すでに述べてきたように、 月份牌 ( ユェフンパイ ) は最初、外国の船舶会社が中国で業務を展開するなかにあって、とくに船の出入港の日程にかかわって、西洋の暦を中国の暦へと変換する役割をもった印刷物の商品として、一八七〇年代の半ばころに上海に出現した。そして一八八〇年代に入ると、月份牌は呂宋票や『申報』などの景品として利用されながら、新たな展開へと入っていった。一方、二〇世紀を迎えるころになると、中国の印刷業において、大きな進展が見られるようになる。それは、商務印書館と日本の印刷会社との合弁のなかから、つまりは資金や人材、技術などの新たな協力関係のなかから生み出されていった。こうした出来事は、月份牌の印刷にとって、その後の発展へ向けての大きな推進力となるものであった。
印刷と出版を業務とする商務印書館は、光緒二十三年(一八九七年)、 夏瑞芳 ( シャ ルイファン ) や 鮑咸恩 ( バオ シャンエン ) などの七人により上海の地に創設された1。創業当時は、簡単な小型手動式の印刷機二、三台があるのみであった。一九〇〇年、同館は、同じ上海で活動していた日本資本の修文書館を低価格で買収し、規模を拡大した。同時に業務内容も、印刷と出版の分野から、さらに印刷材料の小売りの分野へと拡げられた。そして同館は、光緒二十九年(一九〇三年)に日本の金港堂と合弁し、二年後の一九〇五年には正式に株式会社として改組し、強大な組織となった。この合弁は、資本の面においても、また技術の面においても、同館に大きな転機をもたらし、そのことは、結果として、それまで中国の印刷技術をリードしていた点石斎石印書局を圧倒することになった。
合弁する一年前の明治三五年(一九〇二年)に、いわゆる「教科書事件」が日本で起きている。この贈収賄事件は、二〇社以上の日本国内の出版社を巻き込み、一〇〇名以上の者に有罪判決が下され、その後の国定教科書制度のきっかけとなるものであった。実は、金港堂自身も、この事件に関与していた出版社のひとつであった。したがって、一九〇三年のこの商務印書館と金港堂の合弁は、残されている資料が少ないために、必ずしも判然とはしないが、日本の側からすれば、贈収賄に関与していたがために日本での活動が狭められていた人たちを中国に送り込むメリットがあり、そして一方、中国の側からすれば、日本の資本と技術を導入するメリットがあったといえる。そうした背景のなかにあって、長尾太郎と小谷重は、事件ののちに、商務印書館で中国の教科書編集の仕事に携わることになる。とりわけ長尾は、一九一四年までの長い期間、商務印書館で仕事をした。
『申報』は、この「教科書事件」について一箇月半にわたり継続的に報道した。このことからして、当時の中国においても、日本の「教科書事件」がかなりの影響をもたらしていたことが想像できる。それぞれの記事の分量はそれほど多くはなかったが、金港堂の名前は頻繁に登場し、同社元社長の原亮三郎、その父親である原亮一郎、重役の小谷重なども実名でもって報道されている2。そして報道の口調からわかるように、金港堂をはじめ事件に関連した各会社に対して、さらには官僚に向けて、『申報』はかなり強い批判を展開していた。
そのため、金港堂と商務印書館のこの合弁は、商務印書館にかなり有利な条件で推移することになった3。日本側は、一〇万元の資金を出した。商務印書館は総資産を五万元とし、さらに現金五万元を追加して、一〇万元にまで補足した。合弁初期は、日中双方、ともに二人の理事を指定して理事会を結成した。日本側は、原亮一郎と加藤駒二、中国側は、 印有模 ( イン ユウモ ) と夏瑞芳であった。しかし、その後の理事会の構成を見ると、一九〇七年には理事五人のうち中国は三人で日本は二人。一九〇八年には理事三人のうち中国は二人で日本は一人。一九〇九年には、理事会の七名全員の理事が中国人となった。日本人理事の人数が減った理由として、ふたつのことが考えられる。ひとつには、中国側が続けて増資することにより、商務印書館における日本側の資金比率が次第に減っていったこと。もうひとつは、新政府の新しい法令により、合資会社では外国人が理事になることが禁止されるようになったことである4。中国側は日本投資者を計画的に理事会から排除しながら、日本人の顧問や技師を随時に解雇できる権限をもつことが合弁条件のひとつとして出されていた5。商務印書館の創立者のひとりである 高翰卿 ( ガオ ハンチン ) も、一九九二年刊行の『商務印書館九十五年――我和商務印書館』のなかの「本館創業史――在発行商所学生訓練班的演講」において、商務印書館が日本の印刷会社である金港堂と合弁した理由に関して、「一時的な措置であり、ひとつには、外国人の知識を利用して印刷技術を学ぶためであり、もうひとつには、外資を借り入れることにより資本を充実させるためであった」6と述べている。