前章の終わりの箇所ですでに述べたように、一九二〇年代から三〇年代にかけて、 月份牌 ( ユェフンパイ ) を取り巻く環境は、製作と発行とスポンサーの三者の役割の分化と専門化によって、ひとつの産業として機能するようになった。そのことは、月份牌に対して、より商業的な生産物としての性格を強めさせる結果をもたらした。これについて、一九五九年の論文「解放前的“月份牌”年画史料」なかで著者の 歩及 ( ブジ ) は、概略、次のように述べている。自社の月份牌をもっと売れるようにするために、発行業者は、さまざまな工夫をした。たとえば、発行する前に、新しい原稿を秘密にしたり、各地の消費者の異なる好みを考慮しテーマを決めたり、前年までの自社と他社の売れ行きを研究し、人気のあるテーマや様式を絵師に注文するなどの手段を使っていた――論文のなかでこうしたことを歩は明らかにしているのである1。
一方、産業化し、商業的な動機が強化されることによって、製作と流通の効率化が促進されると同時に、市場や需要に迎合する特質もまた顕在化していった。その一例は、道徳的自律性を欠く猟奇的で低俗なテーマを扱った月份牌の登場である。【図七四】と【図七五】に見られるような裸体美女をテーマにした月份牌がそうした事例として認めることができるであろう。このようなある種醜悪ともいえる低品質の月份牌が続出することに対して、社会各界から、月份牌に対する批判の声が上がっていった。
そもそも商業美術に、猟奇的な作品が氾濫することへの批判、とりわけ裸体美女を描くことについての批判は、早くとも一九一〇年代半ばころから現われていた。一九一六年二月一八日の『申報』を読むと、租界において裸体美人画を販売することを禁止する判決と命令が出されたことがわかる。
裸体美人画の販売禁止令。 イギリス租界の南京路八四号の鏡屋では、裸体美人画を店に陳列し販売した。巡捕房の巡査によりこのことが発覚し、逮捕令状が申請されると、先日、当店主の 朱志成 ( ジュ ジチャン ) が役所に連行された。まず巡捕房の代表弁護士の牛門さんが出廷して、被告がこのような図画を販売するのは、大変風化[社会規律]を妨害するので、禁止されるべきであるとの陳述を行なった。官長は朱に罰金五〇元の支払いを命じ、今後このような裸体美人画を販売することを厳禁し、違反する者は処罰する旨、言い渡した2。
裸体美人画の販売が役所によって厳重に禁止されたこのニュースに対し、同日の『申報』「雑評」は、次のように述べている。
裸体美人。 人物を描くときには、その躯体と姿勢を描くのは難しいことではなく、最も難しいことは人物の精神と筋肉を描くことである。ゆえに、西洋の名画家は裸体美人を描いてその技術を誇示する。しかし、それが中国に伝来したのち、その本意が失われ、淫らなものとなった。なぜに、描く者と見る者の心のなかは、これほどまでにも汚いのであろうか。私は画家の才能を惜しみ、世の人心を心配する。現在、教育部が年画を調査し、すでに命令によって禁止する動きが見られ、巡捕房も次第に販売を禁止することとなった。我が国の名画家と称する人たちは、道徳のことを考えて、赫々たる名声を淫画と一同に世に流伝させないようにできるであろうか3。
この「雑評」は、『申報』の社評であると思われる。この文章は、まず冒頭において、西洋画家が裸体画を描く理由は技術を誇示することであると考え、裸体美女画について肯定的な評価を与えている。しかし後半部分においては、中国の画家が裸体画を描くことについて口調を一変して批判的になり、それは道徳の乱れの元凶であるとの認識を示している。この一説は、裸体美人画に遭遇した中国知識人の矛盾ないしは混乱として見なすこともできるかもしれない。
こうした矛盾や混乱は、一九一〇年代に見受けられた現象であり、しかし三〇年代になると、女性の裸体は美しく健康的であるとする西洋的な考えが受け入れられるようになっていった。つまり、描く対象としての人体を「抽象的」で「象徴的」なものと見なす伝統的な審美観は、徐々にこの時期、「写実的」で「自然」で「健康」な西洋式の人体観へと変わっていったのである。こうした変化は、単に知識人の世界に止まらず、広く社会全体にも波及していった。
しかし、広く社会全体に波及していったのは事実であったとしても、受け入れられる内容には幅が見られ、そのなかには、正しい理解によらない安易で表面的な受容も散見された。それは、正確な「写実性」に基づかない、単に裸体であれば、それがすべて「西洋化」ないしは「近代化」の視覚的象徴であるかのような偏狭な視点であり、そうした視点から描き出された事例として、月份牌の世界にあっては、すでに紹介した【図七四】や【図七五】の作品を挙げることが可能であろう。
この時期の美女月份牌は、確かに「新しい女性」や「愛国の女性」を主題にした作品もあったが、一方では、媚俗な作品もまた製作され社会に流布していたのであった。しかし、女性が商業的に媚びたり、利用されたりしていることは、双方の作品に共通しており、それに対する批判もこの時期に見受けられた。一九二二年二月七日の『申報』は、【図七六】に見られる一枚の風刺画を掲載した。「中国民衆の芸術」と題されたこの風刺画のなかで、美女月份牌は、猟奇的な小説や噂話や作り話、あるいはくだらない演劇の類と同等の下劣なものとして扱われているのである。
