前章の「闘争――『婦人戦線』に立つアナーキスト夫婦の協同」において詳述していますように、『女人藝術』内での「アナ・ボル論争」は、アナーキズム派が離脱して、新しい団体を組織するという道を開きました。一九三〇(昭和五)年一月二六日、無産婦人芸術連盟の創設に向けて結集したのは、伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子の計一四名でした。続いて三月一日に、逸枝を主宰者とする『婦人戦線』が産声を上げます。こうして「アナーキスト高群逸枝」の独自の舞台が、ここに誕生したのでした。
『婦人戦線』は、蔵原惟人らが唱道するマルクス主義系の雑誌である『戦旗』などに対抗する、当時におけるアナーキズム系の機関誌でした。逸枝は、こう振り返ります。
『婦人戦線』は……当時のボル系の『戦旗』や『文芸戦線』等のはなやかさにくらべると、明治末年の大逆事件、大正十一年の労働組合総連合創立大会事件、震災直後の甘粕事件等以来、不運の過程をたどりつつあったアナ系のものとしてははなはだ微力なものだったが、時代を語る歴史的存在としては記憶されてよいものだろう1。
それと同時に『婦人戦線』は、らいてうが「婦人戦線に参加して」(『婦人戦線』第二号)において述べているように、『青鞜』を引き継ぐものでもありました。逸枝は、『青鞜』と『女人藝術』を比較して、こう回顧します。
明治末創刊の「青鞜」と昭和四年発刊の「女人芸術」とをくらべると、時代色のちがいがはっきりする。前者にはもゆる情熱と理想へのあこがれがあり、後者にはニヒリズムやナンセンス、エロ、メカニズムが混在し、中心的性格がみとめられない2。
『婦人戦線』は月刊の雑誌で、各号それぞれに主題が設定されていました。この雑誌の編集上の輪郭を把握するために、以下に、創刊から廃刊までの通巻一六号の主題と、加えて逸枝自身の主な掲載文のタイトルを一覧にします。発行兼編集印刷人は、最初の二号は「高群逸枝」、次の第一巻第三号から翌年の第二巻第五号までが、国の指導により本名の「橋本逸枝」(実際の戸籍名は橋本イツエ)に変わり、最終号(第二巻第六号)は逸枝の手を離れ、「城夏子」が担いました。
□一九三〇(昭和五)年 三月号(第一巻第一号)主題「創刊宣言」/高群「婦人戦線にたつ」 四月号(第一巻第二号)主題「家庭否定」/高群「家庭否定論」 五月号(第一巻第三号)主題「戦闘小説」/高群「女闘士殺さる(戯曲)」 六月号(第一巻第四号)主題「ブル・マル男をうつ」/高群「無政府主義の目標と戦術」 七月号(第一巻第五号)主題「性の処理」/高群「無政府主義と性の処理」 八月号(第一巻第六号)主題「女流糾弾」/高群「生田花世さんに私信がはり」 九月号(第一巻第七号)主題「無政府孌愛」/高群「無政府孌愛を描く」 一〇月号(第一巻第八号)主題「都會否定」/高群「美人論(都會否定論の一)」 一一月号(第一巻第九号)主題「無政府道徳」/高群「階級道徳と無政府道徳」 一二月号(第一巻第一〇号)主題「無政府自傳」/高群「高群逸枝」 □一九三一(昭和六)年 一月号(第二巻第一号)主題「我等の婦人運動」/高群「我等の婦人運動」 二月号(第二巻第二号)主題「性の経済」/高群「新無政府主義問答(八)」 三月号(第二巻第三号)主題「一周年記念號」/高群「婦人戦線一年 婦人思想史」 四月号(第二巻第四号)主題なし/高群「随筆・夜を行く」 五月号(第二巻第五号)主題「男性物色」/高群「孌愛と性慾」 六月号(第二巻第六号)主題なし/高群「みぢめな白百合花の話」
これ以外に逸枝は、「吠えろ女性」を第一巻第四号から第二巻第一号までと、第二巻第四号に連載しています。これは、松井須磨子の人生を題材にした長編叙事詩で、第一章が「序曲」で、最後の第十六章の表題が「妻」です。そこから判断しますと、「吠えろ女性」は、連載誌廃刊に伴う未完の作品となった可能性もあります。
また、第一巻第六号の巻末や第一巻第八号の巻頭を見ますと、解放社から出版予定の高群逸枝著『強権に抗す』の広告が掲載されています。そのなかに「内容目次」が紹介されており、第一篇「無政府主義の思想と實行」、第二篇「無政府主義者宣言」、第三篇「無政府原理考」となっています。その説明によると、既発表の雑誌論文等を集めて一著に編集されたもののようで、この本は『黒い女』の姉妹編として位置づけられていました。広告の文面には、次のような文字が踊ります。
全人類を、民衆を、労働者農民を、婦人を、眞に開放し眞に導く思想は何か、無政府主義である!……醜怪なる強権マルキシズムの没落は既に時間の問題となり終わり、今や全民衆の認識と創造力はアナーキズムにおいて偉大なる飛躍を準備しつゝある時、我等いかに生くべきか? 何を為すべきか? 本書は強くそれに應ゆるであらう。
しかし、この本については、調べた限りでは国立国会図書館にも所蔵がありませんので、出版されることなくお蔵入りしたのではないかと思われます。当局によって「発禁」が命じられた可能性も否定できませんが、他方で、著者の側に何か個人的な問題が生じ、それにより原稿が取り下げられたことも考えられます。といいますのも、この時期逸枝は、「最大の夫婦の危機」に向かおうとしていたからです。憶測するに、そのような事情が背後にあったためなのでしょうか、『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」において、逸枝自身、この本については何も言及しておらず、いまになっては、その出版事情は闇に閉ざされたままとなっています。しかし、『強権に抗す』という書題、それに加えて、広告に示された「内容目次」から判断しますと、労働者に対する資本家の、農民に対する地主の、婦人に対する男性の、その強権と抑圧とを糾弾し、そこからの真の解放を目指して、マルキシズムに備わる強権的専制主義を排除する一方で、アナーキズムの絶対自由の思想内容が述べられていたものと思われ、『婦人戦線』の路線を強く背後で支える読み物となることが想定されていたにちがいありません。
それでは、詩的情感の発露から、アナーキズムへの指向を経て、原始母系制に関心を抱くようになるこの間の、逸枝の思考の経路は、どのようなものだったのでしょうか。ここで少し考察しておきたいと思います。
すでに成長の過程について詳述していますが、結婚に至るまでの逸枝は、森を愛する野生の娘であり、束縛を嫌う自由な乙女でもありました。それを「気狂い」といい、その行動を「奇行」と呼ぶ人もいました。両親にとっても理解しがたいものでした。他方、逸枝自身は、誰にはばかることもなく、自分を「天才詩人」の高みに位置づけていました。果たして、そうした自分はどこから来たのでしょうか。そうした自問に対しての逸枝の答えのひとつが、こうでした。
ある戀の日に、 青年が米を洗ひ、 少女が薪をとりに行つて笛を吹いてゐるのが、 不自然なことだらうか。 我々は、原始人類が、 かうした生活をしてゐたことを確信する3。
「少女が薪をとりに行つて笛を吹いてゐるのが」、逸枝にとっての詩作行為でした。逸枝は、「新自然主義の藝術は、普遍我の表現である。普遍我の、熱情の、無政府的爆發である。詩である」4といいます。普遍我の表現が無政府的爆發である詩であるならば、普遍我の実践が無政府的爆發である『婦人戦線』の刊行ということになるでしょう。そして、その無政府的爆發の内実は、逸枝にとって次のようなものであったと思われます。逸枝は、詩の形式をとって、こう語ります。
所有被所有の雰圍氣は、 この社會の社會的雰圍氣の中心。 勞働者は資本家に。 小作人は地主に。 妻は夫に5。
つまり、逸枝の認識するところによれば、いまや妻は夫の所有物に成り下がっているのです。その関係にあっては、もはや妻には、肉体的にも精神的にも自由はありません。いうなれば、そこには「一体的恋愛」それ自体が死滅し、「一体的恋愛」を常態に願う女には、その結果「家出」という行為が、本人の意思に関係なく、まさしく宿命的に自然発生するのです。しかし、多数の妻が、あるいはほとんどの婦人が、残念ながら、その実相に気づいていないのです。逸枝は、このように指摘します。
女たちは自覺をしてゐなかつたために、 泣き寝入をしてきた。 強い社會の雰圍氣がそれを押し流した。 けれども妾は押し流されはせぬ。 押し流すことが出來るものなら、 押し流して見よ。 妾のこの態度と自負を、 世間では誇大妄想だとしてゐる。 これは自然から得た態度と自負である6。
これまで「女たちは自覺をしてゐなかつたために、泣き寝入をしてきた」――果たしてそれは、いつからなのでしょうか。野生の子である逸枝の内にあっては、自身の遺伝子をさかのぼれば、つまり、自身の生命発生の起源を訪ねれば、それは「自然」のなかにあるにちがいないという自覚が、おそらく根づいていたにちがいありません。であれば、女たちが「泣き寝入をしてきた」のは、自分が理解する遺伝子的出自に照らして「自然から得た態度と自負」とが消滅して以降のこととなるでしょう。つまり、「自然」が成立していた原始あるいは古代の社会が崩壊したときに、女たちの「泣き寝入」がはじまったのです。それならば女たちは、「泣き寝入」にいち早く目覚め、歴史上の最初の共同体が崩壊する以前に存在していたであろう、懐かしき父や母が住む「宇宙」へと帰還しなければならないことになります。
妾はいま歸りませう 父よ母よ 宇宙が妾を呼ぶままに7
それでは、その原初の「宇宙」には何があるのでしょうか。そこに逸枝は、原始母系制の存在を、かくして直観的に見出したのではないでしょうか。
その一方で、これもすでに紹介していますが、『戀愛創生』において逸枝自身が書いているとおりに、疑いもなく逸枝は、マルクス主義を知り、海外のアナーキストたちの存在についても承知していました。しかし、アナーキズムの限界についても、すでにこのころには気づいたかもしれません。のちに逸枝は、このように語っています。
アナキズムの欠点は、必然論でなく、発展説ではないこと、したがって婦人解放史に学的根拠を与ええないことであるとおもう。またそれは同時に実践への弱点でもあるといえる8。
『婦人戦線』廃刊までにあって、もしそのような理解に達していたのであれば、自身のアナーキストとしてのとるべき道筋は何か、そう逸枝は自問したものと思われます。それは、一口でいえば、平塚らいてうが『青鞜』の発刊に際して述べた、「元始、女性は實に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」9を、確かな史料に基づき学術的に実証することだったにちがいありません。より一般化するならば、その自問の結果は、「火の国の女詩人」であり「アナーキスト高群逸枝」の義務と責任において、前人未踏のひとつの新しい学問として「女性史学」を打ち立てて、かつて日本には、女性が中心となっていた時代があり、次にそれが後退し、女性にとって被圧迫の時代を迎え、いまやっとこの時代に至って、そこから立ち上がろうとする女性の一群が出現しようとしているという認識と構想のもとに、まさしく日本女性がどう生きてきたのか、古代から現代までの全史を自ら通覧し、それを叙述することだったのではないかと思われます。
