第一章第三節の「合暦出現の背景」で述べたように、海外に窓を開いた海運業や貿易業の発展のなかから合暦の必要性が生まれ、それが一八七〇年代の月份牌の登場へとつながっていった。しかし合暦は、海運業や貿易業といった限定された業界の範囲を超えて、一八八〇年代に入ると、広く商業や行政の場面にまで広がっていくことになる。以下に挙げる一八八一年一二月三日の『申報』の広告を読むと、月份牌の商業や行政への広がりが示唆されている。
新しい華英合暦を販売します。 当店は陽暦一八八二年の華英合暦牌を一冊に編集して印刷しました。小さな穴をあけ、壁に掛けることもできますし、日々一枚ずつ切り取ることもでき、調べるにはとても便利です。そのなかには、曜日なども掲載されており、普段の月份牌より、さらに新しくて、巧みに製作されています。一冊ごとの価格は英洋七角五分です。商売人や官僚の各層で必要とされる方があれば、当店までお越しください。 字林洋行1。
この広告を読むと、ここで述べられている印刷物は、一枚ものの「華英合暦牌」である月份牌を基にしてつくられた、一冊の「日めくり」の合暦であり、広告内容は、その新たな商品の「商売人や官僚の各層」への紹介というかたちになっている。ここからわかるのは、合暦の需要が、海運業や貿易業をいった狭い範囲から、一般の商業や行政の世界へと広がっていることである。そして、月份牌の利用範囲の広がりは、さらに一般市民にまで及ぶことになる。
次に紹介するのは、一八八六年二月九日の『申報』に掲載された広告である。ここには、呂宋票(ルソン島の宝くじ)の景品として、月份牌が一般の市民に配布されることが告知されているのである。
天官は福をくださる。 当店は、四馬路にある第一楼の向いで営業を行ない、呂宋発財票[ルソン島の宝くじ]を専売しています。現在は陽暦二月の票が発売されています。従来どおり、華暦の正月十三日に抽選結果を発表します。みなさまが新年のこの時期にお金持ちになりたければ、早めにお買い求めください。遠いところから手紙で買う場合には、すばやく返信します。当店は、呂宋国王抽選全図[ルソン島での宝くじ抽選の様子を描いた絵図]と、申報館の新年画報および新年華英月份牌を従来どおり贈呈いたします。購入者のみなさまは、封筒の天官マークをよく確認したうえでご購入ください。 三点老泳記2。
この広告の内容は、三点老泳記という会社が、「呂宋発財票」を買った「購入者のみなさま」に、「呂宋国王抽選全図と、申報館の新年画報および新年華英月份牌」を「贈呈」するというものである。明らかにここに至って月份牌は、一般人である「購入者のみなさま」に向けて提供されているのである。さらにこのことは、「現在は陽暦二月の票が発売されています。従来どおり、華暦の正月十三日に抽選結果を発表します」とあるように、合暦が、海運業や貿易業から、さらに広く商業や行政にかかわる人びとを超えて、一般市民のあいだにあっても必要とされるようになってきたことを示しているのでる。
一八七五年の瓊記洋行内印字房の広告のなかに認めることができる「イギリス、フランス、アメリカの三箇国の会社の蒸気船の出入港の期日」が、いつの時点まで月份牌に記載されていたのかは、資料が乏しく明確にすることはできない。しかしながら、上記引用の三点老泳記の広告に見られる月份牌が、「呂宋発財票」の景品としてその購入者に「贈呈」されるためのものであったことから判断するならば、少なくともこの月份牌からは、「蒸気船の出入港の期日」が除外され、中国暦(陰暦)と西洋暦(陽暦)の合暦のみで新たに構成されたうえで、宝くじを買う普通の市井の人びとに供されたものと推定することも可能なのかもしれない。しかし実作は未見であるため、即断はできない。
一八七〇年代に『申報』に掲載された月份牌に関する広告は、一八七五年一月二九日の瓊記洋行の広告と一八七六年一月三日の海利号の広告のふたつであった。前者の広告においては「月份牌」という文字が使われ、後者の広告では「華英月份牌」の文字が使用されていた。さらに一八八〇年代および九〇年代の『申報』の広告を見ると、月份牌の表記にかかわって、「月份牌」という名称以外に、実にさまざまな表記が用いられていることがわかる。
その初出に関してのみ列挙すれば、たとえば、一八八四年一月二五日の申報館からの贈呈広告では「月分牌」、一八八四年二月二日の申報館からの贈呈広告では「中西合暦月分牌」、一八八四年七月三日の広生祥からの贈呈広告では「呂宋月份」、一八八四年一二月二九日の広発行からの贈呈広告では「絵図年月要覧」、一八八五年一月一六日の屈臣氏からの贈呈広告では「英字月分牌」と「華字月份牌」、一八八五年一二月一四日の天源行からの贈呈広告では「中西両式月份牌」、一八八五年一二月一八日の振声行からの贈呈広告では「華英月份牌」、一八八五年一二月二〇日の万有利行からの贈呈広告では「中外年月単」、一八八六年一二月一一日の匯源公司からの贈呈広告では「華英合暦」、一八八七年一月八日の必得利行からの贈呈広告では「中西合暦」、一八八八年一月八日の李錦祥印字館からの贈呈広告では「中西合暦図」、一八八八年二月二一日の申報館からの贈呈広告では「中西合璧月分牌」、一八八九年一二月三日の天来福・万利源・源源来行からの贈呈広告では「月份図」、一八九〇年一月一日の天来福・万利源・源源来行からの贈呈広告では「月份単」、一八九二年一月七日の呂商豊和・同発財からの贈呈広告では「歳月牌」といった表記で「月份牌」が表わされているのである。そしてこの「歳月牌」を最後に、それ以降は、上記以外の新たな表記が『申報』において認められることはない。このことは、一八九〇年代のはじめ以降から、こうした多種多様な表記がだんだんと「月份牌」という単一の表記へと収斂していったことを意味している、と考えても差し支えないであろう。『申報』の広告に表われる限りでは、「華英月份牌」や「中西月份牌」のような表記は、徐々に減少しながらも、一九〇九年まで残存していたことを確認することができる。
以上に挙げた多様な表記にかかわって、それぞれの意味の違い、あるいは用例の違いはあるのであろうか。大別してみると、どうやら三つのグループに分類できそうである。
ひとつ目のグループは、「月份牌」(一八七五年)、「月分牌」(一八八四年)、「月份図」(一八八九年)、「月份単」(一八九〇年)、「歳月牌」(一八九二年)で、この表記は、基本的に「月份牌」という三文字の表記を原型としている。
ふたつ目のグループは、「華英月份牌」(一八七六年)、「中西合暦月分牌」(一八八四年)、「中西両式月份牌」(一八八五年)、「中外年月単」(一八八五年)、「華英合暦」(一八八六年)、「中西合暦」(一八八七年)、「中西合璧月分牌」(一八八八年)で、この表記の原型は、中国と西洋のふたつの地域を表わす「華英」や「中西」や「中外」とう言葉が「月份牌」という文字の頭に付けられている。
残りの三番目のグループに属する「呂宋月份」(一八八四年)は呂宋島ないしは呂宋票に関する暦を、「絵図年月要覧」(一八八四年)は絵図が入った暦を、「英字月分牌」(一八八五年)は外国語あるいはアラビア数字を使った暦を、そして「中西合暦図」(一八八八年)は中国と西洋の合暦を示した図表を、それぞれ表わしていたものと推量される。
それでは、一八七〇年代から一八九〇年代にかけて使用されている「月份牌」の字義と用例について、どのように考えておけばよいのであろうか。それについては、四つの可能性が考えられそうである。
ひとつ目の可能性――「合暦」を表わす造語としての「月份牌」。
第一章第三節の「合暦出現の背景」においてすでに述べたように、海運業や貿易業の発展に伴い、外国船舶の出入港日を記載したカレンダーが必要とされたとき、暦の変換と数字の翻訳が求められ、出入港日に加えて、中国と西洋の双方の暦(陰暦と陽暦)が記載された印刷物が登場することになった。その新たに登場した印刷物をどう呼ぶのか、こうした新しい事態が、この時期、上で見てきたように、多様な呼称の出現を引き起こしてしまったものと考えられる。
当時、中国の陰暦のカレンダーについては、「皇暦」「通書」「春牛図」という用語でもって呼ばれていたが、ここで新たに出現した合暦(中国暦と西洋暦が併記された暦)に対して、その用語をあてることはできず、そこで、新たな暦に対して新たな用語が生み出される必要があったものと思われる。そうした背景から生まれた造語が「月份牌」だったと推量できるのである。そう考えるならば、この時期の「月份牌」というこの用例は、明らかに、その印刷物の実態に即し「合暦」を意味する、ひとつ固有名詞としての新語だったということになるだろう。
ふたつ目の可能性――「暦」を表す一般用語としての「月份牌」。
しかしながら、上述のふたつ目のグループには、中国と西洋の双方を指し示す「華英」や「中西」あるいは「中外」という言葉が「月份牌」という文字の頭に付けられている。「月份牌」自体が「合暦」を表わす用語であれば、こうした「華英」や「中西」や「中外」といった言葉を「月份牌」の上に冠する必要はなく、この場合は、「月份牌」という用語は、第一章第一節の「月份牌の起源に関する諸説と新発見」において述べたように、あくまでもこの言葉そのものの字義に相当する「暦を表示する札」を示していたものと考えられる。そうした観点に立つことによってはじめて、たとえば「華英月份牌」といった用語法が理解できるのである。「華英月份牌」、つまり「中国と西洋の双方の暦を表示する札」と表記することによって、この時期に新たに登場した「合暦」の実態を正確にいい表わすことになったものと思われる。
