中山修一著作集

著作集10 研究断章――日中のデザイン史

第一編 富本憲吉の学生時代と英国留学――ウィリアム・モリスへの関心形成の過程(博士論文)

第二章 ロンドンでのウィリアム・モリス研究

一.ロンドン到着と南薫造との再会

【図1】は、アルバート・ドックに投錨している日本郵船会社所有の因幡丸の船尾を描いた水彩画で、ロンドンでいままさに脚光を浴びようとしていた一九〇六年か七年の牧野義雄の作品《アルバート・ドックの日本定期船》である。このドックは、ロンドンの中心地から約十数キロ東に寄ったテムズ川沿いに位置していた。

一八八〇年に開設されたロイヤル・アルバート・ドックには、最大一万二千トンの船舶まで対応可能な油圧クレーンと蒸気ウィンチが装備されており、一八五五年に蒸気船のために特別に造営された最初のドックであったロイヤル・ヴィクトリア・ドックとは、ひとつの水路を隔てて隣接していた。一八八六年までには、このふたつを含む七つのドックが取り囲むようにして「ロンドン港」は構成されていた。

富本憲吉を乗せた船も、無事その航海を終え、この水彩画にみられるアルバート・ドックに接岸されたものと思われる。甲板からは迎えの人影は「小さく」見えた。しかしそのなかに、確かに南薫造の姿があった。

富本にとって南は、美術学校の二年先輩にあたり、とくにマンドリンのサークルをとおしてふたりは深い友情を形成していた。南が横浜港から博多丸に乗船したのは、一九〇七(明治四〇)年七月二四日のことであり、それから約半年後の一九〇八(明治四一)年一月八日、留学について家族の許可が得られた夜に、富本は、ロンドンにいる南に宛てて手紙を出している。

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコートとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と手を握り合う事が出来るか。?

この手紙からさらにおおよそ一年後、富本は実際に「地球の一隅」のロンドンに上陸し、そこで、南と「手を握り合う事」ができたのであった。ふたりにとって一年半ぶりの再会であった。

ところで、ロンドンの地に富本が足を踏み入れたのは、正確にはいつだったのであろうか。残念ながらそれを特定することはできないが、現在ふたつの手がかりが残されている。ひとつは、一九〇八(明治四一)年一一月一六日付の南に宛てた富本の書簡で、そこには、「此週土曜にいよいよ東京をたつ……」と述べられている。しかしこの資料からは、東京を発ったのち、いつ横浜なり神戸なりを出航したのかを特定することはできない。もうひとつの手がかりとなる資料は、イスに座る富本を横から撮った一枚の写真はがきである【図2】。表には、「渡英の記念として」という文字と、「水木要太郎」の宛名と、「明治四一年一二月一四日」の日付が書き記されている。水木は、富本の郡山中学校時代の恩師であった。この写真はがきには受取人住所の記載はないので、宛先が書かれた封筒に入れて投函されたか、直接水木に手渡されたものと思われる。もしこれが、出発前に日本から出されたものであれば、あるいは直接手渡されたものであれば、このときまで、まだ富本は日本にいたことになるし、ロンドンで投函されたものであれば、すでにこのときロンドンに到着していたことになる。もっとも、洋上から出された可能性も否定できない。しかしいまのところ、消印のついた封筒が存在しないために、正確な差出日や差出地を決定づけることは困難になっている。

以上のふたつの資料から総合的に判断すると、全行程を航路にて「一一月一六日」以降に日本を発ち、「一二月一四日」以前にロンドンに着くことは事実上不可能であるため、三つの可能性を想定せざるを得ない。ひとつは、「一九〇八年一一月一六日」以降に日本を発ち、シベリア鉄道を使ったうえで、「一九〇八年一二月一四日」以前にヨーロッパ大陸から航路ロンドンに着き、その地から写真はがきを水木に出した可能性であり、もうひとつは、「一一月一六日」以降に欧州航路にて日本を発ち、途中の寄港地で、写真はがきを水木宛に投函した可能性である。この場合は、早くて、年が明けた「一九〇九年一月の上旬」にロンドンに到着したことになるのではないだろうか。さらにもうひとつは、日本で水木宛の写真はがきを投函、ないしは、直接本人に手渡したのち、「一二月一四日」以降に航路によりロンドンに向けて日本を出立した可能性である。この場合は、富本のロンドン上陸は、早くて「一九〇九年の一月末か二月の上旬」になるであろう。陸路なのか、航路なのか、それを決定づける資料も現在のところ存在しない。しかし、断定はできないが、最終的に富本を乗せた船が接岸されたのがアルバート・ドックであったことを考えれば、欧州航路の日本定期船を利用した可能性の方が高いのではないだろうか。もしそうであれば、富本のロンドン上陸は、「一九〇九年一月の上旬」から「二月の上旬」までのいずれかの時期であったと推量できる

南は、前年の六月一一日から「ロンドン チェルシー キングスロード一八三番地 オンスロウ・ステューディオ一一号室」に住んでいた。おそらく富本は、ロンドン上陸後、この南の下宿【図3】に一時身を寄せたものと思われる。この「チェルシーのキングスロード一八三番地」は、ロンドン中心部の南西に位置し、「モリスの実際の仕事を見たかった」富本にとって、その作品を収蔵するヴィクトリア・アンド・アルバート博物館とは、距離にしてわずか一キロ少々しか離れていなかった。

……大沢三之助工博が私たちの指導者のような人であったが、その人からすすめられて、私は下宿に落ち着くと早々、サウス・ケンジントンのアルバート・アンド・ビクトリア・ミュージアム[ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館]へ足を運んだ。これは工芸品の研究を第一の目的として建てた博物館で、私は最初から強く心をひかれるものがあり、毎日の日課として訪れた

現在にあっても地番表示が変更されていないとすれば、「キングスロード一八三番地」にある「オンスロウ・ステューディオ一一号室」のこの下宿を出ると、北へのびるシドニー・ストリートを通り、さらにオンスロウ・スクウェア【図4】を通り抜け、それに続くエキシビション・ロードへ入ると、すぐにも、東西に走るクロムウェル・ロードと交差する地点へ出る。目的とするヴィクトリア・アンド・アルバート博物館【図5】は、そのふたつの通りが交差する北東側の一角にあった。短い期間であったかもしれないが、その後次の下宿へ移るまで、おそらくこのルートに沿って、富本はこの博物館へ通ったものと思われる。徒歩にして約一五分の道のりであった。

二.ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館とモリス

富本がロンドン滞在中「毎日の日課として訪れた」ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館とは、どのような博物館だったのであろうか。そしてまた、とりわけモリス【図6】とは、その博物館はどのような関係にあったのであろうか。

一八三〇年代、英国政府は、海外市場での産業製品の競争力の低下に苦しんでいた。とりわけテキスタイル産業におけるフランスのデザインの優位性をそのまま放置することはできなかった。そうした貿易上の劣勢という背景のなかにあって、一八三五年に「芸術と製造」に関する特別委員会が下院に設置され、二回にわたる聴聞会ののちに作成された報告書には、イギリスの主要な都市に、国家が助成するデザインの学校をつくることが盛り込まれていた。「こうして、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の祖形となる、最初のロンドンのデザイン学校は、一八三七年に設立された」。その学校は、サマセット・ハウスのなかに設置された。わずかながらの図書のコレクションがあり、のちにそれが博物館付属の図書館へと発展していく。また一方で、石膏像の小さなコレクションもあり、これが、博物館収蔵品の基礎となるものであった。このロンドンのデザイン学校は、正式名称を国立デザイン師範学校といい、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の祖形であると同時に、現在の王立美術大学の母体となるものでもあった。

この博物館にとっての次の発展は、国家公務員のヘンリー・コウルとヴィクトリア女王の夫君のアルバート公によって推進され、「芸術と産業の結合」に向けたふたりの熱意は、一八五一年の大博覧会の開催へとつながっていく。正式名称を万国産業製品大博覧会といい、一回目の万国博覧会に相当するものである。このとき、ジョセフ・パクストンによって設計された〈クリスタル・パレス〉のなかに、創造性と多様性に満ちた英国の産業製品が展示され、その偉業が国の内外に向けて誇示されたのであった。そして、ここまでで「この博物館の前史は終わり、その歴史は一八五二年にはじまるのである」10

大博覧会が終わり、一八五二年にコウルは実用美術局の主任審議官に任命されると、直ちに彼は、王室の住まいであったモールバラ・ハウスの使用許可をうまくヴィクトリア女王から引き出すことに成功した。こうして、製造品博物館(翌一八五三年に装飾美術博物館へ名称変更)とデザイン学校(このとき中央美術訓練学校へ名称変更)を含む実用美術局(翌一八五三年から科学・芸術局へ改組)はこの建物を使用するようになり、このとき製造品博物館が、デザイン学校の収蔵品や大博覧会の展示品を主たるコレクションとして開館したのであった。コレクションの選定には、コウルのほかに、オウイン・ジョウンズ、リチャード・レッドグレイヴ、そしてA・W・N・ピュージンが従事した。このなかには「恐怖の館」と呼ばれる部屋があり、悪いデザインの事例が展示されていた。つまりこの博物館は、産業製品のデザインや趣味のよし悪しについて、国民とりわけ製造業にかかわる人びとに明示する教育の場として想定されていたわけであり、これが、その後の発展のなかにあって、この博物館の変わらぬひとつの基本指針となるものであった。

