中山修一著作集

著作集18 三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子  妣たちの天草灘〈沖宮〉異聞

第八章 最期――逸枝の別れと憲三の『高群逸枝全集』の編集

第一節 逸枝の臨終

「望郷子守唄」の歌碑が建立された一九六二(昭和三七)年ころから、逸枝は、自分の最期が近づいていることを察知したのでしょうか、これから書こうとする自叙伝「火の国の女の日記」のための準備に取りかかります。『日本婚姻史』と同時並行しての仕事でした。『日本婚姻史』の方は、翌年(一九六三年)の五月に見事に刊行にこぎつけることができましたが、体調は好ましくなく、結果的に『日本婚姻史』が、逸枝にとっての最後の研究書となりました。その出版から一箇月後の六月一一日の「共用日記」には、「逸枝、左脇腹の痛みを訴える。固疾化(二月一三日夜廊下に倒れたときさらに痛めたらしく)していたところ。医師の来診をもとめようといえば、しばらくようすをみてからという」と、書き記されています。このころ逸枝は、夫に次のようなことを伝えます。頑として医者を拒む逸枝の言葉です。

もし私に、ほんとうに医者が必要なときはかならず自分からそういいますから、それまであなたは安心していてください。あまりやかましくいわれるとそれだけでかえって病気になるのよ

それでは以下に、この日から、自叙伝「火の国の女の日記」の執筆に取り組みながらも、高群逸枝の最後のいのちの灯が消える翌一九六四(昭和三九)年六月七日までの約一年間を、「共用日記」のなかの記述内容、およびそれについての憲三の付記から重要と思われる箇所を部分的に拾い集め、短くまとめてみたいと思います。注記がない限り、以下に用いる引用文はすべて、『高群逸枝全集』第一〇巻の第六部「翼うばわれし天使・一九六三年(六九歳)-一九六四年(七〇歳)」からの抜粋です。

八月九日「この朝も静養のこと、夜も具体案など話して病院静養をすすめたが、いまのままのほうがよく、かならず克服できるという。騒ぐのがいちばん自分には悪いという」。

九月五日「『火の国の女の日記』(自叙伝)起筆。しかしすぐ疲れて一行でとどめる」。

九月一八日「自叙伝書きつぐ。二、三枚で大事をとって筆をおく」。

「その後逸枝の自叙伝は、自記や口述でかなり順調にすすみ、一一月二八日には、『第一部しらたま乙女』三四〇枚を脱稿した」。

一二月一日「逸枝、貧血めまい症状、発熱」。

一二月二日「市川[房枝]さん、何かでご病気とのことをみたと見舞いにみえ憲三応接。当人に知らせず竹内博士にれんらく」。

「同五日に[竹内博士]来診、その処方箋とともに次の手紙を八日にもらった」。「想像したほどの御病気ではなく安心しました。しかし長就床のため運動不足の衰弱は認められます。すこし運動なさったがよいでしょう」。

このとき病気見舞いに「森の家」を訪れた市川房枝と、その三日後に往診に訪れた竹内茂代は、これまで逸枝の執筆活動を親身となって全面的に支えてきた後援者でした。市川は、戦後の公職追放の身から解き放されると、一九五三(昭和二八)年の第三回参議院議員選挙に東京地方区から立候補し、当選を果たしていました。一方の竹内は、新宿に開業する医師であり、それと同時に、市川と同じ志をもつ社会運動家でもありました。このふたりが、いかに逸枝を支えたのかは、一九五三(昭和二八)年に刊行された『招婿婚の研究』の跋文によく表われています。そこには、次のような竹内と市川に対する逸枝の感謝の言葉が記されていました。

竹内茂代博士は、この種のしごとには、多くの資料と、生活の安定と、健康との三者が必要であるが、著者がそのいずれをも缺いているというのであわれまれ、親身のお力添えをたまわつた。市川房枝氏は著者が基礎調査をおわつて、いよいよ執筆に入るときに、執筆二年間の生計の保障を、竹内氏とともにとりはからつてくださつた

また、このようなこともありました。「共用日記」に目を移しますと、『熊日』紙上での「今昔の歌」の連載が終わって一箇月と少々が過ぎた一九五九(昭和三四)年五月二四日の午後、「市川みさをさんみえる。市川さん当落(参院選)線上にあると。鈴蘭をもらう」と記されています。房枝にとって二期目の選挙戦の時期でした。市川ミサオは、未婚である房枝の養女で、房枝が大きな信頼を寄せていた女性です。さらに、九月一二日の箇所には、次の記載があります。「竹内、市川(参議当選)、みさをさんみえる。診断――どこもわるいところはないと」。これ以外にも「共用日記」には、市川本人、あるいは使いの者が、長期にわたり、しばしば「森の家」を訪れ、金品の差し入れをしたことが記述されています。

それでは再び、「共用日記」の一九六三(昭和三八)年の部分にもどります。

一二月三〇日「逸枝病みて憲三さびし年のくれ」。

一二月三一日「逸枝病気、憲三ひとり内外のそうじその他。かたのごとくふるめし。除夜のかね」。

年が改まり、一九六四(昭和三九)年の元旦を迎えました。天気は晴れ。「早起き――逸枝も元気で起きる。とそとぞうにいつものごとく。年賀一四八」。次は、この日の日記に唯一自筆された逸枝の即興歌です。「火の国の 女の日記 五百枚 書いて新年を 迎えけるかも」。

一月二日「逸枝終日起きている。水俣の姉から見舞い金」。

一月五日「軽部なみ夫人年始に。故郷から――もち、鰹節、田舎きなこ、白魚、にぼし、しいたけなどいろいろ。午後逸枝吐瀉」。

「彼女の吐瀉は若いときからの習慣であるが、ひとりでに出るのではなく、自分から吐くのである。そうすると気分がよくなり、一、二回の絶食で体の調子をとりもどした。一月十日のKの誕生いわいも欠かさずすまし、十八日には彼女の満七十歳を迎えて古希の祝いをした」。

一月一八日「逸枝古希七十歳。朝起床、祝膳につく。あと就床。『火の国の女の日記』口述。この日、『第二部恋愛と結婚の苦悩』を終えて、『第三部与えられた道』にすすむ」。

一月二九日「松橋町長さんから年賀。(三越、毛布)」

二月一九日「朝刊で奥村博史さんの逝去を知る。一八日朝五時、関東中央病院で、享年七十二歳。再生不能性貧血症と。弔電」。

二月二一日「朝から小雪舞う。午後一-二時、奥村さん成城で告別式。一時十分、両人口述筆記をとめて遥拝」。

二月二三日「午前〇時すぎ、逸枝ベッドをはなれ、原稿を焼くといって重い綴じ込みをもって階段を下り、庭に持ち出そうとする。焼くのはしばらくやめて、再検討または改稿の資料にしたがよくはないかととめて、ベッドにみちびく」。