三つ目の可能性――たとえば「華英月份牌」といった用語の省略形(ないしは短縮形)としての「月份牌」。
たとえば、『申報』の一八八五年一月二九日の広告を見ると、そのなかで「月份牌」が二回、「中西月份牌」が一回使用されている。このように、ひとつの広告文のなかにあって「月份牌」と「中西月份牌」ないしは「華英月份牌」などとの混用例は、これ以外にも、幾つもの例が『申報』のなかに確認できる。そうしたこと踏まえれば、「月份牌」という用語は、「中西月份牌」や「華英月份牌」といった呼称の省略形ないしは短縮形として使用されていた可能性も認められてよいだろう。
しかしながら、四つ目の可能性として、ここで指摘しておかなければならないことは、上で述べた暦として「月份牌」を画面の中心的な場所に位置づけ、その周りに絵図を入れたような形式の構成物全体をさす言葉としての「月份牌」の登場についてである。そのような「月份牌」の登場については、次の一八八六年一二月一日(光緒十二年十一月初六)付で『申報』掲載された広告が、うまく示唆している。
豊和老行は、呂宋開彩図[ルソン島での宝くじ抽選の様子を描いた絵図]の月份牌を票に付けて贈呈します。ぜひご覧ください。 当店主は 昨日 ( ママ ) 、抽選の実際の場を確認して、ルソン島から中国に戻ってきました。そして、特別に名手にその様子を描くことを依頼し、月份牌のなかに絵として入れました。こうすることによって、どのお客様にも抽選の実際の様子を絵として見ていただくことができるので、[この票が]公正なものであることが証明されます。現在、一二月の大票を販売中です。ご購入を心からお待ちしています。 呂商豊和老行3。
この文脈にあっては、この広告のなかの「特別に名手にその様子を描くことを依頼し、月份牌のなかに絵として入れました」という文言に注目しなければならないだろう。これまでに述べてきたように「月份牌」を暦や合暦の意味にとらえ、その意味を念頭に置いてこの文言を読むならば、暦や合暦である「月份牌」のなかに「絵」が挿入されたという意味に読めそうである。しかし、第一章第一節の「月份牌の起源に関する諸説と新発見」で紹介した 王樹村 ( ワン シュウツゥン ) の論文の図版として使用されている一八九六年の「滬景開彩圖・中西月份牌」【図七】は、本人所有の作品で、王自身が述べているように「滬景開彩圖」のなかに陰暦と陽暦の合暦が張り込まれているのである。おそらく「張り込み」には、糊のようなものが使用されたものと思われる。そのことを踏まえて、上記の文言をもう一度読み直してみるならば、「月份牌のなかに絵として入れました」という文言のなかの「月份牌」が「合暦」を指し、合暦としての「月份牌」のなかに「絵図」が入れられていると読むことはもはやできなくなり、そうではなくて、全体の画面を指して「月份牌」と呼び、そのなかに「絵図」が入っているという理解にたどりつくことになる。一八八六年一二月一日(光緒十二年十一月初六)付で『申報』掲載された上記の呂商豊和老行の広告から、一八九六年の「滬景開彩圖・中西月份牌」(王樹村所有の作品)へと至るまでの変化の過程については、次節の「呂宋票の景品としての月份牌」において、さらに具体的に詳述することになるであろう。
上で見てきたように、一八七〇年代から一八九〇年代にかけて使用されている「月份牌」という用例を分類すると、合暦を指す呼称、暦を指す言葉、合暦の省略語としての呼び名、そして、暦としての「月份牌」を画面の中心的な場所に位置づけ、その周りに絵図を入れたような形式の構成物全体を指し示す用語法の四つに、おおかた分かれることが判明した。そしてどの用例から判断しても、「月份牌」の実質的な内容は、事の起こりからして、中国暦(陰暦)と西洋暦(陽暦)の合暦を備えた、たとえ一部に「貼り込み」の手法が使われていたとしても、一枚物のカレンダーであったことは明らかであり、こうして、この時期に新たに誕生した商業印刷物である、合暦としての機能をもった新種のカレンダーは、その呼称において、一八九〇年代のはじめのころから、多種多様な表記がだんだんと淘汰されて「月份牌」という単独の表記へと進化していったのであった。
一八八四年4から一八九八年のあいだに『申報』に掲載された月份牌に関する広告には、ふたつの新しい特徴が認められる。ひとつは、広告数の急増である。すでに紹介したように一八七〇年代においては月份牌に関する広告は二件しかなかったが、一八八四年に着目してみると、その一年間だけでも一三件の広告が掲載されている5。同年以降一八九八年までのあいだに、多いときで同じ日の同じ紙面に五、六件の月份牌の広告が掲載されたこともあった。
もうひとつの特徴は、一八八四年から一八九八年のあいだに製作された月份牌は、一八七〇年代のように月份牌そのものが「商品」として売買されるのではなく、他の商品(たとえば、「呂宋票」や『申報』、その他の会社の商品)の「おまけ、つまり景品」として贈呈される例が数多く見受けられたことであった。とりわけこの時期、「呂宋票」と呼ばれた宝くじの景品として月份牌が提供される例が圧倒的に多くみられる。
それでは、当時の中国において「呂宋票」はどのような事業として成り立っていたのであろうか。このことについて、まず触れておきたい。
「呂宋票」とは、当時、スペイン領であったフィリピンで発売されていた宝くじのことである。一八八四年八月八日付の『申報』には、次のような広告が掲載されている。
大呂宋公司の陽暦九月の券。 陽暦九月の呂宋票は、全張で六元、半張で三元。抽選日は七月二〇日、一等賞は三万元、二等賞は一万二千元6。その他の賞は従来の規則どおりで変更ありません。遠方の方は、通信購入の際、代理店の返信を必ずご確認ください。[本物の]券の上には判が押されています。便箋と封筒には各代理店のマークが入っていることも確認してください。 大呂宋公司分設洋行 豊和 天成 万有利 広和 万勝祥 永吉 同得利 協記 盈利 立發 必得7。
呂宋島(ルソン島)はフィリピン最大の島であり、中国では昔からフィリピンは呂宋と呼ばれていた。一五七一年にフィリピンがスペイン領となってからは、中国では、フィリピンのことを「小呂宋」、スペインを「大呂宋」と呼ぶようになる。この広告では、呂宋票の発行会社が「大呂宋公司」となっている。つまり、この宝くじの発行者は、フィリピンではなく、スペインであったと考えられる。スペインでは、宝くじの発行権を政府が有しており、個人による発行は厳しく禁じられていた8。したがって、この宝くじ(呂宋票)は、スペイン国営宝くじの一種であった可能性がきわめて高い。
呂宋票が上海に進出したのは、一八六〇年代から一八七〇年代前半までのあいだであったと考えられる9。上海で呂宋票を販売していたのは、「票行」と呼ばれる宝くじの販売所だった。これらの販売所が中国における代理店として呂宋票の卸し売りと小売りを行なっていた。一口は「全張」または「単張」と呼ばれ、どれも一〇枚に分割できた。一枚は「分条」または「条頭」と呼ばれ、五枚組が「半張」または「四開」と呼ばれた。そして二口組が「双張」であった。
宝くじの値段は、上記の大呂宋公司の広告にあるように、全張で六元、半張で三元、分条で六角、または七角だった。全張の一等賞の賞金は三万元、二等賞は一万二千元であった10。『上海県志』11によると、一九世紀上半期の上海県の米価は、一石(=一〇〇升=一五〇キロ)およそ二・五から三・〇両銀であり、これは三・八元から四・二元に相当する。つまり、一石を四・二元として計算すれば、全張の一等賞の賞金三万元は、お米約七、一四三石(つまり、一、〇七一、四五〇キロ)が購入できる金額であったと思われる。現在の米価(五キロで二、五〇〇円)を基準とすれば、五億円を超える金額になる。
このように賞金が高額であったこともあって、大衆のあいだで呂宋票の人気は沸騰し、その熱狂につれて、票行(宝くじの販売所)の数も激増した。 劉善齢 ( リュウ シャンリン ) は、上海には呂宋票を販売する票行としては、当初、別發洋行と望益紙館の二軒しかなかったと述べているが12、上で紹介した大呂宋公司の広告には、「豊和」「天成」「万有利」「広和」「万勝祥」「永吉」「同得利」「協記」「盈利」「立發」「必得」といった販売所の名前を認めることができる。このように、一八八四年になると、その数が少なくとも十数軒に増えたことがわかる。これらの票行は、販売地域を上海から全国に広げていった。『申報』の統計によれば、フィリピンが呂宋票によって一年間に得ることができた収入は、一〇八万元強に上り13、そのうちの七割から八割までが、中国で売られた呂宋票からの収益であった14。
一八九八年四月二五日、アメリカ連邦議会は、アメリカ・スペイン間の戦争を四月二一日に開始したことを宣言した。こうしてはじまった米西戦争は、スペインの植民地であるキューバ、フィリピン、グアム島を主な戦場とし、同年八月一二日に、米軍の全面勝利で停戦した。そして、同年一二月一〇日にパリで平和条約が締結され、アメリカは、フィリピンを含むスペインの植民地のほとんどを獲得した15。アメリカは、イギリスと同じく宝くじの禁止国であったために、一八九八年以降、フィリピンでの呂宋票の発売が停止され、それに伴い、中国における呂宋票の販売も停止された。