このように商務印書館は、組織の規模においては、この合弁によって、金港堂の資金と技術を十分に利用して増強を成し遂げたものの、会社の政策決定権や経営権については、いっさい日本側に渡すことはなかった。この合弁によって生み出された商務印書館と金港堂との位置関係は、光緒三十一年(一九〇五年)に『申報』に掲載された商務印書館の以下の広告からも見ることができる。この広告は、金港堂との合弁について全く触れられていないばかりか、金港堂の名前さえ挙げていない。代わりに、日本の印刷技術を輸入したことを堂々と述べているのである。
カラー地図、有価証券、月份牌、および写真銅版(を使った印刷物)を印刷したい方への朗報。 当館は、最近日本の東京から多色石版印刷や写真銅版に熟練した技師を十数名招聘しました。製作された作品は、いずれも素晴らしいものであり、有識者に大いに称賛されました。各省の役所あるいは民間企業において、もし上記の印刷物を必要とされる場合には、どうぞこちらまでいらしてください。安くて品質がよく、必ずご希望に沿うことと思います。ぜひ当館までお出かけください。 上海商務印書館7。
一九三一年の商務印書館刊の『最近三十五年之中国教育』に所収されている 賀聖鼐 ( ヘ シィンナイ ) の「三十五年来中国之印刷術」によると、二〇世紀のはじめに上海で発行されていた多色石版印刷の月份牌は、次のような状態にあった。「市場で発行されるカラーの石版印刷の月份牌は、すべてその原稿を、雲錦公司を通じてイギリスのカラー石版印刷局に送り、そこで印刷してもらった」8。一方、中国における最初の高精度の多色石版印刷は、その後の光緒三十年(一九〇四年)に文明書局によって行なわれることになり、その技術は「中国人が日本の技師から教わった」9もので、「印刷された図案は、色彩や明度の濃淡が鮮明であり、もともとの古い原画とほとんど見分けがつかない」10ほどであった。さらに同書の記述するところによれば、その後の光緒三十一年(一九〇五年)に商務印書館は、和田樠太郎、細川玄三、岡野、松岡、吉田武松、村田および豊室らの日本技師を招き、彼らから多色石版印刷の技術を習得していた11。
上で示した商務印書館の広告が『申報』に掲載された時期(一九〇五年)と「三十五年来中国之印刷術」の記述にある日本人技師が商務印書館に派遣された時期(一九〇五年)とが一致することにより、この時期(一九〇五年)を起点として、和田樠太郎や細川玄三といった日本人の技師たちが持ち込んだ多色石版印刷が、月份牌に適用されたものと考えられる。
このようにしてできた月份牌が、中国におけるはじめての多色石版印刷による月份牌であった。高翰卿は、合弁後「日本から技師が派遣され、写真製版、原版製版――銅版製版、ツゲの木彫り版等の多色印刷技術が持ち込まれ、これまでわれわれにはなかった技術のすべてを習得することができた」12と、自社の印刷技術の向上を回想し、さらには、「とくに多色石版印刷は、当時の中国にはまだなかったものである。今日にあって人びとが知る精巧かつ華美な月份牌もその多色石版印刷であり、我が社が中国でそれを製版印刷した第一人者である」13と、証言している。
先ほど紹介した賀聖鼐の「三十五年来中国之印刷術」によると、日本人をとおして伝わった多色石版印刷技術には、二種類があった。ひとつは「光石法」(磨き石版)で、もうひとつは「毛石法」(砂目石版)であった。「光石法」はおおよそ次のとおりである。まず、転写紙やゼラチンシートに先の尖ったペンのようなもので原図の輪郭線や色の境界部分を詳細になぞり、それをインキでよく磨いた石版に転写して捨て版をつくる。その捨て版を、色の数に応じた数の艶紙に印刷し、さらに紅殻粉を用いて必要な数だけ原版に転写する。その後、原図を見ながら原版で各色の濃淡を付け、順番に色を印刷することによって、カラーの印刷物が完成する。「ぼかし」の表現を要する箇所では、ふたつの方法が用いられた。ひとつは、同じ大きさの点を使う場合には点の密度を少しずつ変化させることによって「ぼかし」を表現し、いまひとつは、用いる点の大きさそれ自体を変えることによって「ぼかし」の効果を得ようとするものであった。
「毛石法」は「光石法」とほぼ同じ手順で製版がなされるものの、石版の表面に金鋼砂でざらざらとした砂目をたてておき、尖ったペンを使わずに、ゼラチンシートとクレヨンを用いて製版する。そのため、「ぼかし」はコンテチョークや木炭を使った効果と大きな差はなかった。
大正二年(一九一三年)には、日本の印刷界においても、月份牌は注目されていた。
