憲三と逸枝の共著による『山の郁子と公作』が一九二二(大正一一)年七月に金尾文淵堂から出版されると、翌年(一九二三年)の四月に憲三の『恋するものゝ道』が耕文堂から世に出ます。一九二二(大正一一)年は、実質的なふたりの東京生活がはじまるときで、生活に余裕はなく、これらの仕事は、憲三が語るところでは、「金取り仕事」1にほかなりませんでした。しかしながら、『山の郁子と公作』の後半部分の「公作へ郁子より」は、逸枝から憲三への手紙で構成され、『恋するものゝ道』にあっては、序篇の「七夕前夜」が憲三によるふたりの出会いにかかわる小説で、それ以外の残りの本文は、すべて逸枝から憲三に宛てて出された手紙によって構成されており、これらの書簡類は、出版の目的からして、幾分創作の手が加えられている可能性もありますが、最初の出会いから出京までのこの時期のふたりの関係を知るうえでの貴重な資料となっています。
それでは、『恋するものゝ道』の「第一 青春の始めの日に」(全三七信)から部分的に断片断片を適宜引用して、ふたりが実際に会うまでの逸枝の心情を再現してみたいと思います。日付は記されてありません。
[第一信] 妾の住んでゐます在所は、山の峽間の淋しい村なんで御座いますの。……月が出ました。だんだん光が深くなつて參ります。
[第三信] 妾はいま斷崖に立つてゐる――妾の眼下は涯知れぬ暗黒の谷底です。
[第五信] ね、月の夜に二人で山に上つたらどんなに嬉しいでせう。
[第七信] 妾はあなたをお信じ申し上げることを、あなたに首肯していただきたいばかりに、希ひ、悶え、泣くので御座います。……妾は七才の春から母に就いて……古文を學ぶことになりました。……妾の憧憬は、紫式部と袈裟御前とで御座いました。……操ということが妾の胸にどんなに尊く響いたことで御座いませう。
[第九信] 寫眞を差し上げます。これは今の妾とはあまり肖てはゐません。またすぐにとつて差し上げます。あなたにわるく思はれたら悲しい。
[第十三信] ああ、戀ひしいあなた! 戀ひしい戀ひしいあなた! 妾はいつお目にかかれるでせう。
[第十八信] 今、妾の心は白紙ですの。娘の妾は騎士のあなたによるのですの。妾の敎育は、あなたのお手によつて。右も左もあなたのみ心のままに。
[第二十信] あなた。あなたに憤られたなら、妾がどうして生きて行かれませう。……おこらないで下さいな。あなたに一寸でもおこられては、それこそ死ぬ程かなしいので御座いますもの。
[第二十一信] お寫眞を見るたびに、あなたの着物をお縫ひした人を妬みますわ。妾にだつてそれは出來ますわ。またお料理だつて稽古しますわ。また妾は音樂家でもあるのですわ。
[第二十四信] ほんに今會ひたい。會つて、み胸に顔をあてたい。あなたをたよりにしてゐます。妾のこの切ない燃ゆる心を、あなたは知つてゐて下さるの。何だか無情ないわ、あなたは。
[第二十九信] こんな晩にかうして佇んでゐるとかなしくなりますの。……いつまでも月を見て、歌つて、思つて、泣いてゐる妾を御想像下さいまし。妾はもうこのまま、この清い月を眺めて死んでしまひたいとさへ思ひますの。
[第三十四信] 明日から松橋に行きますわ。今夜はきつと眠れないわ。
[第三十六信] 今日は二十二日なの。あと一日。もう今になると羞かしさが一杯なの。どうして、この羞かしさをとり除いたらいいの。お目にかかつたら妾何と云つたらいいの。きつと、きつと何も云へないわ。
[第三十七信] 二十三日。あはただしい、仄かな朝が來ました。……これがたぶん最後の・・・・お目にかかるまでの・・・・手紙で御座いませう。追つつけ俥が、參る筈で御座います。苦しさを通り越して、今はうつとりしてゐます2。
自己紹介や近況報告というよりも、明らかに内容は、いまだ会っていない男性への熱烈な恋文、さらにいえば、愛の詩文となっています。
一方、この時期の憲三の心的状況は、どのようなものだったのでしょうか。『恋するものゝ道』には、憲三から逸枝へ宛てた書簡は所収されていませんので、そこから判断することはできず、推測するしかありません。おそらくそのころの憲三のこころの背後には、幼い妹を不慮の事故で亡くした虚しさや、視覚世界の半分を喪失したがために進学を断念せざるを得なかった悲しみや、胸部疾患により就職が遅れた苦しみが複雑に混在していたものと推測されます。そしてそれらが要因となって、積極的に憲三をして読書や執筆へと向かわせ、思想傾向も、ある程度このときまでに形づくられるに至っていたのではないかとも思われます。逸枝自身は、センティメンタルでロマンティックな「しらたま乙女」的な性格を自認する一方で、憲三については、こう認識していました。
ところが彼は、帝政ロシア末期のゴンチャロフの『オブローモフ』(稀代のなまけ者)や、アルチバーセフの『サーニン』(ローマン的恋愛をきょくどに軽蔑して肉欲のみが男女関係の真相だと信じている男)といったようなものにかぶれ、また日本の自然主義文学の『泥人形』(正宗白鳥)、『蒲団』(田山花袋)等以来のエゴイズム性にも共鳴し、友人には札つきの社会主義者もあるといったような境遇にあり、一種の作家志望者でもあったので、私との恋愛事件も、彼にしてみればいわゆる好個のネタでもあったわけだったろう3。
およそ週に一便の頻度で約八箇月間、手紙のやり取りが続きました。そして、ついに逸枝は、「戀ひしい戀ひしいあなた」に会う機会をもつことになるのです。そのときの状況を、本人はこう記しています。文中の広田兼八は、父親勝太郎のかつての教え子でした。
大正六年八月二十日から、私は松橋で開催された夏期講習会に出るために、払川の家を出て、松橋町の隣部落の昔なつかしい久具六地蔵の広田兼八家に行って宿泊した。そしてそこからKとれんらくして二十三日の午後、二人は八代駅で、はじめて相見ることになった。その日は七夕祭の前夜にあたっていた4。
一方憲三は、その日の出会いを、こう回顧します。
私はホームの出口からややはなれて彼女を待っていました。彼女は一番最後に出てくるという打ち合せで。二人はすぐわかって歩みより一礼しました。一と言も発言なしです。そして私が歩み出しました。宿は先着の私がもう取っていましたが、その前を素通りして球磨河畔に行きました。そこでも大方無言です。私から何か二言三言はいったと思いますが、彼女の答えとともに覚えていません。河原はひろく、大榎の密林で、樹下はくらく、河原の上空は降るような星月夜でした。抱擁を一回しました。それから宿に行きました。離れの鍵の手の一室でした。ぎこちなくごはんをたべて、やすむ段になって女中が寝床をつくり蚊帳をはってくれました。二人は中にはいりましたが、彼女は着物をかえず、一隅に坐したまま動こうとしません。こうして一夜をおくりました。ほんとうの話です。「手記」の「対立」はこのことです。朝がくるとごはんもたべず、かえりの切符を落としたまま彼女は帰りました。このときは私は駅まで送りました。が、ホームに入ることは拒まれました5。
このなかで憲三は、「手記」のなかにある「対立」について触れています。「手記」とは、日付からしてその翌日に書かれています。しかし、実際にこの「手記」が発見されたのは、ふたりが結婚してのちのことでした。そのなかに「対立」という表現があります。それでは、その「手記」を以下に再現します。
一九一七(大正六)年八月二十四日 昨夜は人間の普通の概念と見かたでは表現することのできない女性に出合った。彼女は異様に美しかった。はっと心を躍らすものがあった。その特徴は、けがれを知らないその瞳にあらわれていた。彼女は強いていえば、やっと十七歳か十八歳の女学生にみえた。彼女は石のように黙し、かたくなっていた。それをみると、不意に男性の変な潜在意識のようなものが自分を突き動かし、そんな彼女を押しもんでみたい気がするのを感じたが、自分はやっとそれを抑制した。そして自分もまた石のように彼女と対立していたが、その時間はむしろ短かったのに、いつのまにか夜明けがきた。すると、自分と彼女とのこの奇妙な対面は、彼女の飛鳥のような疾走で終わりを告げた。あっというまに、彼女は汽車に乗って行ってしまったのだ。自分はこの娘と生涯結びつけられるだろう宿命を直感した。そしてなぜかわれにもあらずせんりつを禁じ得なかった。 これは自分の二十年の生涯にはじめて与えられたいわば運命の恩恵とでもいうべきものかも知れない。この恩恵を生涯けがさないことを、ここに正直に誓っておく。
(橋本憲三の手記)6。
「対立」の夜が明けて、逗留していた広田家にもどった逸枝は、聞かれるままに昨夜のことを話すと、憲三は逸枝の振る舞いに驚いて帰ったにちがいないということになり、そこで、心配になった逸枝は憲三に電報を打ち、翌日汽車に乗って再び会いに行きました。待ち合わせの一勝地駅のホームに憲三はいました。次は、逸枝の回想です。
大きな麦わら帽子をまぶかにかぶり、兄からの借り着のそでの長いゆかたとセルの袴も、前の日よりは上手に着こなしていたようで、なかなかの美青年にみえた。ふり仰ぐたびに近眼鏡を光らせ、肩をすこしそびやかしているところも、知的で好ましかった。物ごしもりっぱで、私を川岸のこぶのある古木の並木道に導いたが、そのとき白っぽい夕霧の底から、球磨川の轟音が耳をつんざいたのが、いまも忘られないロマンチックな若い日の印象となっている7。
憲三は、「このとき接吻をいちどしました。根っこの地上まではびこった大榎のもと、球磨川の瀬(何とかの瀬というのですが忘れました)音、轟々たる中で」8。こうして三〇分ほどの散策と会話を楽しんだあと、逸枝は、「満足して帰りの汽車に乗った」9のでした。
逸枝は、払川の自宅にもどると、「永遠の誓い」を文にして憲三に送りました。その内容は、次のようなものでした。
私はあなたへの永遠の愛を誓います。私に不正な行為があったら、あなたの処分にまかせます。あなたのお手紙はたいせつにしまっています。恋しいあなたよ10。
しかし、返事はすぐにはありませんでした。しばらくして届いた返事は、次のような内容で、逸枝の気持ちを茶化し、踏みにじるものでした。
この世には永遠というものはありえない。瞬間のみがある。まあ行けるところまで行きましょう。あなたが僕の手紙をたいせつにしてくれるのはありがたいが、手紙というものは時の拍子で書くものだから、あとで恥をかくから焼いてくれ11。
それまで逸枝は、恋愛というものを「永遠説」のもとに夢想していました。ところが、憲三が思い描いていたものは「瞬間説」だったのです。逸枝はいいます。「二十三歳のこんにちまでにすこしの疑いもなく持ちつづけていた愛の『永遠』の観念が根本からくつがえって『瞬間』のそれへと切りかえられることには、ひじょうな苦悩と体験、時間などがまだこのとき必要だったとしても、私はわるびれずこれを受容することを決意して、その第一歩を踏み出すことをためらわなかったのだった」12。
逸枝と憲三のその後の人生を概観しますと、「瞬間の永遠的なる連鎖」のように感じられます。裏を返せば、そのために必要とされる、まさしく「ひじょうな苦悩と体験、時間」、この堆積こそが、ふたりの人生の実質だったのではないかと、いま私には思量されるのです。しかし、駄弁の寄り道はそれくらいにして、果たして両人の恋愛は、その後どのような展開をたどるのでしょうか。本道を急ぎたいと思います。
「永遠説」と「瞬間説」の対置に、逸枝は明らかに動揺しました。しかしながら、ふたつの恋愛観に橋を架けるには、それなりの時間を要すことも事実です。その一方でこのとき、異質な「瞬間説」に直面した逸枝が感得したのは、自分は「『時代』にとりのこされている女である」13という認識でした。それを乗り越えるためには、「せまい山間から、ひろい天地に出て、人生の真理を知る」14必要があり、そのことが逸枝に、親元を離れ熊本に行く決断を迫ったのでした。
逸枝が熊本に向かったのは、単なる恋愛の苦悩からの一時的避難という理由からだけではありませんでした。この時期以降、世界も日本も大きな変革の波に遭遇してゆきます。世界的には、一九一七(大正六)年のロシア革命、一九一八(大正七)年の第一次世界大戦の終結、国内では、一九一八(大正七)年の米騒動、一九二〇(大正九)年の第一回メーデーの開催、一九二一(大正一〇)年の川崎・三菱両造船所での労働争議、一九二二(大正一一)年の水平社の結成、同じく一九二二(大正一一)年の日本共産党の創設――。逸枝は、こうした大波が打ち寄せてこようとするまさに直前の、その波打ち際に、いまや立っていたのです。
一方の足元では、「妻子を女工や酌婦に前借で売り払うといったような、いわゆる『女工哀史』の地獄絵巻がくりひろげられていた。私の周囲の農村でも、この経済の変動によって日一日と苦境に追いこまれつつあり、子どもたちのなかには遠く三池や熊本の紡績、八代地方の製糸等へ売られていくものがすくなくなかった」15。そしてまた、逸枝自身もこの時期、「家の貧困に加えて、父の停年も近づいており、それを打開しようとして教員検定試験などもうけてみるが技術の教科に阻まれて失敗するし、つねに生活の面では追っ立てられるような気もちでいた。こうして、あらゆることがよってたかって、私をはげしくむち打ち、かりたてているようだった」16。
そこで、憲三との出会いからまもなくすると、一九一七(大正六)年の一〇月二〇日、学校を辞めた逸枝は、すべてを振り捨てて熊本に向かったのでした。
