中山修一著作集

著作集18 三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子  妣たちの天草灘〈沖宮〉異聞

緒言――問題の所在と執筆の目的および方法

私はここに「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を書こうとしています。それに際しましての「緒言」を、以下の三点から構成したいと思います。

第一節 本稿に登場する虐げられた弱き人びとについて
第二節 本稿における「三つの巴」の構図について
第三節 本稿執筆の目的と記述の方法について

すでに私は、著作集14『外輪山春雷秋月』におきまして、「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」の実相を描きました。そのとき、高群逸枝や石牟礼道子に関連する資料を読んだ私は、少なからぬ衝撃を受けました。といいますのも、高群逸枝にとっては夫であり、そしてまた、石牟礼道子にとっては「最後の人」である橋本憲三に対して、この間小説家や伝記作家たちは、尋常ではない手厳しい罵声を浴びせかけていたからです。なぜ真実を越えてまで、不当にも憲三を悪者扱いするのだろうか。「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」を擱筆したあとも、この衝撃は、かかる疑問を伴って私の胸の内に残存しました。

そこでまず、「第一節 本稿に登場する虐げられた弱き人びとについて」におきまして、小説家たちによって、あるいは伝記作家や研究者によって、「虐げられた弱き人びと」である、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子、加えて、憲三の姉である橋本藤野と妹である橋本静子に焦点をあてて、その構造の一部を明確にしたいと思います。そこに、本稿執筆に際しての私の道義的問題意識が潜んでいるともいえます。そしてまた同時に、この一節が、本稿執筆における先行研究の分析という役割を担うことになります。

続く「第二節 本稿における『三つの巴』の構図について」におきまして、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子の三者を「三つの巴」とみなす、私の独自の構図について描写します。おそらく、これまでこの三人の分かちがたい関係性に着目し、その観点から叙述された伝記は見当たらず、そこで、本文の記述に入る前のこの場において、なぜ私が「三つの巴」としてこの三人を措定するのか、その根拠の一端をあらかじめ示しておきたいと考えます。いうまでもなく、これが、本稿「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」が書かれるうえでの、そのストーリーを制御する文脈となるものです。

最後の「第三節 本稿執筆の目的と記述の方法について」におきまして、節題の文言が指し示すとおり、いかなる方法論を使って、何を明らかにすることを目的として、この「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」と題された拙文がいま書かれようとしているのか、第一節と第二節での検討結果を踏まえて、そのことを事前に書き記しておくことにします。

以上の三つの節をもちまして、本文に先立つ、本稿の「緒言」といたします。

第一節 本稿に登場する虐げられた弱き人びとについて

本稿に登場する、五人の「虐げられた弱き人びと」の生没年につきまして、まず以下に書き記します。

橋本藤野  1894(明治27)年1月17日生-1978(昭和53)年6月11日没
高群逸枝  1894(明治27)年1月18日生-1964(昭和39)年6月7日没
橋本憲三  1897(明治30)年1月10日生-1976(昭和51)年5月23日没
橋本静子  1911(明治44)年7月25日生-2008(平成20)年4月15日没
石牟礼道子 1927(昭和 2)年 3月11日生-2018(平成30)年2月10日没

次に、「虐げられた弱き人びと」という文脈に照らして本節において言及する資料を、便宜上「評論」「小説」「伝記」「研究」の四つの分野に分け、いずれも出版年順に書き記します。

●評論の分野において――

瀬戸内晴美『談談談』大和書房、1974年。

瀬戸内晴美『人なつかしき』筑摩書房、1983年。

岡田孝子「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年。


●小説の分野において――

瀬戸内晴美「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」『文芸展望』第5号、1974年4月号。

戸田房子「献身」『文学界』文藝春秋、1974年7月号。


●伝記の分野において――

もろさわようこ「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)集英社、1980年。

西川祐子『森の家の巫女 高群逸枝』新潮社、1982年。

栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年。

山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年。


●研究の分野において――

栗原弘『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』高科書店、1994年。

他方、それらへの反論としての性格をもつ、「虐げられた弱き人びと」が書き残した文がありますので、以下に、これも出版年順に列挙します。

橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日。

橋本憲三「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日。

石牟礼道子「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日。

石牟礼道子「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』思想の科学社発行、1982年1月号(通巻349号)。

石牟礼道子「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、早稲田大学出版部、1997年。

石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年。

それではこれより、どのようなプロセスのなかにあって、「虐げられた弱き人びと」は生まれ出ることになったのか、その様相について要約します。

橋本憲三が、妻高群逸枝の死後、東京での残務整理を終えて、自身の姉(橋本藤野)と妹(橋本静子)が住む熊本県水俣市へ移ったのは、一九六六(昭和四一)年一二月のことでした。この地で憲三は、逸枝の墓をつくり、『高群逸枝雑誌』(季刊)を発行することになります。この雑誌の編集を支えたのが、同じく水俣に住む作家の石牟礼道子でした。道子は、創刊号から「最後の人」の連載に入ります。一方、逸枝の業績は、多くの研究者や学生たちを惹きつけ、絶えることなく逸枝巡礼者が水俣を訪れてくるようになりました。そのなかのひとりに、作家の瀬戸内晴美がいました。一九七三(昭和四八)年の二月一日の憲三の「共用日記」(妻の逸枝が亡くなってからは事実上憲三単独の日記)には、瀬戸内の訪問が、こう記されています。

午後八時三十分-10時50分、瀬戸内さん、村上彩子さん(筑摩書房)とみえる。石牟礼さん同道

翌二月二日の日記には、次のような文字が並びます。

午前一一時、瀬戸内さん村上さん、Mさん。瀬戸内さんお墓まいりしてくださったと。紅梅白梅がさいていたと。室にいらず、そのまま水俣駅へ(庭で静子あう)

「Mさん」とは、間違いなく、道子のことでしょう。このとき憲三は、庭に二階建ての建物を建て、一階を、藤野と静子が経営していた、食品や日常雑貨を扱う橋本商店の倉庫に貸し、二階を、自室と『高群逸枝雑誌』の編集室にあてていました。このとき筑摩書房の村上彩子が同伴していることや、その五箇月後に「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」が筑摩書房発刊の文芸雑誌である『文芸展望』に登場することから推し量れば、このときの訪問は、逸枝と憲三の伝記を書くに当たっての事前の了解をとるためだったのではないかと思われます。

一九七四(昭和四九)年の三月二六日に、憲三は、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が掲載された『文芸展望』第五号が、筑摩書房の村上彩子から送られてくると、二日後の二八日に、瀬戸内に宛ててはじめての手紙を書きます。その手紙のなかで憲三は、瀬戸内が書いた内容について、「……というのはちがいます」「……混同ではないでしょうか」「……といったおぼえはありません」「……のことは私はしりません」「……全く考えられないことです」などといった表現を使って、幾つもの誤謬を指摘します。そして、そのうちの最大の核心部分こそが、逸枝の主宰雑誌『婦人戦線』が発刊されていたころの同人であった松本正枝が、逸枝の恋人が自分の夫の延島英一であったことを、聞き手の瀬戸内に語る、次の場面でした。

 逸枝の印象を訊くと、
「そうですねえ」
 と、ちょっと遠い所を見る目つきをして、
「とにかく変わった人でしたから」
 といい、口辺に微笑とも苦笑ともとれる笑いを浮べながら、
「あの人はアナーキストでしたからね……恋愛もアナーキーに実践なさいましたよ」
 という。
「ということは、橋本さんの他に恋人がいたということでしょうか」
「ええ、アナーキーな恋ですから」
「その頃の恋の相手の方を御存じでいらっしゃいますか」
 正枝さんは、小さな肩をちょっと落とすようにして、ふっと座を立つと部屋を出ていった。玄関のつきあたりにあった炊事場でお湯をわかしてきた薬かんをさげてほどなく部屋にもどってきた人は、白い柔和な表情で、またふっと軽く微笑して坐りながらさらりといってのけた。
「存じておりますとも」
 さっきの話のつづきのつもりらしい。
「うちの主人でしたから」

このとき憲三は、自分と自分の妻が、事実と異なる姿でもって世間に公表されたことに、耐えがたい無念と屈辱を感じたのではないかと推量されます。そこで生前にあって憲三は、今後公開するときが来るかもしれないという思いのもと、この手紙を道子に託します。その手紙は、「瀬戸内晴美氏への手紙」という題で、憲三の死後四年が立った一九八〇年一二月に刊行された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)において、実際そのとおりに、公開されるのでした。

憲三の苦しみは続きます。といいますのも、瀬戸内の文の誤謬を指摘した手紙からおよそ四箇月が過ぎた、八月七日と翌八日の憲三の「共用日記」には、次のような文字が書き込まれているからです。

八月七日「石牟礼氏に電話。夕方みえる。みやげものもらう。お茶も。10時に辞去。辺境五と瀬戸内氏の談談談をもらう。睡眠薬服しすぐ就寝」。
八月八日「けさ、談談談を散見したら、一項目、さんたんたる事実無根の記事あり。……」

瀬戸内晴美の『談談談』が大和書房から出たのは、そのおよそ半年前のことでした。こうして、ここに憲三は、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」のなかだけでなく、『談談談』においても、事実無根の記述を見出すことになるのでした。その箇所は、小沢遼子と中山千夏を相手に瀬戸内が語る、おそらく次に引用する部分だったのではないかと思われます。

瀬戸内 ……だから私は男性で、内助の夫の系列というのを書こうと思って、岡本かな子と一平、高群逸枝と橋本憲三がいいと思って水俣へ行ってみたの。ところがだんだんいろんなことがことがわかってきてね。仲がいいかと思っていたら、その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって。
中山 普通との反対みたいね

瀬戸内が水俣の憲三宅を訪ねたとき、本当に憲三は、このようなことを瀬戸内に話したのでしょうか。すでに上に引用で示していますように、「共用日記」によれば、憲三が瀬戸内に会ったのは、一九七三(昭和四八)年の二月一日のことで、このときがはじめてでした。しかも、面談したのは、午後の八時三〇分から一〇時五〇分までの二時間と二〇分です。「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」といった内容のことを、憲三が初対面の瀬戸内に二時間余の短い会話のなかにあって語ったとは、にわかに信じることはできません。憲三は、こうした部分を読んで、「さんたんたる事実無根の記事」と「共用日記」に書き付けたものと思われます。この文は、逸枝と憲三の名誉にかかわって公然と事実を指示して毀損するものであるといわざるを得ません。この場合、指示された事実の内容に関して、その真偽が問われることはありません。つまり、書かれている文の内容が、真実であろうとも虚偽であろうとも、逸枝と憲三の名誉感情や自尊感情が公然と著しく毀損されていれば、刑法が定める名誉棄損罪が成立する可能性を排除することはできないのです。

「瀬戸内晴美氏への手紙」が所収された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)が発刊されると、改めて道子は筆を執り、一文を草しました。それは、一九八二(昭和五七)年の一月号の『思想の科学』に姿を現わします。タイトルは、「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」でした。道子が着目したのは、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝と橋本憲三――」のなかの、逸枝を描写した次の箇所でした。松本正枝の視線から描かれています。

 駅からわが家の方への一本道を歩いていくと、向うから逸枝が歩いてくる。今日もきれいに化粧して、袂の長い派手な着物を着た逸枝は、少女がするように、長い袂を両手で持ってひらひら蝶々のように両脇で躍らせながら、浮きたつような足どりでステップをふんでくるのだった。人の目も全く眼中にないように、その姿は何か抑えきれぬ喜びをそういうそぶりであらわしているとしか見えなかった。
 よほど嬉しいことがあるにちがいない、まるで子供のような人だ。ずっとそんな逸枝の姿を見つめながら正枝が近づいて声をかけると、逸枝は雷に遭ったように硬直して路上に突っ立ってしまった。大きな目をうつろに見開き、息もとまったように正枝をみつめてあえいでいる。
「どうなさったの、うちへいらっしゃったんじゃなかったの、延島はいませんでしたかしら」
 その道はわが家への一本道なので、正枝はこう問いかえした。逸枝はようやく夢からさめたように、
「あなた、まだ会社じゃなかったの、どうなすったの」
 と訊いた。詰問するような調子に、正枝はふたたび驚かされた。逸枝はそんな正枝の横をすりぬけると、挨拶もせずに駅の方へ走り去っていった。
 家に帰ると英一が同じように愕いた表情で迎えた

道子は、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝と橋本憲三――」から上の文を引用すると、それに続けてこう書きました。

 逸枝亡きあとに書かれたこの作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった。長い袖を両手に抱え、蝶のようにひらひらゆくような逸枝をかつて見た覚えがないといわれるのである。……正枝氏はそのような逸枝を、ご自分の夫君と愛を交わした姿と受け取られ、瀬戸内氏も、憲三との一体的夫婦の伝説がやぶれ逸枝に恋人がいたとされているのだが、わたしはそこに立ち入る気はない。逸枝は憲三氏の眼に触れるように延島氏からの求愛の手紙を常にそれとなく机辺に置いており、その間の事情と処理については、憲三氏自身の手記が残されている。(『高群逸枝雑誌』終刊号)

そして道子は、逸枝のその姿に、表題のとおり「本能としての詩・そのエロス」を見るのであって、最後にこの文をこのように結ぶのでした。

蝶のように浮き立つ足どりの逸枝はじつは詩の刻の人なので、健全な日常にいきなり出逢ってたちすくむ姿の背後には、彼女の詩篇のすべてが放電するように広がってゆくのをわたしは見る

『高群逸枝雑誌』のなかの憲三の「瀬戸内晴美氏への手紙」と『思想の科学』のなかの道子の「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」を目にしたかどうかは特定できませんが、翌一九八三(昭和五八)年に瀬戸内は、『人なつかしき』を刊行します。憲三が亡くなって、すでに七年が立っていました。そのなかで瀬戸内は、「『日月ふたり』のひとり 橋本憲三」と題した一文を設け、「私は正直いって、憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」と書き、執筆の途中断念の理由を、憲三のヒステリックな言動に帰したのでした。

本節の「虐げられた弱き人びと」という文脈において重要なのは、上の引用のなかの、「逸枝亡きあとに書かれたこの作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった」という、そばにいて観察している道子の言説でしょう。それに加えて、さらにはまた、こうした言説も残っています。「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」を読んで、誤りを指摘するために瀬戸内に手紙を書いた一九七四(昭和四九)年の三月以降の憲三は、心身ともにさらに悪化が進み、一進一退の状態にありました。それから半年後に憲三を訪問した堀場清子は、そのときの様子を、こう描写します。

 朝日評伝選『高群逸枝』の取材のために、鹿野政直と私とが、はじめて橋本氏を訪ねた昭和四十九年九月、氏は「事件」の衝撃の渦中にあった。それ以外のことを聞こうとする私達の質問に対し、氏の答えはいつもその点にたちもどって、少なからず困惑させられた。逸枝との愛の一体化と、女性史の大成とに生涯をかけ、女性一般の未来のために多大の貢献をされた氏の、最晩年での傷つけられ方が、いたましかった10

しかし、憲三の、いたましい「傷つけられ方」は、これで終わったわけではありませんでした。といいますのも、戸田房子の「献身」が、一九七四年七月号の『文学界』に突如として登場し、憲三に襲いかかったからです。この「献身」は、喪主である憲三と、有力な逸枝の後援者のひとりであった参議院議員の市川房枝とその取り巻きの、逸枝の葬儀を巡って意見が対立する霊安室での出来事を扱った小説でした。実際の出来事から、すでに一〇年が経過していました。そこで、「献身」において描かれている描写を吟味するに先立ち、一〇年をさかのぼって、その場面をまず再現したいと思います。書いているのは、その場に立ち会った志垣寛です。志垣は、逸枝と憲三の古くからの知友で、逸枝の葬儀委員長を務める人物です。志垣の追悼文「高群さんと橋本君」によれば、そのときの様子は、こうでした。

 六月七日、国立第二病院の死亡者室に横たえられた亡き人の枕頭には、従来長い間彼女のためにあらゆる協力と奉仕をいとわなかつた数々の名流婦人があつた。彼女たちに囲まれたたゞ一人の故人の骨肉者は夫憲三君一人であつた。橋本夫妻がいかに貧乏であつたかは、彼女たちがよく知つていた。だからこそ彼女たちは年々逸枝さんの研究費を扶け、治療費を扶け、そして今は死後の葬式まで心配していた。
 しかし橋本君にしてみれば、せめて葬儀位は亭主たる自分の手で、自分の心ゆくまゝにとり行いたいと念願した。そのかげには憲三君をこの上なくいたわしく感じていた憲三君の妹さん(水俣在)があつた。妹さんは逸枝さんの臨終には居合せなかつたが、亡くなる数日前に訪ねて、治療費として百万円をおいて行つた。橋本君は今こそその金で逸枝を自分の思う通りに葬りたいと思つていた。
 名流婦人たちは、橋本君の意中を察せず葬式万端、自分たちの手でとり行うべくすでに枕頭には葬儀やが呼ばれていた。初め橋本君は彼女たちからのがれたくて、葬儀は熊本でとり行うといつて彼女たちをおどろかせた。しかしせめて「告別式」だけはとのたつての要望から、橋本君も折れて、葬儀やが招かれたわけだ。その席上、橋本君は最高葬儀を注文し、彼女たちの眼の前で即金を渡した。これには流石名流婦人たちがびつくりしてしまつた。貧乏をうりものにする似而非ものであると怒つた。橋本さんがあんなお金持ちとは夢さえ思わなかつた。そんなにお金があるなら、先刻さしあげた「見舞金」は返してほしいといつた名流婦人もあつた。もちろんその金は返した。わたくしが現われたのはそれらの事件のあとであつた。
 名流婦人たちは死亡広告に名を連ねる事を拒み、葬式にも列せず、僅かに平塚雷鳥、守屋東、伊福部敬子、住井すえ等々の数女史にすぎなかつた。
 故人は原始女性は太陽であつたという平塚女史の言葉を実証すべく一生の研究を続けた。しかし女性解放は男性を奴隷化することとはいわなかつた。男も認め、女も認むることが故人の心ではなかつたろうか11