少し余談になりますが、過去の歴史に遡行して、そしてまた、ひとつのヴィジョンの先にある未来を展望して、いまの自分ないしは自分たちの生存のあり方を確認しようとする、詩人にしてアナーキストがたどる、ある種宿命的な身のゆだね方を、一九世紀英国のウィリアム・モリスに求めることができます。といいますのも、いよいよ晩年に入るとモリスは、中世の農民反乱を扱った「ジョン・ボールの夢(A Dream of John Ball)」(歴史小説)を、現在の社会主義者の政治的行動を素材にした「希望の巡礼者たち(The Pilgrims of Hope)」(物語詩)を、そして、革命後の人びとが生きる新世界を描写した「ユートピア便り(News from Nowhere)」(夢想的物語)を著わし、さらに加えて、最晩年のモリスは、アーニスト・ベルファット・べクスとの共著による『社会主義――その成長と成果(Socialism: Its Growth and Outcome)』を公刊し、そのなかで、過去から現在を経て未来へと進む社会主義とその運動の発展史を記述していたからです。こうしてモリスは、このときここに立つ詩人にしてデザイナーであり、はたまた社会主義者としていまに生きる自己を客観的歴史のなかに発見し、その存在の確かさを証明しようとしたのでした。
他方、逸枝はどうでしょうか。確かに逸枝は、モリスの「ユートピア便り」を読んでいました。わずか一箇所ではありますが、『戀愛創生』のなかにおいて、それについて言及しています。このモリスのユートピアン・ロマンスは、すでに過去においては堺利彦によって「理想郷」の訳題のもとに抄訳され、『平民新聞』に連載されていましたし、その後も、「芸術的社会主義」という名辞のもとにモリスの思想と実践に関する研究書や紹介書が絶えることなく続くなかにあって、逸枝が『戀愛創生』を発表する五箇月前の一九二五(大正一四)年の一一月には、布施延雄が「無何有郷だより」という訳書題でもって、至上社から上梓していたのでした。
それでは以下に、逸枝の『戀愛創生』から、モリスに関連する記述の一部を引用します。
ウイリアム・モリスの「無何有郷だより」をみると、多くの子供達が、そこでは、自由な生活をして、森から丘へと遊び戯れてゐる。そこには學校といふものはない10。
このなかの「子供達」を「女性たち」に、そして「學校」を「家庭」に置き換えて読み直してみますと、こうなります。「多くの女性たちが、そこでは、自由な生活をして、森から丘へと遊び戯れてゐる。そこには家庭といふものはない」。このとき逸枝が発見した、モリスの描くユートピアは、自らの魂に宿す理想世界と完全に一致したのではないでしょうか。
加えて、夫の憲三は、生前の逸枝の言葉として、このようなことを書き記しています。
[すべてを書き終わったら]また出発しましょう。あたたかいところに行って、そこで私は『女性の歴史』で書けなかった未来像を叙事詩のかたちで描くでしょう。たぶん私の最後の叙事詩となるでしょう11。
この一文は、最晩年には、暖かいあの熊本の「火の国」に帰郷して、モリスに倣って「ユートピア便り」を書きたいという、見果てぬ夢を語っているようにも読めます。本人が述べていますように、その叙事詩が描く内容は、『女性の歴史』(上、中、下、および続の全四巻)で扱われた女性の過去と現在の姿に続く、解放のための闘争に立ち上がった女性たちのその後の未来社会になることが想定されていたようです。しかし、それが世に出ることは、残念ながら、ありませんでした。もっとも、すでに、構想はできていたものと思われます。といいますのも、早くも逸枝は、『私の生活と藝術』に所収の「裸體の女」のなかで、こう予言していたからです。
戀愛も滅亡するのだし 人生も滅亡するのです (中略) 人はすると神々の生活にあこがれ 次第次第に 性を没した神人が出來上り 全く生殖をしなくなる12
しかし、モリスの場合もそうでしたが、逸枝のアナーキズム的詩編も、超現実的で夢想的で、非論理的なものとして、とりわけ「科学的社会主義」の立場に立つ論者から強い非難を浴びました。あるいは、一笑にふされることも、しばしばありました。逸枝は、自分の著書について、このように論じます。
大正一〇[年]に生田長江の推せんで「新小説」に自叙伝的長篇詩「日月の上に」を発表し、ついで「放浪者の詩」、関東震災直前の陰鬱な時代相をえがいた長篇叙事詩「東京は熱病にかかっている」を出していた。いずれも自己に忠実な作風のものであって、またそれらは、山川菊栄がらいてうの「青鞜」を嘲笑していったいわゆる空想主義やセンチメンタル性が、もっとも極端につきつめられ、謳歌された、あるいは投げ出され、それらを通じて生きる道を知ろうとしていた必死的な身がまえをもった作品だったといえる13。
逸枝の一連の詩編は、蔵原惟人たちが主張していたプロレタリア文学と全く異なっていました。プロレタリア文学が、プロレタリア・イデオロギーのプロパガンダとして、主として小説という形式によって階級闘争の実相を描こうとするのに反して、逸枝の文学は、あたかもその昔の野生の小鳥の美しいさえずりに似て、自身の生まれながらの言葉を誰に遠慮することもなく大声で発する詩歌の形式のなかに誕生しました。つまりこの文学は、理論の宣伝手段でも、理屈の強制支配でもなく、独り自身の解放を奏でる歌声だったのです。しかし、それに共鳴した女性たちが少なからずいました。そのひとりが、平塚らいてうでした。逸枝は、自分を客体化した表現を使って、こういいます。
らいてうは、こうした逸枝を東京の片隅で発見し、ある面での自己の後継者とみなしたのである。ただ、らいてうと逸枝とのちがいは、前者が高等教育をうけた高級官吏のお嬢さんであったのにたいして、後者はほとんど無教育といっていい山間の農家出身の貧しい小学教師の娘でしかなかった点であった14。
一方のらいてうは、逸枝についてこう書きます。
ともあれ、門外不出の研究生活に精進される高群さんとの文通は、そののちも折にふれて続けられ、「無性に好きなひと」として、高群さんの存在はいつもわたくしの心から消えることはないのでした15。
らいてうと逸枝の相互には、深い友愛が形成されてゆきました。それは終生続くことになります。
しかし、こうしたらいてうと逸枝のきずなの存続とは別に、『婦人戦線』の刊行継続には、幾多の問題が横たわっていました。
『婦人戦線』は、逸枝が思い描く「ユートピア」を発信する拠点となるものでした。しかし、その一方で、この拠点が置かれた憲三と逸枝の夫婦が住む「上荻窪二六九」の自宅には、さまざまな人が吸い寄せられてきました。逸枝が回顧するところによれば、「筋ちがいの個人や団体の寄付勧誘者もあれば、家出した娘や妻、身の上相談の母や夫たちもくる。むろん、特高や憲兵も。……それに私は『婦人戦線』には別名、匿名までつかって四、五種の原稿を書かなければならない。それらの過労が編集の上にも影響をしないはずはなく、雑誌は生気を失ってきた」16。
そのころのことです、もともとは夫の憲三の主導ではじまった雑誌の刊行であったにもかかわらず、その夫が、消極的な態度を見せ始めます。なぜだったのでしょうか。アナーキズムに対する熱情が冷めてしまったという精神的変容が底辺に存在していたことは明らかであるとしましても、それに関連した具体的な要因も幾つか考えられそうです。たとえば、解放社に支払う負担金が重荷になっていたのではないか、特高や憲兵による連行を避けようとしたのではないか、あるいは、当初志していた女性史研究の道に妻を連れ戻そうとしたのではないか、はたまた、第一〇章の「追慕――原郷の水俣で妻を顕彰する憲三の情愛と受難」において後述するような、夫婦のあいだに表に出すことがはばかられるような問題が発生し、そのことへの対応が迫られていたのではないか――おそらくは、何かひとつの要因によってというよりも、むしろ複合的な要因が絡み合って、そのときの憲三の内なる思いは形成されていたのではなかろうかと推量されます。ここに、「最大の夫婦の危機」が到来したのでした。
「最大の夫婦の危機」が迫ってきました。逸枝は、このように記述します。
『婦人戦線』は年を越したころから売れ行きががた落ちして、解放社から負担金を要求されるようになったが、私がKと真剣に話し合ったのがちょうどこのときで、私の苦悩は倍加したが、それでも責任をさける考えはなく、あらゆる方法で負担金をつくって命脈を保とうと努力した17。
『婦人戦線』の刊行を断念することは、この夫婦にとって、分裂を回避し、夫婦の関係を何とか持続させるうえでの、残された唯一の道でした。その選択肢が、ふたりのなかでどう形づくられていったのか、以下は、それについてのひとつの素描ということになります。
このころ逸枝は、『婦人戦線』の月例研究会や、他組織との合同研究会等にしばしば出席していました。それは彼女にとって大いに裨益するものでした。しかしながら、それに対して夫が示した態度は、実に冷淡なものでした。それでは、妻の言葉に耳を傾けたいと思います。
こうして私には研究集団も革命運動の一環たるべきことがようやく切実に自覚されてきた。私は革命者でなければならなかった。ところが私がこの転機に直面し、いわばウルトラの自分に良心の呵責を感ずるようになってくるにつれて、それと反比例してKの興味は去っていくようだった。私は彼をともに会合に出るように誘ったが、彼は、 「ひとりで行きなさい」 と突き放した18。
なぜ憲三は、会合への出席に対して後ろ向きの態度をとったのでしょうか。その理由については、逸枝は直接何も明確に述べていませんが、その結果がどのようなことをもたらすかについては、十分に理解できていたようです。
こうなると彼が冷酷であることはかつて城内校で経験ずみだった。しかし城内校の場合は繊月城跡とか球磨川探訪等の問題にすぎなかったが、こんどはそれとちがい、私がひとりで私の目ざすコースをとることは、きょくたんにいえば彼と私とが、敵味方に分裂することだった。ここにきて私は最大の夫婦の危機感にさえ、見舞われる思いだった19。
「敵味方に分裂する」という言葉に着目すれば、「最大の夫婦の危機」とは、逸枝は、革命者であることを強く望み、一方の夫の憲三は、それへの情熱がすでに薄れ、日和見主義者へと後退した結果、そのことによってもたらされるであろう、夫婦間の亀裂ということになるのではないでしょうか。こうして、ここに来て、アナーキズムに対する親密度の差が「最大の夫婦の危機」をもたらしたのでした。夫婦それぞれに言い分はあるでしょう。逸枝は、両者の言い分を、このようにまとめています。少し長くなりますが、この時期のふたりの立場をよりよく理解するうえで必要かと思われますので、以下にその箇所の全文を引用します。まず、自身の言い分について――。
私は最初から集団を組織する確信も、ましてその集団の主宰者となる自信もなかったが、それらのことをむしろ強くすすめたのはKではなかったか。それだのにKが途中で外れて私をひとりにすることは無責任ではないか。これが他のことなら私はこれまでやってきたようにKに曲従するだろう。しかし、この場合はそうした私的問題ではない。すでに引き受けたときに私の態度は決定している。私はこの責任を生命にかけても堅持しなければならないというのが、私のいい分だった20。
次に、夫の言い分について――。
彼のいい分は、彼は私に女性史研究をすすめておきながら、いっぽう偶然のことで『婦人戦線』を持ち込んで、こんな手違いになったことをあやまりたい。けれど前から懸案の研究所の場所も世田ケ谷に物色中であるから、彼はそのほうを押し進めることにしよう。研究と運動とが両立しないわけでもなかろうというのだった21。
