逸枝の妊娠に気づいた憲三は、熊本県八代郡の弥次海岸での生活を切り上げ、再び東京に上ることを決意します。ふたりが寄寓したのは、以前世話になっていた世田谷の軽部家の一室でした。それからおよそ一箇月後の一九二二(大正一一)年四月一〇日、逸枝は、憲平と名づけた男児を出産します。しかしそれは、死産という不幸な出来事で幕を閉じます。逸枝の母性主義への開眼が、ここにありました。
これよりのち逸枝が論陣を張ろうとするのは、「産児は社会全体によって守られねばならず、これを阻害する条件はすべて排除されねばならない」という同時代における「母性主義」についてというよりは、どちらかといえば、「現在の出産が無意味化するというような」未来社会における婦人の生き方、すなわち「新女性主義」の展望についてでした。逸枝はいいます。「憲平ちゃんの死産後、私は『東京は熱病にかかっている』という長篇時事詩を書いた。これは私にとって画期的なもので、社会的関心を示した制作だった。大正十四年十一月に万生閣(平凡社)から刊行されている」2。
死産の翌年(一九二三年)のおそらく八月に、『東京は熱病にかゝつてゐる』を脱稿すると、逸枝は、次の作品となる婦人論を構想し、執筆に入ろうとしていました。そのときのことです、関東地方を大地震が襲います。死者と行方不明者あわせて一〇万人を超える、未曽有の被害をもたらしました。憲三と逸枝は無事でしたが、そのおよそ五箇月後の一九二四(大正一三)年二月のはじめに、被災親族が集まる軽部家を出て、上落合、そして次に東中野の借家に入ります。しかし、家のなかは、夫の憲三の知人や友人の無料宿泊所と化し、自由な執筆の時間が奪われてしまいました。そこで、一九二五(大正一四)年九月一九日、意を決した逸枝は、書き置きを残して家を出ます。高野山に入り、そこで婦人論を書くために、西へ行く列車の客になったのです。その旅には同伴者がいました。それは、西国への巡礼を計画していた、憲三の同僚で同居人の藤井久市でした。書き置きを読んで驚いた憲三は、家を解約し家財を処分し、逸枝と同じように家を出て、連絡のあった和歌山県の新宮へ逸枝を迎えに行きます。そこで再会を果たしたふたりは、逸枝の希望もあって、一〇月の上旬、再び東京に舞い戻ることになるのです。逸枝の企ては、貫徹されえませんでした。その結果ここに、「ナベ一つ茶わん一つ」の、再出発がはじまるのでした。
新生活の場は、次のような住まいでした。
二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋郡の一つだった。…… 私たちの住居は部屋が三つ。東の小部屋は朝から陽が射してあたたかく、私はそこを専用勉強部屋にした。……居間は南面し、すぐ前は植木畑であるのが私たちを和ませた。 この家ではもはや訪問客はかたく排除された3。
逸枝は、新しい生活を開始するに当たって、憲三に「夫婦の尊厳への認識」を求めました。逸枝は、こう書いています。
私は家出から帰ってくると、こんどこそ従来のあいまいな姑息な態度を一擲して、はっきりと、Kに夫婦の尊厳への認識をもとめ、二人は同志的結合によって社会に貢献したいということを表白した。そしてKはこのとき厳粛に同調を約束した4。
そのおよそ二箇月後に、逸枝は、迎えにきた憲三から新宮の宿で受け取っていた手紙を再読し、書入れをしました。そこには、こう記載されています。
何一つ私をいまはあなたから裂くものはない上に、私はよろこんであなたとならば死を迎えましょう。……私はまだ仕えかたが足りませぬ。心ゆくまでつくしてからなら、何の思い残すこともない5。
「こんどこそ従来のあいまいな姑息な態度を一擲して、はっきりと、Kに夫婦の尊厳への認識をもとめ……Kはこのとき厳粛に同調を約束した」という語には、逸枝の女/妻としての男/夫たる憲三への攻撃性の一端を読むことができます。他方、「私はまだ仕えかたが足りませぬ。心ゆくまでつくしてからなら、何の思い残すこともない」という語には、逸枝(女/妻)の憲三(男/夫)への従順性の一面を見ることができます。もしこの見方に妥当性があるならば、家出後のこの時期、逸枝のこころのなかには、自分が理想に描く夫婦像を憲三に強要しようとする攻撃性と、憲三に仕え、そして尽くすことを自分の徳とする従順性とが共存していたことになります。
逸枝は、このようにも書いています。
Kと私は、相知って以来、興味あるじぐざぐなコースをたどってきた、不思議な二人だった。私はとことんまで従順だが、窒息間ぎわになると、火の国の女の野性をまる出しにしてしまう(ただし愛と尊敬とだけは相手の出方の如何にかかわらず絶対にかわらない)。これにたいしてKは、私が従順な間は、無感覚で図々しいが、私が原始的な自由性をあらわにして立ち向かうと、急に理性のある男になってなだめ役にまわる。こうして少しずつ二人は完成していった6。
しかし、「完成」、つまり逸枝が求める「一体化」までには、いま少し年月を要すことになります。
他方、この時期の憲三の内面については、憲三が勤務する平凡社の社長の下中彌三郎が、「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」のなかで、次のように描写しています。
橋本君と結婚してからはもう七年になるが、橋本君は全く、自己の生活を空しうして逸枝さんの才能を世にあらはすために一切を捧げてゐるといつてもよいくらゐ忠實な夫である。しかし、妻のために存在するばかりでなく、自分としての生活をも生活したいと考へるやうな傾向が少しでも見えると逸枝さん、たまらなく苦しむらしい。 全然自身のものであつてほしいといふ利己的な盲目的な感情と文壇人として夫を活動させたいといふやうな感情とが内で闘ふからであらう7。
逸枝への奉仕者としてだけではなく、平凡社の編集者として、「自分としての生活をも生活したい」という考えはあったかもしれませんが、他方で憲三は、『山の郁子と公作』を一九二二(大正一一)年に、続く翌年に『戀するものゝ道』を出してからは、事実上、小説の執筆から離れていましたから、「文壇人として夫を活動させたいといふやうな感情」は、もうこのときには、逸枝の内にはなかったものと思われます。したがいまして、逸枝の内面を支配していたのは、一方の、「全然自身のものであつてほしいといふ利己的な盲目的な感情」ただそれだけだったのではないかと推量されます。つまり「一体化」がかなわなければ、窒息死回避のための「一時避難」の実行です。上の引用に続けて、下中は、さらにこう書きます。
『現代にあつては愛は別れを強ひる』 といふのが家出當時のおさへやうとしておさへられない心情であつたのもそのため8。
下中のこの言説を参考にするならば、逸枝が家出をしたのは、梁山泊的な生活からの単なる「一時避難」というよりも、むしろ、これから書く婦人論のための、換言すれば、恋愛や結婚の深部を考察するうえでの、それに必要とされる、「おさへやうとしておさへられない心情」が繰り出す、家庭という縛りから決然と逃れ、あえて自らを孤独の道へと駆り立てる必然的な実践形態だったのではないかとも、考えることができるのです。そして同時に、そこには詩人や哲学者のような表現者に固有の「利己的な盲目的な感情」が避けがたく情動していたのではないかという推断もまた、否定できそうにないように思われます。逸枝がしばしばいうところの自分の「宿命」が、これなのではないでしょうか。
以下の文が、下中の「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」の末尾にある一節です。
こんど、あゝしてまた夫の胸にかへつた逸枝さん、どうかそのまゝおちついて、あのするどい觀察を社會問題、婦人問題の上に深めてくれゝばよいがと私は今切にそれを望んでゐる9。
下中の「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」が掲載された『婦人公論』が世に出て数日後の一一月五日に、今度は逸枝の『東京は熱病にかゝつてゐる』が、下中の別会社から上梓されます。これには、巻末に付録として「家出の詩」が付け加えられました。家出騒動からおよそ一箇月半のあいだ、苦悩と疲労のなかにあって、ただひたすらに逸枝は、「家出の詩」に取り組んでいたものと思われます。逸枝はこの詩に、以下のような前文をつけました。
下中先生のご好意で、恰度この本を萬生閣から出して頂くことになつた時分、家出をしたために、世間から誤解をうけて、先生に對して申譯がない。次の詩篇が幾分罪を贖ふことになるものであつたなら幸である。私は世間がもうすこし低級でないように望む10。
「私は世間がもうすこし低級でないように望む」の語句に、逸枝の真骨頂を見るような気がしますし、本文たる、家出を主題とする長編詩においても、逸枝の婦人論が投影された詩句を見ることができます。以下に、そのなかから幾つかを選んで引用します。
所有被所有の雰圍氣は、 この社會の社會的雰圍氣の中心。 勞働者は資本家に。 小作人は地主に。 妻は夫に11。 識者等よ。自覺せよ。 現在の不合理な社會を、 根柢から打破するには、 不合理な家庭、 家庭のなかの不合理な雰圍氣を、 このまゝにして置いてはならぬ。 雰圍氣とは何。 例へば妻のする仕事を夫がしたり、 加勢したりするのを、 恥ぢるやうな12。 ある戀の日に、 青年が米を洗ひ、 少女が薪をとりに行つて笛を吹いてゐるのが、 不自然なことだらうか。 我々は、原始人類が、 かうした生活をしてゐたことを確信する13。
『東京は熱病にかゝつてゐる』からおよそ二箇月が立ち、年が明け、一九二六(大正一五)年が到来しました。家出事件の余波も落ち着き、一月一〇日に憲三は二九歳の、一月一八日に逸枝は三二歳の誕生日を、穏やかな気持ちのなかにあって迎えたものと思われます。
逸枝は、家出のさなか、恋愛論にかかわる原稿を書いていたにちがいありません。それが、家出のひとつの目的だったからです。下中も憲三も、『東京は熱病にかゝつてゐる』の続編として、その完成を強く望んだことでしょう。帰京後も、新しい生活の場を得て、さらに筆は加速していったものと思われます。実際に『戀愛創生』が公刊されたのは、一九二六(大正一五)年の四月一日のことでした。版元は、『東京は熱病にかゝつてゐる』と同じ萬生閣でした。この本には、いっさい章も節もなく、全文が書き流しです。本文に先立つ「巻頭に」において、本書執筆にかかわる要点が箇条書きにされています。それは、「婦人問題の経路」にかかわって八点、「戀愛の経路」にかかわって一〇点、そして「エレン・ケイの戀愛論」にかかわって一点、合計一九箇条で構成されていました。以下に、「婦人問題の経路」から三点、そして「戀愛の経路」のなかから同じく三点を選んで、紹介します。
