中山修一著作集

著作集10 研究断章――日中のデザイン史

第一編 富本憲吉の学生時代と英国留学――ウィリアム・モリスへの関心形成の過程(博士論文)

終 章

一.考察のまとめ

本研究の目的は、序章のおいて述べたように、主として、東京美術学校に入学した一九〇四(明治三七)年から英国留学を終えて帰国する一九一〇(明治四三)年までの富本憲吉がいかにしてウィリアム・モリスへ関心を形成していったのかにかかわって、現時点で利用可能なすべての資料にあたり、その実態を実証的に明らかにすることであった。その目的を達成するために、第一章においては、郡山中学校および東京美術学校での英国留学に先立つモリス学習の様子を探り、続く第二章では、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館における実際のモリス作品への出会いの実態に迫り、そして最後の第三章で、これはかつてモリスにも見受けられた眼差しではあったが、富本自身の非西洋文化への関心の萌芽過程を詳述した。

以下は、各章ごとの考察の結果のまとめであるが、それに先立って、まず、基本文献の性格について整理して明確にしておきたいと思う。

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録として、以下の三点が残されている。年代順に列挙すれば、最初のものは、富本が「重要無形文化財保持者」、いわゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によって編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」のなかに認めることができる。出版されたのは、富本の死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが、一九五六(昭和三一)年にすでに口述されていた。その箇所を再びここに引用する。

 徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描き、卒業を目の前に控えて一九〇 ママ ママ 月にイギリスに私費で留学しました。普通の美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは、当時ロンドンには南薫造、白滝幾之助、石橋和訓のような先輩がい、大沢三之助先生が文部省留学生としておられたので、指導してもらうに好都合のためでありましたが、実はそれよりも美術家であり、社会主義者であるウイリアム・モリスの仕事に接したいためでした。

次に、一九六一(昭和三六)年に、「作陶五十年展」を記念して座談会が開催され、その記録が『民芸手帖』に掲載されているが、そのなかで富本は、質問に答えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様子に触れている。これが二番目に相当するもので、以下に再度紹介する。

私は友達に、中央公論の嶋中 雄三 ママ がおり、嶋中がし よつ ママ ママ うそういう[モリスに関する]ことを研究していたし、私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた。それにモリスのものは美術学校時代に知っていたし、そこへも ママ てきていちばん親しか ママ た南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行くとごまかしてイギリスに行った。

最後は、一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で、富本は、自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧している。これも、ここに再度引用しておきたい。

 留学の目的は室内装飾を勉強することだった。フランスを選ばず、ロンドンをめざしたのは、当時、ロンドンには南薫造、白滝幾之助、高村光太郎といった先輩、友人たちがいたからでもあるが、もう一つ、在学中に、読んだ本から英国の画家 フィ ママ スラーや図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかったからでもある。

以上の三点が、富本自身による自分の英国留学について回想した文書記録のすべてである。

ここでまず問題にされなければならないのは、この文書記録の信頼性である。本論においてもすでに言及しているが、このなかには、富本の記憶違いや勘違いが幾つか含まれている。たとえば、渡航の年月については、「一九〇九年十月」と記されているが、実際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性もある)だったし、「中央公論の嶋中雄三」については、事実は、中央公論社に入社するのは、兄の雄三ではなく、弟の雄作であった。さらには、「当時ロンドンには南薫造、白滝幾之助、石橋和訓のような先輩がい、大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と富本は述懐しているが、南を別にすれば、「高村光太郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところであり、原稿執筆の際に、ロンドン滞在時の体験をもとに、結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考えられる。同様に、「フィスラー」(現在における一般的表記は「ホイッスラー」)についても、富本が美術学校時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たらず、富本の記憶違いであった可能性の方が高いように思われる

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら、上記三点の文書記録の記述内容を精査し、そうした記憶違いや勘違いを取り除いたうえで、富本の英国留学の経緯を再構成すると、おおよそ、次のようになる。

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリアム・モリスを知り、自らも『平民新聞』を読み、東京美術学校に入学してからは、モリスのものを知るとともに、読んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになり、また、一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあって、徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると、一九〇八年一一月末ころに、室内装飾を学ぶとともに、美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事に触れるために、私費で英国に留学をした。

これが、誤謬や重複を排除したうえで、英国留学に関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的にまとめたものである。そして同時に、これが、本論執筆における前提となる部分でもあった。