このように、『婦人戦線』と女性史研究を巡って、ふたりの見解が対立します。それぞれがそれぞれの立場を強く主張し譲らなければ、「最大の夫婦の危機」は現実のものとなり、夫婦の関係は崩壊します。そこで、逸枝が書くところによれば、「研究生活に入る前に私とKとはつぎのような話し合いをした」22のでした。いわば、「研究所設立準備会合」です。
夫は妻に、このようなことを伝えます。
……そのくるしみのためによそ目には逆上して支離滅裂にさえなり手のつけようもなくなったようなあなたのなかに、あなたの本来の火の国的な炎のような個性や高貴な才能や、あなたの全面的に人をはっとさせる野性的な美貌――これらの抑圧されていたものが一時に輝き出たことはまさに驚嘆すべき現象だったと思う。……どんなことをしてもあなたを手ばなしたくなかったのです。しかし馴れてくると、あなたがやはり従順なので、私もまた持ちまえの独裁者になったようだった。……もう私たちも三十歳をいくつか越した。ここらで根性をすえてかからねばならない。……私はあなたのもっとよい後援者になろうと思うのだ。……社会運動はロマンチシズムではいけないと思う。また、各人にはそれぞれ長所がある。その長所をもって貢献すべきだと思う。あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた女性史の体系化だ。生活は私が保証する23。
すると、かつての「独裁者」から変容したこの夫の言葉に、妻は「感謝のあまりいつものくせで泣いてしまった」24のでした。そして妻は、こう応じます。
でも私には長所なんてものはないの。だから長所をもって貢献するという自信もないの。ただ私の希望を率直にいうなら、それは私が将来有名な学者になることではなく、生涯無名の一坑夫に終わることなの。これはもちろん一種のエゴイズムでしょう。……名声も収入もなく、だからただ貧困と病苦とだけが伴う。……それは、こんな私をただ一人で保護してくださるあなたをまでもたぶんまきこんでしまうことになるでしょう25。
それに対して夫は、「いいよ、二人でやろう」26といって、笑ってうなずくのでした。
実に仲睦ましい会話内容です。かくして、「最大の夫婦の危機」はこれで消滅し、新しい夫婦の未来像が構築されてゆきました。逸枝は、次のごとくに、いいます。
こうして、私は夫のつよい心からのすすめもあって、意を決し、ここに過去いっさいの生活をふりきって、おそろしい未知の世界にはいっていったのであった27。
逸枝がこのとき振り捨てた「過去いっさいの生活」とは、具体的には何を指すのでしょうか。何も明示されていません。そしてまた、「火の国の女の日記」において逸枝が書く「最大の夫婦の危機」の内実と、「おそろしい未知の世界」に入る決意とのあいだには、明らかに大きな隔たりがかいま見られ、決して語り尽くされているとはいえません。それぞれの内面に存する、譲りがたい思いは、具体的にどのよう観点に立って首尾よく整理がなされたのでしょうか。このときの話し合いの過程から構築されるに至ったであろう夫婦関係にかかわる新たな原理が、それ以降のこのふたりの言動を規定する重要な鍵となる部分ではないかと考えられます。裏を返せば、このときの話し合いの内容が明らかにされない限り、この夫婦が晩年に至るまで自身の人生とどう向き合おうとしたのか、その真実の姿についての理解は、自ずと散漫にならざるを得ないのではないかと思われるのです。しかしながら、本人たちはそれについて何も語っていません。いまや、それは推論するしかないのです。そこで、関連しそうな、残された部分的紙片を拾い上げながら、あくまでもひとつの参考的試論として、以下にその物語を組み立ててみたいと思います。
憲三と逸枝が合意した和平の姿は、一見すると、一年前に『婦人戦線』の第二号に逸枝が書いた「家庭否定論」からはとても想像できない夫婦像となっています。改めて該当箇所を引用します。そこには、こうした言説が並べられていました。
そこで目ざめた婦人は、「家庭をケトバス」ことが唯一の最上の手段であることを知つた。 家庭とは何か。元來それは豚小屋と刑務所を意味してゐるではないか28。
他方で、のちに逸枝は、「毎朝八時にKを送り出すと帰り夕方五時までは扉はすべて鍵をかっ(ママ)て仕事一すじに専念した」29と回想しています。なぜ、「鍵をかけて」まで家のなかに閉じこもる必要があったのでしょうか。果たして、ふたりが合意した家庭とは、まさしく豚小屋か刑務所のような場となることが、想定されていたのでしょうか。
ここでどうしても思い起こしたいのが、第四章「宿命――震災後の逸枝の家出事件とふたりの愛の行方」ですでに触れています、逸枝の家出のくだりです。六年前の一九二五(大正一一)年の九月、次のような置き手紙を残して、逸枝は、当時自宅に寄宿していた憲三の友人男性と家出をします。「さよなら。さよなら。……金を少し下さい。××さんに返します。そこまでいっしょに行き、わかれ、それからひとりになります」30。このとき、憲三は、警察に保護された逸枝を迎えにゆき、東京に連れ戻します。このように、実際のところすでにこの夫婦は、先立って「最大の夫婦の危機」をこのとき経験していたのでした。しかし憲三は、妻のこの行為に耐え切れず、別居を切り出したり、離婚を迫ったりすることはありませんでした。なぜでしょうか。逸枝が亡くなったあと、憲三は「森の家」で石牟礼道子とおよそ五箇月間の同居生活をします。そのときの生活の様子を石牟礼はノートに書き留めていました。主としてその内容を綴った作品が「最後の人」で、そのなかに、憲三にとっての逸枝像が、こう描写されています。「最後の人」は、その後水俣に帰還した憲三が発行することになる『高群逸枝雑誌』に連載された、逸枝と憲三を扱った評伝です。
あのひとは、あのひとの心は、人類とともにいつもあって、僕はそれをおもう……彼女はやはり天才者だった……。彼女は三十七歳で研究にはいったが、僕はもっと早く準備をしてやれたらなおよかったと思う。もっと早く気づくべきだった……31。
このように憲三は、妻の逸枝を「天才者」であることを認めているのです。それであれば、その「天才者」が決行した別の男性との逃避行も、自身の妻に対する日頃の言動に反省を促すことこそあれ、「天才者」のみに許される特権的行為として、相手を責めることもなく、容認へと向かったのではないでしょうか。しかし、逸枝には、次のような恋愛感覚が、感性の一部に宿っていたことも事実でした。以下は、生田長江が逸枝を「天才者」と評したときの詩集「日月の上に」に現われている一節です。原郷「火の国」に伝わる、幼き日に見聞きした遺俗なのでしょう。逸枝は、原始母系制の残照をここに見出していたのかもしれません。
お祭の夜には 若い男女の 自由戀愛が許される 若い衆はくじ引をして 女をきめる 女は従順(すなを)にお化粧をして それを待つてゐる32。
したがいまして、妻が家に男を招き入れないように、そしてまた、妻が男と家から出てゆかないように、「扉はすべて鍵をかけて」おくように夫が妻に命じたとも考えられますが、他方で、妻にしてみれば、「自由戀愛」は太古の昔の恋愛形式の名残であり、男の嫉妬心はその後に生まれた支配原理の一部である以上、大した罪の意識はなかったものと思われます。しかしながら、これから入る「おそろしい未知の世界」を前にして、もはや「自由戀愛」に興じる余裕などはないとはいえ、それをきっぱりと遮断し、執筆へ向けた不退転の決意を自分から形に表わそうとして、ひょっとしたら無意識のうちに、魂の鍵のみならず、進んで「門外不出」の「鍵をかけて」籠城してしまったのかもしれません。妻は、こういいます。
だがもう賽は投げられていた。いまはだれに訴えることもできないし、さく衣をきせられた狂人のように、どんなにわめいてみたところで、一軒家のひとりぼっちの私の声は、けっしてどこにもとどかないだろう。けっきょく私は出発し、前進するほかなかったのだった33。
それはそれとして、すでに上で紹介したように、憲三は、「彼女は三十七歳で研究にはいったが、僕はもっと早く準備をしてやれたらなおよかったと思う」と、漏らしています。もし、こうした憲三の後悔の言葉をこのとき直接聞かされていたとすれば、なぜそうしてくれなかったのか、逸枝は、涙ながらに訴えたかもしれません。といいますのも、その一〇年くらい前に、すでに逸枝はこう漏らしていたからです。
妾が女詩人として/九州から出て來た時に/お前が妾に呉れたものは/不自由と不幸とであつた 云つて呉れるな/貴女の御本領は詩作ですなどと/なぜ我々は/詩作の爲めに苦しまねばならないのか34
逸枝にとってのつらい日々は、上京して以来、続いていました。その延長として、家出もしました。もしそのころ、自分の気持ちを少しでもわかってくれていたら、何も、いがみ合う事態に陥ることはなかっただろうにという思いが、切々と逸枝の胸に込み上げてきたにちがいありません。以下は「放浪者の詩」のなかの一節です。
ある日妾が浮氣をして お嫁に行つて仕舞つたので こんなに二人は仲が悪るく 睨み合つて暮らしてゐるのだ35
これは、逸枝が出京する前の四国巡礼の前後に発生した、憲三以外の男性とのかかわりを念頭に置いてつくられた詩片でしょう。いまだこのときの憲三は、逸枝の自由に対する根源的な欲求を十分に理解ができていなかったようです。それから月日が流れ、このふたりの話し合いのなかで、憲三は、妻に対する態度を変える必要性に気づかされたものと思われます。それは、それまでの憲三が無自覚のうちに身につけていた伝統的な男性の存在様式に手を加えることでした。晩年に至って憲三は、同居中の石牟礼道子に、こうささやきます。かつて逸枝は、「家庭をケトバス」という表現を使いましたが、このときの憲三は、「家庭爆破」という言葉を用います。
ボクはね、男の一生を棒に振って女房につくした、という風におもわれているのですよ。僕は家庭爆破に、いささかの協力をしただけですよ。かといって僕たちはとくにボクは、家庭の遺制、つまり男権社会の遺制の中に育ったから、とくにボクはそれをひきずっていたから、一度これを爆破しなければ、女性は、全面的に生れ替ることはできない。それが自分の体験でよくわかるのです36。
「家庭とは何か。元來それは豚小屋と刑務所を意味してゐる」――これが逸枝の認識でした。しかし、かくして「家庭爆破」により「豚小屋と刑務所」が、その姿を消した以上、それに代わる新しい何らかの空間が再建されなければなりません。それは、どのようなものだったのでしょうか。
それは、逸枝にとっては、憲三の要求を受け入れ、本来的に身に宿していた詩人である部分とアナーキストである部分を振り捨て、それに代わって、しっかりとした婦人解放の自覚のうえに立って、女性史の未出現の書き手としてその王道へと進み入ることであり、憲三にとっては、望むと望まざるとにかかわらず、いつしかしみついてしまっていた「男権社会の遺制」を意識的に振り払い、編集者としての職分をしっかりと自覚したうえで、「天才者」である書き手だけが含み持つ金色の才能を探り当てることだったのではないかと推量されます。