大博覧会は大きな収益を残し、それを原資としてサウス・ケンジントンに広大な土地が購入された。建物群が完成すると、モールバラ・ハウスの機能はここへ移され、美術教育の新たな複合施設が完成することになった。一八五七年のことである。これよりこの博物館はサウス・ケンジントン博物館と呼ばれるようになり、コウルが、科学・芸術局の局長とこの博物館の初代館長に就任した。

ちょうどこの年、ラファエル前派の中心的画家であったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの誘いを受けてモリスは、新築なったオクスフォード大学の学生会館の壁画製作に参加している。「アーサー王の死」を主題とした壁画自体はロセッティのフレスコ画に対する知識が不十分だったこともあって中断することになったが、そのときロセッティのモデルを務めていたジェイン・バーデンとモリスは知りあうことになる。そして一八五九年にふたりは結婚し、フィリップ・ウェブに設計を依頼して完成した新居〈レッド・ハウス〉【図7】の内装を、芸術家の仲間たちの協力を得て、モリス自らが手がけることになる。この経験が発展して一八六一年に発足したのが、モリス・マーシャル・フォークナー商会であった(一八七五年からモリス単独の経営による「モリス商会」となる)。翌年、大博覧会に続く第二回のロンドン万国博覧会が開催され、このとき、日本の美術工芸品がはじめて博覧会をとおしてイギリスに紹介されるとともに、商会は、出品したふたつの作品がメダルを受賞し、順調にその評判を勝ち得るようになっていった。そうしたなか、コウルはこの商会に、サウス・ケンジントン博物館の西側食堂の装飾を依頼することになる。モリスとウェブが室内装飾のデザインにあたり、エドワード・バーン=ジョウンズが、ステインド・グラスの窓に描く人物のデザインを担当し、一八六六年に完成した。これが、のちに〈グリーン・ダイニング・ルーム〉【図8】【図9】として知られるようになるのである。ジェリミー・ベンサムやジョン・ステューアート・ミルの影響を受けた功利主義者として有名であったコウルが、中世の芸術と社会を理想と考えるモリスになぜこのような大きな仕事を依頼したのかは明らかではない。しかしその後も、この博物館とモリスは深いかかわりをもつことになる。たとえばモリスは、しばしばこの博物館を訪れ、とくにインド、ペルシャ、トルコのタペストリーやカーペット、陶磁器などについて、さらには、中世の木材染料についても詳しく研究をしているし、その一方で、コウルが一八七三年にこの博物館を退いたのち、この博物館が美術品を購入するに際しての是非の判断をする「美術審査員」の制度が設けられたおりには、マシュー・ディグビー・ワイアットらとともに、モリスもその一員に加わっているのである。

この博物館の発展はさらに続いていった。アストン・ウェブの設計による新しい建物の建設が同敷地内ではじまったのである。一八九九年にヴィクトリア女王によって礎石が置かれると、それ以降この博物館は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と呼ばれるようになり、建物が完成したのは一九〇八年で、翌年の一九〇九年の六月に開館の儀式が執り行なわれた。このときロンドンに滞在していた富本は、偶然にもこの記念すべき式典を目撃したのではないだろうか。

三.ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館におけるモリス作品の収集と展示

一九九六年に、没後一〇〇年を記念して大規模な「ウイリアム・モリス」展が、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催された。このときの入館者数は二一万人を超え、この展覧会はこの博物館にとって過去に例を見ない記録的な成功となった。展覧会の開催にあわせて刊行されたカタログ11も、それまでのモリス研究を集大成するものであり、モリスの人物については、デザイナー、著述家、経営者、政治活動家、環境保護運動家の各側面から照明があてられ、その芸術については、絵画、教会装飾とステインド・グラス、室内装飾、家具、タイルとテイブルウェア、壁紙、テキスタイル、カリグラフィー、ケルムスコット・プレスでの印刷と造本のそれぞれの領域から分析され、さらにはモリスが後世に残した遺産や影響についても、三編の論文が所収されていた。そして巻末には、資料の一部として「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館収蔵のモリス作品一覧」がまとめられていた。

富本がヴィクトリア・アンド・アルバート博物館を訪れたのは一九〇九年のことであった。そのときまでにこの博物館は、どのようなモリス作品を収集していたのであろうか。つまり、この博物館で一九〇九年に富本が見たモリス作品とは、一体何だったのであろうか。それをまとめたものが次の三つの表である。【表1】は、「一九〇九年におけるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館収蔵のウィリアム・モリスおよびモリス・マーシャル・フォークナー商会(一八七五年以降はモリス商会)関連の作品リスト」、【表2】は、「一九〇九年におけるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の国立美術図書館所蔵のケルムスコット・プレス刊行書籍リスト」、そして【表3】が、「一九〇九年におけるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館所蔵のケルムスコット・プレス刊行書籍関連の資料リスト」である。ただし、未刊行書籍に関する資料や未確認資料等については、この表から除外されている。そして、上記の三つの表に挙げた関連作品以外に、すでに述べた〈グリーン・ダイニング・ルーム〉がモリス・マーシャル・フォークナー商会によってこの博物館内に施工されており、それに加えて、小型のタペストリー用織機(資料番号一五六―一八九三)と小型のカーペット用織機(資料番号二八三―一八九三)が、ともに一八九三年にモリス自身によってこの博物館に寄贈されていた。以上を具体的な数字に置き換えてみると、家具が一点、ステインド・グラス・パネルが四点、刺繍による壁掛けのためのデザイン(下図)が一点、壁紙(サンプル)が一点、タペストリーが二点、ケルムスコット・プレス刊行の書籍が三一タイトル、三四冊、同プレス刊行書籍に関連する資料が一二点、室内装飾の施工例が一点、そして織機が二点となる。これが、富本が一九〇九年のロンドン滞在中にこの博物館において目にすることができたモリスに関連するほぼすべてのものであった。

それではここで、順次それらについてその概略を述べておきたいと思う。

【表1】に挙げている最初の作品は、一八六一年に設立されたモリス・マーシャル・フォークナー商会にとって、最初期の作品のひとつに数えられるものである。このキャビネットは、フィリップ・ウェブによりデザインされ、正面のセント・ジョージの伝説を主題にした絵がモリスによって描かれている。一八六二年のロンドンで開催された第二回の万国博覧会に展示された作品である。

二番目の作品は、チョーサーの『善女伝』シリーズから題材を得たステインド・グラス・パネルで、《眠るチョーサー》《ディードーとクレオパトラ》《愛の神とアルケースティス》の三点で構成されている。どの作品も、一辺が五〇センチに満たない正方形に近い矩形ででき上がっており、すべてエドワード・バーン=ジョウンズがデザインし、一八六四年ころにモリス・マーシャル・フォークナー商会によって製作されている。

次の作品もステインド・グラスのパネルで、モリス・マーシャル・フォークナー商会のために、バーン=ジョウンズが一八六四年にデザインした《ペネロペ》【図10】である。「このパネルは、ステインド・グラスとモザイクの一八六四年の展覧会から直接、サウス・ケンジントン博物館が入手したものである。この作品では、『善女伝』シリーズのプュリスの頭部が、円形紋の形式にうまく配置されている。これが、この商会が家庭用ステインド・グラスとして注文を受けるうえでの人気の高いデザインとなる証しでもあった」12

四番目の作品【図11】は、刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のための下図で、ゴッドマン夫人の注文により、一八七七年にモリスがデザインしたものである。アーティチョークは、頭花が食用となり、今日においても高級食材として一部で流通している。日本においては別名をチョウセンアザミともいう。「大きな伝統的なモティーフの繰り返しパタンが、一八七〇年代後半と一八八〇年代のモリスの刺繍デザインを特徴づけるものである。これらのデザインは、中近東とイタリアの絹やヴェルヴェットの織物に対するモリスの強い傾倒を指し示すもので、その多くは、サウス・ケンジントン博物館で研究されたものであった」13。ルイス・F・デイの説明するところによると、この下図は、「モリス夫人によってサウス・ケンジントン博物館に寄贈された」14。モリスが亡くなった二年後の一八九八年のことであった。現在もなお、この作品はヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に収蔵されている。四二・〇〇×一五・二五インチの寸法で、水彩で描かれている。

一八七七年に納品されたこのモリスのデザインは、繰り返しパタンのためのアーティチョークの左半分を描いたもので、これをひとつの基本単位として、ゴッドマン夫人は、一九〇〇年までの多くの歳月をかけて刺繍をすることになる。富本がロンドンに滞在したときにはすでに完成していたものの、フィリップ・ウェブが設計した彼女の私邸にあって、その居間の壁に掛けられていたものと思われ、したがって富本自身は、おそらくこの完成作品を見る機会はなかったであろう。ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館がこの完成作品を収蔵するのは一九七八年になってからである。この壁掛け《アーティチョーク》は複数枚つくられたらしく、現在ウィリアム・モリス・ギャラリーにおいても見ることができる。しかし、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の作品は左右非対称、ウィリアム・モリス・ギャラリーの作品はほぼ左右対称の繰り返しパタンとなっている。【図12】は、ウィリアム・モリス・ギャラリーが収蔵し、展示している《アーティチョーク》の作品である。