着いた先は、京町中坂の専念寺でした。ここはかつて熊本女学校時代に、済々黌に通う弟の清人と一緒に下宿していた寺です。いまここには末弟の元男が住み、済々黌に通学していました。こうして二度目の熊本生活がはじまります。逸枝にとっての喫緊の課題は、自立のための職探しでした。そこで逸枝は、小学生のときに夢に見ていた新聞記者になることを願って、行動を起こします。頼ったのは、かつて佐俣時代に取材に来たときに知り合った『九州日日新聞』の入江白峰でした。以下は、逸枝の回想です。
白峰さんは社会部長の宮崎大太郎さんの京町の家に私をつれて行き、また九日社で小早川秀雄社長にも面接させた。だが、私の時代感覚と筆と服装とが適性を欠いていたので、これはものにならなかった。私は末の弟と専念寺にいたが、そこへ白峰さんが訪ねてきてくれたとき、机の上にあった源氏物語をみて、「けっきょくあなたは新聞記者にはあわない。学者の型だ」といってくれた17。
就職の失敗だけではなく、思想的にもこのとき、逸枝は混迷の淵にありました。熊本には師範学校時代の友人で歌人の続友子がいました。次も、逸枝の、このときの熊本生活についての回想です。
私はこの熊本の生活では、続友子さんとだけ論議をたたかわした記憶をもっている。むろん続さん……が一枚上で、私はやはり唯心論者で、時代おくれのとんちんかんのことばかりいっていた。彼女を通じて知った熊本の文学青年たちの風潮も球磨のKたちと変わらないようだった。ここでもサニズムなどが幅をきかせているようだった。五高生の間などでは吉野作造らのいわゆる民本主義思想を奉ずる一派もいたようだった。私の古くさいロマンチシズムは大きな響をたててむざんにも崩壊してゆくようだった18。
そうしたなか、その年の一二月、憲三が突然逸枝を訪ねてきました。憲三は、そのときの様子を、こう記憶していました。
私の予告なしの自発的訪問で、専念寺に行きました。夕方近いころで……彼女がびっくりして迎えました。……本尊の右手にオルガンがおいてありました。彼女は、「弾きましょうか」といいましたが、内心うろたえている容子なので辞退しました。すると、前の高台に案内するといって……空地に(隈部道場あと)につれてゆきました。もう日は落ちて眼下にひろがる熊本の街々の灯をのぞみながら、芝生に肩をくみ、オーバーにくるまって、何かと話をしました19。
年が明けて一九一八(大正七)年を迎えました。一月の下旬、旅費の貯えのない逸枝は、会いたくなって憲三に手紙を書き、加藤神社の前にある「染屋」という旅館を知らせたうえで、来熊の懇請をします。しかし、憲三からの「その返事のなかに、『何を染屋ぞ』という迷語があった」20ことに、逸枝は驚かされました。というのも、逸枝にとってその「迷語」は、性的関係を連想させるものだったからです。そこで逸枝は、「染屋」には連れてゆかず、前回同様に専念寺近くの高台の草原に案内するも、「すっかり逆上して、とんちんかんのうわごとを並べたてて、一時間もたつかたたないうちに、また上熊本駅へ送ってゆき、帰りの汽車に乗せてしまった。会ってみれば正直者でもある彼なので、けっきょく私のいうままにおとなしく帰ったのだったが、二、三日すると、『ばかにするな』といってよこした。私は悲観して、ながながと、弁解の手紙を書いた」21。その弁解の手紙の末尾には、こう書かれてありました。「けれど、私のあなたへの思慕はすこしも変わりません。お寺に帰るとめまいがしてすぐ仆れてしまいました。着物や本を売って旅費をつくって汽車に乗って人吉へ行きたいと思っています。たぶんいくかもしれません。愛してくださいますか。みじめであってもやっぱり愛してくださいますか。さよなら恋しい人よ」22。
そこには、何をやってもうまくゆかない、打ちひしがれ、死に絶えんばかりの逸枝の姿がありました。そしてそのうえに、貧しさも加わります。
私は畏友続さんにも、この尊敬する球磨の青年にも、いつも軽くあしらわれているかっこうで、心が傷つけられてばかりだった。私は温かな親や弟妹、かわいらしい教え子、貧しくても親切な村の人たち、それとうつくしい自然にかこまれて、愛と平和の雰囲気に生きていたが、それがガラリとかわり、いまや唯心論の幻影が大きな響きをたてて崩れおちるのをみなければならなかった。私の心はすすり泣き、あるいは右に行き、左につまずいて、帰趨をしらなかった。 その上、弟が卒業して去ると、私は無一文のままとりのこされ、一週間も二週間も食べないこともあった。しかし、このような窮地にあることは、安元和尚も、続さんも、球磨の青年も、故郷の親たちも知らなかった。私は麻糸つなぎの手内職をしたりして凌いだ23。
逸枝はいいます。「都会は私には汚辱の沼だった」24。しかしその一方で、「深夜の本妙寺の裏山を歩きまわったり、街に下りて千反畑町の図書館をのぞきこんだりして、わずかな救いをえていた」25。その図書館で出会ったのが『天路歴程』でした。逸枝は、こうもいいます。「この話は、私に天啓的に、どん底脱出への誘いと、大きな勇気とを与えてくれたと思う。大正七年(一九一八)の三月の春もえそむるころには、私はもう巡礼旅行を空想しはじめていた」26。
ちょうどそのときのことです、逸枝に別の男との、一見すると厄介そうな問題が覆いかぶさってきたのでした。『恋するものゝ道』の「第三 生命の河」(全二四信)は、熊本の逸枝から球磨の憲三に宛てた手紙で主に構成されています。以下は、「第十七信」からの抜き書きです。
妾は今夜ある人の訪問を受けました。恰度お湯に行かうと門を出かけてゐた處でしたのでいつしよに湯屋まで歩きました。その人は昨夜書いたといふ長い手紙を手渡ししました。今日のうちにも、朝と午后と二通だけ郵便から寄越したといふのに・・・・。 湯から歸つて灯火の下で。それを讀みました。是非一と言でいいから返事を、といふのです。 其の人はこちらの歌人です。 あなたに會ひたい!ああ、あなたがなづかしい、なづかしい、どんなにあなたがなづかしいでせう。 妾はその人といつしよに歩いてゐる間、ある悲哀を感じました。でも、それは……。 その人はどうかすると、さびしさうにものを云ふのです。さびしさうな人です。たとへば地獄の底を歩いてゐるとでもいふやうな・・・・27。
こうしてこのとき、ひとりの熊本の文学青年が逸枝を見初めたのでした。のちに憲三は、この男性について、次のように解説します。
熊本に出た彼女は大正七年四、五の両月、物的にどん底生活に落ちました。……この時期に一青年が彼女に近づきました。彼女はさっそく私に知らせ、一日に朝、昼、午後の郵便で三回も血書が届けられたとか、きょうは十円どこからか借りてきた、酒をのんで崖から飛んで死ぬつもりとかいってさんさん(・・・・)と泣く、男の心からの涙というものをはじめてみせられてうごかされたとかいうようなことを28。
そのとき逸枝から憲三に宛てて出された手紙には、一青年からの手紙も同封されていて、その青年に納得させたいので、あなた(憲三)のことを話すことを許してほしい旨の内容が書かれてあったようです。これを読んだ憲三は、こういいます。「胸がむかつきました。私の潔癖(実は偏執かも知れません)に障りました。そういうことはかんたんに自分で処理すべきものではないか、私を介在させる必要はないだろう。自立精神に反するだろうとしたのです。それで返事を出しませんでした。……彼女はこれによって私からの愛の保証をたしかめようとしていると勘ぐりもしました。……彼女は青年とのかかわりを自らたち切ることをしませんでした。できない性分です」29。逸枝からの手紙はひっきりなしに届きました。しかし憲三は、逸枝に対して「自分から断絶はしませんでした。実際には、愛しているといわれるものに断絶宣言はできません。性分です。……もし結ばれたら、祝福をおくりたいと思う余裕ももっていました」30。
次の文は、『恋するものゝ道』の「第三 生命の河」に所収されている最後の「第二十四信」からの抜粋です。
淋しい風の日で御座います。…… 漂泊の旅。 漂泊の旅。…… あなたは強い冷たい人です。 あなたは冷たい人です。…… ああ、妾の故郷は入日の國である。妾は白いおひづるをきて鉦を鳴らして此處へ行かう。ああ、妾はきつと巡禮になつて出ます。 一目お目にかかりたう御座います。…… なつかしいあなた!戀ひしいあなた!慕はしいあなた! 妾の道をよく敎へて下さいまし。ああ、風が吹きます。 すぐに御返事を。一心にお待ちします。 返事を待ちます。一心に、是非に、すぐに下さらないと出ます31。
憲三の心境はこうでした。「こういうものへの返事は苦手でもありました。彼女が欲している返事は書けも書きもしなかったと思います」32。憲三が冷たすぎるのか、逸枝が甘えすぎているのか、その判断はさまざまでしょうが、結果としてこのとき、憲三は、決して逸枝のところに行って寄り添ったり、自分の手もとに引き寄せてかくまったりはしませんでした。こうした微妙な男女の愛の駆け引きのなかにあって、「一九一八(大正七)年六月四日、私は熊本の京町専念寺をたって、四国巡礼の旅に出た」33のでした。
その旅路のあらましと出で立ちは、おおかた次のようなものでした。
熊本から大分、別府をとおり、船で四国の八幡浜にわたり、菅笠に金剛杖、白のおいずるに三衣の袋、巾二寸の札ばさみ、という型どおりの姿で、土佐、阿波、讃岐、伊予と逆打ちをして、故郷に帰るまで約半歳、四国にいたのが、夏から秋への百日ばかりであったが、この無銭旅行は、私には得るところが多かった34。
出発の前日、逸枝は憲三に手紙を書きました。「明日より四国八十八ヶ所の巡礼の途につく。おひづる、笠、杖、草鞋、紫の振りの袂もなかなかにさみしく、野越え山越えゆく旅の巡礼姿をおしのび下さいまし」35。それに対する憲三の返事は、「丈夫なズロースをはいて行きなさい」36というものでした。
他方で、出発するに当たって逸枝は、お金の無心をしました。「私は九州日日新聞社の社会部長宮崎さんを訪ねて、巡礼記を書くということで金十円也をもらった。陸の上は物乞いしてゆくはずだったが、四国にわたる豊予海峡の船賃だけは必要と考えたからである」37。「娘巡禮記(一)巡禮前記」が『九州日日新聞』に登場したのは、六月六日の朝刊三面でした。書き出しは、こうです。「どんな心持で巡禮を思ひ立つたか夫れは私自身でさへ一寸では解らないが左は社内宮崎先生に宛て書いた手紙の一節である、此れに依つて私と云ふ者がどんな者で有るか極めて一小部分で有つても理解して下さる事が出來たら幸甚である」。いうまでもなく逸枝にとって、「汚辱の沼を脱出して、漂泊の旅をつづけることにより、『いかに生くべきか』の問題を解決したいのが、この旅行のねがい」38でした。
この旅について、のちに逸枝が晩年に書いた『今昔の歌』から断片断片を拾い上げ、以下に、順次、構成したいと思います。
私は豊予海峡を渡るまでは、この雨具を買っただけで、ほかには一銭も支出しなかった。日が暮れると門に立って一宿を乞い、翌日は握りめしをもらって出かけた。もちろん断られたこともあるが、その場合私はけっして言葉をくりかえさず、次の門に立ったのである。幾日めかに、故郷肥後とわかれる峠に立った。 「火の国の火の山にきて見わたせばわがふるさとは花模様かな」 私の安住をゆるしてくれない払川、汚辱の沼熊本よ、さよなら。私はかならずしも故郷に帰る日を期していなかった39。
「ふるさとは花模様」であろうとも、自身は絶望の境地にありました。「私の安住をゆるしてくれない払川」とは、いわゆる「口減らし」を意味するのでしょう。他方、「汚辱の沼熊本」とは、自身が身につけてきたセンティメンタルな唯心論やロマンティックな詩心を許容しない都会の冷酷な思潮を指すのでしょう。さらにもうひとつ、逸枝のこころに寒風となって吹き荒れていたのは、いうまでもなく、球磨の山奥の教師、憲三の存在でした。加えて、極貧がもたらす絶望的な日々も。
ゆく道は険しく、もう生きてもどれないかもしれないという覚悟を胸に刻み、かくして逸枝は、悲壮感漂うなかにあって原郷「火の国」に別れを告げたのでした。ところが、坂梨を出て豊後に向かう途中で、ひとつの出来事に遭遇します。歩き疲れた逸枝が、道端で休んでいると、横に置いていた笠のなかに、店から出てきた猫が入り、眠ってしまったのです。そのすべてを見ていた店の女主人は、逸枝と目をあわせるや、同時に笑ったのでした。物乞いの身の逸枝は、嫌がられると思い、店に入るのを遠慮して石垣の所で休んでいたのですが、乞食と店主という異なる身分の立場を越えて、笑いを共有したことに、逸枝は強く胸を打たれたのでした。
……猫の子によってひきおこされた一瞬間の両者の笑いは、それらの関係を越えた純粋なものであったとおもう。言葉がすこし飛躍するが、私はこのとき人間性の善と、その自由な発露をさまたげている世俗的なものの存在を感じ、いっさい障害物がのぞかれるなら、人間は惜しみなく愛し合うものだということを知った。この人間性への本質的な信頼と、それを生かす方向への出発ということが、ここで私に直観的に把握されたのだった40。