ここでいう「編集者としての職分」とは、出版社との事前の打ち合わせや契約、書き手の書く原稿の整理やとりまとめ、献本や寄贈本の送付、印税収入の管理、原稿用紙やインクなどの購入、図書館での調査、古書店などにおける史料等の発掘と入手、日々送られてくる雑誌や新聞や手紙類の整理整頓といった業務を含みます。その一方で、生活のためには、やむなく、いわゆる「売文」も書かなければならず、そのためには雑誌社や新聞社などとの交渉が欠かせません。そして、さらに重要なことは、日常的に書き手のよき相談相手になり、悩んでいるときなどには、執筆の方向性を与えたり、打開策を示したりする業務も加わるのです。先を読む力に裏打ちされた高度の管理能力が問われる仕事であるといわざるを得ません。まさに、平凡社での経験が生かされる場面です。当然ながら、編集者なくして書き手は存在できませんし、書き手なくして編集者は存在できません。それは、たとえば金魚鉢という空間における金魚と水の関係に似ています。「家庭をケトバス」ことで「家庭爆破」が起こったのちに再建が予定されていた夫婦の関係とは、そのような次元においてはじめて機能する新しい男女の関係だったのではないでしょうか。これが、逸枝が『戀愛創生』で説いた一体主義の原像だったのかもしれません。道子は、憲三のもつ美質をこう評価します。
事業家、経営者として、憲三がいかにすぐれた資質者であることか。『高群逸枝全集』を出現させてゆく過程をつぶさに見てゆくと『大日本女性人名辞典(ママ)』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった。これを出版したときのパンフレットなどを読んでも隠されているその綿密な企画力、実行力、持続力、全過程への心配り、さらには事後処理の完璧さにおどろく37。
道子は、この一節で憲三を「編集者」という言葉は使わず、「事業家、経営者」という用語で形容しています。「事業家、経営者」とは、「労働者」を賃金で雇い、強権的に支配する立場にある人を連想します。かつて逸枝は、苦しい日々を送っていたころの日記に、このような文でもって夫の強権ぶりを書き記していました。
きょうも夫が出て行けという。いくど夫はこの言葉を使うだろう。これはブルジョアがプロレタリアにたいして、その弱身につけこんでいう悪辣な言葉とおなじに悪辣である。こうした言葉は使って欲しくない38。
もし憲三が「編集者」の立場を逸脱し、今後、「事業家、経営者」としての顔を露わに見せるようになれば、逸枝は、再び単なる著述家プロレタリアートの位置におとしめられる可能性があります。それを考えると、逸枝にとって、「事業家、経営者」としての夫に、完全に身をゆだねるには、あまりにも大きな危険が伴います。だからといって、「編集者」としての夫の優れた能力をこのまま見捨てるわけにもゆきません。さらに加えるならば、すでに上で引用していますように、家出をした際には、「金を少し下さい。××さんに返します」と、憲三に依頼しています。旅先の郵便局で受け取るつもりでいたのでしょうが、これは、日常の金銭的管理が逸枝自身の手によって自立的になされていなかったことを示唆します。さらに、第五章「闘争――『婦人戦線』に立つアナーキスト夫婦の協同」において示しているとおり、らいてうが観察するところでは、逸枝は、「身ごなし全体がのろいという感じで、靴をはくのもテキパキはけないような人でした」。このことは、身体的にひ弱であったことを表わします。加えて、憲三が道子に語ったところによれば、逸枝は「洗濯がとても下手で、僕の方がずっと上手で……放浪は出来ても商売など出来る筈はない」39女性でした。そうした諸々の事情を勘案すれば、もはやこの場に及んでは、夫を信じ、そこに身をゆだねるほかないのです。逸枝は、こう書いています。
この物すごいエゴイストは興味のない事柄や人物には冷淡だが、決意したことにはさりげない誓いのうちにも、私を心のずいから信頼させるものを持っていた。私はいまは遠慮なくそれに依存しようと思った40。
逸枝が指摘するように、確かに憲三は、エゴイストなのでしょう。これは、本人の「本性」にかかわる部分で、「男権社会の遺制」とは別の相に属するにちがいなく、自身の意思や判断によって容易に破棄することはできません。憲三は、自身のこの「本性」を「法治主義」という用語で呼びました。おそらく憲三には、真偽、善悪、美醜のそれぞれについて独自の法規範、つまりは判断基準があり、それにより自分の生活全般を律する性格が憲三に備わっていたにちがいありません。こうした憲三の「法治主義」を、道子は次のように観察していますので、紹介します。
……先生は、ご自分の感受性までも、「法治主義」で律しようとなさっていた。法治主義でしばってもあふれ出てしまう分の始末に困ると、先生は高くほがらかな声で、よく笑い出されてしまう。溢れ出た感性をまた法治主義でつないで、全集の編纂が出来あがる。男の感性は、水に似たところがある、とわたくしは観察したりする41。
これが、憲三のエゴイズム、換言すれば「法治主義」の内実でした。しかし、一方の逸枝自身にも、将来の希望にかかわってエゴイズムが内在していました。いま一度、その箇所を引用します。
でも私には長所なんてものはないの。だから長所をもって貢献するという自信もないの。ただ私の希望を率直にいうなら、それは私が将来有名な学者になることではなく、生涯無名の一坑夫に終わることなの。これはもちろん一種のエゴイズムでしょう42。
つまり、ここにあって、単なる夫婦の表層的愛を越えた、立場の異なるふたりの内から湧き出るエゴが向かい合っているのです。そして、そのエゴが互いに支え合って、つまり、うまく利用し合って、ふたりの関係が何とか安定的に保たれようとしているのです。どちらかの一方が、そのエゴを内にしまい込み、相手のエゴの批判に走れば、一瞬にしてその関係は瓦解する恐れがあります。この新たな最少人数によるプロフェッショナルな家内制生産工房には、こうした特殊な力が存在し作用していたのでした。これが、旧い「家庭」が崩壊し、その後に新たに生まれ出ようとする「職場」における、いわば「職務規定」となるものでした。文学的でもあり、経営学的でもある、この空間的構造を支える原理的力学をふたりは相互に認識することによって、「森の家」で操業を開始するにあたっての話し合いは、最終結論へと導かれていったのではないかと、愚考する次第です。
以上を内容とする「研究所設立準備会合」の結果、『婦人戦線』の継続について「私はこの責任を生命にかけても堅持しなければならない」という逸枝のひたむきな思いは退けられ、これまでと同じように夫の主張に、否、もはや夫ではなく編集者としての主張に、逸枝はやむなく従うことになります。かくして、奥付に名が挙がる「発行兼編集印刷人」たる逸枝の頭を越えて、おそらく憲三の強力な主導のもとに解放社との協議が進められ、『婦人戦線』は廃刊へと至る一方で、同じ版元から出版が予定されていたアナーキズム論集である『強権に抗す』も、同じ運命をたどることになったものと思量されます。
結果として逸枝は、意に反して、責任感と使命感を放棄して、一九三一(昭和六)年の六月号を最後に、『婦人戦線』の刊行を断念することになるのでした。そして一転して逸枝は、集団的婦人運動に幕を降ろし、婦人問題を考えるうえでの原点にさかのぼるべく「女性の歴史」にかかわる孤高の学術研究へと突き進んでゆくのでした。
この時代の自身の仕事について、逸枝は後年、こう振り返ります。
上落合から上荻窪にかけてのいわば路地裏時代は私にとっては不毛の時代だった。わずか下落合の閑居での『恋愛創生』と、主として上沼袋で書いた散文詩めいた小説集『黒い女』が心にのこっている。…… その他には、六年四月に『女教師解放論』(自由社)、同七月に『婦人生活戦線』(宝文館)が出されているが、これらは路地裏時代の雑文集に過ぎないだろう43。
逸枝は、この時代を「不毛の時代だった」と回顧します。『婦人公論』や『女人藝術』における論戦も、『婦人戦線』における主義主張も、逸枝にとっては、実りのない単なるあだ花だったのでしょうか。一方、『女人藝術』が終刊するのが、翌年(一九三二年)で、その次の年(一九三三年)には、プロレタリア文学の旗手と目されていた小林多喜二が官憲の一方的強権により虐殺されます。その意味において、憲三の「編集者」あるいは「事業家、経営者」としての目が、ここにおいて実に「機を見るに敏」に機能したのでしょうか。
震災後軽部家を出て上落合で借家生活をはじめたのが、一九二四(大正一三)年の二月のはじめでした。それからおよそ七年半の路地裏時代(上落合、東中野、下落合、上沼袋、そして上荻窪)を経て、一九三一(昭和六)年の七月一日、世田谷町満中在家五六二番地に建築した「森の家」に憲三と逸枝は入居し、逸枝は、女性史研究の一歩を踏み出し、一方の憲三は、おおかたの家事を行ない、逸枝の執筆を支える編集の業務に専念することになります。
ヘビの夫婦は仲よく土のなかで暮らしているといいます。憲三と逸枝は、ともに一方の尾を口にくわえ輪となって生きる「双頭の蛇」よろしく、世間から隔離されたここ「森の家」に、こうして住み着いたのでした。
こうして『婦人戦線』は姿を消しました。一方の逸枝のこのときの心情は、どうだったのでしょうか。一九三一(昭和六)年六月に発刊された『婦人戦線』の最終号(第二巻第六号)に、逸枝は、「みぢめな白百合花の話」と題された短編の寓意物語を寄稿しています。以下は、物語に入る前の冒頭の前言です。
これは童話といふよりも、幼な心の記録とでもいふべきものです。幼な心には色々な悲しみがあります。みぢめな境遇にある子供は、えてかうした頼りない心の悲しみを味はうものです。おお、わたしはほんとうにそんな子でした。そして今も44。
これは、最後の「そして今も」の字句を巡って、両義的な解釈が可能な一文ではないかと推量されます。ひとつの解釈として、「そして今も」のあとに、「別のみぢめな境遇に私はあるのです」を補ってみます。すると、現在の「みぢめな境遇」が浮かび上がってきます。おそらく、憲三との話し合いの結果は、必ずしも十分に自分の魂を満たすものではなく、それによって、子どものときに味わったような「頼りない心の悲しみ」が逸枝の身を包んでいる――そのようなことが示唆されているのかもしれません。しかし、女性史を書きたいという自分の意思は事実であり、憲三の言い分にも事実が含まれ、それでも割り切れない部分が事実として残る。こうした真実の積み重ねのなかにあって身動きがとれないむなしい自分の姿を、逸枝は「みぢめな白百合の花」に例えて、自画像化しようとしたのではないでしょうか。最終号を意識するなかにあっての、これがこのときの逸枝の偽らざる心情の一部だったにちがいありません。晩年、逸枝は、自分の性格について、こうしたことを漏らしています。
私は自分に自信がなく、ひとに対して依頼心と依存心があり、自分自身だけでは考えを 発展させることができないのをなんとしよう。ここに私の夫への奴隷根性があるのだろう45。
そうであれば、逸枝の悲しみや苦しみは、部分的には、内在の「依頼心と依存心」とに起因する自己の「奴隷根性」から派生するところの、一種の自己憐憫の情だったのかもしれません。
他方で、もうひとつの解釈として、「そして今も」のあとに、「変わることなく私はそう思い続けているのです」という補助線を引いてみます。すると、現在もなお子ども時代の「みぢめな境遇」のことが頭から離れず、逸枝の身にのしかかっている姿が浮かび上がってきます。「頼りない心の悲しみ」のなかには、母と娘の精神的葛藤が含まれている可能性も排除できません。