さらに、中国近代文学及び近代大衆美術に大きい影響を与えた 魯迅 ( ルシュン ) も、月份牌に対して寛容的な態度ではなかった。彼は、一九三〇年の上海中華芸術大学での講演のなかで、月份牌について次のような講話をしている。
「中国一般社会の歓迎を受けている月份牌で描かれた女性像は、病態的な女性です。月份牌は、技術上の不十分がある以外に、その内容も、最も卑劣なものとなっています。現在の中国では、健康な女性がいないわけではないにもかかわらず、月份牌では病弱な女子が描かれています。この『病態』は、社会の病ではなく、画家の病です。新女性を描くときには、基本的な絵画技術を高めることに深い注意を払わなければなりません。そうでないと、新女性を美しく表現できないだけではなく、逆に醜さを大々的に宣揚することにもなりかねません。」……「今日私は、中国五千年の文化の結晶を、一枚もってきました。みなさん、一緒に観賞しましょう。」彼は話をしながら、手を長袍のなかに伸ばし、ひと巻の紙を取り出した。広げてみると、それは病態な月份牌であった。それにより満場の笑いが巻き起こった4。
魯迅は、この講演のなかで、月份牌に描かれた女性に対して「病態的な女性」というレッテルを張り、「新しい女性」であろうと「半裸体の女性」であろうと区別なく、すべての描かれている女性が健康的ではないとの悪評を与えた。魯迅の価値観に従えば、健康な女性とは、享楽とは対極にある汗を流して働く女性であり、また、宗教に頼らない自立した女性であった。その点からすると、当時の月份牌に描かれていた女性は、「不健康」な女性たちだったのである。
さらに魯迅は、「中国五千年の文化の結晶」という表現でもって月份牌を揶揄し、「中国一般社会の歓迎を受けている月份牌」を民衆の悪趣味の代表としてみなした。そして、彼のこの考え方は、講演参加者の共鳴を得て、「満場の笑いが巻き起こった」。この講演が芸術大学で行なわれたことを考えれば、参加者の多くが、芸術や高度な知識を保有する階層の人たちであったことが予想される。したがって、魯迅に見られるこのような見解は、当時の社会の上層知識人の考え方を適切に表わしていたといえるかもしれない。「中国一般社会の歓迎を受けている」という言葉から、魯迅は、月份牌が商業的に成功していることを認めていたのは明らかである。しかし、彼は、「最も卑劣なもの」である月份牌が一般社会に歓迎されること――つまり、民衆に受けられていることは、社会(民衆)に問題があるではなく、画家が病んでいると考えた。こうした考えから推測すれば、魯迅自身、画家は民衆を教育する責任を負うべきであると考えていたといえる。つまり、この講演をとおして彼は、文学者と同じように画家もまた、高い倫理観や社会的役割のもと表現活動を行なうべきであり、月份牌の作家は、その部分を見失い、民衆に迎合する商業的関心に支えられた表現に身を落としていると考えていたといえるであろう。そのような意味において、魯迅は、近代中国にあっての商業や産業の発展過程に認められなければならない、生産と消費を前提とした「広告」や「宣伝」、さらにはそのための「表現」に関して、決して理解が進んでいたとはいえないのである。
実質的にこれよりのち、魯迅は、中国共産党に「新文化運動の指導者」あるいは「革命者」として高い評価が与えられ、中華人民共和国の建国後も、彼の思想は、不動の高い地位に置かれていく。こうして建国後に見られる、月份牌に対する「社会主義的改造」の基調もまた、彼のこの講演の延長線上に位置づけることが可能かもしれない。この点については、本章の第四節において詳しく分析することにする。
上の第一節において引用した社会各界からの月份牌に対する批判的な言説に着目すれば、ある別の観点に注目しなければならないことがわかる。
そもそも中国語にいうところの「月份」は、暦の「月」または「月順」を意味しており、したがって「月份牌」という言葉の本来の意味は、「暦を表示する札」、つまりは「カレンダー」ということになる。事実、これまでに発行されたほとんど月份牌に、暦が表示されていた。しかも、多くの場合は、合暦であった。暦そのものは、当然ながら、生活に欠かせない必需品あったことはいうまでもないであろう。したがって暦自体が批判の対象になることは考えにくく、そうであれば、魯迅の月份牌批判は、暦に向けられたものではなく、月份牌を「美術作品」とみなす視点からの批判ととらえなければならない。そのことは、「技術上の不十分がある以外に、その内容は、最も卑劣なものです」という文言からも、明らかであろう。そうであるとするならば、この時期、商業的発展に伴い、月份牌から暦の機能が薄れ、その分、広告や宣伝の機能を増したポスターとしての表現が強化されたことが予想される。これが、先に述べた、「ある別の観点に注目しなければならないこと」なのである。果たして、月份牌から暦は、どのようにして姿を消そうとしていたのであろうか。
