「胎児は弥次でも、難渋をきわめた東上の車中でも元気よく動いて、私の不安と動揺とをなぐさめているようだった」1。東京に着いて、約一箇月が過ぎました。この間「軽部家では旧に変わらない待遇を受けた、出産についても手ぬかりなく気をくばってくれ、なみ夫人が医師や助産婦の来診から、産具、産衣類まで整えてくれた」2。しかし、「大正十一年四月十日、私は世田谷の軽部家で憲平ちゃんを死産した」3のでした。「医師によると、直接の死因は脳震盪で、それは助産婦の手落ちによるとされたらしかったが、助産婦は母体の衰弱を盾にとって抗弁したようだった」4。しかし、のちに憲三は、こう語っています。「医師がそう言ったのですよ。産婆の手落ちだと……。じつは僕が殺したようなものですよ。……産婆が押してくれというんです。手伝ってくれと。だから、僕は言われる通り、押したんです。……えー、わけもわからず。力一杯」5。
他方、自分の子の死産を知った逸枝は、どのような心的状況だったでしょうか。自分が生まれる以前に誕生していた三人の兄のことについて、母親から聞いていた、その記憶が蘇ってきたにちがいありません。最初の子は死産、次の子はひと月半で早逝、三番目の義人も一年あまりで亡くなっていたのでした。熊本市立図書館に所蔵されています手稿本の『十三才集』のなかに、次のような、逸枝の「兄上を思ふ」の一節を見ることができます。
妾に一人の兄上様 おはしましき なづかしき そのおん名は義人とのたまひぬ…… 妾には只の一人の御兄様だになし 妾は切に亡き兄上様を思ひまつりて さびしき 涙のみ 流れ出づるなり
逸枝は、その姿を知ることのない幻の兄の義人に思いを馳せ、「さびしき 涙のみ 流れ出づるなり」と書きました。そこから類推しますと、「憲平ちゃん」の生き顔を見ることができなかった逸枝は、そのとき、とめどなく流れる涙とともに、崩れ落ちたにちがいありません。その後、憲三と逸枝の夫婦には、子宝に恵まれることはありませんでした。意図的なものだったのか、それとも、あるがままの自然の結果だったのかは、資料的には不明です。
あたかもその悲しみを乗り越えるかのように、この年(一九二二年)は、多産の年となりました。弥次時代に発表した『美想曲』に続いて、六月五日には『妾薄命』が、金尾文淵堂から上梓されます。冒頭、「手簡――序に代へて」を柳澤健が書いています。内容は、自著『現代の詩及詩人』のなかの「高群逸枝子」の再掲に続けて、「一年半の旗を終わつて日本に戻つてきた私はあなたが既に中央詩壇に名を成してゐるのを見ることが能きました」6ではじまる、フランスからの帰朝後に知る新たな逸枝についての一節が加えられたものとなっています。この『妾薄命』は、「白白白」「妾薄命」「連作篇」「幼日歌抄」の四編から構成されており、「白白白」には「甘い生命」が、「妾薄命」には「白骨の歌」が、「連作篇」には「古里の與ふる歌」「古い扉」「辭郷の唄」が含まれます。逸枝自身はこの本をこう評します。「定型歌と破調歌とをごっちゃにして組んでいるため……定型の初作から破調へ到達した作品の必然的な過程を隠してしまっていることが致命的な欠陥となっていて私としては残念である」7。『妾薄命』には、めずらしく憲三を詠った作品が所収されていますので、以下に引用します。
憲三が妻の逸枝は芹摘みに 憲三は窓に 窓には梅の花8
この歌は、極めて示唆に富みます。といいますのも、「逸枝が芹を摘み、憲三が窓辺にいてそれを待つ」情景を、「逸枝が原稿を書き、台所にいながら憲三がそれを待って編集する」情景へと置き換えるならば、どうでしょうか。逸枝と憲三とのあいだの、前代にはほとんど見ることのなかった革新的な夫婦の役割分担の形式がほのかに見えてくるからです。
さらに出版が続きます。七月一五日、橋本憲三と高群逸枝の共著になる『山の郁子と公作』が、『妾薄命』と同一の版元である金尾文淵堂から公刊されます。九月に入ると、一二日から『九州新聞』において、逸枝の「女詩人汝に語らん」の連載がはじまります。これは、およそ三年前に『九州日日新聞』に連載した「婦人時言」に続く、郷土紙におけるおそらく二番目の評論文になります。四面に「女詩人汝に語らん(十一)」を掲載した九月二三日の『九州新聞』は、次の五面において、憲三が逸枝の肩に手を置く、仲睦まじいふたりの写真を入れて、「本紙が生んだ女流詩人と青年作家/『山の郁子と公作』/橋本憲三君と高群逸枝女史が山に在つた日の記念出版/引續いて長篇執筆」という長い表題のもと、憲三論を展開しました。以下は、そこからの抜粋です。少し長くなりますが、この時期の憲三の存在を知るうえで貴重かと思われますので、引用します。
もう四[、]五年も前のこと……本紙に『太陽へ』の一篇を寄せ、文藝に興味を有する多數の讀者の注意を惹いた、それが橋本憲三君であつた……逸枝さんと一緒になつてから、憲三君はあまり原稿を送らぬやうになつたが……逸枝さんは『日月の上に』の詩集を出し、天晴な女流詩人となり濟ました時、私は憲三君の存在を疑つた、君も亦與謝野寛氏や、田村松魚氏のやうに細君にその光を覆はれたのではないかと……逸枝さんが『日月の上に』から『放浪者の詩』それから『妾薄命』と矢繼早に詩集歌集を出して益々才名を謳はれるのに、憲三君は何の作物をも發表しないのは甚だ物足らぬ淋しさを感じて居た……けれどもそれは幸に杞憂うであつた……矢張創作は吃々と續けて居た[。]そしてその試金石が金度文(ママ)尾文淵堂から出版された『山の郁子と公作』である……君は初め一人で書く筈であつたが、山にあつた日の懐しい記念だからと云ふので、前半を自分で書き、後半を逸枝さんに書かして、夫婦水入らずの合作とした、そして巻頭の十七頁は、本紙に初めて發表した君の出世作とも云うふべき『太陽へ』の一部でその他は新作である……いま斯の人が勇ましく文壇に打つて出る――君が最近の消息に只今『戀するものゝ道』といふ長いものを書きかゝつてゐます……とある……将来ある作家として文壇に認められる日も遠くあるまい(K生)
さらに一〇月二〇日には、『私の生活と藝術』が京文社から刊行されます。「目次」も「前書き」もなく、本文は、「女詩人汝に語らん」「民衆哲學」「出發の生活」「解放へ」「近代思想の缺陥」「詩と社會」「詩壇に革命す」「裸體の女」「巡禮行」「漂泊の旅より」「風吹く山」「壁のお婆さん」「抽出された小鳩」「話好きの人達」「守護神よ」「谷の幻の家」の計一六編から成り立っています。内容、形式ともに異質なものが混在している感があり、大雑把に、最初の五編が評論文(哲学)、次の三編が詩論と女性論、続く二編が紀行文、最後の残る六編が創作文(小説)といったらいいでしょうか。このとき逸枝に内在していた多様な思考のすべてが、ここに凝縮されていると見ることができます。それでは、これまでに本稿において叙述してきた文脈に関連すると思われる二箇所を選んで、以下に紹介します。前者は「解放へ」からの、後者は「裸體の女」からの引用です。まず、ひとつ目の引用です。
『放浪の詩』の序に、放浪者には貞操は無いと書いた事が、いろいろ誤解されてゐるらしく、また方々からのお訊ねにも接しますので、お答へ申させて頂きます。 此れは、わかり易く申しますなら、『貞操』と云ふ法律は無いと云ふ事なので御座います。實質はどうあらうとも、理論の支配を離れた實質だと申すので御座います。すべてのものがそうだと申すので御座います。そこで理論の任務は、實質の描寫か豫想かにあるのだと申すので御座います。 此れは、實質に體する第二義的な參考にはならうとも、實質を支配し指導する力はもたないので御座います。少なくとも私には、もたないので御座います。なぜなら實質は、實質自身出發するので御座いますから。何處から出發するかと申せば宇宙から出發するので御座います。宇宙は何かと申せば分からないので御座います。それだけです9。