……月份牌と云つて恰度我国の商人が新年に華客へ送る柱暦の様な種類のもので精巧華美な大形石版物がある。……前に云つた月份牌は非常に華麗を尊重するもので、尤も綺麗に仕上げねばならぬ必要からインキは大抵独逸製の優良品を使つて居る14。
この時期の月份牌の印刷に用いられた技術は、先述べたように、日本から導入された近代的な多色石版印刷に関する技術であった。そして、上の引用からもわかるように、インキもまた、高い画質を得るために、ドイツ製の優良品が用いられていた。一方、月份牌自体は「大形石版物」(菊全判)であり、そのために、高性能の印刷機械が求められたと推測される。こうして、二〇世紀の一〇年代の半ばまでにあって、明らかに月份牌は、質において、より大きな飛躍的発展をとげたのであった。
第一節で述べたように、二〇世紀に入ると、商務印書館などの印刷会社が積極的に外国の印刷技術を輸入することによって、中国の近代印刷技術は、飛躍的な進歩を果たした。当時すでに上海の印刷会社は、その数も多く、技術が進んでおり、精巧な月份牌を印刷することができるようになっていた。たとえば、一九一一年七月二五日の『申報』に、次のような集成図書公司印刷所の広告が掲載されている。
集成図書公司は各種印刷品をお引き受けいたします。 当社は、完全華商資本で集合した会社です。利権が外国へ流失することを恐れ、印刷業の発展をはかるために、大金を惜しむことなく、ドイツの有名工場から彫刻、メッキ、凹凸版などの各種新式機械を購入しました。さらに、外国技師を雇い、お客様の大事な印刷品を製作いたします。数年の改良をへて、去年の南洋で行なわれた博覧会で、当社が印刷した凹凸版の紙幣、小切手、証券、株券、証明書などの作品が展示され、そして最優秀賞をいただきました。商戦時代の今日にあっては、印刷品の使用範囲は日々多くなってきました。もしご利用いただければ、必ずや細心の注意を払って製作し、低廉な値段でお客様のご愛顧に応えます。以下に主要な印刷品目を書かせていただきます。ぜひとも参考にしてください。……彩色月份牌を多色石版印刷で製作します。色鮮やかで美しい(当社には、時装、古装の名家による原稿が何種類もありますので、ぜひお選びください)……15
この広告では、集成図書公司の印刷所のなかには、ドイツから輸入した機械が設置されているだけではなく、印刷技術に精通する外国人の技師も雇用していることが書かれている。このような機械と技術を用いて印刷した月份牌は、「色鮮やかで美しい」ものであった。さらに一九一三年一一月六日の『申報』を見ると、上海文華書店印刷所が、以下のような自社の開業広告を出している。
上海で新しく開業した文華書店印刷所の広告。 上海アメリカ租界の唐家弄に位置し、石版印刷機械を備え、各種の書籍を印刷します。各種石版印刷書籍、絵画、説明書、拓本などの発行と印刷を行ないます。多色の絵画、説明書、証券、紙幣、月份牌などの印刷も、あわせて行なっています。質は高く、値段は安いです。どうぞお越しください。お知らせまで16。
この広告に見られるように、この時期、幾つもの新規の印刷会社が誕生している。このことは、印刷についての需要が拡大していたことを示すものであろう。印刷技術が向上したことによって、月份牌についても、印刷上の質が高まり、さらには、「時装」(同時代のテーマ)や「古装」(伝統的なテーマ)など、その種類も多様化していった。こうしたなか、その原画を描く「絵師」が必要となったものと思われる。「絵師」と関連する広告が、はじめて『申報』に掲載されたのは、一九〇五年九月二二日のことであった。以下の広告がそれであり、錦隆洋行が月份牌絵師を募集する内容となっている。
上手に描く人を募集する。 当行は、多色人物月份牌を描く人を募集します。巧妙な技術の持ち主は、陽暦の九月三〇日に面接に来てください。期限をお守りください。 錦隆洋行17。
さらに、一九〇七年一二月一二日にも絵師募集の広告が『申報』に掲載された。
絵図人を募集します。 当工場は、絵図人ひとりを募集します。描くことがうまく、石版印刷に堪能な人は浦東英美煙公司の印字房までお越しください18。
この時期、このような絵師を募集する広告が『申報』にたびたび掲載されている。しかし残念ながら、最終的にどんな絵師がこれらの広告を見て応募し、そして彼らがどのような絵を描いたかは、資料が乏しく明らかにすることはできない。それでもこうした事実が重要なのは、月份牌の役割が、「カレンダー」から、徐々に「ポスター」へと変貌しようとしていることを例証しているからである。こうして二〇世紀に入ると、多色石版印刷の技術が移植されるなかで、幾つもの印刷会社が設立され、さらには、月份牌の美しさを追求するために、それにふさわしい能力を備えた絵師が必要とされたのであった。