それでは、戸田房子の「献身」と題された小説へ移ります。その物語は、こうしてはじまります。

 昭和三十九年晩春の朝のことである。二人の男が彼女の寝室に入って行き、ベッドの中の綿のはみ出た蒲団と色褪せて毛のすり切れた毛布にくるまっている鷹子を、そっと担架に移した。……門の前に待機していた白い救急車に鷹子を運び入れた。
 鷹子の夫の楠昌之は、萎えた開襟シャツとズボンで担架のあとから歩いていた。彼は七十歳にはまだ間のある年齢であったが、老年に特有の黄ばんだ艶のない顔をして、額と鼻のわきに彫り込んだような皺をつくっていた。……
 彼のあとから、かなりおくれて、坂本滋子が両手に紙バックと風呂敷包みをさげて、急ぎ足で救急車の方へ近づいて来た12

瀬戸内の「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」では、登場人物はすべて実名でした。しかし、戸田の「献身」にあっては仮名が使われています。もっとも、誰が誰であるかは、ある一群の読者にとっては、すぐにも判別がつくでしょう。登場する本城鷹子が高群逸枝で、楠昌之が橋本憲三、坂本滋子が、市川房枝の側近のひとりの女性、おそらくは画家の高良真木であることは明白で、医師の竹内茂代が発案し参議院議員の市川の紹介で入院が決まった国立東京第二病院に、一九六四(昭和三九)年五月一二日の朝九時過ぎ、逸枝が搬送されるところを描いている場面であることは、その事情を知る者にとっては、これもまた、容易に判断がつくことでした。そして、この物語には、市川房枝と竹内茂代が、脇田さつきと山下照代という仮名で登場しますし、石崎せつ子という婦人が、おそらくは平塚らいてうのことでしょう。

この小説では、全編にわたって、楠昌之つまり橋本憲三は、妻の気持ちを理解しない、横暴で利己主義に凝り固まった、腹黒い風采の上がらない男として描かれています。逸枝が息を引き取ったあとの霊安室での様子についての描写にも、その一例を見ることができます。それは、次のような会話で構成されています。

「実は脇田先生にお願いがあるのですが、お聞きいただけないでしょうか?」
「どういうことでしょう?」
「新聞に妻の死亡広告を出したいのですが、先生にお名前を出していただきたいのです。いかがでしょうか?」……
「新聞広告をするとなれば、二、三十万は覚悟しなければなりませんよ」
「金はいくらかかってもかまいません」
「失礼なことを伺うようですが、ご用意があるのですか?」
「沢山ではありませんが、銀行預金が四百万ございます。亡き妻のために出来る限りのことをしたいと思います」
 女たちはあッという愕きでいっせいに楠昌之に視線を集中した。四百万円! いったいどこから得たお金なのだろう。鷹子の悲惨な生活を見かねて授けつづけてきた女たちは、自分たちにすら縁遠い巨額な金を昌之が持っていたと知って茫然となった13

続けて脇田さつきは、こういうのでした。

「私はね、楠さん、そんなにお金をお持ちでいながら、皆さんから金銭的な援助を平気で受けていらしたあなたのお気持ちがわかりません。私は、あなたがたお二人をいままで貧乏だとばかり思っていました。そのように事を運んできました。いま考えますと、貧乏でなかったあなたがたに対して大変失礼なことであったと思います。お詫びいたします。――死亡広告のことは、私の素志と相容れない点がありますので、私の名前を出すのは遠慮いたします。どうかあしからず」14

逸枝の臨終を主題にした「献身」は、憲三にとりまして、細部の事実関係には承服しがたい箇所が多々含まれていたにしましても、出来事自体は実際にあったことですので、憲三をそう驚かすものではなかったかもしれません。しかし、実際の出来事に事寄せて、個人を攻撃する態度には、憲三は、許しがたく耐えがたいものを感じ取ったにちがいありません。それは、霊安室での楠昌之と脇田さつきの、死亡広告と金銭を巡る会話をそばで聞いていた坂本滋子の心情を描写した、次のような箇所によく表われています。

 坂本滋子は昌之から金の話を聞いた瞬間から、打ちのめされた気持ちになっていた。……
 昌之の行為はずるくきたない。どこまで男らしくない男であろうと、滋子は彼を心の底から軽蔑した。そういう男と半世紀近くも一緒に暮してきた鷹子のことを思うと、だまされつづけた鷹子が可哀想でならない。なぜ昌之との共同生活を解消しなかったのかと、いまさら言ってみても仕方がないが……日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか15

しかしここで描写されている、「だまされつづけた鷹子が」「日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか」の箇所は、これから本文において詳述しますように、明らかに事実とは異なっています。それにしても、事実を曲げてまで、男にだまされた女の哀れさという虚構をつくり上げ、そのうえに立って女性を擁護し男性を断罪するところに、潜在的に定型化されたこの時代の女性の固定的かつ差別的視点がにじみ出ているようにも感じ取れます。といいますのも、それは、のちに、もろさわようこが書く評伝「高群逸枝」にも通底する部分だからです。

憲三の読後感は、調べる限り、資料には残されていないようです。しかし、実際には、突然背後から鈍器のようなもので頭を殴られたような、激しい衝撃を憲三は感じたにちがいありません。その理由は、現に実在する人物が、小説という虚構空間に連れ込まれ、あることないこと、おもしろおかしく、罵倒され中傷されている場面に出くわしたとき、それに怒りを覚えない人はいないと思われるからです。構想力と創作性とを旨とする小説である限り、また、実名ではなく仮名が使われている以上、そこに描かれている内容に、著者は直接責任をもつ必要はないかもしれませんが、プライヴァシーがいたずらに暴かれ、人権が無視され、名誉も社会的評価も棄損された登場人物は、いかばかりの傷を負うことでしょうか。仮名で書かれていても、誰であるかの特定は可能ですので、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」と同様に、この小説のなかの記述内容も、名誉棄損罪を構成する余地を十分に残しているといえなくもありません。

それにしても、小説という隠れ蓑をうまく使って、一〇年前の出来事がなぜいまになって蒸し返されなければならないのでしょうか。発表された時期を考えますと、瀬戸内晴美の小説「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」の雑誌連載に触発されたとも考えられます。しかし、著者の戸田房子が臨終の席に加わっていたことを示す記録はありませんので、したがって戸田は、直接見たままのことは書けず、そこで、市川房枝やその取り巻きに取材したか、さもなければ、そうした人たちが、戸田を使って書かせたのではないかと推量されます。逸枝の臨終時の出来事が、一〇年を経たいま、なぜ唐突に小説のかたちをとって無責任にも公にされなければならなかったのか、その背後にある正確な経緯や動機は、いまのところ不明であるとはいえ、少なくとも当事者の憲三は、市川とその側近の女たちの執念と怨念の深さのようなものを感じ取ったのではないかと推量されます。

最晩年に至っての傷つけられ方の大きさを考えると、瀬戸内の小説「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」と戸田の小説「献身」が、病気静養中の憲三の死期を早めさせたという見方も、できないわけではありません。静子と道子が連日の看病に当たります。病床にある藤野も、母屋から従業員の背におぶってもらって、憲三の居室に入ります。かつて幼年時代に逸枝と机を並べていた級友を母親にもつ、女医の佐藤千里が主治医です。憲三の息が切れたのは、瀬戸内と戸田の小説が雑誌に掲載されておよそ二年後の、一九七六(昭和五一)年五月二三日のことでした。

憲三が亡くなると、多くの新聞や雑誌でその死が報じられ、追悼文が掲載されます。評伝『高群逸枝』を書くために、妻の堀場清子とともに、生前憲三宅を訪問し取材をしていた早稲田大学教授の鹿野政直は、「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」と題する追悼文をしたためます。それは、六月七日の『朝日新聞』夕刊五面に掲載されました。奇しくもこの日は、逸枝の一三回忌に当たります。そのなかで鹿野は、憲三をこのように評したのでした。

 わたくしは橋本氏に会って、氏がじつに編集者的な感覚に富んでいるのを発見したが、有能であったにちがいないその仕事をすてて、妻の仕事のささえ手にまわった。家事を一切ひきうけたばかりでなく、資料さがしにでかけ、生活設計をし、研究の方向に助言をあたえ、妻のかいたものの最初の読者となり批判者となった。さらに、おしよせる世間のまえに、一人でたちはだかった。彼女の作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、その夫がかかわりあっている。橋本氏の編集者的な才能はその妻に向かって集中し、彼女のプロデューサーになった、というのがわたくしの観測である。

そして末尾を、以下の文で締めくくります。

 こういう生涯があったということに、やはりわたくしは、大正期のデモクラシーの機運の一端をみとめずにはいられない。そうして氏は、日本女性史に少なからず貢献をなしとげたのだった。と同時に、もし日本男性史・・・というものが書かれるとしたら、橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として(否定のかたちは、必ずしもそれが唯一ではないにせよ)、いわば「新しい女」にたいする「新しい男」として、位置づけられるのが至当ではなかろうかと、わたくしは、氏をいたむ念とともに夢想する。

鹿野政直と堀場清子の共著になる『高群逸枝』の出版は、残念ながら憲三の存命中には間に合わず、憲三の死去から一年と少しが立った一九七七(昭和五二)年七月に、朝日新聞社から上梓されることになります。

一方、地元紙である『熊本日日新聞』にあっては、佐藤千里が、憲三の最期をこう回顧しました。

 「……貧しさや世間の悪意の前にはくじけずがんばったつもりですが人生の終わりになって肉体の痛みという思わぬ伏兵に襲われてしまって……。僕にもどうか人間の威厳というものを保たせて下さい」
 こう語りかける憲三氏の優しいながらも射るような視線の前で、あの時の私はまったく無能でぶざまな姿をさらしていたように思われるのです。……
 「あなたは僕たち夫婦のことを森の小動物の一目惚(ぼ)れとからかったが、まったく今になってみると、僕は単に運がよかっただけかもしれない」
 この憎らしいほど幸福な男の科白(せりふ)が、結局、憲三氏と私の最後のやりとりになってしまいました16

かくして、「貧しさや世間の悪意の前にはくじけず」、「威厳」を保ちながら、「森の小動物」の残されていた一匹も、先の一体のもとへと隠れたのでした。

「世間の悪意」の前には、もはや高齢で病魔が襲う憲三は、なすすべもなく、それを甘受するほかありませんでしたが、「貧しさ」に対しては、逸枝との「森の家」での生活にあって、水俣の家族からの暖かい援助が常にありました。道子は、憲三の姉の藤野について、こう書いています。

 森の家の夫婦は学者と編集者であるから、実収入はたいそう低額でぎりぎりの生活であった。それを知ってお姉さまの方は、
 「憲三夫婦はお国のために勉強しているのだから、わたしたちが養うてやらんばならん」とおっしゃって、水俣の店の収入を存分に森の家に送金しておられた由である17

藤野は、こまめに食料品や日用雑貨を送っていました。また、一九五二(昭和二七)年には「森の家」の改修費用を、そして、三年後の一九五五(昭和三〇)年に地主の要望を受けて「森の家」の土地を購入するに当たっては、その代金を援助しています。藤野は、事実上「無文字世界」の人でした。そこで、逸枝の最期の入院に際しては、片仮名を使って逸枝を励ます手紙を書きました。以下は、その一部です。

マイニチカミホトケニ、ネンジテイマス。/ヒヨウノシンパイワ、イリマセン。イクライツテモ、ミナマタカラオクリマス。/ビヨウキニ、マケズ、シツカリキバリナサイ、クンゾ[憲三]モアナタモ、ミナマタデオセワシマスカラ、アンシンシテ、ヨウジヨウヲシテクダサイ/イツエサマ/フジノ/テガフルエテカゝレマセン18

この文面からわかるように、入院の費用も、退院後の水俣での静養生活も、すべて、藤野は自分の手で面倒を見ることをこころに決めていました。逸枝は退院かなわず亡くなりますが、独り「森の家」で『高群逸枝全集』の編集を終えた憲三は、水俣に帰還すると、その地で逸枝のための墓廟をつくる一方で、『高群逸枝雑誌』の季刊発行をもって、逸枝の業績を顕彰するのでした。病に伏していたとはいえ、藤野は、弟憲三のその献身ぶりを日常的に目にしていたでしょうし、瀬戸内や戸田の小説に苦しむ弟の姿に接しては、強くこころを痛めていたにちがいありません。その藤野は、愛してやまなかった逸枝と憲三の夫婦のあとを追うかのように、憲三の死去から二年後の、一九七八(昭和五三)年六月一一日に黄泉の客となります。橋本静子と石牟礼道子のふたりが遺され、他方、憲三の遺言により、すでに実妹の静子が、逸枝の遺作の著作権継承者となっていました。

藤野の死から二年が過ぎた、一九八〇(昭和五五)年の秋のある日のこと、静子のもとに一冊の本が集英社から送られてきました。見るとそれは、集英社刊の円地文子監修『近代日本の女性史 第二巻(文芸復興の才女たち)』でした。これは、女性史に関する論集で、そのなかにもろさわようこが執筆した「高群逸枝」がありました。読み通した静子に、体の震えが止まらない、大きな憤りが吹き出してきたにちがいありません。何ゆえに、こうまで兄が罵倒されなければならないのか――。さっそく静子はペンを握り、もろさわに宛てて手紙をしたためました。その手紙は、次の言葉ではじまります。

 集英社から『近代日本の女性史』第二巻が贈られました。この本のもろさわ様の御担当になる『高群逸枝』を拝見しましたので、初めてお手紙を差上げます。
 兄憲三をいわれもなく侮辱されていますし、二人の四十五年の共生が憲三の卑しい志のゆえんであったと、意図してお書きになっているように思います。憲三には、いずれも「婦選会館」のかかわりで二度の面識と言われながら、二回の瞥見で他人の七十九歳の生を斬られたことは無謀だと思いました19

こうした前書きのあと本論に入り、もろさわの文のもつ誤謬や偏見の数々を、その頁を明記しながら、指摘してゆくのでした。そしてその手紙は、次の言葉で結ばれます。

 何ヶ月か前に、郷土紙上の市川房枝様のお名前が出ている記事で、憲三のことがあしざまに書かれていてはらが立ったと、近親者からも聞いています。今回のことといい、何度もむしかえし活字になさらねばならないお心が理解できません。
 私は文筆とは無縁で、一行も活字にした経験はございませんが、亡兄の縁にせがみ、『高群逸枝雑誌』終刊号の誌面を借りて、当面した一人だけの生存者として、真意をお届けいたしました。
  昭和五十五年十月二十五日記20

それでは、もろさわが書いた「高群逸枝」とは、どのような文だったのでしょうか。内容的には、これまでに刊行された高群逸枝に関する二次資料をなぞったもので、何ら新規性はありません。形式的には、節の番号は付されてありませんが、「その死をめぐって」「詩と真実」「愛と自由」「所有被所有をこえて」の四節で構成され、後ろの三つの節が、逸枝に関する評伝になっています。もろさわは、最初の節である「その死をめぐって」のなかで、婦選会館ではじめて見知ったころの憲三の風采を、このように描写していました。

憲三は少年のおり傷つけた左眼が失明しているため、首をいささか左にかたむけ、肩をいからせ勝ちにしていた。物資のない戦中に使われた粗末ななわ編みの古びた買い物袋をいつも下げて持ち、膝のつきでた古ズボンをはき、ちびた下駄をせかせか飛び石に鳴らして、婦選会館へ入ってくる彼は、その気配に都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人でもあった。それから絶えて会うことがなく、十年余の歳月があったのだが、彼は当時と同じく、大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった21

この描写に、静子は度肝を抜かれたものと推量します。今日的な用語でいえば、明らかにこれは、「ルッキズム(lookism)」に相当します。もろさわは、他人の身体や容姿や服装に関して、何ゆえにかくも「外見差別」を行なうのでしょうか。それは、本人しかわかりません。しかし、「その死をめぐって」の全文を読めば、逸枝の臨終に際しての、憲三と市川房枝グループとのあいだに生じた確執について、市川房枝グループ側の視点に立って書かれていることがわかり、著者のもろさわが市川房枝グループの一員であることからして、その怨念の深さから、陰湿な「外見差別」によって憲三を誹謗中傷しているのではないかという推断が、容易に浮かび上がってきます。

静子の怒りは、憲三の死去に伴い廃刊となっていた『高群逸枝雑誌』を生き返らせ、「終刊号(第三二号)」としての発刊の道を開いてゆきました。それでは、一九八〇(昭和五五)年一二月二五日に刊行された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)の巻末にある「編集室メモ」に目を向けてみます。ここに、橋本静子と石牟礼道子のそれぞれの名で、ふたつの文が所収されています。そのうちの静子の文の一部を抜粋して、以下に引用します。静子の心情が、よく現われているのではないかと思われます。

 『高群逸枝雑誌』を身近かにお支えくださいました石牟礼道子様お一人だけに事情を申し上げて終刊号を諒承していただきました。志垣寛様の御遺族の志垣美多子様、村上信彦様、鹿野政直様には、それぞれの玉稿の転載を御許可いただきましたことを厚く御礼申し上げます。編集は、水俣在住中の数少ない兄の知友であられた渡辺京二様にお願いしました。……兄の主治医であられた佐藤千里様には、精神安定剤や栄養剤をおねだりしましたばかりでなく、おはげましや有益なご助言をいただきました。……
 あたたかい陽ざしの此の頃を、兄夫婦の墓家と下段の私どもの墓家を毎日訪ねています。レリーフによりかかりますと、途端に私は八歳の少女になり「イツエねえちゃん。どうしよう?」とたずねます。「静子さん、もういいのよ。あなたもここにいらっしゃい」と声が返って来たように思いました。人は皆、死ぬことに決まっているのに。「お手紙」を書いたことにこころがいたみます22

この『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)は、次の論考で構成されていました。

もろさわよう子様へ 橋本静子
高群逸枝の入院臨終前後の一記録 橋本憲三
  終焉記 橋本憲三
  高群さんと橋本君 志垣寛
瀬戸内晴美氏への手紙 橋本憲三
橋本憲三氏の生涯 鹿野政直
高群逸枝の女性史学 村上信彦
朱をつける人 石牟礼道子