果たしてこのような前提を構成する個々の内容は、どのような事実関係において全体として成り立っていたのであろうか。そうした、英国留学以前にあっての富本のモリスへの関心形成の過程についての実態を明確化することが、第一章「英国留学以前の東京美術学校時代」の主たる目的となるものであった。そのために、以下の諸点について実証的な手法により考察と検討を加え、結果として、幾つかの点についてその実態を明らかにすることができたが、それ以外の点については、示唆ないしは言及するにとどまることになった。

第一に、富本が、週刊『平民新聞』から得たモリスに関する知見は、村井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」という表題がつけられた第四号の記事と、第八号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの「理想郷」(今日にあっては、一般には「ユートピア便り」という名称で呼ばれている)であり、美術学校の文庫で閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は、『ザ・ステューディオ』に限っていえば、数にして最大二八点であったことを明らかにした。

第二に、これだけでは、「美術家であり、社会主義者であるウイリアム・モリスの仕事に接したいため」に英国留学を決意した根拠としては、必ずしも十分なものであるとは断定しがたいため、富本のいう「在学中に、読んだ本」が、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』、「ウィリアム・モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠たち』、および、「パタン・デザイニングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであったか、そのうちの、一冊か二冊だったかの可能性が、現時点で残されていることについて言及したうえで、それらの本を読むことによって、おそらく富本のイギリス留学の主要な動機が決定づけられたことを示唆した。

第三に、モリスに関する知見を富本に授け、英国留学にかりたてた教師たちについて、これまで具体的な名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきたが、どの教師についても、そのような形跡はほとんど見当たらず、また、授業や学習方法そのものについても、富本は強い不満を感じていたことを明らかにした。

第四に、当時の富本の政治的信条にかかわって、日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた反感のありようを紹介するとともに、他方で、夏目漱石の講演が、その後の富本の美術に対するひとつの立脚点を提供しえた可能性について示唆した。

第五に、学生時代の三つの作品である、東京勧業博覧会への出品作《ステインド・グラス図案》、『翠薫遺稿』の装丁、および卒業製作《音楽家住宅設計図案》について分析を行ない、可能な限り個々の作品の成り立ちとインスピレイションの源を明らかにし、あわせて、それらの作品にみられる特質、とりわけ、ステインド・グラスへの関心、文字表現に対する興味、彫ることやうちわへの愛着、さらには、もうひとつの別の異文化への眼差しなどが、総じてこの時期の富本に萌芽しつつあったことを指摘した。さらに、それに関連して、こうした一連の実製作をとおして、富本の「室内装飾」への関心は一段と高まり、このことが、英国留学へ向けてのひとつの誘因となったことを示唆した。

そして最後に六番目として、南薫造との友情の形成過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について明らかにするとともに、富本のような若者たちを当時取り巻いていた徴兵制についても言及した。

以上のような考察の結果により、留学以前にあってどのようにして富本は、美術家であり社会主義者であったモリスに強い関心を抱くようになり、英国への留学を決意したのか、そのプロセスのほぼ全貌がある程度まで明らかになったものと思われる。

次に、第二章「ロンドンでのウィリアム・モリス研究」での考察をとおして明らかになったことを整理してまとめると、おおよそ以下のようになる。

一点目は、一九九六年にモリス没後一〇〇年を記念して開催された展覧会にあわせて刊行されたリンダ・パリーの編集による『ウィリアム・モリス』の巻末に掲載されている「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館収蔵のモリス作品一覧」を主に利用して、富本がこの博物館を訪問した一九〇九年当時の同博物館収蔵のモリス関連作品を特定し、それを三つの表にまとめ、整理した。それに該当する【表1】が、「一九〇九年におけるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館収蔵のウィリアム・モリスおよびモリス・マーシャル・フォークナー商会(一八七五年以降はモリス商会)関連の作品リスト」、【表2】が、「一九〇九年におけるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の国立美術図書館所蔵のケルムスコット・プレス刊行書籍リスト」、そして【表3】が、「一九〇九年におけるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館所蔵のケルムスコット・プレス刊行書籍関連の資料リスト」である。以上を具体的な数字に置き換えてみると、家具が一点、ステインド・グラス・パネルが四点、刺繍による壁掛けのためのデザイン(下図)が一点、壁紙《キク》(サンプル)が一点、タペストリーが二点、ケルムスコット・プレス刊行の書籍が三一タイトル、三四冊、同プレス刊行書籍に関連する資料が一二点、室内装飾の施工例が一点、そして織機が二点となり、これが、富本が一九〇九年のロンドン滞在中にこの博物館において目にすることができた可能性をもつモリスに関連するほぼすべてのものであった。いうまでもなくこれらは、現在特定されているモリス作品の量と比べれば、極めて少量であるといわざるを得ない。富本の一生涯にあっては、再度ロンドンを訪れる機会も、実際のモリス作品がまとまって日本で紹介された形跡もなく、したがって、富本が存命中に実際に見ることができたと思われるモリス関連作品の最大量は、ほぼこの部分に限られることになる。