このように中国での呂宋票の購買者は、呂宋票が上海に進出したと考えられる一八六〇年代ないしは一八七〇年代から、アメリカとスペインの戦争が終了する一八九八年に向けて急増していったものと思われる。とりわけ、『申報』における広告量から判断すると、一八八四年以降一八九八年までのあいだにあって、その傾向が顕著に現われることになる。そしてそれに伴い、票行間の競争も激しくなり、そうした環境のなかから、月份牌を景品として利用しようとする発想が生まれたのではないかと考えられる。
以上に述べたことが、当時の呂宋票を取り巻く中国における事業の状況であった。それでは、呂宋票の景品として進呈される月份牌の広告のなかには、具体的には、実際どのようなことが記載されていたのであろうか。
一八八〇年代における月份牌に関する実質的に最初の広告となる、一八八四年一月一日(光緒九年十二月初四)付の『申報』の広告には、次のような内容が書き記されていた。
豊和行が販売する呂宋票には月份牌が進呈されます。 豊和行から一等賞が出ました。 当行では洋暦の一月票を販売します。全張六元、半張三元、条頭洋七角。お買い上げのお客様には、華英の月份牌をもれなく進呈しますので、お待ちしております。お買い上げの際に、上洋棋盤街北首中市をご指名ください。 呂商豊和行16。
この広告が掲載された十二月初四は、西暦の一月一日であり、この日に一月分の呂宋票が売り出されている。この時期は、中国では旧暦のお正月を迎えようとして、新年の準備に入る時期である。カレンダー(合暦)としての月份牌を贈呈する時期としては、この日が絶好の日だったのであろう。『申報』に現われた広告によれば、おおよそこの時期(一八八四年)から、呂宋票の販売が中止される一八九八年まで、呂宋票の景品として、毎年旧暦の年末のこの時期に月份牌が購入者に進呈されることになるのである。
明らかに呂宋票は外国の商品であった。そのために、呂宋票の発売日や当選公表日、さらには交換期間日などにかかわって、陽暦から陰暦へと変換する必要が、呂宋票の購入者のあいだで生じたに違いなかった。こうした事情は、最初期の月份牌が海運業や貿易業のあいだから発生したことと似ている。つまり、外国文化の移入に際してのひとつの対応の仕方として理解することができるのである。いずれにしても、こうした事情が背景にあって、合暦が記載された月份牌が、呂宋票の景品として、新年を迎えるこの時期に贈呈されるようになったものと思われる。
しかしこの段階に入ると、一八七〇年代の広告が、「英語から訳されて、正確に記載されています」ということを強調していたことに比べれば、むしろ、この時期以降の広告にあっては、月份牌に「絵」や「図」が入っているかどうかが強調されることになる。このことは、前節において「月份牌」という呼称の用例を四つに分けて説明したが、その四番目の用例と深くかかわるものである。つまりこの時期、暦としての「月份牌」を画面の中心的な場所に位置づけ、その周りに絵図を入れたような形式の構成物が登場し、その全体を指して「月份牌」と呼ぶようになるわけあるが、こうした観点に立って、一八八四年以降、呂宋票の販売が中止される一八九八年までの『申報』のなかの月份牌の広告を見てみたいと思う。以下は、そうした新たな「月份牌」がどのように生み出されていったのかを例証するものである。
まず、一八八四年七月一日(光緒十年閏五月初九)付の『申報』に掲載された泳記行の呂宋票広告に、次のような記述を見出すことができる。
泳記行 發財票。 發財票[呂宋票の異名]は長いあいだ、流行しています。しかし、ルソンでの抽選現場を知る人はほとんどいません。私は、去年の冬に泰西[西側の外国]から上海に戻る途中、[ルソン島に]立ち寄ってきました。同地で抽選のシステムが公正に運営されているのを見ました。[發財票は]このように真に公正なものであるがために、遠方の人までをも魅了し、中国人も外国人もみな、喜んで買うのでしょう。抽選の状況については、別紙に詳しく記録したものを、票[呂宋票]に付けます。現在、七月分の全張、半張、分条を販売中で、価格は市場価格と同じです。上海以外の地区は、上洋四馬路の第一楼向い側までお問い合わせください。 泳記行啓17。
この広告から明らかなことは、[呂宋票の販売店である]泳記行が、ルソン島で呂宋票の抽選が公正に行なわれている様子を購買者に伝えようとしていることである。しかし、この一八八四年七月の時点では、景品に付けられたものは、まだ「絵」や「図」といったものではなく、「別紙に詳しく記録したもの」、つまり文章によって説明されたチラシのようなものであったと思われる。もちろん、これを「月份牌」とも呼んでいない。ところが、その年の末の一八八四年一二月二九日(光緒十年十一月十三日)付の『申報』には、「月份牌」という名称は使われていないものの、「絵図年月要覧」という名称を使って、次のような広告が掲載されている。
廣發 陽暦正月の票。 一月票の規則は従来どおりです。全張、半張、条頭[の値段]は市場価格どおりです。電報にて一二月四日の抽選結果を当選者に伝えます。[当選者の]名前はいっさい外部に公表せず、新聞にも掲載しません。年内に賞金を現金でもらえます。このチャンスをぜひお見逃しなく。[購買に関する]手紙は四馬路まで。絵図年月要覧をもれなく贈呈18。
この広告では、「絵図年月要覧」を贈呈すると書かれている。「年月要覧」という文言から判断すると、明らかに、これは「暦」のことであり、「月份牌」を意味しているであろう。しかしここには、「絵図」という文言が頭にかぶさっている。これは、何を意味するのであろうか。考えられるのは、「月份牌」とだけいえば、単に「暦」のみを表わし、「絵図年月要覧」と表記することによって、「絵のある暦」、つまり「絵の入った月份牌」を表わしたかったのではないだろうか。しかし、その「絵」がどのようなものであったのか、その内容は、ここからはわからない。
上に紹介した「廣發 陽暦正月の票」の広告に先立つ、それ以前の広告においては、月份牌に絵や図が入っていることを述べたものはひとつも見当たらない。しかしその一方で、この広告が掲載された一八八四年一二月二九日以降にあっては、月份牌のなかの絵または図について記述された広告が続々と登場するのである。ここから、絵や図の内容を、少しずつ読み解くことができる。
一八八五年一一月二二日(光緒十一年十月十六日)付の『申報』に、次のような広告が掲載されている。
三点老泳記 巨額を惜しまず偽物を防ぎます。 当行は、二〇年以上の歴史があり、一等賞が十数回、四、五等賞が数えきれないほど出ました。お金持ちになった人の数も数えきれません。したがって、お客様の厚い信頼を受けて繁盛してきました。しかし、[本来当行に運ばれなければならないにもかかわらず、それに反して]人徳のない人びとが当行の利益を狙い、当行宛の購買手紙を他社に回し、当行の印鑑まで偽造し、遠方のお客様を騙しています。騙しの手口は巧妙で、防ぐことはなかなか厄介でした。そこで、我々はルソンにいる西洋人の代表者に連絡し、巨額を投じて抽選現場の様子を西洋の写真法で撮り、さらには、石版印刷を用いて開彩全図[宝くじ抽選の様子を描いた絵図]を印刷しました。さらにそのうえに、この開彩全図のなかに、上洋[上海]にある当行の店舗の外観図と、封筒にある「天官」マークとを入れました。この全図は、票と一緒に贈呈しますので、ぜひご確認ください。また、点石斎の画報の最新号も同時に進呈します。石版印刷は模倣が困難ですので、巨額を惜しまず石版でつくることで偽物を防ぎます。現在、一二月分大票を販売中です。双張一二元、単張、四開は市場価格どおり、分条七角です19。
この広告からわかることは、泳記行が呂宋票の景品として付けたのは、呂宋票の抽選現場を描いた絵、すなわち「開彩全図」であり、そのなかに、店舗の外観図やロゴマークなどが描き加えられていた。それは、自社が販売する呂宋票の偽物が市中に流通することを防ぐための手段であった。つまり、「開彩全図」という景品は、入手した呂宋票が確かに信頼できる店から購入されたことを示す、ひとつの証明書としての機能を果たしていたのである。しかしその絵は、この広告を読む限り、あくまでも一枚の独立した「開彩全図」という印刷物であって、「開彩全図」が入った月份牌(暦)ではない。「開彩図月份牌」と呼ばれるものが製作されていたことがわかるのは、次に紹介する一八八六年一二月一日(光緒十二年十一月初六)付の豊和行の広告においてなのである。つまりこの広告が、月份牌のなかに、どのような絵や図が挿入されていたのかが、はっきりと明示されている、『申報』における最も早い広告の例ということになる。
豊和老行は、ルソン開彩図の月份牌を票に付けて贈呈します。ぜひご覧ください。 当店主は 昨日 ( ママ ) 、抽選の実際の場を確認して、ルソン島から中国に戻ってきました。そして、特別に名手にその様子を描くことを依頼し、月份牌のなかに絵として入れました。こうすることによって、どのお客様にも抽選の実際の様子を絵として見ていただくことができるので、[この票が]公正なものであることが証明されます。現在、一二月の大票を販売中です。ご購入を心からお待ちしています。 呂商豊和老行20