「彼女は原稿が気に染まなくなると惜し気もなく反古にするのがつねだった。こんどの場合、彼女の最大の懸念は、原稿のなかの多くの登場者のいちいちについて、尊敬を欠いたりまたはその立場を誤って傷つけるものがないか、自己修飾あるいは弁護におちいるものがないかという点で、自叙伝のもつその限界ないし可能性について悩んだのである。この原稿は危いところで焼却をまぬかれて、彼女によって丹念に推敲された」。

二月二九日「入浴のしたくをしたが逸枝気分わるく取りやめる。眼がかすみ新聞がよめない。……三時すぎ胸のどうき強く、発熱、四時かいふく」。

三月一八日「逸枝、日中離床。『火の国』、母系制の研究のところまで進む。七〇八枚」。

三月二四日「このまま目がみえなくなったら病院に行って手術なども考えましょうという」。

三月二五日「はじめて活字が読めるという」。

四月五日「中ソ論争表面化。ゆくとこまでゆくだろう。……有色人の文明 自給生産共同体 白人の文明 商品生産個人主義」。

四月八日「逸枝ちょっと起きてまた就床。床上で『火の国』昭和一五年帰省の章を書く。らいてうさんからたより」。

「五日の日記は二人の共用日記の、八日の『帰省』は『火の国の女の日記』の、ともに絶筆となったものである」。

こうして逸枝の筆が、口述筆記も含めて完全に止まりました。このときの主な病状は、神経痛による激しい痛みと顔面の発疹でした。ついに逸枝も近所の開業医のKさんによる往診を承諾し、四月一三日の夜の受診を最初として、診療がはじまりました。K医師の見立てによると、顔面の発疹はヘルペスにちがいなく、精神的肉体的疲労が主因と考えられ、その症状に神経痛が伴うのは一般的であるとのことでした。しかし、およそ一箇月が立とうとしていましたが、病状は膠着状態で、いっこうに回復の兆しが見えませんでした。次は、「共用日記」のなかの憲三の付記です。

「K、五月十日の夜明けとともに五時三十分K医師の来診をもとめて友人たちにも電話。十時三十五分竹内博士。その結果、病院入りを納得させられる」。

五月一一日「二時市川[房枝]さんらみえる。竹内[茂代]さんの選択、市川さんの厚生省を通じての配慮で、国立東京第二病院に決定。K、市川さんらと病院に出かけ、帰家四時三〇分、逸枝は[市川]みさをさんにつきそわれて今朝よりぐっとよくなっている。奇跡とよろこぶ」。しかし、「逸枝は、共同室ときくといやがり、ぜひ個室にしてほしいという」。

五月一二日「九時十分救急車で出発。特別室ながら二人室に入る」。

憲三は、個室でないことが気になっていました。加えて、この病院が「完全看護制」で、自分が付添人として逸枝のそばにいることができないことを知ったときは、「彼女の不運の姿が目に浮かび椅子にかかったまま失神した」のでした。これまで、「森の家」では他人の訪問を断わり、長いあいだ、夫婦ふたりだけの水入らずの暮らしをしてきた憲三にとっては、予想だにしない、不測の事態に遭遇したのでした。一方、何年も家から一歩も出ることなく書斎の机に向かっていた逸枝にとっては、救急車はいうまでもなく、病院も病室も、全くなじみのない異質の空間だったにちがいありません。それでも、付添婦だけは、何とか病院側から提供されることになりました。入院初日のこの日は、時間が来ると握手を交わし、夜のことを付添婦によく頼んで、やむなく病院をあとにしました。

五月一三日「逸枝は眠れなかったろう。さびしかったろう。いまごろ熱心に待っていることだろう。しばらく待っていてください。まだふらつく頭をかかえて口上書をまとめる。八時四十五分できる。これから飛んでいく。……口上書(個室あっせん依頼)を面会室で友人たちに手渡してたのむ」。

「個室については入院前日の病院あいさつの帰途、Kが病人の要求をきくまでもなく逸早く市川さんにそのあっせんを依頼した。病院費用については自宅ですでに用意がある旨を通じてあった。そして、あらためて入院翌日文書でもって依頼するとともに、K自身も庶務課長、婦長、主治医に頼んだ。……幸い可及的早く南側の明るい静かなもっともよい場所の一人室に移ることができてうれしかった」。

「主治医は病名ないし病状についてKがたずねても、はっきりしたことは何もあかしてくれなかったが、Kは百科事典の『腹水』の項目からあれこれとたどっていって、重大な覚悟を要することを察知し、できうるかぎり現在の患者をまず安静させ、体力を維持して、療養を長期にみちびくことを考え、あまり友人たちの面会が多くて、しかも病人が自分を殺してげんきよく応対につとめて疲れるので、主治医に話して『面会謝絶――主治医』の標札を病室の入口に掲示してもらった。むろん主治医の方でもそれを必要としたのだろう」。

「重大な覚悟を要することを察知」した憲三と、市川房枝の関係者たちは、そのことを、憲三の妹で、水俣に住む橋本静子に連絡しました。以下は、静子の文からの引用です。

 前に、姉と私ども夫婦の水俣の居宅にお越しいただいている浜田糸衛様、高良真木様のお知らせと、兄憲三の知らせも届き、姉逸枝の急病を知りました。夫と私は羽田に着き、旧知の高良様のご運転のお車のご供与をいただきました。
 同乗のかたから、「普通の人ではすぐに入院することができないのを、市川先生の国会議員の肩書きで入院することが出来た」とうけたまわりました

しかし、その車が向かったのは、逸枝が入院している国立東京第二病院ではなく、市川の執務室のある婦選会館でした。当然ながら、静子は、落ち着きませんでした。「世事に才覚のない兄憲三に、入院ごとのお手助けを感謝申し上げましたが、早く病体をみきわめて、なんとしてでも早急に全快させねばと気負っていて、兄夫婦に早く会いたいと念願してばかりいました」。病院に連れていってもらえたのは、やっとその後のことでした。面会を終え、その足で、「森の家」にたどり着きます。

 兄と夫と私とで食事もしないで善後策を話し合い、早急に態勢をととのえました。姉フジノが当座用にと持たせて寄越した百萬円を兄に渡し、「いつでも、いくらでも、要るだけ送るから言ってよこせ」との伝言も伝えました

六月七日「病院の廊下で[日曜日のため昼間自宅に帰ろうとしていた]付添いさんにあい、午前八時入室。逸枝の寝顔のあまり美しさに、さめるまで立ったままみとれていた。また呼吸のやすらかさ。彼女は神だ」。

「十時、主治医みえる。そんなに食べられないなら、注射するかも知れないと告知される。昼食には病院の流動食はたべたくないといい、牛乳とアイスクリームを、二人でわけあってたべた。……私は立ったり、椅子にかけたりして、一日彼女と接近して看護した。胸から頸部にかけて鈍痛。ときどき後頭部と額の鈍痛」。