二点目は、これらの作品のうち、留学に先立って日本において図版をとおして知り得た可能性をもつ作品について言及している。本論で使用している【図8】と【図9】の〈グリーン・ダイニング・ルーム〉、【図11】の《アーティチョーク》のためのデザイン、【図14】と【図15】のマートン・アビーの工房は、いずれも、『装飾芸術の巨匠たち』に所収されているルイス・F・デイの「ウィリアム・モリスと彼の芸術」から、また、【図10】の《ペネロペ》、【図19】の『折ふしの詩』の最初の頁、【図20】の『世界の果ての泉』のなかの頁については、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』から、そして、【図16】の《果樹園あるいは四季》と【図17】の《主を讃える天使たち》については、『ザ・ステューディオ』から複製している。複製に利用した、これら三つの出典は、本文で述べているように、富本が美術学校在籍中に目を通すことが可能であったと推測される書籍と雑誌である。もちろん、あくまでも最大値としての可能性であり、すべての図版を富本が見ていたとは限らないが、少なくともその一部は、間違いなく、留学以前の富本の目に止まっていたものと思われる。

三点目として、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で富本が見ることができたモリス関連作品が、当時その博物館のどこに展示されていたのかを、一九〇九年に同博物館によって刊行された『サウス・ケンジントンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館ガイド』を手がかりにして、ほぼ特定し、紹介することができた。その過程のなかにあって、「ウイリアム・モリスの話」と「履歴書」において富本が言及している「壁紙の下図」が「刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン(下図)」であった可能性が極めて高いことを例証している。

四番目に、帰国後に富本が執筆した「ウイリアム・モリスの話」および晩年の「自伝」と「履歴書」のなかから、実際にこの博物館で見聞したモリス関連作品への言及箇所を拾い上げ、モリス作品に対する富本の評価内容を紹介した。ここでは、付随的に次のことが明らかにされている。富本が賞賛している作品は、実際の展示作品(ないしは収蔵品)のうち、刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン、ステインド・グラス・パネルの《ぺネロペ》、ケルムスコット・プレス刊行の書籍、富本が「粉本」と読んでいる下図や画稿、そして〈グリーン・ダイニング・ルーム〉で、それとは反対に、全く言及していないものは、セント・ジョージのキャビネット、ステインド・グラス・パネルである《眠るチョーサー》《ディードーとクレオパトラ》《愛の神とアルケースティス》、タペストリーの《果樹園あるいは四季》《主を讃える天使たち》、そして壁紙《キク》であった。もちろん、これらの作品のなかには、富本がこの博物館で何らかの理由で実際には見る機会がなかったものが含まれている可能性も残されている。

そして最後に、富本とモリスの両者が共通して用いたアーティチョーク・パタンを取り上げ、ジェラードの『草本誌つまり植物の概略史』を手がかりにしながら、両者にとってのオリジナリティという文脈からそれぞれ考察を加え、このパタンが、富本にとって、英国留学を象徴する模様であり、同時に、その後のオリジナリティを追及するうえでの原点となる模様だったことを例証した。

最後の第三章「英国生活とエジプトおよびインドへの旅」においては、考察の結果、次のような結論を得ることができた。

富本憲吉の英国留学の主たる目的は、読んだ本から美術家であり社会主義者であったモリスの思想に興味を抱くようになり、その実際の仕事に触れるためであった。しかし、モリス作品を展示しているヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に実際に足を踏み入れてみると、ここにはモリス作品のみならず、世界各地の各時代の木工、金属細工、テキスタイル、陶器などの工芸品が、絵画や彫刻とともに展示されていることに気づかされた。次第に富本は、「この博物館のとりこ」になっていくのである。