「貞操」という観念を含む実質たるいまの自分がどこから来ているのかを説明しようとしている文にも読むことができます。自分は、法律や理論に縛られない、そして、その存在さえも定かでない「宇宙」から来ているという自覚は、それを押し進めれば、「原始社会」から、あるいは「理想郷」から来ているという着地点へとつながってゆきます。ここに、非進化論的で無政府主義的な逸枝の思考の原型と、そしてまた、己の出自を求めての「原始社会」ないしは「理想郷」へと向かう旅路の出発点とを、発見することができるのではないでしょうか。そうした思いを、すでに発表している詩の世界においても、認めることができます。その箇所を『妾薄命』から引きます。
妾はいま歸りませう 父よ母よ 宇宙が妾を呼ぶままに10
それでは、ふたつ目の引用に移ります。「裸體の女」からの一節です。
戀愛も滅亡するのだし 人生も滅亡するのです 御覧 無智な男女の戀は烈しいが 人がだんだん複雜になると 戀の偶像は露骨に現はれる たとひそうでなくとも 人は自分で自分にいましめられ 容易には戀が出來なくなる 實はかうして 戀がつまらなくなつて仕舞ふのだ プラトニックな戀が だんだんうるさくなると 淫従な官能ばかりが 強い刺戟を求め続け爛れる そこで性交は衰へ 種の繁殖は期しがたくなる 人はすると神々の生活にあこがれ 次第次第に 性を没した神人が出來上り 全く生殖をしなくなる11
このことは、女性が子どもをもたなくなることへの予言でもあります。ほぼ間違いなく、この先験的な認識こそが、これから逸枝が本格的に展開しようとする女性論の土台となる原理部分といえるにちがいありません。そして、この認識に由来して、逸枝自身の生殖行為もまた、実際部分はこうであったのではないか――そうした想像がにわかに訪れないわけではありません。
この年(一九二二年)に発表された最後の作品が『戀唄 胸を痛めて』でした。国立国会図書館がデジタルコレクションで公開しています『戀唄 胸を痛めて』の奥付を見ますと、発行日として一一月二八日の日付が残されています。しかしながら、のちに上書きされた痕跡が認められないわけではありません。発行は、『私の生活と藝術』と同じ京文社です。この『戀唄』のなかに、自身の夫を詠んだのではないかと思われる詩があります。それは、「妾の戀人は」という題の五連からなる詩です。以下に、その最初の連と最後の連を引用します。
妾(わたし)の戀人は實用家よ 戀をしにきて仕事をなさる 仕事をなさる其の時には 妾は雲を見てあそぶ 静かにおし! 愛する良人(つれあひ)さまの お仕事の邪魔にならぬやう…… だけど妾はいいの12
この詩のなかに登場する「愛する良人さま」は、おそらく憲三のことではないかと推量されます。どうやら仕事に熱中するあまり、妻をほったらかしにし、寂しがらせているようです。このとき憲三は、『戀するものゝ道』の執筆と編集に邁進していたものと思われます。この本は、すでに前章において紹介していますように、序篇の「七夕前夜」が憲三によるふたりの出会いにかかわる小説で、それ以外の残りの本文は、すべて逸枝から憲三に宛てて出された手紙によって構成されています。一方、既刊の『山の郁子と公作』の後半部分の「公作へ郁子より」が、逸枝から憲三への手紙で構成されていたことを考えますと、いかに憲三が、逸枝の手紙を素材にした本を世に出そうとしていたのかがわかります。逆にいえば、憲三が書いたのは、『山の郁子と公作』における前半部分の「山の郁子と公作」と『戀するものゝ道』における序篇の「七夕前夜」のみだったのです。逸枝にしてみれば、自分が書いた個人的な手紙が利用されることに不満が募っただけでなく、自分をモデルにして書く憲三の小説にも、耐えがたい不信感が残りました。逸枝は、こう書きます。
彼が私をモデルとして描いた作品は私のもっとも読みたくないものであった。というのはそこでは故意にさえ彼の権限下にくみしかれたものであるとされ、また一般読者からみると、一見魅力のない、むしろ醜悪なキチガイ女として描かれていたのだ13。
そういう不快感が逸枝にあったことは確かでしょう。しかし、それにもかかわらず、憲三は、なぜこの時期に、ふたりの数年も前の出来事を描いた小説と、逸枝の古い手紙とを組み合わせた、一見すると古色に満ちたような内容の書籍を刊行しなければならなかったのでしょうか。おそらくこの原稿は、城内校時代にほぼできており、青年小説家として身を立てるうえでの試金石にする目的で書かれたものだったにちがいありません。しかし、当初の目的はそうであったとしても、もはやこの時期になると、自身の野望はほぼ消え去り、お蔵入りしていたこの二著を刊行することによって、何とか生活費を稼ごうとしたのではないかと思料されます。おそらく逸枝の印税だけでは、家計が成り立たず、背に腹は代えられない状況にあったのでしょう。もし、そうした状況で憲三が仕事をしていたのであれば、逸枝が表現する「仕事をなさる其の時には/妾は雲を見てあそぶ」のも、換言すれば、憲三の邪魔にならないように、雲を相手にひとり遊びをするのも、やむを得なかったのかもしれません。
後年、憲三はこう証言します。
「郁子より」および小説「山の郁子と公作」にはめこまれている手紙は実際のものもあり、創作もあります。……私の嫌がり恥じている本がもう一冊あります。これには順を追った正真正銘の彼女の生まの手紙が収録されています。……『恋するものゝ道』という書名で、耕文堂という出版社から出されています。……‶金取り仕事″なのです14。
憲三単著の『戀するものゝ道』が耕文堂から実際に出版されたのは、翌一九二三(大正一二)年の四月一五日のことでした。憲三、逸枝の両人にとって、恥を忍んでの「金取り仕事」でした。そこから判断しますと、このときまでに憲三は、小説家としての自身の大望をすでに諦め、事実上、筆を折っていたものと考えられます。他方逸枝は、この時期について、こう書いています。「私はがんらい筋肉労働で糊口し、書くものを商品としない覚悟でいたのだったが、弥次以来の結婚生活にながされてこの態度がたもてなくなり、この後約十年の間はむしろ金取り本位の雑文書きにおちいった嫌いがあった」15。
『戀するものゝ道』の出版から二箇月後の六月、憲三に幸運が舞い込みました。職が見つかったのです。『平凡社六十年史』は、次のように語っています。
この前後の社員の動きをふり返ってみよう。藤井久市が事務社員として入社した頃の社員の数が、合計四人だったことはすでに述べたが、編集部員が正式に入社してきたのは株式組織になってからだ。その第一号は後に「現代大衆文学全集」の計画立案にあたった橋本憲三だった。下中の教育運動の面での同志だった志垣寛の紹介である。たまたま志垣夫人と橋本夫人(女性史研究家の高群逸枝)が熊本女子師範で同窓だった関係からしたしくつきあっており、平凡社の新発足に際しての社員募集に応じたわけだった16。
『平凡社六十年史』の巻末にある「略年表」によりますと、一九二三(大正一二)年六月一二日、資本金五万円、代表取締役に下中彌三郎が就任して、平凡社が株式会社になります。憲三が入社したのは、このときのことでした。これでひとまず、収入のめどがつき、困窮からの脱出が可能となったのです。
しかし、職を得た喜びもつかのま、大きな地震が東京を襲います。その瞬間を、逸枝は日記に残しています。
九月一日(大正一二年) この日、私の夫は気分がわるいといって社を休んだ。ちょうど正午どき、お八重さんが部屋に運んできた昼のご飯をたべていると、急にめりめりと音がしはじめた。 「そら、地震だ!」 という声があちこちの部屋で起こった。私と夫とは、いつもの地震だとたかをくくっていたが、そうでなく、おどろくべき強震で、逃げ出すのさえあぶないほどの揺れかたであった。軽部夫人も、おばさん(養蚕の加勢人)も、お八重さん(女中)も、竹藪に逃げ込んだ。夫は私のあとから転びそうな様子をして。―私たちは大きな孟宗竹につかまって、しばらくのあいだはぼんやりしていた17。
九月二五日の『九州新聞』七面の「文藝消息」は、憲三と逸枝の無事を伝えました。
橋本憲三氏 世田ヶ谷滿中六一四の寓居で高群逸枝氏と共に無事目下震災を題材にした長作物の執筆中
しかし、その右隣りの項には、こうした悲報も伝えていました。
志垣寛氏 東京市外千駄ヶ谷三〇七の避難先にて五つになる可愛盛りの二男を失ひ悲嘆に暮れて居る
