。第二章「英国でのウィリアム・モリス研究」においては、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館における富本のモリス研究の実証的実態解明に、その目的が設定されている。最初に、一九〇九年におけるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館がどのようなモリス関連作品を収蔵し、どのように展示していたのかを明らかにしたうえで、次に、それらの作品に対して富本がどのような評価を与えているのかについて、断片的な彼の言説を拾い集めて紹介し、そして最後に、モリスの《アーティチョーク》のためのデザインが、富本の英国留学を象徴する模様であると同時に、その後彼が自らのオリジナリティを追求していくうえでの原点となる模様であったことを例証している。
富本がロンドン滞在中に毎日のように通ったヴィクトリア・アンド・アルバート博物館には、モリスの作品以外にも、世界の各時代を代表する優れた工芸品が集められており、すぐにも富本はこの博物館に魅了されていった。一方夜は、中央美術・工芸学校でステインド・グラスの学習に励んでいる。また、四月には、友人の南薫造と白滝幾之助とともにウィンザーに滞在し、スケッチをして楽しんでいる。この年の終わり、偶然にも富本は、回教建築を調査のために欧米を訪問中の建築家、新家孝正と知りあい、その後約三箇月間にわたって新家の助手として、エジプトとインドへと随行する。そして一度ロンドンにもどると、直ちに一九一〇年五月一日、帰路の航海につくことになる。
続く第三章の「英国生活とエジプトおよびインドへの旅」にあっては、主としてモリス研究以外の側面に焦点があてられている。この章では、中央美術・工芸学校でのステインド・グラスの学習や下宿生活、さらには郊外へのスケッチ旅行の実態を再現するとともに、他方、西洋の工芸と同等に、世界の各地から集められた非西洋の工芸を展示していただけではなく、純粋美術と同等の価値をもってそれらの工芸を陳列していたヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が、いかに大きな衝撃を富本に与えたかを例証している。そしてその後に続くエジプトとインドへの調査旅行が富本のこうした衝撃をさらに強化するものであったことを明らかにしたうえで、非西洋への関心の高まりは、すでにモリス自身のなかにあっても認められた傾向であり、帰国後の富本が「近代」へと向かううえでの、ひとつの重要な観点となるものであったことを指摘している。
以上が本研究の構成と概要であるが、最後に基本となる資料とその性格について述べておきたい。本研究の骨格を形成する基本資料は、自らの英国留学について富本自身が触れている、次の三つの文書記録である。ひとつは、「重要無形文化財保持者」の認定を受けて、一九五六(昭和三一)年に口述され、一九六九(昭和四四)年に文化庁によって編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』のなかの第三部「富本憲吉自伝」15(以下の本論においては、この文献を「自伝」と略す)。もうひとつは、一九六一(昭和三六)年の「作陶五十年展」にあわせて開催された座談会の『民芸手帖』における記録16(以下の本論においては、この文献を「座談会」と略す)。そしていまひとつが、死去する一年前の一九六二(昭和三七)年に日本経済新聞に連載された「私の履歴書」17である(以下の本論においては、この文献を「履歴書」と略す)。
これらの文書記録が、本研究の主題にとっての一級の資料であることはいうまでもない。しかし、幾つかの難点も含まれている。ひとつは、いずれの文書も内容的には断片的なものであり、空白部分が多いことである。いまひとつの難点は、これらの文書記録には、晩年に書かれたこともあり、富本の記憶違いや勘違いによる不正確な記述が散見される点である。したがって、本論では、他の資料と常に照合したうえで、空白部分を埋め、さらにはその誤謬を補正したうえで、信頼に足りうると思われる記述内容に限って利用されている。
(1)富本壮吉「青大将のこと」『毎日グラフ』4月25日号、毎日新聞社、1982年、11頁。
(2)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』第11巻第4号、1912年、14-20頁。および、富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年、22-27頁。 この評伝「ウイリアム・モリスの話」のおおかたの骨子がエイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳として成り立っていることについては、以下の拙論においてすでに論証した。 中山修一「富本憲吉の『ウイリアム・モリスの話』を再読する」『表現文化研究』第5巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2005年、31-55頁。
(3)中村精「富本憲吉とモリス――工芸運動家としての生涯」『民芸手帖』63号、1963年8月、18頁。
(4)今泉篤男「新しい思想と陶芸の出会い」、乾由明編『やきものの美 現代日本陶芸全集全14巻 第3巻富本憲吉』集英社、1980年、46頁。
(5)松村寛「富本憲吉の世界」『富本憲吉』(人間国宝シリーズ6)講談社、1980年、34頁。
(6)乾由明「富本憲吉――その陶芸の思想について」『富本憲吉』(同名展覧会カタログ)朝日新聞社大阪本社企画部、1986年、173頁。
(7)同論文、174頁。
(8)同論文、181頁。
(9)熊田司「ロンドンの青春:前後――白滝幾之助・南薫造・富本憲吉の留学時代を中心に」『1908 / 09 ロンドンの青春:前後 白滝幾之助・南薫造・富本憲吉とその周辺』(同名展覧会カタログ)ふくやま美術館、1990年、4頁。
(10)土田真紀「工芸の個人主義」『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代……光り耀く命の流れ』(同名展覧会カタログ)三重県立美術館、1995年、223頁。
(11)同論文、同頁。
(12)宮崎隆旨「南薫造宛富本憲吉書簡について」『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、114頁。
(13)山田俊幸「モダンデザインの先駆者・富本憲吉」『モダンデザインの先駆者 富本憲吉展』(同名展覧会カタログ)朝日新聞社文化企画局大阪企画部、2000年、15頁。
(14)松原龍一「富本憲吉の軌跡」『富本憲吉展』(京都国立近代美術館、朝日新聞編集の同名展覧会カタログ)朝日新聞社、2006年、12頁。
(15)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、67-80頁。口述されたのは、1956年9月12日。
(16)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年――作陶五十年展を記念して」『民芸手帖』39号、1961年8月、4-15頁。および、富本憲吉、式場隆三郎、対島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年(続)」『民芸手帖』40号、1961年9月、44-45頁。
(17)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、181-229頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に連載。]