一、婦人問題の経路は、女権主義、女性主義、新女権主義、新女性主義。 一、新女権主義は、科學社會主義を信奉してゐる。新女性主義は、科學社會主義の彼方に、新たに個性を語る。 一、新女性主義こそ、世界に對して日本婦人のする、最初の提唱であらう。私は豫想する。日本婦人の活動を。知的聡明を。新女性主義を、いま本書で説く。 * 一、戀愛の経路は、精神主義、肉慾主義、霊肉一致主義、一體主義。 一、一體主義は、戀愛の究極を、一體と見る。一體と感じた戀愛において、生殖し、人類における男女兩性の一體化、男女兩性の消滅期へまで、子孫を一體的過程の上において維持する本能。 一、一體主義は、科學上の、地球の冷却説に順應して、人類の自然消滅を豫想するものである。一體主義を、いま本書で説く14。
新女性主義と一体主義、これが逸枝にとっての婦人論および恋愛論を支える基礎となる原理部分です。その上に立って逸枝は、マルクス主義を次のように見ます。
マルクス主義は、婦人問題に無關心である。婦人問題の根柢に理解を缺いでゐる。 彼等は、婦人が彼等の社會に所有されてゐるゆゑ、婦人に對して無關心である。 社會上のすべての問題は、婦人を踏臺にした上でのものであるといふ眞理に對して無關心である。 彼等は、婦人が踏臺にされてゐるといふことを忘れて、単なる経済的争奪戦の現象を、全體としての現象であると見てゐる。 彼等は、甚だしい近視眼者、社會の表面だけを見る皮相論者にすぎない15。
他方、サンディカリスムについては、以下のように書きます。
サンヂカリズムは、議會主義を一笑に附し去り、無産階級の直接行動によつて、社會改造の目的を達成しようとする點で、修正派社會主義に正反對の地位に、その社會制度の内容を、生産階級の組合自治に委ねようとする點で、集産主義即ち國家社會主義と正反對の地位にある。 國家的権力を軽視する點では、無政府主義に類するけれども、組織の必要と、積極的闘争とを主張する點では、無政府主義と同じでない16。
加えて逸枝は、無政府共産主義者たちの理想について、こう述べます。
無政府共産主義者として數へらるゝものに、プルードン、バクニン、クロポトキンがある。 プルードンは、平等を力強く主張した。境遇の平等、機會の平等を。 プルードンは、國家的支配を否定し、人間としての自由を熱望し、バクニンは、革命的無政府主義者として、革命の化身といはれ、人間平等の精神に立脚して、一切の特権制度に反對した。 彼の理想社會は、政府といふ組織を持たないばかりでなく、いかなる種類の制度をも持たなかつた。 (中略) クロポトキンの思想は、「パンの略取」「相互扶助」論等で有名である17。
以上が、逸枝が『戀愛創生』のなかで言及していたマルクス主義とサンディカリスム、および無政府主義にかかわる描写箇所からの部分的抜粋になります。逸枝は、いかなる強権的制度からも自由であることを望みます。現行の結婚制度(一夫一婦制)は私有財産制度の一環であり、学校制度も、同じく特権支配制度のなかにあって機能している以上、母性の本能的見地に立って、強く廃止を求めるのでした。
逸枝自身は、この自著『戀愛創生』について、こう論じています。
この静かな落ち着いた環境で、私は恋愛論を書いた。……内容は序文が示しているように、母性保障社会の主張―新女性主義―であるが、借り着のない自己の思想であり、私にとっては後の女性史学建設へのいろいろな芽ばえを持っているものとしてたいせつなものに私は考えている。 ただ残念なことは、資料と時間とに制約されたのと、疑いもない著者の未熟とが相まって多くの誤謬をおかしていることであるが、母子保障の必然性から社会主義の肯定に到達していることや、遠い将来における婚姻制の廃止を考え、かえってそれによって夫婦の純粋な一体化が生かされるという、いわばエンゲルス的な思想に、べつの道から到達していることが特徴といえよう。もっともエンゲルスの本はまだ私はそのころまで読んでいなかった18。
ところで、前作の『東京は熱病にかゝつてゐる』に心を奪われたのは、下中彌三郎だけではありませんでした。下中が、「讀んで下さい――序にかへて」において、当代の優れた女性として名を挙げていた「平塚明子さん、山川菊榮さん、奥むめおさん」のなかのひとりであり、かつて『青鞜』を創刊していた平塚らいてう、その人もそうでした。逸枝より八歳年長でした。らいてうは、逸枝の詩集との出会いについて、このように記述しています。
わたくしが高群さんの存在を知ったのは遅く、大正十五年ごろかとおもいます。ふとした機会に、高群さんの詩集「東京は熱病にかかってゐる」ほか、二、三の彼女の文章を読んだときから、わたくしの魂は、すっかりこのひとにつかまえられてしまいました。 初めて高群さんの著作にふれたとき、四、五日というものは、まるで恋人の姿や声やその言葉一つ一つが、たえず頭のなかを胸のなかを駆けまわるように、高群さんの詩句の断片で、わたくしの心は占められたかのようでした19。
『東京は熱病にかゝつてゐる』は、すでに述べていますように、全二五節から構成される長編詩です。第十二節が「文士有島武郎」です。そのなかに、こうした詩句があります。
有島武郎 誰がよいのでも悪いのでもない。 善につれ、悪につれ、 それは運命。 わたし達は運命に率直であつたばかりです20。
小説家の有島武郎と『中央公論』の記者で人妻の波多野秋子が、軽井沢の別荘で縊死するのは、一九二三(大正一二)年の六月でした。らいてうは、かつて自分が起こした心中未遂事件と重ね合わせるようにして、この一片を読んだかもしれません。一方で、逸枝が述べるところによれば、旧自然主義の芸術が小説を主とするものであったのに対して、新自然主義の芸術は詩を中心に置かれなければならず、いままさにその復興期に直面しているのです。らいてうは、芸術に対する、次のような逸枝の熱意に心を動かされたのかもしれません。
新自然主義の藝術は、普遍我の表現である。普遍我の、熱情の、無政府的爆發である。詩である21。
らいてうは、『東京は熱病にかゝつてゐる』を読むと、おそらく誰かに、逸枝に宛てた伝言を託したものと思われます。一九二六(大正一五)年の四月のある日、それを受け取って感動した逸枝は、近刊の『戀愛創生』を添えて、らいてうに一通の書簡を送りました。以下は、その一部です。
長い間今日を期待しておりました。あなたからのご伝言を承ることは私にとっては当然なことでございます。私はあなたを母胎として生まれてきたものでございますし、私ほどあなたのために、激昂したり、泣いたりしたものがございましょうか22。
逸枝はここに、「私はあなたを母胎として生まれてきたもの」と、はっきりといっています。つまり、逸枝が自覚する自身の妣君が、らいてう、その人なのです。そののち、石牟礼道子が自覚する自身の妣君が、高群逸枝であることを考えれば、ここに、三代にわたる妣の系譜のはじまりを見ることになります。
一九一一(明治四四)年に『青鞜』が創刊されたとき、逸枝はまだ一七歳の子どもでした。しかし、「新しい女」や「新しがる女」といった蔑称でもって世間から愚弄され、厳しく批判されることに触れた逸枝の魂は、怒りの炎に包まれていたのでした。逸枝の書簡は、次のように続きます。
「人はみな悪人です。私が子供であって、かたきをうつことの出来ないのをお許し下さい」と、私は早い頃、あなたに対していのっていました。それはもう早い昔、あなたが世間から憎まれていらっしゃる頃でした。 それから、事ごとに、あなたのために泣きました。それはもちろん私のためにでございます。私には、ひとの無知が、くるしかったのです23。
この文から想像できることは、どのようなことでしょうか。らいてうの苦しみを自分の苦しみとして引き受け、「かたきをうつ」ために、そしてまた「ひとの無知」を瓦解させるために、その後の逸枝の、女性史研究という険しい学問への道は用意されたのではないか、そのようなことが想像できるのではないでしょうか。つまり、この文が暗示しているのは、らいてうが『青鞜』の創刊の辞として発した「元始、女性は實に太陽であつた」という仮説を、学問としてはっきりと実証してみたいという、逸枝の胸に深く刻まれた思いではなかったのか、そのような気がします。そうであれば、このときすでに逸枝には、詩人から学者へと向かう己の必然的な道筋が明確に見えていたにちがいありません。逸枝は、こういいます。
私は学問が偏見を破る大きな武器であることを知った。……固定観念や既成観念への、火の国女性的なたたかいも、このへんからはじまった24。
ここに、火の国の女がもつ正義感と義侠心が炸裂し、詩人としての熱い感性を携えて、学者固有の、冷徹なる知の産出へと向かう、逸枝の、その瞬間的契機を見るような思いがします。しかし、学者として女性史研究の道へ実際に向かうのは、一九三一(昭和六)年の七月のことで、そこに至るまでのこれよりのちのおよそ五年間は、逸枝にとって、必ずしも安寧で平坦な道のりというわけではなく、時の流れに身をまかせながら一進一退、逸枝は夫とともに、紆余曲折の街道を歩むことになるのでした。
逸枝の『戀愛創生』が出版されて半年が過ぎた、一九二六(大正一五)年の一〇月、憲三は、相馬健作の筆名を使って、同じ萬生閣から『文壇太平記』を上梓します。そして、ちょうどそのころ、憲三の立案で、平凡社の社運をかけた「現代大衆文学全集」の予約出版が動き出します。幸いにも、翌一九二七(昭和二)年四月二日の第一次予約締め切りまでにおよそ二〇万を超える注文が舞い込みました。しかし憲三は、自身の企画が大成功に至る兆しが見えていたにもかかわらず、「退社の辞」と題された一文を草して、その月の一二日に平凡社をあとにするのでした。それではここで、入社から身を引くまでの憲三の四年間の平凡社時代を、『平凡社六十年史』の記載内容に即しながら跡づけてみることにします。
『平凡社六十年史』の巻末にある「略年表」によりますと、一九二三(大正一二)年六月一二日、資本金五万円、代表取締役に下中彌三郎が就任して、平凡社が株式会社になります。株式会社になる前の社員数は四名ほどで、そのうちのひとりが、事務社員の藤井久市でした。株式組織になるに際して社員募集が行なわれ、下中の教育運動における同志であった志垣寛の紹介によって応募したのが憲三でした。編集社員の第一号として憲三は入社するのです。志垣は、奈良女子高等師範学校で合科学習を提唱していた先進的な教育者であり、上京後、教育小説などを書いて作家活動をしていました。志垣の妻の美多子と逸枝が、熊本師範の女子部で同窓という仲にありました。入社から三箇月と立たぬ九月一日に発生した関東大震災で社屋が全焼すると、平凡社は大阪の出張所で活動し、東京に復帰したのは、翌一九二四(大正一三)年の一一月でした。この間東京の編集所にあって、主に憲三は、「標準漢字自習辞典」、さらには「新式漢和辞典」や「神祇辞典」といった辞典編集に従事します。そのころ、一方で下中は、別の関連会社を設けます。文園社が教育関係の雑誌や書籍を扱い、そのなかには、志垣寛の小説集『モスクバの掏模』が含まれます。文芸ものを扱ったのは、下中綠を名義人(発行者)とする萬生閣で、農民詩人である渋谷定輔の『野良に叫ぶ』のほかにも、「万生閣からは高群逸枝『東京は熱病にかゝつてゐる』『恋愛創生』、志垣寛『学園に芽む』、宮嶋資夫『金』、相馬健作『文壇太平記』……などが出版された。この中で相馬健作というのは橋本憲三の筆名であった」25。