第二章の「景品としての月份牌の利用――一八八四年以降」において詳述したように、この時期までの月份牌は、主として呂宋票や『申報』を購入する際の景品として旧暦の年末年始に消費者に贈呈されていた。こうした贈呈に用いられた当時の月份牌の印刷技術は、これもすでに第二章で明らかにしたように、石版(単色ないしは描金によるカラー、あるいはイギリスで印刷された多色石版)、木版および銅板であった。しかし、本章の第一節で分析しているように、二〇世紀に入ると、一九〇三年の商務印書館と金港堂の合弁の結果、多色石版印刷(「光石法」と「毛石法」)の技術が一九〇五年に日本の技術者たちからもたらされて月份牌の印刷に適用された。さらに一九〇七年になると、商務印書館は「玻璃版」(コロタイプ印刷)による多色石版印刷の技法を日本ないしは欧米から輸入した19。しかし、その技術がすぐにも月份牌の印刷に適用されたかどうかは、適切な資料が不足しており、正確にはわからないが、少なくとも一九一一年の商務印書館の『申報』の広告20においては、商務印書館は、色については「三色版」、製版に関しては「玻璃版」を使った多色石版の月份牌を印刷することができると述べている。こうしてこの時期、月份牌を印刷する技術が中国において劇的に進歩した。その結果、旧来の技術で印刷されたもの、たとえば【図七】に見られるような一八九六年の「滬景開彩図・中西月份牌」の作品に比べて、きわめて色彩が豊かで精巧な画面をもつ美しい印刷物として、月份牌は生まれ変わることになったのである。
【図一四】は、趙青岩のコレクションのなかに見られる一九一〇年(宣統二年)の作品で、色彩の豊かさからして、こうした新しい技術によって印刷されたことを例証するものである。【図一五】はその一部で、それを見ると、細かく表現された原画が見事に再現されていることがわかる。一方、一九一五年の【図一六】の作品は、福岡アジア美術館が所蔵する作品で、これもまた、この時期の新しい多色石版印刷による印刷事例である。モティーフとしては前者では伝統的な物語の一場面が、後者では同時代の女性が用いられていることにも着目されなければならないが、こうした革新的な印刷技術の登場が、カレンダーとしてのこれまでの機能に加えて、人びとを魅了する視覚的な力となって、月份牌に新しい役割を付与することになったことは、ここで強調されてもよいであろう。
その新しい役割とは、企業間の年末年始のあいさつの際に進呈される贈答品としての役割であった。このことについて確認できる最初の広告が、一九〇五年二月一三日に『申報』に掲載されている。これは、「色とりどりでとても鮮やかで優れた」月份牌を受け取った申報館からのお礼の広告であった。
贈答品に対しての感謝。 昨日[『申報』の編集室は]廣智書局から、『中国の武士道』『申國國債史』『華英合璧二十世紀新讀本袖珍日記』の各一冊を、手紙と一緒に贈呈してもらいました。衰弱者を奮い立たせ、貧困者を救済することは、維新の重要点であるため、これらの本は、本当に我が国の志士たちの各家庭に一冊ずつ置かれるべきものです。中英大薬房からは、今年の月分牌一枚を贈呈していただきました、色とりどりでとても鮮やかで優れたものです。とくに、上の位置には、各支店が掲載されているため、薬品を買う者にとても便利です21。
この広告から、書籍や手帳と同じような扱いで月份牌が進呈されていたことがわかる。つまり、受け取った会社に喜ばれ、お礼の言葉が広告に掲載されるほどの美しく貴重な印刷物へと、月份牌はこの時期大きく進展していたのであった。このように、他の企業や商社から美しい月份牌を受け取ったことに対する、それらの企業へのお礼を述べた申報館の広告は、その後にあってもしばしば『申報』に掲載されることになる。たとえば、一九〇七年二月二〇日の広告においては、茂生洋行、文宝石印局、何錦豊号などの企業から数枚の多色印刷の月份牌をもらったことが記載されている。
月份牌贈答への感謝。 昨日茂生洋行から数枚の月份牌をいただきました。金色と混じり合って色鮮やかです。また、匯發洋行、文寳石印局、何錦豊からも月份牌をいただきました。みんな全て精巧で鮮明なものです。ここで数語を尽くして、感謝の意を表わします。そして、各商号のさらなる発展を祈ります。(顛)22
この広告においても、贈答された月份牌が「金色と混じり合って色鮮やか」であったことが述べられ、その美しさが賞賛されている。これと同じ内容をもつお礼の広告は、一九〇九年にあっては実に一二回も出されているのである23。