この日の夕刻、逸枝と憲三が交わした最後の会話の場面を、以下に再現します。

私「私はあなたによって救われてここまできました。無にひとしい私をよく愛してくれました。感謝します」。
彼女「われわれはほんとうにしあわせでしたね」。
私「われわれはほんとうにしあわせでした」。力を入れてこたえ、さらに顔を近づけて私が「……」というと、彼女ははっきりうなずいて、「そうです」といった。
 彼女は心からそれをゆるし、そしてよろこんでいるのだった。いまこそわれわれは一心になったのだ。
 七時十分に付添いさんが帰室したのちも九時までいたが、いよいよかえりのあいさつのとき、逸枝はかたく私の手をにぎり、「あしたはきっときてください」とつよいことばでいった。
 これまでにない異様なショックを受けた。しかし、とどまることがゆるされない。……私は、祈り祈り帰家。
――病院からのれんらくで十一時にかけつけた。そのとき、もう彼女の偉大な魂は一生の尊い使命を終え、永遠のねむりにはいっていた。

最後に憲三が逸枝に伝えた「……」という伏せ字になっている箇所は、「すぐに自分もそっちに行くからね」という言葉に近い何かではなかったかと推量されます。死亡時刻は、一九六四(昭和三九)年六月七日の午後一〇時四五分、病名は、ガン性腹膜炎でした。かくして「彼女のなきがらは翌日らいてうさん、主治医の見送りのなかに病院を出て、軽部夫人らの待つ森の家に帰った」のでした。

六月八日および九日にかけて、主要な新聞紙上において、高群逸枝の死亡記事が掲載されました。地元紙の『熊日』も九日の朝刊九面で報じました。記事に加えられた逸枝の写真は、黒の罫線で囲まれていました。次の引用は、その記事からの抜き書きです。「高群逸枝さん(本名橋本イツエ、女性史研究家、評論家)は東京・目黒の国立第二病院入院中、七日午後十時四五分ガン性腹膜炎のため死去、七十歳。……十日午前十時から自宅で密葬。本葬は熊本で行なう予定。日時その他未定」。しかしながら、本葬を熊本で行なうことについては、何かの事情により変更せざるを得なかったようです。二日後に出される死亡広告がそのことを物語ります。『熊日』においては、死亡広告は一一日朝刊四面に掲載されました。「夫 橋本憲三 親戚代表 橋本英雄 高群晃 友人代表 家永三郎 志垣寛」の連名によるもので、「告別式」を自宅で行なうことが、以下のように告知されたのでした。

高群逸枝(橋本イツエ)こと六月七日午後十時四十五分永眠いたしました 茲に生前の ご厚誼を深謝しご通知いたします 追て来る六月一五日午後三時より五時まで自宅にて仏式により告別式を相営みます

友人代表を務めたのは、東京教育大学文学部の日本史の教授の家永三郎と、同郷熊本県の出身で教育評論家の志垣寛のふたりでした。平塚らいてうの名も、市川房枝の名も、ここにはありません。この死亡広告を見て、なぜ、予定どおりに熊本で本葬を行なわないのか、そして、「望郷子守唄」の除幕式に際しての挨拶文にみられたように、これまで一心に逸枝を支えてきていたと思われるらいてうが友人代表になっていないのはなぜなのか、不自然さを感じた『熊日』購読者も多かったのではないかと考えられます。

他方で、こうした死亡広告は、かつて逸枝の母親の登代子が亡くなったときも、夫の勝太郎によって出されており、憲三はそれをしっかりと踏襲したといえます。逸枝は、そのことについて、こう書いています。「母が死んだとき父は九州日日と九州の両新聞に家族連名の死亡広告を出して、有縁の人たちに知らせることを忘れなかったが、またこれは母への最後の父の敬意でもあったろう」。戦後、『九州日日新聞』と『九州新聞』が合併して『熊本日日新聞』が生まれます。この引用文の一節は、五年前に『熊日』に連載された「今昔の歌」のなかにおいて逸枝が披露したものです。したがって、この死亡広告を見て、親子二代にわたる死亡時対応の継承にかかわって何か深い思いに駆られた『熊日』購読者も、少なからずいたにちがいありません。

病院から帰宅したひつぎは、書斎につくられた祭壇に安置されました。それから一五日の告別式までの様子を、憲三は、次のように記しています。

Kと静子とで美しく化粧し、『招婿婚の研究』一本、『恋愛論』原稿に、詩集を添え、長年の愛用――彼女の指にペンだこをつくった――万年筆にインキ壺、研究カード・原稿用紙・ノート・便箋、眼鏡等を棺内の枕元におさめ、憲平ちゃんのかたみ、愛鶏を抱いた彼女とKの写真、それにKの言葉を胸に置き、庭の花ばなをいっぱい加えて、八日九日の通夜の後、十日夫と橋本高群両家の近親、竹内茂代さんら少数のものがみまもってだびに付し(代々幡葬祭場)、十五日森の家で葬儀(導師豪徳寺)と告別式を営んだ

告別式の様子は、六月一六日の『熊日』でも「弔歌に故人しのんで 高群逸枝さんの告別式」(七面、写真入り)という見出し記事で取り上げられました。「式には故人の郷里下益城郡松橋町から上京した中山町長をはじめ平塚雷鳥さん(評論家)人吉円吉氏(昭和女大教授)住井すえさん(作家)志垣寛氏、島田磬也氏、伊豆熊日社長代理井内同東京支社長ら多数が参列した。中山松橋町長の弔辞のあと、荒木精之氏からおくられた弔歌の朗読(島田磬也氏)寺本知事、伊豆熊日社長らの弔電披露があり、女性史研究に一生をささげた故人をしのぶにふさわしい盛儀だった」。

第二節 後援者たちとの確執

告別式から四日後の六月一九日、『サンケイ新聞』は、和歌森太郎執筆の追悼文「高群逸枝さんの業績 女性の目で、日本女性史をくみたてる」(七面)を掲載しました。

 それにしても「招婿婚の研究」など、たいしたものである。妻問い婚、つまり男が女のもとにかよいながら夫婦関係を結んだ段階から、妻方にあって夫婦が共同生活をする段階へ、そして夫方のほうに妻を迎えいれる嫁取り婚の段階へと変わってきた過程は、従来民俗学もよく説いてきたところであるが、これを、原始・古代・中世・近世にわたる膨大な史料を基礎に、みごとに筋みちつけられた。民族資料も、よく批判的に摂取され、その論旨を具体的にたすけている。

和歌森太郎は、『招婿婚の研究』が出版されるときに結成された「高群逸枝著作刊行後援会」にも、その名を連ねていました。逸枝の死亡広告において友人代表のひとりとなっていた家永三郎と同じく、和歌森も東京教育大学文学部の教授で、日本史(史学方法論/民俗学)が専門でした。

続く六月二二日に、婦選会館で高群逸枝を追悼する会が催されました。『婦人展望』は、その様子を、短くこのように伝えています。

去る六月七日死去した女性史研究家高群逸枝の追悼会が六月二十二日午後二時~五時婦選会館においてひらかれ、次の諸氏が出席、故人をしのんだ。市川房枝、鑓田貞子、浜田糸衛、稲津もと、高良真木、中島和子、近藤真柄、児玉勝子、武石まさ子、市川ミサオ、両沢葉子