『文壇太平記』が発行されるのは、一九二六(大正一五)年の一〇月二五日で、その内容は、憲三の観察する文壇、そして憲三と交流があった文士が、主に取り扱われていました。そのなかの「天才物語」という項目において、筆者は生田長江を取り上げ、「天才者」に関連して、こう記述している箇所がありますので、引用します。
長江は多くの人々を、何等かの特異な才能をもつ人を、そして私にいはせれば一般的な天才的な人々を文壇に推薦してゐる。與謝野晶子、平塚明子なども、何ほどか長江の提撕助言を受けた人々であり、佐藤春夫、高群逸枝の二人はまつたく長江によつて推薦されてゐる。長江がいはゆる「天才者」として推薦したのはこの二氏である。 然るに佐藤春夫はどちらかといへば、名人肌玄人氣質の藝術的藝術家であり、高群逸枝は一般的人生的である26。
この本の巻末には、付録として「文士住所錄」があります。八七名の文士の住所が掲載されていて、高群逸枝の住所は「市外東中野一七二四」27となっています。『文壇太平記』発行の翌月の一一月に、夫婦は上沼袋に転居します。そして、大正天皇の崩御に伴い、一二月二五日、大正から昭和へと改元されるのでした。
『平凡社六十年史』は、こういいます。「日本のマス・メディアは関東大震災の一、二年後に成立したとみなされている。一時震災によって壊滅状態におちいった東京の新聞・出版界も、数年たたないうちによみがえり、以前にました活況をしめしはじめる。大毎・東日が待望の百万部突破を実現したのも震災の翌年一月のことだ」28。
日本においてラジオ放送がはじまるのも、震災一年半後の一九二五(大正一四)年三月です。他方で、高等教育が充実へと向かうこのとき、新しい知識者層も形成されてゆきます。加えてこの時期、日清・日露のふたつの戦争ののち顕著となる産業革命と資本主義経済との発展に伴い、新しく「大衆」という社会階層が誕生し、彼らが求める娯楽性や生活情報を提供するマス・メディアも、かくして飛躍的な成長へと向かってゆきます。そうしたなか、出版界では、大衆(中間所得者層)の知的な欲求に応えるために、「全集」という形式の企画立案が相次ぐことになったのでした。
平凡社も、シリーズものの本格出版の流れに乗りました。『平凡社六十年史』は、こう書きます。「下中が最初に手がけた本格出版は、『尾崎行雄全集』(全十巻)と『大西郷全集』(全三巻)だった。……下中は『尾崎行雄全集』の企画をたてる前から、『大西郷全集』の構想をあたためていた。案を出したのは橋本憲三だったが、下中はすでに明治の末年と大正十四年にそれぞれ西郷の評伝を執筆刊行しており、受けてたつ態勢は充分だった。……定価八円の『大西郷全集』は、しかしよく売れた。部数も七千部から八千部を越え、『尾崎行雄全集』の失敗を埋めるだけの実績をあげた」29。
さらに『平凡社六十年史』は、「現代大衆文学全集」の誕生の経緯を、このように綴ります。「『大西郷全集』の成功で、対外的にも対内的にも信用を得た平凡社は、改造社の円本に刺戟され、あらたな全集の企画に乗り出す。そのプロモートをしたのは橋本憲三だった。……もっとも橋本の企画案は社内の重役会議で否定された。冒険すぎるというのである。……彼らは経営的なことを顧慮して、橋本の案を否定したのだったが、そのときすでに橋本は下中の意を体して対外的な折衝に動きはじめていた。さいわい下中の社内工作がうまくいって……橋本は作家たちとの折衝にあたり、下中は資金づくりに奔走した」30。
憲三には、自身のうちに、個人主宰誌である『萬人文藝』の刊行体験もあったし、相馬健作の筆名を使った『文壇太平記』の出版体験もありました。「作家たちとの折衝にあたり」、このふたつの経験が、大きな力となったものと思われます。ひょっとしたら、『萬人文藝』も『文壇太平記』も、「現代大衆文学全集」の企画提案を見越しての地均しだったのかもしれません。「現代大衆文学全集」が参考にしたのは、円本として先行する改造社の「現代日本文学全集」でした。このとき使われていた「円本」の用語は、単行本数冊分を一冊に収め、それをほぼ一冊の定価に相当する一円で販売する本のことを意味します。因みに、『文壇太平記』の定価が、三三五頁で壹円六〇銭でした。『平凡社六十年史』には、こうした記述が続きます。「下中の原案でははじめ七百ページ一円の予定だった。しかし新潮社の『世界文学全集』が五百ページ一円と発表したため、千ページ一円案に変更された。内容見本にも新聞広告にも、『千頁一円』が大きく掲げられている。……新聞広告も一ページ大から二ページ大へエスカレートし、大々的な宣伝戦を展開した。東京朝日新聞の昭和二年三月五日付と二十三日付の一ページ広告につづいて、同二十九日付では二ページ大になっており、社がこの全集に投入した資本と熱意が察しられる。……第一次の予約締切りは四月二日だった。このときまでにおよそ二十万を越す注文が殺到し、『現代大衆文学全集』の前途はにわかに明るくなった」31。しかしそれとは全く逆に、憲三の胸中にあって、「前途はにわかに暗くなった」のでした。『平凡社六十年史』が伝えるところは、こうです。
社内の空気も一変し、それまで刊行をあやぶんでいた重役連も愁眉をひらいたが、その好況に足をすくわれて商業主義的な傾向を礼賛する空気もうまれた。何度も企画案を否定されながらもそこまで漕ぎつけた橋本憲三は、うって変って社内のうわついた雰囲気に耐えられず、第一次予約募集が終了した直後の会合でそれを批判し、平凡社が本来あるべき姿について種々献策したが容れられず、彼は白井喬二をふくむ「現代大衆文学全集」の首脳会議の席上、「退社の辞」という原稿用紙五十枚ほどの文章を提出して、社を退いた。この原稿は今日も残っているが、真情あふれるもので、橋本の当時の考えかたを率直に吐露している。橋本は数年後に社にカム・バックするが、「現代大衆文学全集」の刊行を目前にひかえた退社は、なみなみならぬ決意によるものと思われる32。
一九二七(昭和二)年四月一二日、憲三は平凡社を離れました。それではこの間、妻の逸枝は、どのような思いで夫を見ていたのでしょうか。逸枝の日記から、部分部分を抜粋して、それを跡づけてみたいと思います。
一月三十一日(昭和二年) こんどの上沼袋の家はお縁に日があたる。…… 夫はこの全集でこのごろ忙がしい。平凡社も浮沈をかけた事業で、千ページ一円の大衆版のよし。 二月一日 あたたか。きょうは全集参加作家の招待宴を催すので帰宅はおそくなるだろうと。 二日 昨夜は午前二時ごろ彼氏帰宅。ひどく酒に酔い、門をあけたとたんに吐潟。心配のあまり眠れなかった。…… 午後三時ごろ出社。夫の健康にさわりのないように。また、全集がぶじに出版の運びになるように祈る。彼の弱点はいわゆる肥後人の「わまかし癖」だろう。……なるほど彼も私も、表面的には欠陥だらけだ。だが、内心はともに正直で純潔であることに疑いはない。われわれはこの正直かつ純潔な点こそ、たがいに助長しあわねばならない。とはいいながら私にはこんな忠告めいたことは彼にいえそうにない。 十一日 私は書くことより生活を豊かにすることを好むようになった。彼が病気になるか失業したらどうなるだろう? 「筆で金を取る」生活をこれからもつづけるだけでなく、すっかり、それにはまり込んでしまうことになりはすまいか? 二十五日 けさ、全集の新聞広告出る。私の考えではすこしすっきりし過ぎるようだが、売れればよいが。 私はどういうものだろう。こうして心からこういうものに愛を持つようになっているのだが、すこしそれが変に思われるのだが。 きっとそれも夫を愛しているからだろう。 三月一日 平凡社では自動車で街頭宣伝とのこと。帰りはたぶんおそくなるだろうと。好きでもないのにあまり深酒などしないように。 十日 きょうは宣伝映画撮影、それと市内ビラまきとのこと。宣伝隊は全国の大都市をまわっているが、それには志垣さんが隊長さんとして参加していられるらしいと。 ―彼はこのごろ何か不快の様子だ。会社の大資本化と彼自身の潔癖性の衝突のようにも思われる。やめるといい出しているが、どうなるかしら? こうなってはきっとやめるにちがいない。やめるとすれば生活にもひびくし彼の前途も思われる。でもそのために私が彼をむちうつことなどはできない。彼とともに運命にあまんじよう。 四月二日 きょうも暮れた。もうすっかり暖かくなった。夫はいよいよ社をやめることになった。ずっと前から私にはその予感があった。そしてこの場になって決然といいうることは「彼は正しい」ということである。だが私どもの生活はどうなるだろうか。それはいいけれど、なんとなく力の抜けた変な気がするのはなぜだろう。 私は立ち上がらねばならない。私はこの無力感に打ち克たねばならない。…… 今年は故郷へちょっと帰りたいが、父のことが気にかかる。 十二日 彼はとうとう退社。二、三日前「退社の辞」を口述筆記した。つまり、生まではいいそこないや尽くせないところがあるといけないといって、半折原稿紙八十枚ばかりに、彼が口述するのを私が書き取ったのだ。そこできょう、正式に会議を要求して、下中さん(社長)、高橋守平さん(出資者、専務)、清藤幸七郎さん、☓☓さんに集まってもらい、その席で右の退社の辞を読みあげて引きあげてきたという。 十三日 はれ。球磨から手紙。義父と武雄さんが来遊と。 下中さんから手紙。退社を認めないと。出社がいやなら客員にでもと。 うちのひと、三越に買い物に。さあ私はごちそうの工面をしなければ…33。
憲三が退社して一箇月後、「現代大衆文学全集」の配本がはじまりました。『平凡社六十年史』の記述にもどります。「『現代大衆文学全集』の第一回配本は昭和二年五月、第一巻の『臼井喬二集』だった。四六判、総布上製、函入のこの全集は、新鋳九ポイントの活字を用い、総振仮名付きの読みやすい体裁に組まれており、多数の挿絵を挿入した愛蔵本だった。……第一次案は三十六巻……第一回配本の部数は三十三万部、印税は一律に一割だった」34。