第一章で紹介した初期の月份牌は、【図七】や【図一〇】に見られるように、暦は紙面の中心に配されていた。それに比べて、第四章で紹介した【図五九】【図六一】【図六三】【図六六】【図六八】【図七〇】【図七一】【図七三】のような月份牌を見ると、中心は絵によって占められ、暦の部分は、たとえば作品の左右の端や下の部分へ、つまり、全体から見れば周縁部分へと追いやられていった。さらには、暦が完全に画面から消えた月份牌も幾つか製作された5。このような過程をたどりながら、確かに月份牌は、「暦」を表わすカレンダーから、製造者と製品の名称が入った一枚の「絵」として認められる、今日にいうところのポスターとしての表現形式へと変貌していったのである。ここに、新たな問題が出現することになるのである。
もしこの時期の「月份牌」の実態が、「暦」から「ポスター」へと変貌しようとしていたとすれば、そのことによって日常の実用品である「暦」が生活のなかから消えるはずはなく、「暦」としての独自の形式で生き残り、生活のなかにあって活用されていたことが想像される。それは、どのようなものであったのであろうか。
【図七七】の月份牌がそのことをよく例証している。この月份牌は、一九四五年のものである。これは、名称は月份牌となっているが、これまでに述べてきた月份牌とは、大きく異なっている。つまり、この作品は、あくまでも暦を中心として構成されており、また、製造者と製品の名称が記載されることもなく、商業ポスターとしての機能を具備していないのである。この事例からもわかるように、同じ月份牌という名称を使いがらも、一方では、絵を中心に据えた商業的なポスターとしての月份牌と、他方では、暦を中心に据えた実用的なカレンダーとしての月份牌とが、事実上共存していたのである。これは、明らかに、これまでの月份牌における、ポスター機能とカレンダー機能の分裂を意味していた。
このような実態を受けて、月份牌をポスターとして見なす用語法と同時に、月份牌をカレンダーとして見なす用語法も、コインの裏と表のように、分離したまま、同時に共存していった。それを例証するひとつの証拠として、現在の中国語の方言のなかに、いまだに「月份牌」を「暦」という意味として使用する用語法が残されているのである6。実は、後述するように、中華人民共和国の建国後に、ポスターとしての「月份牌」に対する「社会主義的改造」運動により、それは「新年画」として生まれ変わることになるが、暦としての「月份牌」は「改造」の対象外に置かれたために、その用語法は今日に至るまで生き残ったものと考えられるのである。
その一方で、ポスターとしての月份牌にも、徐々にその限界が、認められるようになっていった。それは、商業広告の進化によってもたらされた。
一九二〇年代後半から一九三〇年代の中国においては、とりわけ上海のような国際的で商業的な都市にあっては、商品の流通が活性化し、それに伴い広告の生産量も増加していった。たとえば、一九二六年に上海で創刊された画報『良友』では、新しい都市生活者の様子が画像によって紹介される一方で、たばこ、化粧品、電化製品などの広告も積極的に掲載され、消費者の関心を喚起している。こうした商業広告の増大は、雑誌や看板、ラジオ広告だけではなく、『申報』のような新聞広告にも、認めることができる。
こうした商業広告の増大は、月份牌にとって、ひとつの脅威となって作用していった。ポスターとしての月份牌も、その性格上、広告の一種として機能していた。しかしそれは、伝統的に暦の機能を担っていたために、おおかたの月份牌は、年末の一時期に集中的に販売されてきた。つまり、一年をかけて製作され販売される広告媒体だったのである。しかし、三〇年代に入り、商活動がいっそう活発化すると、一年をサイクルとした広告は、そのニーズに適合することができず、それが、月份牌の存続を脅かす一因となっていたのである。しかし、『申報』に掲載された一連の広告の製作手法を見ると、明らかに月份牌のそれを踏襲していることがわかる。
一九三〇年代半ば前後の『申報』には、月份牌絵師として知られる 謝之光 ( シェ ジグァン ) (一九〇〇-一九七六年)が描いた新聞広告画が続々と掲載されている。そのなかで最も多いのは、華成煙草公司の「美麗牌」というブランドのたばこのために描いた広告であった。【図七八】はその一例である。この広告は、一九三六年一月八日の『申報』に掲載されたものである。
この【図七八】に見られる広告は、モティーフとして時流の女性を起用している。これは、美女月份牌の場合と同じである。さらに、美女の描き方に着目すれば、原画は水彩で描かれたものと思われ、そうした描画上の質感や、さらには女性のしぐさや表情においても、月份牌の特徴を踏襲していることがわかる。しかしその一方で、月份牌の控えめな広告的性格を超えて、よりいっそうの商業広告としての性格が強化され、表現されているとみなすことができるのではないだろうか。