このなかの浜田糸衛と高良真木は、逸枝の「望郷子守唄」の建碑に際して、らいてうの提案により、東京での募金活動に奔走する一方、除幕式参列のあと、憲三の姉妹の住む水俣に足を運んだおりには、湯の児温泉の三笠屋旅館での一泊の接遇も受けていました。しかし、この追悼会は、逸枝をしのぶ場というよりは、憲三への悪口を並び立てる場と化したのではないかと想像されます。といいますのも、この追悼会に出席した人たちは、一週間前の一五日に「森の家」で挙行された告別式に参加していなかった可能性があるからです。なぜ、彼女たちは告別式への参列を見送ったのでしょうか。どうやら、逸枝が入院した際、憲三が病院側に要求した「個室と面会謝絶」が原因となって、市川房枝とその周囲の人たちに不快感を生じさせたようです。憲三は、このように書きます。

 個室と面会謝絶の件は、思いがけなく、一部にまさつをおこした。Kは、生命の尊厳と、ひたすら彼女の心にしたがった。それを知った逸枝は「私たちは自分たちのこれまでの流儀を押し通しましょう」といった。
「でもそれは感謝とか友情とかの問題とはべつですね」
「そうですとも」10

すでに書いていますように、市川房枝は、戦前の『母系制の研究』発刊のころから今日まで、親身になって逸枝を支えてきた後援者のひとりでした。おそらく市川は、逸枝に最良の医療を施すために、善意をもって参議院議員という立場から厚生省に働きかけ、国立東京第二病院への入院の斡旋をしたのでしょう。そして、時間の許す限り病室を訪れ、手を握りしめながら、思い出を語り、感謝の言葉をお互い交わし合って、最後の日を迎えたかったものと想像されます。市川を取り巻くほかの女性たちも、おそらくこれと同じ心情だったにちがいありません。しかし、個室にかくまい、他者の面会を拒絶しようとする憲三の行為は、そうした人たちの願いを踏みにじるものであり、それが「まさつ」となって、両者に修復しがたい溝が形成され、告別式から一週間を置いての追悼集会の開催という分派行動となって現われたものと推量されます。

しかし一方で、夫である憲三には、妻に対する固有の別の感情がありました。つまりそれは、残り少ない時間にあって多くの後援者たちが見舞いに押しかけ、それに無理をして応対する状況が続けば、妻の心身の衰弱は一気に進行するにちがいないという懸念でした。他方で、そもそも三十余年ものあいだ「森の家」に引きこもり、来客を断ち、机を友に生活してきた逸枝でしたので、個室と面会謝絶を強く望んだのは、むしろ逸枝の方だったのかもしれません。

さらにそれらに加えて、完全看護という医療制度も、常にこの間、憲三を脅かしていたものと考えられます。のちに憲三は、石牟礼道子にこう語ることになるのです。

 完全看護制などということがわかっていれば、入院などさせなかったのです。ここで、彼女が求め続けていた森の家でのいとなみを終わることができたのに、僕がうかつにも気付かなかったから、彼女のいとなみを断ってしまった……11

完全看護制を敷くこの病院は、憲三にとって、決められた短い時間以外はもはや自分が入り込むことができない、いままでに経験のなかった、ふたりを分かつ異界でしかありませんでした。あくまでも憲三は、ふたりして長く暮らしてきた自宅で、逸枝をしっかりと胸に抱き、最後の別れの言葉を交わしたかったのではないかと思われます。実際にそれができなかったことは、まさしく「慙愧の極み」として、その後終生憲三を苦しめ、そうした後悔の弁が、上記引用のごとく、みぢかな石牟礼へ向けられたのではないかと推察されます。

しかし、市川房枝たちと憲三のあいだに生じた不信感は、個室と面会謝絶の問題だけに止まりませんでした。それは、金銭に関する問題でした。以下に、それにかかわる、憲三の妹の静子が兄の口述を筆記した市川房枝に宛てた手紙の写しが公開されていますので、長くなりますが、ここに全文紹介します。

拝啓
 故高群逸枝こと、国立東京第二病院入院につきましてはご高配をたまわりましてまことにありがとうございました。そのせつ、金参万円也と記入されたご封筒を手わたされ、お見舞い金と思いちがいをいたしました。
 そのとき療養費についておたずねになり、当座用にはとりあえず五〇万、その他充分の用意があることをお答えいたしました。
 死亡いたしまして霊安室での通夜の席において、みなさまの前であの金は返して欲しい旨を申し入れられ恐縮いたしました。
 葬儀を完了いたしまして、せいりにとりかかりましたので本日書留郵便をもってご返金申し上げます。お受け取り下さい。故人は参万円のことについてはなにも知りませんでした。旧来からの御厚情、深くお礼申し上げます。
  昭和三十九年六月十七日 橋本憲三
  市川房枝様12

この手紙が公開されているのは、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」と題された文においてですが、さらにそのなかで、筆者である憲三は、市川からの金は「入院前日の五月一一日に自宅で受け取った……貳万円返金すべきところをあやまって参万円にしてしまった」13と、書き加えています。

それでは、市川が憲三に渡した金が「お見舞金」でなかったとすれば、市川は何の目的で、貳万円を差し出したのでしょうか。自分の知る無一文に近い憲三を哀れみ、今後支払いに窮するにちがいない入院費用の一部に充ててもらうことが念頭に置かれていたものと考えられます。しかし憲三が、それなりの資金を用意していることを知るや、それまでしばしば折に触れては金品を援助してきていたことも含め、自分の厚意が無にされたと思い込み、返金を求める行為に走ったのでしょう。憲三や、その話を聞いた静子の目には、その行為はどう映ったのでしょうか。おそらく大人気無い、失笑を誘う行為として映ったにちがいありません。また同時に、言い出す場所がそれにふさわしい場であったのかどうか、それを思うと何か虚しい怒りに近い感情が湧き出してきたかもしれません。

この問題に関連して、ここに、逸枝自身の言説を引いておきます。市川の支援を念頭において書かれたものではおそらくないでしょうが、人が人に贈与することの危険性を、生前逸枝は、こう認識していたのでした。

 ……もっと甚だしい場合では、たとえば他から進んでなされた贈与などでも、多くの場合、それが通俗的な取引的観念もしくは恩恵的観念を結果的に形成し、両者間に、ともすれば、怨疾とか心おごりとかが、かもしだされる危険を伴うおそれがあるからである14