続く五番目に挙げた作品【図13】は、一八七七年にモリスがデザインし、モリス商会のためにジェフリー商会が印刷した壁紙のサンプル(見本)である。木版によるディステンパー絵の具の多色刷りのこの作品は、《キク(菊)》という作品名をもち、六八・六×五〇・〇センチメートルの寸法となっている。モリス・マーシャル・フォークナー商会が一八六一年に設立されたときの「趣意書」には、壁紙そのものは製造品目として挙げられていなかったものの、壁面の装飾については明示されており、壁紙はすぐにもこの商会の重要な製造品目となっていった。そうして生まれた最初の三つのモリスの壁紙が、《トレリス(格子垣)》(一八六二年)、《デイジー(雛菊)》(一八六四年)、そして《フルーツ(果実)》(一八六六年ころ)なのである。最後に挙げた《フルーツ》は、《ザクロ(柘榴)》という作品名でもよく知られている。最初壁紙はモリス自身が印刷を行なっていたが、技術において未熟なこともあって、すぐさまモリス・マーシャル・フォークナー商会はジェフリー商会に印刷を依頼するようになった。この商会は、すでに一八六二年のロンドン万国博覧会に出品していた優秀な壁紙印刷業者で、それ以降、版木がアーサー・サーンダスン社に売却される一九二七年まで、ほとんどのモリスの壁紙の印刷をこの印刷業者が請け負うことになるのである。モリスの壁紙のデザインは、一八七四年の《アカンサス》から重量感のあるパタンへと大きく変わっていく。《キク》も、そうした傾向をもつ作品のひとつに数えられている。「一八七四年にデザインされた《アカンサス》が、豊穣な効果を醸し出す時期の出発点となるものである。この作品や《ルリハコベ》《リース(花輪)》《ローズ(薔薇)》そして《キク》(一八七六―七年)にあっては、葉や花が力強く湾曲し渦を巻いている。色は深みがあり沈んでいる。線影と筋目が何がしかの三次元性を浮き立たせている」15

モリスの壁紙のモティーフは、多くの場合、歴史的な素材に影響を受けているといわれている。しかしこの《キク》は、それにはあてはまらない。キクは、おおよそ一八世紀末から一九世紀のはじめころに中国および日本からイギリスに持ち込まれた、当時にあっては極めて新しい植物であったと思われるからである。モリスはなぜこの特殊な植物に関心を抱いたのであろうか。そしてデザインするにあたって、何を参照したのであろうか。こうしたインスピレイションの源泉に関する疑問に対して明確に答えている研究は、現在のところ英国にあっても見出すことはできないらしい。また、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館がどのような経緯から一八八九年にこの作品を入手したのかも判然としない。この博物館の「登録簿」には、入手先も購入金額も記入されておらず、ただ「芸術部長」としか記載されていないからである。さらなる調査の依頼によって提供されたこの博物館からの情報によると、その人物は「トーマス・アームストロング(一八四八―一九二〇年)。彼は、多くの美術家とデザイナーを友人にもつ画家で、一八八一年から八九年までサウス・ケンジントンの科学・芸術局の芸術部長を務め、初期の幾人かの博物館高官と同じように、美術とデザインの学校の校長を兼ね、コレクションの形成に積極的な役割を担っていた」。もしそうであれば、この《キク》という作品は、トーマス・アームストロングがモリスなりモリス商会なりから譲り受け、それを当時のサウス・ケンジントン博物館へ寄贈したものだったのではないかと考えられる。明らかにこの作品は、一枚物の壁紙のサンプルである。しかし、もともとは、三巻からなるモリス商会の壁紙のパタン・ブック(見本帳)のなかのどの巻かに納められていた一枚のシートだった可能性もある。《キク》が製作された一八七七年とちょうど同じ年に、モリス商会はオクスフォード・ストリート二六四番地(のちに四四九番地に地番変更)にショウルームを開設した(さらに一九一七年には、ハノーヴァー・スクウェアから少し外れたジョージ・ストリート一七番地に移転)。壁紙のパタン・ブックは一般顧客への販売のためにこのショウルームに常備されていたものと思われる16

一八八一年にモリス商会は、マートン・アビーに見つけた古い染織工場跡を賃貸により借り受け、染織、織物、刺繍などを製作するための工房として利用しはじめた【図14】【図15】。「商会を背後で支え一〇年間も製作が続くと、一八九〇年に至るまでにはマートン・アビーのタペストリーは、モリス独自の美術作品を所有したいと思う裕福な注文主たちのあいだで、ますます有名になろうとしていた」17。【表1】のなかの六番目の作品である《果樹園あるいは四季》【図16】は、そうしたなかにあって、一八九〇年にマートン・アビーで製作されたタペストリーである。モリスとジョン・ヘンリー・ダールがデザインし、「ダールの周到な監督のもとに、ウィリアム・ナイト、ウィリアム・スレイス、ジョン・マーティンによって織り上げられている」18。一八五七年夏のオクスフォード大学学生会館の壁画製作に参加したときに実感して以来、モリスは、人物を描くことに多くの困難性を感じ取っていた。しかし、人物をモティーフにした作品の需要は高まっており、この《果樹園あるいは四季》が、「タペストリーにおいて人物を扱ったモリスの最初の試みとなるものであった」19

【表1】の最後の七番目に記載されている《主を讃える天使たち》【図17】は、バーン=ジョウンズの人物画を中央に配し、ダールによって全体がデザインされた作品である。「バーン=ジョウンズの人物画は、もともとは一八七七年か一八七八年にソールズバリー・カセドラルのステインド・グラスのために描かれたものであった」20。製作は、モリスが亡くなる二年前の一八九四年に、マートン・アビーの工房で熟練職人たちの手によって行なわれている。したがってこの作品は、モリス商会による製作品ではあるが、モリスが直接デザインや製作に関与したものではない。「一八九八年にサウス・ケンジントン博物館は、モリス商会から二二五ポンドでこの《主を讃える天使たち》の作品を購入した」21

続いて、【表2】のリストは、一九〇九年までにヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の図書館が所蔵していたケルムスコット・プレス刊行の書籍、三一タイトル、三四冊を示している。印刷と出版は、モリスが晩年に興味をもった工芸の領域であった。そのための私家版印刷工房が、一八九一年一月に、ハマスミスの自宅の〈ケルムスコット・ハウス〉から数軒離れたアッパー・メル一六番地の建物のなかにつくられた。この工房は、ケルムスコット・プレスと呼ばれ、その年の五月末には、右隣の一四番地の〈サセックス・コテッジ〉に移転し、一八九八年まで活動を続けた。モリスは、このケルムスコット・プレスを設立した動機をのちに次のように語っている。

 私は、美に対する明確な要求をもつような本づくりをしたいという望みとともに、一方で同時に、本は、読みやすくあるべきで、奇怪な文字の形でもって目を幻惑させたり、読者の知性を攪乱させたりするようなものであってはいけないという希望をもって、本の印刷をはじめた22

この引用文は、【表2】のなかで最後に挙げている『ウィリアム・モリスのケルムスコット・プレス設立趣意書』の冒頭の書き出しである【図18】。こうした信念に従い、モリスは、ゴールデン・タイプ、トロイ・タイプ、そしてチョーサー・タイプの三種類の活字を考案しただけではなく、ボーダーやイニシャルについても自ら独自のデザインを施し、一八九一年の『輝く平原の物語』から一八九八年の『ウィリアム・モリスのケルムスコット・プレス設立趣意書』までの五三タイトル(未完の試し刷り一タイトルを含む)の本が手動の印刷機で印刷され、この印刷工房から刊行されたのであった。

富本がロンドンに滞在した一九〇九年までに、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の図書館に所蔵されていたケルムスコット・プレス刊行の書籍は、そのうちの三一タイトルであった。そのなかで、【図19】は、『折ふしの詩』の最初の頁である。『ウィリアム・モリスのケルムスコット・プレス設立趣意書』のなかに記述されている解説に従うと、この本は、ケルムスコット・プレスで刊行された二番目のものであり、ゴールデン・タイプを使用し、黒と赤の二色刷り。二ギニーの紙刷りは三〇〇部、約一二ギニーのヴェラム刷りは一三部、それぞれが印刷された。奥付の日付は一八九一年九月二四日で、同年一〇月二〇日にリーヴズ・アンド・ターナー社から販売された。【図20】は、『世界の果ての泉』のなかの頁で、この本は、ケルムスコット・プレスの三九番目の作品。チョーサー・タイプを使用し、黒と赤の二色刷り。バーン=ジョウンズがデザインした四点の木版画が挿入されている。五ギニーの紙刷りについては三五〇部が、二〇ギニーのヴェラム刷りについては八部が、印刷された。奥付の日付は一八九六年三月二日で、同年六月四日にウィリアム・モリスにより販売された。ケルムスコット・プレスにおいて書籍が刊行されるに際しては、ボーダーやイニシャルのデザインや試し刷りが数多くなされているが、【表3】は、そうした関連資料をまとめたものである。一点を除くすべてが、富本がこの博物館を訪問する二年前の一九〇七年に入手されている。