憲三は、第一回配本に立ち会うことはありませんでした。しかし、その編集を遂行したのは憲三自身であったことはいうまでもなく、そしてそもそも、「現代大衆文学全集」の企画自体が憲三の手によるものであり、かくして憲三は、平凡社の歴史にその名を刻むことになったのでした。
憲三が平凡社を辞める前年の一九二六(大正一五)年一一月に、すでに憲三と逸枝は上沼袋に移転していました。この時期、逸枝は憲三を、このように評します。
ここに移ってまもなくKは運命的な事件に突入することになった。彼の関与した出版の決定的な成功と、それにもかかわらずそれは彼の退社を結果した事件だったのだ。 Kは私の見てきたところではきわめて透徹した孤独の持主だった。この孤独は自他の偏見を超越した普遍的な性格のものだった。俗な言葉でまた彼のきらう言葉でいえばそれは神に通ずるものだった。私が尊敬したのは彼の孤独だった。彼は男性なので社会が男性に与える世俗的な条件のために心身をさいなまれていた。そこに彼のやむをえない矛盾や錯誤もおこり不当に誤解されることもまた多かった。私は会わない前から電光の一閃でそれらのことをほとんど全面的に直感していた35。
憲三が職を辞すと同時に、収入の道は途絶え、生活は、逸枝の筆に頼ることになります。逸枝は、このように書いています。「金取り仕事が大車輪にはじまった。朝日、読売、報知、サンデー毎日、週刊朝日、婦人(朝日)、婦人公論、婦人画報、女人芸術、講談社、小学館、宝文館もの、地方では大阪朝日、名古屋の新愛知等に私は送稿した。これは表面的にはあるいは一種の花ばなしい活動だったかもしれないが、自分自身の空しさ恥ずかしさはごまかすことができず、ふたたび三たび私は例の上落合このかたの窒息寸前の気もちにおちいらされている感じだった」36。
憲三が退職して四箇月後のことです、逸枝のもとに悲報が届きました。「このような悪戦苦闘のさなかに故郷の払川では父勝太郎が亡くなった。私は人知れず暗涙をのんだ。父は昭和二年八月十日に釈迦院川の魚釣りから帰ってくると机の上の前で卒倒し、そのまま意識を失って、翌十一日に最後の息を引き取ったというのだった」37。
逸枝が母の登代子を失くしたのは、一九二〇(大正九)年一二月一一日でした。その翌年の三月、父の勝太郎は、生きる力を喪失したかのように、払川尋常小学校の校長職を辞し、払川の高台の一角にある小さな家に移り住み、そこで静かに余生を送っていました。彼の唯一の楽しみは、夢に登代子が現われると、バケツをさげて墓地へ行き、「蓮華の一茎を描き添えた真意のこもった愛妻の墓碑面を洗い清めること」38でした。享年六四歳、三五年に及ぶ教職生活の生涯でした。勝太郎は、自身の四一巻からなる「嵓泉日記」を遺しました。死の二日前の八月九日の日記に勝太郎は、「火曜、曇、朝雪枝ドモハ紫疏ノ葉ヲ摘ミタリ。此日、各家トモ蚕児出生シタリ」39と記し、これが、絶筆となりました。勝太郎と登代子のあいだには、逸枝を頭に四人の子どもが生まれました。晩年逸枝は、『今昔の歌』(一九五九年、講談社)を著わし、そのなかで、三人の弟妹について、以下のように記述しています。
父の葬儀は、まれにみる盛儀だったと、私と夫が行ったとき、村の人たちが話してきかせた。父を親しく見送ったのは長男の清人だった。彼はこのとし松永常彦収入役(のち村長)の妹雪枝をめとり、払川校に在勤していた。彼は父の希望で五高入試を受け、失敗して教師となったのだが、これは資性高邁な一面、父に似て孝心あつい彼が故意にえらんだ予定のコースだったことを、姉としての私はよく知っていた。のちに八代葉木の校長をやめて、同郷の移民団(日産農林)にしたがい、北ボルネオに行き、その地の学校を主宰したが、第二次世界大戦で捕虜になってオーストラリアに連行されて、終戦後引揚者となって帰り、いまは村に隠れて不遇ではあるが清潔な生活を送っている。次男の元男は当尾村曲野の高森みつえと結ばれ、父が死んだ頃は朝鮮の清津地方法院につとめており、妹の栞は小野部田の鉄眼生地の三宝寺に妙有尼となっていた。いま元男は父母のあとをおい、妙有は下関郊外の観音をまつる小さな山寺の庵主として、勤勉な日々を送っている40。
勝太郎の墓の墓碑銘は、のちに弟の清人からの依頼を受けて、逸枝の手によって揮毫されました。逸枝は、こう回想します。
釈迦院岳のふもと、払川部落の下鶴の丘に、私の父母の墓がある。母の墓碑銘は父が書き、父の墓碑銘は私が書いている。父は母の碑面に赤い蓮の花を自分で書いて愛情を表示しているが、私は父の碑の側面に、「叱られたこともありしが草の露」という句を手向けている。父はめったに叱ったことはない。あるいは全くないといってもいいかもしれないが、そうであればあるほど、私たち子供は自己を反省してむちうたれていたので、だからこんな句が父に対して最上の敬意を表するものとして浮かんだのだろうと思う41。
振り返ってみれば、節目節目で、逸枝は父親にしかられていました。その幾つかを拾い上げてみます。資料に残る最初の事例は、「神隠し事件」でした。逸枝は、後年出版した『愛と孤独と』(一九五八年、理論社)のなかで、こう書いています。「五歳のとき私は『神隠し』にあった。なにかで父にしかられ、泣く泣くそとにでたが、いつか裏山をのぼっていたのだった。その夜の山上の景色、それはまだわすれない。月があった。雲がふくらんでほうと飛んだ」42。おそらくこれが、その後に続く逸枝の「家出事件」の最初のものでしょう。次は、家を出て、熊本の紡績工場で女工をしたときの事例です。逸枝は二〇歳になっていました。「女工になつたことが、故郷の父親に知れると、父親は火のやうに怒つて彼女を呼び戻した、そこで彼女は詮方なく故郷に歸つて代用教員となり濟ました、然し不安と、不満と、反抗とは常に彼女の胸に鬱積して、毎日退屈な日を送つた」43。最後に、二五歳ころに逸枝が憲三に宛てて書いた手紙から引用します。「妾はまるで、ほんのむすめです。妾はそれを妾の父母から氣に食わないと云つていつも叱られます。……ですからどう考へても妾には結婚の資格はないのです。妾はもつと妾の理想的な空想的な生活をいたしてゐたいのです。いまの普通のそれには耐へられないのです。それを自由、と妾は申します」44。こうした事例を挙げてゆきますと、「叱られたこともありしが草の露」という句のもつ語感の響きが、切切とほとばしります。
勝太郎の声に代わって、僭越にも、愚作「叱られし いまは自由か かぐや姫」という一句をつくってみました。すると、どこからともなく風に乗り、二年前の家出の件で父親に心配をかけた娘の声が聞こえてくるではありませんか。これも愚にもつかぬ自作の詩です。
夫との 一体の理想が あればこそ ふたりして 孤独の自由を 得ようぞいま 行きたしや 望郷のあの父母の村へ
逸枝は、生まれてくる子を死産により失い、憲三の失職に伴い収入を失い、そしていま、母親に続いて父親も失いました。すべてを喪失し、もう何も失うものはなくなりました。夫との一体化願望と、望郷の念とが忍び寄ります。逸枝は、こう書きます。「両親が亡くなってみると、こうして私の身柄は根拠をなくして、いよいよ旅の空で、夫との結合のみに、運命づけられてきたようだった」45。
そのころ逸枝は、売文書きに明け暮れていました。その結果、こころも体も、衰えを見せはじめました。「もし、われわれが故郷の村に帰ってしばらく静養されるようだといいが、それも現実にはゆるされないとすれば、ここになされうるたった一つの方法は、都心からずっとはなれた田園地に移転すること」46でした。しかし、それが実現するには、おおよそ一年を要すことになります。すでにこのときまでに、逸枝の筆は、収入を得る方向へと意に反して歩き出していただけでなく、その一方で、社会的良心の炎が、乾いた逸枝の心情のうえに勢いよく燃え盛りはじめようとしていたのでした。
逸枝は、こう書きます。
私はつまり当時アナキズムの立場に傾いており、その立場から権力階層や現状維持派にたいしてたたかいをいどんでいたのだった。そこには金取り主義ばかりではなく、『東京は熱病にかゝつてゐる』に系譜をもつ社会的良心の燃え上がりがあったことは否まれまい…47。
逸枝が三年前の一九二五(大正一四)年に上梓した『東京は熱病にかゝつてゐる』の第二十一節「アナとボルとの話」には、すでに次のような詩片が現われていました。
あれはアナとボルだ。 飛(とば)つ沫(ちる)。 悲憤。もがく芽生え。風は吹く。吹く。 暗夜。星。木の根。彼方は明るい。 アナ行け。ボル退け。 時代も歴史も。 自由。悪夢。行け。行け。利己心。正義48。
逸枝のアナーキズムは、ここに出発点をもちます。「アナ」とは、アナルコ・サンディカリスム派 (アナ派、無政府主義、組合主義)を、「ボル」とは、ボルシェヴィズム派 (ボル派、マルクス主義、レーニン主義)を指します。この両者間の論争は、社会運動や社会主義運動を巡る思想的、実践的対立として、一九二〇年代のはじめから展開されてきていました。たとえば、労働組合運動の組織論に関しては、アナ派は自由連合論を唱え、政党の指導を排除すべきであると主張しました。それに対してボル派は、中央集権的な組織論を展開していました。
さて、ここでの論争の中心人物は、山川菊榮と高群逸枝です。菊榮は社会運動家の山川均の妻で、いわゆる「科学的社会主義」の立場にあるボル派であるのに対して、逸枝はアナ派の立場にあり、その考えは、どちらかといえば「空想的社会主義」でした。舞台は、一九二八(昭和三)年の『婦人公論』の誌上。まず、その五月号に逸枝は、「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」を寄稿します。以下が、その冒頭の文で、逸枝の問題意識が開陳されています。
「婦人公論」一月號所載山川菊榮氏の「景品つき特價品としての女」を興味を以て讀んだ。といふのは、私が長い間、マルクス主義婦人思想家の戀愛觀を承りたく思つてゐたからである。 私は常日頃、マルクス主義経済組織と戀愛――氏のいはゆる純悴素朴な戀愛とが、相容るゝかどうかについて、多くの疑ひを抱いてゐた。尤も、氏等マルクス主義思想家によれば、それは一も二もなく相容るゝもので、實にマルクス主義経済組織のみが、これら一切の難問題を解決する鍵であるといふのだつた。 けれど、さういふ人々はただ漠然と眞の戀愛とか、純粋素朴な戀愛とか、婦人の悩みとか云つてゐるだけで、その實なんにも分かつてはゐないのだといふ風に、私には思われた49。
ここから本論に入り、逸枝は、「われらが心に久しく求めてゐる純悴素朴な戀愛とは何か、それはいかなる社會組織を母胎として芽生えるものであるのか」50を念頭に論じられてゆき、結論としては、純粋素朴な恋愛が保障される社会組織は、「分業的、統割的社會ではなくして、綜合的、集約的社會でなくてはならぬ。それは即ち、現在、反マルクス主義的新興思想として、眞に自覺せる勞働者、農民、婦人の中に侮り難い勢力を確保しつゝある自由聯合主義思想の目ざす社會であらねばならぬ」51というのです。そして最後に、菊榮に対して、こう厳しく断罪の言葉を投げかけるのでした。