この逸枝の言説は、霊安室での市川と憲三の確執を先取りしているように読むこともできそうです。

しかしながら、その一方で、後援者としての市川の自尊心なり自負心なりは大きく傷つき、そのとき市川は、一時的に適切な判断ができない、冷静さを喪失した状況に陥ってしまったのではないかとも、あるいはまた、生涯許すことができないとの強い決断にまで到達してしまったのではないかとも思われます。それについての市川本人の言葉は残されていないようですので、推断するしかありません。ただらいてうは、逸枝の死を心から悼む「高群逸枝さんの訃報」と題された文のなかで、憲三と市川たちとの亀裂についてはいっさい何も触れていませんが、わずかながら、こう付け加えています。「高群さんが最後の病床をおくった国立東京第二病院への入院については、つねづね高群さんの研究生活を励ましてこられた、古くからの友人市川房枝さんや竹内茂代さんらの配慮、尽力があったのです」15。逸枝の死後も、憲三とらいてうの友情は、これまでどおり終生続きます。しかし、市川との交流は、これをもって、残念ながら途切れることになるのでした。葬儀の際に、年来の盟友であるらいてうが友人代表に名を連ねなかったのは、こうした背景が遠因となっていたのかもしれません。

それにしても、臨終に立ち会うことができず、最後の言葉も交わすことなく、手さえ握りしめてあげることもかなわず、ひとり逸枝を旅立たせてしまった憲三の無念は、いかほどであったでしょうか。さらにそれに加えて、あれほど強い望郷の念を抱く逸枝のなきがらを、思いどおりに火の国に持ち帰り、そこで本葬ができなかったことの無念は、これもまた、いかほどであったでしょうか。この時期、喪主たる憲三は、打ちひしがれ、その敗北感に必死に耐えようとしていたにちがいありません。しかしながら、葬送の儀というものは、あくまでも遺族を主体とする見送りの営みである以上、逸枝の亡き姿を、市川を含む一部の女性グループの思いのままにさせずにすんだことは、せめてもの慰めになったものと推量されます。

第三節 「火の国」熊本での逸枝追悼

東京の婦選会館で高群逸枝の追悼会が開かれて一箇月と数日が立ちました。今度は熊本で、荒木精之が主宰する『日本談義』の八月号で「高群逸枝女史追悼」の特集が組まれました。特集は、橋本憲三、福田令寿、島田磬也を含む九人の執筆陣で構成されました。そのなかに、志垣寛の「高群さんと橋本君」という一文があります。志垣の妻が、熊本県師範学校女子部で逸枝と同級であり、志垣自身は、かつて憲三を平凡社に入社の斡旋をしたことがあり、今回の告別式に当たっては葬儀委員長を務めており、逸枝とも憲三とも昔からの親しい間柄でした。その志垣が、追悼文「高群さんと橋本君」のなかで、逸枝が亡くなった日の病院の霊安室での通夜の一幕に触れています。これも少し長くなりますが、正確を期すために、断片化することなく、その該当箇所すべてを、ここに書き記しておきたいと思います。

 六月七日、国立第二病院の死亡者室に横たえられた亡き人の枕頭には、従来長い間彼女のためにあらゆる協力と奉仕をいとわなかつた数々の名流婦人があつた。彼女たちに囲まれたたゞ一人の故人の骨肉者は夫憲三君一人であつた。橋本夫妻がいかに貧乏であつたかは、彼女たちがよく知つていた。だからこそ彼女たちは年々逸枝さんの研究費を扶け、治療費を扶け、そして今は死後の葬式まで心配していた。
 しかし橋本君にしてみれば、せめて葬儀位は亭主たる自分の手で、自分の心ゆくまゝにとり行いたいと念願した。そのかげには憲三君をこの上なくいたわしく感じていた憲三君の妹さん(水俣在)があつた。妹さんは逸枝さんの臨終には居合せなかつたが、亡くなる数日前に訪ねて、治療費として百万円をおいて行つた。橋本君は今こそその金で逸枝を自分の思う通りに葬りたいと思つていた。
 名流婦人たちは、橋本君の意中を察せず葬式万端、自分たちの手でとり行うべくすでに枕頭には葬儀やが呼ばれていた。初め橋本君は彼女たちからのがれたくて、葬儀は熊本でとり行うといつて彼女たちをおどろかせた。しかしせめて「告別式」だけはとのたつての要望から、橋本君も折れて、葬儀やが招かれたわけだ。その席上、橋本君は最高葬儀を注文し、彼女たちの眼の前で即金を渡した。これには流石名流婦人たちがびつくりしてしまつた。貧乏をうりものにする似而非ものであると怒つた。橋本さんがあんなお金持ちとは夢さえ思わなかつた。そんなにお金があるなら、先刻さしあげた「見舞金」は返してほしいといつた名流婦人もあつた。もちろんその金は返した。わたくしが現われたのはそれらの事件のあとであつた。
 名流婦人たちは死亡広告に名を連ねる事を拒み、葬式にも列せず、僅かに平塚雷鳥、守屋東、伊福部敬子、住井すえ等々の数女史にすぎなかつた。
 故人は原始女性は太陽であつたという平塚女史の言葉を実証すべく一生の研究を続けた。しかし女性解放は男性を奴隷化することとはいわなかつた。男も認め、女も認むることが故人の心ではなかつたろうか16

志垣寛は憲三の友人ですので、その観点から偏って書いているかもしれません。では、一方の「名流婦人たち」は、この一件をどう見ていたのでしょうか。しかし、少なくとも市川房枝の随想集『だいこんの花』(一九七九年、新宿書房)と、市川ミサオの回想記『市川房枝おもいで話』(一九九二年、NHK出版)とを見る限りにおいては、そのことについてはいっさい触れられていません。くしくも志垣は、「女性解放は男性を奴隷化することとはいわなかった。男も認め、女も認むることが故人の心ではなかつたろうか」という文言で、「高群さんと橋本君」を結びました。ところが、驚くべきことに、第一〇章「追慕――原郷の水俣で妻を顕彰する憲三の情愛と受難」と第一一章「服喪――橋本憲三の死去と遺る橋本静子と石牟礼道子」において詳述しますが、それから一〇年もの歳月が流れたのち、この逸枝の入院および臨終時に発生した反目が、ひとつは、小説という、事実を超えた創作形式をとりながら、いまひとつは、評論という、一方的な視点に立った論述形式をとりながら、一度ならずも蒸し返され、憲三があたかも金の亡者で妻を抑圧する風采の上がらない夫であるかのように、心ない女性の書き手たちによって描かれることになるのです。

しかし、その一方で、「高群逸枝女史追悼特集」を所収した『日本談義』が刊行されるおよそ一箇月前の七月三日の『熊日』(六面)に目を移動しますと、そこに石牟礼道子の「高群逸枝さんを追慕する」という追悼文に出くわします。これは、石牟礼が『苦海浄土』の作者として名を成す少し前の文です。それでは以下に、「高群逸枝さんを追慕する」のなかの一節を引用します。

 高群逸枝氏が、その女性史の中で、まれな密度とリリシズムをこめて、ほかに使いようもないことばで「日本の村」と書き、「火の国」と書き、「百姓女」と書き、「女が動くときは山が動く」と書いたとき、彼女みずからが、古代母系社会からよみがえりつづけている妣(ひ)であるにちがいない。(注=妣は母)