この最終号の冒頭に掲載された静子の「もろさわよう子様へ」が、正面切ってもろさわの文を難じているのに対して、道子は、側面からそれを補うように、逸枝と憲三の美質を取り上げました。それが、終刊号の最後を飾るにふさわしい「朱をつける人」です。これは、久高島で一二年に一回、午年に行なわれるイザイホーの神事の見聞録でもあります。では、以下にその末尾の一節を引用します。

深い感動の中にいて、「花さしアシび」の中の朱つけの儀式、素朴な木の臼に腰かけているナンチュと、その額にいましも朱をつけるようとしている根人の姿に、著者には高群逸枝とその夫憲三の姿が重なって視え、涙ぐまれてならなかった。
 逸枝がいう憲三のエゴイズムは、男性本来の理知のもとの姿をそのように云ってみたまでのことであったろう。その理知とは究極なんであろうか。久高島の祭儀に見るように、上古の男たちは、懐胎し、産むものにむきあったとき、自己とはことなる性の神秘さ奥深さに畏怖をもち、神だと把握した。そのような把握力のつよさに対して女たちもまた、男を神にして崇めずにはおれなかった。そのような互いの直感と認識力が現代でいう理知あるいは叡智ではあるまいか。
 憲三はその妻を、神と呼んではばからなかった23

もろさわようこの「高群逸枝」以降も、高群逸枝と橋本憲三への周囲の関心は衰えを知りませんでした。そうしたなかにあって、一九八二(昭和五七)年、西川祐子の『森の家の巫女 高群逸枝』が新潮社から世に出ます。そこにこのような一節があります。

橋本憲三が高群逸枝の死後、早い時期に森の家をひきはらった一つの原因は高群逸枝の最後の病い、入院、葬儀をめぐって橋本憲三と市川房枝をはじめとする後援の人びととの間に生活感情、経済観念、彼女の仕事の成果の所属についての考え方の違いが明らかになったためであった24

この本は、橋本静子の名義で熊本県立図書館に寄贈されていますので、おそらく静子は、この箇所を目にしたものと思われます。そして、市川を頭とするそのグループとの反目が原因となって、敬愛する兄が、あたかも負け犬のごとくに、東京での居場所を失い、そそくさと田舎に逃げ帰ったかのように読み取れるこの一節に、静子は「これは違う」と、憤慨の声を上げたにちがいありません。さらに加えれば、西川は、「彼女の仕事の成果の所属」にかかわって憲三と市川とのあいだに対立があったごとくに書いていますが、憲三の遺言によって著作権の継承者となっていた静子は、これを読んで、「逸枝の著述物はあくまでも著者たる逸枝に属するものであり、後援者である市川らに帰属するものではない」との思いにかられたものと思料します。西川は、いかなる根拠(エヴィデンス)に基づいて、公然とこうした文を書いたのでしょうか。いっさい証拠となるものが示されていません。したがって、この文言の追検証は、いまや不可能な状態にあるのです。

逸枝の死後、憲三は、逸枝の書きかけの自叙伝に筆を足し、『高群逸枝全集』の編集を終えると、自宅の「森の家」を世田谷区役所に売却するや、ただちに藤野と静子の待つ水俣に帰還し、その地で、逸枝の墓廟を建設し、『高群逸枝雑誌』の刊行に着手します。この一連のプロセスに市川グループとの確執が直接的にも間接的にも介在していたことを立証するにふさわしい資料は見当たりません。むしろ、このプロセスが逸枝と憲三にとっての既定のコースであったことを示す傍証は、幾つも残されています。たとえば一例を挙げると、逸枝は、静子に宛てた一九四〇(昭和一五)年の手紙に、こう書いています。「私が年とって動けなくなったらあなたが養ってくださるってありがとう。感謝します。あと十五年――私たちもそうすればよぼよぼになることでしょう。喜んで静子さんのところへ帰りたいと思っています」25。また、この年の帰省のおりに橋本家の墓所である空華塔を参拝した逸枝は、「いずれ私の骨もこの墓にはいることであろう」26と書いています。そして、逸枝が亡くなったときの一九六四(昭和三九)年六月九日の『熊日』(朝刊九面)の初報を見ると、「高群逸枝さん(本名橋本イツエ、女性史研究家、評論家)は東京・目黒の国立第二病院入院中、七日午後十時四五分ガン性腹膜炎のため死去、七十歳。……十日午前十時から自宅で密葬。本葬は熊本で行なう予定。日時その他未定」と書かれてあり、喪主を務める憲三の意向は、本葬は熊本で行なうことであったことがわかります。逸枝の遺志に背き、なぜこれがかなわなかったのか、実はそのこと自体が問題なのですが、ここではそれは横に置くとしても、以上の断片的な三つの傍証からしても、憲三は、急逝した逸枝の亡骸を、東京での残務整理が終わり次第、一刻も早く熊本に持ち帰りたかったのは明らかでしょう。

西川は、さらにそのあとに言葉を継いで、「入院のために森の家を出て白昼の光に照らされたとたん、森の隠者は人びととの心をつなぐ力を失ったかのようである」27とも、書いています。しかし、これにもまた信憑性はありません。といいますのも、市川房枝との関係は、霊安室において今後の葬儀のあり方を巡っての考えの違いが露呈して以降、確かに断絶したものの、他方で、同じくその場にいた平塚らいてうとの憲三の友好は、生涯にわたり続いてゆくからです。「森の家」の跡地につくられた公園に、その後逸枝の記念碑が建立されるのも、らいてうをはじめとする、逸枝の人柄と業績とを真に偲ぶ人たちの尽力によるものだったことに疑いを挟む余地はありません。こうした事例をみぢかに見ていた静子が、自分の実の兄を、あたかも世間知らずの陰険な自己中心主義者であるかのごとくに、「人びととの心をつなぐ力を失ったかのようである」と書く西川の言説に、少なからぬ不快感をもったであろうことは、容易に想像できます。しかし、もろさわの「高群逸枝」を目にしたときに「もろさわよう子様へ」を書いて以降、もはや静子は、逸枝や憲三を扱った書籍や雑誌文に対して反論することはありませんでした。年齢も傾き、世間の悪意に対抗するだけの気力がすでに失われていたのかもしれません。

これまでに述べてきました瀬戸内晴美や戸田房子の小説、もろさわようこや西川祐子の伝記、それらのなかで取り扱われた、「虐げられた弱き人びと」という本節の文脈に照らして目を引くテーマは、主として恋愛事件や葬儀のあり方を巡っての高群逸枝と橋本憲三の夫婦の言動にかかわる問題でした。しかしその一方で、逸枝の女性史学研究そのものについても、批判的検討が進行していました。その事例として、洞富雄の『日本母権制社会の成立』(一九五七年、淡路書房)や鷲見等曜の『前近代日本の家族の構造――高群逸枝批判――』(一九八三年、弘文堂)を挙げることができます。これらは、純粋に学問的観点から高群逸枝の研究結果の内容を再検証し批判するものでしたが、ここへ来て、それとは異なる、逸枝の研究手法が含み持つ「意図的な操作改竄」を糾弾する論考が現われたのでした。

それは、栗原弘による『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』(一九九四年、高科書店)で、その「はしがき」のなかで、著者の栗原は、こう述べています。「高群学説の誤謬には洞富雄から鷲見等曜まで、実にさまざまな批判が行われてきた。筆者はそれらの多くが正しいことが理解できるようになった。しかしながら、従来の批判は、彼女がひたすら真実を追求した結果が不幸にも誤っていたとする見解に立っていたと思われる。ところが、筆者の追調査によれば、高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物であったことを確信するに至った」28。そして、本文において著者は、「彼女の極めて意図的な操作改竄」の構造を、このように解き明かすのでした。

このように、高群が、事実に反して、妻方提供型を主流として描いたことによる誤謬・説明不足には、実に明快な法則性がみられる。
  婚姻の前半期(詳述)  婚姻の後半期(略述)
  外祖父と外孫(詳述)  祖父と内孫 (略述)
  母子関係  (詳述)  父子関係  (略述)
  両親と娘  (詳述)  両親と息子 (略述)
  夫と妻方  (詳述)  妻と夫方  (略述)
  家の女系伝領(詳述)  家の父系伝領(略述)
右のように、極めて意図的に、一方に偏った叙述構成となっている。このような「整然とした・・・・・誤謬・・」こそ、高群自身が、自身の誤謬を認めていた、動かぬ証拠というべきである。意図の内容を一語でいえば、族制上の非父系的(高群によれば母系制)側面を前面に押し出して、父系的側面を無視したわけである29

それでは、こうした「整然とした・・・・・誤謬・・」は、いかなることが原因となって生じたのでしょうか。高群史学にあっては、「男性史から女性史を自立させ、女性解放の歴史的根拠を打ち立てることが目標とされていた」30とみなす著者は、「整然とした・・・・・誤謬・・」の発生要因を、自身が抱く「理想」を優先させ、見出した「史実」を隠蔽したことに求めようとするのでした。

これに対して道子が、「表現の呪術――文学の立場から――」と題された論考のなかで、このように反論します。

詩というものは、その世に対して即効的で有効性のあることをいえるわけではない。表現と言うのはそういう宿命を持っています。ですから、その詩は、一種、呪術的に成らざるを得ない。古代呪術の力をもった詩人が希にいます。学術論文でそれをやろうとして、人跡未踏の女性史というものに取り組んだ時、彼女の内なる詩は点火されて……鳥瞰的な表現を幻視したのではないか。そういう欲求がせめぎ合ったのではないか。……
高群さんは、こうあって欲しいという女たちの国を最高に良い形で作り上げてみせる、という詩と学問との刺激的調和を、誰も書いた事のない、一種の飛躍的新世界。神話劇みたいな大叙事詩を書こうとする衝撃が、噴火状態になって出てきたのだと思います。そのとき、彼女にはやはり歴史上の女たちが乗り移って、心象世界の核に成ったのだと思います。
 そうすると、今まで調べてきた平安・鎌倉・室町の五百家族、藤原氏の日記の全部を読破するということで蓄積してきた資料の中から、彼女の詩的な欲求に応じて、資料の方が波頭を立てて彼女と呼応したのだと思います31

ここまでであれば、新しい学問の誕生における詩的構想力の関与にかかわる論争の一場面という理解に落ち着くのですが、栗原の言辞は、それを越えて、次のように、逸枝の著作の全否定へと向かうのでした。

 高群の誤謬問題について、参考になるのは、『火の国の女の日記』である。その中で、高群は、酒乱の父に苦悩した家族であったにもかかわらず、「一体的同志的」結合を遂げた理想的夫婦であるかの如く描写している。これは、明らかに、自己の理想的夫婦像を、父母に投影した、事実に反する虚構である。彼女の場合は、通常一般の人間が、親族の恥を隠すために、事実を改竄する性質のものと一線を画さなければならない。というのは、自己の理想のために、事実が曲げられるのは、彼女の著作に共通しているからである。高群は、自分の父母の過去の事実を正確に把握しており、また叙述のための方法論上の錯誤があったとは思われない。その上で、高群は、極端な事実の変容をおかしているのである。……ただし、『母系制の研究』『招婿婚の研究』は研究書であり、日記と同等に扱うことはできない。もちろん、それは通常の人ならばそうなのである。高群はそうではない。彼女には、詩も研究書も日記も同等の作品なのである。それ故に、すべてに共通した創作原理が存在している32

しかしながら、よく読めばわかるように、実際には逸枝は、「火の国の女の日記」のなかで、父親の酒乱ぶりについて、はっきりとこう書いているのです。

 酒のみがはじまると、子供部屋のない家なので……家を追い出されて、しょんぼりと立っていただろう小さかった私のおもかげが、いまも目に浮かぶようにみえてくるのである。こうして子どもの私は、酒の座のいとわしさや、喧騒や、そこに露出される人間どもの悪鬼めいた姿などにしょっちゅうおびえていたが、いっぽうではまたそうした人間どもに同情もするといった複雑な人生観の芽ばえをも引きだしていたのだった33

さらに、父親の酒癖の悪さについては、『婦人戦線』の「自伝」のなかで、逸枝は、このようにも表現しています。一三か一四歳になったころの話です。逸枝に思いを寄せる少年がいました。

 酒亂の父が母をぶんなぐろうとして追つかけたりする。近所の子供達は、面白がつて見物する。そんな時、彼は近所の人達とともに子供達を追つぱらつたり、母を逃がしたり、父を寝かしたりしてくれた。さわぎが静まつて、弟達も寝てしまふ頃まで、彼はわたしの家の石段のそばに立つて、わたしのことを心配してくれてゐた34

また父親の勝太郎は、酩酊すると自制を失い、横溢する性欲を妻にぶつけ、暴力を振るうことも日常的でした。

 わたしの次に弟達が生れた。……この頃から、わたしの家には、呑んだくれどもが、毎日のやうにやつてきた。その上、子として浅ましくも、悲しく感じられたことは、父の母に對する限りなき欲望の追求である。おお、そのため美しかつた母は瘠せ衰へた。また彼女は、子供に対する氣兼ねからも、われらの「呑んだくれおやじ」の暴力に烈しく抵抗し、そして大ていそれが原因となつて、踏まれたたかれた35

加えて逸枝は、自分の自伝的小説である『黒い女』に、このようにも、書いているのです。

 私は父を恐れてゐた。が愛してもゐた。父は飲んだくれではあつたけれど、それが悪人だらうか36

逸枝が父親の酒癖について書いているこれだけの実例を挙げれば、栗原が書くところの、「高群は、酒乱の父に苦悩した家族であったにもかかわらず、『一体的同志的』結合を遂げた理想的夫婦であるかの如く描写している。これは、明らかに、自己の理想的夫婦像を、父母に投影した、事実に反する虚構である」という一文が、いかに事実に基づかない虚妄の言であるかは、すぐにも明らかになるでしょう。したがいまして、これにより、「彼女には、詩も研究書も日記も同等の作品なのである。それ故に、すべてに共通した創作原理が存在している」と決めつける、その前提が崩れたことになります。前提が崩壊した以上、栗原の結論も、それに従い自然消滅します。それでも、逸枝の「詩も研究書も日記も同等の作品」であり、そこには「すべてに共通した創作原理が存在している」ことを主張しようとするのであれば、「詩も研究書も日記も」一著一著そのすべての逸枝の著述にかかわって、いかに「創作原理」が働いた虚偽の作品となっているのかを、信頼できる一次資料に基づいて余すことなく例証すべきではないでしょうか。それができなければ、もはや学術的な価値をもった有益な指摘どころではなく、逸枝の著述家としての人格を全面的に否定する、単に威圧的で攻撃的なだけの傲慢な言説の領域へとはかなくも帰結するのではないかと思量します。

道子は、このことについては「表現の呪術――文学の立場から――」のなかで直接触れていませんが、道子の思いも、おそらくそれに近いものだったにちがいないと推量されます。といいますのも、以下の一節が、そのことを語っているように読めるからです。

 かの有名な、
 われ日月の上に座す
 詩人 逸枝
というのを、まだわたしは読めていないと近頃思う。栗原弘氏の提出された、高群逸枝の歴史改竄説以来、結構このあたりでも、藪の賑わいが聞こえてくるからである。逸枝の業績を一瞥もしないで「やっぱりそうか」と鬼の首でもとったような揶揄が聞こえてくるけれども、もとよりそれは栗原氏の望まれることではあるまい。私は、壮大な仮説の古典として高群史学を読みたい37

他方で、栗原弘の妻の栗原葉子は、一九九九(平成一一)年に平凡社から『伴侶 高群逸枝を愛した男』を上梓し、そのなかで、次のように憲三をその共犯者に仕立て上げました。

 ところで、こうした逸枝の「意思的誤謬」を、夫の憲三が知らなかったということがありうるだろうか。逸枝の書く一行一句一字を余さず読み、書き過ぎた指の痛みや背の凝りまで体験を共有していた憲三が、これを知らなかったという方が不自然である。否、それどころか、憲三は隅から隅まで知り尽くしていたのであった。……あるがままの客観的史実の上に構築するのが、実証史学の学問的誠意と真理であるとするならば、憲三は、いわば歴史学の自殺行為にも等しい改竄の共犯者だったのである38

かくしてここに、「歴史学の自殺行為にも等しい改竄」の正犯が高群逸枝であり、その共犯が夫の橋本憲三であるという構図が、栗原夫妻によってもたらされたのです。

栗原葉子は、自著の『伴侶 高群逸枝を愛した男』の「あとがき」のなかで「小著を橋本憲三と高群逸枝の墓前に一冊……捧げます」39と書いています。捧げられた憲三と逸枝は、それを読み、草葉の陰で何を思ったでしょうか。そして静子の胸には、何が去来したでしょうか。あえて想像することはここでは控えますが、他方で、同じく「あとがき」のなかで著者は、こうも語っており、どちらかといえば、こちらの方が、考察するにふさわしいかもしれません。

 橋本憲三については、夫との会話の中で度々話題にのぼっていたことだった。だが、私は自分で執筆するつもりはなく、堀場清子氏か石牟礼道子氏がいずれ書かれるであろう決定版憲三論の、ただ、読者でありたいと思っていた。で、待った。待って、待って、待ちくたびれて、とうとう大胆にも自分で筆を執ることを決意した。だから、こうして書き上げた今も、大先輩の前に頭を垂れて審判が下されるのを待っている気分である40

あえていえば、これはあたかも、堀場清子と石牟礼道子を挑発するかのような文にも読めます。実際、その一〇年後の二〇〇九(平成二一)年に堀場の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』が、そして続く三年後の二〇一二(平成二四)年に道子の『最後の人 詩人高群逸枝』が世に出るのです。しかし、この二著が上梓されるのを待たずして、二〇〇八(平成二〇)年四月一五日、静子は息を引き取ります。静子の旅立ちは、自らの意思で食を断ってから七五日が過ぎた日のことでした。享年九六歳。亡骸は、熊本大学医学部に献体することが事前に取り決められていました。見送った女性は、以下のように、かつて憲三と藤野の主治医を務めた佐藤千里に報告します。この女性は実名では登場しませんが、ほぼ間違いなく、石牟礼道子であると思われます。佐藤も道子も、すでにこのときまでに、居を水俣から熊本に移していました。

大学から迎えに来たシンプルなワゴン車で、名残の桜がひらひら散りかかる中を、シズコさんは自分で望んだように、家族と友人二人に見送られてゆっくり水俣川の土手を上って行かれました41