山川菊榮氏よ。氏はいたづらに純悴素朴な戀愛とか、婦人の欲求とかを口にされる。けれど氏がマルクス主義を捧持してゐられる限り、その言葉は、単なる無智な、単なる空疎な、そして無自覺であり、無責任であり、無内容である言葉であつて、眞に目ざめた婦人に對しては、何等の権威なき、嗤うべき、唾棄すべき振舞であるといふことを、自ら恥ぢられるやうにと、私は改めて、ここでおすゝめしたく思つてゐると52。
それに対して、次の六月号において菊榮は、「ドグマから出た幽霊――高群逸枝氏新發見の『マルクス主義社會』について――」を著わし反論します。
それでも、私は高群氏に對して直接にお答へする興味も義務も感じないのですが、しかし世間は廣いものですから、數多くの讀者の中には、天馬空をゆくにも似た高群氏の奔放な空想から生まれた『マルクス主義経済組織』――何といふ奇抜な新發見でせう!――なるものを、マルクスの社會學説(・・・・)と思ひ誤られる方もないには限られないと考へて、眞實のマルクス主義の一端を御紹介しておきたく思ふのです53。
こう述べたうえで菊榮は、自身のマルクス主義に関する知見を本文において詳細に開陳し、恋愛観については、末尾において、短く、こう述べるのでした。
高群氏がその超論理的な文章の中に、取りとめもなく口走つて居られる美とか孌愛とかについての漫言も、一々本氣にとりあげて辨駁する必要はなささうに思ひます。たゞ私有財産の下においても、純粋な孌愛が絶對に存在しなかつたわけではない。しかし、それは私有制度と、それにもとづく不自然、不平等な両性関係のために虐げられ、歪曲せられて、一般的な原則としては存在しえなかつた。資本主義時代に至つて、それに對する反抗が起つたが、なほ一般的には、男女は自由な、純粋な孌愛を楽しむことはできない。それができるのは、未來の貧困もなく階級もない社會のみであるといふことを重ねて申しておけば足りると思ひます54。
これに対して逸枝は、「踏まれた犬が吠える――山川菊榮氏に――」と題した文をしたため、七月号の『婦人公論』に投稿します。「あなたの『ドク(ママ)マから出た幽霊』を拝見すると、中心點には一切ふれないで、僅かな言葉尻をとらへて、したり顔にそれが即ち幽霊の正體でもあるやうに云はれる。甚だ不本意なことではあるけれど、それなら先づ其の問題から片づけて行きませう」55と前置きし、「強権に對する自治の火は烈々と擧がつてゐる」56ことを詳述したあと、恋愛論にかかわって十分な返答をもらえなかった逸枝は、最後に菊榮に、こう告げるのでした。
山川菊榮樣 以上であなたの「ドクマから出た幽霊」の例證としてお擧げになつた諸點につき、全部お答へしたと思ひます。…… 最後に申添へておきたいことは、あなたは唯、逆上なさるだけで、婦人の立場からの私の質問(母性の自由及び孌愛の純粋性)について何一つ御返答なさり得ないといふことである。……今からでも晩くはない。眞正面からお答へ下さい57。
その二箇月後、平林たい子が筆を執り、「ロマンチシズムとリアリズム――山川菊榮・高群逸枝両氏の論争の批評――」を『婦人公論』九月号に寄せました。結論として、平林は、こう締めくくります。
山川氏は、十年前と今日とでは婦人の個人主義的な自覺の程度には、著しい相異があるにしても……経済的打算をはなれた純粋な孌愛によつて女性が結婚するまでにはまだ十分な、否、質的な相異があることを云はれた。高群氏も山川氏と同樣に現在の婦人の自覺の程度には不満を持たれてゐる。しかしながら、山川氏が今日の婦人の自覺の程度を一應認めて、その個人主義的自覺から、もう一歩前進することを要求せられてゐるに反し、高群氏は婦人が封建的な孌愛関係に、も一度逆戻りすることを要求される。そこには到底融和することの出來ない、あらゆる階級、層、集團の異なつた心理がかち合つてゐる58。
解放された女性の姿と、その人がかかわる恋愛、結婚、家族のあり様とを、過去の一時期の、女性が中心であったにちがいない社会に目を向けてそこから引用するのか、それとも、社会進化の必然的結果として出現するであろう近未来の世界に託すのか、平林は、逸枝と菊榮の論争を「ロマンチシズムとリアリズム」の対立としてみなしたのでした。
以上が、一九二八(昭和三)年の『婦人公論』誌上における逸枝と菊榮のあいだで戦わされた「アナ・ボル論争」でした。その翌年(一九二九年)、この論争は舞台を変え、『婦人公論』から『女人藝術』へと持ち込まれてゆきます。
ここへ至って、ますます逸枝の心身が不調を訴えるようになります。こころを痛めた憲三は、転居を勧めます。「よい自然の環境とあたたかい日光との恵みに浴して健康をとりかえし、懸案の実行にはいれるようにこころみてみようではないかと私を説得するのだった。こうなれば彼はそのことに熱心を示し、かつ果断にそれを実行に移すのだった」59。憲三は、毎日朝から夕方まで、物件を探し回り、「ついに荻窪駅と甲州街道とに近い上荻窪の台地に適当の環境と頃合いの家とをみつけてきて私をもよろこばせた。私もしだいに彼の描いているところに同調し、期待をもちうるようになっていたのだった」60。
その物件は、このようなものでした。
屋敷のぐるりは檪の木がとりまき、屋後は一面すすきの生い茂った広い原っぱだった。家は古びていたが、部屋は母屋の二室に、鍵の手に建て増した書斎と応接室の二室があって住みよかった。庭は広いとはいえないが見事な紅八重桜の老木と若干の庭木とがあった。家賃二十五円。私たちは昭和四年二月四日にここに移ったのだった61。
一九二八(昭和三)年七月、長谷川時雨を主宰者として『女人藝術』の創刊号が世に出ました。年が変わり、ここへ引っ越す一箇月前に発行された『女人藝術』の初春号に、逸枝の長編詩「戀愛行進曲――月漸く昇れり」が登場します。あたかも逸枝と憲三の新しい生活を祝福するかのようなタイミングでの発表でした。逸枝は、冒頭、このように宣します。
世の戀人たちに此の詩をおくる。私は此の詩で、戀愛を遊戯視する近代的青年に對する若き女性の悩みと心の動きを描かうと試みた62。
この「戀愛行進曲――月漸く昇れり」は、二頁から二一頁までを占める、初春号の巻頭を飾るにふさわしい長編詩でした。最後は、次の詩句で結ばれます。
夜の女王、満月が 正座して昇り行く おゝ月とわが戀 漸く昇る このとき妾はいふ かの月とわが戀とは 高く昇るにしたがひ 輝きと冷たさを増すのであると63
「戀愛行進曲――月漸く昇れり」は、逸枝が久しぶりに書いた作品でした。しかも、詩題の「月漸く昇れり」は、いうまでもなく逸枝にとって、最上の心情の高まりを表現するときに使う、取って置きの決まり文句でした。一九二九(昭和四)年の幕開けに対する逸枝の大いなる希望が、ここに込められていたといえるかもしれません。
それから半年が過ぎた『女人藝術』七月号を開くと、「公開状」と題して、八木秋子が「藤森成吉氏へ」、松田解子が「小林多喜二氏へ」、熱田優子が「中川紀元氏へ」、そして伊福部敬子が「平塚明子氏へ」、最近の行動や仕事について、疑問を呈したり、質問を投げかけたりしていました。かくして、『女人藝術』内での「アナ・ボル論争」の起点となる各論が、ここにそろいました。個別に見てゆきます。
八木秋子の自由連合の社会観は、こうです。
眞の幸福な社會生活は人間の自發的創造的意思によつてのみ生れる――。マルキシズムの社會は國家の獨裁支配に第一歩を始めるに反して、自由聯合の社會は不完全な個人の自由に發生し、爛漫と花咲く自由へと限りなく伸長して行く聯合社會で、國家では最初からあり得ない64。
熱田優子は、自己の芸術観を、こう述べます。
私は空想する。かゝる理想的社會が到來し得るならば――そこにはブルジョアもなくプロ[レ]タリアもない。恐ろしい闘争もなければ利己的な野心もないのどかな社會である――その無政府的な美しい社會に於てのみ眞の藝術の王國は榮え得るのではなからうか65。
伊福部敬子が主張する婦人運動論は、このとおりです。
即ち、昨日の婦人運動は思想の自由を婦人に與へんためでありました。今日の婦人運動は、思想に従うて行動するの自由を得んためのそれであります。(中略) 而してこの家庭的因習、家庭的緊縛より脱せしめて中産知識階級の男性と同等同列にまで並び、男性と同じ自由さ、同じ困難さにまで到達せしむるのが今日私のいふ新しき婦人運動であり、こゝに來て婦人運動はその使命を完全に果したと見るべきでありませう。かくして中産知識階級婦人は、無産運動に合流することが出來るのであると思ひます66。
同じくこの『女人藝術』七月号には、富本一枝の「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」が掲載されています。一枝は、平塚らいてうに魅了されて『青鞜』に加わった経緯があり、らいてうは一枝を「私の少年」といってかわいがりました。しかし、すでにこのころには、マルクス主義に信頼を寄せることができないでいたらいてうが『女人藝術』から離れようとしていることに、一枝は気づかされていたにちがいありません。といいますのも、翌月の『女人藝術』八月号に、唐突にも一枝は、「平塚雷鳥氏の肖像――らいてう論の序に代へて――」と題した文を寄稿するからです。擱筆日は「一九二九年六月」となっています。その文は、らいてう讃美の言葉ですべてが塗り尽くされていました。以下は、その一例です。
「元始女性は太陽であつた!」 かくわれらに呼びかけて日本の女性のために、いな世界一面の女性のために目映ゆる黄金の大圓宮殿をこの國の東の水晶の山の上に營なもうとした一人の若き女性の昔日の面影を想ふとき、私は涙なくしては耐えきれないほど胸せまつてしまつた67。
おそらく一枝は、らいてうを引きとめたかったのでしょう。しかし、そうした動きの一方で、この『女人藝術』八月号には、先月号の「公開状」に答えるかたちで、藤森成吉の「公開状について一言、八木秋子氏へ」が掲載され、「アナ・ボル論争」に火をつけることになるのでした。「公開状について一言、八木秋子氏へ」は、「應接室」の題をもつ短いコラム記事で、そのなかで藤森は、「……『アナ』のあなたと論争する氣はありません。ただ、あなたがもつと勉強され、小ブル的意識を抛棄される事を望みます。……」68と書きました。それに対して八木は、次の九月号ですぐに反論に出ます。以下は、「簡単な質問(藤森成吉氏へ)」のなかの一節です。