「嫁入り婚」の時代にあっては「嫁と姑の問題」がつきまといますが、「婿取り婚」の場合は、「母と娘の問題」が介在します。それを前提に考えますと、原始母系制に関心を抱いた最初のころ、逸枝は実際の母親と自分との関係に思いが至ったのではないかと想像されます。まず母があって、次に「婿取り婚」によって娘が生まれ、さらに次に、同じく「婿取り婚」によってまた娘が生まれる、こうした安定した継承が母系制の原理であるとするならば、自分自身の系譜にその遺俗は見当たらないか、そう思い逸枝は、みぢかな場所に目を向けた可能性はないでしょうか。といいますのも、「母と娘」が生き生きとした関係でつながっていれば、そこに母系制の遺俗の残照をかぎ取ることができますし、逆に険悪な関係で成り立っていれば、そこに母系制が終焉した要因を類推するきっかけを見出すことができるかもしれないからです。結果として見出した逸枝自身の「母と娘」の関係は、正確にはわかりません。しかし、六年前の一九二〇(大正九)年、逸枝が二六歳のときに、母親は亡くなりますが、立ち会えなかった娘に対して母親は、「世の中に貢献する仕事をするように草葉のかげからいつも祈っている」46という言葉を遺します。そのことから連想しますと、「意を決し、ここに過去いっさいの生活をふりきって、おそろしい未知の世界」である母系制研究に参入するに当たり、逸枝は、「みぢめな白百合の花」を自分自身の手で母親の墓前に捧げようとした可能性もあながち否定できないように考えます。
それはそれとして、話し合いの結果を受けて、逸枝は、いよいよ女性史研究に向かうことを改めて決意します。それでは逸枝は、ここへと至るこの間、女性の置かれている状況をどう認識していたのでしょうか。いま一度『戀愛創生』に立ち戻りたいと思います。そのなかに、こうした一節があります。
婦人ほど、悲惨なものが、今日あろうか。彼女は暗黒、彼女は打ちひしがれてゐる。八方から叩かれてゐる。死滅しないのは、死滅する餘裕がないからである47。
別の箇所では、このようにも述べます。
愛の女神を原始の森の中から連れてきて現在の家庭のなかにおしこめたならどうであらうか。彼女はきつと、遠い故郷にあこがれて涙の日を送るに違ひない。 (中略) しかし、耐へてゐるといふことは、あきらめてゐるといふことではない。彼女は、積極的に、かの光明と、自由とへ、この家庭を推し進めて行かうとする意志と、行為とをもつて立つであろう。 このとき、彼女は社會に宣戦し社會に火蓋をきらねばならない48。
ここにいう「愛の女神」とは、逸枝の化身であるにちがいありません。その彼女が、いままさに「社會に宣戦」を布告しようとしているのです。逸枝の信じるところによれば、結婚制度のはじまりとともに、自由で自然な「恋愛生活」も終わりを告げ、一夫一婦制のもと、妻は夫の私有財産の一部と化し、女たちにとっての耐えがたい屈辱の時代が幕を開けたのでした。屈辱から立ち上がり、「かの光明と、自由とへ」解き放された暁には、何が待っているのでしょうか。それは、逸枝の書物のタイトルにある「戀愛創生」の一語に凝縮されるところの新世界であるにちがいありません。つまりは、人類がすでに失ってしまい、いまや忘れ去られてしまった「恋愛」の創生(あるいは再生ないしは復活)がそこに待っているのです。それは、逸枝にとってみれば、一方で、私有財産と一夫一婦という強権制度の解体を、そしてもう一方で、理にかなったひとつの母性保護の創造を含意するものでした。
それでは、「愛の女神」がかつて住んでいた「原始の森の中」とは、どのような世界だったのでしょうか。それに相当する部分を拾い出してみます。
農耕の生活が安定するやうになつてくると、ここに始めて人類は、経済的に最も安定した生活を送ることが出來た。それと共に、母系制度が確實な形をとつて現はれ、民族は財産共有の基礎の上に立てられた。即ち、それは共産主義的な社會の形式であつた。婦人はこの血族團體の指導者であり、支配者であつて、大いに尊敬せられ、彼女の意見は、家庭内におけると同様、種族の問題に関しても大いに尊重せられた。彼女は仲裁者であり、裁判官であり、神官として宗教的信仰の義務を盡していた49。
逸枝は、女を中心として成り立っていたであろうと思われる社会の根幹をなす「母系制度」に着目します。こうして、いまだ闇に閉ざされていた「女性の歴史」の発掘作業がはじまるのです。それは、男によってつくられた「歴史」を敵に回しての逸枝にとっての「聖戦」であったにちがいありません。といいますのも、それは、婦人解放のための史的根拠の創出であり、解放戦線に使用する「武器」の製造を意味したからです。そのための場として、富農で援助者の軽部仙太郎・なみ夫妻が、間口一〇間、奥行き二四間の二百坪の土地を貸し与えました。一九三〇(昭和五)年一二月二日の日記に憲三は、「軽部仙太郎さんみえる。家屋新築の件」50と書いています。すでにこのころから、『婦人戦線』からの撤退は考えられており、逸枝にとっての新たな転戦の場が設けられようとしていたのかもしれません。住所表示は「世田谷町満中在家五六二番地」で、小田急線の経堂駅から徒歩二〇分のところにあり、周りは森と雑木林が点在し、富士山を望むこともできました。そこに、六室からなる二階建てを新築し、その一室が逸枝の仕事部屋にあてられました。逸枝と憲三はこの家を「森の家」、のちには「女性史学研究所」と呼びました。「上荻窪二六九」の借家からこの新居にこの夫婦が引っ越したのは、『婦人戦線』の事実上の最終号が発刊された六月一日からちょうど一箇月後の一九三一(昭和六)年七月一日のことでした。
逸枝は、仕事初日のことにつきまして、晩年に至るまで忘れることなく、記憶していました。
仕事場はできたけれども、五坪の書斎のまんなかに、三尺の机をぽつんと置き、『古事記伝』(本居宣長)を一冊のせて座ったとき、書架や書庫にはまだ何一つなく、金もなく、多難な前途がしみじみと思いやられた……51。
他方で、この日逸枝は、刊行をまぢかに控えた『婦人生活戦線』につける「序文――若き友に與ふ」を書きました。この「序文――若き友に與ふ」は、「これを書いてゐる今、窓の外はいちめん七月である」ではじまり、「昭和六年七月一日 世田ケ谷の寓居にて 著者」で終わります。そして、四日後の七月五日に寶文館から世に出ました。この『婦人生活戦線』は、「第一 現代と婦人生活」「第二 婦人問題の發展」「第三 婦人運動の諸相」「第四 戀愛と結婚」の全四章から構成される、若い女性に向けて書かれた婦人論でした。印税収入は、当面の生活費と研究費にあてることが企図されていたものと思われます。こうして、逸枝の女性史研究がスタートしたのです。そのとき逸枝は、三七歳になっていました。
『大日本女性史 母系制の研究』に入るに先立って、逸枝は、これまで日本においてどのように女性史研究が進められてきていたのか、先行研究の状況を調べたものと思われます。それについての逸枝の認識はこうでした。
外国には、たとえばエンゲルスの「家族私有財産および国家の起源」とか、ベーベルの「婦人論」などの、いわば女性解放の聖典ともいっていいものがあったが、わが国にはそれらしい学問の名に値するものといっては一つもなかった。 (中略) もっとも、たとえば河田嗣郎の「家族制度の発達」(明治四二)「婦人問題」(同四三)とか、堺利彦の「男女争闘史」(大正九)とかは、主として前記の外国文献等によった尊敬すべき編著であるが、その日本史ないしは日本女性史的観察となると幼稚というほかないものであった52。
そこで逸枝は、このように考えました。
日本では、女性解放の思想や運動は、明治以降顕著になったが、女性自体の被圧迫史ないし生活史については、ほとんどなんらの研究努力もはらわれていなかった。歴史を無視して現実の把握ないし未来の展望が可能であろうか。私はそうかんがえた。 (中略) そこで私は、日本女性史をテーマとし、「女性史」という新しい学問の一分野の開拓――つまり、女性史学の樹立というようなことをかんがえた53。
次に逸枝は、「新しい学問の一分野の開拓」に向かうに当たって、その全体像を構想したにちがいありません。これについて逸枝は、一九三八(昭和一三)年に発表する『大日本女性史 母系制の研究』の巻頭の「例言」のなかで、以下のように、それを全五巻で構成したい旨の抱負を述べています。驚くべきことに、このような早い段階において逸枝は、自身の「女性史学」の全構想を示したのでした。ここに「高群史学」の全貌が姿を現わすことになります。
一、私が書かんとする女性史は、若しすべての事情が之を許すならば、次の五巻としたい考へである。 1 母系制の研究 2 招婿婚の研究 3 通史古代 国初より大化迄 4 同 近代 改新より幕末迄 5 同 現代 維新より現在迄54
本人も語っていますように、前半の二著が特殊研究、後半の三つの書物が通史研究ということになるでしょうか。実に壮大な計画です。しかし、ほぼこのとおりに、執筆が進んでゆきました。以下は、その実際の刊行書籍の一覧です。
(1)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938(昭和13)年6月。 (2)高群逸枝『招婿婚の研究』大日本雄辯會講談社、1953(昭和28)年1月。 (3)高群逸枝『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年4月。 (4)高群逸枝『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955(昭和30)年5月。 (5)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年6月。 (6)高群逸枝『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年7月。
最後の『女性の歴史』の続巻が刊行されるのが一九五八(昭和三三)年ですので、「森の家」での執筆開始から悠々二七年の歳月をかけて全巻完結することになります。
こうした「高群史学」の構想のもと、第一巻に相当する『大日本女性史 母系制の研究』の完成へ向けての第一歩が、ここに踏み出されたのでした。
「森の家」への引っ越しから五箇月が過ぎたこの年(一九三一年)の一二月、『大百科事典』の編集のために、招かれて憲三が平凡社に復帰します。しかし、四年後の一九三五(昭和一〇)年の一〇月、『大百科事典』は完成したものの、経営不振に陥った平凡社は、突如として社員全員に解雇を通告します。これにより夫は失職するのでした。それは収入が途絶えることを意味し、ふたりにとって大きな打撃となりました。そのとき夫婦のあいだで、このような取り決めがなされました。
1 あと三年で『母系制の研究』を脱稿すること。 2 現在の所持金千円で二ヵ年の家計を賄うこと。 3 研究費用には当分私の雑文稿料をもって当てる。 4 とりあえず女性人名辞書をまとめる55。
家計逼迫のおり、おそらく憲三の発案であったものと思われますが、この夫婦は、『大日本女性史 母系制の研究』の刊行に先立って、取り急ぎ、『大日本女性人名辭書』を世に出すことを考えました。次の引用は、それについての、逸枝による後年の説明です。「Kの協力」がいかなるものであったのかは、具体的に述べられていませんが、「印税収入が期待される」ことは、間違いなかったようです。
年があけて昭和十一年になると、私はKの協力をえて『女性人名辞書』の成稿を急ぐことにした。私のこれまでの主たる作業は、江戸時代以前の一切の歴史文献を片はしから読破して、系譜および婚姻記事を抽出することが中心であったが、副次的に史上の女性人名をカードにとっていた。いまそれを拡張活用して人名辞書としてまとめたら、今後の長い自己の仕事にとっても何彼と便利であるし、何より出版による印税収入が期待されるのだった56。