最後に織機について。一八九三年にモリスによってふたつの小型の木製織機がヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ寄贈された。ひとつは、タペストリー用の織機で、「これは、マートン・アビーにおいて、見習いのタペストリー織工に教えるときに使用されていた」23。もうひとつは、カーペット用の織機で、これもカーペット織工を教育するときのもので、マートン・アビーの工房で用いられていた。「この織機は、モリスがつくり上げたフル・サイズの織機を簡便化したものだった」24

以上が、一九〇九年までにヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が収集していたモリス関連の作品や品物の概略である。それでは、これらのものは、富本がこの博物館を訪れたとき、どのような部門のもとに、どの場所に展示されていたのであろうか。

 そうした観点に立って収蔵品は以下の部門に大きく分けられたうえで、管理されていた。――
木工、家具、そして革
金属細工
テキスタイル
建築と彫刻
版画、イラストレイション、そしてデザイン
図書館と造本
絵画
陶器、ガラス、そして琺瑯25

この八つの部門によって、一九〇九年当時のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館における収蔵品は分類され、展示されていたわけであるが、それでは、各部門の作品はどの階に展示されていたのであろうか。このことを知るうえで、『サウス・ケンジントンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館ガイド』(一九〇九年刊行)【図21】は、極めて有効な情報を提供している。【図22】は一階の展示プランで、【図23】は二階の展示プランである。これからもわかるように、「木工、家具、そして革」は一階と二階に、「金属細工」はすべて一階に、「テキスタイル」は一階と二階に、同じく「建築と彫刻」も一階と二階に展示されていた。「版画、イラストレイション、そしてデザイン」の部門は、二階の「七〇室」から「七三室」までが割り当てられていた。「図書館」は、二階の「七四室」が造本の展示室として、「七七室」と「七八室」が閲覧室として利用されていた。そして、「絵画」はすべて二階に、「陶器、ガラス、そして琺瑯」は二階と三階に展示され、地下の階は、「木工、家具、そして革」と「建築と彫刻」のふたつの部門によって利用されていた。

さて、すでに詳述したように、富本が一九〇九年のロンドン滞在中にこの博物館において目にすることができたモリスに関連するものは、家具が一点、ステインド・グラスが四点、刺繍による壁掛けのためのデザイン(下図)が一点、壁紙(サンプル)が一点、タペストリーが二点、ケルムスコット・プレス刊行の書籍が三一タイトル、三四冊、同プレス刊行書籍に関連する資料が一二点、室内装飾の施工例が一点、そして織機が二点であった。それでは次に、これらが展示されていた展示室は具体的には何室だったのだろうか。

ケルムスコット・プレス刊行の書籍は、【図23】にみられる図書館の閲覧室「七七室」か「七八室」の書架か別室の書庫に置かれていたものと思われる。また、同プレス刊行書籍に関連する資料の一二点は、「本のオーナメントは、装飾写本からの一枚物や断片が多数集められて再提示されている(「七三室」)」26という『サウス・ケンジントンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館ガイド』のなかの記述から判断すると、「版画、イラストレイション、そしてデザイン」の部門に割り当てられていた二階の「七三室」に展示されていた可能性もあるし、あるいは、二階の「七四室」が造本の展示室として使用されていたことから判断すると、この部屋に展示されていたと考えることもできる。一方、室内装飾の実際の施工例としての〈グリーン・ダイニング・ルーム〉は、【図22】にみられる「一三室」の向かい側に位置していた。さらに、二点の織機については、展示室に展示されていた記述はなく、収蔵室に保管されていたのかもしれない。

それでは、これ以外の作品、つまり、「セント・ジョージ」のキャビネット、チョーサーの『善女伝』からの三つのステインド・グラス・パネル、同じくステインド・グラス・パネルの《ペネロペ》、刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン(下図)、さらには壁紙(サンプル)、そして《果樹園あるいは四季》と《主を讃える天使たち》の二点のタペストリーは、どの部屋に展示されていたのだろうか。

「セント・ジョージ」のキャビネットは、「木工、家具、そして革」の部門で管理されていたものと思われる。そのうち「五六室」が比較的新しい時代の英国家具が展示されていたようであり、「セント・ジョージ」のキャビネットも、この大きい部屋のどこかに置かれていたのではないだろうか。ステインド・グラス・パネルについては、すべて、三階の「一四三室」の窓に設置されていた。「このギャラリー[一四三室]の東端の小さな窓に、故サー・エドワード・バーン=ジョウンズ氏のデザインに従ってモリス・マーシャル・フォークナー商会が製作したパネル類が、はめ込まれている」と、『サウス・ケンジントンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館ガイド』のなかに明示されているからである27

ところで、富本は、はじめてヴィクトリア・アンド・アルバート博物館において実際のモリス作品を目にしたときの様子をこう書き記している。

サウスケンシントン博物館の裏門から這入つて二階に上がつた左側の室を通つて左に廻つた室が諸種の圖案を列べてある處と記憶します、私は其處で初てモリスの製作した壁紙の下圖を見ました28

このとき富本は、エキシビション・ロードに面した西の入り口からこの博物館に入っている。そして直ぐに階段を上がると、左手が図書館の「七四室」、右手が「テキスタイル」の「一一八室」になる。富本は、左手の「七四室」を通り、「七六室」の手前で左折して、「版画、イラストレイション、そしてデザイン」の部門が展示に使用していた「七〇室」から「七三室」のなかのいずれかの部屋に入り、そこでこの「壁紙の下圖」を見たものと思われる。しかし、ここで富本が見たものは、本当に壁紙の下図だったのであろうか。

すでに詳述しているように、この時期この博物館が収蔵していたモリスの壁紙は、《キク》一点であった。しかしこの作品は、【図13】からもわかるように、全面を多色刷りで印刷されているサンプル・シートなのである。このサンプル・シートをもって富本が下図と判断することは考えにくく、実際に富本が見たものは、下図に相当する別の作品であった可能性の方が極めて高い。その推論が正しければ、残された作品から判断して、それに該当するものは、刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン【図11】以外にはない。なぜ富本が、刺繍の下図を壁紙の下図に見間違ったのかはわからない。この博物館の学芸員なり、中央美術・工芸学校の引率教師なりから与えられた情報が、そもそも間違っていたのかもしれない。しかしいずれにしても、ふたつの作品の表現上の様態から判断して、富本がここで述べている「壁紙の下圖」とは、「壁紙《キク》(サンプル)」ではなく、実際には「刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン(下図)」であったと考えて、ほぼ間違いないであろう。

それでは、刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン(下図)と壁紙《キク》(サンプル)はどの部屋に展示されていたのであろうか。「版画、イラストレイション、そしてデザイン」の部門は、すでに述べたように、展示室として「七〇室」から「七三室」までの四つの部屋を使っていたので、このふたつの作品とも、この四部屋のいずれかの部屋に展示されていたものと思われる。とくに、刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザインは、テキスタイルのデザインを展示する部屋として使用されていた「七二室」に展示されていた可能性が高い。しかし、当時展示作品は頻繁に入れ変えられていたことともあり、明確に展示室を特定することはできない。また、今日と同様に当時にあっても、大半の壁紙やドローイング類は収蔵室に保管され、学生は申し出によって、「七一室」の西隣に設置されていた学生閲覧室で閲覧していたようであるので、実際には、双方の作品とも、展示室の壁面や陳列ケースには展示されていなかった可能性も十分残されている。ちなみに、壁紙《キク》の下図に相当する、水彩によるデザインは、現在ウィリアム・モリス・ギャラリーに収蔵されている。

残る《果樹園あるいは四季》と《主を讃える天使たち》のふたつのタペストリーはどの部屋に展示されていたのであろうか。

 階段室(一二六)に展示されているタペストリーは、ひとつは、ウィリアム・モリスによってデザインされたもので、もうひとつは、サー・エドワード・バーン=ジョウンズによってデザインされたものである。ともに、マートン・アビーのモリス商会の工場で製作された29

「ウィリアム・モリスによってデザインされたもの」というのが、《果樹園あるいは四季》で、「サー・エドワード・バーン=ジョウンズによってデザインされたもの」というのが、《主を讃える天使たち》であろう。展示室は、【図23】にみられるように、クロムウェル・ロードに面した正面入り口から入り、西隣の左手階段を二階に上った「一二六室」であった。

四.富本憲吉のモリス作品を巡る評価

以上において明らかにしたことが、一九〇九年に富本がロンドンに滞在していた時期に、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が収集していたモリス関連の作品とその展示の内容であった。

ところで、富本は英国留学の経緯や目的について、晩年の「自伝」においてこう回顧している。

 徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描き、卒業を目の前に控えて一九〇 ママ ママ 月にイギリスに私費で留学しました。普通の美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは、当時ロンドンには南薫造、白滝幾之助、石橋和訓のような先輩がい、大沢三之助先生が文部省留学生としておられたので、指導してもらうに好都合のためでありましたが、実はそれよりも美術家であり、社会主義者であるウイリアム・モリスの仕事に接したいためでした30