犬飼の手前にある中井田という部落で日が暮れたときのことです。家から出てきた老人から声がかかりました。「一間きりの、仏壇以外にはなにもない住いで、欠けた椀に飯を盛り、味噌のおかずで夕食をふるまわれた。この人は七十三歳、名は伊東宮治、針とあんまを業とし、信心家の一徹者として、その界隈に埋もれて敬愛せられていた人だった」41。その夜伊東は、逸枝が観音の化身であるとの夢を見たようです。伊東は、逸枝とともに四国八十八箇所を回る境地に達し、逸枝もそれに曲従し、これにより、それ以降、ふたり相並びての巡礼者となり、遍路行がはじまりました。旅がはじまると、こんなことがありました。
おかしいことであるが、私の杖に触れると病気がなおるといって、遠近からそれらの人びとが押し掛けてくるようになり、そのなかにはじっさい奇蹟的によくなったものもあった。……犬飼や大分、別府等からまで訪問者があって、つたない書や短冊なども書かされたりした。こうして期せずして老人の路金をいくらかでも助けることにもなった42。
「四国遍路には、順打ちと逆打ちの二つがある。つまり番の寺の順をたどるか、逆をゆくかのちがいだが、おなじ道ながら逆打ちのほうは上り坂がけわしく困難だという。私は老人をいたわって、順打ちを主張してみたが、かれは一も二もなく逆打ちの苦行をえらんだ。私はもうここで完全にこの一徹者の老人の意思に屈服した自分を見いだすことになった。ただし、かれの主観では、かれは私の従者であり、護衛者であり、だからつねにその礼をとった」43のでした。
伊東老人は目が不自由でした。出し入れの際、財布から銭を落とすこともしばしばありました。しかし逸枝は、すべての会計をこの老人にまかせ、介入することはありませんでした。また、「人家のあるところでは修業というものをした。修業とは、門に立って、物を貰うこと、つまり乞食である。貰うものは米、麦、などであるが、これは遍路宿で現金にかえることもできた」44。しばしば野宿もしました。伊東老人がへばったところが野宿の場所になりました。「室戸岬の断崖の下では、砂浜の上に泊って、あやうく夜なかに波にさらわれようとしたことなどもありました」45。そして、いよいよその時が来ました。「大正七年十月十九日、私と伊東老人とは、私たちの最後の寺、結願の寺、四十四番の大宝寺にもうでることができた」46のでした。
この漂泊の巡礼行にあって、逸枝は憲三に旅の便りを送りました。『恋するものゝ道』の「第四 漂泊行」に、このときの手紙が集められています。全一八信の構成です。それでは、そこから適宜部分的に抜き出して、逸枝のこころを占めていた旅情の一端を再現してみたいと思います。差出日は記されてありません。
[第二信] 六月二(ママ)日。今、菊池の大津といふ所にゐます。明日は外輪山を突破して、阿蘇から大分へ。 漂泊、という感じが沁沁と――未來はまるで解りません。唯、現在に生きて行くばかり、さびしい時には人を思ひ、身を思ひ、讀書し、沈思し、山に上つて笛を吹きます。 御便り時々はいたします。
[第五信] 今日から四國へ参ります。何卒何卒御身御大事になさいまして下さいまし。七月九日。 赤きものは赤くあれ。 黒きものは黒くあれ。 今や心恬然としてここに在り、敢へて恬怖も、不安も、寂寥も無し。 今宵乗船わけもなく微笑まれつつあり。 生か? 死か? 來るもの、そはわが問ふ處ならず。
[第十五信] 妾はあなたを深く切に尊敬いたして居ります。唯、遠く離れてありたい。妾は唯つつましく、唯さみしく、唯やさしく、唯機を織り、衣を洗つて、世を過ごして行きませう。その外に道はありません。妾にはその外に何の慾望もなくなりました。妾は温順な父母の子として、優しい弟妹の姉として、生涯を果てようと決心いたしました。 あなた。 一目お會ひしたう御座います。またおたよりはいつまでも許して下さいまし。妾を察して下さいまし47。
憲三はいいます。この間「返事はかならず書きました。行手の先々の寺気付で出せるようになっているのです」48。もっとも憲三は、逸枝が巡礼に出ているあいだ、逸枝への返信だけでなく、小説執筆にも精を出していました。それは「太陽へ」という題をもつ小説で、七月九日の『九州新聞』(七面)に第一回が掲載されると、第二回(七月一〇日七面)、第三回(七月一一日七面)、第四回(七月一二日七面)、第四(ママ)回(七月一七日七面)、第五回(七月一八日七面)、第六回(七月一九日七面)、第七回(七月二一日七面)と続いて、第八回(七月二三日七面)で完結します。最終回の最後の一節はこうです。
急にあたりがパツト明るくなつた。 太陽が上つた。 草木は光の方へ一齊に手をさしのべて、互いの生の歓喜を歓び歌つた。 彼は胸の痛みも何も彼も打ち忘れて、子供のやうに、兩手を高く上げて、太陽へ――郁子へ走つた。――(完)――
この一節は、のちに橋本憲三と高群逸枝の共著『山の郁子と公作』(一九二二年、金尾文淵堂)に再録されます。
他方で憲三は、この時期の心情を、小説という形式だけでなく、以下のように、短歌の形をとって言い表わしました。
石ひとつ森の彼方に投げて見ぬまこと月夜は静かなるかな たまさかに友の便りのある時は山はかなしとかへしするなり
前者の作は、一九一八(大正七)年九月一二日の『九州新聞』六面に開催された「人吉短歌會」からの一首です。そのときの短歌会について、記事はこう語っています。「開會前になると雨はすつかり晴れた。つづいた、球磨の山脈がくつきり青の肌へをあらはしたもの心地がよかつた。互選詠草六十首。入選歌より高點順に批評にうつる」。
後者の作は、一九一八(大正七)年一〇月一九日の『九州日日新聞』七面の「明けゆく路社詠草」を構成する五首のなかの一首として掲載されました。
この二首のなかに、逸枝と離れて独り山に住む、憲三のこころを覆う寂しさのようなものが表出されていると解釈することも、可能かもしれません。
およそその一箇月後、一一月二三日の『九州日日新聞』は、巡礼姿の写真とともに「巡禮娘歸る」(三面)の見出しでもって、逸枝の帰郷を報じます。その記事には、こう記されていました。「本年六月初め熊本を出發した巡禮娘高群逸枝女史は四國八十八ヶ寺の札所札所を首尾よく打ち納めて廿日夕刻無事に帰熊した(寫眞は本人の巡禮姿)」。帰熊すると、そのあと逸枝は、「十一月二十二日に払川の父母の家に帰った」49のでした。そしてその地で、「娘巡禮記」の最終回の原稿を書きます。それは、一二月一六日の『九州日日新聞』(三面)に「娘巡禮記(百三)」として掲載され、末尾は、以下のような文字で結ばれていました。
飛ぶものは飛べ、去るものは去れ、流れむと欲さば流れよ、消えむと欲さば消えよ 何事もただ其儘に―― ――十一月二十八日娘巡禮記完稿――
完稿の最後のこの語句を目にすると、結果としてこの巡礼は、逸枝をして自身の「永遠説」を遠ざけさせ、憲三の「瞬間説」に近づけさせたようにも感じられます。しかし果たして、これにより、ふたりの距離は縮まるのでしょうか。
遍路を終えて、一九一八(大正七)年一一月二二日に払川の両親のもとに帰った逸枝は、この後どう過ごしたのでしょうか。逸枝は、このように書いています。
まもなくまた、元の杢阿弥になってしまっている自分を見い出すことになった。私は、もう二十四歳になっていたが、あいかわらず、年齢を知らない娘だった。それに払川の家は俗世間には遠くて私をすぐにあるがままの野生の子にした。……私のあたまは神秘な霧につつまれ、心は一年前の「霊の恋」がよみがえった。私はKが「うわごと」と名づけている言葉のふたしかな空想にみちた手紙を性こりもなくまた書き出したのだった50。
このとき書かれた書簡類は、「第五 長恨記」の題のもと、『恋するものゝ道』に全八信が収められています。第一信には、こうした記述があります。逸枝は「郁子」の名を使っています。
十一月三十日。山にて、郁子。……今、後の丘で小鳥が歌つて居ります。何といふ今日は美日なんで御座いませう。……白雲が頭の上を流れます。何處まで流れて行くことでせう。――歸りました。……お達者でいらつしやいますか51。
年が明けました。この間憲三は、冬の休みを利用して、一本の小説を書いていたものと思われます。この作品は、一九一九(大正八)年の一月七日の『九州新聞』六面に、「山を越えて(小品)」と題して登場します。主人公である「私」のこの地での唯一の友である「小さん」が、山を越えて「私」の家を訪ねてきました。およそ一年ぶりの再会でした。「小さん」は、「私」が机の上に飾っていた写真を見ると、これが「花枝さんですね」といいました。「花枝」が逸枝であることは、疑いを入れないでしょう。ここから、物語がはじまります。二回目の「山を越えて(二)」は、一週間後の一月一四日の七面に掲載されました。そのなかに、「小さん」と「私」の会話部分がありますので、その前後を含めて、以下に引用します。「小さん」は、憲三と同じく『少数派』の同人で、社会主義者であった小山勝清がモデルではないかと思われます。
私は吃驚(びつくり)したやうに彼を見て、そして寫眞を見た。私は此の頃殆ど彼女を忘れてゐた。 『……たしか毒藥だつたさうですよ。しかしいさといふとき女は逃げてね、かういつたんです、死ぬことは止(よ)しませう。そして私達は生きませう。つてね』 『つまり遊戯(いたづら)だつたんですね』 『男を食ひ歩くんですよ、きつと魔物に違ひない。……どうです近頃は。』 『……』 『早く突き放しておしまひ……毒婦つていふ氣がしますね』 私は苦笑した。 『もう止して下さい、でないと私は腹を立てますよ』 彼は素直に黙つた、私も黙つてゐた。
「小さん」が「私」に語った「たしか毒藥だつたさうですよ。しかしいさといふとき女は逃げてね」の内容は、真実であるかどうかは別にして、四国巡礼の旅に出る前に、逸枝に血書を送りつけてきた一青年との心中未遂が念頭にあるのでしょう。この会話が、実際に憲三を訪ねてきた友人が口にした言葉であるのか、憲三が、小説という虚構空間を利用して、自分の思いを「小さん」なる人物に語らせているのか、それもわかりません。しかし、小説とはいえ、憲三がこう書いている以上は、憲三の胸の内には、逸枝の優柔不断さに対する激しい嫌悪感と、その一方で、何とかそれから目をそらそうとする、ある意味での希望的否定感とが渦を巻いていたものと思われます。この「山を越えて」は、第三回が一月一五日の七面に、第四回が一月一六日の七面に、そして第五回が一月一七日の七面に掲載されて、完結します。最終回「山を越えて(五)」の終盤には、「私」がかつて住んでいた家に泊り、そこで夢を見る場面があります。
『花枝』と小さく言つて私は眼を閉ぢた。 青年の手にギラリと短刀が光つたと[たん]、女は仰向けに倒れた。眞赤な血潮が踊りを踊つて流れる……。
この夢は、何を象徴するものなのでしょうか。血書を逸枝に送った青年の熱い思いを自分に投影して再現しているとも考えられます。もしそうであるならば、一種の無意識的な嫉妬心の現われにちがいありません。
するとそのとき、かすかに心優しい声が聞こえてきました。文は、こう続きます。
『お茶をいれました』 私は眼を開けた。お母さんだ。 昔のまゝのその優しい聲をきくとはじめて心の空虚が満たされたやうな氣がした。 私は夜は久しぶり子供のやうに安らかに眠つた。
言い寄る男を決して拒絶しようとしない花枝(逸枝)、他方、いかなるときも自分を迎え入れてくれる母親――憲三はふたりの女性を、見事な対表現でもって語っています。潜在的な劣等感のようなものがここに集約されているのかもしれません。そして、続く次の文で、この物語は終わります。
三日の旅から歸つて來たとき、私の住居はちつとも變つてはゐなかつた。唯花枝の手紙が待つてゐた。その封筒は恰度妄想に見た女の心臓から流れ出た血汐で染めたのではないかと思はれる程赤かつた。(完)
ふたりが事前に示し合わせていたのかどうかは判然としませんが、この時期、憲三が「山を越えて」の執筆に精を出す一方で、逸枝もまた、「愛の黎明」に取り組んでいました。逸枝の「愛の黎明 一、告白」が『九州新聞』七面に姿を現わすのは、「山を越えて(五)」の五日後の一九一九(大正八)年一月二二日のことでした。その日から休載なく四日間、「愛の黎明 二、第一の戀人に」(一月二三日七面)、「愛の黎明 三、第二の戀人に」(一月二四日七面)、「愛の黎明 四、第一の青年に」(一月二五日七面)、「愛の黎明 五、第二の青年に」(一月二六日七面)が『九州新聞』に連載されてゆきます。最終回の「愛の黎明 五、第二の青年に」の末尾には、「八、一、八、」と擱筆日が記されています。そこから判断しますと、逸枝は、憲三の「山を越えて」の初回が掲載された翌日の一九一九(大正八)年一月八日に脱稿したことになります。かくして一九一九(大正八)年の新年一月、『九州新聞』を舞台に、憲三の「山を越えて」と逸枝の「愛の黎明」が、共演することになったのでした。憲三は、この月の一〇日に二二歳の、逸枝はこの月の一八日に二五歳の誕生日を迎えました。
さて、五回にわたって連載された「愛の黎明」ですが、「愛の黎明 一、告白」は、自身の考える愛についての独白に近いものとなっています。「――樣」あるいは「――さま」という見出し語で、形式的には四節に分けて構成されていますが、特定の人物を念頭に置いて書かれたものなのか、広く一般的な読み手が想定されているのかは、判断がつきかねます。内容的には、ある種空想的な「人類愛」ないしは「平等愛」を語っているように読めます。それでは「愛の黎明 一、告白」のなかから、注意を引く語句を選択して、以下に並べてみます。