こうして一九三六(昭和一一)年の一〇月、厚生閣により『大日本女性人名辭書』が上梓されました。古今の女性およそ一千八百名が収録された、重量感を漂わす、本文六二三頁からなる大著でした。
逸枝は、女性を五二の項目に分類しています。「皇祖」「御宇」「神話」にはじまり、「大奥女中」「遊女」「美人」などを挟み、最後は、「婚姻」「母系」の項目で終わります。なかに「社會運動」の項目があり、ここには、官憲の手で最近虐殺されたアナーキストの「伊藤野枝」も入っています。また、「記者」の項目には、有島武郎と無理心中を図った「波多野あき子」も収録されていました。生没年は、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする紀年法(つまり皇紀)によって表記されています。たとえば、「伊藤野枝」の場合は「二五五五-二五八三」、「波多野あき子」の生没年は「二五五四-二五八三」です。他方、分類索引で注目されてよいのは、明治末以来関心が高まっていた、当時の用語法に従えば「男女」や「おめ」(今日的表記によれば性的少数者)は、項目として採用されることはありませんでした。逸枝が使用した史料に、それを思わせる女性についての記述がなかったのか、あるいは、あったとしても、何らかの理由があって逸枝の関心がそれへと向かわなかったのか、それはわかりません。
巻末の「跋」は、「黨地に引籠りましてより足掛六年、其間専念致して参りました著述の一部を『大日本女性人名辭書』と題しまして、刊行の運びとなりました事に就きましては、勿論私一人の力の能する處では無く、内にありては家主の庇護、指導に基づく所多く、外にあつては先輩知友の御聲援、御教導に歸すべき事は申すまでも御座いません」57という言葉ではじまります。そして逸枝は、再び最後に、「石川ふき、今井邦子、嘉悦孝子、金子しげり、久布白落實、新妻伊都子、平塚らいてう、守屋東、安井哲、與謝野晶子、吉岡彌生」の諸氏の実名を挙げて、謝辞を述べます。
「夫の庇護と指導」が念頭にあったことは十分にうかがわれますが、それにしても、なぜいきなり冒頭に夫への謝辞を書いたのか、最後にまとめてもよかったのではないか、そう思うと、少し違和感がないわけではありませんが、それにもまして、夫の憲三のことを「家主」と呼んでいることに、注目すべきかもしれません。『婦人戦線』の「綱領」のひとつが、「われらは男性専制の日常的事實の曝露清算を以て、一般婦人を社會的自覺にまで機縁するための現實的戦術とする。標語 男性清算!」58であったことを想起するならば、そこには歴然とした溝が認められます。しかしながら、そうした「男性清算」にかかわる逸枝の思いは、もはや過去のものであり、いまや敬愛すべき「家主」の座に憲三がいることが、これにより明らかになるのです。単に時局にあわせた仮の姿として「良妻賢母」を演じて見せているとは考えにくく、夫に対する逸枝の真なる思いがそこには表現されていたものと推量されます。しかしながら、すでに引用していますように、石牟礼道子は、「『大日本女性人名辞典(ママ)』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった」59と、指摘しています。もし、本文のみならず、この跋文にも憲三の手が入っているとしたら、どうでしょう。これまでの記述はすべて、振り出しにもどることになります。
そうでないことを前提にすれば、この「跋」は次の語句で結ばれており、そこに、逸枝の思いがにじみ出ているとみなしてもいいかもしれません。
なほ此書の甚だ不備である事に就きましては、今後の補正のため大方の皆様の御示教、御援助を得たく、それと供に前記「大日本女性史」も第一巻として「日本母系制の研究」を支障なき限り近く脱稿の筈で御座いますゆゑ、これが刊行の上は何卒御併讀たまわらんことをも、序でを以て御願ひ申上げて置く次第で御座います60。
ここに、「母系制の研究」の発刊がまぢかいことが予告されていました。この予告は、自分たちの出自と来歴を「歴史学」というかたちにおいてはじめて知ることになる胸躍る予感を、多くの女性たちに与えたにちがいありません。すでに、一九三一(昭和六)年に『婦人戦線』は廃刊となり、翌一九三二(昭和七)年には『女人藝術』も同じく廃刊となっていました。かつての「プロ派」と「ブル派」の対立も、「アナ派」と「ボル派」の抗争もおおかた姿を消していました。ここに、婦人解放運動にかかわる女性たちが一様に手を結び、ひとつになって立ち上がる時代的な契機が潜んでいたように思われます。つまり、対立や抗争の焦点が、時局により失われていたのです。
こうして「高群逸枝著作後援会」が発足しました。呼びかけたのは、平塚らいてうと『東京朝日新聞』の竹中繁子でした。逸枝は、こう書きます。「この会は事務所を竹中さんのところに置き寄付および著作の普及等を目的として昭和十二年一月に発足し、その後私はすくなからぬ便宜をあたえられることになったのだった」61。
呼びかけに応じ、発起人となった人は、六五名でした。ここに、女性たちの麗しいきずなの力強さのようなものが現われているように感じられますので、少し長くなりますが、「後援会」発足から一年半後に発刊された『大日本女性史 母系制の研究』の「跋」から引用して、以下に再録しておきます。
本書の基礎的準備を終る頃、豫期しなかつた家主の失業に遭遇し、一時前途暗黒の状態に立到つた時、圖らずも私の爲めに著作後援會を作つて、苦境を救けられたのは友人諸氏の高義である。會(高群逸枝著作後援會)には、
市川房枝氏 生田花世氏 今井邦子氏 石原清子氏 原信子氏 長谷川時雨氏 新妻伊都子氏 帆足みゆき氏 甫守ふみ氏 細川武子氏 星野愛氏 徳富猪一郎氏 富本一枝氏 岡田禎子氏 奥むめお氏 加藤タカ氏 嘉悦孝氏 河崎なつ氏 金子茂氏 神近市子氏 ガントレット恒子氏 吉岡彌生氏 横山美智子氏 高楠順次郎氏 高島平三郎氏 竹田菊氏 竹中繁氏 竹内茂代氏 中河幹子氏 武藤千世子氏 村上秀子氏 村岡花子氏 野上彌生子氏 窪川稲子氏 久布白落實氏 山川菊榮氏 山本杉氏 丸岡秀子氏 松岡久子氏 松田解子氏 深尾須磨子氏 福島四郎氏 福島貞子氏 藤田たき氏 高良富子氏 圓地文子氏 佐藤俊子氏 木田開氏 木内キヤウ氏 北川千代氏 三輪田元道氏 三谷民子氏 志垣寛氏 正田淑子氏 島中雄三氏 島中雄作氏 下田次郎氏 下中彌三郎氏 白井喬二氏 平林たい子氏 平田のぶ氏 平塚明氏 平井恒氏 守屋東氏 千本木道氏
の方々が發起人とおなり下さつた。本書の漸く成るを得たのも一にこれ等の方々及び會に芳志をお寄せ下さつた二百餘家の賜物であることを感謝し、なほ最後迄お見届け賜はらんことを冀ふ62。
この「高群逸枝著作後援会」からの支援金と『大日本女性人名辭書』からの印税収入とが追い風となって、逸枝と憲三は何とか苦境を脱しました。それは、「森の家」での生活が安定することだけでなく、逸枝の女性史研究の第一巻に相当する『大日本女性史 母系制の研究』がいよいよ完成へと向かうことをも意味するのでした。
「森の家」において研究生活に入ったころを回顧して、逸枝は、以下のように書いています。
この家に移り住んだ昭和六年ごろから、満州事変、犬養首相暗殺、労働者、社会主義者、学者の受難が相ついでいて、日本は反動亡国への道を一気に突き進みつつあったが、この事件[二・二六事件]で、それはもはや決定的なものとなった。 私はこのような祖国の危機、恩師の物故、Kの失業等を苦難の序幕としながらも、自分に与えられた女性史学樹立への一途を是が非でも進まねばならない、せっぱつまった境遇に置かれた63。
一方、執筆当時、「母系制」について逸枝は、このように考えていました。
母系制度というのは、家系が母方によって相続される制度で、原始社会が母系であったか父系であったかについては、久しく論議されたところであるが、こんにちでは母系説が学会で有力とみられている。マグレナン、モルガン等の説では、古代の雑婚時代には、人は母あることを知っても父あることは知らない。これが母系の淵源であるというのである。……そこで問題は、わが日本に母系制度の時代があったか否かということである。このことはこれまで男性史家の研究の手がまだまわりかねていて、女性史家のために未開拓のまま残されている処女地である64。
母系制を明確化する手立ては、どのように親から子へ継承がなされたか、その系譜を明らかにする研究と、婚姻がどのような制度として成り立っていたのか、その仕組みを明らかにする研究とから成り立つというのが、逸枝の考えるところでした。逸枝は、女性史研究の全構想(全五巻)のうち、第一巻の「母系制の研究」において日本における原始母系制の存在を発掘し、続く第二巻の「招婿婚の研究」において、そこにおける婚姻制の実態を解明しようとしたのでした。もしそのことが、明確化されることになれば、日本の国家の成り立ちとその後の中央統制には、逸枝の言葉を借りれば、「女性の秘められた犠牲と奉仕」とが、その基盤として存在していたことになります。逸枝は、この自らが構築した仮説を自らの手で実証すべく、まずは初手として「母系制の研究」へと入ってゆくのでした。
逸枝は、研究の過程にあって、本人の言葉によれば、「天啓」に遭遇します。それは、古代系譜に残る多祖現象の発見でした。逸枝は、天からの啓示である「一瞬のひらめき」について、このように、回顧しています。
一瞬のひらめき――原始の母系共同体の女たちのもとに、招婿婚で他から男たちが妻問いして、そこに、多くの子が生まれて育ったとなると、その母系共同体には、同時に、またはつぎつぎに多くの他氏の子孫が生まれそだち、一方において父系認識がたかまってくると、氏称には固有母系を名乗りながら、父系である招婿出自によって多祖現象をおこすのであり、それは母系共同体解体の過程をあらわしているものではないかとする考えであった65。
こうして「母系制の研究」の核心部分が生み出されたのでした。
しかしその一方で、「高群逸枝著作後援会」からの温かい支援の手とは逆に、別の手が背後に存在し、強大な暗雲となって立ち込めていたのでした。一九三八(昭和一三)年四月一〇日の日記に、こう記されています。
昨日、特高検閲からの出頭通知書を駐在お巡りさん伝達。きょうKが代わって世田谷警察署を訪ねると、警視庁の著述家調査ということで、代人ではいけないということだったが、Kは当人は外出不可能だといい、けっきょく用件をすまして帰ってきたという。 これは学問、思想弾圧の深刻化を意味するものだろう。 この夜おそく、『母系制の研究』脱稿。表題を加えて千二百枚か66。
それから二箇月後の一九三八(昭和一三)年六月に、『大日本女性史 母系制の研究』が、前書の『大日本女性人名辭書』と同じ書肆の厚生閣から世に出ました。副題の「母系制の研究」の背表紙の文字は、あたかも人目を避けるかのように、目立たぬ小さな文字で組まれています。一九四一(昭和一六)年七月刊行の再版は、初版と変わりありませんでしたが、戦争が終わってしばらく立った、一九四八(昭和二三)年一一月の訂版三版において、主題と副題が入れ替わり、『母系制の研究 大日本女性史第一巻』へと改題されるのでした。初版と再版の『大日本女性史 母系制の研究』の題簽は吉岡彌生の揮毫によるものでした。しかし、訂版三版の題字は活字で組まれ、しかも、副題の「大日本女性史第一巻」には、ほとんど目につかないほどの小さな活字が用いられました。戦前にあっては、「大日本女性史」が強調され、戦後にあっては、「母系制の研究」が前面に出ます。戦争を挟む前後の際立つ特徴をこの書題は担うことになったのです。