末尾の括弧書き「注=妣は母」の文字は、石牟礼のもともとの原稿にあったのか、編集作業中に付け加えられたものなのかはわかりませんが、これをきっかけに、石牟礼の内面にあって、高群逸枝をもって自分の妣/母とみなす慕情の念が徐々に醸成されてゆきます。こうしてこの時期、石牟礼は、憲三に寄り添いながら逸枝の志を継ぎたいとする願望を固く胸に秘めるのでした。逸枝亡きあとの、新たな物語が、ここに開幕します。

第四節 憲三による「火の国の女の日記」の補筆と『高群逸枝全集』の編集

一九六四(昭和三九)年六月七日の午後一〇時四五分、ガン性腹膜炎により、高群逸枝は、国立東京第二病院において息を引き取りました。病院からの急変の知らせを受けた夫の橋本憲三は、自宅を出て病院へと向かう途中にあり、残念ながら、臨終に際して妻の手を握ることも、言葉をかけることもできませんでした。しかしながら、最期の病床にあって逸枝は、次のようなことを、憲三に託していました。

私とあなたの愛が火の国(自叙伝)でこそよくわかるだろう。火の国はもうあなたにあとを委せてよいと思う。もう筋道はできているのだし、あなたは私の何もかもをよく知っているのだから、しまいまで書いて置いてください。ほんとうに私たちは一体になりました17

すでにそのときまでにあって、「火の国の女の日記」は、第一部「しらたま乙女」、第二部「恋愛と結婚の苦悩」、そして第三部「与えられた道」が完結していました。憲三に託されたのは、第四部「光にむかって」、第五部「実り」、そして最後の第六部「翼うばわれし天使」の三部でした。第四部と第五部は、戦争が終わり、女性史学者として逸枝が世に認められてゆく時期の描写となり、第六部は、最期の病床の様子を扱う内容になることが想定されていました。執筆中、憲三は、自身の胸の内を明かすかのように、「『火の国の女の日記』 高群逸枝の自叙伝について」の表題のもと『熊本日日新聞』に寄稿します。掲載されたのは、一九六五(昭和四〇)年二月五日の朝刊八面でした。その一部を、以下に引用します。

 私は告別が終わった翌日から今日につづく医者がよいをしながら、彼女のいなくなった廃屋同様の一室にひとりむなしく残って「日記」の整理をした。同じ年に奥村画伯を失われたらいてう夫人は、「涙の中で、墓を建てるよりさきに、故人が望んでいたデッサン集を作らねばならないと決心した」という意味を書いておられるが、私も形の上でそっくりそのようになった。「奥村博史素描集」は一周忌を前にしてすでに刊行されたが、「火の国の女の日記」もそうなるであろう。

この文からも読み取れますように、『火の国の女の日記』の刊行には、逸枝の一周忌に際して霊前に捧げようとする意図が含まれていました。いまその本を手にすると、「はしがき」には、以下にみられる逸枝の言葉が、添えられています。

  どこからあたしゃ来たのやら
  どこへ帰っていく身やら…

 『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫のこの歌はさながら私自身の歌でもありはしないのだろうか。人生の峠に立って長かった道程をふりかえってみると、私は人の子であり、妻であり、また同時に詩人で、歴史学者だった。そしてもちろん人類の一員だった18

ハウプトマンの『沈鐘』を読むように逸枝に勧めたのは、ほかならぬ憲三でした。思い起こせば約四五年前の一九一九(大正八)年の夏、家出を決意した逸枝は、途中、妹の栞を旅館に残したまま、城内尋常小学校に勤務する憲三のもとに行くと、そのままそこでふたりの生活がはじまりました。そのとき憲三は、逸枝に次のようなことをいいました。「おれは肉感的な女がすきだ。この本に出ている『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫に扮したドイツ女優のようなものがすきだ。第一に森の姫そのものがすきだ。それにくらべるといわゆる貞淑な鐘匠の妻は恋愛の対象としては型がふるい」19。これを聞いた逸枝は、大きな衝撃を受けました。それは、憲三の恋愛観を知ることができたという意味においてだけでなく、自身のこれまでの生き方に大きな疑問と反省が生じたためでした。

この本は、登張信一郎と泉鏡太郎(泉鏡花)の共訳で一九〇八(明治四一)年九月に春陽堂から出版されていた『沈鐘』だったものと思われます。そのなかに、山の姫であるラウテンデラインが、姿の見えぬ池の主に呼びかける場面があります。そのとき山の姫が詠じたのが、以下の歌でした。

來し方もわれ知らず、
行く末いかで辨へむ、
山の、深山の、小鳥か、魔女か。
谷の小川に流るゝ花の、
麓の森に香は滿てど、
咲ける梢は人知らじ。
さるにてもわが思ひ、
唯、父戀し、母戀し。
戀うるに効なき過世とならば、
よしよし其も面白や。
黄金の髪の光り輝く、
容色麗しき、われは山姫20

このとき憲三に勧められるままに読んだ、『沈鐘』のなかの、まさしくこの詩こそが、逸枝のその全生涯を暗示するものであったにちがいありません。「『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫のこの歌はさながら私自身の歌でもありはしないのだろうか」の一語が、そのすべてを例証します。『火の国の女の日記』の「はしがき」に、上で上げた逸枝の言葉を引用しながら、憲三は、何を思ったでしょうか。

すでに詳しく紹介していますように、憲三から紹介された『沈鐘』がきっかけとなって、逸枝に「感情革命」が起こり、定型から自由律の短歌へと作風が変わります。そして、第一詩集『放浪者の詩』において、「放浪者は何の貞操ももたない」と宣言し、同時期に刊行された詩集『日月の上に』にあっては、「乙女をして歌はしめよ/太古の山に住ましめよ/女郎花をして咲かしめ/しら雲をして飛ばしめよ」と歌い上げ、さらに『妾薄命』では、「妾はいま歸りませう/父よ母よ/宇宙が妾を呼ぶままに」と叫び、『戀愛創生』では、「愛の女神が原始の森の中から連れてきて現在の家庭のなかにおしこめたならどうであらうか。彼女はきつと、遠い故郷にあこがれて涙の日を送るに違ひない」と訴えます。逸枝が求めて止まない、「太古の山」の「森の中」の「遠い故郷」へ向けての熱い思いを全身で受け止め、形に表わしたものが、憲三が用意した「森の家」でした。そして、この希望の家に住み着いた逸枝は、いまや詩人から一坑夫に姿を変え、「太古の山」の「森の中」の「遠い故郷」にあって自由と歓喜に包まれて生きていたであろう古代日本の女性たちの発掘を目指して、その実践作業へと乗り出してゆきます。爾来三十有余年、見事ここに、日本における「女性史研究」の鉱脈が発見されたのです。