――樣 お芝居を書いてゐるのぢや無いかなんて、一方では呆けてゐるんで御座いますのよ。 ――様 私は、生涯獨身です、生涯孤獨です。……おゝ!粛然たる「愛の黎明」 私は正に愛の、女神で有る。 私の胸には感激の烈しい涙が音を立てゝ流れてゐる。 ――さま でも、私の恁うした「愛」が、(世の中のすべてを、一切平等に愛しようと願ふ「愛」が)既に地上の人々――殊に若い幸福な人々――に取つては、如何に忘られ勝ちなもので有るかと云ふ事に就て私は少しも悲しいとは思ひませぬ。 のみならず、私は、さうした凡ての人々に取つて一つの隠れ家で有りたいとさへ望んで居りますので御座います。 ――さま 私の「隠れ家」は地球上で最も安全な最も幸福な――に違ひありません。私は逃げ込んで來る罪人や負傷者・・・・恁うした私の友人や元氣よく訪づれる秀才、佳人・・・・恁うした私の友人に對して常に温い食べ物と美しい灯りとを用意する事に忠實で有らねばなりません。
続く「愛の黎明 二、第一の戀人に」、「愛の黎明 三、第二の戀人に」、「愛の黎明 四、第一の青年に」、そして最後の「愛の黎明 五、第二の青年に」は、明らかに特定の男性に呼びかける文になっています。「第一の戀人」は、間違いなく憲三でしょう。そして「第二の戀人」は、逸枝に血書を送った青年を指すでしょう。しかし、「第一の青年」と「第二の青年」については、その詳細は不明です。おそらくは、逸枝の書く「娘巡禮記」を読んで共感を抱いた男性なり、四国巡礼の途中で知り合った男性なり、そのような人物だったのではないかと考えられます。
逸枝の「愛の黎明」からおよそ一年半後、憲三は、『九州新聞』に「末人像(まつじんざう)」を連載します。これは創作文ですので、そのすべてが真実かどうかはわかりませんが、このなかに、こうした一節を読むことができます。
『正直に書きますと』と彼の女は更に筆を繼いだ。 『妾を熱愛すると云ふ人が今三人ゐます。…… 古河さんは貴女によつて生涯は決められたと申されます。田代さんは自殺をはかられたそうです。古河さんには数年後お目にもかかりお便りもいたしませうそれまでご無礼いたします、と申し上げて置きました。妾はさう思つたのです。田代さんには濟度し難い妾を告白した手紙を上げて置きました。最後にもう一人の方は大分縣の人です。散々にうらまれてつい泪ぐむ妾の弱さをお許し下さい、せめて手紙だけはと思つてさう致しましたが、苦しいことです。 『御熟考下さいませ。あなたは果してこんな狂奔な熱烈な常軌を逸した妾に御満足が御出來で御座いますか。且つ妾は非常に醜婦で御座います52。
ここに登場する「古河さん」という人物は、「愛の黎明」における「第二の戀人」その人であるにちがいありません。名を古河節夫といい、その約二年前に、『九州新聞』に「彼と民子の話」を連載していました。いうまでもなく「民子」が逸枝で、内容は、逸枝が四国巡礼の旅に出る経緯にかかわる「彼と民子」の身の上話として成り立っています。
勿論此の實生活の壊滅のみが民子の旅立ちの全原因ではなかつた。それは惑溺を恐れつゝ猶戀の惑溺の息詰まる樣な混濁した深地へ何らの反抗力もなくずるずると没落して行く自分等の未來が恐ろしかつたからであつた。醜悪な汚汁の樣な生活を根本から開拓したい欲求からであつた。それは二人の境地がそれを証明してゐた53。
続く二回目の「彼と民子の話」は、このような文ではじまります。
彼が彼女と肉に墜ちてから、基督敎徒の彼女は悲痛な煩悶におちた。民子は泣いて彼に縋つた。彼は何時もの凝然として動かない瞳をもつて民子を眺めて居た54。
後年逸枝の回想するところによると、親元を離れて熊本に出たものの、生活難にあえぎ、「仕事を求めたり、クラーク牧師を訪ねたりした」55ことがありました。しかし、明らかなことは、決して逸枝は、古河がいうごとくの「基督敎徒」ではありません。そこから推断しますと、「彼が彼女と肉に墜ちてから」という口上もまた、古河の創作あるいは妄想に類するものだったにちがいありません。いよいよ逸枝の巡礼の旅がはじまります。彼はそれに付き添います。「民子と彼を乗せた俥は朝早くこの町を過ぎた。二人は郊外に出た時俥を捨てた。二人は黙つて歩いて行つた」56。そして、ふたりは草原に座ると、そこで別れの言葉を交わすのでした。
『ではこれで別れやう』これを云ふ事は彼にとつて非常な苦痛であつた。…… しばらくして民子は幽かに震へて叫んだ。 『ね、あなた、妾を忘れないでね――あゝ別れませう』 彼は無言で立ち上がつた。それ以上聞くことは苦しかつたのだ。 『ではさやうなら』 『さやうなら。ね、妾屹度歸つてまいりますわ、きつと』 彼はもと來た方へ歩き出した57。
おそらくこの場面は真実に近いかもしれません。もっともこれには、逸枝の性格の本質的部分が投影されているように感じられます。といいますのも、同じく後年、逸枝は、自分の性格上の欠点を、こう説明しているからです。「私は対人関係ではひじょうに弱く、いつも相手の意に逆らうことをおそれ、あいまいで、優柔不断な点があった」58。資料的にはほとんど何も残されておらず、逸枝にとってどのような関係の人物であったのかはよくわかりませんが、おそらく、「古河さん」以外の「田代さん」という人も、「大分縣の人」も、「相手の意に逆らうことをおそれ、あいまいで、優柔不断な」おつきあいの範囲にあっての交際相手だったのではないかと思料します。
「愛の黎明」のなかの三人の男性と、「末人像」のなかの三人の男性とが、必ずしも同一人物であるという保証はありません。しかしながら、いずれにせよこのとき、憲三を含む四人の男性に逸枝が囲まれていたことは明らかです。「一切平等に愛しようと願ふ『愛』」にとっては、自身の「隠れ家」に駆け込んでくる人たちに「常に温い食べ物と美しい灯りとを用意する事に忠實で」なければならないのです。「古河さん」も「田代さん」も、「大分縣の人」も、そのような逸枝の「愛」を頼って迫ってくる人たちだったのでしょう。すでに書いていますように、幼いころの逸枝には、尼寺への入門願望がありました、そしてまた、貧児院への嫁入り願望もありました。「一切平等に愛しようと願ふ」逸枝の恋愛上の風土が、観念を越えて、現実世界にあって、こうした願望の芽を育んでいたのかもしれません。もっとも、いずれも不首尾に終わりましたが――。
逸枝は、この「愛の黎明」を書いているとき、自分が幼少期を過ごした地域に残る、結婚にかかわる次のような習俗を思い出していたにちがいありません。のちに逸枝は、その遺俗について、こう語っていますので、ここに紹介します。
お祭の夜には 若い男女の 自由恋愛がゆるされる 若い衆はくじびきして 女をきめる 女はすなおにお化粧して それを待っている と「日月の上に」のなかで私は歌っているが、このように集団婚のなごりもみられた。従わない女がいると、小野の小町ではないかと親たちまで心配した。男が女に通う妻問婚も、若い衆の男女関係としては、よくのこっていた。女の家では、顔もしらない忍び男のことを、うちの婿どんなどといって黙認していた。そしてこのような例の多くは、子供が生まれそうになるのを機会に嫁入り婚となって結ばれていた59。
逸枝の周りに遺存するこうした実俗があったにせよ、四人の男から思いを寄せられたこのときの逸枝が、実際に、こうした太古の集団婚の状態にあったとはとうてい考えられませんが、かといって、そののちに『戀愛創生』(一九二六年、萬生閣)の出版が続くことを考えますと、いっさいの制約のない大自然のなかにあって、「愛の女神」を巡って繰り広げられる自由な男女の恋愛に逸枝が憧れていた可能性までも、完全に排除することはできないような気もします。つまり、ここで逸枝が書こうとしているのは、自分個人の「愛の黎明」を越えた、人類全体にとっての「愛の黎明」だったのかもしれないのです。しかしそれは、あくまでも、いまだ消え去ることのない逸枝の体内に残存する、のちに引用により紹介するところの「センチメンタルな感情に氣をとられて了ふ傾向」の一断面でしかなく、実際問題としては、次のような憲三の言辞を待たなければなりません。のちに憲三は、逸枝の筆になるこの「愛の黎明」を、かく位置づけたのでした。
これはひとくちにいえば私の聖女説を裏書きするものです。それには大前提が一つあります。彼女は絶対に肉的交渉をもっていないということです。私は生涯それを持ったのは一人(私)だけだと思っています。 しかしこの前提を無いものとすれば、下卑た言葉でいえば彼女は大淫乱者であるととられるおそれがあるものです60。
他方、抽象的な表現ではありますが、のちに逸枝もまた、愛や結婚についての自身の見解を書いていますので、以下に書き留めておきます。
女にも多夫本能がないわけではないが、それは一夫性と同様に純潔なものであるべきで、ある特定の男を踏み台にしての多夫関係、いわゆるよろめき関係は、女にとってはある場合の過誤でしかなく、本質ではない。多夫なら原始の女性のように婚姻制を廃絶した自由な境地でのそれであらねばならない。人類の歴史があるいはそれに向かって進化していくだろうことは考えられるが……61。
ところで憲三は、「山を越えて(二)」のなかで、友人の「小さん」に花枝(逸枝)のことを「男を食ひ歩く……魔物」とも「毒婦」とも形容させています。一方逸枝は、「愛の黎明」のなかで、自身のことを「愛の、女神」と呼んでいます。ふたりは、それぞれに相手の文を読んだものと思われます。憲三は、臆面もなく「女神」を自称する逸枝に何を感じたでしょうか。その一方で、逸枝は、自身に「魔物」や「毒婦」の言辞を浴びせた憲三の表現に何を読み取ったでしょうか。どちらかといえば、こころの底にわだかまりとして残ったのは、逸枝に対する憲三の不信ないしは不満だったようです。『恋するものゝ道』に集録されている、この時期の逸枝から憲三に宛てて出された書簡類が、そのことを例証します。擱筆日や投函日は記載されていません。『恋するものゝ道』の「第五 長恨記」に所収されている第二信に、こうした記述を読むことができます。
妾はたしかに言葉と、文字と、それから發謄する湯氣のやうなセンチメンタルな感情に氣をとられて了ふ傾向を有つてゐるやうに思ひます。氣をとられると云ふよりも、全くその場合、それ自身にすつかりなり切つて了ふ。屹度これは不安定な、不健康な感情かも知れません。妾はたしかに感情の陶治を怠つて來たと思ひます。それに妾は考へると、多分にニヒリズムをもつてゐるらしく思はれます62。
この一節は、逸枝自身による自己分析です。「センチメンタルな感情に氣をとられて了ふ傾向」は、逸枝の本質部分かもしれませんが、「多分にニヒリズムをもつてゐる」とは、憲三の性格にあわせようとしている迎合的表現にも感じ取れます。この第二信には、こうした文も見受けられます。
驚くべき無方針、驚くべき無思想の一刹那、一瞬間にのみ、妾は全没した。行きつまる處は死より外にない。どうせ死ぬ、これから發した一切の虚無、衝動であつたらしいと考へるとき、妾は今、今、悚然たる戦慄を感じないわけには參りません63。
文面は、「悚然たる戦慄」の真っただなかに、いま逸枝の身があることを例証します。そこから判断しますと、この第二信が書かれたのは、「愛の黎明」の最終回が『九州新聞』に掲載された一九一九(大正八)年一月二六日からあまり時間を置かないころのことではないかと考えられます。さらに、この第二信は、こう続きます。
妾はなまじいに手紙を上げたり、お話を交へたりした、いろいろな人人に對して、實に重い負債を感じます。第一、無鐵砲な、無方針な行は、あらゆる方面と、場所と、思ひ出とに今もうづき止めぬ痕跡を印して居ます64。
これを読むと、憲三以外の三人の男性との関係が、いまや逸枝にとって「重い負債」となっていることがわかります。また、この第二信のなかには、次のような自虐的な文言も認められます。「妾はたしかに氣狂ひかも知れません。いえ、白痴・低能兒・そうです、妾は低能兒のやうに思はれます」65。「愛の黎明」では自身を「女神」と呼び、この手紙のなかでは自分を「氣狂ひ」「白痴」「低能兒」とみなす逸枝の、この落差を憲三は、どう受け止めたでしょうか。憲三からの返信は残されていないようですので、想像するしかありません。
次は、第三信からの引用です。
四面楚歌――。 妾は内的にも、外的にも、全く孤獨となり了りました。父母の家をすら辭さなくてはならぬと心ひそかに決心して居ります66。
「四面楚歌」とは、おそらく内的には、「穀潰し」という無言の圧力の存在を指しているのでしょう。そして外的には、すべての男性との関係を断ったことを意味するのでしょう。逸枝にとって残されている道は、憲三と結婚して嫁に行くか、女工などの職を求めて家を離れるか、出家して尼になるか、さもなければ、子守りか飯炊き女として奉公に出るかしかないのです。この第三信は、さらにこうした言葉で結ばれています。「かりに妾が、今あなたを戀します、と申しましたら、それはあなたにとつて不幸な言葉だと存じます。また間違つたことです。お手紙下さいまし」67。