第三章のまとめとして、一点目に挙げることができることは、富本が「この博物館のとりこ」になっていく、その様子についてである。ここでは、このことに関連して帰国後の富本が断片的に言及している箇所を拾い集め、再構成されている。そのなかで、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館での体験をとおして、富本は、単に西洋以外の工芸に目を向ける機会を得ただけではなく、オリジナリティの重要性に気づかされていくとともに、絵画や彫刻の下位に工芸を位置づけることが通例となっていた、当時の美術の序列概念へ疑問を抱くようになっていったことを例証している。

次に、富本がステインド・グラスの技法を学んだ中央美術・工芸学校のその当時の学科構成、時間割等について、その学校が刊行した一九〇八―九年度の『概要と時間割』を手掛かりに再現し、さらには、校長のウィリアム・リチャード・レサビーのデザインに関する考えやエドワード・ジョンストンのデザインの教授法についても紹介した。一方、ドイツにおけるヘルマン・ムテジウスと日本における富本を比べた場合、英国デザインの紹介という点において、また量産への着目という点において、その役割に類似性があったことを示唆している。

三番目に、ロンドン郊外への写生旅行や下宿生活の様子について、公表されている資料のなかの幾つかのエピソードを交えながら描写し、博物館や学校以外での富本の研鑚の様子の一部を明らかにしている。そのなかにあって、田中後次との出会い、また牧野義雄との出会いの可能性についても言及している。

最後に、回教建築の調査のために新家孝正に随行し、エジプトとインドで体験した内容の一部を、富本自身が書き残している断片的な記憶から選び出し再現している。富本にとってこの調査旅行は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館での学習内容を実地において追体験する機会になるものであり、ここからも、富本の西洋文明の相対化に対する意識は強化された可能性を示唆することになる。また、その調査旅行が終わると、直ちに富本は帰国の途につくが、そのときの船に同乗したレジー・ターヴィーに触れ、これが、帰国後のバーナード・リーチとの面識をもたらす運命的出会いであったことを紹介している。

以上が、本論において考察や言及がなされている内容を各章ごとにまとめ、整理したものである。これらのまとめを総括し、本研究の主題である、富本憲吉のウィリアム・モリスへの関心過程という文脈に即して概観すれば、結論として次のような要約を導き出すことができるであろう。郡山中学校と東京美術学校の学生時代を経て、英国留学を経験し、帰国後に「ウイリアム・モリスの話」を発表するまでの期間にあって、富本の主たるモリス理解は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でのモリス作品をとおして、また、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作、および彼の公的生活』のなかの記述内容をとおして着実に進行しており、その一方で富本は、かつてモリスがそうであったように、世界のさまざまな工芸や装飾美術の分野へ分け隔てなく関心を向け、それと同時に、図案や小芸術が、美において純正美術と同等の価値をもつものであるとの認識に到達していた。

二.今後の研究の課題と展望

それでは、本研究でなされた考察の結果は、どのような意義をもち、その基盤に立って今後どのような研究課題を招来することになるのであろうか。私は、以下に述べる三つの方向性にかかわって、本研究の意義を考えている。

まず、最初に挙げなければならないのは、富本の作品と思想にかかわる側面に関してである。序章における既往研究の分析からもわかるように、これまでの多くの富本研究が、影響の大小は別にして、モリスの富本への影響を避けて通れぬものとして論じてきた。しかし、富本のモリスへの関心形成についての実証研究がいまだ不在であったために、富本の死去以降のこの四〇年のあいだにあって、意識的であろうと無意識的であろうと、かかる論者は、自らの立場や関心に由来する眼差しに基づいてモリスと富本との結節点を選択し、それぞれがそれぞれに、よくも悪くもモリスを巡る富本像をつくり上げてきたといえる。そのなかには、明らかに誤謬に近いものも、また含まれていた。本研究は、富本研究のそうしたこれまでの傾向に再考を促す役割を担うことになるであろう。