関東大震災は、橋本憲三の夫婦に幸を、他方、志垣寛の家族に不幸をもたらしました。逸枝と、志垣寛の妻の美多子(旧姓は斎藤)は、熊本師範の女子部で同級でした。このとき、逸枝が美多子に連絡をとったかどうかは、資料上不明です。しかしながら、交友は続きます。逸枝が亡くなった際の葬儀委員長を務めるのが、志垣寛でした。
このときの大震災は、人びとの生活を大きく変えました。憲三と逸枝の生活も例外ではありませんでした。「軽部家には焼け出された親類の二家族がはいってきて、私たちはその人たちと毎日押し合いへし合いしながら、窮屈な自炊生活をはじめねばならなくなった。弥次から引き上げるときに持ってきた世帯道具が役立つことになってバスケットから取り出されたのだった」18。こうして次の年(一九二四年)の春近いころ、ふたりは軽部家を出ます。「東京で私たちが二人きりではじめて持った上落合の寓居は、省線(国電)東中野駅から歩いて十五分ばかりの地点」19にあり、「家の中は三室で、玄関の間が二畳、座敷が六畳、茶の間が四・五畳、それに板の間と土間との一坪の台所がついていた。家賃が二十九円だった。ついでにいえば、Kの給料が七十円、これで当時の物価からすれば最低の生活が可能だった。私の収入がいくらかあるとすれば、それは勉学の資料費に充当されるだろう」20。「私は、私の理想である同志的結合を実現し、相互の敬愛によって建設的な前進の第一歩を踏み出すことができたとして、大よろこびだった。食卓一つ……それに机一つと本箱一つ……ひと通りの生活用具がととのったことになった。……私の好みで青磁の花瓶を一つもとめて、花を絶やさないことで満足することにした。私は幸福だった」21。
しかし、逸枝が「幸福だった」のはつかのまのことで、憲三は、新妻を郷里に残したまま職を探していた人吉の友人を家に招き入れ、水入らずの生活は、あっという間に、潰え去ったのでした。このとき以来、「私の家にはいつも一人か二人の無料常宿人がいることになり、翌十四年のはじめに東中野の借家へ移ってからもこの習慣はずっとつづいた」22。憲三にすれば、家もなく、食べるものにも不自由する知人を見て、見ぬふりをすることができなかったのかもしれません。もっとも、「彼らは行儀がわるく、家じゅうを占領して気ままにふるまい、そして私を台所の板の間に追い出した。私はこの板の間のチャブ台の上で雑文を書くことになった……この梁山泊的、どん底の宿的生活はその頃の一種の時代的流行で……誰かが家を持てば、宿無しの友人たちが、わんさとたかってくるのだった。……私の肉体も心も、頭脳も、石のように動かなくなり、することなすことがKの短気をつのらすばかりとなり、自分を夫や家庭につなぐ自信さえぐらついてきた」23。逸枝は、こうも書きます。
Kが出京して熊本の弥次海岸につれてゆき、さらにこの路地裏につれてきて住ませたのは安積山の略奪婚に似ていた。その結果は[私は]あさか山の女のように醜い女になってしまったのだった24。
とくに前段の文には、幾分事実を歪曲した、少し過剰な被害者意識が表出されているようにも読めます。あるいは逆に、略奪されたことを内々では喜んでいるようにも、感じられます。手記には、こうした詩も、書き付けられました。
あたしゃ愛ゆえ家を出る 恋しい人よさようなら あたしゃ愛ゆえ旅に出る それがあたしの宿命よ25
この詩からは、家を出る悲壮感はあまり伝わってきません。漂うのはむしろ、自分の「宿命」を楽しもうとする戯れ的な雰囲気です。逸枝にしてみれば、自分の理想に沿って夫を真剣に愛すれば愛するほどに、すれ違いや隙間風が生じ、自分の存在への自信を失い息苦しくなるのでしょう。そうなれば、生き返るために新鮮な空気を求めて外に出るしかありません。これまでもそうでしたが、逸枝にとっての「家出」は、再生のための一種の転地療法だったように思われます。つまりそれは、決して夫への裏切り行為ではなく、ある一面から見れば、逆説的な意味をもつ、夫への愛の伝達手段ということになるでしょうか。
そうした固有の複雑な思いのなかにあって、実際に逸枝は、「あさか山の女に似た書きおきをかいて、家出することになった。私は亡児の霊によばれている気もちで、西国巡礼から高野山におちつき、婦人論の著述に生涯を託するつもりだった。……大正十四年九月十九日、私はついに家出を決行した。しかし、せっかくのこの家出もKが半狂乱で追っかけているということを新聞で知ると、私はたちまち豹変して、自分から熊野街道に出ばってKが乗ってくるだろう自動車を待ち受けたり、警察に届け出たりして、進んで連れ戻される結果となってしまった」26。
果たして逸枝は、本当に「高野山におちつき、婦人論の著述に生涯を託するつもりだった」のでしょうか。これを字義どおりに読めば、このとき逸枝は、家庭生活に自分の居場所を見出せず、そして、その苦しみにももはや耐えきれなくなり、絶望のうちに、夫から離れて、女僧となって高野山に入り、その地で一生涯、婦人論の執筆にひたすら生きたいという強い思いに駆り立てられていたことになります。しかしその一方で、自ら進んで、「Kが乗ってくるだろう自動車を待ち受けたり、警察に届け出たり」していることから判断しますと、逸枝は、本気で憲三と別れる意思など最初からなく、ひとえに憲三が、自分の存在にしっかりと目を向け、一日も早く自分を探し出してくれる、そうしたひとつの愛情表現を秘かに待ち望んでいたようにも、受け取ることができます。そうであれば、ある意味で、逸枝にとってのこの家出は、子どもが「隠れん坊」や「鬼ごっこ」をするような、単なる遊び心の発露だったのかもしれません。そうでなければ、「婦人論の著述に生涯を託するつもり」というほどの深刻な覚悟ではなく、一、二箇月の短いあいだ、誰にも邪魔されずに山にこもって、いま抱えている婦人論ないしは恋愛論を自由な思考のもとで完結させたいという、ごくささやかな執筆願望の現われだったのかもしれません。それでは、このときの逸枝の家出について、その実際の一端を、流れに沿いながら再現してみたいと思います。
以下は、家出のおよそ三箇月前の、一九二五(大正一四)年六月二日の日記に記された、逸枝の文の一部です。
私の行くところはどこやら分かりません。別れたくないが別れるのがいい、心がそうささやきます。どうぞ私のいない後には、よい家庭を作ってください。私のような不具なもののみが、あなたのご機嫌をそこねます。私はまたの世には不具ではないものに生まれてきて、あなたのほんとうの妻になりとうございます27。
続く六月二七日の日記には、こうした文字も並びます。
きょうも夫が出て行けという。いくど夫はこの言葉を使うだろう。これはブルジョアがプロレタリアにたいして、その弱身につけこんでいう悪辣な言葉とおなじに悪辣である。こうした言葉は使って欲しくない。 私の夫に対する愛情はほとんど絶無に帰した。百年の恋も一時にさめてしまった28。
実際に逸枝が家を出たのは、九月一九日でした。置き手紙がありました。「旦那さま つらい逸枝」で書き出されます。「さよなら。さよなら。……金を少し下さい。××さんに返します。そこまでいっしょに行き、わかれ、それからひとりになります。それから山の中のお寺を見つけ、恋愛論を書きますから、その間だけ宿代をおめぐみ下さるように下中さまに願って下さい。(一、二ヶ月)……けれどもその先はわかりません。捨て身になります。……探し出さないで下さい。恋愛論の参考書はいって上げますから送って下さい。……西国に行きます。死んだ坊やや母を弔いながら少し巡ります」29。
逸枝に同行した「××さん」は、憲三の平凡社における同僚で、そのとき憲三・逸枝宅の食客となっていた藤井久市でした。藤井は、「新しき村」にも参加した経験があり、根っからの「さすらい人」でもありました。ちょうどそのとき、会社も辞め、西国への巡礼の旅を計画していたようです。
この書き置きを見た憲三は驚き、気が動転したものと思われます。夜が明けるのを待って、勤め先の下中彌三郎を訪ねます。下中は、そのときの様子を、このように描写しています。