この著作も、前書と同じく、六四九頁に及ぶ浩瀚なものでした。逸枝は、「例言」のなかで、研究の方法、本書の構成、および研究の意義について述べます。ここに、その核心部分を抜き出してみます。
私の研究は、古文献に埋蔵されたる母系的遺産を發掘組織化し、これを系譜と婚姻の両面より観察したものである。……私の取つた方法は、これを(一)多祖の研究、(二)複氏の研究、(三)諸姓の研究、(四)賜氏姓の研究に大別し得るが、一言に要約すれば、すべてを多祖説とすることもできる。この多祖説こそ、私が學界に問はんとするものである。……この研究は、次の三つの意義を含んでゐる。其一は、上代における家族制の問題であり、他の一は、母系的遺習が國家の中央統制として、之を比較的平和裡に進捗せしめた隠れたる要因をなしてゐる事實である。……このことは第三に、わが國民の血の歸一を物語るものである。女性史の第一歩において、すでに母系の犠牲と支持による國家の統制乃至一家族化といふ必然の結論に達した私は、以後の發展においても恐くは女性の秘められた犠牲と奉仕との絶大なる貢献を顕彰することが出來るであらう67。
ここに言及されている「多祖説」と「わが國民の血の歸一」とが、本書の主要な結論に相当します。この本は、「第一篇 緒論」「第二篇 本論」「第三篇 結論」から構成され、「第三篇 結論」も、「第一章 國作り氏作り部作り」「第二章 母系姓より父系姓への變化過程」、そして「第三章 吾等の収穫」の三つの章から組み立てられています。「第三章 吾等の収穫」のなかで、逸枝は、第一節で「多祖説」を、そして第二節で「血の歸一」を語ります。「血の歸一」について、その一部を引用して、以下に示します。逸枝の『大日本女性史 母系制の研究』の結論部分として、最も重要な箇所であると思われます。
此世のこと皆正し、母系より父系への推移は黨然の發展である。母系は保守的排他的な血族團體であり、父系は進歩的抱擁的婚姻團體である。社會の推移はすべて此線に沿つて流れるであらう。 ここに吾等は、偉大なる日本父系の進歩的態度――凡ゆる異族、蠻民等と進んで婚姻し、彼らを完全に自系下に結合し、國作り、氏作り、部作りをなしたこと、或いはまた、なさざるを得ない天與の事情にあつたことを限りなく喜ぶものである。 (中略) 氏姓の進化は云ひかへれば系譜の一姓化である。我國ではいかなる異族も歸化人も、その母系の犠牲と支持によつて系譜的に、明文的に、相率ゐて皇別化し、神別すを得た。すなはち、一姓化への方向に促進せられた。次に血の純化は前に述べた血の歸一をいふ。 これを要するに、系譜においては一姓化、血においては歸一、著者、これをもつて、吾等の収穫の最後のものとする68。
このように逸枝は、本書の最後を結んでいますが、逸枝が没したのちに夫の憲三が編んだ『高群逸枝全集』の第一巻「母系制の研究」からは、この「第三章 吾等の収穫」は削除されており、もはや読むことはできません。憲三は、この巻の「解題/編者」のなかでこう書いています。
……この「母系制の研究」は最初の出版社厚生閣で三版まで重ね、後に講談社から厚生閣原版紙型による鉛版象嵌の手続きをもって新訂版(四版)が出た。 全集にはこの新訂版を収めた69。
この説明から判断しますと、一九五四(昭和二九)年に大日本雄辯會講談社から刊行された新訂版(四版)において、すでに「第三章 吾等の収穫」は削除されていたことになります。事実、削除されていますし、さらに、奥付によりますと、本書は「新訂版(四版)」ではなく、「新版」という用語が使用されています。しかし、実際には、一九五四(昭和二九)年に大日本雄辯會講談社から刊行された新訂版(四版)、すなわち新版に先立つ、戦後すぐの一九四八(昭和二三)年一一月に恒星社厚生閣から刊行された改訂三版において、すでに削除されていたのでした。なぜ削除されなければならなかったのでしょうか。当時の逸枝の思想のすべてが、この部分に投影されており、戦後の価値観とは相容れない内容だったからではないかと推量されます。であれば、本書の真の結論、つまりは「吾等の収穫」というのは、一体何だったのかということになります。別の言葉に置き換えるならば、「多祖説」と「わが國民の血の歸一」を抜きにして、この『大日本女性史 母系制の研究』は、本論と結論のあいだで齟齬を来たすことなく、一貫した論理的安定性のもとに成立しうるのかという疑問が残るのです。
『大日本女性史 母系制の研究』の序文は、逸枝にとって同郷人であり、「皇室中心以外には一億一心の団結はあり得ないとする信念」70をもつ徳富蘇峰の手にゆだねられました。逸枝は回顧します。「徳富蘇峰の序文が、私の『母系制の研究』を発禁から護ってくれたことは疑いなかった」71。思いもよらず、結果的に「護ってくれた」のか、そうではなく、そうなることを期待して執筆の依頼が徳富になされたのか、これもまた、検討の余地を今後に残すのかもしれません。いずれにしましても、活字ではなく、毛筆の書になるこの序文も、最終的に、『高群逸枝全集』第一巻の「母系制の研究」から姿を消すことになるのでした。
一方、巻末には、「紹介辭」が収録されました。これは、「高群逸枝著作後援会」作成の近刊案内にかかわる印刷物に寄せられていた推薦文を再録したものでした。執筆したのは、麻生正藏、市川房枝、尾崎行雄、金子しげり、下田次郎、下中彌三郎、高嶋米峰、竹内茂代、竹田菊、新妻伊都子、福島四郎、三木清、吉岡彌生、らいてうの各氏でした。
そのなかのひとりである下中彌三郎は、以下の引用のとおりに書いています。かつて平凡社時代に下中は、逸枝の長編詩『東京は熱病にかゝつてゐる』に、「讀んで下さい――序に代へて」を寄稿しており、逸枝にとっても、また、平凡社での勤務歴のある夫の憲三にとっても、下中とは旧知の間柄でした。
高群さんを私はよく知つている。……不遇なる民間學徒の例に洩れず、貧しい中から研鑽を積まれるのは、想像以上に骨が折れることと思ふ。 此人の潑刺たる祖國認識と祖国愛は、かつての長篇詩や論文の何れの部分にも脈搏つてをる。高群さんが、日本女性史を作ることは黨然である72。
哲学者である三木清の文は、このようなものでした。
久しく待望されてゐた日本女性史が愈々世に出ることになつたのは悦ばしい。これは日本の一女性が日本の全女性のために建てる記念碑である。 殊にその第一巻は母系制といふ最も興味深いテーマを取扱ひ、學界の宿題に解答を與へてゐる。 家族制度は今日思想上においても重要な問題になつてゐるのであるが、この篤學な著者の多年の苦心の研究に成る業績は凡ての人によつて顧みられねればならぬものと信ずる73。
のちに逸枝は、唯一この三木の推薦文を、『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」のなかにおいて全文引用し、紹介することになります。晩年に至るまでこの一文は、逸枝のこころを支えていたものと思われます。
らいてうも、以下のような、全身から湧き出る讃美の言葉を、「畏友、高群逸枝」へ贈ります。
畏友、高群逸枝女史、久しき以前より我が國に眞の女性史なきを慨嘆し、昭和五年、大發願を起し、爾來その研究、編纂に全生活を没入し、獨力、奮勵、今日に至つたことは、すでに世に知られてゐます。一昨年、女性史に先立ち、その副産物「大日本女性人名辭書」を上梓、朝野を驚嘆させましたが、今回いよいよ、その本願である女性史、第一巻、出版の運びとなりましたことは、慶賀の極みで、女史を知り、女史の胸中を察しうるわたくしは、まことに感慨無量、言うべき辭を見出しません。 女性自身、女性の立場から書いた女性史が、いかに意義あるものであるか、今更言ふまでもありませんが、特に女性の中の女性、高群女史その人によつて書かれたことを一層のよろこびとし、こゝに二重の意義を見出すものであります74。
らいてうは、これに続く、「早く、早く本の顔を見たく、その日が待たれます」の一語でもって、自身の「紹介辭」を結ぶのでした。この本が手もとに届くや、すぐにも目を通したことでしょう。そしておそらく、らいてうの頬には、感涙が伝わったにちがいありません。以下は、短いながらも、らいてうによる回想の一節です。
高群さんのこの研究[「母系制の研究」「招婿婚の研究」その他]によって、明治四四年「青鞜」の創刊に際して、わたくしの内部から噴きこぼれるようにして叫ばれた「元始、女性は太陽であった」という言葉に学問的な実証が与えられることになったのです75。
『大日本女性史 母系制の研究』は、あくまで学術の書として書かれたものです。しかも、いまだ日本でなされることのなかった研究内容であるだけに、逸枝にとっては、学会からの反応が気になるところであったものと思われます。逸枝は、この研究を発表することによって、まさしく具体的に、学術世界と接点を結ぶようになりました。こう逸枝は書いています。
私はこの書の刊行によって、いわば直接的な若干の知己を恵まれることになった。穂積重遠博士(東大教授)、太田亮教授(立命館大)、柳田国男さん(民俗学)、喜田貞吉博士(東北大・京大)、穂積先生の紹介による、中川善之助教授(東北大)等がそれであり、ほかにも高島米峰(後の東洋大学長)、麻生正蔵(前日本女大校長)、相馬黒光(中村屋マダム)、尾崎行雄さん等の知遇をも受けることになった76。
しかしながら、逸枝の研究には、喜田、太田、柳田らの学説や見解にとって相容れない部分が含まれていました。逸枝は、個々の学者について、以下のように書き記しています。
当初喜田貞吉は、本書を『歴史地理』に紹介する意向を示しながらも、それが実現しなかったのは、「私の招婿出自説……に対して、仮冒説を主旨とされる喜田博士が困惑されたからではないか」77と、逸枝は推測しています。太田亮については、「単純に父系の視点から古系譜を解釈している」78太田の研究と本書とのあいだには、対立する点が多くあったことを認めています。逸枝は、こう振り返ります。
これらのことは後進学徒として避けがたいことで、とくに未開拓の女性史学の視点から当然従来のあらゆる学説を破って独自の学説を樹立せねばならない必至的な宿命にある以上、諸先輩の学恩は学恩としても、自説は率直に表明されねばならない。幸いに喜田さんも、太田さんも、最後まで私の研究に好意を寄せられたことは感謝にたえない79。
それでは、柳田国男については、どうだったのでしょうか。逸枝は、このときの柳田から送らてれきた手紙を紹介します。「あなたのような筆の力の大きい方に近世日本女性の辛苦を世に紹介していただきたい希望は切です。私のもつ資料は何でも利用に供します」80。しかし、招婿婚(しょうせいこん)に関する資料の問い合わせについての柳田からの回答は、「招婿婚という語は私は賛成しません。私の『聟入考』をご覧になりましたらこのなかに私の意見かたっています」81というものでした。
ここで柳田がいっている「聟入考」とは、『母系制の研究』の刊行からさかのぼること九年前の一九二九(昭和四)年に岡書院から上梓されていた『三宅博士古希祝賀記念論文集』に所収されていた柳田の論文「聟入考――史學對民族學の一課題――」を指します。「聟(せい)」は「婿」の俗字です。「むこ」や「むすめの夫」を意味します。したがいまして、「聟入」は、聟に入る男性を主体とした用語で、「招婿」は、婿を招く女性を主体とした用語になります。立場が異なります。それについて、逸枝は、こう述べています。