すでに論述してきたように、確かにこの時期、印刷技術の飛躍的な進歩により、月份牌の印刷の質は一段と向上した。そして、そうした背景のなかにあって、月份牌の存在価値は高まり、企業間のあいさつや宣伝のために月份牌が使用されるようになる。その一方で、この時期の『申報』には、月份牌の印刷業務を引き受ける広告が続々掲載されていく。一九〇三年から一九一一年までに『申報』に掲載された広告を見ると、数のうえからは商務印書館が一番多かったものの、商務印書館以外にも彩文五彩石印局や文宝五彩石印局などの幾つもの業者が、多色月份牌の印刷業務を扱っていたことがわかる。そうした広告の一例として、ここでは、一九一一年二月二五日の『申報』における集成図書公司印刷所の広告を紹介しておきたい。集成図書公司という会社は、もともとの点石斎石印書局、ならびに図書集成鉛印局と申昌書局、および開明書店の四つの会社の合併によってできた会社であった。以下は、その広告のなかの月份牌に関する箇所の引用である。
集成図書公司印刷所は紙幣、債券、株券、証書等を印刷します(広告)。 当社は、完全華商資本で集合した会社です。利権の外部への流失を恐れ、印刷業の発展をはかるために、大金を惜しむことなく、ドイツの有名工場から彫刻、メッキ、凹凸版などの各種新式機械を購入しました。さらに、外国技師を雇い、お客様の大事な印刷品を製作いたします。数年の改良をへて、去年の南洋で行なわれた博覧会で、当社が印刷した凹凸版の紙幣、小切手、証券、株券、証明書などの作品が展示され、そして最優秀賞をいただきました。いまのこの維新の時代では、印刷物も時代と一緒に発達します。もし内外のお客様がいらしてくだされば、小社は、ますます勤勉に仕事を遂行し、品物をもっと精巧に、値段をもっと安くすることで、同胞各位のご希望を満たします。以下に主要な印刷品目を書かせていただきます。ぜひとも参考にしてください。……月份牌を多色砂目石版[毛石法]またはアルミ版で印刷します。どちらも色鮮やかで、洋の東西において並び立つものです。……24
『申報』を見ると、こうした広告がこの時期、何社もの印刷会社から出されている。このことからも、当時、多色石版印刷の急速な普及があったことがうかがわれる。その背景には、精巧な印刷物への関心と需要があったに違いなかった。当然ながら月份牌も、そうした動きの渦中にあって存在していたといえるであろう。
そのことは、一九〇五年からこの時期(一九一一年ころ)までにあって、多色石版印刷の色鮮やかな月份牌が、企業間の年末年始のあいさつの際に進呈される贈答品としての新しい役割を担いはじめていたことを物語っている。しかしそのことはまた、一方で、いまだこの種の美しい、色鮮やかな月份牌が一般の消費者の手にまでは届いていなかったことを示している。確かに印刷会社はその数も増え、それに応じて、年末年始の贈答品としての月份牌の流通も活発になっていたとしても、それはあくまでも、大きな企業にとっての重要な取り引き先や、申報館のようなマスメディアに対してのあいさつや宣伝のためであり、その意味で、実際には限定的に流通していたわけであり、一般の大衆にとっては、この多色石版印刷による月份牌は、まさしく別世界の存在物であり、直接手に触れることはなかったようである。こうした状況下にあって、月份牌を巡ってひとつの大きな事件が起こった。一九一〇年一月二四日の『申報』の記事は、ある詐欺事件に関して、次のように報じることになる。
月份牌をちょろまかす。災いのはじまり。 西門の内側に居住する 周蓮栄 ( ジュウ リァンロン ) は、昨日外国語で書かれた一通の手紙に南京路敦慶隆号の印を押し、それを九江路にある卜内門洋鹸公司に持参して、月份牌を請求した。当公司が敦慶隆号に問い合わせたところ、そのような手紙を敦慶隆号は出していないことが判明した。詐欺であることがわかったので、当公司はさっそく総警察署に通報した。探偵の 周蓮栄 ( ジョン シンナン ) と一八四番の西洋人の警官が周を逮捕し、人力車に乗せて連行した。周は屈辱のあまり、人力車の中で自らの喉をナイフで刺して自害しようとした。警察署に到着後、警官が周の首の周りに大量の血を発見し、急いで仁済病院に連れて行った。その後、中国人と西洋人の警官は、周の自宅で敦慶隆号の偽印鑑を一点発見し、それを警察署に保管して後日の取り調べに備えている25。