九月廿日の朝六時であつた。橋本憲三君(逸枝氏の良人)が私を訪ねて來て、息せききつて土色の顔をして、手をふるはせながら、ハンカチを眼に押し當てゝ「大變な事が出來まして」といつて……私に示したのが次の書きおきである30。
下中は、書き置きの引用に続けて、さらにこう書きます。憲三がそのときに下中に語った内容です。
「戀愛關係なんて、そんなこと何もないと思ひますが」と橋本君打消して、「これまでも四國巡禮をやつたことがあります……あの人の癖なんです。自分のわがまゝがつもつて、それが目についてじつとしてゐられなくなると、その生活の場所から身をかくしたくなるのです。家出する、家出する、とこれまでも度々私にいつて居ました。「あんたが出るなら私も出る」と私が言つたりしてゐて、今に始まつたことでもないのです。藤井君もあんな放浪癖のある男だから、大丈夫です、単なる道伴れだらうと思つてゐます。この点はちつとも疑ひません」31。
第二章において詳述していますように、四国巡礼の旅に出る直前に逸枝は、「すぐに御返事を。一心にお待ちします。返事を待ちます。一心に、是非に、すぐに下さらないと出ます」という内容の手紙を、憲三に宛ててしたためました。しかし、このとき憲三は、返事を書きませんでした。それから七年の歳月が流れます。この間、ふたりは結婚し、息子の死産を経験し、困窮に瀕するときは雑文を書いて凌ぎ、他方で、暴言や暴力もありました。そうした夫婦の歩みのなかにあって、四国巡礼のときに比べれば、憲三が抱く、逸枝の存在の意味は、もはやすでに大きく変わっていたのです。憲三は、居ても立ってもいられなくなって、翌日の二〇日に東京を発ち、逸枝を探し求めて、「和歌山・大阪・滋賀をまわり、断念して近江八幡駅から汽車に乗り、帰京」32するのでした。東京へもどる夜行列車のなかで憲三は、探し出せなかった無念さのなかで、このような内容の手紙を草しました。
私はいま旅から絶望して帰るところです。さびしいむなし東京へ。私がそこへ明日の十二時にかえったとて、何が私を待っていましょう。……あなたがなくて、私に何の生活があろう。あなたと二人で、骨になっても、未来へも、どこまでもいっしょでなくては承知できぬ、どん底からの思索と抱擁とが私にはあるのです。……私は家をたたみました。……あなたとわたくしの形而下的な家庭は、かくして短日月にほろびました。私たちは、こんどは形而上的な家庭にすむのです。ナベ一つ茶わん一つの生活にしましょう。……田舎の一軒家に行きましょう。実は私は早くあなたにお目にかかれていっしょに巡礼乞食したいと思い家を捨てたのですよ。……恋しい恋しい私の妻よ!今にあなたのところへいきますよ。いっしょに回国しましょう。……ああこんどいっしょになってからは、交友を吟味しましょうね。家には一切入れず、向こうの家にもいかず、手紙か、野原、林などの散歩の交際にしましょうね。巡礼がすんだら、家をもちましょう。そして夏の休みの一ヵ月はきっと僕がナベを背負って旅行につれていきます33。
明らかにこの手紙には、憲三が示す妻への深い愛情がにじみ出ています。他方、家出をして三日後の九月二二日の『東京朝日新聞』七面は、「高群逸枝家出す/夫を棄てゝ情夫と共に/紀州で自殺の恐れ」という見出しをつけて、こう報じました。
市外東中野一七二四橋本憲藏(ママ)の妻高群逸枝(三〇)は十九日午後五時過ぎ、同家に寄宿する夫憲藏の友人で、元日向の新しき村にゐた藤井久一(ママ)(二九)と共に二通の遺書を残したまゝ家出した、逸枝は詩集「日月の上に」といふ一巻を出版して詩壇の一部に知られてゐる女であるが最近は思想的に左傾し去る七月中頃から、その夫とはろくろく口も利かず暮してゐた夫にあてた遺書には「さよなら、さよなら、もう追つつきません、可哀さうなあなたそして可哀さうな私、またの世には立派な女になつて貴方の可愛いゝそしてよい妻になりましやう……」と原稿三枚に書きつらねてあつた。 他の一通は大久保百人町一二一下中彌三郎に當たもので、紀州那智山を初めとして西國巡禮の旅に上る旨を書いてあつた、十九日之を知つた憲藏は全く失神せんばかりに驚いて直ちに警視廰に捜索願を出すと共に廿日午後五時半紀州那智山に向かつて急行したが兩人は情死のおそれがある由
この記事の出所は、間違いなく、このことを唯一知っている下中だったものと思われます。下中が記者に実際にそういったのかどうかはわかりませんが、「夫を棄てゝ情夫と共に」という見出し、そして、本文末尾の「兩人は情死のおそれがある由」の文言は、明らかに、憲三と逸枝の気持ちから、大きく乖離するものでした。その後、逸枝は、この記事により世間からの不要な批判や誤解にさらされることになるのです。
捜索願が出されていたこともあり、和歌山の新宮署で、逸枝の身柄は無事保護されました。そのとき立ち会ったのが、女性運動家の奥むめおでした。奥は、このときのことを、こう回想します。
長女が生まれた翌年の九月、姑が亡くなり葬儀に帰った時のこと。新宮の警察から連絡が入り、ひとりの婦人を保護しているから引きとりにきてほしいという。婦人の名は高群逸枝、わたしを身元引受人として指定したのだそうな。わたしは詳しい事情ものみこめぬまま、すぐに警察に駆けつけたのである。…… 久しぶりに見る高群さんはやつれ果てているように見えた。わたしたちは一緒に一晩を過ごし……翌日、橋本さんが高群さんを迎えにこられた34。
家出から九日が過ぎた九月二八日、憲三は逸枝との再会を果たすことができました。以下は、憲三の証言です。
この手紙を書いてから数日後―九月二八日に、私は新宮駅前のたしか新宮館といった旅館に彼女を訪うことができた。玄関の敷台の前に立って待っていると、奥から出てきた彼女は、私のぼさぼさした頭髪のなかに手をつっこんで、「あなたおやせになったのね」といった35。
このときの再会について、さらに晩年、こう憲三は述べています。
私は無言で彼女に導かれて部屋に通り、そして手紙を彼女にわたし、女中さんがお茶を運んできたので、すぐたちたいことを告げて勘定書をもとめて、お金を払いながらいちばん近い温泉をききました。そこへ、別の部屋から藤井さんがみえられたので「お金を借りたりなどとご迷惑をかけました」とあいさつして三十円を「これでいいでしょうか」といってお渡しし、藤井さんはそれを受け取られ、無言のままていねいに一礼をして退かれました。彼女は「ありがとうございました」といいました36。
一方の逸枝は、この日(九月二八日)の日記に、こう書き付けています。
私が夫と別れようと決心したのはもう長いことになる。夫が私を愛し、私が夫を愛していればいるほどに、私は私自身の悪徳がたえきれなくなってくる。私はまあなんという不完全な女であろう。その悪徳はかずかぎりがない。結婚は妻の悪徳まで背負いこんだということはわびしくて辛い。いまさら何をいおう。共同生活をするということは、共同生活を否定した時しか、私には可能でない。私が孤独でないということは、私は孤独であるときしか、意味をなさない。いまはただぼうとしてばかのようになっている。けれども、夫の愛、またその態度にたいして、私はなにをしえよう。私はつらいが夫につれられて行こう37。
ふたりが愛し合えば愛し合うほどに、悪徳のささやく声が聞こえ、共同生活を捨て去ってはじめて共同生活の実際がその姿を現わし、真に孤独であるときにあってこそ孤独からの解放が実質可能となる――逆説的ではありますが、これが、逸枝の家出の論理なのでしょう。そうであるならば、このとき逸枝は、現実と虚構の壁がもはやない、両者が混然一体となった異質の仮想空間を、もっとも逸枝自身にとっては宿命的な現実空間を、放浪していた、といえるかもしれません。この放浪こそが、避けがたく、詩人にとって血となり肉となる部分なのでしょう。さらに特徴的なことに、そうした逸枝の実在は、「私の夫に対する愛情はほとんど絶無に帰した。百年の恋も一時にさめてしまった」といいながらも、別れるなり、逃げるなり、逆らうなり、そうしたことに対しての主体的な決断が貫徹できず、したがって、一見すると自身にとってつらいことではあるが、受け身的な安心立命を得て、「夫につれられて行こう」とするのです。これが、逸枝がしばしば、自己の性格分析に際して、自身の欠点として表現する「優柔不断」つまり「曲従」の内実なのでしょう。それは、「自立性の欠如」あるいは「意志の薄弱さ」という別の言葉で補足することができるかもしれません。しかしどのみち、詩人たる逸枝にとって「曲従」は、自己の欠点として一義的に切り捨てられるものではなく、意識的あるいは無意識的のいずれであろうとも、己の悲しみと苦しみと孤独感とを養い育てるうえでの、決して喪失されえない豊饒なる土壌であり続けなければならないものであったと思料します。