前述の一八八四年一二月二九日の「廣發 陽暦正月の票」の広告に見られる「絵図年月要覧」が、どのような「絵図」であったのかは、その内容にかかわる記載がないので不明であったが、この一八八六年一二月一日の豊和老行の広告に至って、はじめて「絵」についての具体的な記述を認めることができ、したがってそこから、「絵図」の内容を類推することが可能となる。
この広告文から明らかなように、抽選はルソン島で行なわれており、豊和老行の店主が、その事実や公正さを確認するためにルソン島に渡っていたのである。さらにこの広告文から、呂宋票の景品として「開彩図」が入った、新たな形式の「月份牌」が提供されたことも、理解できる。「開彩図」とは、すでに述べたように、抽選光景の絵図のことであり、これまで単独の絵図であった「開彩図」が「月份牌」のなかに入ってきたことを意味している。またこの広告から、遠くフィリピンで抽選が公正に行なわれていることを、呂宋票の購入者たちにアピールするために「開彩図」が用いられていることもわかるであろう。
一方、四日後の一八八六年一二月五日付の『申報』に掲載された同福利の広告には、呂宋票の購入者には、豊和老行の広告で述べられていたような「開彩図」の入った月份牌ではなく、「五福上寿図」が入った月份牌を贈呈することが示されている。
一二月の大票。 当行は、多額のお金を使って、描金の技法で名家に描いてもらった「五福上寿図」月份牌をお買い上げいただいた票につけて贈呈します。色はとても雅で、図もきわめて精巧で、大変美しいです。みなさんにぜひとも早く見ていただきたいと思います。いまの販売は一二月の票です。双張、単張、四開は市価どおり、条頭は七角。上洋棋盤街までお越しください。 同福利21
この月份牌に描かれている「五福上寿図」とは、五つの幸せである「寿、富、康寧、攸好徳、考終命」22をもった 郭子儀 ( ゴオ ヅィイ ) という武将(天官)が誕生日を迎えた場面を描いた図であると考えられるが、このモティーフは、しばしば伝統的な年画に見ることができる。このように、この年(一八八六年)の年末の広告を見ると、豊和老行は「開彩図月份牌」を、同福利は「五福上寿図月份牌」を呂宋票の景品として贈呈しているのである。しかし、「開彩図」が同時代的関心事としてのモティーフであるのに比べて、「五福上寿図」は明らかに旧来のモティーフといえる。つまり、当時の月份牌には、年画に見られる伝統的なモティーフが一部で確かに利用されて再現しているのである。それはなぜなのか――それは、立証するにふさわしい直接的な資料が不足しているので、十分に明らかにすることはできない。しかしながら、この章の第六節「月份牌の価格と印刷地」において、年画に見られるような伝統的なモティーフを用いた月份牌が低価格であったことを示すことになる。そこから若干の推論は可能となるであろう。
それでは次に、一八八九年一一月二五日(光緒十五年十一月十三日)付の『申報』に掲載された鴻福来票行の広告を見てみよう。ここで言及されている月份牌には、「開彩図」ではなくて、上海の風景が描かれていたことが示されている。
景勝の月份牌を贈呈または販売します。上海鴻福来からのお知らせ。 一枚二角、一元で六枚。 当行は、コストを惜しまず、西洋銅版画の技法を用いて名人が描いた絵をつくりました。大競馬、大自鳴鐘、大橋、花園、黄浦灘、電灯、水道、巡捕房[警察署]、静安寺、遊女、遊び客、一層楼などを含む景色がたくさん描かれており、ここではとても書ききれません。見ていただければ、まるで海上[上海]に来たような気持ちになるでしょう。カラーの西洋紙に全部金色で印刷したものもあります。呂宋票に付けて無料で進呈します。呂宋票を買いたくない人には、[月份牌だけを]一枚につき材料費二角をいただいて販売することもできます。遠方からの通信購入をされる場合は、料金をご負担ください。大口仕入れの場合は、別途ご相談ください。各種の精巧図案の説明書、紙幣などの印刷も請け負っています。良心的価格で対応します23。
鴻福来票行のこの広告は、「勝景の月份牌」と名づけられた月份牌を呂宋票の景品として進呈していたことを示している。「勝景」とは、「素晴らしい景色」という意味で、この月份牌に描かれた「大競馬、大自鳴鐘、大橋、花園、黄浦灘、電灯、水道、巡捕房[警察署]、静安寺、遊女、遊び客、一層楼」はすべて、当時の上海租界の光景であった。
さらに一八九二年一月一〇日(光緒十七年十二月十一日)付の『申報』に掲載された、同じく上海鴻福来の広告にあっては、「滬景と呂宋開彩図」が付けられた月份牌の様子が記述されている。
カラーの滬景の月份牌を景品で贈呈します。 もし月份牌だけをお望みでしたら、一枚四角で販売します。 上海鴻福来は、白地に極彩色と金粉で描いた滬景と呂宋開彩図を配し、中国と西洋の両方の暦を記載した月份牌を新たに製作しました。毎年の恒例として、呂宋票に付けて無料で進呈します。とても精密に描かれていますので、[図を]ご覧いただければ、上海を見たのと同じ気分を味わうことができます24。
この広告内容から、この月份牌には、「滬景」つまり「上海の風景」と、「呂宋開彩図」つまり「ルソン島での抽選風景」とがあわさって描かれていることを読み取ることができるであろう。
それでは最後に、一八九六年一月二四日[光緒二十一年十二月初十]付で『申報』掲載された鴻福來の広告のなかで記述されている月份牌について、紹介しておこう。呂宋票の販売は、一八九八年をもって終了するが、これは、その二年前の広告ということになる。
鴻福來は[呂宋票とは別に、小額の]宝くじを贈呈します。五彩描金[カラーと金粉]の滬景開彩圖の月份牌も同時に贈呈します。 小行が大賞を連続して出したことは、内外に知られています。小行の呂宋票の偽物が出ることもありますので、[小行ではお買い上げいただいた本票以外に、小額の]宝くじを贈呈することで、その弊害を防ぎます。現在、陽暦二月の呂宋票を販売中です。双張一二元で、[小額の]宝くじの双張ひとつを贈呈します。単張、四開も同価格で計算します。分条七角でも、宝くじを贈呈します。[購買の]手紙が届きましたら、すぐに送ります。 上海四馬路25。
この広告で記述されている月份牌にも、一八九二年一月一〇日付の『申報』に掲載された、同じ鴻福来の広告同様に、上海の景色を意味する「滬景」と、宝くじの抽選の様子が描かれた「開彩図」とがあわさった絵が挿入されている。
実はこの一八九六年一月二四日の鴻福來の広告のなかに登場する「滬景開彩圖の月份牌」が、すでに第一章第一節の「月份牌の起源に関する諸説と新発見」において示したように、王樹村が最初の月份牌として特定した月份牌だったのである。しかし、これまでの例証で明らかなように、「滬景」と「開彩圖」が描かれた月份牌は、これが最初のものではなく、少なくとも一八九二年一月一〇日の鴻福来の広告に、そうした絵図を見てとることができるのである。この点からも、王の特定した月份牌をもって、月份牌の起源と考えることはできないのである。
しかし前節で紹介したように、王は、上記の説を説いた論文のなかで、実は、この月份牌のなかの月日を表わすカレンダーの部分は、別印刷されたのちに、絵に貼り付けたものである、と以下のように述べている。
図のなかの「発財評華英月日夷礼拝単」は別印刷され、貼り付けられたのである。……図の中心に、「光緒二十二年歳次丙申英一八九六至一八九七年」「発財評華英月日夷礼拝単」が貼り付けられ、陰陽両暦の対照表となっている26。
このことから判断すれば、これまでに述べてきた、一八八四年の「絵図年月要覧」から一八九二年の「滬景と呂宋開彩図」を備えた「月份牌」までの月份牌が、王が所有する一八九六年の「月份牌」同様に、絵図のなかに暦が貼り込まれて構成されたような月份牌だった可能性もある。その一方で、最初から一枚物の月份牌として、絵図と暦が同時に印刷されていたた可能性も否定することはできない。いずれが事実であろうとも、残念ながら、そのことを明確にする根拠資料は『申報』の広告には残されていない。
以上に見てきたように、月份牌に画像が出現するようになったのは、ルソン島における呂宋票の抽選の光景(開彩図)を描くことによって、購入される呂宋票が公正なものであることを証明するためであった。そしてまた、呂宋票の販売が拡大することによって、販売店間の競争が激しくなったためであろうか、代理店としての正当性を主張するために、ある販売店は上海の景色(滬景)をカレンダーと一緒に同じ画面に配置して、新たな形式の「月份牌」を製作した。また別の販売店は、伝統的な年画のモティーフを再利用した月份牌を製作して、呂宋票の購入者へ景品として贈呈した。
しかしながら、景品として月份牌が利用されたのは、呂宋票の販売に際してだけではなかった。日刊新聞『申報』の景品としても月份牌は利用されたのであった。
一八八四年から一九〇八年にかけての月份牌の発展に関しては、もうひとつ言及しておかなければならない重要な要素があった。それは、月份牌がこの時期、『申報』それ自体の景品として進呈されていたことである。