この事件はあまりにも恐ろしくかつ奇妙であると感じられよう。周蓮栄がどのような人物であったのかは、記事には詳しく紹介されていないが、外国語の手紙が書け、偽物の印鑑をつくることができたことからして、おそらく知識人であったのではないかと考えられる。中国の知識人であれば、泥棒とみなされることほど、大きな屈辱はない。そのため彼は、警察に連行され、裁判にかけられることよりは、死んだ方がましであると考えたのであろう。しかし、なぜこの人物は、たかだが一枚の月份牌をもらうためにこのようなことをしでかしたのであろうか。一般的に考えられることは、普通の人びとにとって、すでに月份牌が、視覚的に魅力に満ちたものになっていたということであろう。つまり、この事例からも明らかなように、まさしく月份牌は、この時期までにあって、人の所有欲をかきたてる存在へと徐々に変貌しようとしていたのであった。
それでは、この美しい多少月份牌は、いつごろから大衆に流通しはじめたのであろうか。一般の消費者に多色月份牌を贈呈したのは、中法大薬房が最も早い業者であったのではないかと考えられる。以下の引用は、一九〇七年二月一八日付の『申報』に掲載された中法大薬房の広告である。
新年の贈呈は一五日まで。 新しい一年がはじまるときには、官、学、商、紳の各界の人びとは、互いに新年のあいさつをしますが、それは煩わしく意味のない儀礼に過ぎません。現在、当薬局においては、新年のあいさつ代わりに新たな贈呈のイベントを行なっています。このことにより、当薬局の主人がいかに実務に励んでいるかがおわかりになっていただけるでしょう。当薬局で品物をお求めの方に、もれなく贈り品を差し上げます。数角から一、二元までのお買い上げの方には、九芝堂新民小説手帳一冊を、数元の方には一九種類の月份牌のなかから一枚を、一〇元以上の方には、薔薇の香水一瓶、石鹸ひとつ、月份牌一枚、さらに手帳一冊を贈呈します。月份牌には、衛生測候花二鉢が描かれています。それは五色に変化し、もし各家庭にこの一枚を置いていただければ、日にちや年間行事がわかるだけでなく、晴れと雨のバロメーターとしても使用できます。これこそが、商業界の新年の特別なあいさつなのです。 上海三馬路中法大薬房 謹启26。
中法大薬房は、光緒十六年(一八九〇年)に上海のフランス租界に創建された27。創設者の 黄承乾 ( ホァン チェンチャン ) は、もうひとつの名を 楚九 ( チュジュウ ) といい、号は 礎玖 ( チュジュウ ) で、同治十一年三月初二(一八七二年四月九日)に妾の子として浙江余姚に生まれた【図一七】。一五歳のときに父が他界し、その後、母親と上海に移住し、家伝の医学を活かして薬の製造と販売を行なう28。一八九〇年、彼は自らが経営する薬局、頣寿堂をフランス租界に移し、中法薬房(Great Eastern Dispensary)と改名し、西洋薬の販売をはじめた29。【図一八】は一八九〇年代ころの中法大薬房で、おそらくこれが、黄楚九にとっての最初の事業であった。その後、彼は、五洲大薬房や新新舞台、大世界、楼外楼、新世界、大昌煙公司など、さまざまな領域の会社を経営するようになる。彼は、商品の販売に独特な方法を用いた。中国の商人らが「酒香不怕巷子深[酒がよければ売れる。場所が辺鄙であろうと構わない]」という諺を信じ、いまだ宣伝という行為を軽視していた時代に、黄楚九は幾つもの広告手段を使い、積極的に商品を販売することを試みたのであった。
彼は、一九〇四年に自らが生み出した保健薬に「艾羅補脳汁(Yale Stimulant Remedy)」という商品名を付け、雲獅のマークとDr. TC. Yalesの英文を商標に入れた【図一九】。Dr. TC. Yalesというのは、実は製造者の黄楚九の名前の英語表記なのである。彼はまた、商務印書館に頼んで、精美なパッケージと説明書を印刷させた30。当時の中国においては、国民全体のなかに舶来品を崇拝する傾向があったため、黄は、頻繁的に新聞広告を掲載し、「艾羅補脳汁」を外国最新処方の舶来品として大々的に宣伝したのであった【図二〇】。次いで一九〇七年には、日本の森下製薬の人気商品の「仁丹」【図二一】と同じ効用の薬をつくり出し、「龍虎標人丹」と命名する。「仁丹」と「人丹」は、中国語の発音が同じ「RenDan」であり、文盲の多い中国人消費者にはほとんど区別がつかなかった。そのうえ黄は、外国商品排斥運動の波に乗り、「人丹」の広告においては「完全国貨[すべて国産品]」【図二二】のスローガンを打ち出した。森下製薬は、「人丹」が「仁丹」の偽物であるとして起訴するが、黄は逆にそれを利用して、「人丹」の影響のさらなる拡大を成し遂げる。裁判は一〇年以上も続き、最終的には「人丹」の勝訴で終止符が打たれた。その期間中、何度も黄は薬局を移転させている。店の外装をますます豪華にしたり、大きな看板を出したり、政治が変動するたびに、政局のニュース記事を装った広告を掲載したり31、あらゆる広告手段を用いて絶えず新鮮な感覚を人びとに与え続けた。また、薬局だけではなく、娯楽界、金融界、そして実業界にも進入し、幾つものクラブ、劇場、銀行、煙草会社などの企業を設立している。それらの商売は、黄楚九に莫大な富と「百家経理[百もの業種の社長]」のあだ名をもたらしたが、同時に、その破天荒な営業手段によって、「滑頭商人[海千山千の商人]」であるとの評判も招くことになった32。