他方、「きょうも夫が出て行けという。いくど夫はこの言葉を使うだろう」という日記の文言が真実であるとするならば、家出した逸枝を、なぜ憲三は、探し、追い求め、家に連れて帰る必要があったのでしょうか。これを機会に、そのまま別れればよかったのではないかという推論も、おそらく成り立つでしょう。後年憲三は、自分の性格を次のように分析しています。「私には、脳の中枢の一部に欠陥があるらしい。おおようなたち(・・)(よく人からそういわれた)といえばいわれないこともないが、それはどこか抜けているのであって、じつは阿呆の別名なのである」38。そこから判断しますと、おそらく憲三には、逸枝がとった行動に対して嫉妬心も猜疑心も対抗心もほとんど何も起生せず、突然実際に自分の前から逸枝が姿をくらましたことにただただ狼狽するのみで、逆の見方に立てば、その分、家出に至る逸枝の隠された闇の部分、換言すれば、詩人固有の一種特権的立場とそこに輝く天賦の才とが、いまだ十分に理解できていなかった可能性さえ残ります。つまり、逸枝が理想とする「同志的結合」を達成するには、いまなおほど遠い地点に、このときの憲三の身は置かれていたのではないかと推量します。
それでは再び、九月二八日の逸枝の日記にもどります。その日の日記は、さらに、このように続いています。
私の非常識および行為、衝動、それらは私にとっては一種の宿命であって、私はそれにうちかつことはできない。それの生む汚名、不名誉は、私一人が負うべきこととして、いままでは苦しんできたが、夫は私をはなさないから、では私はそうした決心をすてよう。そして夫にいだかれた誇りとして夫をぜったい信頼し夫とともに生きかつ死のう。そうするしかほかない39。
憲三が旅館で逸枝に渡した手紙が、憲三から逸枝への愛の誓いとするならば、この九月二八日の日記文は、さながら逸枝から憲三への愛の誓いとして読むことができそうです。
逸枝の家出のあと、憲三は、東中野の借家を解約していました。憲三が下中に語っている、「あんたが出るなら私も出る」という覚悟の、まさしく決然たる実行です。それについて憲三は、こう語ります。「私は口でいうより行動で示す方で、家を捨て、家財を捨て、乞食になるつもりで出かけました。そうしないと、心から彼女が納得し、安心して私の『愛』についての疑惑を一掃しえないと思ったからです」40。新宮の旅館を出ると、憲三と逸枝は、しばらく湯場に逗留し、一〇月上旬に東京にもどりました。たどり着いたのは、下落合にある長屋でした。ここからまた、裸一貫の新生活がはじまります。他方、藤井久市は、旅館を出ると西国巡礼の途につくのでした。「藤井さんは一と月たつかたたないときに帰京復社されました」41と、憲三は書きます。
以下は、一〇月一九日の逸枝の日記からの引用です。
九月のきょう家出をしてちょうど一月目になる。たちまち捜索願い(◦夫の強行)、新聞の三面記事、世間の物わらい、両親の恥―エトセトラ。夫とともに帰京、下落合の樹立ちのなかの家にいまは落ちついている。夫とともに帰京したのは愛に負けたからではない。愛を確かめ愛をえたからだ。 両親(◦私の片親と夫の両親)にはすまないと思う。どうかせめて一生のうちに―両親がいるうちに―両親にだけはうめ合わせをしたいと非常に思う42。
今回の家出では、自分の父親と橋本家の両親に対しての申しわけなさが、副産物として逸枝のこころに残りました。親兄弟たちは、おそらく地元紙が報じる逸枝の家出事件の記事を読み知っていたものと思われます。まず一報は、九月二三日の『九州日日新聞』四面に掲載された記事で、それには、「高群逸枝が夫の友人と共に/かきおきを残して家出/さよならさよならもう追着きませぬと」の見出しがついていますが、内容は、九月二二日の『東京朝日新聞』七面の「高群逸枝家出す/夫を棄てゝ情夫と共に/紀州で自殺の恐れ」とほぼ同じでした。次に、『九州新聞』が、九月二五日の七面で、この件について報じました。見出しは、「本縣出身の女流詩人/高群逸枝女史駆落す/相手は夫橋本憲三氏の友人で/同家に寄宿中の新人藤井久一(ママ)/情死の懼れがある」で、この記事には、逸枝の顔写真も掲載されました。『九州新聞』は、三日後の九月二八日の四面に、「夫の友人と家出した/高群女史の所在/那智山に落着いた所を/新宮警察署に保護さる」の見出しのもとに続報を出しました。この記事には、逸枝と藤井の談話が掲載されていますので、以下に全文引用します。前半が逸枝の、そして後半が藤井の、語った部分です。
わたしたちの旅行について新聞では何か二人の間に関係でもあるやうに傳へてゐますが、決してそんなことはありません、わたしの家出についてはかねて夫も知つてゐてくれてゐるはずです、わたしは一度四國巡禮に出たことがあり、今度もそうした氣分で家出するつもりで家出したのです、夫に無斷で出たのは今さら別れの言葉を交すは夫としてもわたしとしても苦しいので黙つて出ました、しかしわたしは那智□の参詣の□は藤井と別れて別に獨りで巡禮の旅に出るはずでした、この上は一まづ東京に歸つて夫の諒解を受けたいと思ひます 僕達は神聖です。新聞では左傾思想などゝありますが、決してそんなことはありません
新聞記事を読んだ読者のなかには、逸枝と藤井のあいだの関係を疑った人も多くいたかもしれませんが、ふたりは、それをきっぱりと否定しています。それでも、逸枝の父親や憲三の両親が、疑心暗鬼になり動揺したであろうことは容易に想像されます。憲三は、晩年、こう述懐します。
私としては関心の外でした。たとえ誤解されたとしても。誤解するなというのはむりでしょうから。彼女は「もうこれで両方の親たちには会えない」などと気にして書いているほどですが。しかし、橋本家からは顕在的には従前どおり厚遇されて、いささかの動揺ももたらさなかったと思います。高群家の私への態度にも変化はありませんでした43。
このころ憲三は、「萬人文藝論」を執筆します。軽部家を出て、東中野の借家に入ったころから、憲三は、『萬人文藝』という小さな雑誌を、自身の個人負担で刊行していたのですが、「萬人文藝論」は、この雑誌の存在意義を巡ってのAとBの匿名のふたりが論議し合う内容となっています。おそらくBが、憲三でしょう。以下に、その一部を引いてみます。
B、僕は、『文藝』の世界は、何よりその作者のアナーキスチックな感情の發散場所だと思つてゐる。藝術には道徳もなく國境もないなどいふのは、つまりこゝのことをさして言つたものだと僕は思つている。 (中略) A、さうきいて見れば、なるほど『萬人文藝』とはもつともな名だね。 B、雜誌『萬人文藝』は下中彌三郎氏の著書『萬人勞働の敎育』から思ついたのである。下中氏は僕の日頃私淑する人であるが、この本には實に明快に勞働が萬人の則であるべきことが述べられてある。……萬人文藝は萬人勞働と離すべからざる關係にあることはいふまでもない44。
憲三の「萬人文藝論」が掲載されたのは、『文藝批評』の第一年第一號で、奥付の発行日は、一一月一日と印字されています。そして目を引くのは、「編集後記」の末尾に、「高群逸枝氏のことが新聞に出てゐた。これは訛傳だ」45の文字が並んでいることです。これでこの家出事件は落着したかに見えました。しかし、下中彌三郎がこの間の顛末を文にし、『婦人公論』に寄稿していたのです。表題は、「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」というもので、『婦人公論』の一一月号に登場しました。奥付にある発売日(一一月一日)よりも数日早く、逸枝の手もとに届いたのでしょう、これを読んだ逸枝は、一〇月二五日の日記のなかで、こう反発します。