モティーフには、大胆なポーズを取るひとりの女性が描かれている。木の柵の上に座り、チャイナドレスの裾が高々とめくられ、組んだ足の膝が露出している。彼女の表情はやさしく微笑んでいるが、その凛々しい目つきとおおようなしぐさは、自信あふれる女性であることを主張している。とくにおもしろいのは、彼女の左手の指のあいだには、一本のたばこが挟まれている。直接吸っている場面が描かれているわけではないが、ゆらゆらと舞い上がっていく煙は、つい先まで、そのたばこが美人の口元にあったことを暗示している。画面の右手上には、大きく商品名の「美麗牌香煙」が、画面の右手下には商品のパッケージ、そして左手下にはキャッチコピーの「有美皆備、無麗不臻[すべての美しさを具備しているという意味]」が入れられている。
それに比して、一般的な月份牌の場合、モティーフが全面に描かれ、商品のパッケージや商品名は小さく後景に配されていることが多く、その点から見れば、この広告作品は、すでに述べたように、モティーフに美女を使っているという点においては月份牌と同じであるが、商品のパッケージと商品名のような宣伝要素の取り扱いにおいては、月份牌の表現とは全く逆な表現となっているのである。明らかにこの広告作品は、月份牌の形式を原型としながらも、それと比べ、より本格的で、より効果的で、より専門的な商業広告の性格を志向しているのである。
この「美麗牌」たばこの広告は、モティーフに女性を使っているのみならず、女性自身が購買者として考えられている。さらに、商品名は「美麗牌」、キャッチコピーは「有美皆備、無麗不臻」である。ここから、「美しくてきれい」の文字が目に飛び込んでくる。明らかに女性消費者の心理が計算されているのである。こうしたことからも、謝之光のこの一連の広告のなかに、月份牌のような単純な贈呈品式の広告から質的な脱却を認めることができるであろう。正しくこの広告作品は、消費者の心理研究からはじまり、商品のイメージや商品の外観デザインへと至る総合的な企画概念が反映されているのである。このような広告は、日刊新聞という媒体に載せられ、低価、安易、スピードを伴って消費される運命をもつ。制限された時期にしか話題性を提供できない、しかもコストの高い月份牌とは、もはや比べようもない新たな展開が、広告世界に生じているのである。月份牌に、時代遅れの匂いが漂いはじめた。こうして、結果的に、この時代に見られた商業広告の進化ないしは尖鋭化が、広告ポスターとしての月份牌を徐々に衰退させていったのであった。
しかしながら、その後の商業広告の発展も、また月份牌の衰退も、本研究の基本資料である『申報』から跡づけることは、事実上困難になっている。
すでに第四章において詳述しているように、『申報』と『申報画刊』に出現した月份牌に関連する写真図版は、一九二三年から一九三九年のあいだに集中しており、それ以降、月份牌に関しては、図版だけではなく、文字による広告さえも、完全にその姿が消える。それでは、一九三九年以降、『申報』と『申報画刊』から、なぜ月份牌は消えたのであろうか。
一九三七年七月の「盧溝橋事件」を発端として、抗日戦争が全面的に展開され、一一月には上海の外国租界以外の区域が被占領区となり、内地へ避難するために『申報』は一時的に停刊した。翌年の一九三八年一月に漢口で、そして一九三八年三月に香港の地でそれぞれ復刊したものの、上海地元の読者層から離れたため、経営困難に陥り、相次ぎ停刊した7。それでも、一九三八年一〇月、日本軍のメディア検閲制度から逃れるため、アメリカコロンビア公司の名義で再び上海の外国租界において復刊を果たしたが、一九四一年、租界を含む上海全市が日本軍により占領されるとともに、一二月には、日本軍の指導の下での出版となり、さらにその後、完全に日本軍によって管制され、論調もまた日本軍のそれと一致させられることになった。このような不安定で重苦しい出版環境のなかにあって、『申報』の版面も、最盛期の四枚一六面から一枚四面までに削減され、もちろん紙面の大半を占めていた広告も大幅に削除された。こうした政治的、軍事的背景から、月份牌に関する広告や写真などが、一気に『申報』および『申報画刊』から消えることになったのである。
そうした軍事的展開のなかにあって、 陳超南 ( チェン チョナン ) ・ 馮懿有 ( フォン イユ ) 著の『老広告』のなかに認められるある人の回想によると、理由ははっきりしないが、日本軍は三流絵師を買収し、品質や内容が劣る月份牌を製作させた。また日本軍は、画商になりすまして絵師の原画を騙し取り、東北地方で印刷し、日本の商品を売るための月份牌を製作した8。商業広告の進化とは別に、こうしたことも一因となって、月份牌は、内容、質、印刷の数量において急速にその勢いを失っていった。同じ回想者の記憶しているところによると、終戦後の一時、勝利の喜びを表現する月份牌が出現したが、やはり続いて起きた内戦の混乱が経済の発展に余裕を与えることはなく9、こうして、商業広告としての月份牌の存在基礎がどんどんと潰れていき、衰退の勢いを挽回することはもはやできなかった。