また逸枝は、自叙伝「火の国の女の日記」を書くに当たって、次のようなメモを残していました。自身と夫憲三との関係を如実に示すものです。

 私の人生はすべて受け身に終始したように思われる。-はじめは父に従い後には夫に従った。……この点では、私はいわゆる受け身の労働者ではあったけれど、また主動的な開拓者であり、この場合には、父と夫は、私への命令者でも、また、かいらい師でもありえず、その反対でさえあった。以上のような相互関係にあることが父、夫の希望でもあったともいえよう。
 彼らは、私の教育者であるとともに、また未知なる私への期待者であり、俗語でいえば物質的精神的な投資家でもあったろう21

逸枝は、「私の人生はすべて受け身に終始したように思われる」と書きます。これを逸枝は、自分の欠落点として「優柔不断」とも「曲従」とも「奴隷根性」とも呼びました。そのことは、逸枝には自ら主体的に、自身の人生の枠組みをつくったり、物事への対応方法を構築したりする能力に欠け、その部分に関しては夫の憲三にすべてを依存していたことを意味します。逸枝は還暦を前にして、次のように日記に書き記しています。

 逸枝よ。銘記せよ。弁証法は、自分ひとりの心のなかでなせ。
 右のように規定したところ、私はひどくさびしくなり、生気がなくなった。私には「社会」がなくなった。夫は私の「社会」であったから。……つまり自主性がないのだろう22

しかし、ひとたび憲三によって枠組みが与えられるや逸枝は、「感情革命」をとおしての定型詩から自由律詩への転換において、アナーキズムの論戦において、そして女性史学の開拓においてそうであったように、実行や実践という地平にあって、周りの予想と期待をはるかに超えるその能力を発揮するのでした。これこそが、「物質的精神的な投資家」としての「夫の希望でもあった」のです。「教育者」であり「投資家」である夫と、「労働者」であり「開拓者」である妻の相互信頼関係の精緻が、最終的に、ふたりが求める愛の「一体化」を招来していったのでした。

憲三は、『火の国の女の日記』を編集しながら、そうした追憶に駆られていたものと推量します。まさに逸枝の、『沈鐘』から「火の国の女の日記」へと至る生涯は、憲三に支えられたものであり、逸枝の手によって生み出された著述も、憲三の助力なくしては成り立たない、共作、共演の作物でした。以下に引用する文は、生前逸枝が静子に宛てて書いていた手紙からの一節です。

主人のすゝめで、いまの仕事をはじめた時から、私は一身上の娯楽も名利心もすてゝしまい、戸外一歩も出ないで暮しています。主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない「女性史」を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです。だからこの仕事は、名前は私ですが、主人と私の合作です23

『火の国の女の日記』の奥付には、こう記されています。「高群逸枝 火の国の女の日記 1965年6月・第1刷発行 著者/高群逸枝 橋本憲三補 発行者/小宮山量平 発行所 株式会社理論社」24。「著者/高群逸枝 橋本憲三補」という表記に、ふたりの生涯のすべてが凝縮されているのではないでしょうか。

この時期の憲三の動向は、「共用日記」によく表われています。以下は、「共用日記」が断片的に所収されている堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』からの引用です。

五月三一日 小宮山さん四時前内容見本届けられる。/豪徳寺からお骨をだいてくる。軽部夫妻の墓に詣で、別辞。憲平ちゃんの土をもち帰る。
六月二日 静子はやぶさ10時5分-11時着。
六月五日 『火の国の女の日記』小宮山さん一時に持参。
六月六日 はやぶさ(10時5分東京駅着)で英雄さん25

預けていた豪徳寺から逸枝の遺骨をもらい受ける一方で、予定どおりに『火の国の女の日記』が出版され、そして、英雄と静子の妹夫妻が、西鹿児島駅発東京行きの寝台特急列車(ブルートレイン)の「はやぶさ」で、水俣から上京してきました。かくして六月七日、遺族は、ここ「森の家」で逸枝の一周忌を迎えたのでした。以下の引用は、六月七日の「共用日記」に残されている文言です。

五月三一日より逸枝をベッドにやすませ、毎夜をともにした。明朝この家を出て46年余の東京滞留に終止符をうち、故山にともなう。らいてうさん献花。お桃さん。村上信彦さんから電報。徳永夫人26

翌六月八日、喪主の憲三は、遺骨を胸に抱き、迎えにきた妹夫婦に付き添われて、故郷の水俣にもどっていきました。しかし憲三は、遺骨を預けると一六日には折り返し「森の家」に帰ります。『高群逸枝全集』(全一〇巻)の編集に本格的に取りかかるためだったものと思われます。この時期の憲三は、心身に不調をきたし、苦悩のなかにありました。七月二三日と二四日の「共用日記」からの引用です。

七月二三日 昨日から「火の日記」よみかえし、校正をしているが、十分もすると涙がでて、字がみえなくなり、頭いたむ。
七月二四日 昨夜頭痛、胃痛、に不安感。残務-著作集-遂行まで生命がもつかなど思う27

しかし、勇気づけられる出来事もありました。発刊から一箇月が過ぎたこの時期、『火の国の女の日記』の書評や紹介文が、雑誌や新聞で取り上げられはじめたのです。そのなかにあって、橋本万平が『週刊読書人』の「読書人の言葉」に寄稿した「比類のない自叙伝 高群逸枝火の国の女の日記を読む」は、憲三にとって「比類のない紹介文」となりました。その末尾の一節を次に引用します。姫路市在住の執筆者の肩書は「大学助教授」となっていますので、神戸大学に勤務していた物理学者の橋本万平だった可能性もあります。いずれにせよ、「高群女性史学」の熱烈な信奉者だったにちがいありません。

 菊版で全四九一ページ、二段組の尨大な本である。人によってこの本から得る所は様々であり、興味を覚える所もちがうであろう。この本は千五百円の高価な本であるが十分その金額に相当する内容のある本である。「日本女性史」の開明に一生を捧げた女史が、一人非凡な「日本女性の生活史」を身をもって綴ったこの本を、是非読んでもらいたいと私は声を大きくして世に叫びたい28

続いて、八月一六日には、『熊日』(夕刊三面)の「東京サロン」という囲み記事において、理論社社長の小宮山量平へのインタヴィューが掲載されます。以下は、「人間高群の再認識が必要なわけですね」という聞き手の問いに対しての小宮山の返答です。

 世間では高群さんのことを、生活を投げうって学問に貢献した女として、いわば神格化して考えがちです。ほんとうは彼女ほど‶人間的″な学問をした人はいない。……思想的には彼女はほんとうの意味でのアナーキズムを経過していると思う。常に右せず左せず、子どものような素朴な態度で幸福とは何か、平和とは何かと問い続けてきた。……年とるにつけてアカデミックになり枯淡の境に入るのが日本の学者の常ですが、彼女はついに最後まで若々しく、童女のような心情を失わなかった。根っからの詩人であり、学問を詩の営みとして行なった、まれな学者であったと思うのです29