おそらくこのとき、憲三は、返事をしなかったか、あるいは、実に素っ気ない返信だったにちがいありません。第四信は、実に次のような記述ではじまります。「若き寡婦になりました。妾は最早完全に孤獨です。……此のまま、この體で、妾は必ず生涯を、と思つて居ます。それは、妾に與へられた唯一の自由です。例へ四面楚歌であるにしても、強い誘惑、烈しい迫害、覺悟の前です」68。そして第六信には、「三月一二日頃出立いたします」69の文字が、続く第七信には、「さて、旅に出ると云ふ日が近づきました。無論確然とは解りませんが、ここ二十日のあとか二十五日のあとかでせう。それについてあなたにお會ひすると云ふこと、それを妾は樣々に考へました」70の文字が並びます。逸枝はこのとき、どこへ旅をしようとしているのでしょうか。四国への旅から帰ったばかりというのに、今度は、憲三のもとに押しかけることを考えているのかもしれません。
加えてこの第七信には、殺気立った言葉も挿入されています。「あなたに對して、妾はあなたを殺し果たしたいまでに愛して居りました。あまりに烈しく――そしてあなたが到底妾のものでないと知ることが深くなるに及んで、妾は夕暮れのやうな寂しさを感じ始めました」71。このなかの、「妾はあなたを殺し果たしたいまでに愛して居りました」の文言は、憲三が「山を越えて(五)」のなかで使った「青年の手にギラリと短刀が光つたと[たん]、女は仰向けに倒れた。眞赤な血潮が踊りを踊つて流れる」の語句にあえて重ね合わせ、自分への愛をいま一度覚醒させようとしているようにも読むことができます。それでも、憲三の逸枝に対する態度は、かたくななまでに冷徹だったようです。自分に向けられるあまりにも情熱的で空想的な、憲三にいわせれば「うわごと」もどきの逸枝の言説に、もはや憲三はついてゆけず、それどころか、無情にもそれが、重荷になっていたのかもしれません。
次も第七信からの引用です。「要するに妾は理性の上から見て、あなたと戀をしないでゐることを最もいいことだと思つてゐます。が、感情はさうではありません。……例へおたよりは絶えてゐても、妾はあなたを深く信じ且尊敬いたします」72。憲三からの返信は一向に届きません。残るのは、理性を越えた、押さえ切れなく噴き上がってくる熱情のみです。そしてこの手紙は、こう続きます。「あなたは『愛してゐる』といふあなたの眞心を一寸もみせて下さらない。それが妾には悲しい」73。
続く第八信が、憲三のもとに届きました。それには、「家を出ることは駄目になりました。兩親に知れました。夢中になつて旅に出たいと企てましたけれど、あとからあとから裏切られて了ひました」74。そこで逸枝は、羊飼いの仕事をすることを考えました。それについては、このような文言で表現されています。「妾は山の中にバラツク風な小屋を建てて、牧羊をしようかと思ひます。美しい處です。場所も選定しました。……まるで閑静な別世界です」75。かといって、憲三への思いを捨て去ることはできません。次の語句が、この第八信の終わりの言葉です。「あなた。此の上泣かせないでください。妾は眞心深くあなたの御幸福をお祈りいたして居ります。妾は人に愛される資格・價値をもつた女なので御座いませうか。妾はこのごろ特につくづく思ひます。妾は愚劣だ。妾は恐らく愛されなかつた、愛される價値は妾にはなかつた・・・・。唯、妾の誠實を疑はないで下さいまし」76。
この全八信で構成される「第五 長恨記」を読むと、もはやこのとき、憲三は、逸枝のこころから遠く離れた存在になっていたことがわかります。ひとつの原因は、ほぼ間違いなく、逸枝が「愛の黎明」のなかで書いた複数人の男性との恋愛関係にあったものと思われます。ところが、急転直下、ふたりが交わす手紙のなかで、結婚のことが話題に上るようになるのです。何がそうさせたのか、詳細は不明です。したがいまして、想像に頼るしかありません。憲三の偏屈なわだかまりが逸枝の熱愛によって幾分氷解し、代わってそこから、逸枝の置かれている「四面楚歌」的な状況へのなにがしかの同情心のようなものが、そのとき生まれ出てきたのかもしれません。あるいはまた、「あなたが恋しい」とか「あなたにお会いしたい」とかいう言葉を織り込みながら連日のように手紙をよこす女をむげに拒絶するわけにもゆかず、それであれば「まあ行けるところまで行きましょう」といった気持ちがいまだ潜在的に持続していたのかもしれません。
風が吹けば飛ばされてしまいそうな、弱々しいきずなであったにちがいないと想像されるものの、それでも、双方の思いの一致がようやくここへ来て出現したのでした。時期は、「愛の黎明」の連載終了からおよそ二箇月が立った三月下旬のことではないかと推量されます。
この段階で、本文が逸枝の書簡類で構成されている『恋するものゝ道』は、「第五 長恨記」から次の「六.エンゲージ」へと移ります。この節は、全一三信で構成されています。以下は、第一信からの引用です。
妾には人の妻としての資格はまるで缺けてゐるやうです。唯、妾は決して不愉快な顔とか腹を立てるとかはありません。……妾はまるで、ほんのむすめです。妾はそれを妾の父母から氣に食わないと云つていつも叱られます。……ですからどう考へても妾には結婚の資格はないのです。妾はもつと妾の理想的な空想的な生活をいたしてゐたいのです。いまの普通のそれには耐へられないのです。それを自由、と妾は申します77。
この一節から読み取れることは、ひとつには、「野生の子」としての逸枝の存在が両親から理解をしてもらえず、家庭内での居場所を失くしていること、いまひとつには、男が外で働き、女が家で家事と育児を担う、当時一般的にみられた家庭のあり方に苦痛を覚えていること、そしてそのすべてに取って代わる「理想的な空想的な生活」を希求していること、この三点です。これが、「人の妻としての資格はまるで缺けてゐる」という自覚を生んでいるのでしょう。しかし、妻が備えるべき強制された「資格」は欠如していたかもしれませんが、制度や義務や常識といった人間を縛る余分な力から遠く離れた所にある「自由」の存在には気づいていました。束縛から解放された「自由」な生き方という点においては、この時期、強く憲三も共有していたものと考えられます。以下は、のちに書いている、逸枝の認識です。
あらゆる負担をきらうKの性格は、私には婚約前からよくわかっていた。だから、彼の負担にならない自分であることをじゅうぶん自分にいいきかせていたし、Kにも最初このことを飲み込ませていたと思う。つまり共かせぎの夫婦生活か、また別居婚でもよかったのだった78。
第一信は、次のような文言で閉じられています。
妾はどうしても妾の空想的な生活をしたい。妾はそのとき、あなたとならば小鳥のようにあどけなく、夢見るようにうつとりとして、美そのものであり、詩そのものであることを信じます。子供を考へることは恐ろしい。妾は母としての資質はない。第一子供といふものを初めにどうすればいいのか心配です79。
このとき逸枝には、子どもを生み育てることへの思いが不在だったようです。加えて、裁縫や調理も逸枝の手に負えるところではなく、すでに引用で示していますように、「教員検定試験などもうけてみるが技術の教科に阻まれて失敗する」原因とも、なっていたのです。
妻としてだけではなく、「母としての資質はない」ことを打ち明けられた憲三は、これに対してどのような内容の返事を書いたのでしょうか。それはわかりません。おそらく、それに強く反発するような文面ではなかったものと想像されます。といいますのも、このとき憲三にあっても、「子ども」についての現実感はほとんどなく、負担になる厄介者としての漠然たる認識が宿っていたのではないかと憶測するからです。
そうしたなか、いよいよ第二信において逸枝は、大胆にも核心部分に突入するのでした。
ね、結婚いたしませう。初めに約婚だけでもいい。……お遊びにいらつしやい、妾のところへ。ね、母は優しう御座いますのよ。…… あなたから父に手紙を下すつたらいかがです。すぐに、率直に結婚を申し込んで。面倒を排して。それからお遊びにいらしたらどう? 父がかたくなでいけませんけど一時も早くとそのことを思ひます。妾は待つてゐます。あなたがいらつしやいますとき、妾はお迎へに參りたいと、それをもう考へてゐます。妾は父や母の前であなたにお會ひいたしたら、それこそくちもきけない程だと存じます80。
突然の結婚の申し出に、憲三は面食らったにちがいありません。しかし、この単刀直入な意思表示が、憲三のこころを動かしたことも、また事実でした。逸枝はどうしても憲三に会いたい。しかし、まだ婚約をしていない憲三を自宅に招き入れることはできないし、村人たちの目が気にかかり、戸外での逢瀬もままならないのです。そこで逸枝は、このとき道すがら母に引き合わせることを企てます。第五信に、そのことはこう描かれています。
父が變だから妾母を連れて參りますわ。そして母と歩きながらお話しなさいまし。ね。ね。それから歸つてから父に手紙をお書きになつたらどう、父と妾にも。兎に角、妾お待ちいたして居りますのよ。二十九日と三十日との兩日のうち、なるだけ二十九日に。お天氣が悪かつたら三十日に。松橋で汽車を降りて堅志田行の馬車で三里。それから瀬戸山越え、とお尋ねなさいまし。屹度門に出ていますから、妾を思つてみんなお許しくださいまし81。
しかし、この企ては頓挫しました。母親は逸枝に同情するものの、父親の許しが出そうにないのです。かといって、父親の目を盗んで決行することもできません。そのことは、第六信に書かれています。「二十九日のことね、どうしても駄目なようです。妾は泪を呑んで断念いたしませう」82。それでも逸枝は憲三に会いたくて、次の案を示します。村の宿に泊まることにして、「二十九日には唯妾を見ていらつしやいまし。そして三十日の朝非常に早くですよ。妾そつと起きて屹度待つて居ますからね。さうね、暗い中にいらつしやらないと駄目なの。ね。ね。かなしくなりました。ああ會ひたい、許して、ね」83。
このときの逢瀬の場面が、憲三の書く「山の郁子と公作」では、このように描写されています。
彼は早朝又乗車して直ぐ或る小驛に下車すると、三里許り馬車に揺られ、それから絶えず嶮しい坂や絶壁や寂しい部落や谷川を通つて來た。 彼女の家には二月十一日の日の丸の旗がへんへんと風に飜つてゐた。彼はささやかな土橋を渡つて村のお嫁さんらしい人に、彼女に名刺を渡して呉れるやうに頼んで、其處門前を通り過ぎたが、何故ともなく一種憂鬱な感じを覺えた。 彼はがらんとしたお宮に這入つて暫く彼女を待つてゐる中に退屈して來た。…… 彼は歸途についた84。
「山の郁子と公作」は、あくまでも小説ですから、幾分脚色されている可能性もあるのではないかと思われます。とくに「二月十一日」というのは、「三月三十日」ではなかったかと思われますし、また、逸枝の家の前を通り過ぎたのが、逸枝が求めた「朝非常に早く」「暗い中に」でなかったことも気になります。しかし、後年憲三は、「事実です。お嫁さんらしい人も、払川神社で待っていたことも」85と、答えています。この小説にあっては、場面はさらに、次へと移ります。「……三人づれの、一番前の赤い花をもつた女がちらと此方を見た、と思つたら何故か吃驚した樣子で、軽く腰を浮かせてぢつと彼を打ちまもつた。それは――郁子であつた。彼は歩き出した。ただ山角で一度彼等を振り返つた」86。こうしてふたりは、遠くから一目顔をあわせただけで、声をかけることはありませんでした。そして憲三は、そのまま球磨の家に帰って行きました。ふたりにとって、狭い村の人目のあるなかでの日中の逢瀬は、はばかられたのかもしれません。
すでに示していますように、ふたりがその前に熊本で会ったのは、一年と二箇月くらい前の一九一八(大正七)年一月の下旬のことでした。そのときは、一時間程度の逢瀬で、帰ると憲三は、「ばかにするな」という返事を書きました。しかし、今回は事情が違っていました。帰ると憲三は、逸枝の父親に宛てて手紙を書きました。「便箋一〇枚程度のものだったと思います。……私としてはせいいっぱい、私の境遇、意思、嘆願を書きました」87と、憲三は語っています。第七信によると、憲三からの手紙を受け取った父親の勝太郎は、逸枝を呼び、確かめました。
「お前はこの人とあつたことがあるか。」 この人、と父が云つたので、それに非常におだやかであつたので、妾はどんなにうれしかつたでせう。妾は一二度お目にかかりました、と申しました。 「さうか、よし兎に角御返事をしなければならん」88。
父が返事を書いてくれることに安堵したのでしょうか、続く第八信で、逸枝は憲三に、こうした胸の内を隠すことなく告白します。
實際のことを申しませうか。妾は尼僧になりたいと思ひました。熊本の観音坂に尼寺があるのです。初め四國へ行く前に一度訪ねたことが御座いますので、よく存じて居ります。そこで其處の尼僧の方に手紙を書きました。しかし投函しませんで、まだここにもつて居ります。あなたは決して御立腹なさいませんと信じます。ああ、どんなにおなつかしくお思ひいたしてゐますでせう。なぜお手紙を下さらない? 二十八日にお書きなすつたきりでは御座いません!89。
すでに述べていますように、逸枝は一二歳のころ尼僧になることを決意したことがあります。出家して尼僧になることは、逸枝の変わらぬこころに宿す願望だったようです。しかし、この時期に出家すれば、憲三との結婚はどうなるのでしょうか。逸枝は熊本で尼僧になり、憲三はこれまでどおり球磨で教師を続けるとすれば、別居婚ということになります。逸枝は、そうした結婚形態を夢見ていたのでしょうか。それとも、「なぜお手紙を下さらない? 二十八日にお書きなすつたきりでは御座いません」という文言が、そのあとに続きますので、この手紙を受け取った憲三は、このときの、尼僧になるという逸枝の告白は、自分の気を引くための一種の「うわごと」として受け取ったかもしれません。しかしその一方で、尼僧になって駆け込んだ寺が「隠れ家」となって、愛を求める男たちに「常に温い食べ物と美しい灯りとを用意する事に忠實で」あろうとすることを意味するのであれば、憲三の気持ちは、決して穏やかではなかったにちがいありません。