お手紙のなかに、招婿婚の語に賛成できないとあるのは、柳田さんの母系制や母系婚を否定する考えかたから出ているもので、それは私とは根本的に異なる見解だった。だから後に私は『招婿婚の研究』で柳田学説を批判することになるが、これも学者としての私にとってはやむを得ないことだった82。
他方で逸枝は、当時の民法の概念を穂積重遠の著書『親族法』から学び、穂積が紹介した中川善之助からも、家族についての法制度にかかわって多くを学びました。
こうして、在野研究者、あるいは独立研究者としての見事なデビューを果たすと、逸枝は、次の第二巻「招婿婚の研究」に着手します。そこには、膨大な資料が横たわっていました。
第一に江戸期以前の全文献を対象とし、第二に考古、民俗、法制その他の隣接諸学から先人の報告等を対象とするものだった。その蒐集と消化が先決だった83。
そこで逸枝は、「以前からのやりかたに、さらに鉄のたがをはめた。自分に鉄の規律を課したのである。労働時間は一日平均十時間をくだらないこと。面会は原則として謝絶することが再確認された」84。かくして逸枝は、「鉄の規律」で身を固め、次の目標である「招婿婚の研究」の完成に向けて再出発するのでした。
その一方で、「森の家」の外に耳を向けると、自由や学問から大きくかけ離れた、そして、逸枝の幻の本の題名であった「強権に抗す」ことなどもはや許されない、軍靴の轟音がありました。こうして、『大日本女性史 母系制の研究』の再版が世に出て五箇月後の、一九四一(昭和一六)年一二月、日本はアジア・太平洋戦争へ突入するのでした。
(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、236頁。
(2)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、217頁。
(3)高群逸枝『東京は熱病にかゝつてゐる』萬生閣、1925年、399-400頁。
(4)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、28頁。
(5)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、392-393頁。
(6)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、384-385頁。
(7)高群逸枝『妾薄命』金尾文淵堂、1922年、104頁。
(8)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958年、287頁。
(9)らいてう「元始女性は太陽であつた。――青鞜發刊に際して――」『青鞜』第1巻第1号、1911年、37頁。
(10)高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、253-254頁。
(11)橋本憲三「三つの言葉――後記にかえて」『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、483頁。
(12)高群逸枝『私の生活と藝術』京文社、1922年、161と163頁。
(13)前掲『女性の歴史』下巻、286頁。
(14)同『女性の歴史』下巻、同頁。
(15)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、310頁。
(16)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、237頁。
(17)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(18)同『高群逸枝全集』第一〇巻、236-237頁。
(19)同『高群逸枝全集』第一〇巻、237頁。
(20)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(21)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(22)同『高群逸枝全集』第一〇巻、241頁。
(23)同『高群逸枝全集』第一〇巻、241-242頁。
(24)同『高群逸枝全集』第一〇巻、242頁。
(25)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(26)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(27)前掲『愛と孤独と』、10頁。
(28)高群逸枝「家庭否定論」『婦人戦線』第1巻第2号、1930年、婦人戦線社、22頁。
(29)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、250頁。
(30)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年、228-229頁。
(31)石牟礼道子「最後の人4 序章 森の家日記(四)」『高群逸枝雑誌』第4号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年7月1日、23頁。
(32)高群逸枝『日月の上に』叢文閣、1921年、78頁。
(33)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、244-245頁。
(34)前掲『日月の上に』、248-249頁。
(35)高群逸枝『放浪者の詩』新潮社、1921年、31頁。
(36)石牟礼道子「最後の人1 序章 森の家日記(一)」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、22頁。
(37)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、356頁。初出は、石牟礼道子「『最後の人』覚え書き(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、52頁。 しかし、本文に使用しています『最後の人 詩人高群逸枝』からの引用文のなかの「『大日本女性人名辞典(ママ)』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった。これを出版したときのパンフレットなどを読んでも」という字句は、対応する初出にはありません。のちに加筆挿入されたものと思われます。
(38)前掲『高群逸枝全集』第九巻、226頁。
(39)石牟礼道子「最後の人 第十一回 第一章 残像2」『高群逸枝雑誌』第23号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年4月1日、28頁。
(40)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、242頁。
(41)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、94-95頁。
(42)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(43)同『高群逸枝全集』第一〇巻、237-238頁。
(44)高群逸枝「みぢめな白百合花の話」『婦人戦線』第2巻第6号、1931年、婦人戦線社、36頁。
(45)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、46頁。
(46)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、185頁。
(47)前掲『戀愛創生』、113頁。
(48)同『戀愛創生』、278-279頁。
(49)同『戀愛創生』、44-45頁。
(50)前掲『高群逸枝全集』第九巻、239頁。
(51)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、244頁。
(52)前掲『愛と孤独と』、9-10頁。
(53)同『愛と孤独と』、9-10頁。
(54)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、1-2頁。
(55)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、256-257頁。
(56)同『高群逸枝全集』第一〇巻、257頁。
(57)高群逸枝『大日本女性人名辭書』厚生閣、1936年、「跋」の1頁。
(58)『婦人戦線』第1巻第1号、1930年、婦人戦線社、4頁。
(59)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、356頁。
(60)前掲『大日本女性人名辭書』、「跋」の4頁。
(61)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、261頁。
(62)前掲『大日本女性史 母系制の研究』、「跋」の2-3頁。
(63)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、259頁。
(64)同『高群逸枝全集』第一〇巻、263頁。
(65)同『高群逸枝全集』第一〇巻、251頁。
(66)同『高群逸枝全集』第一〇巻、271頁。
(67)前掲『大日本女性史 母系制の研究』、2-3頁。
(68)同『大日本女性史 母系制の研究』、637-638頁。
(69)橋本憲三「解題/編者」『高群逸枝全集』第一巻/母系制の研究、理論社、1974年(第6刷)、1頁。
(70)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、275頁。
(71)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(72)前掲『大日本女性史 母系制の研究』、「紹介辭」の4頁。
(73)同『大日本女性史 母系制の研究』、「紹介辭」の8頁。
(74)同『大日本女性史 母系制の研究』、「紹介辭」の10頁。
(75)前掲『元始、女性は太陽であった③』、309-310頁。
(76)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、277頁。
(77)同『高群逸枝全集』第一〇巻、279頁。
(78)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(79)同『高群逸枝全集』第一〇巻、279-280頁。
(80)同『高群逸枝全集』第一〇巻、280頁。
(81)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(82)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(83)同『高群逸枝全集』第一〇巻、281頁。
(84)同『高群逸枝全集』第一〇巻、281-282頁。