『婦人公論』に私の家出についての下中さんの文章が出ている。そのなかに、生の倦怠から―とあるのは受け取れない。倦怠どころか苦悶だろう。それと美人ではなく―とあるのも同意できない。私はひとが私をみるときには美人だとみるのが当然であると主張する。というのは、私にはそうした魅力がかならずあることを―そして「醜婦」というもののもつ言葉は魅力のないということを意味している―信じているから。…… また、下中さんが私を哲学的な女だといわれたのにもしたがいえない。私こそ森の娘ではあるまいか。私は自由の子だ。だから私はあらゆるものだ。哲学者でもあれば詩人でもありうる。私は固定しない46。
しかし、下中に向けた逸枝の反発は、決してそれだけではなかったものと推量します。下中の「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」は、こうした文ではじまっていました。
高群逸枝さんの今度の家出事件については、東京朝日の報道のつれなさから、大分世間に誤解された。東京朝日の記事です。地方新聞にもそれがひろく轉載された。東京日々の「角笛」にも明子と名乗る方から随分手きびしい批評があつた。 さやうな報道、さやうな批評、なるほど形の上からはさう見えたらう。しかし、逸枝さんその人を知るものゝ間では、それはまつたく信じられぬ報道であつた。とは言へ、世間にそんな風な誤解を起すに足るだけの種を蒔いたについては、逸枝さんたるもの素より責任を負はなくてはならぬ。 かりにも、夫を置き去りにし、夫の了解もなく、夫の知り人と手を携へて家出をした、形の上から見れば、どうしても、その男が新しい情人であり、その情人の出現が動機となつて家出をした駆け落ち、三角関係、さういふ風に見られても一言ない47。
下中は「一言ない」と書いていますが、逸枝には、いいたいことが多々あったのでないかと推量します。以下のような、逸枝の反発の声が聞こえてきそうです。第一に下中は、「世間にそんな風な誤解を起すに足るだけの種を蒔いた」責任を自分の見識のなさに帰しているが、実際に種を蒔いたのは、もとをただせば下中自身の軽率さだったのではないか。第二に、「その情人の出現が動機となつて家出をした駆け落ち、三角関係」と下中はいうが、それこそ大いなる誤解であって、家を出たのは、単に仕事上旅に出たにすぎないことであり、たまたま同行者の男性も、西国への旅に出かけるところであり、何も情人と駆け落ちをしたわけでも、三角関係にあったわけでもない。何と愚かなことを、下中は口走るのだ。
この日記から一一日後、一一月五日を発行日とする、逸枝の『東京は熱病にかゝつてゐる』が、平凡社の別組織である萬生閣から刊行されます。このタイミングを考えますと、下中が記者に漏らしたと思われる、「高群逸枝家出す/夫を棄てゝ情夫と共に/紀州で自殺の恐れ」の見出しをつけた、九月二二日の『東京朝日新聞』の記事も、そして、『婦人公論』の一一月号に掲載された、下中自身の手になる「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」の一文も、平凡社の代表取締役の地位にある下中の、一種の営業戦略ではなかったのかという憶測も否定できません。
他方、逸枝は、「大正十一年には『東京は熱病にかかっている』を書いた(翌年脱稿)」48と記述していますので、およそ二年前には、この作品は擱筆されていたことになります。なぜ出版が遅れたのか、それを示す資料は見当たりません。関東大震災で社屋が全焼すると、平凡社は大阪の出張所で活動し、東京に復帰したのは、一九二四(大正一三)年の一一月でした。そのことが影響して、出版が遅延した可能性もあります。
数えて六番目となるこの長編詩集『東京は熱病にかゝつてゐる』は、叙情詩でなく時事詩であるという点、また、原郷火の国ではなく大都会東京を主題にしているという点、加えて、社会的で政治的な思想内容が積極的に展開されているという点、この三つの点において、これまでにみられた逸枝の詩集の特徴をはるかに超えており、その意味で際立つ画期的な作品となっています。全部で二五節から構成されています。そのなかから、これ以降にみられる逸枝の動向に照らして、注目に値すると考えられる詩片を、以下に、三つ抜き出してみます。
まず、第一節の「徹底的唯物思想序曲」から――。
詩人汝に告げん。 プラトン哲學は絶對主義主知主義哲學。 近代哲學は人本主義主意主義哲學。 私の哲學は絶對主義主情主義哲學49。
次に、第十二節の「文士有島武郎」から――。
性慾は戀愛の手段であつて、根柢ではない。 性慾と戀愛とは自ら別種のものである。 ある単體のものが二分したといふことは、 遠い未來においてやがてそれがまた単體に歸るということの豫想である。 物資的単體から抽象的単體へ。絶對愛へ。 男女の進化の道程、その進化の道程において。 性慾は子を産んで絶對愛への未來を約束したのである。 仲のよい夫婦には子供は生れぬといふ説がある。 その仲のよいといふのは、絶對の域に觸れてゐる種類のものであらう50。
さらに加えて、三番目として、第二十一節の「アナとボルとの話」から――。
三百餘名。四五名。ボル。アナ。つかまつた新居格。 萬歳アナキスト。逃げ出すボル。 文壇は動く。アナとボル。萬歳アナーキスト51。
逸枝の書くところによりますと、この詩集も、「あいかわらず詩壇人からは、黙殺された」52ようです。しかしながら、逸枝の詩を全面的に評価する人もいました。そのひとりが、平凡社の創業者であり、教育運動や農民運動にも力を注いでいた下中彌三郎でした。次に挙げるのは、その詩集につけられた、下中の「讀んで下さい――序にかへて」の一節です。
詩は精神だ。そして感情だ。そして本能だ。そうだ、生命だ。 藝術の眞のすがたは詩だ。詩こそ眞の哲學だ。詩こそ眞の文明批評だ。 この意味で逸枝さんの詩は、哲學であり、文明批評である。さうだ、逸枝さんは正しく詩人であり、哲學者であり、文明批評家だ。そして女であり、日本女であり、人であり、日本人であり、人間である。 (中略) 逸枝さんは近代人の悩みのすべてを悩んでをる。逸枝さんの胸には近代人のあらゆる悩みが悉くこびりついてをる。その意味において逸枝さんは、日本歴史が生んだ日本女性の最後の――今日までの歴史においての――一人だ。 詩人であり、哲學者であり、文明評論家である女性を日本史の上に求めるなら、神話のなかに須世理媛があり、奈良朝に額田王があり、平安朝に清少納言があり、徳川末期に野村望東尼があり、明治末期に与謝野晶子があり、大正の初期に高群逸枝がある。 (中略) 今の日本には、勿論すぐれた女性がたくさんある。平塚明子さん、山川菊榮さん、奥むめおさん、みなすぐれた人達である。たゞ詩人、哲學者、文明批評家をかねた種類の女性の中には今のところ私は逸枝さんをその最もすぐれた一人としてあげるに躊躇しない53。
実に見事なまでの下中の逸枝評になっています。しかし逸枝は、この「讀んで下さい――序にかへて」と、先の「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」とのあいだにある下中の批評のずれに、幾分戸惑いを感じないわけにはゆかなかったかもしれません。
それにしても、この『東京は熱病にかゝつてゐる』のプロデューサーは、平凡社社長の下中彌三郎であり、他方、ディレクター役が、編集者としてその下で働く、夫の橋本憲三であったことは、ほぼ間違いないものと思われます。逸枝の役割は、このふたりの意向に沿って舞台の中央に立ち、太古の衣装に身を包んで舞い踊る、女神としての表現者だったのです。といいますのも、そのおよそ四年後の一九三〇(昭和五)年一月に解放社から上梓される小説『黒い女』のなかに、夫婦の会話部分が出てきますが、逸枝はそれを、こう描写しているからです。これは、憲三と逸枝の実際の会話ではないかと、推量されます。