一例を挙げるならば、序章の既往研究の分析の箇所においても紹介しているが、富本の英国留学の動機を巡る論点に関してである。富本の死去以降一九八〇年代までにあっては、富本の英国留学の主たる目的がモリス研究にあったことは既知の前提として語られてきていた。しかし九〇年になると、それが揺らぎはじめ、「ウィリアム・モリスの工芸思想に共鳴してというのが表向きの理由であり、また美術学校で学んだ大沢三之助(建築学教授)や諸先輩が[ロンドンに]居たからと諸処で[富本は]語っているが、実際には親友の南薫造の後を追ってというのが主要な理由だったらしい」という新たな解釈が現われてくることになる。私は、本研究を進めるにあたって、こうした解釈がどこか気になっていた。しかし、その不安は一掃された。もし、留学に対する課題意識もなく、ただ他人のあとを追っかけていった人に、果たしてこれだけの明確で充実したロンドン生活が送れるだろうかと思うからである。また、単に南を追って渡英したのであれば、南が一九〇九年の七月にパリに渡るときに、なぜ富本はロンドンに独り残り、一緒にくっついていかなかったのであろうか。さらには、熱意を込めて切々と語りかけている、帰国後に執筆した評伝「ウイリアム・モリスの話」を、たとえエイマ・ヴァランスのモリス伝記が底本となっているとはいえ、確たる動機もなく、単に一時期英国に遊んだ人の文章として、本当に読めるであろうか。そうした点からも、「在学中に、読んだ本から……図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかった」という富本の言葉が、決して「表向きの理由」だったのではなく、明らかに、渡英の「主要な理由」であったことを、本研究を終えたいま、改めて実感できるのである。

この研究の二番目意義は、本研究が、日本における工芸やデザインの「近代」を論じる際のひとつの手がかりを提供していることである。この課題については、偶然にも本論の執筆過程で触れることになった田中後次を引きあいに出して少し展望してみたい。

「ウイリアム・モリスの話」の発表から二年後の一九一四(大正三)年に、富本は、美術店田中屋内に「富本憲吉氏圖案事務所」を開設している。これは、モリス・マーシャル・フォークナー商会、のちのモリス商会の範に倣ったものであることは想像に難くないが、ほとんど具体的な活動の成果をあげないまま、自然消滅している。原因は何であったのかは定かではない。しかし私は、そのひとつに、信頼できる協同者が富本の周りにいなかったことが挙げられるのではないかと想像している。モリスの周りには、明らかにバーン=ジョウンズやフィリップ・ウェブをはじめてとして、多くの芸術家の友人たちが集っていた。それは、モリスが求めてやまなかった中世をモデルとした「フェローシップ」を体現するものでもあった。富本も確かに、こうした仕事上の協同者として、美術学校時代からロンドン滞在中を通して真の理解者となっていた南薫造や帰国後に知りあうことになるバーナード・リーチ、さらには結婚をまじかに控えていた尾竹紅吉(一枝)のような人たちを念頭に置いていた形跡も、わずかながら残されている。しかしそれも、結果的にうまくいかなかった。富本は、一九二〇(大正九)年に執筆したある文章のなかで、前後の文脈から逸脱し、次のようなことを唐突にも述べている。

 ウィリアム・モーリスにつき私の最も関心する處は、彼れのあの結合の力、指揮の力である

この言葉にかかわって、論証を抜きにして自由に私見を語らせていただくならば、モリスに倣った実践形態が富本にとってひとつの理想の姿であったにもかかわらず、しかしそれがいかに困難であるものかを、かつて経験した挫折をふまえて告白しているように読める。富本における「結合の力、指揮の力」の欠如が、モリスとは根底において異なる点である。これは、社会変革の展望に向けた深度の違いとして最終的に現われてくる。しかし、この点についても、富本は断念なり、挫折を強いられたようにも思える。というのは、工芸は一部の裕福な人たちのためにあるのではなく、一般大衆のためにあるという強い信念のもとに、果敢に試みた陶器の大量生産へ向けての実践を除けば、その後の富本の社会主義は、大方表面上は、かつて小野二郎が示唆したように「闕語」として進行していくことになるからである。それは、モリスにとってのイギリスにおける一八八〇年代の社会主義の隆盛期と、富本にとっての日本における一九一〇年代の「冬の時代」との違いに由来していたともいえる。事実、富本がモリスのことを社会主義者という肩書きでもって呼ぶのは、戦後からしばらく時を経た、晩年の「自伝」と「履歴書」においてなのである。もっともその一方で、そうした日英間の時代状況を超えた土俵にあって、妻一枝との思想的葛藤は日常的に存続していた。富本の一九一〇年代の苦悩は、これらのことにすべて集約されるのではないだろうか。モリスのいう中世イギリスのフェローシップと引き換えに近代日本の「個人」を、また、モリスのアーティチョーク・パタンと引き換えに在来種モティーフからの「オリジナリティ」を、さらには、モリスの社会主義実践と引き換えに「安い陶器と大量生産への展望」を、結果的にこの時期、富本が確かに手に入れようとしていたとするならば、それは、そうした相克がもたらした、それなりにふさわしい富本自身の「宿命」的な帰結を意味するものであった。いまだ個人的仮説の域を出るものではないにしても、まさしくそのことが、工芸家としての富本のみならず、ひとりの人間としての富本にとっての「近代」にかかわるひとつの大きな断面だったのである。そしてこの断面こそが、決して変質することなく、その後の生涯を貫く「初心」、つまりは富本の初々しい確信となるものではなかったのではないだろうか。