その一方で黄楚九は、とくに月份牌という広告媒体に着目し、当時一般人の入手が困難であった多色刷の月份牌を、真っ先に消費者に贈呈した。しかも彼は、ただ単にすでにでき上がった月份牌をそのまま使うだけではなく、表現や使用法においても常に新しい月份牌を追求していったのであった。
先に紹介した上海三馬路中法大薬房の広告において述べられている月份牌は、とても奇妙なものであり、何と五色に変わるだけではなく、天気によっても変色するようである。中国においては、このような天気を予知する絵は、古い伝説のなかの仙人の家にしかなかった。したがって、こんな珍しいものをただの何元かの薬を買っただけでもらえるとは、とてつもなくいい話ということになる。もしこの広告の記述内容に虚偽がないとすれば、その月份牌を印刷するときに使ったインクはおそらく特殊なインクで、湿度の変化によって変色するものだったのかもしれない。いうまでもなくこうしたインクは、当時としてはとても目新しく新奇なものであったにちがいない。このように絶えず新しいものを積極的に活用しながら、黄楚九は、常に消費者の好奇心を引き寄せ、商品をうまく宣伝していたようである。そうした商売上の才覚のなかにあって、月份牌も利用され、一般の消費者の手の届くものになった。これまで企業間の贈呈品として存在していた多色刷りの月份牌が、かくして人びとの所有可能なものへと進化を遂げたのである。
さらに驚くべきことに、彼の才覚は、月份牌の商売上の効果だけではなく、月份牌を描く絵師についても、向けられた。一九一四年、彼は、その後の月份牌に新たな変革をもたらすことになるひとりの絵師を起用した。その人物は、 鄭曼陀 ( ヂェン マントオ ) という絵師であった。
鄭曼陀は、名を 達 ( ダ ) 、字を 菊如 ( ジュル ) といい、杭州の出身であった。彼は、小さいころから目に病があり、体が弱かった。それでも彼は絵を描くことを愛し、努力を重ね、弱冠一四歳にして早くも絵の才能が認められた。彼は、杭州の育英学院で英文を修めたことがあり、そのことが西洋画法の習得に有利な条件となっていた。また、若いときに写真館で「写真画」を描いたことがあり、それも、のちの彼の創作スタイルに大きい影響を与えた33。一九一四年に黄楚九は、上海南京西路の「張園」で鄭が描いた四枚の仕女画(女性を描いた伝統的な中国画)を見て、すぐにもその絵を買って、中法大薬房を宣伝する月份牌に用いた。その後鄭は、中法大薬房のために次々と月份牌を描いていく。彼が描いた月份牌は、顧客のあいだで評判となり、彼自身も月份牌の新しい人気絵師となるのである34。
ここに、人の欲しがるものを提供することによって、また、欲しがるものを製作することができる人物を起用することによって、自らの商売を発展させようとする、黄楚九の商売感覚を見ることができるであろう。彼に見られるような、こうした先見性に支えられながら、中国近代における広告や宣伝のさきがけとなる概念は誕生したといえるであろう。つまり、生産者、販売者そして消費者間の商品の迅速な流れをどのようにつくるのかに関して、黄楚九はいち早く理解していた人だったのではないだろうか。その彼が着目したひとつの手段が、人びとがもらって喜ぶ月份牌を、自社の商品に付けて進呈することだったのである。こうしてこの時期、徐々に月份牌は、広告のひとつの手段としての役割を、より明確に担わされようとしていたのであった。
(1) 出資したほかの5名は徐桂生、張蟾芬、鮑咸昌、高翰卿、郁厚坤である。高翰卿「本館創業史――在発行商所学生訓練班的演講」『1897~1992 商務印書館九十五年――我和商務印書館』商務印書館、1992年、2頁。
(2)教科書問題が日本で発覚したのは、1902年(明治35年)の秋。同年12月17日、当局は金港堂を含む20箇所以上を一斉に捜査し、原亮一郎らを検挙。そのわずか10日後、『申報』はその事件を記事にした。『申報』における日本の「教科書事件」についての報道は、1902年12月26日(光緒ニ十八年十一月二十七日)から、1903年2月8日(光緒二十九年正月六日)までおよそ1箇月半にわたり、記事と社説をあわせて計11回に及んだ。そのうち、金港堂の社名が出たのは、1902年12月26日、同年12月28日、1903年1月8日、同年1月16日の計4回であり、原亮三郎、亮一郎らの重役の実名が出たのは、1902年12月26日、1903年1月4日、同年1月8日、15日、16日の計5回であった。