そして、最晩年の「履歴書」のなかでは、次のようにも述懐している。

 留学の目的は室内装飾を勉強することだった。フランスを選ばず、ロンドンをめざしたのは、当時、ロンドンには南薫造、白滝幾之助、高村光太郎といった先輩、友人たちがいたからでもあるが、もう一つ、在学中に、読んだ本から英国の画家 フィ ママ スラーや図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかったからでもある31

ここで注意しなければならないことは、「在学中に、読んだ本から……図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかった」と述べている点である。果たして富本は、モリスに関するどのような本を在学中に読んでいたのであろうか。そして、それらの本に図版として掲載されていたモリスの作品とはどのようなものであったのであろうか。

まず、「在学中に、読んだ本」について。

富本のいう「在学中に、読んだ本」とは、したがって、『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』、「ウィリアム・モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠たち』、および、「パタン・デザイニングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであったか、そのうちの、一冊か二冊だったかの可能性が、現時点で残されることになるであろう32

次に、外国雑誌については、どうだろうか。

……此處例へばコーヒ[ー]器壹揃模樣隨意と云ふ題が出たとして、そう云ふ種類のものならば大抵ステユデオかアール、エ、デコラシヨンを借りてコーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來得る限り早く、……パラパラと只書物を操る。……コーヒ[ー]器の圖案が四五冊を操るうちに二三拾も見つかると、透き寫しするに最も良く出來た蠟引きの紙を取り出して寫眞をひき寫しするのである。……寫した小さな紙片を敎室なり下宿なりに持ち歸つて茶碗の把手を入れかえ、模樣の一部を故意に或は無理に入れかえて、先ず下圖が出來上がつたものと心得て居た33

この引用は、課題製作にあたって外国雑誌からの転写が、在学中日常的に行なわれていたことを示す一文であるが、ここから明らかなことは、英国の美術とデザインに関する専門知識を入手するのに、雑誌『ザ・ステューディオ』が利用されていたことである。

すでに本稿において、一九〇九年当時のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に収蔵されていたモリス関連の作品の一部を図版によって紹介した。巻末には「図版出典」も掲載しているが、改めてここで、それらの図版と出典との関係を、富本が在学中に読んだ可能性のある本と雑誌ごとに整理し、再提示しておきたい。

【図8】と【図9】の〈グリーン・ダイニング・ルーム〉、【図11】の《アーティチョーク》のためのデザイン、【図14】と【図15】のマートン・アビーの工房は、いずれも、『装飾芸術の巨匠たち』に所収されているルイス・F・デイの「ウィリアム・モリスと彼の芸術」から複製されている。また、【図10】の《ペネロペ》、【図19】の『折ふしの詩』の最初の頁、【図20】の『世界の果ての泉』のなかの頁については、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』から複製したものである。そして、【図16】の《果樹園あるいは四季》と【図17】の《主を讃える天使たち》については、『ザ・ステューディオ』からの複製である。出典から明らかなように、以上に挙げたすべての図版は、このロンドンの地に足を踏み入れるに先立って、美術学校時代に富本が実際に見ていた可能性をもつ図版である。「モリスの実際の仕事を見たかった」と富本は述べているが、とりわけこうした図版にかかわって実際のモリス作品を自分自身の目で直接確かめたかったのではないだろうか。

さてそれでは、「図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかった」富本にとって、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で目にしたモリスの作品は、どのように映ったのであろうか。

本人は「壁紙の下圖」といっているが、おそらく見間違ったであろう、刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン(下図)を富本がはじめてこの博物館で見たとき、次のような強い感動を覚えたことを、帰国後の一九一二(明治四五)年に『美術新報』に発表した「ウイリアム・モリスの話」のなかで告白している。

初めて見た時から勿論大變面白いものであると考へて居りましたが、追々と見なれるに連れて、たまらなく面白いと考へました、眞面目な、ゼントルマンらしい、英吉利風な作家の、けだかい趣味が強く私の胸を打ちました34

一方、「履歴書」においても、《アーティチョーク》のためのデザインについて、同様の感想を繰り返し述べている。

 ここで[ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で]モリスの作った 壁紙 ママ の下図を初めて見て英国風の高い趣味に胸を打たれた35

富本がここで言及している「壁紙の下図」もまた、「刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン(下図)」であることは、すでに例証したように、ほぼ間違いないであろう。そうであれば、壁紙の《キク》(サンプル)は、実際に見ていたのであろうか。それはわからない。しかし、帰国後にあってこの作品についての言及がみられない以上、たとえ見ていたとしても、多くの興味をかりたてられるようなことはなかったものと思われる。しかし、偶然であったとしても、このときこの博物館には、日本の天皇家を象徴するエンブレムのモティーフであるキクと、英国とりわけスコットランドを象徴するアザミの一種であるアーティチョーク、このふたつの植物を素材にしたモリス作品が確かに収蔵されていたのであった。

ステインド・グラス・パネルの《ペネロペ》については、どうであろうか。これについても、富本は確かに好感をもった。「ウイリアム・モリスの話」のなかで、こう述べているのである。

 大きい寺や住宅も窓でロゼッチ[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ]やマドックス ブラウン等がやつたスティンド グラスが大分方々にあります、私は小さいものですがモリスとバァンジョンスの合作した『ぺネロープ』[《ペネロペ》]と云ふサウスケンシントン博物館にあるのを大變好きです36

一八六四年にサウス・ケンジントン博物館は、モリス・マーシャル・フォークナー商会が製作した四つのステインド・グラス・パネルを購入している。《眠るチョーサー》《ディードーとクレオパトラ》《愛の神とアルケースティス》、そして《ペネロペ》である。チョーサーの『善女伝』がステインド・グラスの形式で表現された作品は、当時大変人気があり、多くのヴァージョンが製作されていた。このときこの博物館が購入した《眠るチョーサー》《ディードーとクレオパトラ》《愛の神とアルケースティス》のパネルは、現在最も完全な状態で残っているヴァージョンである一八六九年から一八七四年のあいだに施工されたケンブリッジのピーターハウス・カレッジの 談話室 コンビネイション・ルーム にみられる作品と同一のものである。しかし富本は、この三つの作品には言及しておらず、三階一四三室の東端の小さな窓にはめ込まれていた四点の作品のなかにあっては、《ペネロペ》(寸法は五七・〇×五一・五センチメートル)のパネルに強い興味をもった。この作品は、円形の花飾りのなかに貞節な妻を象徴するペネロペの頭部が中央に描かれており、その背後は、定型化されたふたつの植物が上下左右に交互に繰り返されるパタンで構成されている。この植物は、図版で見る限り、デイジー(雛菊)とアーティチョークのように思われる。デイジーは、『善女伝』のプロローグにおいて登場し、〈レッド・ハウス〉のカーテンのデザインにモリスが用いて以来、壁紙にも適応され、モリスの商会にとって最も永続的に使用されたデザインのひとつである。一方アーティチョーク(チョウセンアザミ)は、アカンサス(ハアザミ)やロウタス(ハス)、ハニーサックル(スイカズラ)などと並んで、その後のモリスの壁掛けにとっての重要なモティーフになる植物であった。引用に示したように富本は、「『ぺネロープ』[《ペネロペ》]と云ふサウスケンシントン博物館にあるのを大變好きです」と述べているが、帰国後に製作することになる多様な図案や模様の多くは、人物ではなく植物から成り立っており、そのことから推し量ると、モティーフとしてはペネロペの頭部よりも、むしろこれらの植物の方により強い魅力を感じ取ったのでないだろうか。《眠るチョーサー》《ディードーとクレオパトラ》《愛の神とアルケースティス》の三つのステインド・グラス・パネルにとくに富本が言及していないのも、また同様に、「セント・ジョージ」のキャビネットに言及していないのも、おそらく同じ理由からだったのであろう。さらには、二階の一二六室に展示されていたと思われる《果樹園あるいは四季》と《主を讃える天使たち》の二点のタペストリーに関しても、富本の言及はみられない。それらの作品もまた、人物をモティーフにした物語的場面によって構成されており、このことが富本の関心を強く引かなかった主たる要因となっていると考えても、差し支えないのではないだろうか。

富本はこの《ペネロぺ》を「モリスとバァンジョンスの合作した」作品と認識している。しかし、この作品はバーン=ジョウンズの単独のデザインによるものであり、モリスとの合作ではない。また富本は、この博物館を「ウイリアム・モリスの話」のなかでは「サウスケンシントン博物館」と表記している。すでに正式名称はヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に変更されており、当時一般に、いまだ慣習的に旧名称が使用されていたのであろうが、正式の表記でないこともあわせて、ここで指摘しておきたい。

以上が、【表1】に記載されているモリス関連の作品に関しての富本の評価となるものであった。次に、ケルムスコット・プレスで刊行された書籍については、富本はどのように理解していたのであろうか。「ウイリアム・モリスの話」から断片的に拾い上げてみると、以下のように構成することができる。