彼女は夫がおぼえてきて歌ふあらゆる歌を世界のどんな歌よりも早くおぼえてそれを歌ふのであつた。 『そんな歌わらはれるよ。男はいいけど』 と時々夫が夫そつくりの調子で歌つてゐる妻を見ながらいふ。 『だつて……』 と妻はつぶやく。 『あたしそんなら何を歌へばいいの』 そして涙ぐむ54。
この会話から、夫が、いま世間のはやり歌を家に持ち帰り、それを妻に歌って聞かせると、すばやくそれを覚えた妻は、何と誰よりもうまくその歌を歌い出す、といった情景が目に浮かびます。つまり、社長である下中の思想や哲学に共感するとともに、仕事上、新聞雑誌をにぎわす時事問題に積極的に目を向ける憲三が、そうした新鮮な取り立ての情報を家に持ち帰り、逸枝に話して聞かせると、いつのまにか逸枝は、それを自分の言葉で話すようになるのです――『東京は熱病にかゝつてゐる』は、前後の状況から察して、そうした過程を経てできた作品だった可能性がないわけではありません。このような憲三と逸枝の関係は、その後も、おそらく生涯にわたって続きます。といいますのも、晩年、憲三自身、こう語っているからです。
彼女は起稿のとき、新しい原稿用紙に向かって、私に第一章の題目を書かせる。最初のとき、あなたの原稿の書きはじめを、なんで私がしなくてはならないのですか、と文句をいうと、 「あなたが題目を書いてくだされば、本文がらく(・・)に書き出せるのよ」 といった55。
憲三は、こうしたことは「『招婿婚の研究』の原稿からであったらしい。……ただ、彼女は雑文の原稿にも、よくこの題目を書かせたから、この習慣は早く熟していたのかも知れない」56と書いています。そうであれば、すでにこの時期にあって、演出家橋本憲三、表現者高群逸枝の、分かちがたく一体となった著述を巡る産出関係が成立していたのではないか、そうした推断も可能かもしれません。
『東京は熱病にかゝつてゐる』が世に出てからおよそ一箇月後、もうひとつ、逸枝にとって戸惑いを感じる出来事がありました。一二月に発売された『婦人公論』に、家出を巡る厳しい逸枝評が現われたのです。それは、「家出せる高群逸枝氏に與ふ」と題された道畔さち子の「はがき通信」に寄せた一文で、そのなかで道畔は、逸枝の行動を、次のように批判したのでした。
夫に對して最後の宣告――絶縁状――を投げつけて夫の友人藤井某と共に家を出た貴女が、紀伊で捕へられ、新聞記者に襲はれると、俄かに捨てゝ來た夫に對する好意を示し、藤井氏は情夫でない、と云つて其の人を遠ざけ、二人の間の貞操は潔白だと辨疎して居られる。……貴女の態度には、随分滑稽な矛盾があり、また無智な女に見るエゴイスチックな懸け引きが、多分に含まれて居るやうに思はれる。新聞紙は……藤井氏は単身四國巡禮の途についたと報じて居る。一度夫を捨て家を出た貴女は茲にまた新しき犠牲者藤井氏を捨て去られたのであらうか57。
逸枝の家出については、幾つもの新聞が記事にし、それを読んだ多くの読者は、道畔と同じように、おそらくこうした感想をもったにちがいありません。逸枝は、道畔に釈明するために、「はがき通信」に向けて「道畔さち子様に御返事」と題した一文を草しました。しかし、原稿は返却されてきたらしく、それがたまたま残っており、晩年憲三は、自分が主宰する『高群逸枝雑誌』に掲載することになりました。それでは、そのなかから主要部分を引用します。
まずは、夫の憲三との関係について書かれた一節から――。
主人に絶縁状を投げつけたとおっしゃるけれども、主人自身が何よりそうはとっておらぬ。なぜなら平素の私を知っていますから。いってみればトルストイではないが、私は死なぬ前に一度家出をしたかったのです。一つには主人に対して私がどんなに済まぬという思いをしているかを、はっきりと行為で告げたかったのです。なぜといって私はまるでこの調子で人に会うのをいやがり、買物も出来ねば近所との交際はもちろん、毎日真っ暗らな壁の中で日を送るという始末の女ですもの。一家の妻としてはこれが完全でしょうか。結婚以来の私のこの苦悶は、何よりも主人がよく知っています。ですから造作もなくいわゆる和解も出来たというわけになります58。
次に、同行者の藤井久市との関係について書かれた一節から――。
この人は純烈な(へんな熟語ですが)永遠のさすらい人、全くそんな人なのです。ですから私といっしょでなくも、もちろんあのとき漂泊の旅に出なさることに確定していたのです。……藤井さんと御同行するという……書き置きをしておくと、一つには夫が安心するだろうという考えもあったからです。 なぜといって、私はまるでやくざで、一人では電車にも乗れぬ、(これはお話だけではわかりますまい)乗ったこともないほど田舎者といおうか、何といおうか、とにかくそんな風のものなのですから、何から何まで夫にたよっていたのです。そんな風ですから、藤井さんと御同行すれば幾らか夫の心配も消すことにもなるとも思ったのです59。
さらに、新宮署での取り扱についてと自己のいまの心境について書かれた一節から――。
ところが捜索願が出ていると知ると、お巡りさん威丈高になりましてね、新宮署というところで罪人になってしまいました。完全にかけおちの心中者になり、捕えられた蛙も同然になりました。…… けれども人から嘲り笑われていることは、私にはとりわけ悲しいことです。私はこの意味で仰せのようにまことに無智な女でしかないのです。ですからそこここで矛盾やつじつまの合わぬこともいい、またしでかします60。
逸枝の抗弁に従うならば、漂泊の人である藤井は、もともとこのとき西国巡礼に出る予定であり、自分が家を出たのは、生まれながらの資質が原因となって何ひとつ妻らしいことができていない申しわけなさを、行動によって直接夫に知らせることが目的であり、藤井に同行したのは、電車の乗り方も知らない無知で幼稚な自分を助けてもらうためであり、そのことは、これまでの日常生活から夫も十分に理解しており、そのため、迎えにきた夫とは、問題なく和解となった、ということになります。これが逸枝にとっての真実だったのでしょう。しかしそれは、世間的には非常識であり、さらには、姦通罪に照らせば明らかに犯罪行為となってしまいます。ここに、「自然から得た態度と自負」の相に生きる逸枝が経験しなければならなかった、必然的な悲劇があったのでした。
道畔さち子の「家出せる高群逸枝氏に與ふ」についての抗弁である「道畔さち子様に御返事」を書いた、ちょうどそのころであると思われます、憲三の仕事からの帰宅を待つ逸枝は、旅館で渡された憲三からの手紙を読み返していました。そしてそこに、書き込みをします。おそらくこれが、これよりのち死が訪れるまでの、逸枝の憲三に対する偽らざる思いであると考えられますので、少し長くなりますが、全文を引用します。
大正十四年十二月十日夜。まだお帰りになりません。今夜もこのお手紙を出して見ました。もう何処にも行きません。あなたに仕えようが足らないとき、私はこのお手紙を出して見るのです。 私とあなたとがこの地上から去って後もたぶんこのお手紙は残りましょう。私は王様のお姫さまよりなお幸福です。夢と血と愛をえて、天国に行くことができるのですもの。 あなたも私も地上では貧乏な夫婦でございます。人はみな誤解しています。けれども何一つ私をいまはあなたから裂くものはない上に、私はよろこんであなたとならば死を迎えましょう。私ほどの生の執着をもった女でも、この不可思議な事実を心のなかに確かめうるとは、まあ何て不思議でしょう。愛がはるかに死よりも強いことを今私は知り、この上なく喜んでいます。いつでも もう 死ねますから。このさき幾年生きるでしょう。なるだけおじいさんとおばあさんになるまで生きましょうね。私はまだ仕えかたが足りませぬ。心ゆくまでつくしてからなら、何の思い残すこともない61。
それでは最後に、『東京は熱病にかゝつてゐる』の巻末につけられている「附錄 家出の詩」のなかから、とくに目に止まった箇所を以下に紹介して、この第四章「宿命――震災後の逸枝の家出事件とふたりの愛の行方」を閉じたいと思います。
女たちは自覺をしてゐなかつたために、 泣き寝入をしてきた。 強い社會の雰圍氣がそれを押し流した。 けれども妾は押し流されはせぬ。 押し流すことが出來るものなら、 押し流して見よ。 妾のこの態度と自負を、 世間では誇大妄想だとしてゐる これは自然から得た態度と自負である62。