静子が遺していた紙片には、「生き抜いて、そして死んでいくことはこわくない。むしろ勇気リンリン」42と、書き記されていました。

静子の遺体を乗せた車が、サクラの散るなか水俣川の堤を過ぎ去るとき、それを見送る道子の思いはいかがなものだったでしょうか。逸枝亡きあと、「森の家」の憲三の胸に飛び込んだのは、四二年前の一九六六(昭和四一)年六月のことでした。ここで憲三と後半生の契りを結びます。立会人は、水俣に住む憲三の妹の静子でした。その静子が、いま亡くなり、帰らぬ人になりました。これで、「森の家」を知る、逸枝、憲三、藤野、静子のみなが黄泉の客となって、道子の前から姿を消したのです。哀愁が忍び寄ってきたにちがいありません。このとき道子は八一歳になっていました。

それではここに、いま資料に残る、逸枝、憲三、そして道子の静子評を短くまとめておきます。

まず、逸枝の静子評です。

 お母さんの叡智と美しい容姿は、妹(静子)がそっくりうけついでいるといってよいが、ちがうところは、妹には近代的知性がくわわっていることであろう。この妹は、私が嫁したときは九歳の少女であったが、成長とともに、私の深い理解者になってくれた43

次に、憲三の静子評です。『高群逸枝全集』が完結したのちの「別巻」(写真集)刊行を構想するときのことでした。「静子にも書かせる。アイツは凄い文を書くんだから。子守りしながらヒョイヒョイあんな葉書でも書いてよこす」44。また憲三は、道子にこのようなこともいっています。「あいつは編集者になるとよかったがな。逸枝の仕事を高く評価してくれて、仕送りのしがいがあると言っていましたよ」45

他方道子は、静子について、こう評しています。

 妹の静子さんは、たいそうのびやかな見かけの美女で、頭脳明晰な人だった。時々お手紙を頂いたけれども、切れ味のある名文である。……
 静子さんは、わたしがどういう育ち方をしたか十分にご存知でいらしたにちがいない。祖母が街中をさまよっていた姿などもしょっちゅうごらんになっていただろう46

最後に、静子自身が語る自分の性格は、次のようなものでした。

 文章とは無縁で一行の活字もありません。性格は父母からの血が流れており、理不尽に対しては正直に腹を立てますから、おとなしい方だとは申されないかも知れません。生来、お茶目だと言われています。地位、名声、職業、風采などでは人を見ず、品性や志、それと人柄のあたたかさ、詩情などの情感にひかれます47

静子が死去し、独り遺された道子は、この間これまでに浴びせられてきた、いわれなき罵詈雑言にかかわって、おそらく逸枝、憲三、藤野、そして静子が流したであろうと思われる無念の涙を、改めてしっかりと胸に刻み付けたものと思われます。それから四年の歳月が流れます。

石牟礼道子の『最後の人 詩人高群逸枝』が藤原書店から上梓されたのは、二〇一二(平成二四)年一〇月でした。この本は、『高群逸枝雑誌』に連載されていた「最後の人」に加えて、補遺として、「森の家日記」「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死」「朱をつける人――森の家と橋本憲三」を含む旧稿の数編と、「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」とによって構成されていました。

「最後の人」の取材メモとなる「森の家日記」には、「森の家」で橋本憲三と石牟礼道子が交わした、橋本静子を仲立ちとする「後半生の誓い」と、男女としての「聖なる夜」に関する記述が含まれており、その内容は、極めて衝撃的なものでした。さらに加えて、衝撃的なことが、「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」のなかにも現われます。このインタヴィューは、二〇一二(平成二四)年八月三日に道子の自宅において行なわれました。聞き手は、藤原書店の藤原良雄です。

――憲三さんから逸枝さんのことをお聞きになって、憲三さんの姿もそばで見ておられて、[憲三さんのことを]そう思われたわけですね。
石牟礼 はい。憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が鮮明でした。おっしゃることも、しぐさも。何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる。
――「最後の人」というのはどういう思いで。
石牟礼 こういう男の人は出てこないだろうと。
――憲三さんのことを。
石牟礼 はい。高群逸枝さんの夫が、「最後の人」でした48

ここではっきりと道子は、自分にとっての「最後の人」が橋本憲三であることを、世に告白するのでした。『最後の人 詩人高群逸枝』の刊行から六年後の二〇一八(平成三〇)年二月、道子は帰らぬ人となりました。享年九〇歳でした。

それからおよそ四年が立ち、藤原書店から『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26、二〇二二年刊)が世に出ます。これは、多くの論者による論考を集めたもので、そのなかに、女性史研究家の岡田孝子の「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」が所収されていますので、ここに紹介します。

岡田は、「もうこれ以上の素晴らしい男性は出てこない、『最後の人』だと石牟礼道子にそこまで思わせた橋本憲三とは、どのような人物だったのか」49という問いを発します。しかし、『最後の人 詩人高群逸枝』に書かれていた記述内容は、岡田にとって驚きの連続だったようです。岡田が驚きの読後感を書き並べた箇所を、少し長くなりますが、以下に引用します。

 「そこしか、わたしの身を置く場所はなかった」とはどういうことなのか。夫の弘や息子のいる水俣の「家」は、彼女の居場所ではないのだろうか。告白めいたことばでもある。しかも、この後さらに彼女は「その後の著書はすべて『椿の海の記』に至るまで、師が最初の読者、批評家であった」という。逸枝に対してと同じようなことを憲三は道子にしていたことになる。
 「森の家日記」の十一月六日のメモは、なかなか衝撃的でもある。

 「晴れ 弘より手紙、ガックリ、内容空疎」

 当時の彼女の心境が実にリアルに記されていてドキッとさせられてしまう。それに、その前の七月五日には「彼女の遺品――帽子とオーバー――着てみよとおっしゃる。そのとおりする。鏡をみてみる。よく似ているとのこと。感動」。
 七月十一日の日記は、さらに読む者に戸惑いを与える。「木立の中の深い霧。私の感情も霧の中に包まれてしまう。しかしそれは激烈で沈潜の極にあるものだ。沐浴。今朝の私は非常に美しい、貴女は聖女だ、鏡を見よと先生おっしゃる。悲母観音の顔になったと見とれる」。
 このような記述が随所にあり、また、道子は甲斐甲斐しく一人住まいの憲三の食事から身の回りの世話までしている。全体を流れる不思議な関係の、それもどこか悩ましささえ漂う雰囲気を私は感じてしまうのだが、これは考え過ぎだろうか。……彼女は何を思い、『最後の人』で伝えようとしているのか50

岡田は、『最後の人 詩人高群逸枝』に書かれてある、「森の家」での憲三と道子の同棲生活がどうにも理解できないようです。これまでに自分が獲得した憲三像と、この本のなかで道子が語る憲三像とが一致せず、混乱に陥ってしまったのではないかと思われます。ふたつの像の乖離を、もろさわようこの「高群逸枝」を引き合いに出して説明する箇所がありますので、同じく以下に示します。

 一九五二年、初めての出会いの時、もろさわようこの目に映った憲三は「膝のつきでた古いズボンをはき、ちびた下駄をせかせか」と鳴らしながら歩き、「都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人」だった。十年余の後、病院で再会したものの、「大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった」し、「おもいを妻に密着させ、他者への配慮を欠く憲三の自己中心的な態度」「偏屈な男」等々と描写していて、石牟礼道子が描く憲三像とはあまりにもかけ離れている。道子は「一人の妻に『有頂天になって暮らした』橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しい典雅で、その謙虚さと深い人柄は接したものの心を打たせずにはいなかった」と記しているのだから51

かつて、もろさわの「高群逸枝」を読んだ橋本静子は、すでに引用で示していますように、このように反論していました。

 兄憲三をいわれもなく侮辱されていますし、二人の四十五年の共生が憲三の卑しい志のゆえんであったと、意図してお書きになっているように思います。憲三には、いずれも「婦選会館」のかかわりで二度の面識と言われながら、二回の瞥見で他人の七十九歳の生を斬られたことは無謀だと思いました。

しかし岡田は、もろさわの文に強く反駁した静子の「もろさわよう子様へ」にはいっさい触れていません。なぜなのでしょうか。憲三の妹の、しかも無名の女の文など取るに足らないものであるとして無視し、切り捨ててしまったのかもしれません。

実際のところ、憲三の死に際して、静子も道子も、心からの献身的対応をしています。以下は、道子の文からの引用です。病床にありながらも憲三を思う姉の藤野の気持ちも、よく伝わってきます。なかにでてくる「佐藤さん」という人物は、憲三の主治医の佐藤千里で、佐藤の母親と逸枝が幼年時代の同期生でした。

 静子さんこの十日間ほとんどお睡りにならない。……
 佐藤さん、午後からほとんどつきっきり、いよいよフェルバビタール打たねばならぬようになったようですとおっしゃる。お悩みのご様子。
 先生のお姉さんの藤野さんが、若主人におんぶされておいでになる。そしておんぶされたまま肩越しに、よく透る声で、
「憲さぁん、憲さぁん!姉さんが面会に来たばぁい。もう、もの言わんとなあ」
とおっしゃる。そのお声の愛情、哀切かぎりなく、先生の寝息と交互に、
「おお、思うたより、やせちゃおらんなあ。憲さぁん、うつくしゅうしとるな」
 静子さんも佐藤さんも髪ふりみだしている、たぶん私も。徹夜52

憲三とはわずか二回しか顔をあわせたことのないもろさわの言説を信じるか、静子とともに憲三の最期を必死に看取った道子の言説を信じるか、それは人さまざまでしょうが、比べれば、その信頼性なり信憑性は、明らかなように思われます。いや、むしろそれ以上に、もろさわのこの「高群逸枝」の文にみられる憲三についてのルッキズム的描写は、明らかに人権侵害であり、名誉棄損であるように考えられますが、岡田はこれにいっさい意を用いることなく、平然ともろさわの言説と道子のそれとを並置し論じており、この方が、より問題的ではないかとも思料されます。

引用で示していますように、岡田は、こう書きます。「石牟礼は何を思い、『最後の人』で伝えようとしているのか」。それであれば、「岡田は何を思い、「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」で伝えようとしているのか」と、問わなければなりません。著者は、この文を、次のような言葉をもって結びに代えています。

しかし、『婦人戦線』の最終号、「森の家」に閉じこもる直前に掲載された短編「みぢめな白百合花の話」は、当時の逸枝の心境を物語っているように、私には思えてならない53

そのあとに、逸枝が書いた「みぢめな白百合の花」から短い一節を引用して、この岡田の「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」は終わります。こうして岡田は、とくに実証も論証もすることなく、暗に、憲三に虐げられる逸枝の孤独感を言外に漂わせながら、その姿を、いかにも「みぢめな白百合の花」であるかのごとくに、読み手に印象づけるのでした。「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」という主題には、どう見ても対応していない、的外れの幕切れです。道子の、「最後の人」である橋本憲三との「森の家」での同居生活がどうしても理解できないという窮地のなかから生まれた、思わせぶりな結論としかいいようがありません。

一方、『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』には、女性史家で評論家の山下悦子の「小伝 高群逸枝」も所収されていますので、これについても、触れておきます。山下の文は、概略、逸枝の思いに理解を示さない自己中心的で欺瞞的な性格をもつ憲三をからませながら、疎外された逸枝の苦悩の人生を描きます。おおかたこれは、これまでしばしば逸枝の伝記や評論にみられた記述の観点と手法を踏襲したものといえます。以下に、その一例を挙げてみます。

 若い頃、妻子を持つことは負担になるからと瞬間恋愛説をいい、金持ちの後家との結婚が理想だなどと言って高群を悩ませた橋本だったが、かなりの財産を稼ぎ、財を残して死んだ高群は、最高の女性だったということになるだろう。ぼろ着をまとい、栄養失調になるまでやせ衰え、死ぬ直前まで研究し続けて……54

山下がいうように、果たして憲三は、まともな服も食事も与えず、妻に強制労働を行なわせては巨万の財をなした、本当に無慈悲な夫だったのでしょうか。前段の「若い頃、妻子を持つことは負担になるからと瞬間恋愛説をいい、金持ちの後家との結婚が理想だなどと言って高群を悩ませた橋本だった」ことは、『高群逸枝全集』(第一〇巻/火の国の女の日記)のなかにその記述がみられ確認できますが、それに続く後段の文言につきましては、どうしてもそれに関する出典が確認できません。ひょっとすると、すでに紹介していますように、戸田房子が小説「献身」において坂本滋子に、「だまされつづけた鷹子が」「日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか」と語らせていますので、それに倣ったのかもしれません。

いずれにしましても、山下の言説には、何ひとつ根拠(エヴィデンス)が示されておらず、追検証ができない状態にあります。明らかに恣意的な言説と思わざるを得ません。逸枝を被抑圧者に見せかけ哀れんでは擁護し、憲三を金の亡者に仕立て上げては切り捨てようとする著者独自の視点がよく表われています。もしこれを、逸枝、憲三、藤野、静子、道子のなかの誰かなりが読むことができたとするならば、どう反応したでしょうか。いまや五人とも永眠の身にあります。そこで、彼らが抱くであろう無念と苦痛とに思いを馳せ、以下の文を引用します。ふたりが会って四五周年になる一九六二(昭和三七)年の七夕前夜に、憲三と誓い合ったときの逸枝の言葉です。

われらは貧しかったが
二人手をたずさえて
世の風波にたえ
運命の試れんにも克ち
ここまで歩いてきた
これから命が終わる日まで
またたぶん同様だろうことを誓う
そしてその日がきたら
最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない
すべてを土に帰そう55

このように、山下の言説と逸枝の言説とを対置してみますと、その違いが鮮明に浮かび上がってきます。他方、以下に、逸枝と憲三の夫婦に向ける道子のまなざしも書き記してみます。

それにしても、憲三にむけてのみ終生積極的に愛を訴え、それを確認したがり、共に「完成へ」と歩んだのは、よくよくその夫を好きであったと思われる56

そしてまた、道子は、こうも記述します。

 私どもが夫妻の生き方に心をゆすぶられてやまないのはなぜなのか、愛の形はいろいろあろうけれども、この二人においては徹底的に相手に対して真摯にむきあい、慢性的な弛緩やなれあいが、みじんも感ぜられないからであろう57

これらふたつの道子の言説からもわかりますように、山下が理解する逸枝と憲三の夫婦像と、道子の理解するそれとは、はっきりと完全に分かれます。どちらが適切な観察でしょうか。それはもはや言を俟たないのではないでしょうか。

本文を書き終えたところで山下は、こう書きます。「最後に、ここでは高群逸枝の死後、一二年間生きた橋本憲三に触れる予定だったが、枚数の関係で別の機会に譲りたいと思う」58。筆が止まった理由は、「枚数の関係」もあったのかもしれませんが、それだけではなく、石牟礼道子が『最後の人 詩人高群逸枝』のなかで書いていた、橋本憲三との親密な関係を理解することができなかったことに、多くの要因があったものと推量します。つまり、逸枝を抑圧する夫として憲三を見立て「小伝 高群逸枝」を草した自身の観点と、憲三をして典雅なわが恩師であり自身の「最後の人」とみなす道子の観点との両極にあって、山下自身、どうしても折り合いをつけることができなかったのではないでしょうか。そこで、そのことにかかわって、高群逸枝、橋本憲三、橋本静子、石牟礼道子へ向けられた、著者である山下悦子のまなざしがよく現われている箇所を拾い出し、少し長くなりますが、以下に引用してみます。

 「憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が鮮明でした。おっしゃることも、しぐさも。何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる」。「こういう男の人は出てこないだろうと」「高群逸枝さんの夫が『最後の人』でした」という石牟礼の言葉を読んだとき、石牟礼と橋本のワールドが見えてきたのだ。それは明らかに高群逸枝の世界とは別のものである。
 夫と息子のいる石牟礼は三九歳、橋本六九歳の森の家での奇妙な同居生活(六月二九日~一一月二四日)。この間同居生活を導いた橋本の妹橋本静子の真意も筆者には理解し難いものがある……。馬事公苑へ行った時のこと、「先生」とわたくしの表現が「わたくしたち」、「わたくしたち」とかわる場面があったり、肉感的な表現も見え隠れする箇所があったりと、それが何を意味するのかというような意味深な表現も多々ある本が『最後の人』なのである。……
 [憲三から道子は]眼鏡をプレゼントしてもらい、中村屋のカレーを食べといったような楽しいデートを森の家に籠ってからの高群は経験したことはなかったのではと思うと、なにか割り切れないものを感じる。橋本のために甲斐甲斐しく食事の世話もする石牟礼は高群とは違い、伸びやかな性を発散できるタイプの女性であり、橋本は石牟礼に高群を重ねるというより、三〇歳も年下の石牟礼との同居生活に楽しさを感じていたのではないだろうか。……
 高群の死後のこととはいえ、森の家での若い女性との奇妙な同居生活、しかもそれに協力した橋本の妹静子(高群にとっては小姑)という事実に対し、多くの女性はいい感情をもたないのではないか59

「小伝 高群逸枝」の末尾にこのように書く著者は、本文の記述内容においてと同じく、あくまでも憲三を、妻に曲従を強いり、支配しては劣等感に陥らせようとする、理解しがたい異質の人間としてみなしているといえます。あたかも、自分にわからないものは否定し排除しようとするかのような視線です。自分の観点を死守するためかもしれませんが、そうしたまなざしは、周りの橋本静子にも石牟礼道子にも、同じく向けられるのでした。静子の役割、道子の思いへの共感は、ここには微塵もありません。

今年(二〇二五年)で石牟礼道子が死去して七年になります。『最後の人 詩人高群逸枝』は、事実上の彼女の遺作であり、遺言となるものでした。しかしながら、ここに至って、そこに書かれてある道子の遺志としての叫びを読み解く人はいません。なぜ道子は、全集から取り出してまでも、単行本として最期のこの時期にあって、さげすまれ足蹴にされてきた、自分の「最後の人」である橋本憲三を世に送り出したのでしょうか。敬愛する恩師である「最後の人」に捧げられた道子の言葉の一つひとつに、いま私は、静かに耳を傾けたいと思います。