一九四九年、中国の内戦が終わり、中国共産党により大陸が統一され、一〇月一日に、社会主義国家――中華人民共和国が設立した。その後間もなく、国家主席の 毛沢東 ( モウ ヅェドン ) は、文化部長である 沈雁冰 ( シン ヤンビン ) が署名した「関于開展新年画工作的指示」に同意し、そして同「指示」は、一一月二七日の『人民日報』により公表された。この「指示」は、旧来の年画や月份牌などを、「新年画」という新たに用意された概念へと「改造」することを目的としていた。こうして新政府は、成立後すぐにも、旧来の年画や月份牌などの民衆的文化媒体に注目することになるが、それは、そうした媒体をうまく利用することによって政権を強化する目的があったものと考えられる。
「指示」を読むと、旧年画は民間における最も流行性の高い芸術形式のひとつであり、かつては封建思想を広める道具として利用されたと指摘されており、一九四二年の延安文芸座談会において、人民民主主義思想を宣伝するために旧年画を改造する必要があることが確定され、それ以降、相当な成果を得たと記述されている。「指示」はまた、宣伝目的、内容、モティーフ、絵画技術、印刷、発行などの面から「新年画」の製作と発行に指導命令を出している。「指示」のなかの「新年画」の内容に関する一部に、次のように書かれている箇所がある。
今年の新年画は、中国人民解放戦争と人民大革命の偉大なる勝利を宣伝するべきであり、中華人民共和国の成立したことを宣伝するべきであり、「共同綱領」10を宣伝するべきであり、革命戦争を徹底することを宣伝するべきであり、そして工業・農業生産の回復と発展を宣伝するべきである11。
さらにそのなかで、とくに「門神画」「月份牌」を「改造」して新芸術普及運動道具として利用することが強調されていた。そして、その後すぐ、一九四九年一二月二九日に、文化部と出版総署は、北京で大衆図画出版社を設立し、「新版連環画」の一二〇種類と翌年の年画や月份牌などの出版計画を立案することになった12。
陳叔亮 ( チェン シュリャン ) の「上海新年画運動記」によると、一九五〇年までのあいだに、上海を中心に「計画的年画改造運動」に関する四回の会議が、「文芸処美術室」による主催のもとに開催された13。陳のこの文章は、公式的な口調で一九五〇年までの「新年画運動」の過程を総括したものである。以下に、この文章の記述に基づき、四回の会議を簡単に紹介してみよう。
一回目の会議は、一九四九年一二月七日に開かれた「年画創作会議」であった。この会議では、新年画宣伝にかかわる六つの主題が策定された。その六つの主題とは、次のようなものであった。 一.「共同綱領」を宣伝する 二.人民解放軍の勝利を宣伝する 三.革命を最後まで徹底することを宣伝する 四.建国の大典を祝う 五.生産と国家建設を宣伝する 六.華東地区の六つの任務を宣伝する14
この六つの主題は、前述の「指示」の基調と一致し、「指示」を具体化したものと考えてもよいだろう。
政府が主導するこの会議には、四〇人の美術家たちが出席したが、そのうちの二四名は 鄭曼陀 ( ヂェン マントオ ) 、 謝之光 ( シェ ジグァン ) 、 楊俊生 ( ヤン ジュンシェン ) 、 張碧梧 ( ジャン ビウ ) などの月份牌絵師で占められていた。たくさんの月份牌絵師を招いたことは、「月份牌を改造して新芸術普及運動道具として利用する」という「指示」の精神を強く反映するものであった。会議では、上記の六つの主題に関連して、絵師各自が一枚か二枚の草稿を製作し、後日審査を受けることが決定された。
二回目の会議は、翌日の一二月八日に行なわれた。その日の会議には、前日の出席者とは異なり、華東出版委員会の会員、それに美術協会の画家と協会代表者が参加し、会議では、年画の出版や発行問題を巡って、問題とその具体的な対策が論議された。たとえば、「印刷しても売れない」という出版商の不安に対しては、「公家」つまり政府が、普及と広告に関して協力をし、「公家書店」が販売することを約束した。これにより政府は「年画(月份牌)」の出版と販売過程に介入し、出版と販売を市場に任せて調節しようとする、完全な商業主義的な行為は、市場需要より政治需要を優先する政府の行為に取って代わられることになった。
一二月一四日に行なわれた三回目の会議は、「年画」草稿の評定会であった。評定会に参加したのは、草稿を作成した絵師以外に、「美術協会の責任者、草稿製作に参加しなかった一般会員、出版商、文芸処の指導者同志と各新聞社の記者」15も出席した。このような出席者の顔ぶれを見れば、「年画」の草稿の価値を判断するにあたっては、専門家(美術協会の責任者、草稿製作に参加しなかった一般会員)による美術的な面からの評価だけではなく、出版界(出版商)による出版の面からの評価、さらに政府方面(文芸処の指導者同志)による政治的な面からの評価もまた、重視されていたことがわかる。新聞社の記者が出席したことは、「年画」改造運動に対する宣伝がそのとき必要とされていた、と考えてもよいだろう。この日の評定結果として、六十数枚のなかから一〇枚が落選させられた。