そしてこの欄は、以下のような『高群逸枝全集』の刊行予告でもって、結ばれます。

 小宮山氏は「日記」出版に続いて「高群逸枝全集」出版の計画を練っている。全十巻。具体的にはまだ発表の段階ではないが「こればかりは、出版人としての僕の義務と考え、採算を度外視して必ず出します」と強く言い切った30

必ずしも万全の体調ではありませんでしたが、こうしていよいよ憲三の手は、多くの労苦を伴う全集の編集作業へと向かいます。年が明けると、いよいよ『高群逸枝全集』の配本がはじまりました。第一回の配本は『高群逸枝全集第四巻 女性の歴史一』で、一九六六(昭和四一)年二月に刊行されました。それとほぼ同じ時期に『高群逸枝全集第一〇巻 火の国の女の日記』も発刊されたものと思われます。この巻は、内容的にも体裁的にも、すでに世に出ている『火の国の女の日記』の完全な流用であり、発行年月もそのままで、変わりはありません。つまり、書題と表紙だけが差し替えられた、『火の国の女の日記』の増刷版といった感じのものでした。そして、最終回の配本が、翌年の一九六七(昭和四二)年二月刊行の『高群逸枝全集第七巻 評論集・恋愛創生』でした。これをもって『高群逸枝全集』全一〇巻は完結します。

この全集の特徴的なことは、どの巻の奥付にも、「著者 高群逸枝」と並んで「編者 橋本憲三」の名が記載されていることです。すでに紹介しています、逸枝が最期のベッドで言い残した夫婦の「一心」、あるいは著者と編者の「一体」が、ここに表われているようにも感じ取ることができます。

一九六四(昭和三九)年六月逸枝の死去から一九六七(昭和四二)年二月の全集の完結まで、およそ三年の歳月が費やされました。その間、憲三は、「森の家」の「廃屋同様の一室にひとりむなしく残って」、執筆と編集の作業に当たりました。そして、その最初のおよそ二年間は、水俣に住む妹の静子がしばしば訪れては、憲三の身の回りの世話と仕事の手伝いをしました。このように憲三は書いています。

 東京第二病院にあなたを見舞いに航空機で飛んできてくれた夫妻、とりわけあなたが愛した静子。あなたの没後、医者通いをしながら自伝「火の国の女の日記」を整理したり、書き継いだりしているひとりぼっちの私をみかねて、二た月のうちの二週間ずつ十回ぐらいやってきて何彼と援助してくれた静子31

また、静子も、そのときの事情を、以下のように書き記します。

 兄が、『火の国の女の日記』を書き継いで、理論社社長小宮山量平氏の御見識で出版をお採り上げくださり、同じく小宮山量平様の御厚志の『高群逸枝全集』の校正などで東京を離れなかった間を、私は加勢に上京していました32

一方で静子は、「森の家」の庭の様子を、実に情感豊かな文で書き表わしてもいます。以下は、その一部です。

 通称「森の家」の四季を見た訳ですけど、野鳥が運んだ糞の中の種子の植物がいろいろの種類で自生していました。鳥たちはどこからとんで来るのか、群をなして幾群かで一日中を訪ねていました。
 栗の実を拾い、むかごを採り、ポポの木は大きくなってしまって、もうたべきれない程、胡桃の木もあって、リスだか野ねずみだか見たことがあります。柿の実は固く熟して甘く、二階の窓からも採れました。ゆすら梅の甘ずっぱい赤い実、姉が書斎にしていたところの前にはぶどう棚があって、いっぱい実りました。少しクリーム色の入った白のバラは、お葬式の時の写真にもあざやかに写っています。木戸の入口から玄関までのフェルト草履の感覚、あれは、何十年だか住んでいたあいだ中の落葉がかき集められて作られたのだそうです33

このあとも、静子の細やかな自然観察が、清楚な文となってさらに続いてゆきます。こうした静子の文筆の巧みさは、兄も認めるところでした。次は、石牟礼道子が聞き取った憲三の静子評です。『高群逸枝全集』が完結したのちの「別巻」(写真集)刊行を構想するときのことでした。「静子にも書かせる。アイツは凄い文を書くんだから。子守りしながらヒョイヒョイあんな葉書でも書いてよこす」34。また憲三は、石牟礼にこのようなこともいっています。「あいつは編集者になるとよかったがな。逸枝の仕事を高く評価してくれて、仕送りのしがいがあると言っていましたよ」35

静子の水俣からの送金は、収入のない憲三の生活を助けるためのものだったにちがいありません。そして、すでに引用で示していますように、自身も、「二た月のうちの二週間ずつ十回ぐらい」の頻度で、つまり、おおかた二年間にわたって「森の家」を訪問しては、『高群逸枝全集』の編集に精を出す憲三の手伝いをしていたのでした。そのあと、通常では考えにくいことですが、途中水俣への一時帰省を挟んでの約五箇月のあいだ、静子と入れ替わるかのように、今度は石牟礼道子が、「森の家」に滞在することになるのです。それに至るまでには、どのような事情が隠されていたのでしょうか。断片的な資料しか残されていませんが、可能な限りそれらを積み上げ、これよりのち、その実際の一端を再現してみたいと思います。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、461頁。

(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(3)高群逸枝『招婿婚の研究』大日本雄弁會講談社、1953年1月、「跋」の2頁。

(4)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、4頁。

(5)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、5頁。

(6)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。

(7)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、236頁。

(8)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、480頁。

(9)月刊『婦人展望』、1964年7月号、3頁。

(10)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、476頁。

(11)石牟礼道子「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」『高群逸枝雑誌』第18号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年1月1日、27頁。

(12)橋本憲三「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、36-37頁。

(13)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、36頁。

(14)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年、496-497頁。

(15)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった④』大月書店、1992年、306-307頁。

(16)志垣寛「高群さんと橋本君」『日本談義』日本談義社、1964年8月、57-58頁。

(17)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、479頁。

(18)高群逸枝・橋本憲三補『火の国の女の日記』理論社、1965年(第1刷)、1頁。

(19)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、165頁。

(20)ハウプトマン『沈鐘』登張信一郎・泉鏡太郎訳、春陽堂、1908(明治41)年、6-7頁。

(21)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、354頁(隠しノンブル)。

(22)前掲『高群逸枝全集』第九巻、419-420頁。

(23)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、311頁。

(24)前掲『火の国の女の日記』、奥付。

(25)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、148-149頁。

(26)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、149頁。

(27)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、149-150頁。

(28)橋本万平「比類のない自叙伝 高群逸枝の火の国の女の日記を読む」『週刊読書人』第586号、1965年8月2日、7頁。

(29)「高群逸枝全集を出す小宮山量平氏」『熊本日日新聞』(「東京サロン」欄)、1965(昭和40)年8月16日(夕刊三面)。

(30)同「高群逸枝全集を出す小宮山量平氏」『熊本日日新聞』。

(31)橋本憲三「題未定――わが終末期 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年7月1日、25頁。

(32)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、13頁。

(33)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、13-14頁。

(34)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、310頁。

(35)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、275頁。