以上に述べてきたことが、本稿「緒言」の第一節として用意しました「本稿に登場する虐げられた弱き人びとについて」です。私は、この節での論述の結果をもって、概略、先行研究の分析とし、あわせて、高群逸枝、橋本藤野、橋本憲三、橋本静子、石牟礼道子の五人を本稿における「虐げられた弱き人びと」とみなす根拠としたいと思います。

ところで、上の引用文にありますように、山下悦子は、「夫と息子のいる石牟礼は三九歳、橋本六九歳の森の家での奇妙な同居生活(六月二九日~一一月二四日)。この間同居生活を導いた橋本の妹橋本静子の真意も筆者には理解し難いものがある……」と書いています。しかし、果たして憲三と道子の「森の家」での生活の真実は、男は「楽しさを感じ」、女は「伸びやかな性を発散」する、年齢差さえ顧みない、ふしだらで「奇妙な同居生活」だったのでしょうか。さらには、「この間同居生活を導いた橋本の妹橋本静子の真意」は、果たして、「多くの女性はいい感情をもたない」結果をもたらすことになるであろう、本当に「理解し難いもの」だったのでしょうか。それでは、次節の「本稿における『三つの巴』の構図について」のなかで、そのことにかかわって、少し検討しておきたいと思います。同時にこれが、主題となって核心を形成する、これから私が書き出す論稿の最も重要な部分となります。

第二節 本稿における「三つの巴」の構図について

石牟礼道子(旧姓吉田)は一九二七(昭和二)年三月に熊本県天草郡宮野河内において出生しました。それから数箇月後、石工を生業とする一家は、八代海(不知火海)を挟む対岸の水俣町に移ります。道子が物心ついたころには、すでに祖母のモカ(おもかさま)は精神に異常をきたしていましたし、父の亀太郎は、酒におぼれる日々を過ごしていました。一九四五(昭和二〇)年八月、日本は終戦を迎えます。そのとき一八歳の道子は、小学校の代用教員をしていました。その二年後、結婚話が持ち込まれます。そのときのことを、次のように道子は、述懐します。「結婚はまとまった。……家にいると弟たちの邪魔になりはすまいか、また口減らしをしなければ、という思いもあり、弟の友人というのが何よりありがたくて、ゆく気になった。……いまひとつ思ったのは、吉田姓であるよりも石牟礼姓を名乗った方が、ペンネームのようで面白い。……父は並々ならず石を尊敬していたから、石牟礼弘という弟の友人と式を挙げることになった」60。しかし、結婚生活は、殺伐としたものでした。ここへ至るまでに、自殺未遂も複数回ありました。この願望は終生続きます。

それから一〇年ほどの歳月が流れます。水俣病の出現と拡大、『サークル村』の創刊と参加、弟の死、日本共産党への入党と離党――これが、おおまかな一九五〇年代後半における石牟礼道子の足取りでした。労働者をつなぐ「表現」の場として、炭坑のある筑豊の地で谷川雁や上野英信、森崎和江らによって創刊された文芸雑誌が『サークル村』でした。谷川雁も同じ水俣の出身でした。この雑誌の創刊は、一九五八(昭和三三)年九月で、その二箇月後の一一月に弟を鉄道事故(自殺)で亡くします。道子は、自分が置かれているこのころの状況について、こう書きます。

サークル村に参加することと、入党することは、いまだ書かれざる近代思想史がどうであれ、私にとっては突然湧いてきた美学でした。いえ、すべて混沌の内部にいつもいて引き裂け、つぎなる混沌を生みだす民衆のひとりとして私はそこにいました61

道子はさらに、こうも書いています。

私はサークル村に入っててちょっと書いたり、谷川雁さんがやっておられた大正行動隊に行ってみたりしていました。短歌をやめかかっていたので、別な表現を獲得したかったのです。そのころ、自分を言い表せるものが何にもないと思って、いろいろ悩んでいました。結婚とは何ぞやとか。そして表現とは何かと62

そこで、道子の足は、図書館へ向かうようになりました。水俣には、淇水きすい文庫と呼ばれる、徳富蘇峰が寄贈した図書館がありました。館長の中野普は、本や文献といったものにまるで知識がなかった一家庭婦人に、噛んで含めるように、一から十までを教示しました。最初は郷土史についての古い文献に関心をもつ道子でしたが、しばしば通ってくる道子に対して館長は、特殊資料室の書物を自由に閲覧できるように便宜を図りました。ここに、まさしくひとつの大きな出来事が待ち受けていたのです。道子は、そのときの衝撃を、このように文字にしています。少し長くなりますが、省略することなく、書き写します。

 それまでの家庭生活にくらべてあまりに世界がちがうのに圧倒され、特殊資料室の大書架に誘われてたたずむうちに、ふと夕日の射している一隅の、古びた、さして厚味のない本の背表紙を見たのである。「女性の歴史・上巻・高群逸枝」とある。われながら説明のつかぬ不可思議な経験というよりほかないが、夏の黄昏のこの大書架の一隅の、背表紙の文字をひと目見ただけで、書物の内容については何の予備知識もないのに、その書物がそのとき光輪を帯びたように感じられた。つよい電流のようなものが身内をつらぬいたのを覚えている。そのため、しばらくその書物を手にとることがためらわれた。ややあって、なにかに操られるような気持ちでそれを手にとるとかすかな埃が立った63

時は「夏の黄昏」という。高群逸枝が亡くなるのが一九六四(昭和三九)年の六月です。であれば、このときの『女性の歴史』(上巻)との出会いは、逸枝が亡くなる前年の、つまりは一九六三(昭和三八)年の夏の出来事ということになります。「ハットして読みふけりましたが、興奮しましてね。かねてから私が思っていることに全部答えてある。それですぐ高群逸枝さんに手紙を書きました。そしたら逸枝さんは一カ月くらいして亡くなられました」64

道子が逸枝に宛てて手紙を書いたのが、逸枝が亡くなる一箇月ほど前であるとしますと、一九六四(昭和三九)年の四月か五月ころになり、道子は三七歳になっていました。逸枝が、「森の家」に入居し、女性史研究に着手するのも、三七歳のときでした。ふたりの女性の再出発の時期が、偶然でしょうが、重なります。道子の文に、このようなものがあります。

 一九六ママ年冬、私は三十七歳でした。
 ようやくひとつの象徴化を遂げ終えようとしていました。
 象徴化、というのは、――なんと、わたしこそはひとつの混沌体である――という重たい認識に達したのでした。いまや私を産みおとした‶世界″は痕跡そのものであり、かかる幽愁をみごもっている私のおなかこそは地球の深遠というべきでした65

この一文を、地球の起源に由来する、いまだ混沌体として現存する自分を含めての人間、とりわけ性を司る族母、そして混沌世界を描く文筆家――このことへの道子の自覚の第一歩として読むことも可能かもしれません。逸枝宛ての道子の手紙は、それを象徴するものであったはずなのですが、残念ながら、残されていないようです。後年、本人は、このような内容のものであったと回想します。「ともかく私のふだん思っていること、一番悩んでいること、一番つらいことに、逸枝さんのこの本は全部答えてくださっています、感謝しましたとか……まだお尋ねしたいことがいろいろあるとか、こんな本を読んだのは生まれてはじめて、と書いたと思います」66。道子が記憶するところによれば、橋本憲三は「逸枝と二人で、あなたの話を、ちょこちょこしておりました」67という。これは、このとき出された手紙のことだったかもしれませんが、『詩と眞實』(通巻第百六十四号)に掲載された道子の「石の花」のことだったかもしれません。「石の花」は、「テレビ劇のための試作」という副題がつけられていて、筑豊のボタ山に生きる人たちを扱ったものです。発行日は、一九六二(昭和三七)年一二月二五日です。「石の花」について、道子は、このように書いています。「同じ時期、この夫妻は、ある同人雑誌にはじめて書いて『石の花』と題してのせた、まるでなっていない戯曲のつもりのものを読んで話題にしていられたということだった。その雑誌はわたしがお送りしたものではなく、たぶんその雑誌の発行者が同郷の先人に敬意を表して、森の家に定期的に送っていたものだった」68

以下の文を読むと、図書館での偶然の邂逅が、いかに強い心的衝撃を道子にもたらしたかがわかります。

そのような出遭いが、水俣病問題とほぼ同じ時期におとママれて、わたしは、自分自身で名状しがたい何ものかに、突然変異を遂げつつあるのではないかという予感がしてこの頃内心異様な戦慄に襲われ続けていたのである。必然の時期が訪れたのだと言えなくもないのだった69

高群逸枝の書物に遭遇したことは、決して単なる偶然ではなく、道子の生きづらさを感じる深刻な苦悩が引き寄せた結果だったのかもしれません。であれば、確かに道子にとって、生まれ変わって生き直すための、このときが「必然の時期」だったということになるでしょう。それ以降、異様な戦慄を覚えながら道子は、自身が名状しがたい何か別物に大きく変貌するにちがいないという予感を抱き続け、煩悶の時を過ごすのでした。

逸枝の死去ののち、東京の「森の家」では、『火の国の女の日記』の後半部分が憲三の手によって書き進められていました。一九六五(昭和四〇)年六月の逸枝の一周忌にあわせて、この自伝が刊行されると、迎えに来た静子と英雄の夫妻に付き添われて憲三は、遺骨をもって水俣に一時帰省します。そして、すぐにも東京にもどるや今度は、『高群逸枝全集』(全一〇巻)の編集に全力を注ぐのでした。第一回の配本は第四巻の『女の歴史一』で、一九六六(昭和四一)年二月に刊行されました。およそこの二年間、静子は、二箇月に一度、二週間くらいの滞在予定で「森の家」に行き、憲三の編集作業の手伝いに当たります。

その間道子は、しばしば憲三に宛てて手紙を書き、自身の苦悩と逸枝への追慕の念を伝えたものと思われます。それについての、わずかな証拠が残っています。『火の国の女の日記』を執筆した時期、憲三は道子に手紙を書いています。「――もう二カ月も、誰とも、ひとことも対話しない日々が続いています。ただ姿なき彼女と――」70。前後が省略されています。ここに何が書かれてあったのか、興味がもたれるところです。もし、そうした手紙類が現存するならば、この時期の憲三と道子の関係は、いっきに明確になるのですが――。

加えて想像するに、水俣にあって道子は、静子を訪ね、自分が宿す苦境の実際を同じく告白したにちがいありません。さらにそれを受けて、「森の家」で静子と憲三が、道子のことを話題に取り上げていた可能性も決して否定することはできないでしょう。現在のところ、逸枝の死去(一九六四年六月)から三回忌(一九六六年六月)までの二年間の憲三、静子、道子をつなぐ交流の軌跡は、一次資料(エヴィデンス)にあってどうしても十全に確認することができない、全くの空白部分となっています。しかしながら、この期間が三者にとって、濃密な関係構築の時期となっていたことは、その後に続く出来事から判断して明らかなように推量されます。

さて一方の道子は、逸枝が亡くなると、さっそく筆を執り、「高群逸枝さんを追慕する」という追悼文を七月三日の『熊本日日新聞』(六面)に寄稿します。以下は、その一節です。

 高群逸枝氏が、その女性史の中で、まれな密度とリリシズムをこめて、ほかに使いようもないことばで「日本の村」と書き、「火の国」と書き、「百姓女」と書き、「女が動くときは山が動く」と書いたとき、彼女みずからが、古代母系社会からよみがえりつづけている妣(ひ)であるに違いない。(注=妣は母)

道子は、『女性の歴史』以外の高群逸枝の著作について、「ほかの作品は『森の家』に行ってから徐々に読ませていただいたんです」71と、述懐しています。しかし、この一著からの知識と感動のみをもってして新聞に追悼文を書き寄せるに至ったとは到底考えにくく、実際その文面を読む限りにおいても、淇水文庫で『女性の歴史』(上巻)を手にして以来、逸枝への関心は持続し、「高群逸枝さんを追慕する」を執筆するまでの約一年間、道子は、『女性の歴史』以外にも、入手可能な限りの逸枝の書物に目を通していたのではないかと推察されます。分量もあり、学術的な内容をもつ難解な部分もあります。道子にとって、自分の再生を賭した必死の読書だったにちがいありません。しかしその結果、このときまでに、すでに道子の内面には、逸枝をもって自分の妣/母とみなす慕情の念が、醸成されようとしていたのでした。換言すればそれは、逸枝を妣/母として、いま一度生まれ変わりたいという強い願望の発露だったにほかなりません。道子の暗部に、ほのかな希望の閃光が射した瞬間でした。

続く一九六五(昭和四〇)年六月、逸枝の一周忌にあわせて『火の国の女の日記』が出版されると、道子はそれを読み、逸枝にとって憲三という夫の存在がどのようなものであったのか、その真の姿にはじめて接し、強い感銘を受けたものと思われます。しかしそれに先立って、実際には道子は、「全集に組まれる前の『火の国の女の日記』の初稿ゲラ刷を読んでいる」72のです。これは、明らかに憲三が、道子の求めに応じて「森の家」から送ったものであると思われます。こうした交流を背景に、すでにこの時期、憲三に会ってみたいという情感が道子に湧き上がっていたとしても、それはそれとして、決して不自然なことではなかったのではないでしょうか。

他方で、渡辺京二が『熊本風土記』を創刊すると、石牟礼道子の「海と空のあいだに」の連載がはじまります。第一回が創刊号(一九六五年一一月)に、そして第五回が通巻七号(一九六六年六月号)に掲載され、最終的には第八回(通巻第一一号、一九六六年一一月号)まで続きます。これが、『苦海浄土 わが水俣病』(一九六九年、講談社)のおおかたの部分を構成する、事実上の元原稿となるものでした。

明らかにこの時期、道子は、死に傾く自身を生へと蘇らせるすべをひたすら逸枝の著作に見出そうとしていました。憲三との手紙のやり取りもしていました。そしてまた、原因不明の奇病が体を麻痺させ、それによりいのちを落とす人間の悲惨な姿に、血筋として自分が宿しているかもしれない狂死の発現を折り重ねるかのようにして、これまた必死になって、この病気と向き合っていたのでした。

そうしたふたりを取り巻く状況のなかにあって、いよいよ憲三と道子が巡り会う日が訪れました。憲三の「共用日記」には、次のような記述が残されています。時は、一九六六(昭和四一)年の五月と六月です。逸枝の三回忌(二周年)にあわせて、憲三が水俣に帰ってきたときのことでした。それは、道子の「海と空のあいだに」の第五回が『熊本風土記』に掲載された時期でもありました。

五月一六日 静子と石牟礼さん訪問。
六月七日 二周年。……石牟礼さんお花。/ささやかな法事。読経。
六月八日 午後石牟礼さん。世田谷にいきたいといわれる。ごいっしょしていいとはなす。
六月二九日 15じ11分きりしまで出発、一週二週で帰水の予定。石牟礼さん同道。帰りはべつべつか73

五月一六日に、憲三と静子が石牟礼宅を訪れると、今度は、六月七日の逸枝の三回忌に、道子が花をもって憲三と静子を訪ね、翌八日に再び訪問して、「森の家」に行きたい旨を伝えます。それから三週間後の六月二九日、ふたりはそろって、西鹿児島発東京行きの急行「霧島」の一等車に国鉄水俣駅から乗り込むのです。この一箇月半のあいだ、三者でどのような会話が取り交わされたのか、そして、どのような取り決めがなされたのか、それを明らかにするための証拠となる一次資料は残されていません。その後に起こる出来事から推量するしかないのです。

それにしても、子どももある既婚女性が単身、遠路東京まで行って、妻を二年前に亡くした寡夫である男性と一週間ないしは二週間を過ごすに当たっては、それなりの覚悟と目的があったものと思われます。その一方で、初見に近い人妻に東京へ連れて行ってほしいと懇請された場合、思慮ある男性であれば、二つ返事でその申し出に同意するとはにわかに信じがたく、それであればそれは、わずか一箇月半という短時間のうちにまとめられた計画ではなく、この約二年間の三者の交流のなかにあって熟慮が重ねられた結果の成案であり、この三回忌にあわせて、実際に三人が顔をあわせて気持ちを確かめあい、そのうえで、外部の人間からすれば無分別にも見えそうなこの計画が三者のあいだで共有されるに至った――この場合は、そう考えるのが妥当ではないかと、思量されます。

五月一六日に、憲三は静子と一緒に道子の家に行きました。憲三にとって道子に会うのは、これがはじめてだったのではないかと思います。しかし、静子の方は、栄町にいたころの子ども時分の道子を知っていました。道子は、こうも書き記しています。

橋本憲三氏の妹の静子さんという人をわたしは幼い頃から知っていた。というのも、水俣川の河口へうつる前に住んでいた栄町に、憲三氏の姉妹のお店がわたしの家の四、五軒先にあったのだ。食品の卸問屋をしておられた74

道子はまた、次のように、静子のことを書いています。「静子さんは、わたしがどういう育ち方をしたか十分にご存知でいらしたにちがいない。祖母が街中をさまよっていた姿などもしょっちゅうごらんになっていただろう」75。それだけではなく、精神病院を出るや鉄道事故で死亡した道子の弟のことや、道子自身の自殺未遂のことも、静子は知っていたにちがいありません。しかし、静子は、そうしたことを理由に道子を避けるようなことは決してなく、むしろ温かく包み込むような、理解ある態度で接しました。次は、道子による静子についての人物評です。「妹の静子さんは、たいそうのびやかな見かけの美女で、頭脳明晰な人だった。時々お手紙を頂いたけれども、切れ味のある名文である」76

六月八日の午後、道子は憲三に、「森の家」がある「世田谷にいきたい」と懇願します。しかし、その理由や目的については何も書かれてありません。この間の状況から判断すれば、おおよそ道子は、次のようなことを憲三と静子に伝えたのではないでしょうか。「尊敬する逸枝先生を慕いながら、再び自分は逸枝先生を妣として『森の家』で生まれ変わり、これからの後半生を憲三先生の後添いとなって、逸枝先生とともに過ごしてゆきたい、静子さんを立会人として――」。そのように推測する理由のひとつには、道子が「森の家」で書いた日記の冒頭に、次のような文字が並んでいるからです。

わたしは 彼女を
なんと たたえてよいか
ことばを選りすぐっているが
気に入った言葉が見つからないのに 罪悪感さえ感じる
……
わたしは彼女をみごもり
彼女はわたしをみごもり
つまりわたしは 母系の森の中の 産室にいるようなものだ77