この詩片から、前をしっかりと見据える逸枝の決然たる姿勢を感じ取ることができます。逸枝は、この「家出の詩」を最後に、一、二の例外を別にすると、詩を書くことはありませんでした。ここに至って逸枝は、「日月の上に座す天才詩人高群逸枝」から「恋愛論と婦人論を先導するアナーキスト高群逸枝」へと、一気に、しかも着実に、自己の姿を変えるのでした。つまり、「自然から得た態度と自負」を武器に、「天才詩人」から「無敵戦士」への大いなる変貌が、これからはじまるのです。憲三は書きます。
東京に帰った二人は「ナベ一つ茶わん一つ」において再出発した。しかし、森の家誕生―研究生活建設までにはなお六年の時があった63。
次の第五章「闘争――『婦人戦線』に立つアナーキスト夫婦の協同」におきまして、「森の家誕生―研究生活建設」に至るまでのおよそ六年間に展開された、「無敵戦士」のその闘争の様子について詳述したいと思います。
(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、196頁。
(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻、195-196頁。
(3)同『高群逸枝全集』第一〇巻、195頁。
(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻、196頁。
(5)石川純子「高群逸枝論(10)『胎児の意思』と『母性の意思』2」『高群逸枝雑誌』第25号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年10月1日、9頁。
(6)柳澤健「手簡――序に代へて」『妾薄命』金尾文淵堂、1922年、19-20頁。
(7)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、176頁。
(8)高群逸枝『妾薄命』金尾文淵堂、1922年、136頁。
(9)高群逸枝『私の生活と藝術』京文社、1922年、101頁。
(10)前掲『妾薄命』、104頁。
(11)前掲『私の生活と藝術』、161-163頁。
(12)高群逸枝『戀唄 胸を痛めて』京文社、1922年、55-58頁。
(13)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、191頁。
(14)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、16頁。
(15)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、201頁。
(16)『平凡社六十年史』平凡社、1974年、72頁。
(17)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、201頁。
(18)同『高群逸枝全集』第一〇巻、207頁。
(19)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(20)同『高群逸枝全集』第一〇巻、207-208頁。
(21)同『高群逸枝全集』第一〇巻、208頁。
(22)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(23)同『高群逸枝全集』第一〇巻、208-209頁。
(24)同『高群逸枝全集』第一〇巻、212頁。
(25)同『高群逸枝全集』第一〇巻、213頁。
(26)同『高群逸枝全集』第一〇巻、212-213頁。
(27)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、223頁。
(28)同『高群逸枝全集』第九巻、226頁。
(29)同『高群逸枝全集』第九巻、228-229頁。
(30)下中彌三郎「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」『婦人公論』第10巻第12号、1925年11月、45頁。
(31)同「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」『婦人公論』第10巻第12号、46-47頁。
(32)橋本憲三「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、18頁。
(33)同「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、16-18頁。
(34)奥むめお『奥むめお 野火あかあかと』日本図書センター、1997年、77-78頁。
(35)前掲「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、19-20頁。
(36)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、63頁。
(37)前掲『高群逸枝全集』第九巻、229頁。
(38)橋本憲三「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1971年4月1日、34頁。
(39)前掲『高群逸枝全集』第九巻、229頁。
(40)前掲『わが高群逸枝 下』、67頁。
(41)同『わが高群逸枝 下』、64頁。
(42)前掲『高群逸枝全集』第九巻、229頁。
(43)前掲『わが高群逸枝 下』、71頁。
(44)橋本憲三「萬人文藝論」『文藝批評』第一年第一號、1925年、12および14頁。
(45)「編集後記」『文藝批評』第一年第一號、1925年、53頁。
(46)前掲『高群逸枝全集』第九巻、229-230頁。
(47)前掲「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」『婦人公論』第10巻第12号、44頁。
(48)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、200頁。
(49)高群逸枝『東京は熱病にかゝつてゐる』萬生閣、1925年、31頁。
(50)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、172頁。
(51)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、274頁。
(52)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、197頁。
(53)前掲『東京は熱病にかゝつてゐる』、3-5頁。
(54)高群逸枝『黒い女』解放社、1930年、5頁。
(55)前掲「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、35頁。
(56)同「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、同頁。
(57)道畔さち子「家出せる高群逸枝氏に與ふ」『婦人公論』第10巻第13号、1925年12月、151-152頁。
(58)高群逸枝「道畔さち子様に御返事」『高群逸枝雑誌』第27号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1975年4月1日、4頁。
(59)同「道畔さち子様に御返事」『高群逸枝雑誌』第27号、同頁。
(60)同「道畔さち子様に御返事」『高群逸枝雑誌』第27号、5頁。
(61)前掲「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、21頁。
(62)前掲『東京は熱病にかゝつてゐる』、384-385頁。
(63)前掲「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、21頁。