 晩年に圖案家としてのモリスのやつた仕事の大きい事は印刷に關した研究と之れの實行でありましよう、……

 表紙模樣、活字の原型から、製本迄細かい處迄殆むど道樂(アマチュアーの面白み)でやり上げた樣な絵本詩集を澤山出版して居ります、……

 モリスは又彼れの圖案や詩に調和した活字の面白いものをこさへ樣と考へて居りましたが、千八百九十年冬終にケルムスコット版と云ふ名の新らしい活字で書物を出版致しました、活字と云ふより一枚一枚皆手のかゝつた模樣と見える樣な大變こつたものです37

そして、新しい活字とそれを使用した印刷と造本については、このような賞賛の言葉を与えているのである。

……モリスのやつた新らしい活字にも此[古代文學]の方面の深い研究が現はれて居ります、これは見た處ゴシック期の復興とも云ふ可きものですが、新らたに混じた彼れの工夫した處が、古い面白みとシックリ結び付いて非常に良い氣持を與へて居ります38

こうした心地よさを、図書館に所蔵されていた、【表2】に示すような、ケルムスコット・プレス刊行の書籍から、富本は感じ取ることができた。さらにはまた、この図書館に所蔵されていた「粉本」からは、富本はどのような印象を受けたのだろうか。

 是れ迄モリス獨りの名となる迄[モリス・マーシャル・フォークナー商会からモリス商会へ改組されるまで]に連中が一生懸命で中世紀寺院の装飾の方法や細部に至る迄細かく研究して居ります、是れ等の尊重す可き澤山な粉本は今大部分サウスケンシントン博物館の美術圖書館に保存されて居ります、其の熱心な粉本を見ました時に私はこの忠實なやり口に関心しました。驚いて発憤した私が受けた無形の利益は決して少なく無いと信じます39

富本が述べている「粉本」とは、下図や画稿を指しているものと思われる。おそらくそのなかには、【表3】に挙げられているような、ケルムスコット・プレスの書籍として刊行されるまでに実験的に製作された、ボーダー、文字、イニシャル、それにオーナメントなどのデザインが含まれていたであろう。それ以外にも、モリス商会に集うモリスの仲間たちが手がけた「粉本」もこの図書館で目にすることができたであろう。いずれにしてもそれらは、富本に奮起を促すほどの大きな衝撃を与えるものであった。

それでは最後に、モリス・マーシャル・フォークナー商会によって施工された〈グリーン・ダイニング・ルーム〉については、どうだったのであろうか。

まずは、モリスの模様について。

……モリスは常に「百合模樣」とか「雛菊模樣」とか非常に模樣化されたものをやつて居ります、非常な熱心で初められた此の新らしい試みは大畧研究がすむだ頃から世の中に知られて來て實際の室内装飾に使はれる事となりました40

そして、〈グリーン・ダイニング・ルーム〉について。

 此の頃に出來たサウスケンシントン博物館の食堂は[モリス・マーシャル・フォークナー商会の]連中が各部の飾りを受け持つてやつた見る可き例であります41

富本は、この食堂で食事をし、ひとときの休息を楽しんだことであろう。モリス研究のあとの高揚した気持ちを静かに持続させる空間として、この〈グリーン・ダイニング・ルーム〉ほど富本にとって適切な場所はほかになかったのではないだろうか。

五.オリジナリティとアーティチョークを巡って

しかし富本は、モリス作品に対して、終生一貫して賞賛したわけではなかった。ロンドン留学から約半世紀が経ったのち、富本は、晩年の一九五六年に口述された「自伝」のなかで、次のように「モリスの芸術」について述懐している。

 モリスの芸術はどうもオリジナリティが乏しいので期待はずれでした。それでも彼の組合運動などを[ロンドンでは]調べてきました42

留学に先立ちモリスの社会主義の概略についてすでに知識を手にしていた富本は、思想の革新性と同様に、芸術においても過去を否定した進歩性の存在を期待していたのかもしれない。しかし、基本的に伝統に根拠を置いたモリス作品は、そうした富本の期待を大方裏切るものであったのであろう。「セント・ジョージ」のキャビネット、《ペネロペ》以外の三つのステインド・グラス・パネル、そして《果樹園あるいは四季》や《主を讃える天使たち》のようなタペストリーといった作品に対して、帰国後の富本が言及していないことをもって、その証左と考えることもできる。その結果富本は、そうした「モリスの芸術」に失望することになり、それに取って代わって「彼の組合運動」へと自らの関心を向かわせていったのではないかと考えられないわけではない。

「組合運動」とは、社会主義運動のことを指しているのであろうが、富本がモリスの社会主義にかかわって、ロンドンで何を調べ、日本に何を持ち帰ったのかは、それを構成するにふさわしい直接的な資料が乏しく、残念ながら、ここで明確にすることはできない。富本の社会主義理解の実際については、留学以前にどのようにこの思想に共感し、知識を得ていたのかをふまえたうえで、帰国後の嶋中雄作、木下杢太郎、津田青楓、沖野岩三郎、西村伊作などとの交友関係、妻一枝との思想的葛藤、大衆の日常生活を念頭に置いた大量生産への果敢な挑戦、太平洋戦争にかかわっての身の処し方といった多様な文脈において、今後検証されなければならず、したがってここでは、「モリスの芸術はどうもオリジナリティが乏しいので期待はずれでした」という文言の意味内容に限定して検討を進めたいと思う。

富本は、同じく晩年の一九六一年の「座談会」において、ロンドン時代を回顧するなかで、モリス作品のオリジナリティの欠如について再び触れて、こう発言している。

 あれ[モリス]の作品を見たときは失望しました。ことに図書館で植物のものを見たら、そっくりそのまま使用しているんですからね。古い西洋のものですけれどもね。それでモリスという人は理屈だけをいう人で、オリジナリティのない人だと思いました。オリジナリテ[ィ]のない人は、こっちはもうひどくいやなんですからね43

富本が、モリス作品におけるオリジナリティの欠如について言及したのは、この二回のみである。それでは具体的には、どのモリス作品のどのようなところに富本は失望したのであろうか。つまり、モリスをオリジナリティのない人とみなした富本の根拠とは、一体何だったのであろうか。

モリスの伝記作家であるフィリップ・ヘンダースンは、モリスのサウス・ケンジントン博物館での研究の様子を以下のように叙述している。

 彼[モリス]も[フィリップ・]ウェブも、ともに率直に認めていたように、ふたりは、サウス・ケンジントンにおいてサー・ヘンリー・コウル、のちにはJ・H・ミドルトンによって収集された展示物のなかから、自分たちが手本とすべき多くのものを見出した44

モリスは、過去の作品を研究し、自己の製作の手本を探索する場としてこの博物館を活用した。そしてまたモリスは、その博物館内の図書館へもしばしば通ったことだろう。レイ・ワトキンスンは、自著の『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』のなかで、モリス自身の蔵書本でもあった、ジョン・ジェラードが収集した植物によって構成された『草本誌つまり植物の概略史』のなかの一頁を図版として挙げたうえで、「彼[モリス]は、染織術を学ぶ際のひとつの情報源としてこの本を利用したし、この本が、パタンのアイデアを得るためのひとつの源泉となっていたとも考えられる」45との指摘をしている。この『草本誌つまり植物の概略史』【図24】という本は、長いあいだ読み継がれてきた最も著名なイギリスの草本誌である。一五九七年にジョン・ジェラードによって出版され、一六三三年には、トーマス・ジョンスンによってオリジナル・テクストに手が加えられ、さらに内容が充実した改定版が出版された。この改定版には、おおよそ二、八五〇の植物が取り上げられ、約二、七〇〇のイラストレイションが掲載されている。まさにこの本は、ルネサンス植物学の恒久の記念碑となるものであった。最近にあっては、一九七五年に、その復刻版も出版されている。ワトキンスン以外にも、モリスがタペストリーや壁紙を製作するにあたってこの本を参照していたことを指摘している研究者は数多く見受けられる。今日までにあっては、こうした示唆はまさしく一種の伝説ともなっているのである。

富本が批判の対象としているのは、間違いなく、モリスの植物をモティーフにした作品であろう。そして、富本がいっている「図書館で植物のものを見た」という指摘内容は、ほぼ間違いなく、その博物館の図書館が所蔵していた『草本誌つまり植物の概略史』のなかに掲載されていた植物の図版のことであったといえるであろう。そうであるとすれば、それに該当する植物は、おそらく二階の「七二室」に展示されていたであろうと思われる、壁掛けのためのデザインのモティーフであるアーティチョーク以外にはない。なぜならば、壁紙のモティーフに使用されていたキクは、すでに述べたように、だいたい一八世紀末から一九世紀のはじめころに中国と日本からイギリスに伝わった新しい植物であり、当然ながら、この『草本誌つまり植物の概略史』には記載されていないからである。富本は、この下図を見ると、すぐにも「七七室」か「七八室」の図書館の閲覧室に入り、『草本誌つまり植物の概略史』の頁をめくり、アーティチョークの図版【図25】(【図26】)を発見したものと思われる。上に挙げたワトキンスンをはじめとする、モリスと『草本誌つまり植物の概略史』の関係性について示唆している多くの研究者の見解に従うならば、《アーティチョーク》のためのデザインを製作するに際しても、モリスが『草本誌つまり植物の概略史』のなかのアーティチョークの図版を参照していた可能性は十分にありえるものと思われる。しかし、【図11】と【図25】(【図26】)とを引き比べた場合、モリスのデザインは、源泉や参照となるものが何であったのか、その痕跡をとどめないほどまでに明らかに進化し、富本が指摘する、「そっくりそのまま使用している」とは、一見して認めがたい、独自のものになっているのである。