四回目の会議は、一週間後の一二月二一日に行なわれた。前回の会議で選定された草稿に基づいてつくり上げられた原稿が、くじ引きの方法で各出版社に配られ、出版される運びとなった。くじ引きによる原稿の分配方式は、機械的で計画的なものであって、出版商間の競争は存在せず、確かに「公平」な方法であった。しかし、一連の会議のまとめ役を務めた陳叔亮は、上で述べた「上海新年画運動記」のなかで、「編者按」という立場から、「この方法は、みなさんの団結協力の精神を発揮することを妨害した」と述べ、反省の気持ちを明らかにしている。
一連の会議は、初顔合わせとしての一回目の会議の一二月七日から、出版が決められる四回目の会議の一二月二一日までの、わずか一四日という短期間のうちに進められた。従来の「月份牌」が発行されるのに半年以上を必要としていたことを考えれば、これは、かなり驚異的なスピードであった。製作、出版、そして発行の過程のなかにあって、市場需要は政治需要に譲られ、政府の強力な干渉により商業的な色合いは排除された。つまり、共産党が指導する新政府は、建国以前の「月份牌」に見られた商業的で資本主義的な性格を排除したうえで、広告や宣伝としての効果をもつ「月份牌」の機能をうまく利用し、建国を祝い、新たな人民の生活を視覚的に表現しようとしたのであった。こうして新政府は、年画(伝統的年画だけではなく、門神画や農民画、そして月份牌を含む)から新年画(政治的宣伝画)への改造運動のなかで主導的な立場に立ち、指導者として、主として「月份牌」を「新年画」とする「改造」を試みるなかで、大衆的表現媒体を意識的にコントロールしていったのである。
こうして、より計画的に視覚媒体の「改造」が進行していったのであるが、さらに一九五八年第四号の雑誌『美術』を見ると、「年画座談会」と題された無署名の文章が掲載されており、それを読むと、新たに「改造」された月份牌年画の地位の獲得について、あるいは、理論研究の必要性について問題が提起されていたことがわかる。この文章を起点として、年画改造運動は、さらに新たな方向へと動くことになる。この「年画座談会」は、一九五八年一月二五日に北京人民美術社が主催したもので、主たる出席者は、「各美術協会支会の指導者たち」であった。会議では、次のような幾つの問題点が提出された。ひとつは、年画創作にはたくさんの問題が存在していること。ひとつは、年画の理論に対する認識が不足していること。ひとつは、現実生活を反映する年画作品に対する宣伝が不足していること。さらにもうひとつは、年画に「ポルノグラフィー」が出現したことであった。そして最後に、そうした問題に対して幾つかの解決策が出された。まず年画創作に対しては、年画の特徴を強調するような作品を今後出版社は絵師に注文するべきであり、また、今日の現実を反映している作品に対しては、新聞雑誌はもっと宣伝するべきであり、さらに、年画の理論的問題については、もっと討論をなすべきである、といったような解決策が示された16。いずれにしても、こうした問題の提起と解決策の提示は、新政府の政治的指導のもとに進められていったといえる。
それでは、新たに「改造」された月份牌年画のしかるべき地位の獲得について、あるいは、しかるべき理論研究の必要性について、当時の理論家たちは、新政府の意向を受けて、具体的にいえば、どのようなことを論じていたのであろうか。
そのひとつの例を、一九五八年第四号の雑誌『美術』に掲載された「為月份牌年画説幾句話」と題された論文のなかに見ることができる。この文章は、実際の刊行に先立つ二年前の一九五六年に 薄松年 ( ボ ソンニェン ) が書いたもので、月份牌についての次のような記述を認めることができる。
……都市と農村の家庭の至る所で月份牌年画が張られていることは、みなさんが実感しているところでしょう。近年来の月份牌年画は、一定の程度で旧来の広告画のスタイルから一転し、新生活を描写するものとして出現しています。そのなかには、優秀年画を受賞した作品もありましたし、印刷数が数万枚を超えたものもありました( 陳風以 ( チェン フォンイ ) が描いた建国記念日の閲兵式をテーマとした《強大的武装力量》という作品は四四万枚も印刷されました)。このように群衆に好まれ、歓迎された形式の作品は、美術界の注目を浴び、研究の対象となって、その歓迎される原因と不足点が指摘され、改新を促されたのでないかと思われます。しかし事実はそうではなくて、美術の世界からは蔑視されたのでありました。美術の理論家たちは、群衆が示した「月份牌」に対する歓迎の気持ちを完全に忘れ去り、無視してしまったようです。月刊雑誌である『美術』も、一度も月份牌年画の作品を紹介したことがなく、美術界から排除したようです。さらに、 何溶 ( ヘ ヨン ) 同志は、「試談年画的特点及其発展問題」(『美術』一九五六年八月号)のなかで、研究対象として月份牌年画に言及してこなかったし、いまの月份牌は、「人物を美化していたが、実際は下品な趣味を撒き散らしている」ことを認めています。これについては、まだ十分に議論する余地が残されている問題であります。 ……月份牌には足らざる部分がありますが、画家たちの努力によって、素晴らしい作品が出現することは、明らかに可能であります。いままでの成果に対して我々は、それを抹殺するのではなく、事実を尊重し月份牌を重視しなければならないと思います。月份牌画家たちはさらなる努力をし、月份牌から古くて健康ではない要素を排除しなければなりません。その一方で、理論家も月份牌に関心をもって研究し指導するべきであります。人民はこの芸術の花を好ましく思い、歓迎していることは明らかです。しかしながら、我々の園芸師たちのこの花への肥料のやり方や手入れの仕方は、少量に過ぎたのではないでしょうか17。