勝太郎は憲三に返事を書きました。しかし、その返信は、憲三を傷つけるような内容だったようです。第九信は、こうした逸枝の動転した記述ではじまります。「非常にあわてて書きます。父があなたに非常に失禮なことを書きはしませんでしたか。今お酒に酔つてさう申してゐます。ああ・・・・。妾は父を非常に、非常に。憤らないで下さいよ。憤らないで下さいよ。決して憤らないで下さいよ。母は非常に心配しています。母は非常に父をうらんでゐます。妾は決心しました。妾は決心しました。妾は極度の憎しみを以て父に對します。ああ・・・・」90。そして、この第九信には、こうも書かれています。
妾は絶對にあなたのものですよ。あなたのものですよ。あなたのものですよ。ね、ね、あなたのものですよ。一切を投げすててあなたのものですよ。…… 妾をどうぞ叱つて下さい。叱つて下さい。ああ、あなたに叱られたい。叱られたい。 いよいよあなたにはお手紙通り「さよなら」と仰有るでせう。 承知しました。さよならと云つてください。しかし、さよならとほんとうに仰有るのですか91。
しかし、勝太郎の返信内容は、決して憲三を傷つけるようなものではなかったようです。次の第十信に、それを読むことができます。「母が非常に心配して、父に昨夜のことをたしかめました。實際あんな手紙を、失禮なものを――。すると父は意外な顔をして、そんなこと云ふものか、と申しました。ああ、妾はほんとうに何と云ふ愚かな女でせう。非常にはづかしく思ひます」92。
勝太郎からの返信が届くと、憲三は自身の父親に、逸枝と結婚したいとする意向を語り、高群家を訪ねてほしい旨を懇請し、道順を示したものと思われます。こうして、憲三の父親の高群家訪問の段取りが決まりました。その喜びを表わす手紙が、第十一信ではないかと思われます。「妾はいまほつそりしたからだをして、羽織を脱いで、帯をしめてゐます。戸外にはちらとだけ出るばかりです」93で書き出し、このあとに四首を並べて、この手紙は終わります。以下は、そのうちの最初の一首です。最後の「月漸く昇れり」の一語に、逸枝の歓喜の感情が現われています。
吹く風と野べとのみなる一角に飴色の月漸く昇れり
すでに紹介していますように、はじめて八代で憲三に会い、翌日、再び憲三を訪ねて一勝地駅で再会した逸枝は、そのあと払川に帰ると「永遠の誓い」を書き憲三に送るものの、その返事は、「まあ行けるところまで行きましょう」という冷淡なものでした。そのときの気持ちを、逸枝はこう書いています。
ここにみられるのはロマンチックなしらたま乙女と、サーニンかぶれの若者との、ユーモラスな正面衝突だった。むろん後者は自分の返事に得意らしかったが、みじめなのは前者だった。私は打ちのめされて雨のような涙をおとして、自分の小部屋の壁にはっていた「泰西名画・月漸く昇れり」と題された写真版の画に救いをもとめてみつめていたことが思い出される。その後、この名画は、幼児の観音さまとならんで、絶対者のように、私の頭の中にやどることになった94。
八代の宿でのはじめての逢瀬からおよそ一年八箇月、苦難を越えて「月漸く昇れり」、逸枝の望みが成就したのでした。一九一九(大正八)年四月一二日の『九州新聞』六面に、先の一首を含む一〇首が「月漸く昇れり」の主題のもとに掲載されます。この「月漸く昇れり」の名辞は、逸枝の詩題の中心となって、その後の詩作へと引き継がれてゆくのでした。
それから二日後、いよいよその日が来ました。逸枝は、こう記します。
大正八年四月十四日の父の日記には「球磨の橋本なるもの逸枝を貰いとして来家したるをもって、盃を与え帰したり」とある。これは憲三と私との婚約がととのったことを意味するもので、この日私ははじめて球磨の義父辰次にあった。義父は長髯をたれた偉丈夫であったが、優しい人だった95。
詳細はよくわかりません。簡略なものであったかもしれませんが、辰次の高群家への訪問は、世俗にいうところの「結納の儀」を意味していたにちがいありません。「結納」から一二日が過ぎた四月二六日に、憲三が高群家を訪ねてきました。逸枝は、こう書きます。
彼はこのとき世間的には、私とおなじ不運な境遇の子で、その悪魔主義思想のために不良青年とさえまちがわれていた人物だった。彼はその二十六日に婿入した。私の両親は彼を迎えてよろこび、ことに母は彼を自分の胸に抱いて、「この妙な娘の一生をたのむ」といった96。
家庭内の宴会がすむと、「いうまでもなく夜は私ひとり別室に寝かされました」97。そして、一夜が明けた翌朝の、ふたりの晴れがましい情景を、小説「山の郁子と公作」は、次のように描き出します。
公作と郁子は、翌日朝餐を終ると、散歩に出掛けた。…… 「あなた一寸ペンを貸して頂戴。」 男は沈思してゐた。 「貸して頂戴。」 彼らの前にはなだらかな裾野があつた。陽炎がゆらゆらと謄つてゐた。ふりそそぐ日光を一杯うけて、谷の川面が夏の夢のやうに光つてゐた。林にそよ風がたつて不意に掃きたてられた小鳥が、ちちちちと鳴いて、ゆるやかな曲線を描きながら谿を越えて行つた。二人は森蔭の小石に腰をかけてゐた。 「此の心何にたとへむ一青のみ空曇らず君と約婚す」 「約婚す一千九百十九、春、みどり輝く大天地に。」 二人はかう書いて清く握手した。 午後三時、彼は戀人の家を辭した98。
前者が二五歳の逸枝の、後者が二二歳の憲三の歌です。こうして、婚約を意味するふたりだけの「約婚」がここに成立しました。しかしその後、三々九度(婚姻の儀式)や祝言(結婚の披露宴)が続くことはありませんでした。このような異例で簡素な旅立ちは、必ずしも裕福ではない両家の経済状況によるものであったかもしれませんし、あるいは、ふたりの強い意向によるものであった可能性もあります。
約婚のあと、逸枝は憲三に手紙を書きました。以下は、第十二信に書かれている内容の抜粋です。
かんにんして下さい。もう尼さんにはなりません。ああはづかしいことばかり、妾どうしてこんなでせう。自分で愛憎がつきて了ふ。ほんとうにどうしてこんなでせう。どうぞお許し下さいまし。…… 妾をどうぞだいて下さいまし。そしていぢめないで下さいまし。妾はすつかり弱くなりました。呆然としています。妾達はたぶん二三年後、御いつしよになれるでせう。それまで妾も勉強します。どうぞ妾も達者でゐますから、あなたもお達者でお暮らし下さいまし。忘れないやうに、忘れないやうに、あなたの妻を。あなたの妻を99。
約婚をしたばかりというのに、この手紙は、ふたりが別れゆくかのような内容です。ふたりのあいだに何があったのでしょうか。それとも、逸枝と両親のあいだに、何か大きな問題が生じたのでしょうか、あるいは、家を出ることは、逸枝にとって既定の路線だったのでしょうか。次は、第十三信からの引用です。
妾があなたをお思ひいたしてゐますやうに、あなたも妾を思つてゐて下さいますか。…… 若い、氣高い、血氣が、妾をおそひます。ああ、妾どもの高潮した青春よ。妾はそれを決して萎らせないでありませう。……妾を愛して下さい。愛して下さい。愛して下さい。強く強く愛して下さい。 妾はあなたに抱かれて死にませう。…… 妾はしばらく讀書しよう。燃ゆる思ひを唄にしよう。……すべてをすててあなたと二人で暮らしませう。妾は女神のやうに崇高です。また、小羊のやうに従順です100。
これは、逸枝から憲三へ宛てた惜別の最後の一文のようにも読めます。その一方で、この時期逸枝は、「燃ゆる思ひを唄にしよう」と書いているように、詩作に精を出していました。たとえば、一九一九(大正八)年四月一二日の『九州日日新聞』(七面)には、「春宵譜」と題した逸枝の作品が掲載されています。以下はその九首のうちのふたつです。
月の色 うらうら深く 野べ山べ 昏むばかりの 夕べなるかも 春の夜の 哀しみあまる 胸のうち かよはきものを 泣きて唄はむ
逸枝は、「妾はしばらく讀書しよう」と憲三に伝えています。この時期逸枝は、『大阪朝日新聞』にも目を向けていました。すると、六月九日夕刊四面の『大阪朝日新聞』に掲載された柳澤健の「婦人を待てる文壇」が、逸枝を釘付けにしました。そこに、逸枝を鼓舞するに十分な、このような文が踊っていたのです。
婦人と文藝の關係に就いては、幾度となく説かれもし論ぜられもした。…… 輓近に於ける吾文壇は、その作家の數の夥しき點に於て決して他國の文壇に負けてゐないと言ふことが可きる。従つて私が閨秀作家の出現を特に強く望んでゐるのは、現在の作家を以て數量尚不足なりとする理由からで無いことは勿論のことである。私が望んでゐるのは……質の上の増加に他ならぬのである。換言するならば、男性の作家が質的に有してゐない所の色彩と調子とを女性の作家によつて此を見んとするの願望に他ならぬのである。
逸枝は、「婦人を待てる文壇」に吸い寄せられるように、自作の詩歌を柳澤に送りました。その後柳澤は、『現代の詩及詩人』を公刊し、そのなかで、そのときの様子を、次のように書きます。
新聞に書いた『婦人を待てる文壇』といふ自分の一文に對して見ず知らずの一婦人が態々書を九州から寄こして、紙上に書いたやうな自分の期待熱望に添ひ得る優れた作家に是非なりたいといふやうな意味のほどを熱い強い言葉をもつて書き現はして來た101。
以下は、逸枝が柳澤に送った詩の一部です。
青き丘の 何なればかくは咡く 悲しめと 耳をすませば草にみだるる風 ああ 甘き衰弱身にきたる くろ髪を 首にまき首にまき こころあふられ落日す わが高き才に心あらしめよ 微風や 地平線はいと低く102
逸枝は、こういいます。「短歌のような三行詩――じつはこれが私には初めての作品だった――」103。そして「ここから私は詩をつくることをおぼえた」104。
さらに逸枝は、柳澤健の批評に魅了されていったものと思われます。柳澤は、七月一〇日の『大阪朝日新聞』(夕刊一面)に掲載された「文藝月評 六」の「詩(上)」に、こう書きました。
[與謝野]晶子氏の『牡丹の歌』は徒らに文字の彫琢に止つてゐる、茅野雅子、山田邦子兩氏の『障碍』『低吟』は小唄以外の何ものでもなく、北原章子氏の『蒼白い月』は夫君白秋氏の蔭影に止まつてゐて、特別にこゝで論ずべき興味もない[。]
また柳澤は、翌日(七月一一日)の夕刊一面の「文藝月評 七」の「詩(下)」において、こう論じます。
『詩王』の同人の制作のなかでは北村初雄氏の『聖母受胎』が一番私の興味を引いた、……その確な技倆は數多い新人詩人のなかに於て容易に見るを得ない所であらう。私は當來の詩壇に於て最も氏に囑望する。
ここに至って、ついに逸枝は、家出を決行します。
大正八年七月二十六日、私は妹栞をつれて家を出た。母の了解のもとに。このとき私の立場は、緬羊の計画もおじゃんとなり、いわば家では𧏚つぶしの状態なので、われとわが心に追われて、よそ目には無茶とも思われるような行動に出るはめになったのだった。しかし、こんなのが無産者の家族(当時の)の常態なのだ。さしあたりの目標は大阪へんの紡績会社で労働しようというのだった。妹を道づれにすることはためらわれたが、彼女が希望するのを捨ててはいけなかった。母も頼んだ105。
出家して尼になることは諦めたものの、それでも家を出る決意には変わりはなく、約婚からちょうど三箇月後のこのとき、こうして実行に移されたのでした。
道連れの栞は、一九〇二(明治三五)年一一月の生まれですので、このときまだ一六歳でした。逸枝は、このころの栞について、こう描写しています。「妹の栞は私の佐保校時代にしばらくいっしょに今村部落に宿をかり、そこから堅志田の高小に通っていたが、まもなく骨膜炎を患って払川の家に帰り、それなりに静養をつづけていたのだった。学校は一番で通し、きりょうもよく、性質も素直な子で、私はこの妹に心から同情していた。彼女は勉強家でもあり、仕事にも忠実で、このころ病気のほうもほとんど癒っていた」106。
なぜ向かう先が、大阪なのでしょうか。『大阪朝日新聞』の学芸欄を担当する柳澤を頼ろうとしたのでしょうか。それにしても、働く場所も決まっておらず、そしておそらく所持金もわずかであっただろうと思われる、そうしたなかでの、姉妹ふたりによる大阪行きは、たとえこれまでに、熊本で女工勤めの経験をし、四国では無銭旅行の体験があったとはいえ、やはり、「よそ目には無茶とも思われる」、逸枝特有の「奇行」だったように感じられます。しかし、この「奇行」も、それに続くさらなる「奇行」によって挫折します。逸枝は、こう書きます。
妹を熊本の旅館において、九州相良の城下ちかくの城内校につとめているKのところに、しばらくの別れを告げにいったのが不覚で、私はくぎづけにされてしまい、妹は家にひきもどされた107。
憲三は、前年の一九一八(大正七)年三月に、尾崎尋常小学校から城内尋常小学校へ移動していました。そこへ逸枝が現われたのです。人吉駅での再会でした。憲三の語るところによると、そのときの逸枝の服装は、「銘仙の矢絣に黒っぽい紫色の木綿(たぶん)の袴に黒い靴、髪はお下げにして、つば広の麦わら帽子でした」108。この夜ふたりは、城内校の宿直室で結ばれます。柴田道子は、こう書いています。