一方田中も、「富本憲吉氏圖案事務所」が開設された同じ年の一九一四(大正三)年に田中工場を設立している。田中自身は、この工場の経営者であると同時に、ひとりの個人工芸家としての姿ももちあわせている。その代表作のひとつが、一九二八(昭和三)年の東京帝国大学図書館前青銅製大噴水搭である。しかし、田中の工場も不運に見舞われる。息子の前田泰次は「父の事業は経済的には成功しないで、工場は潰れてしまった」と回顧している。また別の箇所で前田は、「警視庁の特高課の家宅捜査を受けた」ともいっている。家宅捜査の詳細は不明であるが、富本の妻一枝が、代々木署の特高課によって身柄を一時拘束される時期と、ほぼ同じ時期だったのではないかと推測される。田中がモリス的な工場運営をしていたのかどうかはわからない。また、工場をどのような理由から閉鎖せざるを得なかったのかも、いまのところ不詳である。ただ私にとってこのことが興味深いのは、旧来の徒弟的なものづくりからは離れて、工芸における近代的な自営工場やデザイン事務所の先駆的事例として、田中工場も富本憲吉氏圖案事務所も位置づくのではないかと思われるが、大正期から戦前昭和期にあって、そのための社会的、文化的、経済的基盤はどのようなものとして存在していたのかを考察するうえで、この工場と事務所は貴重な手がかりを与えるのではないかと考えているからである。いまひとつ興味深いのは、工芸の実践家としての田中後次と研究者としての前田泰次の親子二代にわたる工芸とのかかわり方である。一九三〇年代のヨーロッパにおけるヴァルター・グロピウスとハーバート・リードとの関係が、日本にあっては、この親子のなかで醸成されつつあったのでないかというのが、現在の私の仮説であるが、その時期、バーナード・リーチは、ステューディオ・ポターとしてデザインの近代運動から全く孤立していた感があった。一方富本は、次第にリーチから離れていく。ふたりにとって埋められない溝は、ひとつには機械、つまり量産を巡る見解の相違にあった。この時期、田中と前田の量産を巡る見解と、富本のそれとは、どのような異同があったのだろうか。このことは、日本におけるこの学問分野にとっての「近代」を考察するうえで、重要な事例となるのではないかと、いまはただ思いを巡らせている。

三番目として、本論のなかで偶然にも遭遇することになった牧野義雄を取り上げ、この学問分野の日英交流史といった文脈から本研究の発展的課題を見出し、最後に若干、補足的展望をしてみたいと思う。

牧野がロンドンに上陸するのが一八九七年で、富本がロンドンを離れるのが一九一〇年である。周知のとおり、一九世紀後半は、クリスタファー・ドレッサーやチャールズ・ホーム、それにアルフレッド・イーストたちが日本を訪問しただけではなく、モリスは少し横に置くとしても、工芸家や美術家のあいだで熱い眼差しが日本へ向けられ、多くの工芸品や美術品がイギリスへ流入した時期にあたる。こうした英国のジャポニスムに対して、二〇世紀の最初の一〇年間は、逆にイギリスに興味をもった日本の美術家や学生たちが海を渡った時期に相当し、その成果を母国に持ち帰っている。そうした意味において、世紀の転換は、同時に英国ジャポニスムの潮目としての側面をもっているといえる。この約一〇年間の前半は、牧野を中心に原撫松や野口米次郎の交友関係が認められ、後半は、本論で取り上げているように白滝、南、富本らによって形成されていた人間関係が存在していた。ここで関心を引くのは、イギリスの美術や文化に対して、ふたつのグループにとって、あるいは個々人にとって、何か眼差しの違いがあったのかどうかという点であり、換言すれば、そのことは、イギリスでの彼らの成果物に質的差が認められるかどうかという視点を招来する。もうひとつは、ジャポニスムによって日本への関心がすでに形成されていたイギリスの美術界の文化的土壌にあって、こうした日本人美術家や学生たちは、どのような眼差しで受け入れられていたのかという点である。本論においても、もっぱら富本のイギリスへ向けられた眼差しを追いかける一方で、その逆の他者の眼差しについては、ほとんど記述を放棄しているところがあるが、この分野における日英交流という文脈に視点を移すならば、富本だけではなく、この十数年間の日本人の動向とそれに対するイギリス側の反応のあり方は、極めて重要な意味をもつことになるであろう。そのような観点において、今後の牧野研究も期待されるわけであり、この論点への再認識が本研究の副産物となったことを、ここに付け加えさせていただきたいと思う。