非常に完全に小ブル的である危険があるから勉強せよ、とあなたは親切にもいはれる、しかも私は勉強することによつて残念ながら愈々マルキシズムに對する疑念と誤謬を拾い出して行かなければならないのです、私の知り得たことはすべてのマルキストがあまりにも本統(ママ)のアナキズムを「知らなさすぎる」という一事でした。…… あなたがたの考へ方は非常に単純です。ブルジヨアとプロレタリアの區別を単に生産機関を所有するものと、所有せずして自己の労働力を賣る事によつて生活の手段とする者、とに片づけてゐる。同じプロレタリアートの間にさへも相克しあふ関係のある複雜な社會の諸相をそれほど簡単に理解して、人間の自由とプロレタリアートの自由の相違を将來社會に結びつけやうとする69。
同じくこの九月号には、逸枝の「小ブル藤村成吉に與ふ」も掲載され、論戦に加わります。一四頁に及ぶ長編です。「一.小ブルといふ言葉」「二.勉強せよとの仰せ」「三.『アナ』への言ひ分」「四.アナキズムの絶對性」「五.方法論的な睨み合ひ」「六.過程といふこと」「七.過程の経済的基礎」の七節から構成されていました70。
するとここで、隅田龍子が割って入って、一一月号に、「八木、高群両氏のアナーキズムに對する駁論」を書きました。この論文もまた、「前がき」「一 氏等の云ふ自由と、我々の自由との根本的相異」「二 政治的行動を否定するアナーキズムは反動的ユートピアである」「三 何故にプロレタリア獨裁は必要か」「四 プロレタリアートは如何に議會を利用するか」「五 過程とは何んであるか」「六 小ブルヂヨアは何人であるか」「七 機械の發達はプロレタリアをなくするか」「八 女人藝術十月號『凡人の抗議への若干の抗議』」からなる長編でした。内容は、タイトルのとおり、マルクス主義の立場からの、八木と逸枝へ向けられた数々の厳しい批判となっていました。その極みが、次の言葉でしょうか。
高群氏の一六頁から一七頁へかけてのあの冗漫なおしゃべりを見よ。我々はこんな馬鹿氣た論文を(いかに女人藝術がおとなしく取り入れたにせよ)堂々雜誌上に發表される氏の勇敢さには敬服してゐる71。
これには逸枝も無言を通すことはできなかったのでしょう。次の一二月号で、「お出になさつた」を発表します。この論文の副題は「一アナーキストの宣言」です。このとき、逸枝は、はっきりと「アナーキスト宣言」をしたうえで、きっぱりと『女人藝術』から離脱することを決意したものと思われます。この文の最後は「さよなら」72で結ばれています。そして同号(一二月号)に、八木秋子も「隅田の妄論を駁す」を寄稿しました。この論文のなかで八木は、このようなことを主張しました。「マルクス主義者が、ブルジヨア教育によつて與へられた國家偶像観の観念を清算することが出來ず、ブルジヨアジーと一緒になつてアナキズムを攻撃するのは、そして、その方便としてユートピア主義の烙印を捺さうとするのは、その根本的缼陥の暴露に他ならない」73。
こうして、「アナ・ボル論争」は過熱し、頂点に達しました。編集人にとっては、これ以上の論戦は、単なる不毛の相互批判に陥るように思われたのでしょう。この号(一二月号)に、「社告」が掲載されました。それには、次の文字が並べられてありました。「アナアキズムとコンミニズムのこの度の論争は次號にて打切る」74。
年が明け、一九三〇(昭和五)年の正月を迎えました。中島幸子の「アナーキズムの顚落」と隅田龍子の「再びアナーキズムを駁す」の二編の論文が、『女人藝術』の一月号を飾りました。『女人藝術』における「アナ・ボル論争」は、これで終幕です。常連執筆者や読者にとってアナーキズムとマルキシズムの違いが明瞭になった、この半年間の論議でした。しかしながら、一方の当事者であった逸枝の筆力は、これをもって一段落したわけではありません。そのとき彼女は、無産婦人芸術連盟の創設という新しい動きのなかにありました。風雲急を告げる彼女の日記の一月の一部には、以下のようなことが記されています。この結社の設立と機関誌の刊行には、「K」のイニシャルが示すとおり、夫である憲三が深くかかわっていたのでした。
一月二日 はれ 『婦人戦線』準備会。(K) 一月十日 はれ 『黒い女』解放社から届ける。 一月二十六日 はれ 無産婦人芸術連盟成立。機関誌『婦人戦線』。出席者平塚らいてうさんら十四名。(K)75
かくして、『女人藝術』内での「アナ・ボル論争」は、アナーキズム派が離脱して、新しい団体を組織することにより、ひとまずの決着に至ります。一月二六日に結集した創設会員は、伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子の一四人でした。続いて、機関誌『婦人戦線』が産声を上げるのが、この年(一九三〇年)の三月一日。「アナ・ボル論争」を経て、「アナーキスト高群逸枝」の独自の舞台が、ここにこうして誕生するのでした。
しかしながら、無産婦人芸術連盟の設立も、機関誌『婦人戦線』の創刊も、そのときまでに逸枝が描いていた自身の将来構想から逸脱する、ある意味、不本意なものでした。それでは、どのようなことを逸枝は構想していたのでしょうか、そして、それがどう踏み出されようとするなかにあって、『婦人戦線』の創刊という新しいう動きが出現するに至ったのでしょうか、逸枝の文から引用しながら、それを再構成してみたいと思います。
私はここで雑文書きのかたわら、婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史の研究に着手するはずだった。これは守富時代のたけくらべのころ、熊本の女学生時代のころ、弥次海岸の憲平ちゃん妊娠のころ以来、私に芽ばえ、そして私が持ちつづけてきた学問的欲求で、社会的開眼とともにいよいよ拡大されてきていたものだったが、夫婦生活を重くみる私の傾向から、この欲求がKとの融合をそこねることにならないようにねがっていたので……Kが自然にこの欲求に気づき、擁護者とならないかぎりは、私はあえてそれを彼の前に切り出そうともしなかった76。
自身の欲求である研究者として学問に一意専心するには、収入のこと、家事のこと、編集のこと、対外交渉のことなど、どうしても「擁護者」として憲三が必要とされるわけであり、逸枝は、それを直接自分の口から言い出せないでいたようです。
ところがKは私が自己の欲求をおさえ、彼を本位としてとことんまでついてこようとする私のいわば愛の深さをひとりでに知るようになり、このころになると私の希望を実現させようとする心理状態に変わりつつあったらしい。正しくいえば、私の家出以来、彼はそれを切実に感じて機会を待っていたのだという。ちょうど平凡社をやめて客員の期限も切れたところだったことがその機会をつくってくれたのだった77。
上荻窪の台地に見つけた、比較的環境の整った家に、一九二九(昭和四)年の二月四日に引っ越すと、憲三は、研究資料を整理するために、「これまで持たなかった大書棚を二つ買い入れた」78。こうしてはじまった新しい家での生活ですが、「平和だったのは当初の期間だけで、にわかにこの界隈も区画整理の渦中にまきこまれることになり……もはやここも勉強の場所、勉強の家には適しなくなってきた」79。そこで憲三は、逸枝が研究に専念するにふさわしい住居探しにこころを砕き、「これがけっきょく後に世田ヶ谷のいまの研究所となったのだった」80。つまり憲三は、かつて身を寄せていた豪農の軽部家から二〇〇坪の土地を借り受け、そこに、通称「森の家」と呼ばれる自宅兼研究所を完成させるのでした。竣工し、実際にふたりがこの家に入るのは、およそ二年後の一九三一(昭和六)年七月一日のことになります。
その間、上荻窪での生活は続きます。しかし、逸枝の研究構想は固まったらしく、一九二九(昭和四)年の年末に、逸枝は、「はじめて印刷した年賀ハガキをつくり……研究著述の計画を発表し、知人の援助をもとめた」81のでした。しかし、婦人論、恋愛論、日本女性史の婦人論三部作からなるこの「研究著述の計画」は、ここで頓挫することになります。以下も、逸枝の文からの引用です。
だが運命はなお私には酷だった。それを投函した直後の十二月三十日に前から話のあった解放社からの『婦人戦線』発刊のことが決定したという通知があり、私の新コースに大きな番狂わせがもたらされることになってしまったのだった82。
一九三〇(昭和五)年の新春を迎えました。さっそく一月二日、『婦人戦線』刊行のための準備会が開かれました。そして続く一月一〇日、解放社から逸枝の短編小説集『黒い女』が届きました。前年の一九二九(昭和四)年一〇月にアメリカ合衆国で発生した世界恐慌が日本にも影響を及ぼしはじめた時期です。これよりこの年にかけて、日本経済が危機的状況に陥ってゆきます。『黒い女』は、いわゆる「昭和恐慌」と呼ばれるこの時代に対する戦陣となって世に出るのです。黒は、無政府主義者の団体が旗に使う色です。あるいは、黒子、黒幕、黒衣に通じる色でもありました。この『黒い女』は、「妻」「黒い戀」「風蕭々」の三章からなり、それぞれに六つの小品で構成され、「序」の末尾には、「東京郊外上荻窪二六九の寓居において」の文字が並びます。この本の広告文は、次のようなものでした。
極左中の極左、女流中の女流――世を擧げてマルキシズム政治主義の流行を見るとき、獨りアナーキズムの陣營にあつて、プロレタリア・ネオ・ロマンチシズムのために萬丈の氣を吐く著者の第一小説集である。 階級受難、女性受難、この二重の重厭下に、更らに醜怪なる強權主義者の間にあつて彼女はいかに闘つたか!!83。
他方、著者の逸枝は、自著をどう位置づけていたのでしょうか。熊本市立図書館に『黒い女』の初版本が所蔵されており、表紙裏の見返しに、逸枝が橋本静子に宛てた献呈の辞が自筆されています。日付は、亡くなる二年前の「一九六二年五月」、橋本静子は、夫憲三の妹です。「わかりがよい」という語句は、「わかりが早い」と読めなくもありません。
風がわりな小説です。散文詩的または寓話的小説とでもいえば、わかりがよいかもしれません。心理的には自叙伝ともいえましょう。私の愛の哲学が語られていると思います。ほんの芽生えにすぎませんが84。
『黒い女』のなかの、とりわけ第一章に相当する「妻」を構成する短編の六作品は、どれも、「散文詩的または寓話的小説」といえます。しかし、立て付けは確かに虚構でありましょうが、語られている内容自体は、逸枝にとっての「心理的には自叙伝」となっており、そこに、憲三に向けられたこの間の逸枝の「愛の哲学」、裏を返せば「孤独の哲学」の実相を見ることができます。したがいまして、「妻」は、逸枝の半生の総括として読むことができますので、そのなかから核心部分にちがいないと思われる幾つかの断片を抜き出し、山奥の寒村の純朴な乙女が、いかにして、熱病にかかっているかのような大都会にあってアナーキスト(無政府主義者)へと変貌してゆくのか、その姿を、短く以下に組み立ててみたいと思います。