申報館は、光緒十年の正月初六(一八八四年二月二日)から、毎年『申報』の読者に月份牌の贈呈を行なった。一八八四年一月二五日付の『申報』に掲載された社告には、月份牌の贈呈について次のように記されている。
月分牌を差し上げます。申報館主人より。 当館は、点石斎[石印書局]に依頼し、華洋の月分牌[中国と西洋の合暦]を特別に製作しました。来年一月の初六付の新聞に挟んで無料で贈呈します。この「牌」は、特別に加工され、字には赤と緑の二色が使われています。中国暦が赤い字、西洋暦が緑の字になっており、二色が交互に表われて模様のような感じになっています。中国暦の二四の節句を月の下に配しています。西洋の日曜日も行と行のあいだに記されているので、調べるのにとても便利です。厚くて白い外国紙に印刷し、牌の周りには縁の飾りも印刷されており、とてもきれいです。お好みで、壁に掛けても書氈に挟んでもとても美しいです。どうぞお楽しみに27。
申報館が『申報』に挟んで月份牌を贈呈しようとした「一月初六日付」は、正月明けの最初の発行日であった。その意味で、カレンダーとしての月份牌を景品として贈呈するには、この日は最もいいタイミングであった。こうした正月のこの時期に月份牌を購読者に贈呈する慣行は、一九〇八年まで続くことになる。この種の月份牌の贈呈広告は、申報館の社告として、常に『申報』第一面の題字と社論のあいだに挟まれた箇所に掲載されていた。紙面の同じ位置に掲載された広告としては、申報館が出版する書籍への出資者募集の広告や、新刊書の価格表などがあった。この位置に掲載された月份牌に関係する広告としては、上で紹介した一八八四年一月二五日の広告が最初のものであった。
この広告文を読むと、このとき申報館によって贈呈された月份牌は、赤色と緑色の二色を使って陰暦と陽暦の両暦が表記され、その周りに「縁の飾り」が施されていたことは確かにわかるが、絵や図案に関する記述はないため、それについては不明となっている。しかしながら、一年後の一八八五年一月二九日(光緒十年十二月十四日)の『申報』の第一面の同じ位置を見ると、申報館による次の広告が掲載されている。
月份牌贈呈のお知らせ。申報館主人より。 師走もまもなく終わり、そろそろ新年が来ます。当館は月份牌を愛読者のみなさまに配る慣例があり、すでに点石斎に委託し、中西月份牌を石印で印刷しています。当月份牌は、真っ白な西洋紙を使い、中央には目が覚めるような美しい赤い字で中西合暦が、そしてその周りには緑色で一二の芝居が干支の順に沿って描かれています。この発想は斬新で、模様は精緻です。どれも名人の手になるものです。ご覧いただければ、手放さないで大切にもっておこうと思われることでしょう。年明けにできしだい、新聞に付けて進呈します。取り急ぎ予告まで28。
この広告で述べられている月份牌は、一年前の一八八四年一月二五日付の『申報』に掲載された社告で言及されていた月份牌と比べて、レイアウトが大きく進化している。中心に、赤色で表記された陰暦と陽暦併記の暦が配され、その周りを囲むように、緑色で一二の芝居の絵が描かれているのである。このことから、明らかに、面積的に暦の部分が減少し、図の部分が増大していることがわかる。また、前者の社告では、「調べるのにとても便利です」という文言があるのに対して、後者の社告では、「この発想は斬新で、模様は精緻です」という文言が記されている。このことからして、前年の社告に比べて、視覚的な美しさが追求されはじめたのではないかと推量することもできるのである。
申報館発行の『申報』の景品として挿入された光緒十五年(一八八九年)の月份牌【図一〇】が、これまでのところ現存する最も古い月份牌とみなされており、現在、上海図書館に所蔵されている。一八八九年一月二四日(光緒十四年十二月二十三日)の『申報』に、この月份牌の贈呈についての広告が掲載されている。
月份牌印刷のお知らせ。申報舘主人より。 当館は、年が明けるにあたって、中西対照月份牌を印刷し、愛読者のみなさまに贈呈することにしています。今年もすでに彫版も終わり、今日から印刷の予定です。縁飾りの模様は、著名な絵師に依頼し、二十四孝の物語を描きました。人物も景色も精妙無比です。赤と緑の二色版で印刷されています。最も良質の西洋紙に印刷され、往年のものよりも丁寧につくられています。中西の暦を毎日確認できるだけではなく、座席の傍に掛けても斬新でかわいい感じがするでしょう。でき上がり次第、新年の新聞に付けてみなさまに配布します。取り急ぎお知らせまで29。
【図一〇】を見ると、この広告の記述にあるとおり、暦が中央の位置に配され、絵が暦の周りを囲んでいる。真ん中の暦には、「申報館印送中西月份牌」と記されている。その下には、「光緒十五年歳次己丑 西暦一千八百八十九年至八百九十年」という表記にあるように、中国と西洋の記年法で年が記されている。さらにその下には、一二の欄が設けられて、漢数字を使って陰暦が表記され、各日に対応する陽暦がアラビア数字によって併記されている。周りに描かれた絵は、伝統的人物画によく用いられる「白描」と呼ばれる手法で、二四の物語をサイクル状に描いたものである。各物語は枠や線では分節されず、人物の背景のなかにある石や、木、あるいは建物の柱や壁などによって「自然に」分けられている。
呂宋票の景品として使用された月份牌には、伝統的な武将がモティーフとして挿入されたものもあれば、同時代的な新しいモティーフである開彩図や上海の風景が描かれたものもあった。しかし、申報館が景品として贈呈した月份牌の絵図のモティーフは、すべてにおいて伝統的な物語によって構成されていた。
他方、呂宋票の景品としての月份牌と、申報館が景品として贈呈した月份牌のあいだには、もうひとつの違いがあった。それは、これまでの記述からもわかるように、前者の月份牌についていえば、絵図のなかに暦が貼り込まれて構成されたような月份牌であった可能性があるが、しかし後者の月份牌は、その可能性はなく、すべて、最初から一枚物の月份牌として、絵図と暦が同時に印刷されていた。
申報館が出稿した別の年の月份牌贈呈に関する広告を見てみると、記述内容としては、上で示した一八八九年一月二四日の広告とほぼ同じであることがわかる。そのことから判断すると、申報館の月份牌贈呈の最後の広告となる、一九〇八年二月一五日の広告において言及されている月份牌までにあって、デザインに関していえば、上記紹介の【図一〇】のデザインと大きな変化はなかったものと思われる。
すでに紹介した一八八四年一月二五日付の『申報』に掲載された広告に見られるように、申報館は「点石斎[石印書局]に依頼し、華洋の月分牌[中国と西洋の合暦]を特別に製作」していた。また、第一章第四節の「最初期の月份牌の印刷技法」においてすでに述べたように、申報館は、点石斎石印書局という最先端の石版印刷技術をもつ工場を有していた。このことが、月份牌の精度を高めることに寄与し、一八八五年一月二九日の広告に見られるような、「この発想は斬新で、模様は精緻です」という紹介内容へつながっていったものと考えられる。そしてそのことは、実は、点石斎石印書局が刊行する『点石斎画報』と、また、そこで働く絵師たちと、ある意味で連動していたのであった。
一八七九年、『申報』の生みの親であるアーニスト・メイジャーは、『申報』の発行元である申報館の傘下に「点石斎石印書局」を設立し、土山湾印刷所の石版印刷技師であった 邱子昂 ( チュウ ヅィアン ) を招いて、石版印刷の事業を開始した。最初上海で石版印刷技術が用いられた徐家匯にある土山湾印刷所とは違い、メイジャーは、キリスト教の宣伝品や聖書などではなく、彼が蒐集してきた古典籍を石版技術によって復刻し、それらを販売することをはじめた。その石版印刷技術を用いた書籍は、原書と全く同じような版形であったり、縮小されたりしてはいたものの、文字そのものはきわめて鮮明であった、と語り継がれてきている30。また木版よりもコストが低く抑えられため、廉価で販売された復刻本は、当時の知識人たちに大いに歓迎された。それについては、商務印書館編『最近三十五年之中国教育』所収の「三十五年来中国之印刷術」のなかで、賀聖鼐は、 姚公鶴 ( ヤオ ゴンヘ ) の『上海閑話』の以下の一部を引用している。
点石斎[石印書局]が石版印刷したもののうち、一番儲かった本は『康煕字典』だったといわれる。最初は四万部印刷したが、数箇月で全部売りきれたらしい。二回目は六万部印刷された。ちょうど試験を受けるために上京したある科挙子は、上海に寄った際、自分用と友人への土産用に五、六部も買ったとか。[このように]二回目の六万部も数箇月内に完売した31。
点石斎の成功に刺激されて、上海ではさまざまな印刷局が建てられ、石版印刷書籍のブームが沸き起こった。書籍だけではなく、創立当年から点石斎は、その進んだ石版技術を柔軟に使い、年末年始のときには「門聯」や「衆神図」32を、中仏戦争のときにはベトナムの地図を、時節にあわせて製作した。たとえば、一八八〇年一二月二八日(光緒庚辰十一月念七日)の『申報』には、発売に関するこのような広告が掲載されている。