別の箇所で道子は、こうも書いています。

 私には帰ってゆくべきところがありませんでした。帰らねばならない。どこへ、発祥へ。はるか私のなかへ。もういちどそこで産まねばならない。私自身を。それが私の出発でした78

こうした文面を読むにつけ、産室としての「森の家」で、敬愛する妣なる逸枝の子宮に一度帰着し、そこから再び自分が生まれ落ちる――そのことへの道子の避けがたい衝動を、そこから感じ取ることができます。自分の出自、育った家庭環境、そしていまの結婚生活、そのすべてを産湯に洗い流し、別のもうひとりの「石牟礼道子」としてこの世に再誕生、つまりは再生を成し遂げる――何にもましてそのことを、道子は無心に願望していたのでした。

上京する前日の六月二八日、道子は、最後の行動に出ます。「橋本家へあいさつに行った。『うちのセンセイ』をつれていったのはひとまず進行したといえる」79。道子は夫の弘に、今回の東京行きをどう説明したかはわかりません。おそらくは本心を隠し、弘をあまり傷つけないように、水俣病の調査のためとか、それに類するもっともらしい理由をつけて説得したものと考えられます。

六月二九日、一五時一一分、水俣駅のホーム。その時が来ました。「いよいよ東京行き霧島に乗る。厳粛な気持ち。はじめて夜汽車に乗ることになった。瀬戸内海見えず。関門トンネルに気づかない。憲三氏とつい話しこんでしまったので」80。ふたりは、どのようなことを話題にしたのでしょうか。想像するしかほかに手立てはありません。逸枝のこと、「森の家」のこと、全集刊行のこと、水俣病のこと、さらには、連載中の「海と空のあいだに」のこと、そして、ふたりの今後のこと――。翌日の午後東京駅に着くまでのおよそ二五時間、ふたりの会話が途切れることはなかったでしょう。実にこうして、六九歳の憲三と三九歳の道子の一昼夜にわたる、生まれ変わりへ向けての厳粛なる道行きが、進んでいったのでした。

道子は、憲三について、こう吐露します。

ほとんど宿命的にかかえこんでしまった故郷水俣の出来事についても、同郷のよしみで直感的に把握していられた。その上突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動をも、たぶん理解されていたのだっただろう。静と動との極点を、わたしはゆきつもどりつせねばならなかった81

水俣病との対峙、そして逸枝と憲三への恭順、このふたつが、道子の内面を駆け巡っていました。まさしくこの時期に形成された両要素が動力となって、こののちの道子の生涯を先導することになるのです。道子は、それについて、以下のように分析しています。

 水俣のことも、高群ご夫妻のことも、一本の大綱を寄り合わせるかのごとき質の仕事であった。二本の荒縄をよじり合わせて一本の綱を作る。人間いかに生きるべきかというテーマを、二つのできごとは呼びかけていた82

ここに引用した文は、そののちの道子の生涯を規定する極めて重要な言説であるように思われます。といいますのも、人間のいのちと暮らしについての無自覚な生後体験から、民衆へ寄せる私的かつ詩的な独自のまなざしへの昇華、――そしてその、まさしく着床された土着的魂に導かれて描かれる普遍的な人類族母の史的再生。これが、その後の石牟礼文学を通底する「人間いかに生きるべきかというテーマ」の原像ではないかと考えるからです。

「産室」となる「森の家」でのふたりの生活がはじまりました。七月三日の日記に、「昨夜、というより今晩(一時)憲三氏(以下K氏と書く)より、ノートの御許し出る」83とあります。これは、尊敬してやまない憲三と逸枝を主人公とする伝記執筆のためのノートを意味します。この伝記は、水俣へ帰郷後、まず「最後の人」と題されて『高群逸枝雑誌』に連載され、そして最終的に、道子が八五歳のときに、『最後の人 詩人高群逸枝』として書籍化されます。それを思うと、まさしく道子の生涯は、これよりのち、「最後の人」とともに歩んでゆくことになるのでした。

同じく七月三日のノート(東京日記あるいは森の家日記)には、こう書かれています。

 今夜更に高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った。それは橋本静子氏に対する手紙の形で(つまり、静子氏を立会人として)あらわした。午前三時これを書き上げる84

その手紙は、次のように書き出されます。

 深い感謝の気持でこの手紙を書きます。このたびの上京について、私自身にとっては破天荒なことであり、はためにはずいぶんづかづかとしたお願いを、みなさまによっておききとどけ下さいましたことに、貴女さまの御配慮が全面的に動いて下さいましたことを、その経緯の積み重ねがありましたことを、私は肝にめいじているつもりでございます85

「高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った」という語句や「静子氏を立会人として」手紙を執筆していることから推測しますと、このとき道子は、女としての自身が寄って立とうとする立場を明確に「誓った」のではないかと思量されます。この手紙には、世俗的な「後添い」や「後妻」といった言葉はいっさい使われていませんが、配慮の「経緯の積み重ねがありました」という字句に目を向けますと、およそこの二年間にあって、しばしば道子は静子に会っては、そのことにかかわって暗に意思表示をしていたのではないかという推断の道が開きます。こうした「積み重ね」が、すでに引用で示しています、「突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動」となって、ここに顕在化したものと思われるのです。しかし、「静子を立会人として、高群夫妻と自分に対して、後半生について誓った」というわずか一語だけに頼って、本当にそれが「後妻」になるという意味を招来する、と即断していいものかどうか――。残されている資料のなかから、この疑問の解消に資するであろうと思われる事例を拾い上げ、以下五点について言及したいと思います。といいますのも、このことをここで明確化することによって、これ以降の道子の人生と作品とを適切に理解するうえでの極めて重要な判断材料が入手できるものと考えるからです。

一点目。「森の家」に滞在中の道子の書くもののなかに、「われわれの森はと云えばそれらの中にそびえ立ち、その夕闇の一瞬を司る」86という表現があります。また、別の箇所では、自身の外出からの帰りを「二時、わが家へ。化粧部屋で着替え」87と表現しています。もし、道子と憲三が明白な他人同士であれば、決して「われわれの森」とか、「わが家」とかいった表現は使わず、それぞれにおいて、事実に即して「憲三氏の森はと云えば……」、そして、「二時、憲三氏の家へ。……」という言葉遣いに、止めるのではないでしょうか。「われわれの」という所有格の表現は、これ以外にも散見されます。

また、憲三と自分を主語として書くに当たって道子は、数箇所で「わたくしたちは」という表現を使っています。たとえば、「秋から冬に入ってゆく空の重さを心に抱いて、わたくしたちは馬事公苑へゆく」88という箇所が、その例に相当します。単なる一介の滞在者であるならば、「憲三氏と私は」と書くのが通例でしょう。「わたくしたちは」と書く以上は、ふたりがすでに極めて親密な関係になっていたことを例証します。

二点目。その年(一九六六年)の一一月二四日、ひと足先に道子は、「森の家」をあとにして水俣に帰ります。しかし、そこでの生活が懐かしく思い出され、憲三に手紙を書きます。以下はその一節です。日付は一二月二〇日。「森の家」の処分がすべて終わり、すでに憲三も水俣に帰っていました。

 お話がしたいと思います。お話に飢えています。……わたくしはよく逃げ出していました。トンコたちのように。
 おもえばまるでわたくしはあの鶏たちとよく似ていました。……結構お二人にいたわられて、愛されさえして、(実際それは本当でしたから)うつくしくしあわせに暮させていただきました。まるで窓から飛びこむように、彼女の書斎にもお茶の間にも寝室にさえ飛び込んでいたのですから89

この文にみられる「愛されさえして」「寝室にさえ飛び込んでいた」といった字句に注目するならば、道子は単なるひとりの食客として過ごしたのではなく、この言葉は、明らかに「森の家」での同居中、憲三と道子のあいだに性的関係があったことを示唆します。

三つ目。一九七六(昭和五一)年五月二三日、憲三が死去します。それに際して、主治医が、憲三に死期が迫っていることを告げたのは、静子ではなく、道子に対してでした。

 最後の逸枝雑誌、三十一号の編集が終ってしばらくした頃、主治医の佐藤千里氏から、私は、もうあまりお互いの持ち時間がないことを具体的に知らされていた。つらいことだったが実妹の静子さんにその状態を理解してもらわなければならなかった90

医師はその倫理において、人の生死を安易に他人に口外することはありません。それでは、なぜ佐藤は、肉親である静子に先立って、他人であるはずの道子にまず一番に伝えたのでしょうか。それは佐藤が、戸籍上はどうであれ、また、たとえ同居はしていなくとも、道子が実質上の憲三の内縁の妻であることを、これまでの付き合いを通して、すでに知っていたからにほかなりません。「もうあまりお互いの持ち時間がない」という表現に、そのことが十全に凝縮しているように感じられます。

四つ目。憲三が亡くなって四年が過ぎた一九八〇(昭和五五)年のこと、『高群逸枝雑誌』の終刊号が発行されます。道子は、「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」を表題にもつ一文を寄稿します。そのなかで道子は、次のように語ります。

……本稿は『高群逸枝雑誌』の発刊と終刊に立ち会いながら、ただただ無力でしかなかったひとりの同人として、森の家と橋本憲三氏の晩年について、いまだに続いている服喪の気持の中から報告し、読者の方々への義務を果したい91

道子は、没後四年が立ったいまも、喪に服しています。これは、仕事上の限定された仲間関係の域を超えるものではないでしょうか。「森の家」での生活から憲三を看取るまでの一〇年間、道子は、水俣病闘争へ身を投じているさなかにあっても、こころは途切れることなく憲三に添い続けました。「喪主」であるとの隠された自覚は、次の最後の五番目の事例にみられるように、おそらく、その後引き続き最晩年に至るまで道子の心情の海底を支配していたにちがいありません。ここは、「高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った」という道子の言葉が、決して偽りではないことを信じたいと思います。

また、「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」のなかには、「わたしたちの逸枝はしかし、詩人としての出発に当ってまことよい理解者にめぐまれたといわねばならない」92という一文があります。注目すべきは「わたしたちの逸枝」という表現です。つまり逸枝は、単に「憲三の逸枝」ではなく、もはや「憲三と道子にとっての逸枝」という位置づけがなされているのです。理由は何でしょうか。逸枝は『孌愛論』のなかで「寂滅」という用語を使っています。本人によれば、その語が含意するところは、「他の新生命への發展」です。「森の家」を離れるとき、「寂滅(□□)の言葉はゆうべたしかめあった」93と、道子は書きます。つまり、この時点で、逸枝と憲三と道子の三つの巴はすでに一体化しており、そうした共有化された認識があったればこそ、「わたしたちの逸枝」という表現がここで現前化したものと考えられます。

いよいよ最後に五点目として。「最後の人」の初回が、『高群逸枝雑誌』の創刊号に掲載されたのは、一九六八(昭和四三)年のことでした。それから数えて四四年後の二〇一二(平成二四)年、藤原書店から単行本となって世に出ます。この『最後の人 詩人高群逸枝』の巻末には、藤原良雄による「高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」と題されたインタヴィュー記事が収められています。

――憲三さんから逸枝さんのことをお聞きになって、憲三さんの姿もそばで見ておられて、[憲三さんのことを]そう思われたのですね。
 はい。憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が新鮮でした。おっしゃることも、しぐさも、何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる。
――「最後の人」というのはどういう思いで。
 こういう男の人は出てこないだろうと。
――憲三さんのことを。
 はい。高群逸枝さんの夫が、「最後の人」でした94

このインタヴィューのとき、道子はすでに八五歳になっています。亡くなる五年と数箇月前のことです。「最後の人」という題を道子が考えついたのは、「森の家」滞在中の一九六六(昭和四一)年の秋でした。

 たぶんこのような一文を草せねばならぬ日が確実におとママれるのを予感しながら、あの「森の家」の一室で、ノートの表題を「最後の人」と名づけたのだった。 「最後の人としたのですか。なるほど、うん。よい題だなあ」95

このとき憲三は、道子にとっての「最後の人」が自分であることを十分に理解していたことでしょう。それから時が流れ、道子にも最期が近づいてきていました。『最後の人 詩人高群逸枝』の出版とほぼ同じ時期、道子は、新作能「沖宮」を書きます。著作集14『外輪山春雷秋月』に所収する「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」の第一五章「志村ふくみ監修の能衣装による石牟礼道子の『沖宮』初演」において詳述していますように、描かれているのは、少年天草四郎と五歳のあやの、海底うなぞこに沈む〈沖宮〉への道行きです。事実上の絶筆となるこの虚構空間において、おそらく道子は、自覚された死期が近づくまさしくこの時期に、四郎に憲三を託し、あやを自分自身に見立て、現世で果たせなかった実相を、悲しくも美しい幻想世界に置き換えて、誰にはばかることもなく、そのすべてを表出したのではないかと愚考します。

かつて道子は、「森の家」から静子に宛てて、次のような手紙を書いていました。

 うつし世に私を産み落とした母はおりましても、天来の孤児を自覚しております私には実体であり認識である母、母たち、妣たちに遭うことが絶対に必要でした。……
 つまり私は自分の精神の系譜の族母、その天性至高さの故に永遠の無垢へと完成されて進化の原理をみごもって復活する女性を逸枝先生の中に見きわめ……そのなつかしさ、親しさ、慕わしさに明け暮れているのです。そして私は静子様のおもかげに本能的に継承され、雄々しいあらわれ方をしている逸枝先生のおもかげを見ます96

この言説から判断すれば、〈沖宮〉に住むいのちたちの大妣君は、まさしく逸枝その人であり、周りでそれを支えるいのちたちが、藤野であり静子であるということになります。かくして、逸枝、藤野、静子といった敬愛する妣たちが住む死界の〈沖宮〉へ向けて、読経がとどろき渡るなか道子は、最愛の「最後の人」である憲三に導かれて旅立つのでした。

精神に異常をきたした盲目の祖母と、酒に酔い狂う父と、若くして自殺に走った弟とを家系にもつ石牟礼道子は、結婚生活にも展望が開けず、本人もはっきりと気づいていたように、明らかに、生きることへの適応障害を引き起こしていました。彼女にとっての選択肢は、死か再生しかありませんでした。繰り返した自死行為もすべて未遂に終わります。そのとき彼女は、高群逸枝が書いた『女性の歴史』(上巻)に偶然にも出会うのです。こうしてここに、蘇生へ向けての扉が開き、かつて高群逸枝と橋本憲三が住んだ「森の家」が産室となり、逸枝の面影を宿す、憲三の妹の橋本静子が産婆役となって、道子は生まれ変わるのでした。水俣に帰った憲三と道子は、逸枝を顕彰する雑誌づくりに励みます。一方、生と死を主題にする執筆活動が、生き返った道子により再開され、それは生涯続くことになります。しかしその間、憲三には、逸枝の過去や自身の性格にかかわって、いわれなき罵詈雑言が執拗に繰り返されるのです。それをまぢかで見ていた静子と道子は苦しみます。そうしたなか、やがて憲三も静子も旅立ち、そのとき、遺児同然となった道子に救いの手を差し伸べるのが、再び憲三その人でした。ここに至りて道子は、もはや「再生」ではなく、「最後の人」たる憲三との「心中」を選ぶのでした。ふたりを待っていたのは、大妣君の逸枝だったにちがいありません。これが、最晩年の道子が思い描いていた、自身の人生物語の全容だったのではないかと、私は推量します。

ところで、道子の自叙伝である「葭の渚」(『石牟礼道子全集』別巻に所収)は、「森の家」から水俣に帰ったところで、つまり、新たないのちが吹き込まれたところで、突如途切れます。最終章の章題が「道行きのえにしはまぼろしふかくして」です。この時点で道子は、再生なった自身の、憲三との「道行き」を胸に秘めていたにちがいありません。そして、その思いの決定的な告白瞬間が『最後の人 詩人高群逸枝』のなかに出現し、続くまさしく終幕となる「沖宮」で、「道行き」が満願成就されるのでした。

以上に述べてきました五点を根拠として、私は、「森の家」での同棲生活にはじまる憲三と道子の親密な交わりを、男女関係のあり様にかかわる、現実世界に規定されるところの特殊なひとつの愛の形態とみなしたいと思います。その上に立って私は、「静子を立会人として、高群夫妻と自分に対して、後半生について誓った」という一語を、これよりのち憲三の「後添い」つまりは「後妻」となって生涯を生きてゆくことを契った道子の決意の表明であると解釈します。ここに、橋本静子の立ち合いのもと、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子の三つの巴が誕生し、生涯の強靭なきずなとなって、この巴はひたむきに生き抜いてゆくのでした。これを、逸枝の恋愛論に謳われる「寂滅」の完成形とみることもできるかもしれません。この間、数々の心ない罵声が憲三に浴びせられました。それに対して道子は、静子とともに毅然として闘いました。絶筆となる新作能「沖宮」において、道子は憲三に守られながら、恋い慕う妣たちである逸枝、藤野、静子の三人が待つ、天草灘の海底の死界へと向かいます。こうして、大妣君高群逸枝を巡る一大叙事詩は幕を下ろしたのでした。

以上述べてきたことが、私が、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子の三人をもって「三つの巴」とみなす根拠です。本稿「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」の副題として「妣たちの天草灘〈沖宮〉異聞」とした理由もそこにあります。それでは、最後の第三節におきまして「本稿執筆の目的と記述の方法について」まとめることにします。

第三節 本稿執筆の目的と記述の方法について

私はこの「緒言」の第一節におきまして、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子、橋本藤野、橋本静子の一族を「虐げられた弱き人びと」とみなし、いかに彼らが、いわれもなく虐げられてきたか、その経緯を叙述しました。それは、本稿執筆の目的が、不当にも傷つけられ、いまや弁明する機会もない死界にある彼らの魂を救い出すことにあることを意味します。