(3)日本側は金港堂として合弁に参加したのではなく、実際は、原亮三郎、原亮一郎、山本条太郎、加藤駒二など金港堂の関係者が個人として出資したのである。そのため、厳密にいえば、この合弁は金港堂と商務印書館との合弁ではなかった。
(4)高翰卿「本館創業史――在発行商所学生訓練班的演講」『1897~1992 商務印書館九十五年――我和商務印書館』商務印書館、1992年、9頁。
(5)同上、同頁。
(6)同上、同頁。
(7)1905年2月11日、光绪三十一年正月初八付『申報』。
(8)賀聖鼐「三十五年来中国之印刷術」商務印書館編『最近三十五年之中国教育』1931年版(『民国叢書』編輯委員会編『民国叢書』第2編45巻文化・教育・体育類、上海書店、1990年に再録)、189頁。
(9)同上、同頁。
(10)同上、同頁。
(11)同上、同頁を参照。
(12)高翰卿「本館創業史 在発行所学生訓練班的演講」『1897-1992 商務印書館九十五年―我和商務印書館』商務印書館、1992年、8頁。
(13)同上、8-9頁。
(14)本社特派員「支那印刷業の現況(一)」『日本印刷界』第48号、大正2年10月、56頁。
(15)1911年7月25日付『申報』。
(16)1913年11月6日付『申報』。
(17)1905年9月22日付『申報』。
(18)1907年12月12日付『申報』。
(19)賀聖鼐「三十五年来中国之印刷術」商務印書館編『最近三十五年之中国教育』1931年版(『民国叢書』編輯委員会編『民国叢書』第2編45巻文化・教育・体育類、上海書店、1990年に再録)、189頁を参照。
(20)1911年10月18日付「申報」。
(21)1905年2月13日付『申報』。
(22)1907年2月20日付『申報』。
(23)1909年1月14日付で、「老沙遜洋行」と「永年人寿保険」の2社に対して。1月15日付で、「中法大薬房」と「屈臣氏大薬房」2社に対して。1月16日付で、「華洋保険公司」に対して。1月17日付で、「公裕太陽火険公司」に対して。1月26日付で、「廣貫薬局」「錦隆洋行」「香港福安公司」および「望賚洋行」の4社に対して。1月27日付で、「合衆火険公司」と「華成保険公司」の2社に対して。1月28日付で、「華安保険公司」「中西大薬房」「藻文印刷所」「福和煙公司」「怡徳洋行」「卜内門洋鹸公司」および「大清郵政局」の7社に対して。1月30日付で、「三井洋行」に対して。2月1日付、「何錦豊行経理之万豊保険公司」に対して。2月3日付で、「中国信益保険公司」に対して。2月6日付で、「華通水火保険公司」に対して。12月30日付で、「英昌洋行」に対して。
(24)1911年2月25日付『申報』。
(25)「本埠新聞」、1910年1月24日付『申報』(第2張第3版)。
(26)1907年2月18日付『申報』。
(27)曾宏燕『上海巨商黄楚九』人民文学出版社、2004年、63頁。
(28)同上、39頁。
(29)同上、64頁。
(30)同上、81頁。
(31)1911年の10月10日、湖北省の武昌で革命派の軍隊が蜂起し、辛亥革命がはじまったところであった。各新聞紙の報道の焦点は、すべて湖北省の軍事動静であって、読者も毎日最新の革命の情報を求めていた。黄楚九は、この機に乗じて、広告のタイトルに「湖北」の文字を入れて、新聞記事を装って広告文をつくった。こうして、人びとの目を引くような中法薬房の商品宣伝を行なったのであった。1911年10月17日付の『申報』の第二張第一版に、「湖北伝来之報告」というタイトルの文章が掲載されている。その内容は、「八月二十三日の漢口にある中法薬房の報告によると、地方は平和で営業上の影響は何も受けていない。ただ昨日の正午、多くの人が当薬房の前に集まったために、部外者からは、何らかの危険があったのではないかと思われた。実は、「哈麦脳血」という新薬が届いたために、みんな争って見ていたのであった。その後、大変売れていた。誤解を招かないようにここでお知らせを。」
(32)曾宏燕『上海巨商黄楚九』人民文学出版社、2004年、374頁。
(33)鄧明『最後一瞥・老月份牌年画』上海画報出版社、2003年、127頁。
(34)曾宏燕『上海巨商黄楚九』人民文学出版社、2004年、17頁。歩及は、「月份牌画和鄭曼陀先生」(『美術』中国美術家協会、1979年第5号、10頁)のなかでも、このことについて記述している。しかし、黄楚九の名前を出さず、「西薬を経営するある大商人」というような文言で表現している。