任伯年 ( ニン ボニェン ) が描いた山水 □ ( 欠 ) 神図を発売します。 旧い年も残りわずか、新しい年がまもなく来ます。家々にとって神を祭ることが一大事です。当斎は、高い揮毫料を払い、任伯年氏に頼んで、小李将軍の山水神軸のスタイルに則って一枚の山水神軸を描かせました。長さは六尺あり、当斎によって石印で作製しました。山水は青緑色で着色され、美しさにうっとりさせられます。景色の合間に雲が流れ、高い松が天まで伸びています。松の木の下に、四神が立っています。一に城隍の神、一に土地の神、一に竈の神、一に富の神です。井戸の神は、あぐらをかいています。松の木の傍にある白石の橋は、符の神の位置です。神は早馬に乗ってきます。また、左には杏花台があり、右に石蔵の欄干が取り巻いていて、とても静かで優雅な景色です。山の峯には天台があり、日月が一緒に並んでいるところが将軍の位置です。その線は非常に □ ( 欠 ) □ ( 欠 ) です。広間に掛ければとても美しいでしょう。いま当館の申昌書画室で発売しています。 □ ( 欠 ) 色のものは五角、着色したものは一元、表装したものは、別に表装料金六角が加算されます33。 当館発売
任伯年は、当時の有名な画家である。光緒八年正月初六(一八八二年二月二三日)の『申報』を見ると、彼が描いた絵が、新年の挨拶として掲載されている【図一一】。明らかにこの絵は、伝統的な中国画の描き方(白描)を使い、そしてまた、伝統的なテーマ(道教の神仙や吉祥模様)でもって描かれている。
さらにメイジャーは、一八八四年に中法戦争の報道を目的として『点石斎画報』を創刊した。『点石斎画報』の創刊に関する広告が、一八八四年五月八日(光緒十年四月十四日)の『申報』に掲載されている。
画報を販売します。 当館は、新しく画報を創刊します。[この画報は]名手の画師を招き、新聞のなかから敬うべきことや喜ぶべきことを選び、絵に描き、略伝も添えて点石斎によって印刷されます。毎月定期的に数回、毎回八枚の絵[によって構成されます]。新聞販売人が、新聞と同時に販売します。一冊をただの五分の値段で販売します。[その絵は]描写が精緻で、筆遣いが細かく、書き加えられた背景もとても精巧です。ご覧になれば、ご購読のみなさまはきっと[その素晴らしさを]賞賛されるはずなので、ここではいちいちくどく述べる必要もないと思います。上海では、新聞販売人以外に、申昌書画室でも販売しています。ほかの都市なら新聞と一緒に郵送させていただきます。四月一四日に第一巻を発売します34。
『点石斎画報』は中国で最初の画報であった。この画報は、外国の先進科学技術や政治体制、地理や珍事件などの中国人にとっての「外の世界」と、国内のさまざまな出来事や伝統的ないしは教訓的な怪談話などの中国人の「経験のなかの世界」とのふたつの異なる世界を、現代の目から見れば奇妙で矛盾しているとしか思えないようなイデオロギーにより統合するかたちでもって、つくり出されていた。こうした表現のなかでは、現実と虚偽が混じり合い、事実と空想が区別されなくなるものの、しかし、そうした形式は、当時の知識人にとって、ある意味で適切であったといえるであろう。なぜならば、それによって読者は、全く理解できない西洋の科学技術などを無理やりにでも自らの伝統的な価値観のなかに収めることができたからである。もっとも、そうせざるを得なかったがために、『点石斎画報』は、新しい刺激をそのまま伝えず、その強大な衝撃を弱めることによって、結果的に「新奇逸聞」(おもしろく、おかしい話)になってしまったということもできる。その意味で、『点石斎画報』は、価値観が転換するこの時期の中国知識人の彷徨と苦痛を忠実に反映したものだった。しかし、このことについて 郭恩慈 ( ゴオ エンツウ ) と 蘇珏 ( スウ ジョイ ) は、西洋的発展を善とする歴史的立場に立って、異なる見解を示している。
[『点石斎画報』は]新聞媒体として、封建主義と迷信の思想を広範囲に発信しているに過ぎない。大衆に対して世界の新しい変化を伝えないだけでなく、逆に封建・迷信の伝統的価値観を強化するとともに、民衆の視野の拡大と、客観的な科学的精神による新知識と新科学の学習とを妨害している。世界の全体的な形勢と自分自身の位置を適切に確認することもできなくなる35。
それでも、掲載された内容のもつ価値や意味の評価は別にすれば、一八九八年の廃刊までの一五年間、いや、一九〇五年に商務印書館が日本から新しい多色石版印刷技術を導入するまでの二十数年間、当時の中国の印刷技術の点から見れば、『点石斎画報』は、印刷物としてその頂点に立つ存在であったのである。
この『点石斎画報』にあっては、 呉友如 ( ウ ユウル ) [字を 嘉猷 ( ジャユウ ) という](?-一八九三年)、 張志瀛 ( ジャン ジイン ) (生没年不明)、 周権 ( ジュウ チョアン ) [彼は 慕橋 ( ムチョ ) と 慕喬 ( ムチョ ) のふたつの字、つまり別名をもつ](一八六八-一九二二年)、 金桂 ( ジン グイ ) [字を 蟾香 ( チャアン シャン ) という](生没年不明)といった絵師たちが主として活躍していた。張志瀛は呉友如の師匠であり、周慕橋はこのときはまだ若手であったが、後に商業広告ポスターとしての月份牌を描く絵師の第一人者として知られるようになる人物である。
残念ながら周慕橋の経歴についてはほとんど知られていない。しかし、『点石斎画報』に掲載された絵に付けられた署名から、彼が『点石斎画報』に勤めていた期間を推測することができる。一八八四年五月から一八八五年四月までのあいだ、周が署名した作品が三三枚もあるのに対して、一八八五年四月から一八八六年四月までの一年間には、その数は一六枚までに減っている。そして一八八六年以降、彼の作品が消えるのである36。周が『点石斎画報』の画師として勤めた期間は一八八四年から一八八六年までの約二年間でしかないが、その後の一八九七年までには、同じく『点石斎画报』の絵師として名高かった呉友如と組んで、『飛影閣画伝全集』を出版している37。このことは、『申報』に掲載されている南京天禄閣(書店ではないかと思われる)の広告から判断することができるものの、しかしながら、その内容については不明のままとなっている。
この二年間の周の作品を見ると、広角的な場面を描くことが多く、その際、建物の外観や室内については透視図法的手法が用いられている。また、人物については、頭部に比較して手足を長く描くことが特徴的であり、その描写は、細かい線を使い、細部まで丁寧に描かれている。たとえば、【図一二】が、そうした周の特徴を表現している作例といえる。彼のこのような画風は、のちに彼が描く月份牌【図一三】にも認めることができる。【図一二】を見てもわかるように、明らかに室内は透視図法的に描かれているし、登場する人物も、人体の比例からすれば手足が極端に長く描かれている。このように、手足の表現や室内の表現に関しては、西洋的な描き方を導入しようとする意図を認めることができる。しかしながら、必ずしも正確な比例や分割、あるいは透視図法的表現になっていないことも、認めざるを得ない。一方、構図の点から見れば、主要人物は全身像として描かれているし、また、それぞれの人物に焦点をあわせる散点透視(あるいは多焦点透視)の手法が用いられており、この点については、中国の伝統的な表現を踏襲しているといえるであろう。このように、周慕橋に関していえば、明らかに、『点石斎画報』において展開した表現形式(つまり中国の伝統的な表現のなかに、稚拙ではあるが、西洋的な表現を導入しようとする表現上の手法)が、そのままその後の月份牌の表現形式へとつながることになるのである。
それでは、この時期の月份牌の価格は、どのくらいであったのであろうか。また、月份牌は、どこで製作されていたのであろうか。
すでに第一章第一節の「月份牌の起源に関する諸説と新発見」において引用した一八七五年一月二九日の『申報』に掲載された瓊記洋行内印字房の広告を改めてここで見てみると、次のように、値引きはされているものの、月份牌が「一枚、一五〇文」で販売されていることがわかる。
値引きして売ります。 新しくできたイギリス、フランス、アメリカ三箇国の会社の蒸気船の出入港の期日が付いた月份牌を発売中です。一枚、一五〇文。 瓊記洋行内印字房 謹啓38。
一方、一八七六年一月三日付『申報』の海利号の広告では、具体的な価格は明記されていないが、以下に読めるように、「価格は良心的」と書かれている。
中国と西洋の月份牌。 当店は光緒二年の中国暦と西洋暦併記の月份牌を印刷し発売しております。そのなかにイギリス、アメリカ、およびフランスの船会社の書簡を運ぶ船の出入港日が記載されており、それは英語から訳されて、正確に記されています。また色刷りなので、とても見やすいです。価格も良心的ですので、どうぞご愛顧を。以上お知らせまで。 一二月初七日 棋盤街 海利号 啓39。
このふたつの広告から判断して、最初期の月份牌が、値段の付いた商品として扱われていることがわかる。それでは、前者の広告に見られる一枚につき「一五〇文」とは、どれくらいの価格だったのであろうか。同じ日付の『申報』には、『申報』一部が「一〇文」であることが告げられている40。そこから判断すると、月份牌一枚の価格は、『申報』一五部分に相当していたことがわかる。必ずしも正確な比較にはならないかもしれないが、今日、日刊新聞(朝刊)が店頭で一二〇円の値段で販売されていることから類推すれば、一八七五年当時の月份牌は、今日の価格にして一、八〇〇円相当で売られていたということになる。