これから書く私の伝記は、高群逸枝や橋本憲三についてこれまでに書かれた小説や小論、あるいは小伝が意図するものとは大きく異なり、端的にいえば、それらの先行資料と対立する立場に立って書かれることになります。私の身は、瀬戸内晴美、戸田房子、もろさわようこ、西川祐子、栗原弘、栗原葉子、岡田孝子、山下悦子といった人びとの側にはありません。さらには、高群逸枝の死去の際に夫橋本憲三と確執が生じた相手方である市川房枝、浜田糸衛、高良真木らの女性たちの側にも、加えて、真偽は別にして、夫延島英一と高群逸枝のあいだに性的関係があったことを瀬戸内晴美に告げた妻の松本正枝(本名は延島治)の側にもありません。私の立ち位置は、そのような人たちから名誉を棄損され、雑言を並べられ、存在を無視されたりした、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子の側にあります。加えて私の身は、逸枝の学問と、道子の文学と、その接点をなす憲三の役割、この三つの巴を献身的に支えた、橋本憲三の姉の橋本藤野と妹の橋本静子の側に立っています。つまり私は、虐げた強者の側でなく、虐げられた弱者の立場に立ち、彼らを歴史のなかから救済することに学術上の意義を見出しているのです。

石牟礼道子の言葉に、次のようなものがあります。

 〈ゆきじょ瓔珞ようらく〉という章を、苦海浄土第二部でいま想定しています。
 わたくしの死者たちは遺言を書けませんから、死者たちにかわって、わたくしはそれを書くはめになるのです。
 してみると、すでにわたくしは死者たちの側にいることになる。
 いついつ、そのようなことになったのか。
 どうもわたくしは心中をとげたらしい97

私も道子に倣い、「わたくしの死者たちは遺言を書けませんから、死者たちにかわって、わたくしはそれを書く」ことにしました。どうやら私は、「死者たちの側にいる」ようです。そして、私も意を決して「心中をとげたらしい」のです。少し芝居がかった表現になりました。しかしこれが、私の偽らざるいまの心境です。「死者たち」の気持ちがわかるといえば、不遜になりますが、それでも、歴史家として、そして伝記作家として、彼らが遺した言説を丁寧に渉猟して、それらをもって、彼らの悲痛や屈辱の一側面を自らの口から語らせることはできるのではないかと考えます。

かつて英国の伝記作家であるジャン・マーシュは、ヴィクトリア時代の詩人にしてデザイナー、そして政治活動家としても著名なウィリアム・モリスの、その妻のジェインと娘のメイについての伝記を世に出しました。ウィリアム・モリスの伝記的研究において、はじめてフェミニスト・アプローチが持ち込まれたのが、この書物でした。以下は、「日本語版への序文」からの引用になります。

 なぜ私はジェイン・モリスとメイ・モリスの生涯を書いたのでしょうか。その答えは二つあります。ひとつは、彼女たちの人生が歴史的に見て興味深く、そしてまた、彼女たちが知り合って愛した男性たちの人生と作品だけではなく、彼女たちが生きた時代がどういう時代であったのかを知るうえで、この二人の女性の人生がその手掛かりを与えてくれるからです。いまひとつは、本書がこの一〇年間の英国におけるフェミニズム復興の動きを反映したものであるということです。それ以来、家父長的な文化のもとに忘れ去られ、無視されていた女性たちの人生と仕事が再発見され、再評価されるようになりました98

それまでのフル・スケールのモリス伝記は、すべて男性伝記作家によって書かれ、そのなかにあっては、妻のジェインも娘のメイもほとんど語られることはありませんでした。ジャン・マーシュは、そこにくさびを打ち込みました。彼女は、この本のなかでふたつの作業をしています。ひとつは、画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティと恋愛関係にあったジェインについて、これまで多くの男性伝記作家が決して好意を示すことのなかった偏見的記述に対して修正を求めたことです。もうひとつは、画家のモデルとしての、そして刺繡家としてのジェインの隠された業績に積極的に評価を与えたことです。他方で、メイについては、モリス商会の秀でたデザイナーであったことに加えて、モリス著作集の有能な編集者であったことに光をあてて讃美しました。こうした作業をとおして、闇に埋もれていたふたりの女性たちが発掘され、その再評価がなされたのでした。

この作業は、大変示唆に富んでいます。ここから何を学ぶことが可能でしょうか。

それまで男性の伝記作家がウィリアム・モリスという男性の生涯を書くなかで妻である女性の存在を無視したり侮蔑したりしていたことに対して、義憤をもつ女性の伝記作家であるジャン・マーシュは、無視され侮蔑されていた妻のジェインに焦点をあてて、その知られざる生涯を書くことによって、その生き方に共感し、歴史の闇から救い出したのでした。このことをそっくり、完全に反転したかたちで日本に持ち込むとどうなるでしょうか。これまで女性の小説家や伝記作家たちが高群逸枝という女性の生涯を書くなかで夫である男性の存在を無視したり、侮蔑したりしていたことはないでしょうか。もしそうした理不尽さが残されているのであれば、そのことに義憤をもつ男性の伝記作家が、無視され侮蔑されていた夫の橋本憲三本人だけでなく、それによって同じく傷を負ったにちがいない、すでに黄泉の客となっていた妻の高群逸枝はいうに及ばず、身内の姉の橋本藤野と妹の橋本静子、それに加えて、憲三を師と仰ぐ石牟礼道子に焦点をあてて、その知られざる生涯を書くことによって、その生き方に共感し、歴史の闇から彼らを救い出そうとする試みが、この日本にあってもよいのではないでしょうか。存在を無視されていたジェイン・モリスが歴史のなかから発掘されたように、同じ状況にあった橋本憲三とその周辺の女性たちが同じく発掘されるならば、それは、それなりの歴史的意義をもつにちがいありません。いま私は、そうしたことに思いを巡らせ、彼らの伝記を執筆しようとしているのです。

それではここで、フェミニスト・アプローチについて少しだけ振り返ってみたいと思います。たとえばイギリスにおいて、戦後、高等教育や成人教育が一気に拡大するなか、そこで学ぶ多くの進歩的な学生たちは、これまでに描かれていた「歴史」には、自分たちが属する階層の人間を含む弱者や少数者、あるいは被抑圧者や非特権者たちの姿が存在しないことに気づきはじめました。彼らが指摘するように、たとえば芸術史を例にとりますと、伝統的にその学問が扱ってきたのは、限られた例外を除けば、ほとんどが「偉大なる男性作家」であり、そこには、「普通の人びと」の芸術的行為も「女性芸術家」の作品も完全に抜け落ちてしまっていたのでした。彼らはそこに着目して不満と批判の声を上げ、既存の「歴史」の成立過程と記述内容に異議を申し立てました。

続くフェミニスト・アプローチの第二段階に入ると、両性の不公平さへの感情的なほとばしりは、冷静にも学問的作業の新たな道を開拓し、「普通の人びと」の芸術的行為や「女性芸術家」の作品が再発掘され、「歴史」のなかに再配置されてゆくようになりました。一九八六年のジャン・マーシュの著作(訳書題『ウィリアム・モリスの妻と娘』)も、そうした文化的、学問的状況のなかから誕生したといえます。そうした状況がさらに進展し、この分野の学問がすでに次の新たな段階に入っているかどうかは勉強不足でよくわかりませんが、私の個人的な実感としては、第二段階の「男性史」と「女性史」には、自ずと限界があるように感じてきました。といいますのも、「男性史」にあっては、ある種特別の調味料として「女性」を登場させ、「女性史」にあっては、多くの場合いまだに攻撃の材料として「男性」を登場させることが、ステレオタイプ化しているように感じられたからです。そこから脱却するため、いまや私は、ふたつの性に同等の敬意を表し、男と女をひとつの組みとして対象化し、その歴史を記述することの必要性を感じています。

ここで想起していいのは、高群逸枝の『戀愛創生』のなかの次の語句ではないかと思われます。

 男性が男性だけではなりたたないやうに、女性も女性だけではなりたたない。二つのちがつた個性があつて完全になる99

それを歴史ないしは伝記の観点に置き換えるならば、歴史というものは、男性の歴史だけでも、女性の歴史だけでも、不完全であるということになります。それでは、求められなければならない歴史とは、一体どのようなものなのでしょうか。おそらくそれは、名称的には、夫婦史、家族史、あるいは男女関係史ということになるのかもしれません。たとえば夫は家庭にあって、妻や子ども、あるいは使用人に対してどのように接したのでしょうか。一方妻は、どのような言動でもって周りの人間に対して振る舞ったのでしょうか。男女間にあって相互に働くさまざまな力の存在を見定め、その諸力にかかわる変移や実質について、思想的に、社会的に、そして文化的に実証分析することが重要なのではないでしょうか。それぞれの時代の諸次元的制約を受けた過去の行動空間の構造と、そのなかで男女が織りなす力学とが、順次再発見されてゆくことになれば、それを手掛かりにしながら、仕事や家庭における真の両性の平等を今後再構築するうえで必要とされる新たな視点や原理のようなものが萌芽するのではないかと、近年私は、このように考えるようになったのです。つまり、私が考えている伝記書法の第三段階は、「男性史」「女性史」という性別分離史から離脱し、統合された「男女史」を目指すことになります。そこで、この「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」は、それぞれの個別伝記では語りえない、男女の関係の複雑さとその意味を問う視点から用意された文脈に沿って描かれることになります。

統合された男女の歴史記述の必要性を実感しているのは私だけではありません。すでに石牟礼道子が、かつてこのようなことを書いていましたので、以下に紹介します。これは、逸枝について道子が、憲三本人に語った発話内容です。

 彼女ひとりの像では彼女自身の像が完結いたしません。どんなに偉大であろうと。これは彼女の性をいうのですが。こんなにも女らしい方ですから。彼女ひとりをとり出そうとしますと、彼女は片輪になって出てきます。それでは彼女がかあいそうで……。憲三という男性と結ばれている彼女でないと、彼女の、女性であることの意味が消え、彼女は充実しない、性をもたないヘンな女になると思いませんか100

おそらくこれは、執筆中の「最後の人」を念頭に置いた言葉でしょう。実際、道子の「最後の人」にあっては、おおかた「第一章 森の家」と「第二章 残像」が憲三についての、そして「第三章 霊の恋」と「第四章 鏡としての死」が逸枝についての、その伝記的側面が描き出されているのです。

他方で逸枝は、自叙伝を書くうえでのメモとして、夫憲三との関係をこう描写しています。

 私の人生はすべて受け身に終始したように思われる。-はじめは父に従い後には夫に従った。……この点では、私はいわゆる受け身の労働者ではあったけれど、また主動的な開拓者であり、この場合には、父と夫は、私への命令者でも、また、かいらい師でもありえず、その反対でさえあった。以上のような相互関係にあることが父、夫の希望でもあったともいえよう。
 彼らは、私の教育者であるとともに、また未知なる私への期待者であり、俗語でいえば物質的精神的な投資家でもあったろう101

本人がいうとおりに、確かに逸枝は、「受け身の労働者」でした。そのことを本人は、優柔不断な自己の欠点として「曲従」とか「奴隷根性」とかいう言葉で表現します。それを反転すれば、逸枝は、何をしたらよいのか、どの方向へ進めばいいのかが、自分自身で主体的に決められない性格の持ち主であったことが明らかになります。しかし、ひとたび枠組みが与えられると、そのなかにあって、もはや何人をも寄せ付けない、空前絶後の独自の世界を構築してゆくのです。詩人として、アナーキストとして、そして学者として――。では、逸枝が自らの手でつくり出せない未来に対する方向性なりその営みの場なりを用意したのは誰でしょうか。いうまでもなく、それが憲三ということになるでしょう。まさに、憲三が触覚豊かな演出家であり、逸枝が台本どおりに見事に演じ切る表現者であったといえます。そうであるならば、演出家と表現者とがともに自身のもつ最大限のパフォーマンスを発揮するところに、両者の理想であった「一体化」の極致を見出し、それを歴史的に描こうとする伝記作家にとって、逸枝の、あるいは憲三の、単独の伝記では、そのことは適切に表現しえないことになります。女として、あるいは、男として生まれ、その人生にあってただの一度たりとも異性との関係性をもつことなく、生涯を閉じた人はほとんどいないのではないでしょうか。逸枝と憲三の場合に限られることなく、一般的伝記にあってさえも、周辺の家族や友人たちを含め、ひとつの組としての男女が、同等の重みをもって描かれなければならない理由がそこにあるのです。ここに、「男性史」「女性史」という個別史から一歩前に進み、統合された「男女史」へと向かう今後の発展的道程が横たわっているのではないかと思料します。

私は、そうした伝記書法を、英国の伝記作家たちから学びました。その具体例として、ひとつは、私の研究の対象であるウィリアム・モリスについての、もうひとつは、モリスの親友で、モリスの妻と恋愛関係にあった、画家で詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティについての、直近のフル・スケールの伝記を、以下に紹介します。双方とも発行年は少し古いのですが、フル・スケールの伝記というのは、研究に多くの時間を要し、一〇年から二〇年くらいのピッチで刊行されるのが通例です。しかしそれだけに、十全に論証と実証がなされた信頼に足るだけの重厚さがあります。著者はふたりとも、ウィリアム・モリス協会の会長を務めたことのある、著名な英国女性の伝記作家で、私もかつてお会いしたことがありました。

Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Fabe and Faber, London,1994, 780pp.

Jan Marsh, Dante Gabriel Rossetti: Painter and Poet, Weidenfeld & Nicolson, London, 1999, 592pp.

前者は、夫のウィリアム・モリスと妻のジェイン・モリスについて、また後者は、独身のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティと愛人のジェイン・モリスについて、どちらかの一方に偏ることなく対等かつ平等な男女として、描かれています。つまり、性による差別は見受けられないのです。加えて、その男女関係と彼らの生涯を描くに当たっては、十全に一次資料を駆使して例証し、次の研究者が追検証できるように意が用いられ、もはや偏見や蔑視が混入しないよう筆法上の手続きが適切に取られているのです。

しかしながら、読み比べればすぐにもわかるように、この「緒言」の第一節「本稿に登場する虐げられた弱き人びとについて」のなかで取り上げました、瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」、戸田房子の「献身」、もろさわようこの「高群逸枝」、西川祐子の『森の家の巫女 高群逸枝』、栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』、山下悦子の「小伝 高群逸枝」は、こうした英国における伝記執筆上の原則や書法とは大きくかけ離れているのです。何が、それほど大きく異なるのでしょうか。

私の周辺に散見されたわが国の伝記書法の特徴を概略整理すれば、次のようになるかと思います。ひとつには、いまだ存命中の、あるいは死去して日が浅い人物であるにもかかわらず、いきなり伝記の対象に選ばれ、記述にあたっては、いっさいの証拠を示すことも、プライヴァシーや人権への配慮もなく、その結果、その人物の名誉と人格を傷つけかねない状況のなかにあって、おおかたその伝記は世に出ていること。いまひとつには、女性の伝記作家や小説家たちの記述するところにあっては、あたかも女性擁護の反転であるかのように、事実を無視してまでも執拗に男性を攻撃しようとする傾向がおおかた共通して認められること。この二点をもって、私は、その特徴として挙げることができるものと考えます。別の言葉に置き換えれば、概して、英国におけるフェミニスト・アプローチによる伝記書法が、著名男性の陰にあって無視されてきていた女性を発掘し、共感の思いをもってその人の生涯と仕事に積極的な評価を与え、再び歴史に配置しようとするのに反して、日本においてのそれは、著名女性に寄り添った男性を無理にも引っ張り出してはいわれなき罪を覆い被せ、あたかも鬼退治でもするかのように罵倒して叩き潰すことに、その意義を見出しているように感じられます。私の経験は貧弱で狭いものですが、そのようなかたちで発表される伝記は、英国ではまず見かけることはないような気がします。なぜ私たちの国では、こうしたことが平然とまかり通るのか、それが、富本一枝のみならず、高群逸枝を扱った小説と伝記から受けた私の「衝撃」の内実です。

繰り返しになるかもしれませんが、瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」と戸田房子の「献身」は小説ですので、学術書とは異なり、当然のように、本文の記述のなかに注はなく、したがって、注の出典もありません。英国の伝記にあっては、本文中に、論証や実証に欠かせない証拠となる一次資料(エヴィデンス)が引用のかたちをとって援用され、注番号を付されて、巻末にそれぞれの出典(著者名、書名、出版社、発行年、頁数等)が明記され、読み手の誰にとってもそれに基づき、記述内容が再検証できるように配慮が施され、本文の内容の真実性が担保されているのです。したがいまして、逆にいえば、英国にあっては、真偽が定かでない描写が含まれる小説の形式をとって、過去に実在した人物の歴史が描かれることは、まずほとんどありません。その役割は、すべて伝記という書式による、実証研究が担うことになります。

ただ、瀬戸内晴美の作品に伊藤野枝を扱った「美は乱調にあり」と「諧調は偽りなり」という題の伝記小説がありますが、全集(『瀬戸内寂聴全集』第十二巻、新潮社、二〇〇二年)に収められたそれらの作品の巻末には「参考文献」の一覧が加えられています。おそらくこれは、異例のことではないかと思われます。

一方、もろさわようこの「高群逸枝」、西川祐子の『森の家の巫女 高群逸枝』、栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』、および山下悦子の「小伝 高群逸枝」を見ると、本文中に注はなく、したがって、一次資料を使った実証から遠く離れた、単に著者本人の多弁なり能弁なりに頼って語られています。山下悦子の「小伝 高群逸枝」を除いては、確かに、「参考文献」としての関連資料の一覧が巻末か巻頭に存在します。しかしながら、「参考文献」の一覧があるからといって、書かれてある本文が真実であるという保証にはなりません。したがいまして、これらの文は、全集に所収されている瀬戸内の「美は乱調にあり」および「諧調は偽りなり」と、書式上何ら変わりがなく、小説として読むしかないのです。

そこで、小説と伝記の分離現象は、どう起こるのか、それを見てみたいと思います。以下の文は、吉永春子の『紅子の夢』の「あとがき」から一部を引用したものです。吉永は、かつて青鞜社の社員であった富本一枝との学生時代の一瞬の出会いが忘れられず、その強い衝撃が動機となって筆を執ることになりました。「紅子」が、尾竹紅吉(青鞜時代のペンネーム)こと富本一枝であることはいうまでもありません。