私は父を恐れてゐた。が愛してもゐた。父は飲んだくれではあつたけれど、それが悪人だらうか85。 人生は刑罰に満ちてゐた。何處から何處まで辛いことばかりだつた。 けれど、けれど、 『妾に学問があるなら……』 朝になると學校の鐘が鳴る。…… 私の心は、長い間、學校へ憧れた。それを人がわらつた86。 一六のときに、私はいまの夫と、その盆地で出會つた。……不思議なやうに、彼はどこの誰とも分らぬ小娘に對して、丁度何も彼も知り盡してゐるやうなふうをした87。 初めて東京駅に下りたとき亭主がいふには、 『たまらない不調和を感ずるね。さあ、こいつを踏みにじつて行かう』88。 彼女は一分間も夫を離れては生きてゐられなかつた。けれどもそんなことを仮にも彼女がいふなら夫もわらふだらうし他人はなほ嘲るだらう89。 『洗濯はいやだ』と私の心がつぶやく。 『裁縫も……』 そしてたゞ溜息をついて私はゐる90。 『きれいな晩ね。あなた』 私は遠い夫へ叫んだ。そして心から、 『さよなら、さよなら』と、おじぎした。…… 私は涙にぬれたが、しかし、行くといふことが、もう私の宿命であつたから、私は草履のひもを結んで立ち上つた91。 どんな可憐な野の花も、庭におけば惨めである。だが然し、野においたら、何と美しく見えることか92。 私は、此上もなく、おづおづと、夫を恐れてゐた。けれど、私がどんなに夫を愛してゐるか、そして夫を離れると、もう私というものはなくなつてしまふといふことを、ひとこと、夫に云ひたいと思つた。けれど、それは云へないことだつた93。 だが、やがて、私は夫と共に、暗い、低い、夜空の下を歩いてゐた。 『うちを出たのが悪かつたのだ』 と、夫がいつた94。 私は心に思ふことを口にだしていふことのできない女である。けれど思ふことがあまりに多くなると、たへることができなくなる。……そのとき私は卒倒しさうになる。それからカツと逆せあがる。そして無茶苦茶なことを口から出たらめに云つてしまふ。 私はあとで、それを悔ひもし、恥ぢもする。そして心で、夫にわびをいふ。けれど夫にはそのときの私を可愛いく思ふ様子がある。それがだんだん分つてくるのだつた95。 『俺はお前も知つてゐる通り、小作人の子だ。お前はお前で、もつと酷い者の子だ。だから俺達は當然、階級といふものを勉強しなくてはならん』 こうして彼らは、事物に關し二つの相反する意見といふものを持ちはじめた96。 彼女は夫がおぼえてきて歌ふあらゆる歌を世界のどんな歌よりも早くおぼえてそれを歌ふのであつた。 『そんな歌わらはれるよ。男はいいけど』 と時々夫が夫そつくりの調子で歌つてゐる妻を見ながらいふ。 『だつて……』 と妻はつぶやく。 『あたしそんなら何を歌へばいいの』 そして涙ぐむ97。 『すべて人生を知らない奴は、書物からだけ描かうとする』 今や、夫の胸には、書物を批判する意識が動いてゐた。そして彼女も當然さうであつた98。
以上は小説のなかにおける経緯です。それでは現実世界における逸枝のアナーキストへと至る経緯は、具体的に、どうだったのでしょうか。逸枝は、こう書き記します。
私がアナキズムにひかれたのは書物からではなく、大逆事件に私の故郷から無実と思われる犠牲者たちを出したことが火の国の娘の胸を打ったのが遠い動因の一つであり、またKが下中さんの教員組合啓明会の雑誌や出版物に加勢して自然に私にアナ系の思想を持ち込んだことが近い契機の一つとなったともいえよう99。
大逆事件とは、捏造された「天皇暗殺計画」を理由に、社会主義者や無政府主義者の二六人が逮捕され、翌年の一九一一(明治四四)年一月、大審院は、逮捕者全員に有罪の判決を言い渡し、『平民新聞』を創刊した幸徳秋水を含む一二人に対して、大逆罪での死刑が執行された一連の出来事を指します。このとき逸枝は一七歳、そしてまた、『青鞜』が創刊された年でもありました。死刑の犠牲者のなかに、逸枝と同郷の新美卯一郎と松尾卯一太がいました。ふたりとも、熊本県尋常中学校(現在の熊本県立濟々黌高等学校)の卒業生で、一九〇七(明治四〇)年に『熊本評論』を創刊していました。この肥後人の非業の死が、まさしく「火の国の娘の胸を打った」のでした。のちに逸枝の弟の清人も元男も、この学校で学びます。他方、「教員組合啓明会の雑誌や出版物に加勢して」いた「K」とは、下中彌三郎の思想に共鳴し、そのもとで働いていた夫の憲三であることは、いうまでもありません。
しかし、逸枝自身は、『婦人戦線』の刊行に、ためらいがありました。「はじめ私はこんな雑誌を出すことにも、私が主宰者になることにもひどく尻込みした。……だがKのすすめもあり、四囲の状勢からも要請されるはめになって……火の国的熱烈さをもって不退転の献身を誓うことになる」100のでした。すでにこの時点で「婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史」の構想ができていました。しかしここに来て、「大きな番狂わせ」が生じ、『婦人戦線』の創刊へと、逸枝の精力は注がれてゆくのです。これは、詩人から学者へ向かう道筋にあって、単なる通りすがりの寄り道だったかもしれません。しかし、自分の思想的立ち位置をより明確にするいい機会であるととらえるならば、この寄り道も、逸枝にとって意味のあるものであったにちがいありません。逸枝が述べる「火の国的熱烈さ」とは、大地を焦がす、あの大阿蘇の、炎のごとき熱情を指し示すのでしょう。こうして「番狂わせ」に火がついたのでした。
『黒い女』発刊の一六日後の一月二六日、無産婦人芸術連盟が結成され、同年三月に機関誌『婦人戦線』が創刊されました。第一巻第一号の奥付を見ますと、発行兼編集印刷人として、高群逸枝の名が明記され、発行所は「婦人戦線社」、その所在地は、逸枝の自宅住所である「上荻窪二六九」となっています。『黒い女』の版元である解放社が発売元です。その号の「お知らせ」において、結成の経緯と構成員の名前が、次のように、明かされました。
新年早々から着々計畫を進められてゐた無産婦人藝術聯盟は、一月二十六日、いよいよ目出たく結盟を了しました。往年、新女性の先驅者としていはゆる「青鞜」運動を率ゐられた平塚らいてう氏もお加はり下さつて、當日の出席者左記十四名、病床の人竹内てるよさん、その他地方在住者を合せ、正しく「青鞜」によつて個人的自覺の第一歩をふんだわれわれ女性は、更にこゝに社会的自覺に立つて、人類解放の究極の運動へと出発することになりました。
伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子
そして我々は、こゝに外部闘争の機關として「婦人戦線」をもち、内部相互敎育の機關として研究會をもつことになり、前者の經營はこれを當分解放社に委託し、後者は當分毎月第四日曜に聯盟事務所において開催することになりました101。
無産婦人芸術連盟の会合や『婦人戦線』の編集作業は、逸枝の住まいの上荻窪の家で行なわれました。実に簡素な室内でした。らいてうの記憶によると、こうです。
長い年月にすっかり薄れてしまった記憶のなかで、どことなく殺風景な家の中の印象が消えずに残っています。いわゆる家財道具といったもの、箪笥、(ママ)や茶箪笥のようなものは見当たらず、人が住んでいるともおもえないほど、がらんとした家の中で、メリンスの赤い派手な柄の鏡台掛けにおおわれた鏡台唯一つが、異様に目立っていたことを覚えています102。
家だけではなく、逸枝の化粧も、初対面のらいてうには異様に映ったようです。
異様といえば、初めてお会いした高群さんの印象のなかで、そのお化粧が、わたくしには理解にあまるものでした。高群さんのお顔は、生地のままでこそ輝く顔であって、白粉や紅の粉飾の似合うお顔ではないとおもわれる上に、それもあまり上手なお化粧ではありませんから、せっかくの生地をそこなっているとしかおもわれません。わたくしの目には、紅、白粉など洗い流したらどんなに美しいことかと映るのですが、しかし高群さんには、おそらくご自身独自の美的観念があってのことだったのでしょう。身ごなし全体がのろいという感じで、靴をはくのもテキパキはけないような人でした103。
しかし逸枝には、思想の内容は別にしても、らいてうを夢中にさせるだけの魅力が十分に備わっていました。らいてうは、このように語ります。
思想だけなら、他にいくらも求められるばかりでなく、必ずしもわたくしと、すべてが一致するものではないのでした。高群さんがわたくしを夢中にさせたのは、あの情熱、あの感情の動きと表現の自由さ、ユニークさ――それらを無限に内蔵している、高群さんという人間そのものの魅力でした104。
創刊号(三月号)に逸枝は、「婦人戦線に立つ」を書きました。それは、婦人の「個人的自覚」から「社会的自覚」へと踏み出すことを強く訴える内容になっています。冒頭、逸枝は、こう書きます。
わが國における、婦人自覺史は、かの「青鞜」運動に、最初の頁を起した。それは、誰も知るやうに、婦人の「個人的自覺」によつたもので、その後、いく星霜かを経て、いま茲に、我々によつて、婦人の「社會的自覺」にもとづく、劃時代的の運動が、起こされようとするのだ105。
逸枝によれば、労働者は労働者であることを「自覚」することにより、農民は農民であることを「自覚」することにより、そして、婦人は婦人であることを「自覚」することによって、それぞれに、自らの手になる「自治」を求める。いずれもそれらは、政治社会(強権社会あるいは専制社会)を完全に否定するし、同時に、「自治」への介入も拒む――。以下は、逸枝自身の言葉です。
……民衆は最早や、古い「政權運動」を捨て、新しく起つた「自治運動」、即ち労働者組合運動(職業者組合運動)及び、消費者組合運動、農民組合運動等によつて起つ。 これらの新しい組合運動は、ごく自然にそれぞれの役割(破壊的、または建設的)をもつが、歸するところは、自治コンミュンの聯合社會であり、ここを目がける種々の分野戦である。 實に、これらの諸組合運動こそは、近世特有の眞に新しき一大民衆運動の種々の相であるが、この運動を進める上に、古い「政權運動」が、いかに妨げとなるかは實例の示す通りである106。
逸枝の主張は、創刊号に掲載されている「創刊宣言」または「綱領」と呼ぶにふさわしい以下の文言に端的に凝縮されています。これが、無産婦人芸術連盟の旗印となるものでした。
一 われらは強權主義を排し、自治社會の實現を期す。 標語 強權主義否定!
二 われらは男性専制の日常的事實の曝露清算を以て、一般婦人を社會的自覺にまで機縁するための現實的戦術とする。 標語 男性清算!