上で示した一八七〇年代のふたつの広告から判断すると、西洋暦と中国暦を併記したカレンダーである月份牌は、明らかに商品として売られていた。しかし、これもすでに言及しているように、一八八〇年代に入ると、呂宋票や『申報』の購入時の景品として、新しい年を迎える時期に購入者に贈呈されるようになる。景品として進呈される場合には、もちろん無料なのであるが、月份牌単独で購入することも可能で、その場合には値段が付けられていた。
まず、一八八九年一一月二五日(光緒十五年一一月一三日)付の『申報』における鴻福来票行の広告を見ると、月份牌の値段が次のように明示されている。すでに詳述したように、この月份牌は、単なる暦ではなく、暦に加えて上海の景色が描かれており、印刷は銅版画によるものであった。
景勝の月份牌を贈呈または販売します。上海鴻福来からのお知らせ。 一枚二角、一元で六枚。 当行は、コストを惜しまず、西洋銅版画の技法を用いて名人が描いた絵をつくりました。大競馬、大自鳴鐘、大橋、花園、黄浦灘、電灯、水道、巡捕房[警察署]、静安寺、遊女、遊び客、一層楼などを含む景色がたくさん描かれており、ここではとても書ききれません。見ていただければ、まるで海上[上海]に来たような気持ちになるでしょう。カラーの西洋紙に全部金色で印刷したものもあります。呂宋票に付けて無料で進呈します。呂宋票を買いたくない人には、[月份牌だけを]一枚につき材料費二角をいただいて販売することもできます。遠方からの通信購入をされる場合は、料金をご負担ください。大口仕入れの場合は、別途ご相談ください。各種の精巧図案の説明書、紙幣などの印刷も請け負っています。良心的価格で対応します41。
さてそこで、ここで使われているお金の単位である「角」と「元」であるが、「一枚二角、一元で六枚」という文言から、おそらくは「一元=一〇角」であったものと思われる。一方、光緒二十九年四月初四日(一九〇三年四月三〇日)付の『申報』に掲載された社説「論中国圜法之壊」のなかに、「道咸[正式には道光と咸豊で、一八五〇年代からの年号]以降……銀一両毎を制銭千八、九百文に[兌換でき]、スペイン銀貨一元が制銭千二、三百文に相当する、同治[一八六二年から一八七四年まで]の時代にもあまり変わらなかった」という記述を見出すことができる。このことか判断すれば、「一元=一、二〇〇~一、三〇〇文」に相当していたことがわかる。それらを根拠に算出するならば、一八八九年における月份牌一枚が二角というのであれば、それは〇・二元となり、二四〇~二六〇文に相当することになる。一八七五年においては月份牌一枚が一五〇文であったことからして、幾分高くなっていることがわかる。しかし、一八八九年おける印刷方法は銅版画で、色は金色単色であるが、一八七五年における印刷方法と色は特定することができないし、また印刷部数についても、双方の月份牌とも明らかにすることができないので、単純に高価なものになったという判断を下すことはできないかもしれない。
次に、一八九二年一月一〇日(光緒十七年十二月十一日)付の『申報』に掲載された広告を見てみよう。
カラーの滬景の月份牌を景品で贈呈します。 もし月份牌だけをお望みでしたら、一枚四角で販売します。 上海鴻福来は、白地に極彩色と金粉で描いた滬景と呂宋開彩図を配し、中国と西洋の両方の暦を記載した月份牌を新たに製作しました。毎年の恒例として、呂宋票に付けて無料で進呈します。とても精密に描かれていますので、[図を]ご覧いただければ、上海を見たのと同じ気分を味わうことができます42。
この広告にある月份牌は、内容的には、中国と西洋の両方の暦に加えて、上海の景色と呂宋票の抽選風景が、白地に極彩色と金粉で描かれている。しかしながら、印刷方法や発行部数については、ここからは特定できない。価格が「一枚四角」と告げられているので、一八八九年の広告に現われた月份牌(一枚二角)の、ちょうど二倍になり、四八〇~五二〇文に相当する。なぜこの時期に、このような高額な月份牌が出現したのであろうか。
この時期の高額月份牌の出現の可能性として、次のふたつのことが考えられる。ひとつは、イギリスで印刷されために高額になった可能性である。すでに第一章第四節の「最初期の月份牌の印刷技法」のなかで紹介したように、『三十五年来中国之印刷史』のなかで著者の 賀聖鼐 ( ヘ シィンナイ ) は、中国国内における多色刷の石版印刷に関連して、次のように述べている。
当時[点石斎石印書局の時代(一八七九年から一九〇九年まで)]は、上海では多色刷の石版印刷[技術]はなかった。市場で発行されるカラーの石版印刷の月份牌は、すべてその原稿を、雲錦公司を通じてイギリスのカラー石版印刷局に送り、そこで印刷してもらった43。
上の引用文は、月份牌のなかには、原稿を送って、イギリスにおいて多色石版印刷で刷られていたものがあることを示している。すでに紹介した瓊記洋行一八七五年一月二九日の『申報』に掲載された瓊記洋行の広告の末尾には、「瓊記洋行内印字房謹啓」という表記が見られ、このことから、この広告が示す月份牌は、明らかに上海において製作されていることがわかる。ところが、第一章第四節の「最初期の月份牌の印刷技法」において紹介した、一八九三年一月二九日付『申報』のなかの上海楽善堂老舗薬局の広告を見ると、「ただいま上海に届きました」という文言が使われており、このことは、この薬屋が「十数年以来」贈呈していた月份牌は、上海ではなく、外国で製作されていた可能性を示唆している。このように見てくると、この時期の月份牌が、上海と同時に外国において製作されていたことがわかるであろう。
そのように考えるならば、一八九二年一月一〇日付の『申報』に掲載された広告のなかで「一枚四角で販売します」と述べられている月份牌は、こうした事情、つまりはイギリスにおいて印刷されていたという事情があって高価なものになった可能性がある。
しかし、もうひとつの可能性も考えられる。同じく賀聖鼐は、当時の中国国内でのカラーの石版印刷物について、こうも指摘しているのである。
点石斎石印書局では……単色の石版印刷によって印刷が行なわれていた。だいたい黒を使い、たまには、赤、青、紫のうちの一色を使うこともあった。また、そこで印刷された神軸山水などはすべて人の手によって着色された44。
この引用は、神軸山水のような掛け軸が、当時にあっては、単色で石版印刷された紙の上に職人の手で一枚ずつ何色かの色が塗られていたことを示している。月份牌もまた、このような塗り絵的な手法で多色に塗り分けられていたとするならば、おそらく高価なものになっていたであろうし、さきほどの「一枚四角で販売します」と述べられている月份牌が、そのようにして製作された可能性もあるだろう。
一九〇六年二月一三日(光緒三十二年正月二十日)の『申報』で掲載された一通の「声明」45を読むと、こうした手作業によって彩色を行なう職業として「描金業」と呼ばれる職業が存在していたことがわかる。その「声明」の一部に、次のような話題が述べられている。
ある描金職人が手持ちの原稿を外国商社に売った。しかしその商社が買った原稿を石印にしようとしたときに、その職人の同僚に発見された。このことによって、その職人は描金職人の組合のような組織によって処罰された――この話題は、著作権の密売を明らかにするものであるが、このことから、描金職人が当時存在していたことと同時に、外国の商社が、石版印刷用の原画を欲しがっていたことがわかるであろう。
「一枚四角で販売」されていた月份牌は、「白地に極彩色と金粉」でもって、おそらく、こうした描金職人によって描かれたものだったのではないだろうか。こうした高価な材料を使用し、手間と時間をかけて製作されたがために、結果的にこうした月份牌は、一枚四角(〇・四元)という高額になったものと思われる。
また、本章第三節の「呂宋票の景品としての月份牌」のなかで紹介した王樹村の所蔵物である一八九六年の月份牌は、一八八九年の鴻福来の広告に認められるように、おそらく二角であったであろうと思われる。これも、比較的高額な月份牌といえる。この月份牌は、王が述べているように、別刷されたカレンダーが絵図(滬景と開彩図)の上に貼り付けられて構成されていた。この事実を踏まえるならば、呂宋票の真偽を証明するための滬景と開彩図の部分(絵図の部分)は、毎年変わることなく同じ版が使われ、カレンダーの部分だけが毎年新たに印刷されて貼り込まれた可能性があり、そうすることによって、高い印刷コストを少しでも節約しようとしていた――そのように考えることもできるのではないだろうか。
もっとも同時期には、より安価な月份牌もまた存在した。以下は、一八九一年一二月五日(光緒十七年十月二十九日)の『申報』に掲載された広告である。
特別大安売り。月份牌の卸し売り。 新式の『水滸伝』の[月份牌]が一〇〇枚一元半[一・五元]、『西遊記』の[月份牌]が一元二[角]、十二花神の[月份牌]が七角、双龍の[月份牌]が六角、小財神の[月份牌]が五角。千枚単位で買うともっと安くなります。 上洋[上海]フランス租界彩視街46