 ふとした機会から私は、彼女について書くことになり、改めて調査に入ったが、すぐに戸惑ってしまった。
 事実と、私の脳ミソに焼きついた存在とが、時には重なり、時には遠く離れ、複雑な線となって、縦横に走りまくり始めた。これはいけない、どっちにかしなければ。
 選択の結果が〈小説・紅子の夢〉ということになった。
 歴史上の人々の名前は実名にしたが、あくまでもそれは時代背景を生かすためで、人物表現はフィクションをベースにした102

これを読むと、執筆に際しての吉永に、明らかに、「事実と、私の脳ミソに焼きついた存在と」の激しいせめぎ合いが発生していることがわかります。つまりこれが、「事実」を基礎とする「伝記」と、「脳ミソに焼きついた存在」を描く「小説」の違いとなります。

実在人物を扱った瀬戸内の小説は、一般に「伝記小説」の名で呼ばれていますが、上の事例を、瀬戸内の「伝記小説」にあてはめてみますと、それは、真実と虚構とがない交ぜになった、つまり「伝記」であるようで「小説」でもあるような、あるいは「伝記」でもなければ「小説」でもない、いまだ未分化の状態で存在していたのではないかと、私には思われます。しかしそれは、結果として、何をもたらすことになるのでしょうか。

私は、瀬戸内の専門家ではありませんし、ほとんど彼女の作品も読んでいませんので、この作家を語る資格は全くありません。しかし、これまでの私の富本一枝研究において、瀬戸内晴美という小説家の存在については気づいていました。そこで、一枝のいとこの尾竹親が指摘する、瀬戸内作品の含み持つ特殊性の一端をここで紹介します。

富本一枝のいとこの尾竹親は、自著の『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』のなかで、次のようなことを書いています。

人間の言動というものは、決して一つの情景のみに定着して語られるべきものではなくして、その人間が生きた全存在の一環に組み込まれてこそ、はじめて、よりよくその映像を伝え得るものだと私は信じている。
 瀬戸内氏にしても、それが史実をもとにした小説で・・・あって・・・みれば・・・、フィクションとしてのある種の無責任さに救われているのだろうが、時間の経過というものは、得てして、伝説という神話をつくり上げたがるもので、いつかはそれが事実とまではならぬとしても、史実に欠けた情緒の補足としてのさばり返ることがよくあるものだ。私が、実名、或いは史実にもとづいた小説の安易さを恐れる理由が、ここにもあるわけである103

以上の引用は、瀬戸内晴美の『美は乱調にあり』(一九六六年、文藝春秋)という本のなかで描写されている、青鞜社時代に紅吉が引き起こした、いわゆる「吉原登楼」事件における尾竹竹坡(尾竹親の父親)の役割を巡っての論点が念頭に置かれて書かれている箇所であろうかと思われます。はっきりと「フィクションとしてのある種の無責任さ」、そして「小説の安易さ」が指摘されているところに、注目する必要があります。

では、瀬戸内は、「吉原登楼」事件における尾竹竹坡の役割について、どう書いているのでしょうか。以下が、その該当箇所になります。

 またそれから、何程もたたないある日、紅吉の伯父の尾竹竹坡画伯の家に、明子と中野初子が訪れた時、竹坡は、三人の若い娘たちを相手に、機嫌よく酒をのんでいたが、興がつのって、「お前たち、女性の解放なんて大きなことをいっていて、吉原の女郎たちの生態も知らないじゃ話にならない。どうだ、これから見学につれてってやろうか。いっしょに行く勇気があるか」というような話になり、娘たちは、軽い好奇心と興味半分から、この通人の画伯にくっついて吉原見学に出かけてしまった。竹坡の上りつけの吉原大文字楼へ上り、竹坡のひいきの栄山という女を呼び、他愛もない話をして、何時間かすごし、その夜は帰ってきた104

それでは、動かしがたい一次資料に残る、この箇所にかかわる描写は、どのようなものなのでしょうか。以下に三点、引用します。

まず、叔父竹坡による吉原遊郭紹介について、富本一枝本人は、こう説明します。

おまえたち偉そうに婦人の解放とか何とかいつているが、吉原というところには非常に氣の毒な――解放しなければならない女がたくさんいる、そこを知りもしないで偉そうなことをいつているのはおかしい。平塚さんにぜひとも――今で申す見學をなさいませんか、ということで、平塚さんも見たことがないし、ぜひ行きたいということになつて、五、六ママ人で参りました。このおじは……遊ぶことでも相黨だつたようです。そのおじの行きつけのお茶屋におじが話しておいてくれましたから、吉原でも一番格式の高いうちに案内されて、たいへん丁重に扱われました105

次に、女三人の吉原登楼を記事にした『國民新聞』は、こう報じています。

七月の『青鞜』には雷鳥が左手で戀してるとか美少年を何うしたとか云ふ妙な事がある[。]其美少年と云ふのは夕暮に廔々白山邊を引張つて歩いて居るほんに可愛らしい學生帽を冠つた十二三の子供だ[。]それは兎も角此間の夜雷鳥の明子はること尾竹紅吉こうきち(數枝子)中野初子の三人が中根岸の尾竹竹坡氏の家に集まつた時奇抜も奇抜一つ吉原へ繰り込まうぢやないかと女だてらに三臺の車を連ねて勇しい車夫の掛聲と共に仲の町の引手茶屋松本に横著けにし箱提灯で送らせて大文字樓へと押上り大に色里の氣分を味つた106

最後に、花魁「栄山」と一夜を過ごした平塚らいてうは、こう証言します。

ある日、紅吉が、叔父の尾竹竹坡氏からの話として、吉原見学の誘いを突然もちこみました。尾竹竹坡氏は、当時の日本画壇に異彩を放っていた尾竹三兄弟のひとり、なかでも天才的ということで名を馳せている人でしたが、紅燈の巷に明るい通人というか粋人というのか、そういう点でも知られていました。……竹坡氏は、姪の紅吉を通して、青鞜社やわたくしへの親近感というか、好意をもっていられたようで、その一つのあらわれが吉原見学の誘いともなったのでしょう。……そこは竹坡氏のお馴染みの妓楼で、吉原でも一番格式の高い「大文字楼」という家でした。「栄山」という花魁おいらんの部屋に通されましたが、きれいに片付いた部屋で、あねさま人形が飾られており、それが田村とし子の作ったあねさまだということを聞いて、紅吉はひどく興味をもち、田村さんを誘えなかったことを残念がりました。……おすしや酒が出て、栄山をかこみながら話をしたわけですが、栄山の話によると、彼女はお茶の水女学校を出ているということでした。……その夜、わたくしたち三人は花魁とは別の一室で泊まり、翌朝帰りました107

上に引用した、富本一枝、『國民新聞』、および平塚らいてうの言説から判断しますと、竹坡は、その場の酔狂の勢いで三人の婦人を吉原見学に誘ったのではなく、また当日竹坡は、その三人の登楼に同伴しておらず、さらにいえば、三人は一泊して翌日に吉原を出たことになり、瀬戸内が書く、「竹坡は、三人の若い娘たちを相手に、機嫌よく酒をのんでいたが、興がつのって……どうだ、これから見学につれてってやろうか。……というような話になり」も、「娘たちは……この通人の画伯にくっついて吉原見学に出かけてしまった」も、「その夜は帰ってきた」も、どれも証言に反する記述になっているのです。このことが、竹坡の息子の親の目には、「フィクションとしてのある種の無責任さ」、そして「小説の安易さ」として映るのでしょう。

一枝の証言によれば、竹坡の提案は、事前にらいてうのもとに届けられ、その判断は本人にゆだねられています。一方、らいてうの説明に従えば、竹坡の提案は、青鞜社への支援、つまりは女性解放運動への支援の一環としてありました。手続き的にも、動機のうえでも、竹坡は、決して婦人を見下したり、粗末に扱ったりはしていないのです。それにもかかわらず、瀬戸内は、あたかもその場の酒の勢いで婦人を誘ったように書いているのです。それを読んだ親は、自分の父親が、いかにも軽薄で単純な男であるかのように扱われていることに、深い傷を負ったものと推量されます。尊敬する父が貶められたような感覚を、このとき息子は感じ取ったにちがいありません。

先の引用文のなかで、親は、「人間の言動というものは、決して一つの情景のみに定着して語られるべきものではなくして、その人間が生きた全存在の一環に組み込まれてこそ、はじめて、よりよくその映像を伝え得るものだと私は信じている」と書いています。つまりこれは、人の生涯を真に理解するためには、その微細な一部を切り取って云々するのではなく、全き存在がフル・スケールで描き出されてはじめてそれは可能になることを主張している言説であるように思われます。まさに、伝記執筆の要諦にかかわる貴重な指摘として読むことができるのです。

瀬戸内の伝記小説の至る所で、三人の婦人への竹坡の吉原招待の事例にみられるような、誤った記述があるのかどうかは、私はすべてを調べていませんので、断定することはできませんが、かといって、誤認記述はこの一箇所のみであるという確証もまたありません。ただ、はっきりいえることは、たとえ一箇所であろうとも、虚偽表現によって傷つき苦しむ、本人はもとより、その家族や関係者が確かに存在するという、疑いようのない事実がそこには介在するということです。

このことは、逸枝と憲三を扱った小説についてもいえます。すでに紹介していますように、瀬戸内晴美の文により傷つけられた憲三について、堀場清子は、「逸枝との愛の一体化と、女性史の大成とに生涯をかけ、女性一般の未来のために多大の貢献をされた氏の、最晩年での傷つけられ方が、いたましかった」と書き、石牟礼道子も、「逸枝亡きあとに書かれたこの作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった」と書きます。なぜ瀬戸内は、夫婦の生活という極めて人の私的な領域に勝手にも足を踏み入れ、公然と雑誌のうえで実名をもって吹聴したのか、それは知る由もありません。しかし一方で、その行為は、憲三本人にしてみれば、名誉棄損あるいは人権侵害という、刑法上のみならず道義上の問題にかかわる、許しがたい卑劣なものであって、病のなかもはや死に向かおうとしている当事者にとって、それがいかにつらいものであったか、これは、想像するに余りあります。

逸枝と憲三に関しては、小説はもとより、伝記もまた、巻末に「参考文献」のリストはあれども、本文にあってはいっさい個別実証を伴わない、書き流しの小説としての体裁で成り立っています。著名作家である瀬戸内晴美によって書かれた小説と、参議院議員である市川房枝を後ろ盾にする戸田房子の小説とに端を発し、それらに続く、もろさわようこ、西川祐子、栗原葉子、そして山下悦子の伝記、そして岡田孝子の評論には、執筆の動機は個々人によって違うかもしれませんが、底流には、いわゆる同調圧力のようなものが連鎖しているように、私の目には映ります。そしてまた私には、その連鎖は、学校や職場という集団における「いじめ」や「ハラスメント」に似て、本来的には純粋に学術の場でなければならない高群研究という分野にあっての、実証なき分断の縮図となって露呈しているようにも感じられます。私があえて「本稿に登場する虐げられた弱き人びとについて」を、「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」の執筆に際しての「緒言」の第一節で取り上げなければならなかったか、その理由もここにありました。私は、資料に残る「虐げられた弱き人びと」をまずもって特定したかったのです。これこそが、何をさておいて、本稿の原点となるものなのです。

そこで、いうまでもなく私は、すでに言及していますように、本稿の目的を「虐げられた弱き人びと」の救済に置きたいと思います。そして私は、それを達成するための記述の方法を、「虐げられた弱き人びと」を生み出してきた、悪意のあるなしは別にしても、一方的な思い込みや単なる決めつけによる恣意的な叙述の手法を完全に否定し、それに代わる、証拠となる一次資料の全面的な援用によって、「虐げられた弱き人びと」がどう生きたか、その真実の姿に肉薄しようとする、実証的手法それ自体に担わせようと思います。といいますのも、そうすることによって、これまでに小説家や伝記作家たちから不当にも汚名を着せられてきた「虐げられた弱き人びと」の名誉と尊厳は、いたずらに強弁を発すこともなく、仮にたとえその一部であろうとも、自ずと回復されるのではないかと思量するからです。資料が語る真実性を私は信じたいと思います。

したがいまして、ここへ至る検討の結果、これから私が書く「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」は、いまや、既往の小説や伝記に認められない、次の三つの新規性を具有することになります。

一.第二節において検討した結果に従い、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子を一体の「三つの巴」とみなす視点に立つ。

二.英国の伝記書法に従い、登場する人物の記述に当たっては、誰かひとりに偏って焦点をあてたり、誰かを無視し差別したりすることなく、いまに残る資料に基づいて、すべての人の人権が守られ、対等かつ平等な男女として描く。

三.そのためには、これもまた英国の伝記書法に倣い、これまでの小説や伝記にみられた偏見や蔑視の介入を退けるべく、完全に実証主義に徹し、学術研究の地平に置く。その結果として、第一節において発掘した「虐げられた弱き人びと」の魂が救済されることを確信する。

以上に述べてきました内容が、この第三節に用意しました「本稿執筆の目的と記述の方法について」です。大変冗長な駄弁となってしまいましたが、これでもって「緒言」を閉じ、これから、本文第一章の「誕生――西に不知火、東に大阿蘇、『火の国』に出生」に入ります。なお、本文および「結言」にあって使用する人名につきましては、この「緒言」同様、一律に、敬称は省略いたしますので、ご了承いただきますよう、前もって申し添えます。

(1)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、178頁。

(2)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(3)瀬戸内晴美「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」『文芸展望』第5号、1974年4月号、424頁。

(4)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、186頁。

(5)瀬戸内晴美『談談談』大和書房、1974年、⑳⑥頁。

(6)前掲「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」『文芸展望』第5号、427頁。

(7)石牟礼道子「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』思想の科学社発行、1982年1月号(通巻349号)、44頁。

(8)同「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』、同頁。

(9)瀬戸内晴美『人なつかしき』筑摩書房、1983年、70頁。

(10)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、183頁。

(11)志垣寛「高群さんと橋本君」『日本談義』日本談義社、1964年8月、57-58頁。

(12)戸田房子「献身」『文学界』文藝春秋、1974年7月号、80-81頁。

(13)同「献身」『文学界』、114-115頁。

(14)同「献身」『文学界』、115-116頁。

(15)同「献身」『文学界』、116-117頁。

(16)佐藤千里「激痛のなかでの雄々しく闘病 橋本憲三氏の最期」『熊本日日新聞』、1976年6月5日、10面。

(17)『石牟礼道子全集』別巻、藤原書店、2014年、275頁。

(18)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝』(下)朝日新聞社、1981年、350頁。

(19)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、3-4頁。

(20)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、19頁。

(21)もろさわようこ「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)集英社、1980年、204-205頁。

(22)橋本静子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、100頁。

(23)石牟礼道子「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、99頁。

(24)西川祐子『森の中の巫女 高群逸枝』新潮社、1982年、225頁。

(25)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年、251頁。

(26)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、293頁。

(27)前掲『森の中の巫女 高群逸枝』、225頁。

(28)栗原弘『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』高科書店、1994年、i頁。

(29)同『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、359頁。

(30)同『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、368頁。

(31)石牟礼道子「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、早稲田大学出版部、1997年、209-211頁。

(32)前掲『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、364頁。

(33)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、28頁。

(34)高群逸枝「高群逸枝――わが戀の記――」『婦人戦線』(特輯自傳)第1巻第10号、1930年12月、21頁。

(35)同「高群逸枝――わが戀の記――」『婦人戦線』、19頁。

(36)高群逸枝『黒い女』解放社、1930年、63頁。国立国会図書館デジタルコレクション。

(37)前掲「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、213頁。

(38)栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、190-191頁。

(39)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、253頁。

(40)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、250頁。

(41)佐藤千里「或る旅立ち」『全作家』第72号、全作家協会、2008年、12頁。

(42)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。

(43)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、86-87頁。

(44)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、310頁。

(45)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、275頁。

(46)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、同頁。

(47)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、3-4頁。

(48)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、453-454頁。

(49)岡田孝子「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、200頁。

(50)同「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」、201-202頁。

(51)同「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」、203頁。

(52)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、63-64頁。

(53)前掲「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」、210頁。

(54)山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、51頁。

(55)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、449頁。

(56)前掲「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、91頁。

(57)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、93頁。

(58)前掲「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、51頁。

(59)同「小伝 高群逸枝」、51-53頁。

(60)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、208-209頁。

(61)石牟礼道子「高群逸枝との対話のために(1)まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 3、1967年9月、2頁。

(62)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、436-437頁。

(63)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、12頁。

(64)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、439頁。

(65)前掲「高群逸枝との対話のために(1)まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」、1頁。

(66)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、440頁。

(67)同『最後の人 詩人高群逸枝』、439頁。

(68)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、13頁。

(69)同「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、同頁。

(70)石牟礼道子「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、9頁。

(71)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、444頁。

(72)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、11頁。

(73)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、153頁。

(74)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、274-275頁。

(75)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、275頁。

(76)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、同頁。

(77)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、244-245頁。

(78)前掲「高群逸枝との対話のために(1)――まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」、1頁。

(79)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、246頁。

(80)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(81)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、12頁。

(82)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、287頁。

(83)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、247頁。

(84)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(85)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(86)前掲「最後の人2 序章 森の家日記(二)」、5頁。

(87)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、271頁。

(88)石牟礼道子「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」『高群逸枝雑誌』第18号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年1月1日、24頁。

(89)石牟礼道子『潮の日録 石牟礼道子初期散文』葦書房、1974年、219頁。

(90)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、56頁。

(91)前掲「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、78頁。

(92)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、84頁。

(93)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、327頁。

(94)同『最後の人 詩人高群逸枝』、453-454頁。

(95)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、8頁。

(96)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、248-249頁。

(97)『石牟礼道子全集・不知火』第四巻/椿の海の記ほか、藤原書店、2004年、524頁。

(98)ジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年、14頁。

(99)高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、271頁。

(100)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、58頁。

(101)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、354頁(隠しノンブル)。

(102)吉永春子『紅子の夢』講談社、1991年、274-275頁。

(103)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、217頁。

(104)『瀬戸内寂聴全集』第十二巻、新潮社、2002年、90頁。

(105)「『靑鞜社』のころ」『世界』第122号、岩波書店、1956年2月、129頁。

(106)「所謂新らしき女(二)」『國民新聞』、1912年7月13日、土曜日。

(107)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、37-39頁。