ヘンダースンは、モリスの過去を参照する行為と実際のモリス作品との関係について、こう指摘している。

それ[サウス・ケンジントン博物館はモリスにとって大きな存在であった]にもかかわらず、モリスの個性は、多くのデザインのなかにとても力強くはっきりと現われている。そのために、こうした伝統への依存によって、デザインの新鮮さやのびやかさが損なわれるといったようなことはほとんどありえない。――その主たる理由は、彼の場合、パタン・デザイニングの才能が自然への強い関心と分かちがたく結び付いていたことにあった46

富本はモリス作品への失望の根拠として、「図書館で植物のものを見たら、そっくりそのまま使用している」ことを挙げているが、ここに、ふたつの疑問が生じてくる。ひとつは、「図書館で植物のもの」といっているのは、おそらく『草本誌つまり植物の概略史』であろうが、どのようにしてこの書物の存在を富本は知るに至ったのであろうか。いまひとつは、モリスの《アーティチョーク》のためのデザインと『草本誌つまり植物の概略史』のなかのアーティチョークの項目に掲載されている図版とを見比べて、富本は本当に独力で両者の類縁性を見抜くことができたのであろうか。これらのことは、特別の知識や情報の介在なしには、とうてい不可能だったように推量される。おそらく、モリスの作品と『草本誌つまり植物の概略史』との関係を知り得る立場にあった、たとえば、この博物館の学芸員か富本が当時通っていた中央美術・工芸学校の教師のような人から助言なり、教示なりを得て、「図書館で植物のものを見たら、そっくりそのまま使用している」ことに結果として気づかされ、再確認したのではないだろうか。

一方、帰国すると富本は、モリスが使っていたこのアーティチョークのモティーフを自らの模様のなかに取り入れ、愛用することになる。

□表紙に使用した模樣は歐洲で食用にする『アーキチヨーク』という果實の蕾です。
□私は南英吉利旅行の際、高き太き逞ましきこの花を見て獨り旅の淋しき情に打たれました。其後京都で友人西川一草亭氏に會ひ、其花園で此花を發見した時は舊友に逢つたやうに思ひました。名を聞けば『朝鮮薊』と答へました。私は早速同氏から苗を分けて貰つて歸りました。
□此樣な片田舎[安堵村]で、陶器に隠れてゐる私は此の花を愛し此の葉を愛し、大分澤山模樣の用に立てました47

ここで引用したものは、一九一八(大正七)年に刊行された沖野岩三郎の『煉瓦の雨』の表紙絵【図27】にアーティチョークを使用した富本の、巻末に掲載されている跋文の一部である。これによると、富本は、時期を正確に特定することはできないが、帰国後、イギリスで見たアーティチョークを京都の友人宅の花壇で再発見し、苗を持ち帰っている。日本にあっては自生していなかったと思われるこの外来種のアーティチョークを、果たして、うまく安堵村へ移植し、苗から栽培することができたのであろうか。この点は疑問の残るところである。ひょっとすると富本は、モリスのアーティチョーク・パタンを模写していたかもしれないし、そうでなかったとしても、ロンドン滞在時にこのアーティチョークを食しただけではなく、野外なり台所なりにおいて直接写生するか、あるいは、美術学校時代の文庫で行なっていた要領で、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の図書館においても『草本誌つまり植物の概略史』のなかのアーティチョークの図版を転写し、それらのスケッチを日本に持ち帰っていたのではないだろうか。というのも、翌年の一九一九(大正八)年に刊行された同じく沖野岩三郎の『宿命』の表紙絵【図28】も富本によって描かれているが、その巻末に、「富本憲吉氏より著者へ」という、一種謎めいた、意味深長な一文が掲載されているからである。

 表紙の薊は本年夏、大和伊賀の國境に近き一寸した高原にて發見致し候薊にて、氣候の關係にて花は總てうつむき咲けるが驚かれ申候。小生の村より僅かに四里、山へ登るだけにて既に氣候もちがひ又有樣から彩まで違ふ事貴兄の所謂宿命に近からんと思われ一氣に描き上げ候。……因みに模樣のモテーブは『サワアザミ』と申す由に候48

一九一九(大正八)年の夏、富本は、偶然にもサワアザミを知った。同じアザミではあっても、これは、花を天に向けて咲かせるアーティチョーク(チョウセンアザミ)とは異なり、首を垂れるように、地に向けて花を咲かせるアザミであった。なぜこの発見が、沖野の書題にある『宿命』同様に、富本にとって「宿命」となる出来事だったのであろうか。

帰国後しばらくすると、富本は、自分の製作態度に大きな疑問を感じ取り、苦悶している。

 今迠やって来た自分の模様を考へて見ると何むにもない。実に情け無い程自分から出たものが無いのに驚いた。……学生時代の事を思ひおこすと先生から菊ならば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑誌――を見る……。全体見たあとで好きな少し衣を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の場で二つ混じ合したものをこさえて自分の模様と考へ[て]居た事もある。……人も自分も随分平氣でそれをやった。近頃は一切そむな事が模様を造る人々にやられて居ないか、先づ自分を考へるとタマラなく恥かしい。……
一切の製作を止めて暗い台處から後庭に光る夏の日を見ながら以上の考へにつかれた自分は旅に出た49

この「模様雑感」が南薫造に宛てて出されたのは、一九一三(大正二)年のことであった。それ以降、富本は、過去の作品や他人の作品、そして外国雑誌のなかの作品を参照する製作態度を厳しく戒めていく。富本にとって、このときのサワアザミとの遭遇は、外国種であるアーティチョークから離れることの可能性を、つまりは、モティーフという点においてイギリスからもモリスからも一定の距離を置くことの可能性を意味していた。もしそうであるとするならば、それは同時に、「模様から模様を造らない」という、この間一心に追及してきた製作理念が、さまざまな試練と苦悩を経て、やっとこうしてこの時期に、実質的に自分のものとなり得ることの帰結性を意味するものでもあった。おそらくそのことを富本は、己のまぎれもない「宿命」として受け止めたのであろう。

そうした視点を踏まえたうえで、再度一九六一(昭和三六)年の「座談会」における富本のモリス批判の言説へと立ちもどらなければならない。中段の「ことに図書館で植物のものを見たら、そっくりそのまま使用しているんですからね。古い西洋のものですけれどもね」という言説は、確かに、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館での体験談であろう。しかし、「あれ[モリス]の作品を見たときは失望しました」という前段と、後段の「それでモリスという人は理屈だけをいう人で、オリジナリティのない人だと思いました。オリジナリテ[ィ]のない人は、こっちはもうひどくいやなんですからね」という、それに対する感想は、そのとき同時に富本の心に湧き出でた思いではないのではないだろうか。というのも、ロンドンに上陸する直前の美術学校時代に製作した、一九〇七(明治四〇)年の東京勧業博覧会への出品作《ステインド・グラス図案》も、一九〇八(明治四一)年の卒業製作《音楽家住宅設計図案》も、ともに外国雑誌に掲載された作品の参照や転写の痕跡が認められ、一九〇九(明治四二)年のロンドン滞在中には、いまだそうした行為に対する批判力は、富本のなかに養われていなかったと思われるからである。そうであるとするならば、この言説は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で知り得たモリスの製作手法に対して、そののちに形成された批判力でもって言及した内容として理解されなければならないことになる。これは確かにモリスの方法論への批判であり、「ウイリアム・モリスの話」における論調とは異なる。それにしてもなぜ、博物館での体験から、そして「ウイリアム・モリスの話」の執筆から、おおよそ半世紀も経っているこの時期に、唐突とも、前言を翻しているとも思える、そうした批判をしなければならなかったのであろうか。必ずしもそこには、十分な合理性や必然性があるわけではないのではないだろうか。もしそうであるならば、この富本の言説は、直接モリスに向けられた実質的な批判というよりは、若かりし日に自分に向けた批判にかかわる、モリスの一側面を借用しながらの形を変えた一種の追憶であり、その後の富本が長きにわたって堅持しようとしてきた信念や戒めの率直な開陳の繰り返しとして解釈することの方が、より自然なように思われてくる。「座談会」でこのような発言をしたとき、富本の脳裏にアーティチョークのことが頭を過ぎったかどうかはわからないが、富本にとって、この植物が自分とモリスとを切り結ぶ、ひとつの具体的な結節点となっていたことは、おそらく本人の内面にあって終生意識されていたのではなかろうか。