甘く激しい初めての夜があけ、Kがみちたりた気持で目ざめると腕の中に逸枝はいない。はっとして飛び起きると彼女は枕元に放心したように座っている。昨夜かしたKのゆかたをきちんとたたんで膝の上においている。…… 「どうしたのですか。」 Kは逸枝の肩を強くひきよせ、ゆすぶった。彼女は泣かんばかりにうろたえて、答えにならない。機敏なKは、事情をすぐのみこめた。Kのかしたゆかたを昨夜の抱擁で汚したのであった109。
憲三は逸枝を、人吉駅から汽車に乗り、八代駅まで見送ることにしました。柴田の文は、さらにこう続きます。
Kは逸枝のことを、何をしでかすかわからないと考えながらも、この人の出発を引き止める力は自分にないことを知っていた。Kが彼女にわかれを告げて、八代駅で下車すると、後から彼女も何もいわずにとことことついておりてくるのだった。…… Kは逸枝をとどめることもできず、二人がかつて最初の出会いをした思い出の地八代に、その夜は一泊し、とうとう翌日も逸枝はKと別れがたく共に城内校に帰ってくる110。
姉の逸枝がそのまま憲三と城内校で生活をはじめるならば、残された妹の栞は、どうなるのでしょうか。柴田の文には、「熊本の旭館に一人残してきた妹の栞は、払川の父に手紙を出して引きとらせる。父は使いを出して栞をむかへにやった」111とあります。栞はこのとき、姉を責める言葉さえ見出せず、両親にあわせる顔もなく、茫然自失の状態にあったものと思われます。他方、父親勝太郎の、ふたりの娘に向ける激怒の感情は、推測するに余りあるものがあります。いうなれば、逸枝の身勝手と無分別とによる、こうした家族の犠牲を踏み台にして、憲三と逸枝の新婚生活はその幕を開けるのでした。
正確な時期はわかりませんが、ふたりの新生活がはじまると、憲三は、自分の家族に逸枝を紹介するために、人吉駅からひとつ八代に寄った那良口駅の近くにある実家に連れてゆきました。父親の橋本辰次は、すでに「結納」のときに面識がありました。母親のミキ、加えて、もしそのとき兄弟姉妹全員がそろっていたとすれば、憲三の兄秀吉、姉藤野、それに弟の武雄と袈義、妹の静子とは、これが初対面でした。逸枝は、このときのことを、こう描いています。
義父は長髯をたれた偉丈夫で正義の人、寛容の人であり、義母は私の母と似た愛そのものの人だった。その他にあたたかい兄姉弟妹たちがいた。私はKにつれられてこの家をたずねると、すぐにとけこんでしまった。この点で一生を通じてひじょうに幸福だった112。
とりわけ「一生を通じてひじょうに幸福だった」のは、妹の静子の存在でした。逸枝は、静子を、こう描写します。
お母さんの叡智と美しい容姿は、妹(静子)がそっくりうけついでいるといってよいが、ちがうところは、妹には近代的知性がくわわっていることであろう。この妹は、私が嫁したときは九歳の少女であったが、成長とともに、私のふかい理解者になってくれた113。
しかし憲三は、両親から必ずしも信用されていなかったようです。「末人像」のなかで、こう語っています。
私と彼女とは云ふまでもなく兎に角双方の親達の保證と祝福の許にエンゲージしてゐた。しかし私が自分の兩親から一向信用せられて居らぬのと、彼女がその兩親から全く満足されて居らぬのとはたしかに明瞭な事實であつた。 私の父はすつかり自分には飯を食ふ魂がない、と決めてゐた。そして母は悲しげに自分は本と討死する氣でゐるのだ、と思ひ込んでゐた114。
「飯を食ふ魂がない、……本と討死する氣でゐる」と両親に思われていた憲三でしたが、それでもこのとき、近いうちに逸枝と出京することを、憲三は親に告げたものと思われます。さっそくなじみの『人吉時報』が、「橋本憲三氏の結婚」の見出し語をつけて、ふたりのことを記事にしました。
豫て本社の社友として雄健の筆を揮ひつゝある山江村橋本憲三氏は今回女流詩人として柳澤健氏等の推奨を受けつゝある才媛高群逸枝嬢と約婚したるが、近く手を携へて上京する由115。
続いて『人吉時報』は、「二人の唄」と題して憲三と逸枝の短歌を五首ずつ掲載します。次は、それぞれの最初の一首です。前者が憲三の歌で、後者が逸枝の作です。
君を得む 犠牲を多く払ひたる 我に頭をひとつ擲らしめ、 あい添ひて 余りに明き二人 夕陽の径を斑々と116、
さらに九月一四日には、『大阪朝日新聞』(五面)において、「泪にぬれて」と題された逸枝の短歌一〇首が掲載されました。以下は、その最初の一首です。
空の青、泪にぬれて獨り、夕陽映ゆ、丘にし仰げば
この一〇作品に対する謝金ではないかと思われますが、逸枝のもとに、金五円の為替が届きました。ちょうどそのときのことです。かつて逸枝の四国巡礼の際に同行していた伊東宮治老人が、豊後から払川を訪ね、その足で山を越え、逸枝に会うために城内校にやってきました。そこで逸枝は、「その金は私のはじめての『原稿料』で、私はそれを薩摩から宮崎にまわって大分に帰るおじいさんのわらじ銭に提供したのだった」117。
さて、この歌にありますように、逸枝はこの時期、「泪にぬれて」いたのでしょうか。逸枝にとっては毎日が衝撃の連続であったようです。逸枝は、このときの生活について、このように書いています。「Kのエゴイストぶりは私にもよくわかっていたし、それがまた私をひきつけるものでもあったが、それにしても城内校での彼の私への虐待ぶりは、ちょっと想像にあまるものがあった」118。それでは、その「虐待」とは、どのようなものだったのでしょうか。以下は、逸枝が書く、そのときの憲三の言説の一部です。
「おれが毎日通っている人吉の夏期講習会には、すばらしいべっぴんがいるので、おれはせいぜい頭にチックでも塗りたくっておめかしして行くんだ」119
「おれは肉感的な女がすきだ。この本に出ている『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫に扮したドイツ女優のようなものがすきだ。第一に森の姫そのものがすきだ。それにくらべるといわゆる貞淑な鐘匠の妻は恋愛の対象としては型がふるい」120
彼は理想的な妻の像を、「金持ちの若後家」に発見した、と私にいって聞かせた。彼女はたぶんあらゆる点で負担にならない存在でありうるだろうから、と121。
憲三にとって、外的要因がもたらす「負担」が、最も忌避すべきものだったようです。憲三の性格は、自分の内面への他者の侵入を拒み、安定した内的世界に身を置くことに喜びを感じる、そうした性格だったものと思われます。こうした姿勢は、逸枝の目にはエゴイズムと映りました。加えて、逸枝の目に映ったのは、憲三の悪魔主義でした。これは、虚構の物語への陶酔や夢想の世界への飛翔を嘲り笑うものでした。互いに理想を語り合い、絶対的愛を共有しようとする逸枝の心的側面と、憲三が持ち合わせるエゴイズムと悪魔主義とは、どうしても噛み合わず、ついつい憲三は逸枝に対して、暴言を吐くようになります。「彼は私のことをよく低能児といった。あらゆる暴言がそこからほとばしり出た」122。
憲三は、小説「山の郁子と公作」のなかで、最初に八代で逸枝に会ったときの感想を、このような、友人との会話文で表現しています。
彼等が最初に會つた時、彼女は蟲のやうな女であつたが、その翌日には「滅茶滅茶に會ひに參ります」と電報を打つて彼を驚かした。 「どんな女です?」彼の友人が笑ひながら訊いた。 「気狂ひです。」彼も笑ひながら應へた。 「美人ですか?」 「愛らしいが、一寸愛されぬ女です。」123
このとき逸枝は、妹を宿に残すや、唐突にも城内校の憲三のもとに飛び込んできました。逸枝の直情径行的な振る舞いに直面した憲三は、上記の会話内容とほぼ同じ感情を再び逸枝に抱いたのではないかと想像されます。
逸枝に浴びせる暴言は、さらに、暴力へと発展してゆきます。「Kの暴力は、私にとって生まれてはじめてといってよいほどのおどろきだった。しかしいちばん私にとって心配になったのは、これによってKをノイローゼにおとしこむことになりはしないかということだった。彼はこんな場合、みていられないほど、青ざめ、おそろしい目つきになり、手をぶるぶるふるわせるのだった」124。
逸枝は、「Kの暴力は、私にとって生まれてはじめてといってよいほどのおどろきだった」と書いていますが、すでに述べていますように、泥酔した父親が母親に振るう暴力を目にして逸枝は幼少期を過ごしていますので、決して「生まれてはじめてといってよいほどのおどろき」というわけではなかったものと思われます。違っていたのは、憲三の暴力には、その結果、「ノイローゼにおとしこむ」危険性が内在していたことでした。自分に向けられる暴力への恐怖、憲三が陥りかねない精神機能喪失への不安――かくして逸枝は、確実に居場所を失ったものと想像されます。それに加えて、さらに決定的な出来事が起こりました。少し長くなりますが、憲三と逸枝の行動のちぐはぐさをよく表わしている箇所ですので、逸枝の文からそのまま引用します。
はやくここを出て払川に帰らなければならないと思いながら、見えなくなった妹の手紙や私の写真などをさがしていると、書物箱の中から、私のKへの最初からの手紙の幾束かが、番号札をつけてころがり出た。よくみると、彼はこの生まの手紙をつかって小説を書こうとしているらしい。後に説明されたところによると、それはかなり長い作品になるはずだった。東京で本にしたときには手紙は分離された。 私は彼が自分の手紙は私に焼き捨てさせながら、私の手紙は当人に相談もなくかってに利用するのが理解できず、しかもこの手紙は創作に組みこまれるほどととのったものでなく、もちろん公表などすべき性質のものでなく、はずかしさと腹だちで、顔から火が出るおもいだったが、もし私が彼に文句をつけたら、彼のせっかくのでき上りつつある構想はぶちこわしになるだろう。Kの創作欲にも水をかけることになるだろう。そう考えて黙って見のがすことにした125。
この文に続けて、逸枝は、こう書きます。「Kのエゴは私の曲従と反比例して募った。それに私も、この一時期ほど、自分の持っている欠点をバクロしたことはなかった」126。この言葉は、憲三が自分の気持ちを前面に出せば出すほど、それに反比例して逸枝の思いは縮小し、いつしか逸枝は、意に反しそれを受け入れる側に立たされてしまうようになることを意味しているのでしょう。そしてそれを、「自分の持っている欠点」と理解しているのです。こうした自己の「曲従」の精神について、のちに逸枝は、このように分析していますので、紹介します。これも、少し長くなるかもしれませんが、逸枝の性格を知るうえでの重要な描写箇所ではないかと思われますので、引用します。こののちの出京後の話です。
私はその前年の大正九年の秋出京し、世田ヶ谷満中在家の軽部家に寄宿し、親切な宿の人たちや美しい自然にかこまれて勉強し、翌年の四月には処女作が発表され、六月には二つの本が出版されるといったような幸運にめぐまれていた。そこへ夫が球磨から出てきて、そのまま弥次へつれて行ってしまったのである。このとき出版元の新潮社の人が、「いまがいちばん人気の立っている大事な時だから都落ちなどはしないほうがよいが」とひきとめてくれたが、私はそれを夫にいえないほど、こういう場合には優柔不断で、ひとがよろこぶことなら、すぐに曹大家の「女誡」にいうように「曲従」する性格があった。自分は師範に入るのを好まなくても父母が希望すればそれに従い、せっかく自由をもとめて出た遍路でも老人が乞えば同行を承諾し、それらからくる制約には目をつぶり、むしろ新事態に順応することに生き甲斐を見つけだそうとするような生活のしかたを私はしてきた。その結果はかえって病気になったり、行きづまったりすることにもなるので、こうした私のやりかたはほめられるべきものではなかったが、自分がしてきたいつわらない事実なのだから、いまはありのままをいうほかなかろう127。
父親や伊東老人のときと同じように、逸枝は、自分の過去の私信を巡って城内校で体験した「はずかしさと腹だち」もまた、「黙って見のがすことにした」のでした。逸枝は、「曲従」と同義語として「優柔不断」という語も使います。さらにのちには、逸枝は、自分のこの性格を「奴隷根性」という言葉で言い表わすこともありましたし、一方の憲三は、こうした、相手によって態度を変える逸枝を見て、「カメレオン」と評すこともありました。
おそらくこの新婚生活にあって、逸枝は「曲従」の連続にあったにちがいありません。しかしその一方で、井戸の水を汲み、薪を割り、炊事をしたり、風呂を沸かしたり、掃除をしたりすることは、ほとんどできなかったものと思われます。そうした現実世界の仕事から目をそらせ、他方で、気の赴くままに夢世界に遊び、憲三の内面秩序を破壊する逸枝の独断的で自己中心的な行動に、常に憲三はいらだっていたものと推量されます。それに耐えて必死に抵抗するがごとくにして、憲三の暴言と暴力は生まれ出たものと考えられます。逸枝も、そのことに気づくと、それなりに得心がゆきました。こう逸枝は、書きます。
決心がついてみると、Kの毒舌や暴力も、私の欠点も、それらのすべてが、彼と私とのくいちがいからきたものばかりだったので、ただ私は知らないこととはいえ、Kのところに侵入し、さんざん彼を手こずらせ、ずうずうしくも大きな損害を彼に与えたことを心から詫びて、帰郷することにした128。