この広告にある月份牌の価格は、卸し売りのため一〇〇枚を単位としている。このなかでは『水滸伝』をモティーフとしたものが一〇〇枚で一・五元[一枚で〇・〇一五元]で、最も高い値段となっているが、前述の一八九二年一月一〇日付の『申報』に掲載された広告の月份牌が一枚四角[〇・四元]であったことと比べれば、卸し売りである点を差し引いても、『水滸伝』をモティーフとしたこちらの月份牌の方が遥かに安い。なぜこの時期に、一方でこのような廉価な月份牌が製作されていたのであろうか。価格を考える場合、その要因として、印刷方法、使用する色数、用紙の質、印刷部数、印刷場所(国内か海外か)が考えられるが、一枚四角の月份牌の場合は、すでに述べたように、イギリスで印刷されたか、あるいは国内の描金職人の手によってカラー化がなされたために高価格になった可能性があるが、一方、『水滸伝』や『西遊記』をモティーフとした月份牌の場合は、年画印刷に使われた古い木版画に暦が加えられて再利用されることによって、こうした低価格の月份牌を印刷することが可能になったと考えることはできないであろうか。一八九一年一二月五日の広告のなかの「新式の『水滸伝』」のうちの『水滸伝』に着目すれば、これは、しばしば年画に用いられてきた伝統的な題材であるし、「新式」という言葉に着目すれば、年画用の木版画が月份牌印刷に転用されたことを指して「新式」といっているようにも読める。古い木版画の転用することによって、この広告で言及されている月份牌は、低価格なものになったものと推量することができるし、その一方で、古い年画の形式が、カレンダーとしての新しい月份牌の形式に再利用されたと推論することもできるのである。つまり、本章第三節「呂宋票の景品としての月份牌」において暗に指摘したように、呂宋票の販売店の財政状態にかかわって、同時代の新しいモティーフが使えるような、財政的に余裕のある販売店がある一方で、伝統的な古いモティーフを使いまわして廉価な月份牌をつくらなければならなかったような、弱小の販売店も存在していたのではないだろうか。
こうした月份牌を巡る印刷技術も、二〇世紀に入ると、大きく変化することになる。それは主として日本との関係においてもたらされた。
(1)1881年12月3日付『申報』。
(2)1886年2月9日付『申報』。
(3)1886年12月1日付『申報』。
(4)実は月份牌の広告は、前年の1883年12月21日付『申報』にも1件ある。それは、豊和行の贈呈予告広告である。それによると、月份牌が実際に贈呈されるのは、その次の月であって、つまり1884年の1月となる。また、贈呈される月份牌も、当然1884年分の月份牌(合暦)であったに違いない。そのため、ここでは、この広告を掲載された1883年の1件については、とくに言及することはなく、実質性の観点に立って、『申報』に掲載された「呂宋票」の景品として贈呈される月份牌に関する広告の起源を1884年とすることにした。
(5)1月1日の豊和行の広告、1月18日の万勝祥の広告、1月25日の申報館の広告、2月2日の申報館の広告、7月3日の広生祥の広告、9月30日の万有利の広告、10月9日の万有利の広告、10月16日の泳記の広告、10月25日の豊和行の広告、11月5日の天祥票行の広告、12月7日の泳記の広告、12月8日の豊和行の広告、12月29日の広發行の広告。計13本。同じ内容の広告も1本として計算する。
(6)ここでの「元」は、清の晩期に流通している銀貨の単位である。宣統二年(1910年)に清政府が「幣制条例」を発布し、「元」を正式に国の貨幣単位とし、庫平七銭二分の銀貨を発行した。その前に、市場で流通していた通貨は、主に重量で計る「銀両」とその補助貨幣の「制銭」と、外国から流入してきた「元」を単位とし、「銀洋」と呼ばれた外国銀貨であった。そのなか、最も多く使われたのは、スペインの植民地であったメキシコで製造された銀貨である。その表面に鷹の模様が鋳造されているため、「鷹洋」と呼ばれている。外国造の銀貨と銀製補助貨幣が中国造の銅製補助貨幣(銅元)および制銭との両替制度は、以下のようであった。銀貨1元=銀製補助貨幣10角、1角=銅元10枚、銅元1枚=制銭10文。しかし、銀と制銭の為替レートは常に変動しているし、その「鷹洋」1枚には、0.72両の銀を含有するため、1元を制銭に換算して兌換すると千文ではないことが多かった。光緒二十九年四月初四(1903年4月30日)付の『申報』に掲載された社説「論中国圜法之壊」のなかで、「道咸[正式には道光と咸豊で、1850年代からの年号]以降……銀一両毎を制銭千八、九百文に[兌換でき]、スペイン銀貨一元が制銭千二、三百文に相当する、同治[1862年から1874年まで]の時代にもあまり変わらなかった」と述べられている。
(7)1884年8月8日付『申報』。
(8)このスペイン国営宝くじの売上額の3割は、スペイン政府の国庫収入となった(藤木高三『富籤の話』今日の問題社、昭和15年、63頁)。また、宝くじはフィリピンにも莫大な利益をもたらした。フィリピンの1888年の歳入予算案のうち、宝くじによる収入は直接税、関税、政府専売収入の次にあたる第4位(全歳入予算の5%、金額にして513,200スペインドル)であった。民友社編纂『比律賓群島』民友社、1896年1月、86頁を参照。
(9)崔国因は、1890年出版した『出使美日秘国日記』では、「呂宋票が上海で発売されて、もうすでに30年になる」と述べている。その一方、1924年出版した『上海軼事大観・彩票』のなかでは、呂宋票が「光緒初年に発売された」と述べている。光緒元年は西暦の1875年である。しかし、同治十年三月二十二日(1871年5月11日)の『上海新報』に、すでに呂宋票の広告が登載されているため、1875年説は遅すぎることになる。したがって、呂宋票が上海に進出した時期は、1860年代から70年代前半のあいだであったと考えられる。
(10)1889年11月26日付の『申報』の広告によると、規則が変わって、双張を基準とし、売価が12元、1等賞の賞金が8万元となった。
(11)上海県県志編纂委員会編『上海県志』第33篇、特記(上)上海人民出版社、1993年。http://www.shmh.gov.cn/mhgl_cssy_xz1.aspx?ID=6128&ContentID=1389。2009年10月15日現在。
(12)劉善齢「晩清上海彩票軼事」『尋根』華東師範大学、2005年第1期、59頁。
(13)「呂宋票論」、1889年3月13日付『申報』。その計算方法は次のとおりである。(1口6元×月の発行数4万口-1等賞~9等賞と上下副彩の賞金15万元)×12箇月=108万元。しかし、1886年11月29日(光緒十二年十一月初四)に掲載された広告によると、呂宋票の月の発行数は、3万口であった。
(14)「呂宋票論」、1889年3月13日付『申報』。
(15)加茂雄三『世界の歴史 第23巻 ラテンアメリカの独立』講談社、1978年、304頁。
(16)1884年1月1日付『申報』。
(17)1884年7月1日付『申報』。
(18)1884年12月29日付『申報』。
(19)1885年11月22日付『申報』。
(20)1886年12月1日付『申報』。
(21)1886年12月5日付『申報』。
(22)「五福」は、『周書・洪範』によると次のように定義されている。「五福:一曰寿、二曰富、三曰康寧、四曰攸好徳、五曰考終命」。
(23)1889年11月25日(光緒十五年十一月十三日)付『申報』。
(24)1892年1月10日付『申報』。
(25)1896年1月24日付『申報』。
(26)王樹村「記“滬景開彩図・中西月份牌”」『美術研究』、1959年第2号、57頁。
(27)1884年1月25日付『申報』。
(28)1885年1月29日付『申報』。
(29)1889年1月24日付『申報』。
(30)賀聖鼐「三十五年来中国之印刷術」商務印書館編『最近三十五年之中国教育』1931年版(『民国叢書』編輯委員会編『民国叢書』第2編45巻文化・教育・体育類、上海書店、1990年に再録)、189頁を参照。
(31)同上、187頁。
(32)「門聯」とは、扉に貼る縁起のいい言葉が書かれた紙のことであり、「衆神図」とは、家の神棚で祭るために描かれた神の絵のことである。中国ではこの両者を年末年始に張り替える習慣がある。
(33)1880年12月28日付『申報』。
(34)1884年5月8日付『申報』。
(35)郭恩慈・蘇珏『中国現代設計的誕生』三聯書店有限公司、香港、2008年、169頁。
(36)大可堂版『点石斎画報』(復刻版、大可堂、2001年)により算出。
(37)1897年3月10日付『申報』。
(38)1875年1月29日付『申報』。
(39)1876年1月3日付『申報』。
(40)1875年1月29日付『申報』。
(41)1889年11月25日付『申報』。
(42)1892年1月10日付『申報』。
(43)賀聖鼐「三十五年来中国之印刷術」商務印書館編『最近三十五年之中国教育』1931年版(『民国叢書』編輯委員会編『民国叢書』第2編45巻文化・教育・体育類、上海書店、1990年に再録)、188-189頁。
(44)同上、同頁。
(45)「描金同業声明」、1906年2月13日(光緒三十二年正月二十日)付『申報』(第5版)。
(46)1891年12月5日付『申報』。