その翌年の一九六二(昭和三七)年に、つまり死去する前年に発表された「履歴書」には、モリス批判に相当する記述はもはや認められず、すでに引用したように、「ここで[ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で]モリスの作った 壁紙 ママ の下図[刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン]を初めて見て英国風の高い趣味に胸を打たれた」と富本は改めて述懐しており、帰国後の一九一二(明治四五)年に執筆した評伝「ウイリアム・モリスの話」におけるモリス評価の論調へと再び回帰することになる。まさしくアーティチョーク・パタンこそ、富本にとって、英国留学を象徴する模様であり、同時に、その後のオリジナリティを追及するうえでの原点となる模様だったのである。


第二章 図版

(1)牧野義雄(1869-1956年)は、1893(明治26)年にサンフランシスコに向け出航、この地で美術を学び、1897年に、ニューヨーク、パリを経て、ロンドン到着。幸いにも、日本海軍の事務所で昼間働く機会に恵まれ、夜は、美術の勉強のために、サウス・ケンジントンの王立美術大学(1896年に国立美術訓練学校が再編成され、以降この名称へ変わる)、ニュー・クロスのゴールドスミス・インスティテュート、そしてその後、リージェント・ストリートの中央美術・工芸学校へ通う。しかし、1901年、同事務所の閉鎖に伴い失職し、困窮生活に陥る。翌年には「文字通り赤貧洗ふが如き状態であつた」(野口米次郎『霧の倫敦』第一書房、1926年、11頁)。食べることさえできず、自殺を考えるまでに至ったちょうどそのとき、偶然にも牧野の才能は、『美術の雑誌 (The Magazine of Art)』の編集長であった、美術評論家のM・H・スピルマンに見出され、1904年の同誌において作品数点が紹介されることになる。その後さらにスピルマンは牧野に対して、『ロンドンの色彩 (The Colour of London)』の出版のための便宜をはかり、翌年の1907年にその本が出版されると、掲載された作品が美術界や社交界で評判を呼び、一躍牧野はロンドンの著名人となっていく。それ以降、主として第1次世界大戦が勃発する時期までにあって、画家として、また著述家として、牧野は成功の道をひた歩むことになる。
多くの出版物のなかに掲載されている牧野の作品のうち、とりわけ、この『ロンドンの色彩』に挿入された60点の作品と、続く1912年に出版された『ロンドンの魅力 (The Charm of London)』のための12点の挿画は、富本憲吉が滞在したほぼ同時期のロンドンの雰囲気や街並みの様子を色彩豊かに伝えており、富本が体験したロンドンの都市空間を語るうえで欠かせない絶好の視覚資料として利用することができる。

(2)帰国後富本憲吉は、南薫造に宛てた1912(大正元)年12月13日付の書簡のなかで、「三橋文造の傳」と題された自伝小説を書いていることを伝えている。以下の引用は、その自伝小説の内容に触れた一節の一部であるが、この箇所から、富本を乗せた船は、ロンドンのアルバート・ドックに接岸され、そのとき埠頭には、友達の南が迎えにきていたものと推量される。
「昨日の處は僕の父が三拾歳と云う若い年で六人の子供を残して死ぬ處で……これから……アルバァートドックで小さく待って居て呉れた友達や、……の事などを書いて行くつもり。」(『南薫造宛富本憲吉書簡集』大和美術史料第3集、奈良県立美術館、1999年、59頁。)

(3)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、2頁。

(4)同書、6頁。

(5)イギリス日本大使館には、戦前の邦人在留の記録がほとんど残されておらず、したがって、富本憲吉が提出したであろうと思われる「在留届」も、確認されていない。そのため、この点からも、富本のロンドン上陸がいつだったのかを特定することはできない。

(6)この住所表示に関して、南薫造は、次のように日記に書き記している。
「[明治四一年]六月十一日 今日よりチェインウォークを引きはらってオンスロースチュディオへ住む事になつた。No. 11 Onslow Stadios Kings Rord Chelsea S. W. London」(岡本隆寛「南薫造日記について」、岡本隆寛・高木茂登編『南薫造日記・関連書簡の研究』調査報告書、1988年、21頁。)
一方、1908(明治41)年11月16日付の南に宛てた富本憲吉の書簡の封筒には、「Onslow Studios 183 King’s Road Chelsea, London. S. W. England」と記載されている。(『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、8頁。)
以上のふたつの資料から判断すると、当時南が住んでいた住所は、「No. 11, Onslow Studios, 183 King’s Road, Chelsea, London, SW」となるのではないだろうか。
なお、このオンスロウ・ステューディオについて、富本は次のように述懐している。「この畫室は全く殺風景な汚いので有名だつた。其處で二人[南薫造と白瀧幾之助]から[バーナード・]リーチの話を聞いた。」(富本憲吉「六代乾山とリーチのこと」『茶わん』第4巻第1号、1934年、63頁。)

(7)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、198頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に連載。]

(8)同書、199頁。

(9)Anna Somers Cocks, The Victoria and Albert Museum: The Making of the Collection, Windward, Leicester, 1980, p. 3.

(10)The Victoria and Albert Museum: A Bibliography and Exhibition Chronology, 1852-1996, compiled by Elizabeth James, Fitzroy Dearborn Publishers, London, 1998, p. xiv.

(11)Linda Parry ed., William Morris, Philip Wilson Publishers, London, 1996.

(12)Ibid., p. 129.

(13)Ibid., p. 244.

(14)Lewis F. Day, ‘William Morris and his Art’, Great Masters of Decorative Art, The Art Journal Office, London, 1900, p. 18.

(15)Lealey Hoskins, ‘Wallpaper’, Linda Parry ed., op. cit., p. 202.

(16)モリス商会は、一八九六年のモリスの死以降も存続し、最終的には一九四〇年に清算されている。そのことは、一九〇九年から翌年にかけてのロンドン滞在中に富本憲吉がオクスフォード・ストリートのこのショウルームを訪ねることができた可能性を示している。しかし富本は、「私がイギリスへ行ったときは、モリスが死んで間もない頃でしたけれども、だれもモリスのことはいわなかった。まだ刺繍なんかやる学校―モリスの奥さんが建てたんですけれども、あれはありました。またモリスの事務所もあつたようです。」(富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年――作陶五十年展を記念して」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁)と、短く回顧しているにすぎない。この「事務所」がショウルームを意味している可能性は高い。もしそうであれば、この回顧から、富本は、その存在は知っていたものの、実際には足を運んでいなかったことがわかる。そうした仮定に立つならば、ロンドンの地で富本が実際に見ることができたモリス作品は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館がその当時までに収集していた作品に、ほぼ限定されることになる。ただし、富本が在籍していた中央美術・工芸学校がモリス作品を当時収蔵していたかどうかについては、現時点では未調査。

(17)Linda Parry ed., op. cit., p. 288.

(18)Ibid., p. 289.

(19)Ibid., p. 288.

(20)Ibid., p. 290.

(21)Ibid., p. 290.

(22)A Note by William Morris on his Aims in Founding the Kelmscott Press, Reprinted MCMLXIX by Photolithography in the Republic of Ireland at the Irish University Press, p. 1.

(23)Linda Parry ed., op. cit., p. 287.

(24)Ibid., p. 278.

(25)Guide to the Victoria and Albert Museum, South Kensington, London: Printed for His Majesty’s Stationery Office by Eyre and Spottiswoode, LTD., 1909, p. 3.

(26)Ibid., p. 33.

(27)Ibid., p. 53.

(28)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』第11巻第4号、1912年、14頁。

(29)Guide to the Victoria and Albert Museum, South Kensington, London: Printed for His Majesty’s Stationery Office by Eyre and Spottiswoode, LTD., 1909, p. 21.

(30)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年9月12日。

(31)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、198頁。

(32)中山修一「富本憲吉の英国留学以前――ウィリアム・モリスへの関心形成の過程」『表現文化研究』第6巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2006年、46頁。

(33)富本憲吉「記憶より」『藝美』1年4号、1914年、9頁。

(34)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」、前掲評伝、同頁。

(35)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、199頁。

(36)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」、前掲評伝、20頁。

(37)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年、26頁

(38)同評伝、26-27頁。

(39)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」、前掲評伝、19頁。

(40)同評伝、20頁。

(41)同評伝、同頁。

(42)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、前掲書、同頁。

(43)富本憲吉、式場隆三郎、対島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年(続)」『民芸手帖』40号、1961年9月、44頁。

(44)Philip Henderson, William Morris: His Life, Work and Friends, Thames and Hudson, London, 1967, p. 65.[ヘンダースン『ウィリアム・モリス伝』川端康雄・志田均・永江敦訳、晶文社、1990年、109頁を参照]

(45)Ray Watkinson, William Morris as Designer, Studio Vista, London, 1967, caption of figure 78.[レイ・ワトキンソン『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』羽生正気・羽生清訳、岩崎美術社、1985年、図78のキャプションを参照]

(46)Philip Henderson, op. cit., p. 65.[ヘンダースン、前掲訳書、109-110頁を参照]

(47)富本憲吉「アーキチヨーク」沖野岩三郎『煉瓦の雨』福永書店、1918年、[19]頁。

(48)「富本憲吉氏より著者へ」沖野岩三郎『宿命』福永書店、1919年、巻末。

(49)『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、74-76頁。