この論文においては、薄松年は、「月份牌」が歓迎されてきた状況を紹介したうえで、改造された「月份牌」の成果の例を挙げてその成功を讃えていた。さらに、当時の美術界が「月份牌」を蔑視していたことに対して批判をした。そして薄は、「月份牌」の「足らざる部分」の点に対しては、「画家」たちはそれを補う義務があり、また、それに対して「理論家」たちは、関心をもってさらに研究し、指導するべきであるとの見解を示した。
加えて論文の後半において薄は、優秀な「月份牌年画」作品として、 何逸清 ( ヘ イチン ) の《這児将要建立工場》、 劉旦宅 ( リュウ ダンジャイ ) の《講故事》、 金梅生 ( ジン メイシャン ) の《菜緑瓜肥産量多》、そして 李慕白 ( リ ムバイ ) の《経常運動,使身体強壮起来》の四つの例を挙げている。【図七九】は、現在、福岡アジア美術館に所蔵されている作品であるが、これは、薄が列挙した四点のなかのひとつの作品である金梅生の《菜緑瓜肥産量多》を原画として印刷されたものであろう。この月份牌年画を見れば、モティーフは働く農民女性であることがわかる。薄の見解に従うならば、このような形象こそが、健康で正しい表現であった。さらに、一九五八年第五号の『美術』に掲載された論文「一朶無名的花」のなかで、著者の 張曼如 ( ジャン マンル ) も、この作品の図版をもって、美しくて正しい月份牌年画の代表的作例として引用することになる18。
続く、一九五八年第九号の『美術』には、 呉歩乃 ( ウ ブナイ ) の「従農民画看“月份牌”年画」という論文が掲載されている。この呉の論文では、薄の論文から一歩進んで、単に理論的研究の必要性の提唱に止まらず、「受け手としての農民」にかかわって月份牌が論じられることになる。
この論文で呉が指摘するところによれば、建国以前の商業ポスターとしての月份牌は、写真を利用して、擦筆の技法を使って人物を描く製作方式により、画面は「きめが細かくて滑らか、色はむらがなく、透明」であったが、しかしながら、建国以降の「改造」の時代の専門家たちの目には、そうした月份牌は「機械的で、人物の顔が蝋人形のようになっている」と映り、そうした理由から、商業ポスターとしての月份牌を「芸術ではない」と批判した19。このような批判に対して呉は、確かに、鄭曼陀が活躍した時期以降の月份牌には、このような傾向が見られるかもしれないが、擦筆の技法は、すでにひとつの確立した「民族的な」技法となっており、また群衆にも歓迎されているのを考えれば、このような擦筆という技法上の特徴は、捨て去られるべきものではなく、今後積極的に利用されるべきであるとして、その技法を擁護したのであった。
擦筆という技法とは別にして、月份牌の色彩については、当時の専門家たちは、伝統年画の濃淡のない単純明朗な平面的な塗り方に純色を使うべきであるという意見をもっていたのに対して、呉は、月份牌の複合的な色彩の使い方は、農民の好みとあっていると述べ20、この点についても、月份牌を擁護している。さらに、内容と題材については、どうであろうか。この点について呉は、昔好まれた美人や英雄などのテーマは、旧社会(建国以前の社会)の精神と一致するものであり、その点については批判されるべきものであるとしても、テーマ自体は単純で、表情やポーズもパタン化され、描かれている人物は横顔ではなく、正面像であり、鑑賞者との視線をとおした視覚的交流が可能となっていると述べ、さらには、このような構図は、見る人の自己の感情が移入しやすいため、年画を製作するときにもこのような心理的な要素が重視されなければならないと強調していた21。
こうして呉は、「新年画」へと「改造」される過程において、従来の月份牌の特徴をすべて放棄するのではなく、美点となる箇所は加味すべきであることを主張したのであった。
そしていよいよ、「改造」された「新年画」にかかわる当時の理論的研究の最終的成果が現われることになる。『美術研究』一九五九年第二号に掲載された、歩及の「解放前的“月份牌”年画史料」22と王樹村の「記“滬景開彩圖・中西月份牌”」23のふたつの研究論文をもって、そのように位置づけることが可能であろう。つまり両論文とも、月份牌を建国以前の歴史のなかに閉じ込めることによって、月份牌を完全に過去のものとして扱っており、こうして「改造」は完成の域へと導かれていったのであった。