逸枝は、自身のよって立つ境地も、そして自尊心も、ずたずたに傷つけられてしまいました。他方憲三は、自分が住む純正な心的世界に土足で踏み込まれ、忍耐の限界に達しました。かくしてもはや、この新婚生活の継続は不可能となりました。
「さよなら。私をおゆるしください。私ののこしたものはみんな捨ててください。私は悲しいのです。恋しい人よ」129と書き残すと、逸枝は、「大正八年一一月のある日の朝まだき、城内校を出て、人吉駅から汽車に乗った」130のでした。「松橋駅でおりて、砥用街道を歩き、瀬戸山越えをして、払川の家に帰りついたときは、もう夜だった。父母と弟妹たちはあたたかく迎えてくれた」131。三箇月と数日ぶりの再会に、家族はみな「あたたかく迎えてくれた」かもしれません。しかし、母親の許可を得ていたとはいえ、妹を道連れに家出を決行したこと、そして何よりも、ひとり幼い妹を旅館に置き去りにしたまま、婚約者とはいえ憲三のもとに走ったことは、父を怒らせ、妹の恨みを買ったにちがいありません。さらに加えて、村人たちが浴びせる冷たい視線も笑い種も、ともに甘受しなければならなかったものと思われます。『九州新聞』に連載された「肥後が生んだ唯一の女流詩人【下】」に目を向けると、こうした記述に出合います。
永い放浪の旅から歸ると彼女は約婚の人と同棲することゝなつた、それは球磨郡の山奥で教鞭を執る橋本憲三と言ふ人である。彼女は殆んど郷家を脱け出すやうにして愛人の許に走つた、然し甘美な生活は暫く續いたかと思ふと彼女の胸には戀愛以外に匿し難い憂鬱が芽を擡げてきた、それに正式な結婚も濟まして居ないから一先づ故郷へ歸れとの切なる父母の慂めに従つて厭々ながら年禰村へ歸つてきた、村人は『それ見たことか家出娘が歸つてきた』と散々陰口を利いた、良いことをしても噂、悪いことをしても噂、――彼女は今にどうするかと心に決した」132。
妹と連れ立って家出をし、それを断念するや、一転して自身の新婚生活に入り、すると今度はそれをも放棄して再び家を出て、最終的には振り出しにもどって実家に帰るという、まさしく「家出中家出」を逸枝は演じたのち、ついに「今にどうするかと心に決した」のでした。――それは、詩人となって東京に出ることでした。いよいよこれが、幼い日から繰り返してきた家出の最後の家出となります。その経緯につきましては、次の「第三章 幻視――『日月の上に座す』天才詩人高群逸枝の出現」に譲りたいと思います。
(1)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、16頁。
(2)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、15-53頁。
(3)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、128頁。
(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(5)前掲『わが高群逸枝 上』、19-20頁。
(6)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、128-129頁。
(7)同『高群逸枝全集』第一〇巻、130頁。
(8)前掲『わが高群逸枝 上』、26頁。
(9)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、130頁。
(10)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(11)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(12)同『高群逸枝全集』第一〇巻、131頁。
(13)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(15)同『高群逸枝全集』第一〇巻、131-132頁。
(16)同『高群逸枝全集』第一〇巻、132頁。
(17)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、187-188頁。
(18)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、133頁。
(19)前掲『わが高群逸枝 上』、111頁。
(20)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、133頁。
(21)同『高群逸枝全集』第一〇巻、134頁。
(22)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(23)前掲『今昔の歌』、188-189頁。
(24)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、135頁。
(25)同『高群逸枝全集』第一〇巻、138頁。
(26)同『高群逸枝全集』第一〇巻、138-139頁。
(27)前掲『恋するものゝ道』、99-100頁。
(28)前掲『わが高群逸枝 上』、120頁。
(29)同『わが高群逸枝 上』、同頁。
(30)同『わが高群逸枝 上』、121頁。
(31)前掲『恋するものゝ道』、117-119頁。
(32)前掲『わが高群逸枝 上』、160頁。
(33)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、139頁。
(34)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、42-43頁。
(35)前掲『恋するものゝ道』、121頁。
(36)前掲『わが高群逸枝 上』、160頁。
(37)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、139頁。
(38)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(39)前掲『今昔の歌』、194頁。
(40)同『今昔の歌』、199頁。
(41)同『今昔の歌』、195-196頁。
(42)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、143頁。
(43)前掲『今昔の歌』、196-197頁。
(44)同『今昔の歌』、197頁。
(45)同『今昔の歌』、同頁。
(46)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、156頁。
(47)前掲『恋するものゝ道』、121-133頁。
(48)前掲『わが高群逸枝 上』、189頁。
(49)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、158頁。
(50)同『高群逸枝全集』第一〇巻、159頁。
(51)前掲『恋するものゝ道』、137-138頁。
(52)橋本憲三「末人像(七)」『九州新聞』、1920(大正9)年9月7日、4面。
(53)古河節夫「彼と民子の話(一)」『九州新聞』、1918(大正7)年10月26日、7面。
(54)古河節夫「彼と民子の話(二)」『九州新聞』、1918(大正7)年10月27日、7面。
(55)前掲『愛と孤独と』、40頁。
(56)古河節夫「彼と民子の話(三)」『九州新聞』、1918(大正7)年10月28日、7面。
(57)古河節夫「彼と民子の話(四)」『九州新聞』、1918(大正7)年10月29日、7面。
(58)前掲『愛と孤独と』、49頁。
(59)前掲『今昔の歌』、90-91頁。
(60)前掲『わが高群逸枝 上』、194頁。
(61)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、163-164頁。
(62)前掲『恋するものゝ道』、140頁。
(63)同『恋するものゝ道』、141頁。
(64)同『恋するものゝ道』、同頁。
(65)同『恋するものゝ道』、142頁。
(66)同『恋するものゝ道』、146頁。
(67)同『恋するものゝ道』、148-149頁。
(68)同『恋するものゝ道』、149頁。
(69)同『恋するものゝ道』、150頁。
(70)同『恋するものゝ道』、153頁。
(71)同『恋するものゝ道』、154頁。
(72)同『恋するものゝ道』、155頁。
(73)同『恋するものゝ道』、156頁。
(74)同『恋するものゝ道』、157頁。
(75)同『恋するものゝ道』、157-158頁。
(76)同『恋するものゝ道』、158頁。
(77)同『恋するものゝ道』、162頁。
(78)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、164頁。
(79)前掲『恋するものゝ道』、163頁。
(80)同『恋するものゝ道』、165-167頁。
(81)同『恋するものゝ道』、173頁。
(82)同『恋するものゝ道』、174頁。
(83)同『恋するものゝ道』、175頁。
(84)橋本憲三・高群逸枝『山の郁子と公作』金尾文淵堂、1922年、77-78頁。
(85)前掲『わが高群逸枝 上』、210頁。
(86)前掲『山の郁子と公作』、79-80頁。
(87)前掲『わが高群逸枝 上』、215頁。
(88)前掲『恋するものゝ道』、176頁。
(89)同『恋するものゝ道』、181頁。
(90)同『恋するものゝ道』、184頁。
(91)同『恋するものゝ道』、185-186頁。
(92)同『恋するものゝ道』、186頁。
(93)同『恋するものゝ道』、189頁。
(94)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、130頁。
(95)前掲『今昔の歌』、201頁。
(96)同『今昔の歌』、201頁。
(97)前掲『わが高群逸枝 上』、222頁。
(98)前掲『山の郁子と公作』、105-107頁。
(99)前掲『恋するものゝ道』、190-191頁。
(100)同『恋するものゝ道』、192-194頁。
(101)柳澤健『現代の詩及詩人』尚文堂、1920年、157頁。
(102)前掲『愛と孤独と』、44-45頁。
(103)同『愛と孤独と』、44頁。
(104)同『愛と孤独と』、47頁。
(105)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、161頁。
(106)同『高群逸枝全集』第一〇巻、160-161頁。
(107)同『高群逸枝全集』第一〇巻、162頁。
(108)前掲『わが高群逸枝 上』、282頁。
(109)柴田道子「逸枝さんへ2――編集室より――」『高群逸枝雑誌』第21号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年10月1日、27頁。
(110)同「逸枝さんへ2――編集室より――」『高群逸枝雑誌』第21号、同頁。
(111)同「逸枝さんへ2――編集室より――」『高群逸枝雑誌』第21号、28頁。
(112)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、162頁。
(113)前掲『愛と孤独と』、86-87頁。
(114)橋本憲三「末人像(五)」『九州新聞』、1920(大正9)年9月4日、4面。
(115)「橋本憲三氏の結婚」『人吉時報』、1919(大正8)年8月15日、3面。
(116)「二人の唄」『人吉時報』、1919(大正8)年8月25日、8面。
(117)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、166頁。
(118)同『高群逸枝全集』第一〇巻、163頁。
(119)同『高群逸枝全集』第一〇巻、165頁。
(120)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(121)同『高群逸枝全集』第一〇巻、169頁。
(122)同『高群逸枝全集』第一〇巻、165頁。
(123)前掲『山の郁子と公作』、23-24頁。
(124)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、169-170頁。
(125)同『高群逸枝全集』第一〇巻、168頁。
(126)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(127)前掲『今昔の歌』、217-218頁。
(128)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、170頁。
(129)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(130)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(131)同『高群逸枝全集』第一〇巻、171頁。
(132)「肥後が生んだ唯一の女流詩人【下】」『九州新聞』、1921年4月17日、5面。