最後に、モリス主義者の小野二郎は生前、「アール・ヌーヴォーのイギリス起源という問題」(『現代思想』一九七六年一二月号所収)と題した評論の結びを、「中村義一氏の業績と長谷川氏のそれとを踏まえて、実は富本憲吉のモリス論を論じようと思ったのだが、……なかなか富本にはたどりつけそうもない」という一文で締め括っていた。あれからちょうど三〇年の歳月が流れた。しかし、このときの小野の仕事を埋めるような本格的な富本のモリス論を扱った論考はその後現われていない。本研究がひとつのきっかけとなって、今後さらなる富本とモリスを結ぶ学術研究が進展することを望みたい。

(1)学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は、以下のとおり、留学が許されたことをロンドンにいる南薫造に伝える書簡に唯一認められる。
「聞きたい事云 ママ たい事山々。クリスマスは何うだった。ロンドン搭、音楽、プレラフワエリスト[ラファエル前派]の作品フィスラー…――」(『南薫造宛富本憲吉書簡集』大和美術資料集3集、奈良県立美術館、1999年、2頁。)
しかし、この一節は、南が関心をもっていたラファエル前派やホイッスラーの作品について、それらがどうだったのかを富本の方から聞いているように読める。もっとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程度の関心をもっていたことを否定することはできないが、一方、英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強い興味をもつようになった可能性も残されている。というのは、ロンドンに到着した直後ではなく、ロンドンを離れる直前に、富本はホイッスラーに関する以下の書物をサウス・ケンジントンの書店で買い求めているからである。
Mortimer Menpes, Whistler as I Knew Him, Adam and Charles Black, London, 1904.
そこで推論になるが、「在学中に、読んだ本から英国の画家 フィ ママ スラーや図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみられる、ホイッスラーに関しての「読んだ本」とは、「在学中に」ではなく、そのとき購入し、その後に読んだ本のことを指しているのではないだろうか。そのことの妥当性は別にしても、いずれにせよ、英国留学の目的のひとつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラーに特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさわしい資料は、現時点で見出すことはできない。なお、ロンドンで富本が買い求めた本は、現在富本憲吉記念館に所蔵されており、その本には購入の時期と場所に関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店にて」と記されている。

(2)熊田司「ロンドンの青春:前後――白滝幾之助・南薫造・富本憲吉の留学時代を中心に」『1908 / 09 ロンドンの青春:前後 白滝幾之助・南薫造・富本憲吉とその周辺』(同名展覧会カタログ)ふくやま美術館、1990年、4頁。

(3)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、198頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載。]

(4)富本憲吉「美を念とする陶器――手記より」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、48頁。

(5)小野二郎は、富本憲吉にみられる「闕語」について、以下のように指摘している。
「アーツ・アンド・クラフツはモリスを矮小化した。リーチはさらに狭いもの、ステュディオ・ポッターの世界に閉じ込めた。楽天的に、無意識に。だが富本の陶芸作家としての自己限定に、むしろ民芸作家と距離をおいて、 個人 ・・ 陶芸作家としての自己限定に、私は何か[フィリップ・]ウェッブの「孤独」に通ずる「闕語」を感ずるのである。」(小野二郎「《レッド・ハウス》異聞」『牧神』第12号、1978年、87頁。)

(6)前田泰次『工芸概論』東京堂、1956年(3版)、1頁。

(7)前田泰次『工芸とデザイン』芸艸堂、1978年、[3]頁。

(8)小野二郎『ウィリアム・モリス研究』(小野二郎著作集1)晶文社、1986年、396頁。