他方で、上で挙げた一九五八年から一九五九年までの幾つの文章のなかで提出された観点を総括的にまとめながらも、「改造」を試みる新政府の考えを代弁するかたちで、風刺漫画家として知られていた 華君武 ( ホァ ジュンウ ) の「“群衆鼓掌、画家点頭”」が、一九五九年第六号の『美術』に掲載された。この文章で華は、専門家としての美術家たちが月份牌年画に対して当時示している態度を四つに分けて列挙した。ひとつ目は、月份牌年画の発展と進歩に関心を払う態度。ふたつ目は、月份牌が群衆に歓迎されることを認めながらも、必ずしも格調の高い表現内容ではないとする態度。三つ目は、月份牌年画を批判もしないし、賛成することもしないとする態度、つまり無視する態度。四つ目は、昔の月份牌年画に出現したポルノ的な部分を過剰に批判し、全くレベルが低いとする完全否定の態度である24。華はこの文章において、ひとつ目の態度以外の残り三つの態度は、すべで月份牌年画の発展に有害であると述べている。華は、月份牌年画がすでに群衆に歓迎され、「拍手」を受けていたことを踏まえて、これからは、専門家たちも群衆の「拍手」に目を向け、それを無視することなく「点頭」(承認)をしなければならない、と結論づけたのであった25。
華君武のこの文章は、国家の主導のもと一九四九年からはじまる月份牌に対する「社会主義的改造」、つまり商業的な広告としての「月份牌」から商業的な要素を排除して、政治宣伝を目的とする「月份牌年画」へと進む「改造」、この一連の「改造」がこの時期、つまり一九五九年において完成したことを宣言することと同じ役割を担っていたと考えてもよいであろう。これ以降、『美術』と『美術研究』のふたつの主流的な美術雑誌において、文化大革命が終わる一九七九年までの二〇年間、月份牌に関する話題は一度も提起さることはなかった。
こうして、一九四〇年代までに見受けられた商業ポスターとしての「月份牌」は、一九四九年一〇月一日の中華人民共和国の誕生を境として、新政府の政治的指導のもとに、「新年画」という内容と領域に新たに「改造」されていった。それは、商業的資本主義的な観点から商品内容を消費者に伝えるという広告画から、政治的共産主義的観点から理念と価値を人民に伝える宣伝画への「改造」を意味していた。こうして、従来の「月份牌」を規定する本質的な機能が政治的に剥奪されることによって、「月份牌」の生命は、名実ともに、ここで終焉を迎えた。次に「月份牌」の名を耳にするようになるのは、文化大革命が終わる一九七九年以降まで、待たなければならなかった。しかし、その「月份牌」は、もはや現代の産物ではなく、歴史上の幻影として、つまりは、人びとの郷愁を誘う過去の遺産として姿を変えてしまっていたのであった。
(1)歩及「解放前的“月份牌”年画史料」『美術研究』1959年第2号、51-56頁を参照。
(2)「本埠新聞」、1916年2月18日付『申報』。
(3)「雑評」、1916年2月18日付『申報』。
(4)「魯迅先生一九三〇年二月二十一日在上海中華芸術大学的講演(記録稿)」刘汝醴『美术』、1959年4期、5頁と13頁。別の回想者によると、この講演記録は、1930年3月9日の同大学での講演内容であるとされている。
(5)月份牌の画面(表面)には現われてないが、その裏面にカレンダーが印刷されたものが実際に存在している。
(6)少なくとも、本書著者(于暁妮)の出身地である山東省青島市の方言のなかに、この用語法がいまだに存在している。父親の世代(1940年代後半に生まれた世代)では、まだ普通に使用されているが、しかしながら、標準語である普通話が普及している今日にあっては、この言葉を使う若者はほとんどいない。彼らは暦(カレンダー)のことを、「日暦」「月暦」という言葉で表現する。
(7)許煥隆『中国現代新聞史簡編』河南人民出版社、1988年、339-340頁を参照。
(8)陳超南・馮懿有『老広告』上海人民美術出版社、1998年、48頁を参照。
(9)同上、同頁を参照。
(10)「中国人民政治協商会議共同綱領」のことである。中国人民政治協商会議により1949年9月に策定された建国綱領で、「中華人民共和国憲法」が制定される前の臨時憲法に相当する。
(11)沈雁冰「関于開展新年画工作的指示」、1949年11月27日付『人民日報』。
(12)1949年12月30日付『人民日報』。
(13)陳叔亮「上海新年画運動記」『美術』1950年第2号、54-56頁を参照。
(14)同上、54-56頁。
(15)同上、55頁。
(16)「年画座談会」『美術』1958年第2号、35頁を参照。
(17)薄松年「為月份牌年画説幾句話」『美術』1958年第4号、21頁。
(18)張曼如「一朶無名的花」『美術』、1958年第5号、17頁を参照。
(19)呉歩乃「従農民画看“月份牌”年画」『美術』1958年第9号、27頁を参照。
(20)同上、27頁。
(21)同上、26頁。
(22)歩及「解放前的“月份牌”年画史料」『美術研究』1959年第2号、51-56頁を参照。
(23)王樹村「記“滬景開彩圖・中西月份牌”」『美術研究』1959年第2号、56-57頁を参照。
(24)華君武「“群衆鼓掌、画家点頭”」『美術』、1959年第6号、15頁を参照。
(25)同上、同頁を参照。