三 われらは新文化建設および新社會発展のために、女性の立場より新思想新問題を提出する義務を感ずる。 標語 女性新生!107
あえて以上の「創刊宣言」を図式化すれば、「強権主義=資本主義=家父長主義の否定」、対するは「自治主義=組合主義=母性中心主義の新生」となるでしょうか。
翌月の第二号(四月号)に、逸枝は「家庭否定論」を書きました。逸枝は、文字の成り立ちからすると「家」という字は豚小屋を表わし、古来中国において常食としていた豚とともに生きる人のいる場所を意味し、「家財」は自分の所有物、すなわち妻子財産を指すことを明らかにし、その「自分」こそが「男」その人であるとの論理を展開します。つまり、「家」を支配し「財」を所有しているのが男性であり、女性はその「財」の一部でしかないというのが、逸枝の見解であり、それは、次のような主張へとつながります。
そこで目ざめた婦人は、「家庭をケトバス」ことが唯一の最上の手段であることを知つた。 家庭とは何か。元來それは豚小屋と刑務所を意味してゐるではないか108。
同じく第二号(四月号)に、らいてうは「婦人戦線に参加して」を寄稿しました。このなかでらいてうは、まず、婦人運動の近年の状況をこう描写します。
又是等の無産政黨所屬の無産婦人團體によつて、在來のブルジヨア個人主義的婦人政治運動とは全然その立場を異にする無産階級的婦人政治運動もはじめて起こつて來ました。かうして無産者解放運動の全戦線があたかも政治戦線と化したかの觀を呈するようになりました。同時にこの運動理論としての社會主義研究、わけてもマルクス主義研究は殆ど流行的全盛の極に達し、マルクス思想やソウエートロシアに關する著書の洪水となり、マルクス主義の公式を暗誦したマルクスボイやマルクスガルの横行となり、知識階級のマルクス主義男女は前衛をもつて自負し、ブルジヨア作家の左翼への轉換が流行しました109。
次に、こうした現状のなかにあって、自らのこれまでの歩みを見つめます。
新婦人協會創立時のわたくしは、婦人の立場からしきりに女性による社會改造を叫びながらも、それは結局男性と資本主義の横暴と貧欲に只いくぶんの制限を置くことによつて、婦人、母性、兒童を保護しようとする程度のもので、言はゞ社會政策的及至は社會改良主義的立場以上のものではなかつたことは明白です110。
そして、以下のような認識を示します。
しかしそのわたくしももうそうした局部的社會改善をもつて滿足することは出來ないのでした。……しかしそれにも拘はらずマルクス主義社會運動は、第一その運動方法に於て、それの戦術に於て、第二にさうした實現されるマルクス主義の社会組織形態に於て、わたくし自身の本性(わたくしの個性とわたくしがもつ女心或は母心)との間に到底相容れない或ものを感知させ……わたくしの心はマルクス主義社會主義運動よりも同じく現代の資本主義組織に反抗する無産階級運動として……今や全世界にひろがり、次第に發展しつつある協同組合運動により多くひきつけられて行きました111。
かくしてらいてうは、「婦人戦線に参加して」の一文を、こう結ぶのでした。
……母性主義の立場から、協同組織の経済的自治社會の建設を理想とするわたくしは、また當然無政府主義社會思想に、その理想社会の組織形態に興味と共感を見出さずにはゐられないわたくしです。……わたくしの精神的娘のやうにも感じられてゐた高群逸枝さんの主唱によつて無政府主義系の婦人を中心とする新な聯盟が結ばれ、第二青鞜ともいふべき「婦人戦線」が生れ出たことは、わたくしには何としても大きなよろこびであります112。
らいてうが、逸枝のことを「精神的娘」と語るのも、『婦人戦線』のことを「第二青鞜」と語るのも、とても印象的です。
『婦人戦線』の第三号(五月号)が発行された五月のその二八日に、無産婦人芸術連盟と全国農民芸術連盟との合同講演会が読売新聞社の講堂で開催され、逸枝が演壇に立ちました。「実際的、活動的といったいわゆる運動家的な肌合いはみじんもなく、あくまでも創造的、天才的な詩人といった印象」113を逸枝に抱いていたらいてうに、このとき、かすかな不安がよぎりました。
わたくしはこんな高群さんが演壇に立つことを、幾分あやぶむ気持で見守ったものですが、大勢の人前での演説などまったく不向きとおもわれるこのひとが、精一杯しゃべるのには、関心もし、安堵もしました。しかし、このときの「婦人戦線の事業」と題する高群さんの話は、臨監の警官の中止命令のため、おわりまで続けられませんでした114。
らいてうの不安は杞憂に終わりましたが、別の不安が、会場全体を包み込みました。官憲による「弁士中止」という言論の封殺です。一九二五(大正一四)年に治安維持法が制定されると、表現の自由や結社の自由が一段と制限される時代が出現していたのです。『婦人戦線』も、そうした時節の空気のなかで、翌年(一九三一年)の六月号(通計一六号)をもって休刊となりました。事実上の廃刊です。しかし、これによって、らいてうの逸枝に寄せる思いが、途切れることはありませんでした。らいてうはいいます。
そのころ――いいえ、その後も終始、高群逸枝さんほど、わたくしを惹きつけたひとはありません。ただ、もう無性に好きなひとでした115。
一方の逸枝にとっては、どうだったのでしょうか。「婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史の研究に着手する」という自身の「新コースに大きな番狂わせ」が生じたにもかかわらず、無産婦人芸術連盟を発足させたことにより、らいてうと強いきずなを結ぶ現実的な場面が生み出され、その後の友愛にとっての土台がここに形成されたのでした。こうして、『婦人戦線』廃刊後も、ふたりが織りなす信頼は、のちの章において随時語るように、折に触れ、生涯にわたって確たるものとして続いてゆくのでした。
(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、196頁。
(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(3)同『高群逸枝全集』第一〇巻、214頁。
(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻、213-214頁。
(5)橋本憲三「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、21頁。
(6)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、213頁。
(7)下中彌三郎「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」『婦人公論』第10巻第12号、1925年11月、52頁。
(8)同「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」『婦人公論』第10巻第12号、同頁。
(9)同「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」『婦人公論』第10巻第12号、同頁。
(10)高群逸枝『東京は熱病にかゝつてゐる』萬生閣、1925年、380頁。
(11)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、392-393頁。
(12)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、394-395頁。
(13)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、399-400頁。
(14)高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、1-5頁。
(15)同『戀愛創生』、316-317頁。
(16)同『戀愛創生』、332-333頁。
(17)同『戀愛創生』、335-336頁。
(18)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、216頁。
(19)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、305頁。
(20)前掲『東京は熱病にかゝつてゐる』、137-138頁。
(21)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、28頁。
(22)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、233頁。
(23)同『高群逸枝全集』第九巻、同頁。
(24)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、62頁。
(25)『平凡社六十年史』平凡社、1974年、78頁。
(26)相馬健作『文壇太平記』萬生閣、1926年、208頁。
(27)同『文壇太平記』、318頁。
(28)前掲『平凡社六十年史』、78頁。
(29)同『平凡社六十年史』、79-81頁。
(30)同『平凡社六十年史』、83-84頁。
(31)同『平凡社六十年史』、85、87、および91頁。
(32)同『平凡社六十年史』、91-92頁。
(33)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、219-224頁。
(34)前掲『平凡社六十年史』、92頁。
(35)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、217頁。
(36)同『高群逸枝全集』第一〇巻、228頁。
(37)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(38)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(39)同『高群逸枝全集』第一〇巻、230頁。
(40)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、239頁。
(41)同『今昔の歌』、238頁。
(42)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、73頁。
(43)「肥後が生んだ唯一の女流詩人【中】」『九州新聞』、1921年4月16日、5面。
(44)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、162頁。
(45)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、231頁。
(46)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(47)同『高群逸枝全集』第一〇巻、228頁。
(48)前掲『東京は熱病にかゝつてゐる』、273頁。
(49)高群逸枝「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』第13巻第5号、1928年5月、87頁。
(50)同「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』、93頁。
(51)同「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』、同頁。
(52)同「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』、同頁。
(53)山川菊榮「ドグマから出た幽霊――高群逸枝氏新発見の『マルクス主義社会』について」『婦人公論』第13巻第6号、1928年6月、49頁。
(54)同「ドグマから出た幽霊――高群逸枝氏新発見の『マルクス主義社会』について」『婦人公論』、59頁。
(55)高群逸枝「踏まれた犬が吠える――ふたたび山川菊榮氏に――」『婦人公論』第13巻第7号、1928年7月、41頁。
(56)同「踏まれた犬が吠える――ふたたび山川菊榮氏に――」『婦人公論』、43頁。
(57)同「踏まれた犬が吠える――ふたたび山川菊榮氏に――」『婦人公論』、47頁。
(58)平林たい子「ロマンチシズムとリアリズム――山川菊榮・高群逸枝両氏の論争の批評――」『婦人公論』第13巻第9号、1928年9月、35頁。
(59)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、231頁。
(60)同『高群逸枝全集』第一〇巻、232頁。
(61)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(62)高群逸枝「戀愛行進曲――月漸く昇れり――」『女人藝術』第2巻第1号、1929年1月、2頁。 高群逸枝が『女人藝術』に寄稿した文はすべて、一九八六(昭和六一)年に龍溪書舎から刊行された復刻版からは、「著作権継承者の了解が得られませんでした」という理由により、削除されています。夫の橋本憲三は一九七六(昭和五一)年に死去しており、その後著作権は、遺言により憲三の妹の橋本静子に移っていました。どのような理由から復刻版における掲載が見送られたのかは、いまのところ特定できませんが、これも遺言により、『高群逸枝全集』以外の著述物は、いっさい世に出さないことが指示されていたのかもしれません。
(63)同「戀愛行進曲――月漸く昇れり――」『女人藝術』、21頁。
(64)八木秋子「曇り日の獨白」『女人藝術』第2巻第7号、1929年7月、95-96頁。
(65)熱田優子「中川紀元氏に問う」『女人藝術』第2巻第7号、1929年7月、99頁。
(66)伊福部敬子「平塚明子樣に」『女人藝術』第2巻第7号、1929年7月、100-101頁。
(67)富本一枝「平塚雷鳥氏の肖像――らいてう論の序に代へて」『女人藝術』第2巻第8号、1929年8月、55頁。
(68)藤森成吉「公開状について一言、八木秋子氏へ」『女人藝術』第2巻第8号、1929年8月、48頁。
(69)八木秋子「簡単な質問(藤森成吉氏へ)」『女人藝術』第2巻第9号、1929年9月、18頁。
(70)高群逸枝「小ブル藤村成吉の與ふ」『女人藝術』第2巻第9号、1929年9月、4-17頁。
(71)隅田龍子「八木、高群両氏へのアナーキズムに対する駁論」『女人藝術』第2巻第11号、1929年11月、12頁。
(72)高群逸枝「お出になさつた――一アナーキストの宣言――」『女人藝術』第2巻第12号、1929年12月、39頁。
(73)八木秋子「隅田氏の妄論を駁す」『女人藝術』第2巻第12号、1929年12月、52頁。
(74)「社告」『女人藝術』第2巻第12号、1929年12月、39頁。
(75)前掲『高群逸枝全集』第九巻、238-239頁。
(76)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、232頁。
(77)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(78)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(79)同『高群逸枝全集』第一〇巻、233頁。
(80)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(81)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(82)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(83)『婦人戦線』第1巻第1号、1930年、婦人戦線社、1頁。
(84)高群逸枝『黒い女』解放社、1930年。熊本市立図書館所蔵。 私が参照したこの本は、熊本市立図書館所蔵の高群逸枝から橋本静子へ宛てた献呈本です。この本の見返しに書かれてある献辞は、『高群逸枝全集』第九巻に所収の「黒い女」の冒頭(10頁)に転用されています。ただし、ここでは「橋本静子様」の文字は、削除されています。
(85)高群逸枝『黒い女』解放社、1930年、63頁。国立国会図書館デジタルコレクション。
(86)同『黒い女』、61-62頁。
(87)同『黒い女』、38頁。
(88)同『黒い女』、59頁。
(89)同『黒い女』、8頁。
(90)同『黒い女』、26頁。
(91)同『黒い女』、51頁。
(92)同『黒い女』、60頁。
(93)同『黒い女』、42頁。
(94)同『黒い女』、同頁。
(95)同『黒い女』、24-25頁。
(96)同『黒い女』、11頁。
(97)同『黒い女』、5頁。
(98)同『黒い女』、12頁。
(99)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、236頁。
(100)同『高群逸枝全集』第一〇巻、232-234頁。
(101)前掲『婦人戦線』第1巻第1号、16頁。
(102)前掲『元始、女性は太陽であった③』、306-307頁。
(103)同『元始、女性は太陽であった③』、307頁。
(104)同『元始、女性は太陽であった③』、同頁。
(105)高群逸枝「婦人戦線に立つ」『婦人戦線』第1巻第1号、1930年、婦人戦線社、8頁。
(106)同「婦人戦線に立つ」『婦人戦線』、14頁。
(107)前掲『婦人戦線』第1巻第1号、4頁。 橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』(朝日新聞社、1981年)のなかの「高群逸枝著作年譜」には、「創刊宣言」という表記のもと、「橋本憲三起草、高群逸枝加筆」(386頁)であることが明示されています。しかし、高群逸枝本人は、「創刊宣言」ではなく「綱領」という語を使っています。これにつきましては、『高群逸枝全集』第一〇巻、234頁を参照してください。
(108)高群逸枝「家庭否定論」『婦人戦線』第1巻第2号、1930年、婦人戦線社、22頁。
(109)らいてう「婦人戦線に参加して」『婦人戦線』第1巻第2号、1930年、婦人戦線社、37頁。
(110)同「婦人戦線に参加して」『婦人戦線』、同頁。
(111)同「婦人戦線に参加して」『婦人戦線』、37-38頁。
(112)同「婦人戦線に参加して」『婦人戦線』、39頁。
(113)前掲『元始、女性は太陽であった③』、307頁。
(114)同『元始、女性は太陽であった③』、同頁。
(115)同『元始、女性は太陽であった③』、305頁。